鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 下卷「八 無道心の僧亡者に責らるゝ事 附 破戒の坊主雷に逢ふ事」
[やぶちゃん注:底本は、所持する明治四四(一九一一)年冨山房刊の「名著文庫」の「巻四十四」の、饗庭篁村校訂になる「因果物語」(平仮名本底本であるが、仮名は平仮名表記となっている)を使用した。なお、私の底本は劣化がひどく、しかも総ルビが禍いして、OCRによる読み込みが困難なため、タイピングになるので、時間がかかることを断っておく。なお、所持する一九八九年刊岩波文庫の高田衛編「江戸怪談集(中)」には、本篇は収録されていない。
なお、他に私の所持品と全く同じものが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらにあり、また、「愛知芸術文化センター愛知県図書館」公式サイト内の「貴重和本ライブラリー」のこちらで、初版板本(一括PDF)が視認出来る。後者は読みなどの不審箇所を校合する。
本文は饗庭篁村の解題(ルビ無し)を除き、総ルビであるが、難読と判断したもの、読みが振れるもののみに限った。]
八 無道心の僧亡者に責(せめ)らるゝ事
附破戒の坊主雷(らい)に逢ふ事
武州江戶牛込、妙行院(みやうぎやうゐん)と云ふ日蓮宗の坊主あり。無道心第一にて、亡者を吊(とむら)ふ事、疎(おろそ)かなりけるが、慶安四年の春より、病(やまひ)を受けたり。八月十二日より、强く煩(わづら)ひ、死しては、息を吹返(ふきかへ)し、吹返し、若痛す。
亡者、數多(あまた)來りて、責(せめ)ける間、
「此若(このく)、除き給へ。」
と、叫び悲しむ事、限りなし。
即ち、九月九日に、中々恐ろしき有樣にて死するなり。
[やぶちゃん注:「牛込、妙行院と云ふ日蓮宗の坊主あり」僧ではなく、日蓮宗の寺ならば、東京都新宿区若葉に古刹の稲荷山妙行寺があるが、ここは牛込とは言えないので、無関係としたいのだが、これはしかし、それを牛込にずらして、しかも人名に転じて臭わせた確信犯の行為と考え得る(続く二話目でも同じ仕儀がなされているからである)。ともかく、ここまで電子化してきて感じるのは、臨済宗の僧であった正三は禅僧の破戒僧の例を挙げてはいるものの、全体に、惡因果の僧を語る場合、他宗の僧(特に多いのは浄土真宗(一向宗)僧)であることが、甚だ多いことである。特に浄土真宗の僧は、江戸幕府が唯一、女犯(にょぼん:但し、この場合は狭義の妻帯)をしても罰しなかった(教祖が妻帯を認めており、それを教祖自身が実行しているというシンプルな理由による)ことから、他宗の僧からの批判や、冷たい視線・批判が甚だ強かったせいがある(なお、言っておくと、一般に僧の妻帯が行われるようになった明治時代にあっても、浄土真宗以外の仏教僧の妻帯を公然と批判する仏教家は少なくなかった)。因みに、親鸞の師で浄土宗の始祖法然も妻帯を許しているが、法然自身は女戒を守った。さらに言えば、親鸞は独自の宗派を立てるつもりはなかった(そもそもが「歎異抄」を読めば判る通り、親鸞は驚くべきことに教団組織自体を否定しているのである。だから、蓮如は同書を結縁のない者には見せるべきでない秘書とした)。だいたいからして、親鸞の用いた「浄土真宗」という言辞は、本来は、「師法然が開いた浄土宗の真(まこと)の教え」という意味であった。
「慶安四年」一六五一年。]
○濃州(ぢようしう)養老が瀧の麓に、露村(つゆむら)と云ふ在處あり。
此處(このところ)に本慶寺(ほんけいじ)と云ふ、一向坊主、有り。幼少にして、父に離れ、無智にして、人を吊(とむら)ふこと、數多(あまた)なり。剩(あまつさ)へ、徒者(いたづらもの)にて、殺生を好む。
人々、
「坊主の殺生、勿體(もつたい)なし。」
と云へば、
「我等が宗門には、殺生が慈悲なり。『總じて、畜類は、佛體(ぶつたい)を受けたる人間に、喰はれて、助からん。』と願ふばかりなり。」
と云うて、用ひず。
十九歲まで殺生す。
さる程に寬永廿年十月十三日の夜(よ)五つ比(ごろ)に、彼(か)の寺へ、旦那、二、三人、家内(けない)の男女(なんによ)、皆、焚火(たきび)をして居(ゐ)けるに、家の破風(はふ)、
「みりみり」
と鳴りけれぱ、即ち、家の内、光り渡り、大入道(おほにふだう)、二人、來りて、坊主の兩脇に坐(ざ)す。
人、皆、肝を銷(け)し、逃退(にげしりぞ)く。
即ち、彼の大入道、坊主の兩手を取り、引立(ひきた)て、破風より出でゝ、町の上を三度(ど)、
「本慶寺坊主、徒者(いたづらもの)を伴(つれ)て行くぞ。再び、娑婆へ返す可(べ)らず。」
と、高聲(たかごゑ)に喚(よば)はり、行くなり。
[やぶちゃん注:「濃州養老が瀧」養老孝子伝説で知られる岐阜県養老郡養老町にある木曽川水系に属する落差三十二メートル、幅四メートルの滝。ここ。
「露村」これは次に出る「本慶寺」という名と確信犯の連関がある。ここでは破戒僧の名として出るのだが、この養老の滝の麓の南直近に、岐阜県海津市南濃町(なんのうちょう)津屋(つや)に浄土真宗大谷派の本慶寺(ほんけいじ)があるからである。
「勿體なし」「あるべき道理から完全に外れているではないか! 以ての外のことじゃ!」。
「我等が宗門には、殺生が慈悲なり。『總じて、畜類は、佛體(ぶつたい)を受けたる人間に、喰はれて、助からん。』と願ふばかりなり。」私は本邦の僧では親鸞に最も興味があり、若い時に、少しく彼の著作も読んできているが、言わずもがなだが、こんなことは一言も言っていない。
「寬永廿年十月十三日」一六四三年十一月二十四日。
「夜五つ」定時法でも不定時法でも、この時期なら、午後八時頃。
「家内」旦那たちの家人ら。
「破風」切妻造や入母屋造の屋根の妻の三角形の部分。また、切妻屋根の棟木や軒桁の先端に取付けた合掌型の装飾板(破風板)をも指す。
「家の内、光り渡り」標題にある「雷」がこれであるが、如何にも題名に偽りありの感を拭えないが、これも浄土真宗への批判的ニュアンスが見てとれる。則ち、親鸞はしばしば、阿弥陀如来像を「不可思議光仏」として、雷光の図像をシンボルとして用いていたのを、ここでは、雷神の一撃という風に皮肉に転用している(面白がっている)と考えてよいと思われる。]
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