鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 中卷「二 佛像を破り報ひを受くる事 附 堂宇塔廟を破り報ひを受くる事」
[やぶちゃん注:底本は、所持する明治四四(一九一一)年冨山房刊の「名著文庫」の「巻四十四」の、饗庭篁村校訂になる「因果物語」(平仮名本底本であるが、仮名は平仮名表記となっている)を使用した。なお、私の底本は劣化がひどく、しかも総ルビが禍いして、OCRによる読み込みが困難なため、タイピングになるので、時間がかかることを断っておく。なお、所持する一九八九年刊岩波文庫の高田衛編「江戸怪談集(中)」には、この「二」は収録されている。
なお、他に私の所持品と全く同じものが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらにあり、また、「愛知芸術文化センター愛知県図書館」公式サイト内の「貴重和本ライブラリー」のこちらで、初版板本(一括PDF)が視認出来る。後者は読みなどの不審箇所を校合する。
本文は饗庭篁村の解題(ルビ無し)を除き、総ルビであるが、難読と判断したもの、読みが振れるもののみに限った。踊り字「〱」「ぐ」は正字化した。適宜、オリジナルに注を附す。]
二 佛像を破り報いを受くる事
附堂宇塔廟を破り報いを受くる事
九州肥前の國島原に、良可(りやうか)と云ふ座頭(ざとう)有り。彼(か)の祖父、朝鮮の軍(いくさ)に、佛像の玉眼(ぎよくがん)を、多く、拔き取るなり。
其の報ひにや、孫(まご)了可(りやうか)[やぶちゃん注:ママ。]、同じく弟妹(おとゝいもと)三人まで、生まれながら、盲目に生(しやう)を得たりとなり。
正保年中に、此(この)座頭を慥(たしか)に見たる僧、來たつて、語るなり。
[やぶちゃん注:えらい短い話である。
「朝鮮の軍」豊臣秀吉の朝鮮出兵。天正二〇(一五九二)年に始まって翌文禄二(一五九三)年に休戦した「文禄の役」、及び、慶長二(一五九七)年の講和交渉決裂によって再開され、慶長三(一五九八)年の秀吉の死を以って日本軍撤退で終結した「慶長の役」を指す。二度のそれでは、略奪の限りを尽くした。
「玉眼」仏像の目の部分に水晶製の曲面加工をした板を嵌め込む技法。通常は、眼に当たる部分を刳り抜いて貫通させた後(のち)、瞳を描いた水晶製の薄いレンズ状のものを、面部内側から嵌め込んで、和紙や綿を白眼として当てて押さえ、それに当て木をして、漆や木釘などで固定する技法である。より本物らしい生々しさを与え、時に、これに光が当たると、時として眼球が動いたり、こちらへ目を向けたかのように見えることもある。私も鎌倉の仏像で何度も経験したことがある。特に僧侶の頂相像の場合は、一種、不気味でさえある。制作年代の判明している最古の例は、仁平元(一一五一)年作の奈良長岳寺の阿弥陀三尊像であるが、寄せ木造りの木造技法が発達し、頭部内面を刳り抜くことが可能となった鎌倉時代に大いに一般化し、後の多くの仏像に用いられるようになった。
「正保年中」一六四四年から一六四八年まで。]
○三州足助(あすけ)に、小三郞と云ふ者あり。一向宗なり。
女房、懷胎の内に、觀音堂の古道具を取りて、薪(たゝぎ)にしけり。
其の子、產まれ出で、程歷(へ)て、次第に成人(せいじん)しけるに、形は人に違(たが)はざれども、業(わざ)は犬の如し。
座敷を匐(は)ひ廻り、犬の土をほる如くにして、つくばひ、火に當(あた)る時も、犬の如くに、つくばひ、着る物、きすれども、帶(おび)すること、能はず。
人を見ては、走り出でて、
「くわつ、くわつ。」
と、犬の如く、ほえ、糞(ふん)を食(しよく)して、かけありき、犬の如くに、屎(くそ)、尿(いばり)、す。
都(すべ)て、物云ふこと、叶はず。
母、是を悲(かなし)みて、樣々にすれども、詮なく、廿五、六歲にて、死しけり。
人々、
「堂の具を燒きたる報ひなり。」
と云ひあへり。
[やぶちゃん注:「三州足助」愛知県豊田市足助町(あすけちょう)。尾張・三河から信州を結ぶ「伊那街道」(中馬街道)の重要な中継地に当たり、物資運搬や庶民通行の要所として栄えた商家町。また、重要な交易物であった塩は、ここで詰め替えられ、「足助塩」「足助直し」と呼ばれた。一度出た、足助町飯盛(いいもり)にある曹洞宗の名刹飯盛山(はんせいざん)香積寺(こうじゃくじ)が著名。]
○伯州(はくしう)に、江口殿(えぐちどの)と云ふ人、十六代目に、高麗陣(かうらいじん)にて討ち死にし、十七代目に、家、亡ぶ。
十五代目の塚、泊(とまり)と云ふ所に有り。
元和年中、新太郞殿代(しんたらうどのだい)に、泊の代官、次郞兵衞(びやうゑ)と云ふ者、屋敷の上に、塜(つか)有るを、嫌うて、堀崩(ほりくづ)し[やぶちゃん注:ママ。]、土(つち)一丈、底まで、取り捨てたり。
其の儘、煩(わづら)ひ付き、無言(むごん)に成りたり。
一門、おどろき、是を詮議して、
「定めて掘り崩したる塜のぬしの、祟りならん。」
と云ふて、所の年老(としより)たる者に、此の塜の主(ぬし)を聞く。
年老ども、病者の面振(おもてふ)るを見て、
「此の面色(おもていろ)、眼指(まなざし)の體(てい)、疑ひなき、殿樣なり。然(しか)れば、我等如きの者に、直(ぢき)に、物(もの)、御申(おんまを)し成(な)されまじ。只、御菩提所(ごぼだいしよ)の坊主を、賴み入れよ。」
と云ふ。
即ち、呼びければ、對面(たいめん)成(な)され、
「貴僧、御越しの間(あひだ)あらまし申すベし。此の者の、我が塜を掘崩(ほりくづ)し、地を穢(けが)すこと、口惜(くちをし)し。一門、殘らず、取り殺すべし。」
と、憤(いか)り給ふ。
終日(ひねもす)、樣々、佗び言(ごと)し給へども、叶はず。
漸く、一門ばかりを、ゆるし給ふ。
次郞兵衞儀、
「片時も延ばさじ。」
とて、即ち、取り殺し給ふなり。
[やぶちゃん注:「江口殿」「江戸怪談集(中)」の注に、『不詳。若狹から來た井口氏か?』とあるのみ。
「高麗陣」同前で『文祿の役をさす。』とある。
「泊」鳥取県東伯(とうはく)郡にあった旧泊村(とまりそん)。当該ウィキによれば、『日本にある「泊村」の中で唯一「とまりそん」という読み方だった。他の「泊村」は「とまりむら」である』とある。現在は東伯郡湯梨浜町(ゆりはまちょう)泊。
「元和年中」一六一五年から一六二四年まで。
「無言に成りたり」「聲も出なくなってしまった」の意。後で菩提寺の住職と語っているのは、次郎兵衛の体を借りて、言葉を発している、塜の主である十五代目江口殿の霊の声である。老人の言う「殿樣」も、その十五代目江口殿のことである。]
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