鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 下卷「九 怨靈と成る僧の事」
[やぶちゃん注:底本は、所持する明治四四(一九一一)年冨山房刊の「名著文庫」の「巻四十四」の、饗庭篁村校訂になる「因果物語」(平仮名本底本であるが、仮名は平仮名表記となっている)を使用した。なお、私の底本は劣化がひどく、しかも総ルビが禍いして、OCRによる読み込みが困難なため、タイピングになるので、時間がかかることを断っておく。なお、所持する一九八九年刊岩波文庫の高田衛編「江戸怪談集(中)」には、本篇は収録されていない。
なお、他に私の所持品と全く同じものが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらにあり、また、「愛知芸術文化センター愛知県図書館」公式サイト内の「貴重和本ライブラリー」のこちらで、初版板本(一括PDF)が視認出来る。後者は読みなどの不審箇所を校合する。
本文は饗庭篁村の解題(ルビ無し)を除き、総ルビであるが、難読と判断したもの、読みが振れるもののみに限った。]
九 怨靈と成る僧の事
江州土山(つちやま)半里隔てゝ、一の瀨と云ふ在處あり。
正保の比(ころ)より八十年以前、丑(うし)の年、百姓の、境(さかひ)、論(ろん)しけるを、德林庵受泉(とくりんあんじゆせん)と云ふ僧、扱(あつか)ひて、無事に濟(すま)しけり。
飛驒守、聞き給ひて、彼(か)の僧を呼ぴ出(いだ)し、
「能く扱ひた。」[やぶちゃん注:ママ。初版板本でも同じ。「扱ひたり」の欠字か、「扱ふた」の誤記であろう。]
とて、馳走を仰付(おほせつ)け、酒を勸めらる。
「忝(かたじけ)なし。」
と悅びて、ひた呑みに呑むほどに、醉伏(ゑひふ)して、終(つひ)に死にけり。
故に、寺も斷(た)え、屋敷も畠(はた)と成りて、數年(すねん)すぎければ、在家に作(な)して、又八郞と云ふ者、居(ゐ)たり。
此又八郞、土山へ行き、酒に醉ひて歸るに、路(みち)にて、
「粟々(ぞくぞく)」
として、煩(わづら)ひ付(つ)き、氣違ひの樣に成り、「受泉坊」と名乘つて、戯言(たはごと)を云ひけるに、家の棟(むなぎ)に、大蛇(おほへび)、來りて居(ゐ)たり。
子、此蛇を殺し、串(くし)に指(さ)して捨てけれども、明日(あくるひ)は、又、同體(どうたい)なる蛇、居たり。
又八郞、咽(のど)、乾き、悲しみて、終(つひ)に死す。
即ち、子を、「又八郞」と云ひけり。
是も、土山へ行き、酒に醉ひ、歸りに、父の如く、煩ひ付き、家に歸れば、外(ほか)より、禿(かぶろ)、來(きた)る。
之を、敲(たゝ)き出(いだ)せば、二、三間ばかりなる蛇に成つて、逃行(にげゆ)く。
度々(たびたび)、此(かく)のごとくしけるが、終(つひ)に、口走り、「受泉」と名乘りて、死にけり。
其子を淸三郞と云ふ。
慶安元年卯月初めに、土山より、酒に醉ひて歸るとて、父の如くに煩ひ付き、腹中(ふくちう)、燃ゆる樣にて、咽、乾き、水を呑むこと、限りなし。
剩(あまつさ)へ、眼(まなこ)潰れ、腰、拔けて、重若悲嘆(ちようくひたん)する間(あひだ)、山伏を賴み、色々、祈禱すれども、叶はず。
後(のち)には、受泉坊、直(ぢき)に、體(たい)を現はして、家の内へ來(きた)る。
追出(おひいだ)すに、窓より出でゝ行くを見れば、大蛇なり。
追つて行けば、卵塔(らんたふ)へ行きて、何も、なし。
爲方(せんかた)なくして、丑の五月七日、本秀和尙を賴む。
和尙、卽ち、吊(とむら)ひ給へば、早や、七日の晚より、咽の乾き、止みけり。
扨(さて)、兩日(りやうにち)吊ひて、血脉(けちみやく)を認(したゝ)め、塔婆を書き、休心(きうしん)と云ふ坊主を遣はし、德林庵に塔婆を立て、供養し、經咒(きやうじゆ)を誦(よ)みければ、其中(そのうち)に、目、明(あ)き、腰も立ちて、すつきと、本復(ほんぶく)す。
「有難し、忝なし、」
と悅ぶ事、限りなし。
[やぶちゃん注:「江州土山」滋賀県甲賀市内の旧土山地区。
「一の瀨」現在の地名では見当たらなかったが、「Stanford Digital Repository」の戦前の地図を見たところ、旧土山町の町の中心から北の、まさに「半里」(二・四五キロメートル)ほどの位置の山裾に「市瀨」という集落を発見出来た。現在の滋賀県甲賀市土山町瀬ノ音のこの辺りである。
「正保の比より八十年以前」「正保」は一六四四年から一六四八年までであるから、それより八十年以前の「丑の年」は永禄八年乙丑(きのとうし)で一五六五年で、この年は五月十九日(ユリウス暦一五六五年六月十七日)に三好義継や三好三人衆や松永久通たちが共謀して二条城を襲撃し、室町幕府第十三代将軍足利義輝を殺害した「永禄の変」が起こった年である。本書の中でも、最も古い時制になる。
「境、論しける」百姓の村落単位の土地境(水利も含む)の争い。
「德林庵受泉」不詳。
「飛驒守」かの高山右近の父で、キリシタン大名で、勇猛で教養もあり、領民にも慕われ、誠実な武士の鑑として知られた高山飛騨守(通称)友照(ともあき ?~文禄四(一五九五)年)がいるが、彼の領地は摂津国であるから、違う。この時代のことは、私は冥いので判らぬ。
「二、三間」約三・七から五・五メートル弱。
「慶安元年」一六四八年。
「淸三郞」先の父祖である「又八郞」もそうだが、この三人の直系の連中の喉の渇きを訴える症状は、所謂、「飲水病」で、それも同一の症状であるところから、遺伝する一型糖尿病の可能性が高い。加えて、同じく遺伝的にアルコールに対する耐性が極めて低い体質であったと考えれば、ダブル・パンチで父祖が死に至るというのは、非常に腑に落ちる。私の親族にも二代に亙って酒を全く受けつけない一族がいる。
「卵塔」ここは単なる「卵塔場」、広義の「墓場」の意では、あるまい。卵塔は僧の墓の形式であるから、この蛇が潜り込んで行ったのは、徳林庵受泉の古い卵塔墓だったというのが、如何にも因果が絡んで、効果的だからである。
「丑」翌、慶安二年己丑(つちのとうし)。「丑」の干支を、さりげなく因果の縁としているようである。
「本秀和尙」既出既注。まさに本書一番のゴースト・バスターである。]
〇大閤(たいかふ)の御時、南條中書(なんでうちうしよ)、伯耆(はうき)半國(はんごく)を知行して、泰久寺(たいきうじ)の長老を、案内者(あんなんしや)に賴み、知行の境(さかひ)を引く時、惡しく引き給ふに付(つ)いて、山田佐助・海老名源助に、
「此長老を、磔(はりつけ)に掛けよ。」
と云ひ付けて、其身(そのみ)は上洛す。
源助は、是を勞(いたは)り、少しなりとも、延べたく思へども、佐助、是を惡(にく)み、急いで掛けたり。
留(とゞ)めを指したる處に、上方(かみがた)より、飛脚、馳せ來つて、
「長老の命(いのち)、助けよ。」
と云ふ。
死して後(のち)なれば、是非なし。
長老、頓(やが)て、左助(さすけ)娘(むすめ)に憑きて、口走り、
「左助一門、三年の中(うち)に、惡病(あくびやう)を授(さづ)けて、殘らず、殺すべし。此子は、暫(しば)し、宿を借りたる恩賞に助くるなり。中書は、頓(やが)て死して、大地獄に墮(お)つべし。吊(とむら)ひ、無益なり。源助子孫は、末(すゑ)、繁昌に、守るべし。」
と口走りて、治(をさ)まりけり。
扨(さて)、言ひたるに違(たが)はず、佐助は癩病(らいびやう)を受け、糞(ふん)を喰(く)ひて、死す。
子供、殘らず、死に果てたり。
中書も、惡病を受け、絕え果てたり。
其子も中書と云ひけるが、「大坂陣」の時、裏反(うらがへ)りたる事、顯(あらは)れ、陣場(ぢんば)に、はりつけにかゝり、
「坊主のはりつけ、子に、報いたり。」
と、知る人、いへり。
[やぶちゃん注:「大閤」太閤豊臣秀吉。
「南條中書」安土桃山時代の武将で大名の南条元続(もとつぐ 天文一八(一五四九)年~天正一九(一五九一)年:病没で享年四十三)。当該ウィキによれば、伯耆国の国人南条宗勝の嫡男で、父の『死によって家督を継ぎ、同年に毛利氏一族の吉川元春から家督および所領を安堵されている』が、後に『織田氏へと気脈を通じるようにな』り、天正八(一五七九)年九月、『福山茲正』(これまさ)『らを殺害した重臣の山田重直の居城・堤城を攻撃、重直・信直父子を鹿野』(しかの)『へ敗走させ、毛利氏と完全に決裂した。豊臣秀吉の鳥取城攻撃の際は、羽衣石城にあって』、『毛利氏の鳥取救援を妨害し、鳥取落城を早める一因を作った』。天正一〇(一五八二)年九月、『毛利氏の猛攻を受け』、『羽衣石城』(うえのしじょう)『は落城するが』、天正一二(一五八四)年の『羽柴氏と毛利氏の和睦により、八橋川以東の伯耆東』三郡六万石(一説に四万石)の『領有が認められ、羽衣石城に復帰した』。『以後は秀吉の傘下に入り、九州征伐にも』『加わ』った。天正一五(一五八七)年七月には、『従五位下・右衛門尉に補任された。後に伯耆守に補任されるも』、『中風を病んで政務を行えなくなり、代わりに』、『弟の小鴨元清が政務を執ったが』、天正十八年の『小田原征伐には』、『自ら出向い』ている。彼にここに出るような地割検地の際のトラブルがあったかどうかは、ネット上では認められない。なお、中書は中務省(なかつかさしょう)の唐名であるが、彼はそうした官位は貰っていないし、自称通称にも見出せない。不審。以下に示す息子の元忠が官位として中務大輔(一説に中務少輔とも)を貰っているので、それと混同したものらしい。
「泰久寺」鳥取県倉吉(くらよし)市関金町(せきがねちょう)泰久寺(たいきゅうじ)にある曹洞宗大久寺(だいきゅうじ)。
「山田佐助・海老名源助」羽衣石城攻略についての信頼出来る資料(ネットで入手)の中に、南条方に、この二人の武士の名を孰れも確認出来た。当該史料を知りたい方は、お教えする。
「癩病」ハンセン病。既に本書に出て、ここで詳細な注をしてある。未読の方は、必ず、読まれたい。
「糞を喰ひ」近代以前には、世界的に諸病(特に難病)の特効薬として人糞や人肉を食べる迷信や習慣があった。
『其子も中書と云ひけるが、「大坂陣」の時、裏反(うらがへ)りたる事、顯(あらは)れ、陣場(ぢんば)に、はりつけにかゝり』事実。元続の子(次男か)で、伯耆羽衣石城主南条元忠(天正七(一五七九)年~慶長一九(一六一五)年)。当該ウィキによれば、天正一九(一五九一)年、『父の死去に伴い』、『家督を継ぐが』、『少年であったため、朝鮮出兵には』、『叔父で後見人の小鴨元清』(おがももときよ)『が参加した』(「羽衣石南条記」などによれば、当時十三歳であったとある)。『治世については』、『あまり多く伝えられていないが、家中では後見人の座を巡る争いが起こるなどの混乱が生じていた』。慶長五(一六〇〇)年の「関ヶ原の戦い」では『西軍につき、伏見城・大津城を攻めたが、西軍が敗れたため、浪人とな』った。慶長一九(一六一四)年の「大坂冬の陣」では、『旧臣とともに大坂入城、平野橋口で』三千『人の兵を与えられ』ている。『徳川方の藤堂高虎の誘いを受け、伯耆一国を条件に徳川方に寝返ろうとするも』、豊臣家家臣の渡辺糺(ただす)に『見破られ、城内千畳敷で切腹させられ』ている。享年三十七であった。「裏切りの伯耆侍古疊み南條(なんぜう)もつて役にたたばや」と『落首された。遺骸は小姓の佐々木吉高によって持ち帰られた。なお、従兄の宜政(よしまさ)の子孫は』六百『石を知行する旗本として存続した』とある。]
〇大坂高大寺(かうだいじ)、上(あが)り屋敷に成りて、賣りける時、江州こんどう村、救世寺(きうせいじ)と云ふ一向坊主、買取(かひと)りて、堂に作りけり。
然(しか)るに、天井より、阿彌陀の前へ、倒(さかさま)に、
「ぶらぶら」
と、さがる者、あり。
神子(みこ)を呼び、口に寄せけれども、口に寄らず。
七人まで、神子を呼ぴければ、七人目の神子に取り憑きて、
「我は、大坂高大寺なり。何としても、除(の)くべからず。但し、千部の經を誦(よ)まば除くベし。然(さ)なくぱ、此家を、大坂へ返して、本の屋敷に作るべし。」
と口走りけり。
其後(そのゝち)は、降(さが)りたる者、蛇となりけるを、一向坊主の子(こ)、截(き)つて捨てければ、結句(けつく)、本(もと)より、大(おほき)に成りて来(きた)る。
彼(か)の住持、終(つひ)に寺を捨て、黑谷(くろだに)へ行きて居(きよ)す。
故に、明家(あきや)と成りて、兩年、ありけり。
大坂にて、聞くなり。
[やぶちゃん注:「大坂高大寺」不詳。
「上り屋敷」江戸時代、犯罪などにより、幕府又は藩に没収された屋敷を言う。
「江州こんどう村」これは例の確信犯に表記のズラシで、滋賀県東近江市五個荘金堂町(ごかしょうこんどうちょう)であろう。次注参照。
「救世寺(きうせいじ)」五個荘金堂町内に浄土真宗大谷派の弘誓寺(ぐせいじ)という寺があるのである。この寺の創建は正応三(1290)年とされ、那須与一の嫡子愚拙が犬上郡石畑に開基したのが始まりとあり、何度かの移転を経て、天正九(一五八一)年に現在地に移ったとある(サイト「甲信寺社宝鑑」の同寺の記載に拠った)。
「黑谷」京都府京都市左京区黒谷町(くろだにちょう)。法然所縁の地で浄土宗大本山金戒光明寺がある。]
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