鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 下卷「十八 女の魂蛇と成り夫を守る事 附 餅鮎を守る事」
[やぶちゃん注:底本は、所持する明治四四(一九一一)年冨山房刊の「名著文庫」の「巻四十四」の、饗庭篁村校訂になる「因果物語」(平仮名本底本であるが、仮名は平仮名表記となっている)を使用した。なお、私の底本は劣化がひどく、しかも総ルビが禍いして、OCRによる読み込みが困難なため、タイピングになるので、時間がかかることを断っておく。なお、所持する一九八九年刊岩波文庫の高田衛編「江戸怪談集(中)」には、本篇は収録されていない。
なお、他に私の所持品と全く同じものが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらにあり、また、「愛知芸術文化センター愛知県図書館」公式サイト内の「貴重和本ライブラリー」のこちらで、初版板本(一括PDF)が視認出来る。後者は読みなどの不審箇所を校合する。
本文は饗庭篁村の解題(ルビ無し)を除き、総ルビであるが、難読と判断したもの、読みが振れるもののみに限った。
なお、この「附」(つけたり)の「餅(もち)鮎(あゆ)を守る事」というのは、後の二条の標題としては、判り難い。稲霊(いなだま)の象徴である餅の霊異ということではあろうものの、今一つ、因果発動の機序と、被害を受ける餅搗きの罪のない女性の災難(額に火傷痕が残るのは深刻だ)の連関性が不明であり、本書中、特異点の「訳の分からぬ話」である。そもそも、標題にマッチしなくてはならない第二話は、「餅」が「鮎」を守っている関係性が話柄の中で明らかになっているようには読めない。寧ろ、これは全国に散在する餅の禁忌(餅を作らず、決して食べない)との連関が強くあるようには私は感ずるが、それはしかし、思うに、仏教とは無関係な、本邦独自の古い民俗信仰が根っこにあると私は考えており、それを因果話に安易に繋げた結果として、話が上手く機能しなくなっているのではないかと疑っている。識者の見解を乞うものである。]
十八 女の魂(たましひ)蛇と成り夫を守る事
附餅(もち)鮎(あゆ)を守る事
江州大津、加賀藏(かがくら)の前(まへ)の、銀冶(かぢ)與兵衞(よひやうゑ)、加賀の城、燒けたる時、釘作(くぎつく)りに行きける處に、蛇、三度(ど)來(きた)りて、與兵衞を守り居(ゐ)る處を、何(なに)となく、燒釘(やけくぎ)を、蛇の頭(かしら)に當てければ、蛇、去りぬ。
其時節、大津にて、鍛冶の女房、
「わつ。」
と云ふ。
「何事ぞ。」
と問へば、
「何者やらん、額(ひたひ)に燒鐵(やきがね)を當てたり。」
と云ふ。
額の燒迹(やけあと)、後(のち)まで有り。
要津(えうしん)和尙、此女を見給ふに、懺悔(ざんげ[やぶちゃん注:ママ。])して語るなり。
慶安元年の比(ころ)、六十餘りなり。
[やぶちゃん注:「江州大津、加賀藏」加賀藩蔵屋敷跡。何故、加賀藩の蔵屋敷が大津にあり、それがどこかは、公益財団法人「滋賀県文化財保護協会」公式サイト内の「新近江名所圖絵第206回 大津蔵屋敷の面影を訪ねて(その1)」に詳しく記されてある(地図もある)ので、そちらを読まれたい。
「加賀の城、燒けたる時」慶長七(一六〇二)年に天守が落雷によって焼失ことを指すものと思われる。ウィキの「金沢城」によれば、『代わりに三階櫓が建造された。また、この頃から金沢城という名称が定着した』とある。
「要津和尙」滋賀県米原に名庭園で知られる曹洞宗吸湖山(きゅうこさん)青岸寺があるが、そのウィキに、『室町時代の延文年間』(一三五六年~一三八一年)、『近江守護の佐々木道誉が不動山の山号と米泉寺の寺号で開創した』。『その後、戦国時代に焼失したが、慶安』三(一六五〇)年、『彦根藩主井伊直澄の命により』、『彦根大雲寺の要津守三』(ようしんしゅさん:☜)『が入山し、敦賀の伊藤五郎助の寄進により再興された』。明暦二(一六五六)年、『伊藤五郎助が卒したことを悼み、彼の諡(おくりな)である青岸宗天に因んで寺号を青岸寺、山号を吸湖山に改めた。寺は曹洞宗に改宗し、大雲寺の末寺となった。再興時に作られた庭園は彦根の玄宮園・楽々園築庭のために庭石が持ち出され、荒廃していたが、後に彦根藩士の香取氏により』延宝六(一六七八)年に『再築された』とある著名な曹洞僧である。
「慶安元年」一六四八年。]
○濃州(ぢようしう)東郡(ひがしぐん)「なれ」と云ふ村、長井圓齋(ながゐゑんさい)、家(いへ)にて、鮎を燒くに、蛇、來(き)て、油を舐(なむ)る。
火箸を燒きて、頭(かしら)に當てければ、庭にて、物(もの)搗く女(をんな)の額(ひたひ)、燒けたり。寺西權兵衞(ごんひやうゑ)、
「圓齋、口(くち)より、聞きたり。」
と語るなり。
[やぶちゃん注:『濃州東郡「なれ」と云ふ村』「東郡」という郡は美濃国に存在しない。「なれ」という特異な地名は、現在の岐阜県揖斐郡揖斐川町(いびがわちょう)谷汲名礼(たにぐみなれ)ここかどうかは不明。
「長井圓齋」「寺西權兵衞」孰れも不詳。この短さで二名の人物がフル・ネームというのも珍しい。正三自身、この話を採録するに、因果譚としての意味がよく分かっていなかったのではないか? ともかくも怪異な話であり、そこに人智を越えた因果が働いていると無理矢理こじつけるため、リアルさを出さんがための操作のような気さえするのである。却って、周辺的デーティルを飾ってしまった結果、そうした嘘臭さが露わになっている感さえある(噂話特有の、また聴(ぎ)きだし)。正三自身がそれを感じて――因果の関わりに不明な点はあるが、これは私が創作したのではなく、「寺西權兵衞」が「長井圓齋」からじきに聴いた確かな事実なのである――と必死に弁解しているような感じさえ、おぼえるのである。
「油」鮎を焼く時に滴る脂(あぶら)。
「物」「餅」ととっておくが、次の話柄でもそうだが、何故、「餅」と言わないのか? が気になる。私がこれと次の話が「餅の禁忌」と連関が強くあると感じたポイントは、まさのこの「物」という言い方にあるのである。タブーに於いては、その対象を明確に名指すことを激しく忌避するからである。]
○上州前橋、太郞左衞門處(ところ)にて、内匠(たくみ)と云ふ人、餅を炙る處へ、小蛇(こへび)、來て、是を舐むる。
内匠、持ちたる火箸にて、蛇の頭(かしら)を突きければ、下女、庭にて、物(もの)搗きて居(ゐ)ながら、
「あつ。」
と叫ぶ。
「何事ぞ。」
と問へば、
「額に、燒鐵(やきがね)を、當て給ふ。」
と云ふ。
是を見るに、眞(まこと)に燒鐵の迹(あと)、付きたり。
元和年中の事なり。
彼(か)の太郞左衞門、語るを、確(たしか)に聞くなり。
[やぶちゃん注:「元和年中」一六一五年から一六二四年まで。]
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