鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 下卷「六 知事の僧鬼に打たるゝ事 附 弟子を取殺す事」
[やぶちゃん注:底本は、所持する明治四四(一九一一)年冨山房刊の「名著文庫」の「巻四十四」の、饗庭篁村校訂になる「因果物語」(平仮名本底本であるが、仮名は平仮名表記となっている)を使用した。なお、私の底本は劣化がひどく、しかも総ルビが禍いして、OCRによる読み込みが困難なため、タイピングになるので、時間がかかることを断っておく。なお、所持する一九八九年刊岩波文庫の高田衛編「江戸怪談集(中)」には、本篇は収録されていない。
なお、他に私の所持品と全く同じものが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらにあり、また、「愛知芸術文化センター愛知県図書館」公式サイト内の「貴重和本ライブラリー」のこちらで、初版板本(一括PDF)が視認出来る。後者は読みなどの不審箇所を校合する。
本文は饗庭篁村の解題(ルビ無し)を除き、総ルビであるが、難読と判断したもの、読みが振れるもののみに限った。]
六 知事(ちじ)の僧(そう)鬼(おに)に打たるゝ事
附弟子を取殺(とりころ)す事
武州江戶、永見寺(えいけんじ)、隣悅(りんえつ)と云ふ納所(なつしよ)、夢の如く、覺(うつゝ)の如く、二鬼(き)、尋ね來りて、責惱(せめなや)ますこと、切々(せつせつ)なり。
隣悅、是を恐れ、近付(ちかづき)の二人(にん)を賴み、一所に臥しけるに、亦、二鬼、來つて、鐵棒にて、散々に打擲(ちやうちやく)す。
二僧も、目を醒(さま)しければ、二鬼、荒(あら)けなき聲にて、
「傍(そば)の坊主、杖(つゑ)に當るな。」
と云うて、ひた打(うち)に打つ程に、忽ち、腰の骨を打折(うちを)りけり。
隣悅、是に驚きて、貯へ置きたる金銀を、盡(ことごと)く、住持南宗(なんそう)和尙に献じ、徧參僧を仕立てけり。
然(しか)るに、此二僧も、のたゝずして、頓(やが)て死にけり。
一人は、血を吐きて、若痛(くつう)し、一人は痢病(りびやう)に疲極(ひごく)して、何れも、臨終、正念ならず。
寬永年中の事なり。
[やぶちゃん注:この話、「隣悅」の最期が描かれておらず、不完全である(まず、二僧以上の苦しみを受けて死んだのでなければ、二僧が浮かばれないから、そこは言わずと知れたことではあるのだが)。さらに「仕立てたり」とか、「此二僧ものたゝずして」とか、表現に不審がある。「仕立てたり」というのは、恐らく――自分自身が鬼に責められていることを隠し、この二人の徧参僧(諸国を行脚して修行する僧)を因果な自分の代わりに鬼に責められる対象者に、この寺の僧ではない彼らを体(てい)よく「仕立て」たということか? また、「此二僧も、のたゝずして」であるが、これは最終的には、「伸立たず」で、「立ち上がることが出来ず」の意であろうと考えた。当初は「此二僧、ものたゝずして」で「もの(物)立たず」、則ち――彼を守るどころか、自分たちもさんざんに悩まされて、「全く役に立たず」――の意であるかとも思ったが、饗庭氏の読点を尊重し、以上のような意味で、暫く、採ることとした。識者の御意見を俟つものである。
「知事」はここでは本文に出る通り、「納所」と同義で使っている。禅宗では中世の禅僧の職掌集団に「東班衆」(とうばんしゅう)というのがあり、これは、小学館「日本大百科全書」によれば、『中国』の『宋』『代の寺院制度が移入された禅院内では』、『教学詩文面を西班(せいばん)、経済活動面を東班が』、『分かれて担当した。東班には』、『最上位の都聞(つうぶん)の下に都寺(つうす)、監寺(かんす)、副寺(ふうす)、維那(いのう)、典座(てんぞ)、直歳(しっすい)の六知事』(☜)『が置かれ、これらと』、『配下の禅僧を総称して東班衆とよんだ。現役の東班は、所属寺院に止住(しじゅう)して』、『納所』、『修造司』(しゅぞうす)、『出官、免僧(めんそう)などの職掌を管轄し』、『寺院経理に従事した。納所は米銭の出納をつかさどり、修造司は営繕監督にあたったが、出官と免僧の機能は未詳である。退任後の東班は、塔頭』『の経営や庄主(しょうす)といって寺領の代官に任ぜられる者もあった。なかでも』、『相国(しょうこく)寺』の『都聞のような最有力の東班衆ともなると、大荘(たいしょう)の庄主を歴任して』、『徴税請負人となり、膨大な銭貨を蓄積し』、『個人的な高利貸資本』家『となった者もいた。幕府は彼らから』、『随時』、『献上銭や献物を徴収し、財源不足の補填』『なども行わしめたので、東班衆は室町幕府の財政や将軍家の家産に深くかかわっていた』とある。江戸時代には、どこまでこの細分化された経済実務担当者が生き残っていたかは定かでないが、この標題と本文の「納所」の表記違いから、最も俗世間と接触の多い因果な納所坊主のような経済実務に係わった者も、建前上は「知事」とも呼ばれていたと判断しておく。
「武州江戶、永見寺」いつもお世話になる松長哲聖氏の東京都の寺社案内の強力なサイト「猫の足あと」のこちらにある、現在は台東区寿にある曹洞宗桃雲山永見寺であろう。『吉祥寺五世用山元照大和尚』(慶長三(一五九八)年示寂)『を開山として、桃雲氷見和尚』(慶長一六(一六一一)年示寂)『が開基となり』、慶長一六(一六一一)年に『八丁堀に創建』、後、正徳三(一七一三)年『浅草へ移転したとい』われるとあった。本話は「寬永年中」(一六二四年から一六四四年まで)とあるので、元の八丁堀(現在のそれ)にあった時の話となる。
「荒(あら)けなき」「荒氣なき」で、この「なき」(なし)は、「はなはだしい」の意をもつ強意の接尾語であって、否定の辞ではない。「ひどく荒々しくて粗暴である」の意である。
『「傍(そば)の坊主、杖(つゑ)に當るな。」と云うて、ひた打(うち)に打つ程に、忽ち、腰の骨を打折(うちを)りけり』とあるのだが、ここで、打たれたのが、隣悦だと読んでしまうと、後が続かない。腰を致命的に打ち折られたのであれば、最早、立ち上がることは出来ず、南宗和尚(不詳)のところに貯め込んだ金銀を持って行って捧げ、しかも二僧のデッチアゲの話をして法要を願うなどという流暢なことは到底出来ないからで、私は、「隣悅、是に驚きて」という直後の文からも、腰の骨を折られたのは、「血を吐きて、若痛(くつう)し」て死んだ徧参僧の一人であると考える。
「痢病(りびやう)に疲極(ひごく)して」激しい下痢症状(赤痢辺りか)に襲われ、衰弱して。]
〇武州江戶、芝の高雲寺(かううんじ)、呑悅(どんえつ)和尙の代、芳金(はうきん)と云ふ納所、呑芳(どんはう)と云ふ弟子を持つ。
十二、三年、徧參しける時、芳金、死す。菴室(あんしつ)、諸道具、少しも相違なく、呑芳に渡し給ふ。
然(しか)るに、彼(か)の呑芳、諸道具を賣り、寺をも開(あ)けて置きたり。
一周忌の頃より、彼の芳金、每夜、來りて、呑芳が頸(くび)を締めけり。
然れども、隱して、經など誦(よ)みたるぼかりにて、眞實の吊(とむら)ひ、一度(いちど)もせざりしなり。
兎(と)や角(かく)やと、打過(うちす)ぎけるに、次第々々に、煩(わづら)ひ重(おも)り、氣色(きしよく)衰(おとろ)ゆるに隨つて、彌々(いよいよ)、芳金、呑芳が目に見えけり。
或時、芳金、來つて、
「呑芳、呑芳、」
と呼ぶなり。
呑芳、
「やつ。」
と答へて、即ち、死去す。
高雲寺の僧達、確(たしか)に見る事なり。
寬永年中のことなり。
[やぶちゃん注:「武州江戶、芝の高雲寺」調べたが、不詳。
「寬永年中」一六二四年から一六四四年まで。]
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