曲亭馬琴「兎園小説余禄」 鰻鱧の怪
[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。
底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちらから載る正字正仮名版を用いる。
本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。
久々の本格怪異譚。句読点は自由に変更・追加し、記号も挿入した。例によって、ダラダラのベタ文なので、段落を成形し、読みの一部を《 》で推定で歴史的仮名遣にて添えた。
標題の「鰻鱧」は音は「マンレイ」だが、そもそも「鱧」は海産の「はも」(但し、その場合は国字。漢語では「大鯰(おおなまず)」或いは「八目鰻」を指す。孰れにせよ、ウナギを指さない)で、この熟語はおかしい。ウナギを別に「鰻鱺」(バンレイ)と書くので、その誤りではないかと思う。二字で「うなぎ」と読んでおく。但し、実は題名から判る通り、これはウナギの怪奇談で、「日文研」の「怪異・妖怪伝承データベース」には、本書を引用元としているため、「鰻鱧」の標題で載り、しかも読みは「バンレイ」となっている。正直、甚だ不審ではある。]
○鰻鱧《うなぎ》の怪
吾友鈴木有年《いうねん》、名は秀實《しゆうじつ》、俗字は一郞【東臺輪王寺の御家臣。】。
叔父某乙《ぼうおつ》は、沙翫《さくわん》の頭領也【有年の實父は、伊勢の龜山侯の家臣にて、下谷《したや》の邸《やしき》にあり。今玆《こんじ》、七十二歲にて、十月廿四日に歿したり。有年は東臺の儒臣鈴木翁の養嗣たり。件《くだん》の叔父は、則《すなはち》、父の弟也。】。
「わかゝりし時、放蕩なりしかば、浮萍《うきくさ》のごとく、東西南北して、竟《つひ》に沙翫になりし。」
といふ。
[やぶちゃん注:「東臺輪王寺の御家臣」「輪王寺」(りんのうじ)は東京都台東区にある門跡寺院であった天台宗東叡山輪王寺。皇族が関東に下向して輪王寺宮となっていた。鈴木有年の養父は、その門跡附きの儒学者であったということであろう。
「某乙」姓名を伏せた仮名。
「伊勢の龜山侯」伊勢亀山藩。藩主は譜代の石川家。
「沙翫」壁塗り職人の左官(さかん:この字は当て字で、古くは「沙官」「沙翫」と表記した)。]
いまだ、泥匠《でいしやう》ならざりし時、某町《ぼうちやう》なる「うなぎ屋」の養嗣になりて、しばらく、その家に在りける程、養父とともに、鰻鱧の買出《かひだ》しに、千住へもゆき、日本橋なる小田原河岸へゆくことも、しばしば也。凡《およそ》、鰻鱧は、一笊《ひとざる》の價《あたひ》、何《いか》ほどと、定め、手をもて、ひとつ、ひとつに引《ひき》あげ、見て、利の多少を推量《おしかは》ること也とぞ。
[やぶちゃん注:「泥匠」一人前の左官職人のこと。
「小田原河岸」現在の中央区築地六丁目(グーグル・マップ・データ)。
「利」個体の良し悪し。]
かくて、あるあした、又、養父と共に、かひ出しに赴きて、かたのごとく、うなぎを引あげ、見つゝ、損益をはかりて、幾笊か、買《かひ》とりしを、輕子《かるこ》に、荷《に》なはして、かへり來つ。
[やぶちゃん注:「輕子」軽籠(かるこ:縄を縦横に編んだ正方形の網に、四隅に棒を通す縄を付けて、石などを二人で組んで運ぶもの。一人用で背負うタイプもある。「簣(あじか)」「もっこ」とも称する)で荷物を運んだところから、雇われて荷物を運ぶ担(かつ)ぎ人足のこと。]
しばらくして、養父なるもの、件のうなぎを生簀箱《いけすばこ》に入《いれ》けるに、特に大きなる鰻鱧、ふたつ、ありけり。養父、いぶかりて、有年の叔父なりける某乙に、
「かゝる大うなぎあり。今朝、買とる折には、『かくまで、大うなぎは、なし。』と、思ひしが、いかにぞ。」
といふに、某乙も亦、訝《いぶか》りて、
「宣ふごとく、こは、おぼえず候へども、こは、めづらしきものにこそ候へ。折々、來給ふ得意の何がしどのは、鰻鱧の大きなるを好み給へば、かこひ置《おき》て、賣《うら》ばや。」
といふに、養父、うなづきて、
「寔《まこと》に、さる事あり。かの人にまゐらせなば、價を論ぜず、よろこばれん。かこひおくこそ、よかめれ。」
と、いひけり。
かくて、その次の日、彼《かの》大うなぎを好む得意の町人、ひとりの友とともに、
「うなぎを食《くは》ん。」
とて、來にければ、あるじは、
「しかじか。」
と告知《つげし》らするに、その人、歡びて、
「こは。いと、めづらかなるもの也。とく、燒《やき》て出《いだ》せ。」
とて、友人とともに二階に登りたり。
その時、あるじは、件の大鰻鱧《おほうなぎ》を、ひとつ、生簀より引出《ひきいだ》して、裂《さか》んとしつるに、年來《としごろ》、手なれしわざなるに、いかにかしけん、うなぎ錐《きり》にて、手を、したゝかに、つらぬきけり。
既に、いたみに堪《たへ》ざれば、有年の叔父某乙を呼びて、
「われは、かゝる怪我をしたり。汝、代りて、裂くべし。」
とて、左手を抱へて退《しりぞ》きければ、某乙、やがて、立代《たちかは》りて、例のごとく裂《さか》んとせしに、その大うなぎ、左の手へ、
「きりきり」
と、からみ付《つき》て、締《しむ》ること、甚しく、既にして、動脈の得《え》かよはずなるまでに、麻癱(しび)るゝ痛みに堪ざれば、少し、手をひかんとせしに、その大うなぎ、尾をそらして、腔(ひばら)を、
「はた」
と打《うつ》たりける。
[やぶちゃん注:「得」は不可能の呼応の副詞「え」の当て字。
「腔(ひばら)」脾腹。脇腹。]
是にぞ、息も絕《たえ》るばかりに、痛みをかさねて、難儀しつれど、人を呼《よば》んは、さすがにて、なほも、押へて、些《すこし》も緩めず、ひそかに、うなぎに、打向《うちむか》ひて、
「汝、われを惱《なやま》すとても、助かるべき命に、あらず。願ふは、首尾、克《よく》、裂《さか》してくれよ。しからば、われは、この家を立去《たちさ》りて、後々まで、かゝる渡世を、すべからず。思ひ給《たまへ》よ。」
と、しのびねに、かきくどきたりければ、そのこゝろを、うけひきけん、からみたる手を、まきほぐして、やすらかに裂《さかれ》にけり。
扨《さて》、燒立《やきた》て出《いだ》せしに、得意の客も、その友も、
「心地、例ならず。」
とて、これをたうべず。
初《はじめ》、かの得意の客は、わづかに半串《はんぐし》たうべしに、
「死人《しびと》の如きにほひして、胸、わろし。」
とて、吐きにけり。
かくて、その夜さり、丑三《うしみつ》の頃、うなぎの生簀のほとりにて、おびたゞしき音のしてければ、家の内のもの、みな、驚き覺《めざめ》て、
「何にか、あらん。」
と訝る程に、某乙、はやく起出《おきいで》て、手燭《てしよく》を秉《とり》て、生簀船《いけすぶね》を見つるに、夜さりは石を壓《おし》におく。その石も、もとのまゝにて、異《い》なる事のなけれども、
『さりとも。』
と思ひて、生簀船の蓋を開きて見ぬるとき、あまたのうなぎの、蛇の如くに、頭を、もたげて、にらむに似たり。
只、この奇異のみならで、ひとつ殘りし大うなぎは、いづち、ゆきけん、あらずなりけり。
某乙、ますます、驚き怕《おそ》れて、次の日、養家を逐電しつゝ、上總の所親《しよしん》がり、赴きて、一年ばかり歷《ふ》るほどに、養父は、
「去歲《きよさい》より、大病《たいびやう》にて、今は、たのみなくなりぬ。とく、立《たち》かへり給へ。」
とて、飛脚、到來してけるに、既に退身《たいしん》したれども、いまだ、離緣に及ばざれば、已むことを得ず、かへり來て、
「養父の看病せん。」
と、しつるに、養母は密夫を引入《ひきい》れて、商賣にだも、身を入れず、病臥したる良人をば、奧なる三疊の間《ま》にうち措《おき》て、看《み》とるものもなかりしを、某乙、その怠りを、たしなめて、病人を納戶《なんど》に臥《ふせ》さしつ。
藥をすゝめ、粥を薦《すすむ》るに、いさゝかも、飮《のま》ず、くらはず。
[やぶちゃん注:「所親《しよしん》がり」親しい間柄或いは遠い親戚筋の方(かた)へ。
「去歲」昨年。
「三疊の間」あなたは三畳間に住んだことは、まず、ないであろう。私は大学の最初の一年間、渋谷の今やお洒落な町となった代官山の路地の奥の、関東大震災で倒れなかったという歴史的遺構の如き下宿屋の、二階の三畳間の部屋に住んだ。
「措て」邪魔者として除(のけ)おいて。
「納戶」衣服・調度類・器財などを納めておく部屋。一般には屋内の物置部屋をいうが、主人夫婦や家族の、居間や寝室などにも転用した。]
只、好みて、水を飮むのみ。
ものいふことも、得ならずして、鰻鱧のごとく、頤《おとがひ》をふくよかにして、息をつく、あさましき體《てい》たらく、又、いふべくもあらざりけり。
[やぶちゃん注:運動機能障害がひどく動けない結果、水ばかり飲み、顔がむくんで、ウナギの鰓の前の頤の如く、膨らんでいるのである。糖尿病のもともとも基礎疾患と、重い脳梗塞の併発が疑わられる。]
かゝる業病《ごふびやう》也ければ、病むこと、稍《やや》久しくして、竟《つひ》にむなしくなりし折《をり》、某乙は後《あと》の事など、叮嚀にものしつゝ、扨、養母と養母の親族に身《み》の暇《いとま》を乞ひ、離緣の後《のち》、料《はか》らず、泥匠のわざを習ふて、その世渡りになすよし也。
こは、天明年間の事なりければ、さすがに、叔父のうへながら、有年は、かゝる事のありしともしらざりしに、今より、五、七年以前に、家を作り替《かへ》ぬる折、その壁一式を、叔父にうちまかせしかば、叔父は弟子を日每《ひごと》に遣し、その身も、をりをり來つるにより、ある日の晝食に、鰻鱧の蒲燒を出《いだ》せしに、叔父は、いたく、忌嫌《いみきら》ひて、
「われは、うなぎを、見んとも思はず。とく、退《の》けて給ひね。」
といふ事、頻《しきり》なりければ、有年夫婦、いぶかりて、
「よのつねなる職人ならぬ、叔父なればこそ、心を用ひ、とりよせたりける物なれども、嫌ひとあるに、强《しひ》かねて、ほい、なかりき。」
と呟きしを、叔父は、
「さこそ。」
と慰めて、
「わがうなぎを忌嫌ふは、大かたのことならず。この儀は、和郞(わらう)が未生《みしやう》以前の事なりければ、しらぬなるべし。懺悔《さんげ》の爲に說示《ときしめ》さん。その故は、箇樣々々。」
と、彼《かの》怪談に及びしとぞ。
[やぶちゃん注:「天明年間」一七八一年から一七八九年まで。]
其叔父の名も、養父の家名も、しるすに易き事なれども、よき祥《きざし》にしも、あらざれば、あなぐりもせず。有年の話せるまゝに、錄するのみ。
[やぶちゃん注:「あなぐり」細かな部分を訊ね聴いて詮索すること。]
「彼《かの》大うなぎは、稀なるものにて、かの折、腕を、三まき、卷《まき》て、尾をもて、瞎を打《うつ》たるにて、その長さを推量《おしはか》るべし。打れし迹《あと》はうち身になりて、今も寒暑の折は發《おこ》る。」
といふ。
[やぶちゃん注:「瞎」は「片眼」(かため)の意があるが、彼が打たれたのは、前の当該シーンでは、脇腹であって、「腔(ひばら)」とあった。「腔」の崩し字を誤判読したととるのが自然であろう。因みに、仮に片方の眼を打たれた時、鰻の生の鮨がないのは、ウナギやアナゴの血液にはイクシオトキシン(ichthyotoxin)という有毒物質が含まれているからで、一定量を飲用すると、下痢・吐き気を惹起し、傷口に入ると、炎症を起こす。大量に誤飲すれば、死亡することさえある。これ、眼に入ると、激しい結膜炎を発症し、下手をすると、本当の「片眼」になることさえある。その辺りを判読者は想起して、思わず、かくしてしまったものかも知れない、などと、夢想した。ウナギの博物誌は、私のサイト版の寺島良安の「和漢三才圖會 卷第五十 魚類 河湖無鱗魚」の「鰻鱺」、或いは、「大和本草卷之十三 魚之上 鰻鱺 (ウナギ)」も参照されたい。なお、寺島は「無鱗魚」に入れているが、誤りである。ウナギはしっかり鱗がある。ただ、非常に微細なものがびっちり並んでおり、それに加えて、あの「ぬめり」(体液中のタンパク質ムチン由来)のために、「ウナギには鱗はない」と考えている日本人も多いと思われる。ユダヤ教は戒律が数多くあることで知られ、彼らは鱗のない魚は食べない。それに由来する私の面白い体験談を後者の注で紹介しているので、是非、読まれたい。]
「うなぎ渡世をするものは、末《すゑ》、よからず。」
といふよしは、常に聞くことながら、こは正しき怪談也。浮たる事にはあらずかし。【天保壬辰《みづのえたつ/じんしん》の冬閏十一月十三日の夜、關潢南《せきかうなん》に招れて、彼處《かしこ》に赴きし折、有年は、なほ、喪中ながら、はからずも、來《きたり》て、まとひに入《い》りけり。その折、有年の、「かゝる事しも、ありけり。」とて、話《はなし》せられしを、こゝにしるすもの也。有年は關の親族也。】
[やぶちゃん注:「天保壬辰の冬閏十一月十三日」天保三年閏十一月十三日は、既にグレゴリオ暦一八三三年一月三日である。
「關潢南」江戸後期の常陸土浦の藩儒で書家であった関克明(せき こくめい 明和五(一七六八)年~天保六(一八三五)年)の号。彼は兎園会の元締であった曲亭馬琴とも親しく、息子の関思亮は「海棠庵」の名で兎園会のメンバーでもあった。
「喪中」冒頭割注にある通り、実父にそれ。
「まとひ」「まどひ」「円居・団居」。円座の談話会。
なお、江戸時代、食されることが多かった鰻に関しては、その怪異譚が、思いの外、多くある。中でも、私の「耳嚢 巻之八 鱣魚の怪の事」(「鱣魚」(せんぎょ)は「鰻」のこと)が出色で、そこで魚類絡みの怪異類話も紹介してあるので参照されたい。]