鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 上卷「九 夫死して妻を取り殺す事 附 頸をしむる事」
[やぶちゃん注:底本は、所持する明治四四(一九一一)年冨山房刊の「名著文庫」の「巻四十四」の、饗庭篁村校訂になる「因果物語」(平仮名本底本であるが、仮名は平仮名表記となっている)を使用した。なお、私の底本は劣化がひどく、しかも総ルビが禍いして、OCRによる読み込みが困難なため、タイピングになるので、時間がかかることを断っておく。但し、既に述べたように、所持する一九八九年刊岩波文庫の高田衛編「江戸怪談集(中)」に抜粋版で部分的に載っているので、その本文をOCRで取り込み、加工データとして一部で使用させて戴く。そちらにある(底本は東洋文庫岩崎文庫本)挿絵もその都度、引用元として示す。注も参考にする。
なお、他に私の所持品と全く同じものが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらにあり、また、「愛知芸術文化センター愛知県図書館」公式サイト内の「貴重和本ライブラリー」のこちらで、初版板本(一括PDF)が視認出来る。後者は読みなどの不審箇所を校合する。
本文は饗庭篁村の解題(ルビ無し)を除き、総ルビであるが、難読と判断したもの、読みが振れるもののみに限った。踊り字「〱」「ぐ」は正字化した。適宜、オリジナルに注を附す。]
九 夫死して妻を取り殺す事
附頸をしむる事
攝州榎並村(えなみむら)・友淵村(ともぶちむら)、善兵衞(ぜんびやうゑ)婦(よめ)は、中村の源兵衞(げんびやうゑ)娘なり。善兵衞子息、卅歲にて死す。婦は十六歲なり。
夫、死して後(のち)、女を親の源兵衞處(ところ)へ、呼び返す。
さる程に、夫の精魂(せいこん)、火と成り、蹴鞠(けまり)の如くにして、地涯(ぢぎは)一尺程、高く揚がり、每夜、來たりて、村際(むらぎは)にて、消ゆ。
源兵衞家内(いへうち)、噪(さはが)しくなり、娘の目に見えて、魘(おそろ)しき物來りて、髮を拔くこと、折々なり。
娘、父母(ちゝはゝ)に向かつて、
「おそろしき物、來(きた)る。」
と云(いふ)て、恐れ伏す。
終(つひ)に、髮の毛を、皆、拔き盡(つく)して、卅日が中(うち)に取殺(とりころ)したり。
寬永十年の事なり。
[やぶちゃん注:「攝州榎並村」旧大阪府東成(ひがしなり)郡榎並町(えなみちょう)は、現在の大阪市城東区と都島(みやこじま)区の各一部に相当する。この中心付近に「榎並」を名に含む施設が認められる。当該ウィキによれば、『村名は中世の荘園名「榎並荘」に由来する。茨田堤』(まむたのつつみ/まんだの―/まぶたの―)は仁徳天皇が淀川沿いに築かせたとされる堤防)『の築造によって』、『河内湖』(かわちこ:現存しない)『と淀川の間に形成された干拓地で、淀川の南を意味する「江南」に「榎並」の字を当てたとする説がある』とある。
「友淵村」大阪市都島区友渕町(ともぶちちょう)。旧榎並町の北西に接している。善兵衞は恐らく富農で、この両村の庄屋を兼ねていたものと思われる。因みに、初版板本(21コマ目)では正しく「友渕村」の表記になっている。饗庭は略字と判断して、かく書き変えてしまったものであろう。
「中村」大阪府堺町北区の中村町か、或いは、大阪府南河内郡現在の河南町の南西端に相当するところにあった旧中村か。この地図に両方とも含まれる。
「寬永十年」一六三三年。]
○江戶、鷹師町(たかしやうまち)にて、ある侍、不圖(ふと)、煩(わづら)ひ付き、死に窮(きはま)る時、妻に向つて、
「我、死せば、不請(ふしやう)ながら、髮を剃り、菩提を弔(とむら)ふて給へかし。」
と云ふ。
女房、
「尤もなり。」
と請合(うけあ)へば、頓(やが)て死しけり。
然るに、女房、髮を剃らず、剃るべき志(こゝろざし)も、なし。
故に、次の日、夫、來りて、目に見えけれども、驚かず。
猶々(なほなほ)、來りて、
「ちらちら」
と見え、六日目には、女房の頸をしめける間(あひだ)、
「くつ、くつ。」
と云ふて、目をまはし、死に入りけり。
女房の兄、刀を拔きて、切拂(きりはら)ひ、
「卑怯者、侍に似合(にあは)ず。」
と耻(はぢ)しめけれども、用ひず、苦しめける程に、女房、次第々々に、弱るなり。
女房の弟(おとゝ)、
「心得たり。」
とて、鋏(はさみ)を取り出(いだ)し、姉の髮を、すきと、鋏(はさ)み捨てければ、則ち、本復(ほんぶく)す。
後(のち)まで、髮を剃りて居(ゐ)るなり。
其の朋輩衆(はうばいしゆ)の内方(うちかた)、委しく知つて語る。
慶安三年八月の事なり。
[やぶちゃん注:「鷹師町」「鷹匠町」。現在の東京都千代田区神田小川町・神田神保町・神田錦町・神田淡路町・神田猿楽町・神田三崎町・西神田・一ツ橋二丁目に当たる。皇居の東北外。いつもお世話になっている「江戸町巡り」の「元鷹師町」の解説によれば、元禄六(一六九三)年九月十一日に「小川町」と改称された、とある。改称理由の一説に『五代将軍綱吉が「生類憐みの令」を施行、鷹狩を禁止したため』、『改称されたという話もある』とあった。
「死に入りけり」気絶してしまったという。
「すきと」すっきりと。さっぱりと。残らず。
「慶安三年」一六五〇年。]
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