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2022/10/11

曲亭馬琴「兎園小説余禄」 墨田川の捨子

 

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちらから載る正字正仮名版を用いる。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。

 句読点は自由に変更・追加し、記号も挿入し、今回は段落も成形した。]

 

   ○墨田川の捨子

 文政十二年己丑の冬十一月二日の夜、赤穗候の家臣大谷義惣次、墨田川に漂流しぬる捨子を拾ひし事、あり。當時、その紀事を見つるに、左の如し。

 ことし、十一月ふつかの日、牛島なる桐原何がしのいほりを、とぶらひて、時のうつるをもしらず、ものがたりしけるを、淺くさ寺の初夜のかねに、おどろき、墨田川のほとりをかへるに、男、ふたり、川岸に、ともし火をてらして、つぶやき、たてり。

 いぶかしく思ひて、

「いかにぞ。」

と、とへば、

「川なかに、をさな子の、なくこゑ、す。」

といふに、はたして、をさなきものゝ聲也。

「とくとく、水に入て、たすけよ。」

と、いへば、ふたり、聲をひそめて、

「さすれば、後のうれひあり。便なくも、見捨ん。」

といふに、おのれ、おもはず、こゑを、あらゝげて、

「後のうれひは、なれたちに、およぼせめや。わが身にこそ、うけめ。」

と、いへば、

『うれし。』

と思ふおもゝちにて、やがて、水に入らんとするに、あやしくも、流れ、はやき川の瀨を、橫さまに、ながれよりたり。

 後におもふに、西風、いたく、ふきたれば、こなたの岸へ、よせし也。

 おのれ、河に、をり立て、刀のさやにて、かきよせんとするに、とゞかず。

 ひとりの男、いちはやく、長き竹をもて來つゝ、やがて、ちかく引よせしを、抱とりて、見るに、男の兒也。

 あはれむべし、玉の緖も、たえだえに見えければ、まづ、ふところに入れて、あたゝむるに、しばしありて、手も足も、動き出けり。

『とせん、かくせん、』

と、思ひたゆたふほどに、いよいよ、よみがへりにき。

 つくづく思ふに、

『前の世に、いかなる罪をなしゝ人の、かゝる子を、うみたるや。さばれ、このちごの命、いきて、わが、いだきあげぬるも、すぐせありての故なるべし。』

と、一たびは、歡び、一たびは、かなしきまゝに、かくなん、思ひつゞけゝる。

 ながれよるこの葉を岸にかきあげて

      袖もしぐれにそむる夜半かな

 わが名はつゝみて、

「かの、はじめ見いだしたる民の、ひらひし。」

と、うつたへ、まうさして、おほやけの沙汰、さわることもなくて、なん。あなかしこ、あなかしこ。

   關老先生         百  作

 百作は、大谷生の別號也。このゝち、すて子は、百作、やしなひとりて、里につかはしけるに、つゝがもなくて、そだちぬるよし。

 おなじ年の十二月八日の朝、關氏【潢南東陽。】より消息して、予が歌さへに求められしかば、その使をまたして、よみて、つかはしける。

 捨らるゝ藪ならなくにくれ竹の

      よ川のちごはながらへにけり 解

「このすて子は、唐の陸羽に似たるよしあり。しかれども、陸鴻漸は水邊に捨られしのみ。水中に子を捨しは、いかなる故ぞ。」

といふに、

「こは、其親のわざにあらず、かの、わたりなる、殘忍のもの、『村に捨子ありては、費用もおほく、いついつまでも、地方のわづらひなれば。』とて、ひそかに、かひさらひて、川へ投捨ること、あり。」

といふ。そを拾ひとりたりし大谷生の陰德は、うらやむべきことにぞ、ありける。

[やぶちゃん注:「文政十二年己丑」(つちのとうし/キチウ)「の冬十一月二日」一八二九年十一月二十七日

「大谷義惣次」不詳。結局、彼がこの子を引き取って、故郷で育てたとあり、非常な義侠心がある人物である。

「後」(のち)「のうれひ」こうした捨て子は、村民・町民が拾い助けた場合、お上からは、まず、それぞれの町村内で協力するか、養育をしてくれそうな子のない者に預けるか、江戸では、辻番所に届け出、町奉行の配下の者、或いは、その番所を置いた藩に、養育してくれる者を探させ、補助費用を添えて渡したりした。

「便」(びん)「なくも」かわいそうで、いたわしいことだけれど。

「玉の緖」命(のち)のこと。

「すぐせ」「宿世」。前世。

「關老先生」「兎園会」会員で「海棠庵」で頻出する三代に亙る書家関思亮(しりょう 寛政八(一七九六)年~文政一三(一八三〇)年)の祖父其寧(きねい)であろう。「兎園小説」には時にこの祖父の名が出る。

「關氏【潢南東陽。】」「ひんなんとうやう」は関思亮の号。本書に二年先だつ天保元(一八三〇)年九月に三十六の若さで実は亡くなっている。

「捨らるゝ藪ならなくにくれ竹のよ川のちごはながらへにけり」この瀧澤解(とく:馬琴の本名)の一首の「くれたけの(呉竹の)」は枕詞で、「竹の節(よ:節と節の間)」から同音の「夜」で「夜川」に掛かり、更に「世」を利かせて、「この世を無事に永らえたことよ」と言祝いでいるものであろう。

「陸鴻漸」陸羽(七三三年~八〇四年)は盛唐末から中唐にかけての文筆家。茶の知識を纏めた「茶経」などを著わした。鴻漸(こうぜん)は字(あざな)。岡倉天心はその名著「茶の本」の中で陸羽を「茶道の鼻祖」と評している。当該ウィキによれば、『捨て子として』三『歳くらいの時に浜で』、『竟陵』の『龍蓋寺の智積』(ちしゃく)『禅師に拾われた。容貌はさえず、しゃべり方に吃音があったが、雄弁であったという』。『幼い頃に、智積が仏典を学ばせようとしたが、陸羽は、「跡継ぎがなければ、孝といえるでしょうか」と言い、固く儒教を学ぼうとした。そのため、智積は陸羽に、牧牛などの苦役を課した。ひそかに、竹で牛の背中に字を書いていたという』。『逃亡して、役者の一座に入り、諧謔ものを書き上げた。天宝年間』(玄宗の治世後半。七四二年から七五六年)『に、竟陵の長官の李斉物(りせいぶつ)』『の目に止まり、書を教えられ』、『学問を学んだ。孤児であった陸羽が、知的階級の人々と交流するきっかけをつくってくれたのが、李斉物であった。その後、竟陵司馬の崔国輔(さいこくほ)』『とも交わった。友人と宴会中、思うところがあると出ていき、約束は、雨、雪の日、虎狼の出現に構わずに守ったという。また、『精行倹徳の人』を理想とした』七五六年、「安禄山の乱」を『避けようと』、『北方の知識人たちは、江南地方へ逃れた。陸羽も』七六〇年頃『湖州の苕渓』(ちょうけい)『に避難』し、庵を『つくって隠居し、桑苧翁』(そうちょおう)『と号し』、『著書を書き』始めた。『僧の釈皓然と親交を結び、野を一人で歩いて回ったという。隠居中に、朝廷から太子文学や太常寺太祝に任命されたが、辞退した』。十四年の及ぶ『茶の研究を』「茶経」として整理し、十年後の建中元(七八〇)年に補足を附した「茶経」全三巻を著わした。『大暦年間』(七六六年~七七九年)『に、湖州刺史として赴任してきた』書家として著名な『顔真卿』『のもとで』、「韻海鏡源」(いんかいきょうげん:三百六十巻に及ぶ辞典。古今の文献を検証し、佳句を収集、韻別に記録したもので、七七四年完成。但し、現存しない)の『編纂に加わっ』てもいる。]

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