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2022/10/31

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 千人切の話(その4) / 千人切の話~了

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから(右ページ三行目。底本も改行されてある)。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文部は後に〔 〕で「選集」を参考(「選集」は漢文部が編者によって訓読されてある。但し、現代仮名遣という気持ちの悪いもの)に訓読を示した。なお、本篇は、やや長いので、分割した。]

 

 『增一阿含經』卷卅一に、佛、央掘摩の因緣を說く。迦葉佛、在世の後《のち》、大果《たいくわ》王有り。其第一妃、男子を生む。希有の美男たり。大力(だいりき)と名《なづ》く。八歲の時、「娶婦(よめとり)せよ。」と勸むるに、「幼なり。」とて辭す。又、二十年經《たち》て勸めしも、辭す。因《よつ》て、名づけて、淸淨太子と云ふh。父王、國中に令して、「能く、太子をして、五慾を習はしむる者有らば、千金と諸寶を與へん。」と宣ぶ。爾(その)時、婬種(いんしゆ)と名《なづく》る女有り。「六十四變を明(あきら)め盡《つく》せり。我、之を能(よく)せん。」とて、王に請《こひ》て、内宮中に勅して、隨意(まゝに)、出入を遮《さへぎ》るなからしむ。其夜、二時、女、太子の門側《もんぎは》に在《あり》て哭《な》く。太子、唯、一男兒と寢室(ねま)に有《あり》しが、之を聞《きき》て、侍臣をして、往《ゆき》て所由(わけ)を問《とは》しむ。婬女、報(こたへ)て、「夫に棄《すて》られ、此次第。又、盜賊を畏れて哭く。」と云《いふ》。因て、侍臣をして、此女を象厩中(ぞうや《うち》)に置《おか》しむるに、復《また》哭《なき》しかば、堂後に置く。爰(こゝ)でも哭く故、太子、躬《みづか》ら尋ねけるに、女は、「單弱(かよわき)故、極《きはめ》て恐怖(おそろし)くて哭く。」、と答ふ。太子告曰、上吾牀上、可ㇾ得ㇾ無ㇾ畏、是時女人默然不ㇾ語、亦復不ㇾ哭。是時女人卽脫衣裳、前捉太子手、擧著己胸上、卽時驚覺、漸漸起欲想、已以起欲心、便身就ㇾ之。〔太子、告げて曰はく、「吾が牀(とこ)の上に上がらば、畏るること亡きを得べし。」と。是の時、女人、默然として語らず、又、復(ふたた)びは哭かず。是の時、女人、卽ち、衣裳を脫ぎ、前(すす)みて、太子の手を捉(と)りて擧げ、己(おの)が胸の上に著(お)く。卽時に驚覺し、漸漸として、慾想を起こす。已に慾心を起こせば、便(すなは)ち、身、之れに就く。〕。扨《さて》、明旦、太子、父王の所え[やぶちゃん注:ママ。]詣(いた》)る。顏色、常に殊(かは)れるを見、問《とひ》て其故を知り、父王、大《おほい》に悅び、「何の願い有るぞ。」と問ふ。太子言《いは》く、「吾が所願を述《のべ》て、大王、中(なかご)ろ、悔いずんば、啓(まう)すべし。」。王、曰く、「決して、中ろ、悔いじ。」と。太子白ㇾ王、大王今日、統領閻浮提内、皆悉自由、閻浮提里内、諸未ㇾ嫁女者。先適我家、然後使ㇾ嫁。〔太子、王に白(まを)す、「大王は今日(こんにち)、閻浮提(えんぶだい)内を統領し、皆、悉く、自由なり。閻浮提の里内(りない)にて、諸(もろもろ)の未だ嫁がざる女(むすめ)は、先づ、我が家に適(ゆ)き、然る後に嫁がしめよ。」と。〕。是より、國内の處女(をとめ)、總て、先づ、太子に詣(いた)り、然る後、嫁する定制《おきて》となる。須蠻(すまん)と名くる長者女(もちまるむすめ)、年頃に成り、太子に詣るべき筈の處ろ、裸跣(はだかすあし)で衆中を行(ある)きて、耻(はぢ)ず。衆人(みなみな)、「是は。名高き長者(もちまる)の娘、云何(いかん)ぞ裸で人中を行く。驢(うさぎうま)と何ぞ異ならん。」と嘲る。女、曰く、「我、驢たらず、汝等、悉く、驢なり。女が、女を見て、相耻《あひはぢ》る事やは有る、城中の生類《しやうるゐ》、悉く、女(をんな)也、淸淨太子一人が男也、我れ、太子の門に至らば、衣裳を着《きる》べし。諸民、相謂(《あひ》かた)るらく、「此女の說(せつ)通《どほ》り、我等、皆、女にて、淸淨太子のみ男也。我等、今日、男子《なんし》の法を、行なうべし。」とて、兵裝して、父王を見、「太子、國の常法を辱《はづかし》めたれば、王か、太子か、孰れか一人を殺さん。」と願ふ。是時、父王、偈(げ)を說《とき》けるは、「爲ㇾ家忘一人、爲ㇾ村忘一家、爲ㇾ國忘一村、爲ㇾ身忘世間。〔家の爲めに一人を忘れ、村の爲めに一家を忘れ、國の爲めに一村を忘れ、身の爲めに世間を忘る。〕。太子を、汝等、隨意(かつて)にせよ。」と告ぐ。諸人、太子を縛りて、域外に將出《つれいだ》し、殺さんとせる時、太子、誓願して、「我、來世、必ず、此怨《うらみ》を報ずべし。又、眞人(しんじん)に値(あ)ひ、速(すみや)かに解脫を得ん。」と。人民、咸(みな)、共に、瓦石《ぐわせき》もて、太子を打殺《うちころ》す。其時の王は、今の央掘摩の師、婬女は、師の妻、其時の人民は、今、央掘摩に殺されたる八萬人、其太子は、今の央掘摩也、と。

[やぶちゃん注:「『增一阿含經』卷卅一」前回と同じく、「增壹阿含經」で「大蔵経データベース」で同巻を確認出来たので、それで一応、校合したが、前の書き下し文の部分は、かなりの省略がある。漢文部も返り点の一部を変えた。

「長者(もちまる)」「持丸長者」(もちまるちやうじや(もちまるちょうじゃ))は江戸時代、「大金持・富豪」を指した一般名詞である。

「驢(うさぎうま)」言わずもがな、驢馬(ろば)のこと。博物誌は「和漢三才圖會卷第三十七 畜類 驢(うさぎむま) (ロバ)」を参照されたい。]

 之に類せる話、『根本說一切有部毘奈耶《こんぽんせついつさいうぶびなや》』四七卷に有り。但し、央掘摩に關係無し。云(いは)く、佛、王舍城に在《あり》し時、千人力の壯士、曠野の賊を平《たひら》げ、新城を築き、人、多く、住み、繁盛せる謝意を表せん迚、「住民、娶《めと》る者、必ず、此大將を饗し、次に自分等《ら》、宴すべし。」と定む。一人、妻を娶るに、貧しくて、飮食を辨ずる能はず。便(すなは)ち、新婦をして、將軍の室に入《いら》しめ、竟(をはり)て、始めて、之と婚す。將軍、大《おほき》に歡び、爾來、諸民、此(これ)を恒式《こうしき》とす。後日、新《あらた》に嫁せんとする女(むすめ)有り、念(おも)ふに、『この城民、久しく非法を行ひ、自妻(わがつま)を、先づ、他人に與ふ。何卒、斯俗(このぞく)を斷《たた》ん。』とて、裸で、衆中に、立小便す。衆、之を咎めしに、別嬪、平氣で答ふらく、「是れ、何の耻か有(あら)ん。國民、總て、女人で、將軍、獨り、男子たり。將軍の前でこそ、裸と立小便を耻可(はづべけ)れ、汝ら、女同然の輩《やから》の前で、何の恥か、あるべき。」と。衆、之を「然り。」とし、會飮の後、將軍を燒殺《やきころ》せしに、其靈、鬼神と成り、每日、一人宛《ひとりづつ》、食ひ、大災を成せしを、佛、往《ゆき》て降伏せり、と也。『雜寶藏經』卷七所載(のすところ)も略《ほ》ぼ、之に同じ。誠に有る間敷《まじき》不稽《ふけい》の譚の樣なれど、予が『神社合祀論』にも述《のべ》し如く、世には、全くの啌話(うそばなし)、無く、古傳(ふるきつたへ)は、必ず、多少の事實に基《もとづ》く。

[やぶちゃん注:「『根本說一切有部毘奈耶』四七卷」例によって「大蔵経データベース」で確認出来る。

「予が『神社合祀論』にも述し如く」「青空文庫」にある南方熊楠の「神社合祀に関する意見」の終りの方にある箇所を指すもののように見受けられる。新字新仮名であるが、現行、熊楠が最も力を入れて反対活動をした中で知られるこの論稿を原表記で見ることは容易なことではない(私自身、見たことがない)。そもそもこれは原稿であって、公になったものではない。これと、一部の内容を一にする南方の「神社合倂反對意見」が、雑誌「日本及日本人」に明治四五(一九一二)年に四回に分けて載ったが、それは未完である。例えば、以下の箇所である。所持している「青空文庫」が底本としたものの初版(「南方熊楠コレクション第五巻 森の思想」河出文庫・河出書房新社一九九二年三月十日発行)で校合した。

   *

 また一汎人は史蹟と言えば、えらい人や大合戦や歌や詩で名高き場所のみ保存すべきよう考うるがごときも、実は然らず。近世欧米で民俗学(フォルクスクンテ)大いに起こり、政府も箇人も熱心にこれに従事し、英国では昨年の政事始めに、斯学の大家ゴム氏に特に授爵されたり。例せば一箇人に伝記あると均しく、一国に史籍あり。さて一箇人の幼少の事歴、自分や他人の記憶や控帳に存せざることも、幼少の時用いし玩具や貰った贈り物や育った家の構造や参詣せし寺社や祭典を見れば、多少自分幼少の事歴を明らめ得るごとく、地方ごとに史籍に載らざる固有の風俗、俚謡、児戯、笑譚、祭儀、伝説等あり[やぶちゃん注:☜]。これを精査するに道をもってすれば、記録のみで知り得ざる一国民、一地方民の有史書前の履歴が分明するなり。わが国の『六国史』は帝家の旧記にして、華胄(かちゅう)の旧記、諸記録は主としてその家々のことに係る。広く一国民の生い立ちを明らめんには、必ず民俗学の講究を要す。

 紀州日高郡産湯(うぶゆ)浦という大字の八幡宮に産湯の井あり。土伝(いいつたえ)に、応神帝降誕のみぎり、この井水を沸(わ)かして洗浴し参らせたりという。その時用いたる火を後世まで伝えて消さず。村中近年までこの火を分かち、式事に用いたり。これは『日本紀』と参照して、かの天皇の御史跡たるを知るのみならず、古えわが邦に特に火を重んずる風ありしを知るに足れり。実に有記録前の歴史を視るに大要あり[やぶちゃん注:☜]。しかるに例の一村一社制でこの社を潰さんとせしより、村の小学校長津村孫三郎と檀那寺の和尚浮津真海と、こは国体を害する大事とて大いに怒り、百七、八十人徒党して郡役所に嗷訴し、巨魁八人収監せらるること数月なりしが、無罪放免でその社は合祀を免れたり。その隣村に衣奈(えな)八幡あり。応神帝の胞衣(えな)を埋めたる跡と言い伝え、なかなかの大社にて直立の石段百二段、近村の寺塔よりはるかに高し。社のある山の径三町ばかり全山樹をもって蔽われ、まことに神威灼然たりしに、例の基本財産作るとて大部分の冬青(もちのき)林を伐り尽させ、神池にその木を浸して鳥黐(とりもち)を作らしむ。基本金はどうか知らず、神威すなわち無形の基本財産が損ぜられたることおびただし。これらも研究の仕様によりては、皇家に上古胞衣(えな)をいかに処理せられしかが分かる材料ともなるべきなり[やぶちゃん注:☜]。その辺に三尾川(みおかわ)という所は、旧家十三、四家あり、毎家自家の祖神社あり、いずれも数百年の大樟樹数本をもって社を囲めり。祖先崇拝の古風の残れるなり。しかるに、かかる社十三、四を一所に合集せしめ、その基本財産を作れとて件の老樟をことごとく伐らしむ。さて再びその十数社をことごとく他の大字へ合併せしめたり。

 和歌山市近き岩橋村に、古来大名が高価の釜壺を埋めたりと唄う童謡あり。熊楠ロンドンにありし日、これを考えてかの村に必ず上古の遺物を埋めあるならんと思い[やぶちゃん注:☜]、これを徳川頼倫侯に話せしことあり。侯、熊楠の言によりしか否かは知らず、数年前このことを大学連に話し、大野雲外氏趣き掘りしに、貴重の上古遺品おびただしく発見せり、と雑誌で見たり。英国のリッブル河辺の民、昔より一の丘上に登り一の谷を見れば英国無双の宝物を得べしという古伝あり。啌(うそ)[やぶちゃん注:☜]と思い気に掛くる人なかりしに、七十二年前、果たしてそこよりアルフレッド大王時代およびその少しのちの古銀貨計七千枚、外に宝物無数掘り出せり[やぶちゃん注:☜]。紀州西牟婁郡滝尻王子社は、清和帝熊野詣りの御旧蹟にて、奥州の秀衡建立の七堂伽藍あり。金をもって装飾せしが天正兵火に亡失さる。某の木の某の方角に黄金を埋めたりという歌を伝う。数年前その所を考え出し、夜中大なる金塊を掘り得て逐電せる者ありという。

 かかる有実の伝説は、神社およびその近地にもっとも多し[やぶちゃん注:]。素人には知れぬながら、およそ深き土中より炭一片を得るが考古学上非常の大獲物であるなり。その他にも比類のこと多し。しかるに何の心得なき姦民やエセ神職の私利のため神林は伐られ、社地は勝手に掘られ、古塚は発掘され、取る物さえ取れば跡は全く壊(やぶ)りおわるより、国宝ともなるべく、学者の研究を要する古物珍品不断失われ、たまたまその道の人の手に入るも出所が知れぬゆえ、学術上の研究にさしたる功なきこと多し。合祀のためかかる嘆かわしきこと多く行なわるるは、前日増田于信氏が史蹟保存会で演(の)べたりと承る。大和には武内宿禰の墓を畑とし、大阪府には敏達帝の行宮趾を潰せり、と聞く。かかる名蹟を畑として米の四、五俵得たりとて何の穫利ぞ。木戸銭取って見世物にしても、そんな口銭(こうせん)は上がるなり。また備前国邑久(おく)郡朝日村の飯盛(いいもり)神社は、旧藩主の崇敬厚かりし大なる塚を祭る。中央に頭分(かしらぶん)を埋め、周囲に子分(こぶん)の尸(しかばね)を埋めたる跡あり。俗に平経盛の塚という。経盛の塚のみならば、この人敦盛という美少年の父たりしというばかりで、わが国に何の殊勲ありしとも聞かざれば、潰すもあるいは恕すべし。しかるにこの辺に神軍(かみいくさ)の伝説のこり、また石鏃(いしのやのね)など出る。墓の構造、埋め方からして経盛時代の物にあらず。故に上古の墳墓制、史書に載らざる時代の制を考えうるに、はなはだ有効の材料なり。これも合祀のため荒寥し、早晩畑となりおわるならん。

   *

」の箇所が、ここで熊楠の言っている「世には、全くの啌話(うそばなし)、無く、古傳(ふるきつたへ)は、必ず、多少の事實に基く」のよき証左となろう。]

 印度の婆羅門、原來(ぐわんらい)、師の妻の外、他人、殊に、劣族の妻に通ずるを、重罪とせず。後世迄、新婦(はなよめ)を迎ふる者、重く、婆羅門に贈りて、破素《はそ》し貰ひし事、予ら幼時まで、紀州の一向宗の有難屋連(ありがたやれん)、厚く資(たから)を献じて、門跡の寢室(ねま)近く、妙齡の生娘(きむすめ)を臥《ふせ》させ貰ひしに近し。去れば、王政の世には、諸王が配下の妻女に於る權力、無限にて、西曆紀元頃、「ヴアチヤ」梵士の作、『愛天經(かまでゔあすとら)』七篇二章は、全く、王者、臣民の妻・娘を手に入れる方法を說きたり。其末段に言(いは)く、「アンドラ」民の王は、先づ、臣民の新婦を試《こころむ》る權力有り。「ヴアツアグルマ」民の俗、大臣の妻、夜間(よのま)、王に奉仕す。「ヴァイダルブハ」民は、王に忠誠を表《ひやう》せん迚、其子婦(よめ)[やぶちゃん注:二字へのルビ。]を一月間、王の閨《ねや》に納(い)る。「スラシユトラ」民の妻は、王の好みの儘、單獨(ひとり)又、群(むれ)て、その閨房に詣(いた)るを例とすと。歐州には、古羅馬の「オーダスツス」帝、吾國の師直《もろなほ》、秀吉と同じく、每度、臣下の妻を招きて、之を姦し、其後の諸帝、斯《かか》る行ひ有りし人、多し。降《くだつ》て、中世紀に及び、諸國の王侯に、處女權(メツヅン・ライツ)有り。人、新婦を迎《むかふ》れば、初夜、又、初め數夜、その領主の側に臥させた後ならでは、夫の手に入らぬ也。蘇格蘭(すこつとらんど)では、十一世紀に「マルコルム」三世、此制を廢せしが、佛國抔には、股權(キユイサーシ)とて、十七世紀迄、多少、存せり。此名は、君主、長靴穿(はき)きし一脚を、新婦(はなよめ)の牀に入れ、手槍を持《もち》て疲るゝ迄座り込み、君主、去る迄、夫が新婦の寢室(ねま)に入るを得ざりしに出づ。夫、此耻辱を免(のがれ)んとて、稅を拂ひ、或は傭役し、甚しきは、暴動を起し、又、「義經は母をされたと娘をし」と云ふ川柳的の復讐をやつたもあり、佛國「ブリヴ」邑(むら)の若き侍、領主が己れの新婦(はなよめ)を試ると同時に、領主の艷妻を訪ひ、通宵(つうせう)して、之に、領主の體格不相應の大男兒を產ませたる椿事、有り。斯る事より、此弊風、遂に亡びつ。

[やぶちゃん注:「破素」処女を犯すこと。

「有難屋」江戸時代以降の語であるが、神仏を無暗に信仰する人。特に一向宗(浄土真宗)の門徒衆を揶揄して卑称することがある。

『「ヴアチヤ」梵士の作』「愛天經(かまでゔあすとら)」古代インドの性愛論書「カーマ・スートラ」。推定で凡そ四世紀から五世紀にかけて成立した作品とされる。著者はヴァーツヤーヤナで、正式なタイトルは「ヴァーツヤーヤナ・カーマスートラ」。大場正史訳の角川文庫版を所持しているが、書庫の深みに沈んでいて、見出せない。

「アンドラ」紀元前一世紀頃にインドのデカン高原を支配した王朝。アーリア系のマハーラーシュトリー族がアンドラ人を征服して建てたとされる。

「ヴアツアグルマ」ヴァーカータカ朝(古代インドのデカン地方を支配した三~六世紀の王朝)のヴァツァグルマ系列の首都であるヴァツァグルマ。現在のワシム

「ヴァイダルブハ」不詳。

「スラシユトラ」不詳。

『「オーダスツス」帝』ローマ帝国初代皇帝(在位:紀元前二七年~紀元後一四年)アウグストゥス(ラテン語:Augustus)か。

「師直」足利尊氏に側近として仕えた武将高師直(こうのもろなお)。正式な名乗りは「高階(たかしなの)師直」。

「處女權(メツヅン・ライツ)」「ライツ」は“right”(「権利」)だが、「メツヅン」の綴り不明。

『「マルコルム」三世』スコットランド王マルカムⅢ世(Malcolm III 一〇三一年 ~一〇九三年/在位:一〇五八年~没年)。

「股權(キユイサーシ)」“droit de cuissage”(ドロワ・ド・キュサージュ:「股の権利」)。

「義經は母をされたと娘をし」「義経も母をされたで娘をし」とも。Q&Aサイトのこちらに、源義経が、母である常盤御前を平清盛が妾とした仕返しに、「壇ノ浦の戦い」の後、助けた建礼門院を犯したという江戸時代の川柳。回答者「けいすけさん」によれば、『丸谷才一によると、「源平盛衰記」が大元です(『恋と女の日本文学』)』。『「源平盛衰記」巻第四十八(灌頂之巻)で、建礼門院は後白河院に対して、「源氏に追われて同じ船で暮らしていたため、兄の宗盛と共寝したというひどい噂を立てられ、また』、『九郎判官に生け捕られて、心ならずも』『浮いた噂が立ちました。これが畜生道に当たります」と語っているそうです』。『ちなみに丸谷は、義経の色好みぶりや女院の都を慕う心から、「この色事はあり得たでせう」と述べています』とあった。以上の回答者の原文当該部は国立国会図書館デジタルコレクションの明治三五(一九〇二)年博文館刊の「帝国文庫」全一括版のここ(左ページ七行目以下を参照)。

『「ブリヴ」邑(むら)』ブリーヴ=ラ=ガイヤルド(Brive-la-Gaillarde)。ここ。これは、ウィキの「初夜権」「参考:南方熊楠」の中のこの部分への言及のリンク先に拠って判明した。]

 此風俗の起りは、基督敎の古(いにし)え[やぶちゃん注:ママ。]、初婚の夜、素女點(ゔあーじにちー)を上帝に捧ぐる迚、夫婦同臥を嚴禁し、北亞非利加(きたあふりか)では、上帝の名代に辱(かたじけな)くも僧正(びしよつぷす)が、民の新婦と同褥《どうじゆく》し玉へるより轉じて、其れは善い思ひ付きと、諸國君長が、此制を競ふて實行せるに及べりとの事なれど、歐州のみならず、印度、「クルヂスタン」、「アンダマン」島、眞臘(かんぼぢあ)、占城(ちやんぱ)、滿喇加(まらつか)、「マリヤナ」島、亞非利加(あふりか)、及び、南・北米の或る部にも、古來、斯る風俗有《あり》しを參考すれば、歐州、亦、自(おのづか)ら斯《こ》の舊慣有り。必《かならず》しも耶蘇敎より訛傳せしに非じと思はる(『大英類典(エンサイクロペヂア・ブリタニカ)』十一板、卷一五。「ヂスレリ」『文界奇觀(キユリオシチース・オヴ・リテラチユル)』九板、卷一。「カール・シユミット」『初婚夜論(ジユス・プリマエ・ノクチス)』。「コラン・ド・プランチー」『封建字彙(ヂクシヨナール・フエオダル)』卷一、參取。)。『後漢書』南蠻傳曰《いはく》、交趾之西、有噉ㇾ人國云々。娶ㇾ妻美、則讓兄。今烏滸人是也。〔交趾(かうし)の西に、人を噉(くら)ふ國、有り云々。妻を娶りて美なれば、則ち、其の兄に讓る。今、烏滸(おこ)の人は是れなり。〕。本邦で痴漢(あほう)を烏滸(おこ)の者と云ふは之に基くと云ふ。數十年前迄、紀州勝浦(かつら[やぶちゃん注:ママ。])港で、女子、妙齡に及べば、巧者の老爺(おやぢ)に破素を托し、事、竟《をはり》て、桃紅色(もゝいろ)の褌《ふんどし》と、米と酒を以て、酬禮する習俗なりし。又、『中陵漫錄』卷十一に云く、「羽州米澤の荻村《をぎ》にては、媒《なかうど》する者、女の方に行《ゆき》て、其女を受取《うけとり》て、先づ、媒者(なかうど)の傍(そば)に臥《ふせ》しむること、三夜(みよさ)にして、餅を、圓く作《つくり》て、百八、媒者(なかうど)付負(つきおふ)て、女を連往《つれゆ》き、其禮を調ふ云々」。要は、央掘摩千人切りと、淸淨太子、處女權を過用(やりすご)して、民に殺されし話と、最初、別物なりしを、佛徒が、古く釋尊の金口《こんく》に托し、連接して、一《ひとつ》の因緣談(ばなし)と成(なせ)る也。

[やぶちゃん注:「素女點(ゔあーじにちー)」“virginity”。処女性。

「僧正(びしよつぷす)」ビショップ 。“Bishop”。キリスト教会の高級聖職者。カトリックでは「司教」、プロテスタントでは「主教」又は「監督」、ギリシャ正教会・イギリス国教会では「主教」と訳される。その他、広汎に「僧正」とも訳される。

「クルヂスタン」クルディスタン。中東北部の一地域で、トルコ東部・イラク北部・イラン西部、及び、シリア北部とアルメニアの一部分に跨り、ザグロス山脈とタウルス山脈の東部延長部分を包含する、伝統的に主としてクルド人が居住する地理的領域を指す。チグリス・ユーフラテス川の中・上流域を中心に広がる山岳地帯。面積は約三十九万二千平方キロメートルに及ぶ。参照したウィキの「クルディスタン」にある、こちらの地図を参照されたい。

『「アンダマン」島』アンダマン諸島はインド東部のベンガル湾に浮かぶ、インド・ミャンマーに属する島々。南の方にあるニコバル諸島とともに、インドの連邦直轄地域アンダマン・ニコバル諸島を成している。また数島はミャンマーに属す。参照したウィキの「アンダマン諸島」にある、こちらの地図を参照されたい。

「占城(ちやんぱ)」チャンパ王国。現在のベトナム中部沿海地方(北中部及び南中部を合わせた地域)に存在した国家。主要住民の「古チャム人」はベトナム中部南端に住むチャム族の直接の祖先とされる。中国では唐代半ばまで「林邑」と呼び、その後、「環王」を称したが、唐末以降は「占城」と呼んだ。位置は参照したウィキの「占城」の地図を見られたい。

「滿喇加(まらつか)」マラッカ或いはムラカ(マレー語: Melaka)は、マレーシアの港湾都市。マレー半島西海岸南部に位置し、東西交通の要衝マラッカ海峡に面する、ムラカ州(マラッカ州)の州都である。古くはマラッカ王国として栄えた。ここ

『「マリヤナ」島』ミクロネシア北西部の列島であるマリアナ諸島。東の北西太平洋と西のフィリピン海の境界に位置し、北には小笠原諸島、南にはカロリン諸島、東にはマリアナ海溝がある。南北約八百キロメートルに連なる約十五の島から構成される。ここ

「『大英類典(エンサイクロペヂア・ブリタニカ)』十一板、卷一五」「Internet archive」ののこれが当該原本であるが、何を見たのか判らないので、表紙でリンクした。 

『「ヂスレリ」『文界奇觀(キユリオシチース・オヴ・リテラチユル)』九板、卷一』イギリスの作家アイザック・ディズレリー(Isaac D'Israeli 一七六六年~一八四八年)の“Curiosities of Literature” (「文学の好奇心」:一七九一年~一八二四年刊)。同前でリンクした。

『「カール・シユミット」『初婚夜論(ジユス・プリマエ・ノクチス)』』ドイツの法律史家カール・ヨーゼフ・リボリウス・シュミット(Karl Joseph Liborius Schmidt 一八三六 年~ 一八九四 年)の“Jus primae noctis. Eine geschichtliche Untersuchung.” (「初夜権利:その歴史的研究」。一八八一年)。同前でリンクした。

『「コラン・ド・プランチー」『封建字彙(ヂクシヨナール・フエオダル)』卷一』コラン・ド・プランシー(J. Collin de Plancy 一七九四年或いは一七九三年~一八八一年或いは一八八七年)はフランスの文筆家。当該書は“Dictionnaire féodal ou Recherches et anecdotes sur les Dimes et les droits féodaux, les fiefs et les bénéfices, les privilèges etc. et sur tout ce qui tient à la Féodalité.”(「十分の一税と封建的権利・領地と受益者・その特権等に関する封建時代の辞書、又は、研究と逸話及び封建主義に関連する総てに就いて」。一八一九年)。同前でリンクした。

「後漢書」後漢(二五年〜二二〇年)の歴史を記した中国の正史の一つ。五世紀の南宋の茫曄(はんよう)の撰になる。

「交趾」ベトナム北部の交趾郡。

「紀州勝浦(かつら)港」現在の和歌山県東牟婁郡那智勝浦町(なちかつうらちょう)。

「『中陵漫錄』卷十一に云く、「羽州米澤の荻村にては、……」「中陵漫錄」は水戸藩の本草学者佐藤中陵成裕(せいゆう 宝暦一二(一七六二)年~嘉永元(一八四八)年)が文政九(一八二六)年に完成させた採薬のための諸国跋渉の中での見聞記録。以下のようにある(底本は国書刊行会昭和五一(一九七六)年刊「日本随筆大成 第三期第3巻」所収のものを用いたが、恣意的に正字化した)。読点を追加し、読みは推定で歴史的仮名遣で附した。

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   ○荻村(をぎむら)の婚姻

婚姻の禮、僻邑(へきいう)に至(いたり)ては種々(しゆじゆ)あり。羽州米澤の荻村にては、媒(なかうど)するもの、女の方に行(ゆき)て其女を請受(こひうけ)て、先(まづ)、媒者(なかうどのもの)の傍(かたはら)に臥(ふせ)しむる事、三夜にして、餠を、圓(まる)く作りて、百八、媒者、付負(つきおふ)て、女を連行(つれゆ)き、其禮を調ふ。七日(なぬか)にして蒸飯(むしめし)を添(そへ)て、父母の安(やすき)を問(とひ)に、歸らしむ。此等の送迎は、村中(むらうち)の少年、五、六人にて、往還す。其婚姻の夜も、少年を遣(やり)て、女の道具を負來(おひきたら)しむ。其時に、負來(おひきたり)て、土足にて、上にあがり、出(いで)んとす。是を、其荷繩と共に、忽(たちまち)に、「取らん。」と相爭(あひあらそふ)て、其荷繩を取らんとす。取(とる)を手柄とし、取れざるを[やぶちゃん注:「も」を入れたい。]手柄とす。何れにしても、酒肴を進(すすめ)て、大(おほき)に醉(ゑは)しむ。

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「羽州米澤の荻村」現在の米沢市のかなり北に当たるが、山形県南陽市荻があるが、ここか。

「釋尊の金口」釈迦の説法。]c

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