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2022/10/22

曲亭馬琴「兎園小説余禄」 己丑七赤小識(その6)

 

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちらから載る正字正仮名版を用いる。本パートはここの右ページ下段の十一行目から。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。

 句読点は自由に変更・追加し、記号も挿入し、一部に《 》で推定で歴史的仮名遣の読みを附し、本篇は長いので、段落を成形し、分割した。

 なお、(その1)の冒頭に配した私の注を、必ず、参照されたい。]

 

一、築地なる紀州の御藏屋敷に、逃籠《にげこも》りて、燒死したる男女《なんによ》、數、百十數人ありし事は、世の人のしる所也。

 そが中に、境の塀を乘越《のりこえ》つゝ、他所《よそ》へ脫《のが》れ出《いで》て、恙なかしりもの、一人、あり【名を忘れたり。】。そは吾媳《わがよめ》の親と相識《あひし》るものなりき。

 凡《およそ》、木挽町・築地わたりにすまひしものゝ、常にいひしは、

「紀州の御藏屋敷は、昔より、一とたびも類燒せざる所也。前は海にて、御藏、多く、棟《むね》をならべたれば、よしや、いかばかりの大火にても、件《くだん》の御藏のほとりにあらんには、燒死すること、なかるべし。」

とて、たのもしく思はぬは、なかりき。

 この故に、初《はじめ》、築地なる本願寺へのがれゆきしものも、其處《そこ》すら、危《あやふ》くなりし折《をり》、件《くだん》の御藏屋敷へ逃籠りしもの、多かりしに、餘炎、御藏にさへ、かゝりて、多く、御藏、燒失《やけうせ》ければ、もろ人、免るゝに路《みち》なくて、木石《ぼくせき》とともに、燒《やか》れしも尠《すくな》からず。或は、海に逃入《にげい》らんとして、溺死せしも、いくばくなりけん。

 それにはあらで、深川なる料理酒や平淸《ひらせい》が娘、十九歲、八町堀なる某候の奥方《おくがた》に給事(みやづかへ)してありければ、其親平淸、みづから、下男、三、四人を將《ひきい》て、はやく、件の屋敷へ、かけつけしに、

「鑑札《かんさつ》、なければ、内へ入れがたし。」

とて、門番人、許さず。

 しかるに、この娘も、

「召仕ふ下女とともに、彼《かの》船中にて、燒死したり。」

とて、次の日、深川なる宿《やど》へ、知《しら》せ來つ。

「尸骸《しがい》を引《ひき》とるべし。」

とて、呼《よば》れしとぞ。

 親の遺恨は、いかならん。

 この一條は、平淸としたしきものゝ、はなしなり。

[やぶちゃん注:「築地なる紀州の御藏屋敷」これは安易に認識してしまうと、とんでもない誤りを引き起こす。何故かというと、例えば、「江戸マップβ版」の「江戸切絵図」の「築地八町堀日本橋南之圖」には、築地本願寺前の海際(真東。この図は右が北)に突き出たところに「紀伊殿」とあり、これは確かに紀州藩の蔵屋敷なのではあるが、この切絵図は、実は「文政の大火」よりも後のものなのである。而して、この事実関係を明確に明かして呉れるのが、サイト「和歌山社会経済研究所」の「紀州 in 東京(紀州藩江戸屋敷)」の「(8)築地邸(中央区築地6-20)」であり、そこに、『文政123月の火事で木挽町の蔵屋敷が焼失した後、同年6月旧南小田原町(現在の築地6丁目辺り)にあった旧堀田家中屋敷の敷地(6,320坪)を拝領した(「江戸史跡事典」新人物往来社)』とあることで、この本願寺海側の「紀州殿」蔵屋敷は、まさに「文政の大火」で、本篇に出るそれ以前の蔵屋敷がそこに語られるようにテツテ的に焼け果てた結果として、紀州藩が「文政の大火」後に拝領した蔵屋敷なのである。そして、さらに時間が経って、『幕末も近くなると』、『黒船来航など海外からの開国要請が強まる中、幕府は防備と海軍力を強化する必要に迫られ』、『築地の紀州藩蔵屋敷は江戸の中心部に近く、海の玄関にあたる好立地であったため、安政3年(1856年)幕府の講武場(幕府の武芸訓練機関。後、講武所と改称。)が設けられたときに、紀州藩は幕府に返上したのではない』『か』とあって、『翌年、長崎海軍伝習所の一部が移転してきて、講武所の中に軍艦教授所(後、軍艦操練所と改称)が開かれ』、『勝海舟やジョン万次郎達が教官となり、咸臨丸などが練習船となった時代で、大慌ての海軍創設期』となったとあるのが、ここの歴史なのである。事実、私の所持する「江戸切絵図」嘉永年間(一八四八年~一八五三年)版の文久元(一八六一)年改正再刻版では、ここは最早、「御軍艦操練」となっているのである。

 では、ここで言っている「御蔵屋敷」はどこなのかというと、前のリンク先の「(6)木挽町邸(中央区銀座1-19202-1216)」がそこのなのである。そこの解説に、『拝領時期が定かではない』が、『慶長17年(1612年)という説もあり、そうなると』、『一番古い紀州徳川家の江戸屋敷かもしれ』ないとされ、『「南紀徳川史」によると、この屋敷は前後両度御拝領とあり、何故か宝永5年(1708年)に返上し直ぐ再拝領してい』とある。そしてここは、『紀州から船で海上輸送されてきた物産(松脂、椎茸、鰹節、塩鯨など数十品目)を納入・保管していた蔵屋敷として使用されてい』『た(「江戸史跡事典」新人物往来社)』とあるのである。これは、『大坂冬の陣・夏の陣の23年前で』、『未だ徳川幕府が政権不安定な時代』であり、『江戸城を築城し』、『防備を固めることが最優先課題であり、江戸の“町づくり”も急がれた時代』でもあった。『早い段階から蔵屋敷が準備されていたことには、徳川幕府が戦闘集団でありながら、経済的な基盤を固めるための施策にも長けていたことの現われかと関心を惹かれ』るとある。『なお、物産は紀州家出入りの特権商人(栖原屋角兵衛と紙屋庄八)によって売り捌かれていた』。但し、『今はこの蔵屋敷跡(銀座2丁目の東半分に相当)に何の痕跡も残されて』おらず、『寛永9年(1632年)の寛永江戸図には「紀伊大納言様御蔵屋敷」が三十間堀の南側に記載されてい』るという。『三十間堀には藩が架橋したと言われる「紀伊国橋」が架かっており、対岸には銀貨を鋳造していた「銀座」の表記が読み取れ』るが、『この三十間堀は戦後埋立てられてしまい』、『「紀伊国橋」も撤去され』、『影も形も』ないそうである。さて、この以下が重要なポイントで(太字は私が附した:☞)、『この地図で面白いのは』、『蔵屋敷の南側は』、『直ぐ』、『海として描かれてい』るとあって、『江戸初期で』ある『から』、『築地の埋立が終わっていなかったので』(☜)あろうと推定されておられる。「文政の大火」の前年の『文政11年(1829年)分間江戸大絵図・栖原屋茂兵衛版にも同じ場所に中屋敷の表示をつけて、紀伊国橋ともども記載されて』おり、『寛永江戸図では海であった場所が』、『この分間江戸大絵図では武家屋敷地となってい』る。『しかしこの屋敷も、この翌年、神田佐久町からの火事で類焼失してしま』うとあるのである。これこそが、本編で語られる焼け落ちた「紀州蔵屋敷」であることが判明するのである。

 而して、そこに示された地図に従うと、この「文政の大火」で焼失した蔵屋敷があった場所は、中央区役所の北西の銀座二丁目の角辺りであり、南南東六百メートル圏内に築地本願寺があることが判るのである。先の「江戸切絵図」の本願寺左上方に「板倉周防守」の邸があるが、その上にある「二丁目」が「木挽町」のそれである。ここが本篇の舞台だったのであり、「文政の大火」の時でも、この辺りまで、海が、運河を広くした形で、深く貫入していたのである。

「吾媳《わがよめ》」馬琴の嫡男興継の嫁の土岐村 路(ときむら みち 文化三(一八〇六)年~安政五(一八五八)年)。後年、曲亭馬琴の筆記助手を務めたことでとみに知られる。当該ウィキによれば、『紀州藩』(☜)『家老三浦長門守の医師・土岐村元立(げんりゅう)の次女として神田佐久間町』(☜:「文政の大火」の出火元)『に生まれる。はじめ』、『鉄と名づけられ、手習い、三絃を学ぶが』、『三絃を好まず』、『舞踊を学ぶ。姉とともに』摂津国尼崎藩第五代藩主『松平忠誨』(ただのり)『邸に仕える。その後』、『江戸城に勤め』、二十一『歳で父の許にあり、文政』十年、二十二『歳で曲亭馬琴の嫡子滝沢宗伯興継に嫁し、みちと改名する。嫡男太郎興邦のほか』、『二女を儲け』たが、天保六(一八三五)年に宗伯は亡くなってしまう。翌』『年』、『神田信濃町で馬琴夫婦と同居す』るようになり、天保一〇(一八三九)年『前後より』、『馬琴の眼疾が進み』、『遂に』失明『に至るが、路は』、『その口述筆記を行い』、『時に琴童の名で代作も行』った。但し、馬琴の妻会田氏の娘「お百」が彼女に嫉妬し、なかなかな修羅場であったらしい。

「鑑札」「八町堀なる」「某候」(=大名)の屋敷内に入ることを許されている許可証。]

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