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2022/10/05

鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 中卷「一 神明利生之事 附 御罰之事」

 

[やぶちゃん注:底本は、所持する明治四四(一九一一)年冨山房刊の「名著文庫」の「巻四十四」の、饗庭篁村校訂になる「因果物語」(平仮名本底本であるが、仮名は平仮名表記となっている)を使用した。なお、私の底本は劣化がひどく、しかも総ルビが禍いして、OCRによる読み込みが困難なため、タイピングになるので、時間がかかることを断っておく。なお、所持する一九八九年刊岩波文庫の高田衛編「江戸怪談集(中)」には、この「一」は収録していない。

 なお、他に私の所持品と全く同じものが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらにあり、また、「愛知芸術文化センター愛知県図書館」公式サイト内の「貴重和本ライブラリー」のこちらで、初版板本(一括PDF)が視認出来る。後者は読みなどの不審箇所を校合する。

 本文は饗庭篁村の解題(ルビ無し)を除き、総ルビであるが、難読と判断したもの、読みが振れるもののみに限った。踊り字「〱」「ぐ」は正字化した。適宜、オリジナルに注を附す。]

 

因果物語中卷

 

    神明利生之(しんめいりしやうの)事

     御罰之(ごばつの)事

 木曾の福島に、伊勢の御利生を蒙(かうむ)りたる者あり。

 委しく所謂(いはれ[やぶちゃん注:二字への読み、])を聞くに、奧州より伊勢參(いせまゐり)の者、宿(やど)を借(か)る。

 亭主、俄(にはか)に、信心、發(おこ)りて思ふやう、

『奧州の果(はて)よりさへ、參宮申す人あるに、我等、近國に居(ゐ)て參らざる事、無道心なり。』

とて、頓(やが)て參宮す。

 歸つて、程なく、総領の子、死す。

 人皆(ひとみな)、

「伊勢の御罰。」

と云ひあへり。

 彼(か)の者、

『さりとては、信心堅固にて、參宮申すなり。此子(このこ)、時節(じせつ)たるべし。』

と思ひ、少しも、氣に掛けず。

 次の年、參宮すれば、二番子(ばんこ)、死す。

 人々、猶、

「必定(ひつぢやう)、御罰なり。」

と云ふ。

 彼の者、

「何と有りとも、御罰を得べからず。信心、慥(たしか)なり。」

とて、三年、參宮するに、下向(げかう)して、廿日程過(すぎ)て、三番子、死す。

三人持(もち)たる子(こ)、皆、死して、力(ちから)なく居(ゐ)ける處に、一兩日(りやうじつ)過(すぎ)て、

「三人の子、盜人(ぬすびと)なり。二人は死して、弟(おとゝ)、一人、あり。」

と、訴人(そにん)、出で、召取(めしと)りに來(きた)るに、一兩日(りやうにち)以前に死して、一人も、なし。」

とて、父も大難(だいなん)を遁(のが)れたり、となり。

 寬永年中の事なり。

[やぶちゃん注:「木曾の福島」長野県木曽郡木曽町福島。奥州とあるから、靑森・山形・秋田の御仁で、中山道を途中から南下したものか。

「寬永年中」一六二四年から一六四四年まで。]

 

○卯の三月、江戶新石町(しんこくちやう)に、或人の子守の女(をんな)、伊勢へぬけ參りを企てたり。

 主人、いかり、

「子を捨てゝ、參る事、あらんや。」

とて、縛りける。

 然れども、

「兎角、立(たて)たる願(ねがひ)あり。一度(ど)は參るべし。」

と云うて、さわぐ氣色、なし。

 さる程に、繩を解(と)きければ、頓(やが)て、ぬけて、參宮するなり。

 然(しか)るに、三日目に、彼(か)の子、火(ひ)のはたに居(ゐ)たるを、兄、

「ひし。」

と、つき倒しけるに、則ち、火に入りて、死にけり。

 諸人(しよにん)、

「伊勢の御罰(おんばつ)を蒙(かうむ)りたり。」

と云へりと、其近所の、有閑(うかん)、物語なり。

[やぶちゃん注:「ぬけ參り」「拔け參り」は、親・主人・村役人の許可なしに伊勢参りに行くことを言い、「お陰(かげ)参り」と関連して記されることが多い。「お陰参り」は、「天から、伊勢神宮のお祓いが下った。」ということが各地に噂され、突如、大群衆が伊勢参りに押しかけた現象を指す。宝永(一七〇四年~一七一一年)、明和(一七六四年~一七七二年)、文政(一八一八年~一八三〇年)など、概ね六十年ごとに、この騒ぎがあったという(但し、本書は寛文元(一六六一)年刊であるから、この「お陰参り」の流行より、はるか以前である)。これらの「お陰参り」を「抜け参り」と呼ぶこともあり、参加者の中には「抜け参り」の者も混じっていたが、全体の数からみれば、少数であった。「抜け参り」の者には、道中、どこでも、金を貸してくれた。「後で、借りた金を返済しなければ、お参りした効果がなくなる」とも言われていた。若者組の行事となった所もあり、三河国西加茂郡挙母(ころも)町(愛知県豊田市)の例をあげると、毎年十二、三歳から十五、六歳の青年男女が、後見人を頼んで「伊勢参り」をした。皆、家には告げずに出かけ、費用は、後見人が、その一切を立て替えておく。子供たちは普段着のまま出かけたという。やがて、家々でも「抜け参り」とわかるので、帰郷の際迎えに出て、神社で解散した。後見人の立て替えは、その後で清算したという(主文は小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「新石町」千代田区鍛冶町二丁目・内神田三丁目。この神田駅を中心とした南北部分既注の「石町」はこの町が出来たため、「本石町」(ほんこおくちょう)と改称し、「石町」の独立町名は消滅した。

「伊勢の御罰を蒙」ったと名指すのは、言わずもがな、その子守女の伊勢参りを阻んだ亭主のことである。

「有閑」働くことも必要がない、小金持ちの暇人。]

 

○大和國に、五百石取(こくどり)の代官衆(だいかんしゆ)、門を並べて、兩人(りやうにん)あり。一人(にん)の代官衆、或時、

「百姓を成敗(せいばい)せん。」

と云うて、引き出(いだ)す處に、門口(かどぐち)にて、伊勢の御師(おし)、來合(きあ)ひ、

「是(これ)、大神宮へ進(しん)ぜらるべし。」

と、しきりに貰ふ間、力(ちから)およばず、

「太神宮へ奉る。」

と云うて助け置き、御師、歸りて後、終(つひ)に、成放す。

 然るに、次の日より、彼(か)の代官、食(めし)を喰(く)はんとするに、汁(しる)にも、食(めし)にも、皆、糞(ふん)、有り。

 物を呑(のま)んとすれば、茶にも、水にも、皆、糞、有るゆゑ、終に飮喰(のみくら)ふこと、ならずして、餓死せられけり。

 是(これ)に依(よつ)て、隣(となり)の代官の子息、是を見、恐れて、父の家を續(つ)がず、出家するなり。

 先年、三州、石の平(たひら)へ來り、右の樣子、物語りなり。

 後には、律僧になり、不順坊(ふじゆんばう)と云ふ。又、後、禪門に入りて、江州高野(たかの)永源寺に住せられたりと云ふなり。

[やぶちゃん注:「御師(おし)」当初は、平安末期以降、特定の信者と師檀関係を結んで、それらの人々のために、巻数(かんじゅ/かんず:僧が願主の依頼で読誦(どくじゅ)した経文・陀羅尼などの題目・巻数・度数などを記した文書又は目録。木の枝などにつけて願主に送る。神道にも採り入れられ、祈禱師は中臣祓(なかとみのはらえ)を読んだ度数を記し、願主に送った)・守札等を配付するなどし、また自らも祈禱をなして、その代償として米銭の寄進を得た神官或いは社僧を指した。中世では、石清水八幡宮・熊野社・賀茂社等のものが著名で、熊野御師としては、先達山伏や時宗僧侶がこれにあたった。そして、次第に、神職や役僧の下で働く半俗の者たちが、遠隔地からの信者のために宿泊施設を兼業したり、先達を介しながら、地方の信者を組織的に吸収するような宗教集団的斡旋職へと転じ、特に神社信仰の普及を促した。近世では、伊勢大神宮の信仰が広く盛んであった(ここまでは小学館「日本大百科全書」の主文を参考に、一部をオリジナルに書き換えてある)。特に、伊勢神宮の場合は「御師(おし)」と、他の御師(おんし)と区別して呼称された

「三州、石の平」愛知県豊田市綾渡町石ノ平(あやどちょういしのたいら)。かなりの山間部であるが、ここにある平勝寺は、曹洞宗の古刹で、かっては天台宗の寺院として栄えた。

「不順坊」不詳。しかし、以下の永源寺の住持となったとすれば、相応の名僧とは思われる。

「江州高野永源寺」滋賀県東近江市永源寺高野町(えいげんじたかのちょう)にある臨済宗永源寺派大本山である瑞石山(ずいせきざん)永源寺。]

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