鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 上卷「十一 女生靈、夫に怨を作す事」
[やぶちゃん注:底本は、所持する明治四四(一九一一)年冨山房刊の「名著文庫」の「巻四十四」の、饗庭篁村校訂になる「因果物語」(平仮名本底本であるが、仮名は平仮名表記となっている)を使用した。なお、私の底本は劣化がひどく、しかも総ルビが禍いして、OCRによる読み込みが困難なため、タイピングになるので、時間がかかることを断っておく。但し、既に述べたように、所持する一九八九年刊岩波文庫の高田衛編「江戸怪談集(中)」に抜粋版で部分的に載っているので、今回から、その本文をOCRで取り込み、加工データとして一部で使用させて戴く。そちらにある(底本は東洋文庫岩崎文庫本)挿絵もその都度、引用元として示す。注も参考にする。
なお、他に私の所持品と全く同じものが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらにあり、また、「愛知芸術文化センター愛知県図書館」公式サイト内の「貴重和本ライブラリー」のこちらで、初版板本(一括PDF)が視認出来る。後者は読みなどの不審箇所を校合する。
本文は饗庭篁村の解題(ルビ無し)を除き、総ルビであるが、難読と判断したもの、読みが振れるもののみに限った。踊り字「〱」「ぐ」は正字化した。適宜、オリジナルに注を附す。]
十一 女(をんな)生靈、夫に怨(あだ)を作(な)す事
細川殿、國替(くにがへ)の時、高橋甚太夫と云ふ、弓の足輕、女房を伴れて、豐前より肥後の國へ行き、一兩年過ぎて、
「女房を去るべき。」
と云ふ。
女房、聞きて、
「其儀ならば、小倉(こくら)へ送り給へ。」
と云ふ。
「尤もなり。」
とて、一日、路(ぢ)伴れ行き、途中に捨てゝ、男は、夜逃げにして、歸る。
女房、悲(かなし)むを、亭主、憐れみ、其處(そのところ)にて、似合(にあひ)の男に仕付(しつ)けたり。
其の後(のち)、甚太夫、別の女房を呼びければ、前の女房、來りて、首をしめ痛めけるゆゑ、女房、置く事、叶はず。
終(つひ)に、昔の女房の處へ行きて、樣々、佗言(わびごと)しければ、
「我、今、思ふ樣(やう)なる家に在り付く事、其の方(はう)、手間(てま)をくれたる故、能(よ)き仕合せと成る間、更に遺恨なし。」
と云ふ。
悅び歸つて、女房を呼べば、本(もと)の女房の頭(かしら)、窓より入りて、棟(むなぎ)に乘つて、首をしめける故に、女房を持つ事、叶はず。
終に獨り居(ゐ)るなり。
甚太夫、自ら語るを、聞きたる僧、來たりて語る也。
寬永年中の事なり。
[やぶちゃん注:「細川殿」細川忠利(天正一四(一五八六)年~寛永一八(一六四一)年)で豊前国小倉藩二代藩主・肥後国熊本藩初代藩主。母は明智光秀の娘細川ガラシャ。彼の熊本藩への「國替」は寛永九(一六三二)年であるから、本話柄内時制は、その直後のこととなる。「江戸怪談集(中)」に移封を『元和九年』(一六二三年)とするのは、誤りである。
「高橋甚太夫」不詳だが、忠利は寛永一四(一六三七)年の「島原の乱」にも参陣して武功を挙げており、正三も出家乍ら、反切支丹の立場から「島原の乱」に参戦しており、そこに接点があると言える。
「亭主」甚太夫が夜逃げして夜に泊った宿の亭主。
「仕付けたり」仲人として娶(めあ)わせた。
「首をしめ」次の次の場合も同じだが、絞められたのは、甚太夫自身とするのが、因果譚としては、効果的である。「江戸怪談集(中)」でも、後の方に注して『夫の首を。』と注されてある。
「手間」「いとま・ひま」で、ここは「縁切り」を指す。]
○九左衞門と云ふ浪人、筑後の國に女房を置き、
「三年、待ち給へ。若(も)し三年過(す)ぎば、何方(いづかた)へも有り付くべし。」
と云ふて、肥後の國へ來り。
身上(しんしやう)有り付き兼(かね)、爲方無(せんかたな)く、醫者に成り、玄淸(げんせい)と名を付けて、別の女房を求めけり。
或時、故鄕(こきやう)の女房の事を思ひ出(いだ)し、
『何とかあらん、此方(このはう)にて女房持ちたると聞かば、定めて恨むべし。』
と思ひ、折節、夏の事なるに、竹連子(たけれんじ)に足を蹈上(ふみあ)げて、凉(すゞ)み、表を見れば、故鄕の女房、來りて、立居(たちゐ)たり。
玄淸、思ふ樣(やう)、
『是は。我(わが)思ひ出(いだ)したる心なるべし。』
と、起きて見れば、何も、なし。
『又は、狐狸(きつねたぬき)の態(わざ)なるべきか。』
と思ひ、脇差(わきざし)を取りて持ちける處に、本(もと)の女房、
「つるつる」
と來(きた)ると見えて、拔打(ぬきうち)に切りければ、窓竹(まどだけ)を切り折る。
彼(か)の女房、玄淸が足の大指(おほゆび)に喰付(くひつき)て、齒跡(はあと)二つあり。
今の女房、内より、太刀音(たちおと)を聞きて走り出で、
「何事ぞ。」
と問へば、玄淸、
「たわめにて、切りたり。」
と云ふ。
さて、二つの瘡(きず)、何と療治すれども、癒えず。
三年、苦痛して、終に死にけり。
玄淸を引廻(ひきまは)したる平野角太夫、語るなり。
肥後の守、身體(しんたい)果てゝ後(のち)の事なり。
[やぶちゃん注:「竹連子」竹で作った窓の格子。
「たわめ」「江戸怪談集(中)」では、『「妖女(たわめ)」。』と注する。小学館「日本国語大辞典」を引くと、「たわめのこ」(歴史的仮名遣「たはめのこ」)として見出しし、『女をののしっていう語』として、「日本書紀」を引く。「変な女」の意としても、「切りたり」は尋常ではなく、まさに漢語表記の人間の女にあらざる「妖女」を言上げしてしまった結果として、玄清は命を落としてしまったのではないか、と私は思う。
「引廻したる」医師として贔屓にし、面倒を見てやった。
「平野角太夫」サイト「肥後細川藩拾遺」の「新・肥後細川藩侍帳【ほ】の部」の、本庄太兵衛(多十郎・彦右衛門)の条に、『四天流・剣術、居合師範』で、『平野角太夫門弟』とあるので、この師の先祖かと思われる。
「肥後の守」前条注に出した細川忠利(天正一四(一五八六)年~寛永一八(一六四一)。「江戸怪談集(中)」では、ここも没年を『元和十八年』と元号を誤っている。]
○江州多賀の町の、さる女人(によにん)、物洗ふ次(つい)で、不動院の小姓を見て、戲(たはむ)れ言(ごと)を云ふ。
小姓、耻(はづ)かしく思ひ、迯去(にげさ)ること、度々なり。
或時、彼(か)の女、小姓を見て、追ひければ、小姓、迯行くに、屋敷迄追ひ付け、髮を切り、印籠・巾着(きんちやく)迄、切(きり)て行く。
是を見て、寺より、女房の夫の方(かた)へ使(つかひ)を立(た)て、取りたる品々を云うて遣(つか)はすに、彼の女は、煩(わづら)ひ伏して居(ゐ)たり。
男、女房に尋(たづ)ねければ、
「夢の如く、覺えたり。印籠は、雪隱(せついん)の垣(かき)に掛け、髮は部屋の棚に置くと、覺えたり。」
と云ふ。
即ち、尋ね見れば、皆、有り。
彼(か)の女房、頓(やが)て死す、となり。
[やぶちゃん注:「江州多賀の町」滋賀県犬上(いぬかみ)郡多賀町(たがちょう)。
「不動院」高野山真言宗清涼山不動院(敏満寺)。本尊の不動明王は千四百年前の飛鳥時代の造立とされる。何だか皮肉だが、同寺公式サイトを見ると、同寺は愛染明王が四体祀られてあり、『愛染明王というと恋愛の仏さまで、弓と矢を持たれており、特に若い女性には圧倒的な人気があります』とある。この女人は夫がいたから、その罰が下ったということか。
「小姓」ここでは稚児(ちご)に同じ。寺院で住職に仕える役。多くは少年であった。
「或時、彼(か)の女、小姓を見て、追ひければ、……」以下は、生霊現象である。]
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