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« 曲亭馬琴「兎園小説余禄」 己丑七赤小識(その1) | トップページ | 曲亭馬琴「兎園小説余禄」 己丑七赤小識(その3) »

2022/10/20

曲亭馬琴「兎園小説余禄」 己丑七赤小識(その2)

 

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちらから載る正字正仮名版を用いる。本パートはここから(右ページ上段五行目の改行部から)。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。

 句読点は自由に変更・追加し、記号も挿入し、一部に《 》で推定で歴史的仮名遣の読みを附し、本篇は長いので、段落を成形し、分割した。

 なお、(その1)の冒頭に配した私の注を、必ず、参照されたい。]

 

 按ずるに、この年、太歲己丑《たいさいつちのとうし》は、九紫《きうし》、中宮《ちゆうぐう》に入れり。九紫は、南方、火《くわ》を掌る。この年の月宿春三月は、三碧《さんぺき》、中宮に入れり。三碧は、東方、木《もく》をつかさどる。されば、月宿の三碧木、年宿の九紫火に入りぬ。

[やぶちゃん注:「太歲」ここでは単に以下の干支が「年」(とし)を指すことを表わすための冠字。本来は、古代中国の天文暦学に於いて、現在の「木星」の鏡像となる仮想の惑星名を指した。その木星は、十二年の周期で巡行すると考えられたことから、十二支の運行と関連して考えられるようになり、「太歳〇〇」の形で、後に示す干支によって歳=年を記す暦法が行なわれるようになったのである。

「九紫、中宮に入れり」私は一切の占いに興味がないため、九星術について判りたいとも思わないので、注する気があまり起らない。幸い、札幌市西区にある西野神社の公式サイト内のこちらに説明されてあり、また、占いサイト「ウラコレ」の「星気学」にも図を用いて、ここに出る「中宮」なども説明されてあるので、そちらを参照されたいが、小学館「日本国語大辞典」によれば、「九紫」は「九紫火星」(きゅうしかせい)で、『運勢判断でいう九星の一つ。南を本位とし、五行では火に、八卦』『では離(り)に属する』とある。後者リンク先によれば、『方位版はその時々によって配置が変わ』る『が、基本的な配列は五黄土星(ごおうどせい)が中心である「後天方位盤」というもので』あり、その盤の『中心を「中宮」と言い、ここにどの星が配置されるか』(移動してくるか)『により』、『方位や運勢を占うことができ』るとある。

「月宿春三月」以上のような私にはどこで切れて、どう読んで、何を言っているのか判らない。調べたが、判らない。悪しからず。取り敢えず「げつしゆく/はる/さんがつ」と読んでおく。ただ、以下の「三碧」というのは、小学館「大辞泉」に『九星の一。星では木星、方角では東。』とあるからして、これは年単位で「三碧木星」、月単位で「九紫火星」で、七星術では、既に年としては、火星が中宮に入っており、この春三月には(その月の単位の方が「月宿」という表現であるものか)、木星が中宮に入る、ということを指しているらしい。]

 こゝをもて、江戶の中央、みな、燒けたり。

[やぶちゃん注:五行思想に於いては、「木生火」(もくしょうか)で「相生」(そうしょう:順送りに相手を生み出して行く「陽」の関係を示す)であり、「木は燃えて火を生む」それが、中宮に入っているから、「中宮」のミミクリーで江戸の「中央」が灰燼に帰したのだ、と馬琴は言っているようである。]

 只、これのみにあらず、この春、三月廿一日、乙卯《きのとう》なり。乙は、丙、火《くわ》を生ず。卯も亦、木《もく》に屬す。

[やぶちゃん注:吉川弘文館随筆大成版では、最後の「木」を「本」としているが、底本に従う。五行思想では十干・十二支を配置するに、「木」には「甲・」、「寅・・辰」が配されあるからである。この重合を、陰陽説では「比和」(ひわ)と呼び、これは、「同じ気が重なると、その気は盛んになり、その結果が良い場合には、ますます良く、悪い場合にはますます悪くなる。」とされるのである。しかも、「乙」の次に従う「丙」は「火」に属するのである(ウィキの「五行思想」を参照した)。]

 且、この日の巳の時は、五不遇時《ごふぐうじ》に値《あた》れり。失火は四半時《よつはんどき》なれば、なほ、巳の終り也。乙卯の納音《なついん》は「水」なれども、大溪水《だいけいすい》なれば、火を制するに、力、なし。又、この日は閉也。閉は勾陳《こうちん》也。加ㇾ旃《しかのみならず》、月宿・天吏・致死・血支の惡殺に値れり。吉星《きつせい》は官日・嬰安・五合・鳴吠對の四星のみ。星殺《せいさつ》方位の吉凶も偶然にあらず。怕《おそ》るべし。

[やぶちゃん注:「巳の時」本大火の出荷推定時刻。午前十一時頃。

「五不遇時」これは五行説に基づいて形成された風水学で、日の十干と、時の十二支が、相克となることを指し(日の十干と時の十干とする記載もあったが、十干を時刻に当てるというのは不学にして知らない)、この時間帯に何らか行動が起こされると、そこに不和の大凶となる状態が生ずるとされる(諸風水学サイトを参考にした)。而して、この日は「乙」で、その五不遇時は、確かに巳時(みどき)で、午前九時から十一時に相当する。

 底本でもここは改行されてある。

「四半時」定時法で午前十一時。

「納音」現代仮名遣「なっちん」。「のういん(なふいん)」の連声(れんじょう)。甲子から癸亥にいたる六十干支を、五行の孰れかに帰属させるために、五音(ごいん:伝統的な中国音韻学に於ける声母(頭子音(とうしいん)))と音楽の十二律呂(じゅうにりつろ)とを組み合わせた六十律を当て嵌め、それによって、各干支の五行を定める法。基本的には宮(土)・商(金)・角(木)・徴(火)・羽(水)の五音五行によって五分するが、さらに甲子・乙丑は海中金、丙寅・丁卯は爐中火というような名称をつけ、三十種に細別する。運勢判断に用いられる(小学館「日本国語大辞典」に拠った)。「乙卯の納音」は確かに「大溪水」であるが、ネットでは人柄のことばかりで、「火を制するに、力、なし」に相当する内容は見当たらなかった。但し、そのある記載に、大河のような総てを呑み込む度量はない、と書かれていたから、「火(か)」には負けるらしい。

「閉」サイト「占いのお店 アプラボ」の「閉」では、「とづ」と訓読みしており、『金銭出納、建墓は吉。棟上げ、結婚、事始め、諸事一般は凶。』とあった。

「勾陳」「土」に属し、時では「土用」、方角では「中央」に対応する不動性を司る神で、土地・建物・愚鈍さなどを現わす(「コトバンク」の「占い学校 アカデメイア・カレッジ」の「占い用語集」に拠った記載を参照した)。

「月宿・天吏・致死・血支」「・」は私が打った。中文サイトの占いサイトの「凶神にして忌むべきもの」という意味のタイトルの中に、それぞれ、ばらばらにあった。調べる気になりません。悪しからず。

「惡殺」非常な凶を指す語らしい。「ココナラブログ」の昭晴 Akiharu氏の「【四柱推命神殺】自分の命式にある凶殺の影響力」の中に、四回、「悪殺」の語が現われる。但し、「殺」自体は「突発的に現れる運気」を言うフラットなものであるようだ。その昔、流行ったねぇ、天中殺とか……。

「官日嬰安五合鳴吠對」「・」は私があてずっぽで打った。「四星」とする内、「HITOSHIブログ!」の「擇日日家吉神 ―象意解説①―」の記事に、最後の「鳴吠對」があったことと、「J-STAGE」の黄智暉氏の論文「馬琴の吉凶観―『後の為乃記』を中心に―」(『近世文藝』八十五巻・二〇〇七発行・PDFでダウン・ロード可能)の47ページに、「後の為乃記」の引用があり、そこに黄氏が中黒を打って、『吉神は月徳合・五合・明堂・鳴吠対のみ』たるのを見出したからである。それぞれの星は調べる気にならない。悪しからず。それにしても……馬琴は大変な占い好きだったのだねぇ……六十五になる私は……神社の「おみくじ」さえも、今まで一度も引いたことがない輩なんでねぇ……

「星殺」星宿神のそれらしいが、もう、結構です、すみません。

 以下は底本でも改行している。]

 又、按ずるに、凡《およそ》、大火に及べるときは、火氣《ひのき》、地中に徹《とほ》るものなれば、井の水の、常のごとくには、涌出《わきいで》ず。河水も、多く、涸れて、潮も常のごとくにさし來《きた》らざるもの也。

 この日、八町堀なる桑名候に給事の女房は、役人、はからひて、門前より、船に乘せて、立退《たちのか》せんとしつるに、その船、ゆかず。とかくする程に、むかひ河岸《かはぎし》より、火熖《くわえん》、舶中にふりかゝりて、防ぐによしなく、乘船の男女《なんによ》、會《あはせて》、多く、怪我ありし、と聞えたり。

[やぶちゃん注:「八町堀なる桑名候」伊勢国桑名藩。当時の藩主は松平定永(さだなが)で松平久松家初代藩主。同藩の江戸上屋敷は、現在の八重洲通りの貫通するこの附近(グーグル・マップ・データ。以下、本篇で指示のないものは同じ)にあった。「江戸マップβ版」の江戸切絵図の「築地八町堀日本橋南繪圖」の中央やや右手に「松平越中守」とあるのが、それである。屋敷の西側を楓川(かえでがわ)が流れているのが確認出来る(現在は干拓されて存在しない)。]

 予が少《わか》かりし時、一老翁の言に、

「近火《ちかび》の折《をり》は、主人たるもの、はやく、臺所なる瓶《びん》の水、家のほとりなる溷(どぶ)にも、手をさし入れて、試るべし。その甁の水、溷の水、あたゝかならば、火事は、なほ、遠し、といふとも、はや、その火氣の、地中に入り來《きたり》ぬる也。さるときは、十に八、九は、脫《のが》れがたしと、知るべし。縱《たとひ》、火事は近くとも、瓶の水も、溷の水も、冷やかなるは、十に八、九は、燬《くゐ》を免るゝものぞ。」

と、いひにき。

[やぶちゃん注:「燬」現代仮名遣の音で「キ」。「焼かるる」の意。「やかるる」と訓じた方が古老の言葉としては自然かとも思う。]

 この儀を思ひ合するに、「己丑の大火」の日、井の水も、常のまゝならず、河の水も涸れて、潮水さへ匱《とぼ》しかりしこと、亦、偶然にあらずかし。

 又、按ずるに、「薪のけぶり」にしるされし、火災にあへる人々のうへなどは、或は、傳聞により、或は、見聞のまゝを載《のせ》たれば、『いかにぞや』と思ふも、まじれり。こゝには、親しく、その人に聞し事、或は、その人の所親《しよしん》の、予が爲にいへりしを、ふたつ、みつ、とり出《いで》て、しるすもの、左の如し。

[やぶちゃん注:「所親」親しい間柄或いは遠い親戚筋を指す語。

 以下、底本でも改行。]

一、元飯田町《もといひだまち》なる木具や惣兵衞といふもの、三月廿一日の大火の折、その所親、三十間堀なる親族何がしがり、走りゆきて、家財をとり出し、つかはしなど、しけるに、その家のほとりに、土藏、三棟《みむね》ありて、川に臨めり。こは、あるじの親方の土藏にて、あるじは、これを守るもの也ければ、家財は、この土藏を片どりて、みな、川端へ出《いだ》しにけり。かゝりし程に、その處も亦、風下になりて、火の、やうやう、近づき來にければ、

「こゝに家財は設《まうけ》がたかり。いづこにまれ、風脇《かぜわき》へ移せよ。」

といふを、あるじは、聽かで、

「この處は藏を盾《たて》にして、前は川也。何事のあるべき。」

とて、さわぎたる氣色、なければ、

「さて、おきつ。」

とて、する程に、いよいよ、火は、もえ來にければ、あるじも、今さら、おどろき、怕れて、

「かくては、こゝに凌ぎがたし。はやく、風わきへ、家財を移し給はれ。」

といふ。惣兵衞、

「こゝろえたり。」

とて、數町あなたへ、家財を移すこと、ふたゝび、既に、三たびに及びし折、件の土藏に、火の入りて、火勢、甚しくなりしかば、とりもて、退《の》かんとしぬる葛籠《つづら》を、そがまゝ、火中へ、うち棄て、走り去《さ》らまくする程に、火は、はや、川むかひへも、移りたり。むかひは、薪《たきぎ》、多く積たる處なるに、その薪に、火のうつりしかば、いづち、ゆくべき處も、あらず。已むことをえず、川へ飛入りたるに、折から、潮、そこりにて、水、涸れたれば、火を凌ぐに足らず、只、泥水の中へ、身をまろばしつゝ、

「焦《こが》されじ。」

と、したりとぞ。かゝる處に、誰とはしらず、五、六人、又、この川へ逃入《にげい》りて、どろ水を、身にそゝぐもの、ありければ、惣兵衞は、わがかたはらに、人の來ぬるを見かへりて、

「聊《いささか》こゝろづよく覺し。」

とぞ。この折、又、三十間堀の橋の下にも、五、六人、居《ゐ》たり。そを、こなたより見て、

「只今、あの橋、燒落《やけおち》なば、下《した》なる人は、必ず、死《しな》ん。やよ、こなたへ、來よかし。」

と、聲を限りに呼《よび》かくれども、烈しき風の音と、熚𤏋《ひはつ》たる猛火《まうくわ》の、物をやく、ひゞきに、まぎれて、得《え》聞えざりけん、なほ、その處にありける程に、果して、橋は、燒落て、その火、下なる人を打《うち》しかば、矢庭に死するもの、二人、ありけり。殘れる四人は泥の中に、くゞり入りなどしつゝ、からくして、死《しな》ざりけり。姑《しばら》くして、少し、潮のさし來にければ、川中なる人々、これに、ちからをえて、身に水をそゝぎつゝ、十死の中に一生をなん、得たりける。

 扨、惣兵衞は、そこらの火のやけ鎭《しづま》りて後《のち》に、川より出《いで》て、その夜《よ》、飯田町なる宿所にかへりしと云【己丑四月朔《ついたち》、惣兵衞と同町のもの、予が爲に、いひしまゝを、しるすものなり。】

[やぶちゃん注:「元飯田町」現在の千代田区富士見一丁目及び九段北一丁目

「木具や」「木具屋」「木具」は恐らくは足付きの折敷(おしき:歴史的仮名遣は「をしき」)である「足打折敷(あしうちおしき)」「木具膳(きぐぜん)」を作る職人である。

「三十間堀」現在の東京都中央区銀座通と昭和通の間を並行に流れていた三十間堀(現在は埋め立てられて現存しない)の西河岸にあった町名。北から南に八丁目まであった。「江戸マップβ版」の江戸切絵図の「築地八町堀日本橋南繪圖」の左上方(右が北)に確認出来る。

「走り去らまくする」上代語の助動詞「む」のク語法を転じた「まくほし」の持つ希望・遺志の意を示したものであろう。

「そこり」「底り」で名詞。潮が引いて海の底が出ること。潮干(しおひ)。干潮。

「熚𤏋」盛んに火が燃え、しかも、それが、跳ね、飛び散ること。

「得」不可能の呼応の副詞「え」の当て字。

「己丑四月朔」大火出火の九日後。]

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