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2022/10/21

曲亭馬琴「兎園小説余禄」 己丑七赤小識(その3)

 

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちらから載る正字正仮名版を用いる。本パートはここの右ページ頭から。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。

 句読点は自由に変更・追加し、記号も挿入し、一部に《 》で推定で歴史的仮名遣の読みを附し、本篇は長いので、段落を成形し、分割した。

 なお、(その1)の冒頭に配した私の注を、必ず、参照されたい。]

 

一、又、元飯田町中坂下なる湯屋《ゆうや》惣兵衞が姪【名は梅。】、そが、おさなかりし折、予も識れるものにて、辨慶橋のほとりなる疊や何がしの妻になりたり。此梅がいふよしを聞しに、かの日【三月廿一日。】、

「神田に火事あり。」

と聞《きき》て、風の、いと烈しければ、

「先づ、晝飯をたうべてこそ、家財を、とり片づけん。」

とて、あるじをはじめ、家の内のものども、飯をたうべてありしに、

「はや、一軒さきなる家に、火の、飛《とび》うつりたり。」

といふに、皆、さわぎ立《だ》つ程に、火は、急にして、物を出《いだ》すいとまもあらず、あるじは、錢箱ひとつ、引提《ひつさげ》て、妻もろ共に、逃出《にげ》けり。

 扨《さて》、京橋まで來にけるに、此わたりも、風下なれば、

「本所なる所親《しよしん》がり、いなん。」

とて、引《ひき》かへすに、京橋を渡る折柄《をりから》、人に推しもまれて、苦しさに堪《たへ》ざれば、橋の上より、錢箱を、川へ、

「はた」

と投棄《なげす》て、からかくして、兩國橋まで來にけるに、逃《にげ》まどふもろ人《びと》、幾千萬にやありけん、さしも廣大なる兩國橋は、人に、人、かさなりて、進退、自由ならざるに、火熖《くわえん》の、そびらの方より、降《ふり》かゝりて、頭の上に落《おち》かゝるもあれば、その艱苦《かんく》、譬《たとへ》るに、物も、あらず。このとき、心に思ふやう、

『錢・財・衣裳も、何にせん、只、この橋を恙なく渡り果《はて》なば、生涯の幸ひならん。』

と念ぜし、とぞ。

 さて、又、京橋にて棄《すて》たる錢箱には、あるじの名も、町名も、書《かき》つけてありければ、二、三日を經て、京橋なる町役人より、件《くだん》の錢箱を、とりあげ置《おき》たるよしを、辨慶橋の町役人に告《つげ》おこしにけり。

 よりて、あるじは、その錢箱を受取にゆきけるに、

「相違あらじと思へども、後々の爲《ため》なれば、家主《やぬし》もろ共に、書札《しよさつ》をしたゝめて、もて來よ。」

と、いはる。

 さばれ、家主のゆくへ、知れざりければ、親類、加印《かいん》の證文を、もてゆきて、件の錢箱を受とりし、といふ。

 是より先、廿二日の宵の程、あるじ夫婦は、

「吾家《わがや》の燒跡を見ん。」

とて、本所より、かへり來にけるに、人ありて、灰を搔起《かきおこ》しつゝ、火鉢・藥鑵《やかん》の類《たぐひ》の燒《やけ》たるを、とるもの、あり。

 あるじ、これを咎《とが》めしに、そのもの、聲をふり立《た》て、

「汝は、是、何ものぞ。吾《わが》燒失《やきうしな》ひし物を取るを、咎るは、賊《ぞく》ならん。近づかば、一打《ひとうち》ぞ。」

と罵りながら、突立《つきたて》たる朸《あふご》を、とり直したる勢ひに、妻はさら也、あるじさへ、怖れて、おめおめと取《とら》せしとぞ。

「『泰平の時だにも、かゝる折には、人をおそれぬ盜兒《たうじ》の多かるに、亂れたる世は、さぞありけん。』と、今さら、思ひあはせし。」

と、いへり。

 此疊やが町内の番人は、彼《かの》大火の折、火の見梯子に登りて、頻りに半鐘を打鳴《うちな》らしてありけるが、只、向ひのみを見て、火の近づき來ぬるを、知らず。扨、ありける程に、火の見の下なる家に、火は、もえ移りて、此やぐら【やぐらといへ共、梯子也。寬政の御改正以後、此やぐらばしご、町々にあり。】を燒く程に、くだることを得ざりけん、燒鎭《やきしづま》りて後《のち》に、人々、これを見しに、件の番人は、燒死したるか、みづから、飛《とび》おちたるにや、膝を折布《をりし》きたるまゝにして、倒れも、えせず、ありけると也。すべて、高きより、飛《とび》たるものが、死するといふとも、倒れず、といふことは、かさねて聞《きき》たることながら、此番人の死ざまにて、その事實を知るに足れり。

[やぶちゃん注:「元飯田町中坂下」現在の東京都千代田区九段北一丁目和洋九段女子中学校・高等学校の「講堂・体育館・プール」の入り口の前に「中坂」の表示板が建っている。ストリートビューのここ。グーグル・マップ・データではここ。従って、「中坂下」は九段北一丁目交差点附近となろう。

「辨慶橋」神田松枝町と岩本町の間を流れる藍染川に架けられていたが(現在のこの附近)、明治に入り、川が下水道工事で埋められたため、後に現在の東京都千代田区紀尾井町と港区元赤坂一丁目の間の弁慶堀上に架け替えられた。「江戸マップβ版」の「江戸切絵図」の「日本橋北之圖」の上部中央左附近の「和泉橋」を南南東に下った、小さな藍染川に架かっている([ 3-097 ])。この橋は、当該ウィキによれば、『江戸城普請に携わった大工の棟梁であった弁慶小左衛門が架けた橋に始まり、彼の名から「弁慶橋」と名付けられたと伝えられる』とあり、現行の「弁慶濠」とは元は関係なかった(というより、移設された橋の名が明治になって濠の名となったように思われる)ことが判る。

「京橋」橋も京橋川も現存しない。東京都中央区京橋のここ「江戸マップβ版」の「江戸切絵図」の「築地八町堀日本橋南之圖」の上部中央の[ 2-131 ]

「兩國橋」ここ

「そびら」「背(そ)平(ひら)」の意で。背中。背後。

「書札」確かに本人であることを証明する家主の記載・署名による証明書きを添えた書付(かきつけ)。

「朸《あふご》」現代仮名遣「おうご」。天秤棒のこと。

「盜兒」泥棒。「兒」は子どもや青年の意味ではなく、接尾語で、「~を成す輩・男」の意。この場合は多分に卑称のニュアンスを持つように私には思われる。

「寬政の御改正」江戸中期に老中松平定信が在任期間中の天明七(一七八七)年(天明九年一月二十五日(グレゴリオ暦一七八九年二月十九日)に寛政に改元)から寛政五(一七九三)年に主導して行われた広範な分野に及んだ幕政改革「寛政の改革」。ここでは、火災の多く、その被害も甚大であった江戸の新しい都市政策の一環の中で行われたもの。但し、平凡社「世界大百科事典」に拠れば、江戸では、火の見『櫓のない町には』、『自身番屋の上に火の見梯子が設けられた。防火策として火の見櫓は画期的なものではあったが,たとえ町方が先に火災を発見しても,定火消の太鼓が鳴らぬかぎり,半鐘を鳴らすことは許されなかったという』とあった。グーグル画像検索「火の見梯子」をリンクさせておく。それを見て戴くと判る通り、現在でも地方には現存している。

「膝を折布きたるまゝにして、倒れも、えせず、ありける」膝を折ってちゃんと正座して上半身を立てて座ったまま、倒れずに、亡くなっていたということであろう。]

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