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2022/10/22

曲亭馬琴「兎園小説余禄」 己丑七赤小識(その8) / 「己丑七赤小識」~了

 

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちらから載る正字正仮名版を用いる。本パートはここの右ページ上段の後ろから三行目から。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。

 句読点は自由に変更・追加し、記号も挿入し、一部に《 》で推定で歴史的仮名遣の読みを附し、本篇は長いので、段落を成形し、分割した。今回は、残りを総て一緒に電子化注した。

 なお、(その1)の冒頭に配した私の注を、必ず、参照されたい。]

 

一、三月廿一日の大火に奇なる事あり。

 本町三丁目【一丁目の方より左り側中ほど。】の賣藥の建看板《たてかんばん》、火中に燬《やかるる》を免れて、聳然《しやうぜん》たり。こは、余も目擊したるに、看板の覆戶《おほひど》はさら也、柱に至るまで、毫も焦《こげ》たる處、なし。この邊《あたり》は、みな、藏造りにて、向ひも、三、四軒、店庫《たなぐら》なればなるべし。さるにても、火粉《ひのこ》は飛散りたらんに、かくの如きは、いと奇也。

[やぶちゃん注:「本町三丁目」現在の新日本橋駅前郵便局前の国道十四号一帯。

「看板の覆戶」ネットで調べても見当たらないが、その高く建てた店看板をさらに覆う格子戸或いは金属の網目戸が付随していたものか。]

 又、和泉橋のあなた南の土手際に、さゝやかなる柿葺屋《こけらぶきや》あり。そのほとりなる茶店は、なごりなく燒《やき》うせて、寸草[やぶちゃん注:吉川弘文館随筆大成版にはママ注記がある。「寸毫」の誤字か。]も殘さゞりしに、此小家のみ、燬を免れたり。こゝは、火元より、第一の火さきにて、風のいと烈しかりければ、火は向ひへ走る勢ひにて、彼《か》家に及ざりしにやあらん。かゝることは、折々なきにあらねば、奇とするに足らねども、本町なる建看板は、見る人每に駭嘆《がいたん》せざるは、なかりき。

[やぶちゃん注:「和泉橋」現在の東京都千代田区を流れる神田川に架かる、「昭和通り」(国道四号)上の橋。左岸(北側)は神田佐久間町一丁目及び神田佐久間河岸(本大火の出火元)、右岸は神田岩本町および岩本町三丁目となる。ここ

 以下、一行空けた。]

 

一、築地なる御救小屋《おすくひごや》は、後に愛宕下《あたごした》へ移されけり。

 是は夜中に、燒亡の幽靈、あらはれて、怪しき事ありて、其處にをるもの、すくなくなりしによりてなり。

 四月中旬、築地の海にて、「河施餓鬼(かはせがき)」ありけり。

 しかるに、件《くだん》の幽靈は、贋物にて、人を驚かして、物を奪ひとらんと欲せし盜賊の所爲なりき。その事、露顯して、盜人は搦捕られたるよし、當時、風聞あり。

 虛實、詳《つまびらか》ならざれども、御救小屋を他所へ移されし事などを思ひ合《あは》するに、虛談には、あらざるべし。

 彼本町なる賣藥の看板の事と、この幽靈の事は、「薪の煙《けぶり》」に漏らされたれば、『後の話柄の爲にも』と思ふばかりに、しるすのみ。

[やぶちゃん注:「御救小屋」(その4)で既出既注だが、幽霊の話が出るので再掲しておく。この「文政の大火」の際、幕府が緊急に設けた避難民の避難所。「国立公文書館」公式サイト内の「天下大変 資料に見る江戸時代の災害」の「32. 文政回禄記」を見られたい。直後に発生した怪談話も載っている。

「愛宕下」現在の港区新橋から西新橋へかけての地域で、愛宕山の東側、東海道と挟まれた低地一帯の名称。大名屋敷が多かった。

「河施餓鬼」主に水死人の霊を弔うために川岸や舟の上で行う施餓鬼供養。私の「小泉八雲 海のほとりにて  (大谷正信訳)」も参考になろう。

「薪の煙」既出既注。「薪」は「たきぎ」か「まき」かは、不明。

 以下一行空けた。追記記事で、底本では全体が一字下げとなっている。]

 

 每年、相摸《さがみ》より、江戶の武家、及《および》、市店《いちみせ》へ、下女奉公に出るもの、八、九百人あり。麹町《かうぢまち》には、「さがみや」と唱へて、それらが手引をなし、且、請人《うけにん》にもなりて、世渡りにするもの、二軒あり。

 しかるに、こたびの火災に、右の下女等《ら》、多く燒死したるをもて、怕《おそ》れて、相摸より出《いづ》る下女、稀になりたり。

 但《ただし》、相摸のみならず、江戶近郊よりも、農戶《のうこ》の娘を、江戶へ召仕《めしつかひ》に出《いだ》すことを、欲せず。

 この故に、己丑の春より、今に至るまで、下女奉公人、まれなり。たまたま、ありても、過分の給金をのぞみ、よろづ己がまゝにして、主《あるじ》を主とも思はず、吾《われ》ごとき、わづかに下女一人を使ふものすら、年中、事をかくまでになりたり。羹《あつもの》に懲《こ》りて韲《なます》を吹く人情、かゝる事、世に多かり。

[やぶちゃん注:江戸の大火での大量死が風聞として伝わり、こうした結果になったと言った感じが表向きはするが、実際には、馬琴の不満は、そうした江戸の辺縁から来る下女の質の悪さの方を、実は、言い添えたかった感が強いな。]

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