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2022/10/25

曲亭馬琴「兎園小説拾遺」 第一 「伊豆州田方郡年川村の山、同郡田代村へ遷りたる圖說」

 

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。昨年二〇二一年八月六日に「兎園小説」の電子化注を始めたが、遂にその最後の一冊に突入した。私としては、今年中にこの「兎園小説」電子化注プロジェクトを終らせたいと考えている。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちら(左ページ下段中央から)から載る正字正仮名版を用いる。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。

 本文の句読点は自由に変更・追加し、記号も挿入し、一部に《 》で推定で歴史的仮名遣の読みを附した。

 なお、「伊豆州田方郡《たがたぐん/たがたのこほり》」は、現在は函南町のみであるが、近世の郡域は非常な広範囲である。当該ウィキを見られたいが、そこの「近代以降の沿革」に江戸時代の知行一覧が表で載り、そこの「旗本領」に標題以下の「年川村」と「田代村」が確認出来る。調べたところ、現在の静岡県の伊豆地方で「年川」と「田代」が接して現存するのは、伊豆市の修善寺の東方の山間部の伊豆市年川(としがは)、及び、その南の大見川を境として接する伊豆市田代(たしろ)である(グーグル・マップ・データ。以下無指示は同じ)。グーグル・マップ・データ航空写真で見ると、現在の年川の南端は「白鳥山」(読み不詳。取り敢えず「しらとりやま」と読んでおく。因みに、この北西で比較的に近い静岡県伊豆の国市神島に柱状節理の異様で知られる同名の「白鳥山(しらとりやま)」があるが、全く別なので注意されたい)というピークが田代に最も近いことは判る。この年川の白鳥山の東には、集落が確認出来る。村落名等は現行の読みを参考にした。]

 

   ○伊豆州田方郡年川村の山、同郡田代村へ

    遷りたる圖說

 文政十一年戊子五月

  堀田攝津守殿え、御屆覺。

私《わたくし》、知行所、豆州田方郡田代村《たしろむら》。隣村、寄合《よりあひ》小堀織部《こぼりおりべ》知行所、同郡、年川村《としがはむら》地内。當三月廿八日、山崩仕《つかまつり》、山下《さんかの》田へ崩落《くずれおち》、岩土《いはつち》を推出《おしいだ》し、村境《むらざかひ》、大見川《おほみがは》より、田代村地内へ動き出、高さ廿五間程の新山《しんざん》、湧出《わきいだし》候上に、田代村、田畑・高木《かうぼく》等、其儘に御座候。依ㇾ之、流水を堰留《せきとめ》候に付、田代村田畑、川瀨に相成《あひなり》、深さ一丈四、五尺、或、八、九尺の場所御座候由。尤《もつとも》、追々、田畑、崩落、川瀨に相成候由。屆出候間、家來、差遣《さしつかは》し見分の上、猶、又、追々、可申上候得共、先《まづ》、此段御屆申上候。以上。

 五月六日        本 多 修 理

[やぶちゃん注:「文政十一年戊子」(つちのえね)「五月」グレゴリオ暦では、五月一日は一八二八年六月十二日。梅雨時である。崩落理由には以上の三通に地震などの記載もないから、降雨による原因が最も有力であろう。

「堀田攝津守」若年寄堀田正敦(ほったまさあつ)。彼は寛政二(一七九〇)年に当時の老中松平定信の引き立てによって若年寄になり、天保一四(一八四三)年まで、実に四十二年もの長期に亙り、在任した。優れた文化人として「寛政の改革」で文教新興策をとり、博物学者(特に鳥類)としても名高い。

「寄合」「旗本寄合席」の正式名称。江戸幕府の三千石以上の上級旗本の無役者及び布衣(ほい)以上(御目見得以上)の退職者(役寄合)の家格をいう。

「小堀織部」不詳。

「廿五間」四十五・五メートル。因みに、グーグル・マップの「白鳥山」ポイント地点は国土地理院図で測定したところ、標高は百三十メートル強であるが、大見川自体が凡そ標高が七十メートルであるから、見かけ上の高さは六十メートル程度である。現行では、白鳥山北側はグーグル・マップ・データ航空写真を見ると、後半に人為的に平たく切り崩され、整地されてしまっているので、本来の「白鳥山」のピークがどこであったかを認めにくいが、「今昔マップ」の戦前の地図のここを見ると、確かに、グーグル・マップのポイントがここから東北に連なる尾根の最初の確かなピークであることが判る。恐らくは、崩落の起こったのは、この東北方百七十一・二メートルのピーク(「今昔マップ」の右の現在の国土地理院図を参照されたい)から南西方向に旧尾根間で発生し、現在の白鳥山が形成されたものと私は推定するものである。

「田代村、田畑・高木等、其儘に御座候。依ㇾ之、流水を堰留候に付、田代村田畑、川瀨に相成、深さ一丈四、五尺」(約四・二四~五・五五メートル)「或、八、九尺」(約二・四二~二・七三メートル)「の場所御座候由。尤《もつとも》、追々、田畑、崩落、川瀨に相成候由」言い方が、何となく、同じことを繰り返していて、意味がよく判らないのは、書いた人物も突発的な想像だにしなかった土地の大きな変容に慌てているためか。この山崩れで、一旦、大見川の流れが堰き止められ、その後、現在の田代地区の北端の大見川が蛇行する箇所が新たに形成されたということかとも思う。]

    同御屆

私、知行所、豆州八ケ村の内、田方郡年川村地内の山、字《あざ》「おそろ」と申《まをす》場所、同郡天城山、大見川より、伊東へ往來の道筋に御座候處、去《いんぬる》亥六月中、右道上《みちうえへ》へ、二百間程、崩掛《くづれかけ》候處、當子三月廿八日晝八時《ひるやつどき》頃、右場所、俄《にはか》に崩出《くづれいだ》し、高さ一町程、奧行二町程、長さ六町程の所、山下《さんか》の田、一面に崩落候。右、道の上より、山下の田畑、幷に、松・杉林等は亡所《ばうしよ》に相成り、右崩落候山土《やまつち》、大見川を堰留、水、湛《たたへ》、村中、麥作《むぎさく》・苗代共、水腐《みづぐされ》仕《つかまつり》候。右、川向《かはむかひ》、本多修理、知行所、同州同郡田代村田面《たおもて》、川瀨に相成申候。右、山中道筋、往來、留《とめ》に相成候に付、最寄《もより》御代官江川太郞左衞門方《かた》へ相屆候上、不取敢一、右往來、相附《あひつけ》罷在候由。尤、人馬、怪我等は無御座候。委細の儀は、家來、差出し、見分吟味の上、可申上候得共、先、此段、御屆申上候。以上。

             小 堀 織 部

[やぶちゃん注:『字《あざ》「おそろ」』現地名や戦前の地図でも見当たらない。

「天城山、大見川より、伊東へ往來の道筋」天城峠天城山自体はそこからもっと東北で、当時、そこから伊東への道筋は踏み分け道しかなかったと思われる)山現在の県道五十九号と同十二号相当。伊東方向は大見川に合流する冷川(ひえがわ)沿いとなり、大見川年川方向には十二号が相当する。

「二百間」三百六十三・六メートル。現在の田代地区北端の大見川蛇行の部分の下流側が、丁度、その長さと一致する。

「晝八時」定時法・不定時法孰れも午後二時頃。

「高さ一町程、奧行二町程、長さ六町程」高さ約百九メートル、奥行き約二百十八メートル、長さ六百五十四メートル半。

「亡所」土地一面が消失したことをいう。

「右、山中道筋、往來、留《とめ》に相成候」戦前の地図を見ても、以上の往還路は、田代側にはなく、大見川右岸の年川側を通っている。

「不取敢、右往來、相附《あひつけ》罷在候由」「聞くところによると、年川村の方で取り敢えずは、仮りの往還路を、急遽、復旧はした、とのことで御座る。」の意であろう。何より幸いだったのは、年川村も田代村も、人馬の損害はなかったという点である。]

伊豆國田方郡田代村において、當三月廿八日【文政十一戊子。】夜、小堀織部【寄合席。】知行所に有ㇾ之候山、同郡本多修理【火消役。】知行所へうつり候略繪圖【圖、省略。】。

右、子七月二日、御用番林肥後守殿へ御屆之寫、但《ただし》、當四月、堀田攝津守殿、御用番に付、相屆候處、猶、又、調之上可申出旨、被仰渡候間、此節、再度及御屆候。

           定火消役

             本 多 修 理

[やぶちゃん注:「本多修理」不詳。

「御用番」幕府の老中・若年寄が、毎月一人ずつ、順番で執務責任に当たることを指す。「月番」とも。

「林肥後守」将軍徳川家斉の寵臣で若年寄であった林肥後守忠英(ただふさ 明和二(一七六五)年~弘化二(一八四五)年)。]

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