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2022/10/23

曲亭馬琴「兎園小説拾遺」 第一 「おなじ頃、京なる一兩人より申來る風聞」(新たに項を起こした前回分の続篇)

 

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。昨年二〇二一年八月六日に「兎園小説」の電子化注を始めたが、遂にその最後の一冊に突入した。私としては、今年中にこの「兎園小説」電子化注プロジェクトを終らせたいと考えている。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちら(左ページ下段冒頭から)から載る正字正仮名版を用いる。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。

 本文の句読点は自由に変更・追加し、記号も挿入し、一部に《 》で推定で歴史的仮名遣の読みを附した。

 なお、本篇は前話「文政十年丁亥閏六月十二日讃岐州阿野郡羽床村復讐之記錄」の新たに項を起こしてある続篇であるので、そちらをまずは読まれたい。そちらで注したことは、繰り返すつもりはないからである。底本では頭に「○」が附されずに行頭から書き出されてあるが、ここは吉川弘文館随筆大成版を参考に三字下げで「○」を添えた。また、当該敵討事件と同じ事件を扱っているものの、こちらは、ソースが異なるため、人物の名前や表記、及び、事件の詳細の一部のシーンに有意な異同があるので、注意されたい。

 

   ○おなじ頃、京なる一兩人より申來る風聞

江州膳所家中平井兄弟敵討之事

 敵《かたき》 硏師辰藏【當亥四十二、三歲。】

右、生國は讃州高松在、阿野(あや)郡羽床下之村(はゆか《しものむら》)の者、十ケ年以前に、其地を出奔いたし、當時、膳所に來り、町々、住宅《すみいへ》いたし、硏師《とぎし》幷に刀・脇指の賣買いたし居候。

     膳所家中

      平井才兵衞實子總領

       平井市郞次【其節、廿六、七歲】

右、才兵衞嫡子にて、家督相續いたし、給人《きふにん》、相勤居《あひつとめをり》候處、故障、有之、其節は致隱居罷在候。

[やぶちゃん注:以下は「隱居被候由に御座候」までが、底本では全体が一字下げ。]

 右故障の譯は、平井才兵衞、馬醫《ばい》の事に委《くはし》く候故、格別に加增有ㇾ之、市郞次も、其跡、相續人の儀候故、爲馬醫の術修行、東都へ罷越、其術、委き方へ、致入門、修行中、同門の人、才器、勝れ候哉《や》、早く、皆、傳《でん》いたし、市郞次は、おくれ候に付、不圖《ふと》、癎症《かんしやう》、差起《さしおこ》り、麁妄《そまう》の事、多く、有之《これあり》。依ㇾ之、隱居被候由に御座候。

[やぶちゃん注:「給人」江戸時代、武家で扶持米を与えて、抱えて置いた平侍(ひらざむらい)。

「麁妄」やることが雑で、出鱈目であること。]

    膳所よりの書狀のうつし。

     水口御家中

      平井才兵衞二男

        竹 内 作 次

      當時改名

        平井外記【當亥廿七歲。】

一、五ケ年已前、平井家斷絕に付、主君水口候へ奉ㇾ願候て、暇《いとま》をとり、弟九市郞と共に敵討に出申候。

     平井才兵衞三男

        平井九市郞【當亥廿一歲。】

[やぶちゃん注:「水口御家」膳所藩家臣に水口姓はネットでは見出せなかった。ただ、近江国水口周辺(現在の滋賀県甲賀市)を領した水口藩(みなくちはん)があり、或いは、膳所藩とは、何らかの友好関係があったのか? 判らぬ。

 以下、底本では、「親類中へ御預被ㇾ成候。」まで全体が一字下げ。]

兄市郞次儀、故障、有ㇾ之、隱居被申付候節、名、相續として、中・小姓組に被申付相勤居候處、市郞次、被ㇾ討候節【右、九市郞、當十六歲。】、宿に爲居合候得共《ゐあはせさうらえども》、不行屆始末、有ㇾ之に付、暇、出申候。其節は思召も有ㇾ之趣にて、改易に成《なり》候。其節、九市郞、祖母、幷に、叔母一人、有ㇾ之候處、親類中へ御預被ㇾ成候。

一、五ケ年前に、隱居市郞次と辰藏と、爭論の儀、有ㇾ之候處、其儀も事濟候て、辰藏、是迄の通り、入込居候處、或日、辰藏參り、市郞次へ、「能き刀、出候間《いでさふらふあいひだ》、見せ申度《まをしたき》。」由、申に付、何心なく出候處、後《あと》より、だまし討《うち》に切下《きりさ》げ、又、一刀、胸先へ切付、其儘、かけ出し候折《をり》、其家の叔母、臺所に居合せ、行當り、打倒候處を、行樣《ゆきざま》に、一刀、切付、直《ぢき》に、表へ出《いで》、西裏の野邊へ出候て、山手へ懸け、山を越、京都へ出、丹州路《たんしうぢ》を經て、但馬邊迄は、足付候得共、其餘は、行方、相知不ㇾ申候。勿論、其節、直に主人【膳所候也。】家より、諸國へ手當の人數《にんず》、出候得ども、能々《よくよく》忍び候哉《や》、相分り不ㇾ申候。其節、市郞次は卽死、叔母は淺手故、日を經て致平癒候。

[やぶちゃん注:以下、底本では、「子細なく候。」まで全体が一字下げ。]

此叔母、貝崎藤内、預り居申候。此度[やぶちゃん注:ママ。吉川弘文館随筆大成版も同じだが、しかし、「このたび」では、ここに相応しくない。私は「者」の誤字ではないかと疑っている。]、平井家出身にて、爰元《ここもと》家内にても、每々《たびたび》申出候。此叔母の歡び、いかならんと、御察し可ㇾ被ㇾ下候。

 【京の友、書狀、別紙。】内々の事

市郞次事《こと》、辰藏に切害《せつがい》せられし譯は、もと、色情の事にて、實は、あまりよからぬ筋合なり。されども、一旦、事濟候上は、何にもせよ、辰藏、あしく候。敵討《かたきうつ》たるものは、子細なく候。

又、膳所よりの狀、寫し。

一、敵打の節、其場に居候目明しの者、則《すなはち》、高松侯よりの使《つかひ》の御同心に付添《つきそひ》、參り、咄《はなし》いたし候一件。

右兄弟、敵《かたき》辰藏は、藝州邊に居《をり》候樣子、承り、早速、下り相尋《あひたづね》候へども、住宅《すみいへ》、知れ不ㇾ申候。其節、近國にて知己に相成、段々、懇意に成候間、賴み候也。

     周防岩國吉川家浪人

      本名黑杭才次郞

       當時、明闇寺宗派の者

        雲  龍【當亥廿六歲。】

[やぶちゃん注:「周防岩國吉川家」江戸時代を通じて長州藩毛利家一門の吉川(きっかわ)家が領主だったため(大名ではない)、吉川藩という通称もある。江戸時代、特殊な扱いであったことについては、当該ウィキを読まれたい。

「明闇寺」京都市東山区にある普化正宗総本山虚霊山明暗寺(みょうあんじ)。かのおぞましい廃仏毀釈により廃宗廃寺の浮き目を見たが、明治二三(一八九〇)年に復宗復興した。公式サイトはこちら。]

右、出地《しゆつち》・案内幷に見證《けんしやう》に相賴《あひたのみ》申候樣子。其後《そののち》、讚州高松邊へ致徘徊候由、直《ぢき》に四國へ押渡り、右三人、高松在《あり》、兼《かね》て承り居候。辰藏、舊里、羽床下村邊を相尋候處、彌《いよいよ》、住居《すまゐ》致候樣子、承り【先年も、辰藏、舊里の事故《ことゆゑ》、一度、相尋候處、其節は他國に居候哉《や》、「知不ㇾ候《しれさふらはず》。」由。この儀は貝崎の話しに候。】、其家を伺候處、折節、其日は佛事の樣子にて、大勢、打寄居《うちよりをり》候故、無是非、其夜は野邊へ退《しりぞ》き、物靜《もんおしづか》なる墓所に入《いり》、一夜《ひとよ》を明《あか》し、翌閏六月十二日、早天《さうてん》》に、右、家に參り、表口、裏口より、兄弟、相伺候處、辰藏は致硏物居《をる》樣子故、直《ただち》に飛込、名乘懸け、一刀打懸候處、辰藏、其向《そのむかひ》に立置《たておき》候一刀《いつたう》を追取《おつとり》、引拔《ひきぬか》んとせし處、硏刀《とぎがたな》の事故、目釘、無ㇾ之、柄《つか》計《ばかり》、手に取候故、直《ぢき》に引返し、表口ヘ逃行《にげゆき》候處、庭に、九市郞、居候故、其儘、一刀、切懸候得《さうらえ》ども、何を申《まをす》も、短刀故《ゆゑ》、淺手にて、又、裏口へ、逃出候處、彼《かの》雲龍に行當り、裏口外にて倒れ候を、外記、九市、追懸出、討留《うちとめ》、致留《とどめ》を候由、尤《もつとも》三人共、諸國修業者之體《てい》にて、平井兄弟は明闇寺宗派をはなれ居《をり》候由。三人共、四國道者《だうじや》の體にて、所持の劍《けん》は、一尺餘りの短刀を、竹に仕込、有ㇾ之候由。但、三人共、非人同樣に成居《なりをり》申候。

[やぶちゃん注:「出地」仇相手がどの国に潜入したかということを調べること。

「案内」探索の際の種々の案内役。

「見證」仇討ちの首尾を見届けること。

「平井兄弟は明闇寺宗派をはなれ居候」平井兄弟は普化宗(ふけしゅう)とは無関係であるの意でとる。

「四國道者」四国巡礼者。

 以下、底本では、「尙又、承り可二申上一候。」まで全体が一字下げ。][

 辰藏は、獨身にも無ㇾ之、やとひ女の樣なるもの、有ㇾ之候が、其節、はやく逃去候とやらん、及ㇾ承候。時に、此節、高松、在々所々、盜賊、多く致徘徊候に付、右三人も、「怪敷體《あやしきてい》の者故、可召捕。」と、段々、付廻《つけまは》し、則《すなはち》、其朝《そのあさ》も、三人連《さんいんづれ》にて致徘徊候故、彌《いよいよ》怪《あやし》く、後を付候處、右家近邊にて立留り、何か談合の樣子故、「もし。付廻し候を、氣取られては六ケ敷《むつかしき》。」と、暫く、見合せ候處、殊の外、騷敷《さはがしく》、「人殺し。」と呼《よばは》り候故、早速、駈付見候へば、「敵討の由。」呼はり候故、尙、亦、見合せ居《をり》候内、討留《うちとめ》候《さふらふ》て、段々、譯合《わけあひ》を聞《きき》、庄家《しやうや》へ連行《つれゆき》、其後《そののち》、御城下へ六里計《ばかり》も有ㇾ之候處、早速、致注進候に付、諸御役人、御出候て、警固、有ㇾ之、則、御城下へ御引取にて、當時、御城下へ被差置、殊の外、御叮嚀の御會釋《おんえしやく》の由。右高松候、町御奉行より、同心二人、下方《したがた》の者二人、使として、膳所町奉行所へ、手簡《しゆかん》參り候。當所も、諸役人、評定の上《うへ》、

   物頭一人  榊原新八郞

           組子二十人

           小頭 一人

   給人目付  高 橋 彌 八

           下役三人

   徒士目付  林 吉 兵 衞

           同心二人

 右、上下、總人數《にんず》七十人計《ばかり》、去月《きよげつ》廿九日、高松表《おもて》へ致出立候。右敵討の樣子は、高松侯、御同心の咄にて承り候。定《さだめ》て、右兄弟の者、是迄、尋巡るり候五ケ年内、艱苦《かんく》可ㇾ有ㇾ之候。此儀は、當人、面會の上、尙、又、承り可申上候。

一、高松候より、大小、時服《じふく》・身の廻り一通り、其節、直《ぢき》に御差出しにて御座候由。勿論、同斷、一通りづゝ、三人前、此方《こなた》よりも、差出《さしいだ》しに相成候。

[やぶちゃん注:「時服」この場合は、夏まっさかりであるから、その時候に合った服を賜られたのである。]

一、高松候より、此趣、いまだ、公儀え、御屆も無ㇾ之儀、御互に、先々《まづまづ》、請取候迄は、國切《くにぎり》の取沙汰《とりざた》、外々《ほかほか》へ、御咄も候はゞ、此儀、御心得可ㇾ被ㇾ下候【これは同年七月の書狀也。】。

[やぶちゃん注:以上の一条、意味がよく判らない。藩主松平頼恕(よりひろ)が気を使って言っているのは、思うに、「この仇討ちの完遂は、未だ諸君(と言っても平井の二兄弟)の藩主であられる膳所侯の耳に届いてはおらぬから、まずまず、膳所侯の帰藩の免状が届くまでは、国違い(「國切」は「國分(くにわけ)」で本来は戦国時代の大名間の領土協定を指す語である)の場での、仇討ち成功の話(それから発生するところの「噂」「取り沙汰」)については、そなたらの藩以外の場所では、安易に話は、これを心得て――遠慮して話はせぬように――おくように。」と伝えた内容を遠回しに言ったのではなかったか? 大方の御叱正を俟つ。

京の友、文通。

其後《そののち》、高松と膳所と、段々、懸合《かけあひ》の譯《わけ》、其節、高松より出《いで》候、「近江八景」の落首、且、又、膳所候、在府にて、三人の者、御使、東都へ下向の話【大公儀《おほやけのぎ》へ御屆に成り候、趣。】。外記、九市、五ケ年の内、諸國相尋候事、餘り、事、長ければ、不申上候。御聞可ㇾ被ㇾ成、思召も候はゞ、可ㇾ被仰下候。

[やぶちゃん注:これは大いに不満!!!

同《おなじく》。

一、雲龍、本名、黑杭才二郞【解《とく》云《いはく》、前書に「黑根」とあるは、誤寫なるべし。】と申候へ共、吉川家中に在ㇾ之候節も、他家相續いたし候樣子に聞え申候。當時は、本姓、栗谷、才次郞と名乘候。

同。

一、平井氏、去冬《きよとう》、八十石被宛行候《あてゆかられさふらふ》。其節、外記は六兩三人扶持にて、水口候へ歸參被申付、准給人《じゆんきふにん》に被ㇾ成候。九市は、先年、中小姓《ちゆうこしやう》の節、幾人扶持とやらに候處、元の通りにても難ㇾ有仕合の處、存外、高祿被ㇾ下、立身無此上候。竹内作次【外記事《げきが、こと》。】も養家を暇《いとま》を取《とり》、敵討に出候故、右、養家にては、他人、致相續候故、新家御取立に候へ共、全體、御主君、御小身故、外記も、右の仕合《しあはせ》に候。且、件《くだん》の一件、御家《おんけ》にも拘らぬ事にて候故、殊なる恩賞は無ㇾ之かと申候。

[やぶちゃん注:やっぱり主家水口家、よう、判らん。]

又、京師友人、文通。

一、十二月朔日、栗谷才次郞、膳所へ十五人扶持、召出《めしいだし》、家作料として金三十兩被ㇾ下、給人に被召抱候。十二月末より、才次郞、疱瘡にて、餘程、六ケ敷《むつかしく》候へ共、無難に致全快候由。去冬は、二十歲、三十歲の者の疱瘡、多く有ㇾ之。誠に稀成《まれなる》事どもにて御座候。

同《おなじく》。

一、爰に又、愚妻の親元【親は嘉藤太と申。今は、なし。】吉田平右衞門、懇意の家に、三村善五太夫と申者、給人に候。右、善五太夫、女子計り、四人、有り。總領娘は京都西三條御殿へ宮仕《みやづかへ》に參り、二女も白川殿へ遣《つかは》し置候處、善五太夫、全體、動向、首尾能《しゆびよく》、段々、出身の處、存外、大病にて、大《おほき》に、内證《ないしやう》[やぶちゃん注:家内の財政状態。]、手惡敷成候上《てあしくなりさふらふうへ》、長病《ながのやまひ》、終《つひ》に不ㇾ宜、相果候故、後室、大に當惑にて、娘達世話不行屆困り入候處、白川家に居候二女、其娘十三歲、世話人、有ㇾ之、膳所より五里計《ばかり》有ㇾ之、田上といふ所へ養子に遣し候處、大に不仕合《ふしあはせ》にて、存外、辛《から》きめにあひ、其處《そこ》にては、一、二を爭ふ舊家なれども、片田舍の事故、右樣《みぎさま》も、日々、農業に罷出、一向にならはぬ事共《ども》故、大に難儀いたし、彼《かの》「山庄太夫《さんしやうだいふ》」とやらんに、使《つかは》れ候思ひにて、泣暮《なきくら》し居《をり》候處、不ㇾ計《はからず》、「養父入(やぶ《いり》)」に歸り、一向に打歎《うちなげ》き候。何樣《いかさま》、人柄も替り果《はて》候故、「虛言《そらごと》には有間敷《あるまじ》。」と、親、幷に、隣家の人々にも致相談、無理に引取候處、家内に置《おき》候ても、日々の事も六ケ敷《むつかしく》、奉公に出《いだ》し候にも、衣類、無ㇾ之、大に困り入候に付、平右衞門、了簡上《りやうけんのうへ》にて、「拙者方ヘ、ケ樣の譯故、下女の替りにいたし、差置吳候樣《さしおきくれさふらふやう》。」被ㇾ賴《たのまれ》、上村《うへむら》、後室よりも、別《べつし》て被ㇾ賴候。愚妻は、元來、懇家《こんけ》の事、十五歲の歲暮《としのくれ》より、此方に置《おき》候處、全體、生れ付、貞實にて、容儀よく、申分《まをしぶん》無ㇾ之、女子《をなご》にて御座候也。此上村は、平井氏と近隣にて、彼《かの》九市とは、幼年の頃より、親しく、親ども、聢《しかと》と致約束たるにもなく候得ども、咄合《はなしあひ》も有ㇾ之程の事、此度《このたび》、歸參被仰付、右娘も爰元《ここもと》に浮物《うくもの》にて、重疊《ちやうじやう》の事と被ㇾ思候。然處《しかるところ》、先年、姉娘、引取、相續として、養子出來《しゆつらい》、當時、「上村善五太夫」と名乘《なのり》候。此人の緣家に、京都の町人、某《なにがし》あり。右娘、名を貞《さだ》と申《まをし》、妻の從弟《いとこ》と稱し、爰元に居《をり》候時、右の人も、よく存知、彼《かの》今の養子【後の善五太夫。】に言込《いひこみ》、「もうらひ度《たき》。」よし、段々、かけ合《あひ》、入組候得共《いれくみさふらえども》、さだの叔父もあり、「町家へは、許容、無ㇾ之。」とて、段々、斷《ことわり》候へ共、何分、今の名前主[やぶちゃん注:読みも意味も不詳。]、「是非とも其方へ致相談度《たき》。」などゝ申、落着不ㇾ仕候。「何分、もはや、當年十八歲に相成、爰元に差置候ても如何《いかが》、委細の相談は、手近くならでは。」とて、相談、極《きはま》り、當春、差戾《さしもどし》候。此段、如何相成候事哉《や》、戯場小說《ぎじやうしやうせつ》、何樣《いかさま》、今日、まのあたりの事と、感心仕候。

京師友人手簡。本文。

愚妻は、膳所家中、當時、吉田平右衞門と申者の妹にて候。右、吉田氏緣家に、貝崎藤内《かひざきとうない》と申《まをし》、是も、給人、相勤《あひつとめ》候。右、貝崎、平井氏は親《したし》き緣類にて候故、拙者事も緣續きとは申ながら、平井氏とは親しからず候へども、右、敵討の次第、荒增《あらまし》及ㇾ承候段、別紙に相したゝめ申候。先《まづ》は、右の趣に御座候。

此一枚ずりは、去《さる》七月、至《いたつ》てはやく、高松の者共、京へ持上《もちのぼ》り、大津邊・京師は勿論、近國迄、町々、賣步行《うりありき》候處、近年、類ひ無ㇾ之程にうれ申候。

其後《そののち》、芝居にいたし、初春の雙六《すごろく》の畫《ゑ》にも出來《しゆつらい》、大《おほき》に流行いたし候。もし、雙六の圖など、可ㇾ被ㇾ成御覽候はゞ、取寄入御覽可ㇾ申候。

 二月十二日      角 鹿 淸 藏

            秀     寫

[やぶちゃん注:最後の「一、爰に又、愚妻の親元【親は嘉藤太と申。今は、なし。】吉田平右衞門、懇意の家に……」以下の話は、私は読んでいても、全く、面白くも糞くもなかったので、一切、注する気にならない。悪しからず。]

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