鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 下卷「三 生ながら牛と成る僧の事 附 馬の眞似する僧の事」
[やぶちゃん注:底本は、所持する明治四四(一九一一)年冨山房刊の「名著文庫」の「巻四十四」の、饗庭篁村校訂になる「因果物語」(平仮名本底本であるが、仮名は平仮名表記となっている)を使用した。なお、私の底本は劣化がひどく、しかも総ルビが禍いして、OCRによる読み込みが困難なため、タイピングになるので、時間がかかることを断っておく。なお、所持する一九八九年刊岩波文庫の高田衛編「江戸怪談集(中)」には、本篇は収録されている。
なお、他に私の所持品と全く同じものが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらにあり、また、「愛知芸術文化センター愛知県図書館」公式サイト内の「貴重和本ライブラリー」のこちらで、初版板本(一括PDF)が視認出来る。後者は読みなどの不審箇所を校合する。
本文は饗庭篁村の解題(ルビ無し)を除き、総ルビであるが、難読と判断したもの、読みが振れるもののみに限った。]
三 生(いき)ながら牛と成る僧の事
附馬の眞似する僧の事
濃州、明知領久保原に、洞家(どうか)の小寺有り。坊主、齋(とき)より歸りに、地藏繩手(ぢざうなはて)と云ふ所の、路(みち)惡(あ)しきを直す。
折り節、近所、手向村(たむけむら)の八藏と云ふ者、通り懸(かゝ)るに、大(おほき)なる黑牛、角(つの)にて、路をさくる。
八藏、思ふ樣(やう)は、
「久保村孫右衞門牛は、人撞(ひとつ)きなり。きやつは曲者(くせもの)ぞ。」
と、獨言(ひとりごと)云ふて、廻り道を行けば、田の中に、男二人、居(ゐ)けるに對して、
「孫右衞門(まごゑもんの)、人撞き牛を放し置くを見るに、角にて、路をさくりける間、廻り道して來たる。」
と云ふ。
彼(か)の男ども、「其の方は、惡口(わるくち)を云ふなり。唯今、我々、賴みたる坊主、地藏繩手の路を、手づから能(よ)く作(な)さんと申されし物を。」
と云ふ。
それより肝を銷(け)し、沙汰せず。元和(げんわ)年中の事なり。
[やぶちゃん注:「濃州、明知領久保原」岐阜県恵那市山岡町(やまおかちょう)久保原。この「明知」は明知遠山氏(利仁流加藤氏一門の美濃遠山氏の一派)を指す。この明知氏は幕府旗本として六千五百三十一石の交代寄合とされ、明知陣屋を構えて、明治維新を迎えるまで続いている。因みに、ここから南下したところに、恵那市明智町(あけちちょう)があり、ここは明智光秀の出身地説の一つに比定されている。
「洞家」曹洞宗。久保原には曹洞宗林昌寺がある。但し、この寺、寛永二(一六二五)年の創建なので(それ以前に瑠璃光寺があったが天台宗で、戦国時代に廃寺となっている)、文末の年号が悩ましい。
「齋」これは、仏教の戒律の規定に従い、月の十五日と三十日に、同一地域の僧が集って、自己反省をする集まりを指していよう。
「地藏繩手」不詳。
「手向村」久保原地区の南西に接する山岡町上手向(かみとうげ)が現存する。
「さくる」初版板本(65コマ目)では、『除(サクル)』とある。凸凹を削り掘ることを言う。
「黑牛」墨染の僧衣を連想させる。にしても「生ながら牛と成る僧の事」という標題はちょっと不快である。これは、無償の行為として、この僧が、道路修復をしているのを、角を以ってすれば、やり安かろうと、仏・菩薩が思し召されて、彼を一時、黒牛に変じさせたととるべきであり、生きながらに畜生にされたといったような言い回しは相応しいと思わないからである。特に続く第三話が、行いの誤りに基づく悪しき例なのであるから、猶更、自ら、区別されるべきものと私は考えるのである。
「元和年中」一六一五年から一六二四年まで。]
〇常州宇宿(うじゆく)、金龍寺(きんりうじ)、開山の時の納所(なつしよ)、無道心者(むだうしんじや)にて、生きながら、黑牛と成る。白き毛にて、書きたるが如く、納所の本名(ほんめい)、分明(ぶんみやう)に有り。
大衆(だいしう)、憐(あはれ)むと雖も、他(た)を濟(すく)ふこと、あたはず。
不便(ふびん)なるかな、尾を垂れて、前の田に走る。
和尙、彼(か)の納所を呼び來らしめて、一拶(いつさつ)して、座具を以つて、打(うち)給へば、牛の尾、切れ落ちて、再び、僧の貌(かたち)となる。其の牛の尾、拂子(ほつす)と作(な)して、今に有るなり。
[やぶちゃん注:「常州宇宿、金龍寺」茨城県龍ケ崎市若柴町(わかしばまち)にある曹洞宗太田山(おおたさん)金龍寺。現在は、一都九県に亙って末派寺院百五十有余を有する寺。開基は新田義貞の孫貞氏で、祖父の霊の鎮魂と顕彰のために応永一四(一四〇七)年に上州太田の金山に建立されたが、とある事情から金山城から桐生城に移った際に、寺も一時、桐生に移転された。越えて後の天正一八(一五九〇)年新田家後裔である由良国繋が「小田原攻め」の際の軍功により、常州牛久城主に転封され、この時、寺も牛久(うしく)へ移っている(「江戸怪談集(中)」の注では、天正一八(一五九〇)年から寬文六(一六六六)年の間、牛久にあったとする)。「宇宿」は、則ち、現在の茨城県牛久市のことなのである。後に、寺を現在地に移して安置したものである。以上は概ね、個人サイト「龍ヶ崎・若柴の散歩道」の同寺の記載に拠った。
「納所」納所坊主。禅寺で会計・庶務を取り扱う下級僧。仕事柄、世俗との縁が切れないため、「無道心者」と言われるのは、少し同情する余地があり(大衆が憐れむのも、そこにある)、それが、最後の人へ戻るところで、ほっとさせる。
「大衆」この場合は、同僚の多くの僧たちを指す。
「一拶して」「江戸怪談集(中)」の注に、『さっと近づき』とある。
「座具」曲彔(きょくろく)。法会の際に、禅僧が腰掛ける椅子で、背凭れと肘掛けとを丸く曲げて造り、足は折り畳める交脚式(普通の固定の椅子型もある)が知られる。この時のそれもその交脚式のものであろう。かなり大きなものであり、彩色も朱に金で、けばけばしいものが多い。それが、ここでは映像的にダイナミックに、さらにキラっと光っていい感じに撮れる。
「拂子」獣の毛などを束ね、これに柄(え)をつけた仏具。サンスクリット語の「ビヤジャナ」の漢訳。葬儀などの法事の際、導師を務める僧が所持するが、元来は、インドで蚊などの虫を追い払うために用いたもので、後には修行者を導くときにも利用される。その材料に高価なものを使用することは、他人に盗みの罪を犯させるとの理由から禁止された。中国では禅宗で住持の説法時の威儀具として盛んに用いられ、本邦では鎌倉以後に禅宗で用いられるようになり、真宗以外の各宗で用いられている。]
〇最上(もがみ)に有る淨土寺の、春也(しゆんや)と云ふ塔頭坊主(たつちうばうず)、齋(とき)より歸る每(ごと)に、座しても睡り、臥しても睡り、常住、睡りを好みけり。
旦那、來たりて見るに、牛、衣を著て、臥し居(ゐ)たり。不思議に思ひ、外面(そと)へ出でゝ、呼びけるに、起き來たれば、亦、僧なり。
切々(せつせつ)、かくの如くしけるが、終(つひ)に、生きながら、牛と成りたり。
最上にて、隱れなきことなり。
鳥井左京殿、代なり。
[やぶちゃん注:「最上」最上地方山形県北部地域の広域地名。
「塔頭坊主」寺中の子院の住職。禅宗の塔頭は一つの寺格相当の寺格を持つ。
「齋」これは禅宗で一日に一回と定められた午前中のただ一度の食事を指す。則ち、この僧はろくに座禅もせず、寝てばかりいたのである。恐らくは、病的なもので、重度のナルコレプシー(narcolepsy)或いは特発性過眠症である。
「切々」ここは、「その折り毎(ごと)に」の意。
「鳥井左京」「江戸怪談集(中)」の注に、出羽『山形藩主鳥居左京亮忠恒。寛永十三』(一六三六)『年、三十三歲で死去したが、その家督相続をめぐって、他家へ養子として出した弟定盛を指名し、幕閣の摘発を受けて、所領没収された。』とある。当該ウィキによれば、彼は、『正室との間に嗣子がなく』、『異母弟』の『忠春とは、その生母と仲が悪かった』『ため』、『臨終の際に忠春を養子とせず、新庄藩に養嗣子として入っていた同母弟』の『戸沢定盛に家督を譲るという遺言を残した。しかしこれは、幕府の定めた末期養子の禁令に触れており、さらに病に臨んで後のことを考慮しなかったとして』、『幕府の嫌疑を招いた』。『この事態に関して』、『大政参与の井伊直孝が「世嗣の事をも望み請ひ申さざる条、憲法を背きて、上をなみし奉るに似たり」とした上で「斯くの如き輩は懲らされずんば、向後、不義不忠の御家人等、何を以て戒めんや」としたため、幕府は「末期に及び不法のこと申請せし」』(「寛政重修諸家譜」)『として、所領没収となった』。『もっとも、忠政と井伊直勝(直孝の兄)の代に正室の処遇をめぐって対立した』自身の『両家の旧怨を知る直孝によって、鳥居家は改易に追い込まれたという説もある』(「徳川実紀」)。但し、『祖父元忠の功績を考慮され、新知として信濃高遠藩』三『万石を与えられた忠春が』、『家名存続を許された』とある。]
〇三州、岡(をか)と云ふ村の近邊、江村(えむら)と云ふ處に、聚泉(じゆせん)と云ふ獨庵坊主(どくあんばうず)、伯樂(ばくらう)を業(げふ)として、世を渡りけり。
寬永十六年の春、不圖(ふと)、煩ひ付(つ)きて、百日程、馬の眞似して、雜水(ざふすゐ[やぶちゃん注:ママ。])を馬桶(うまをけ)に入れて呑ませ、即ち、厩(うまや)に入れ置くに、四つ足に立ちて、足搔きして、狂ひ、力、强く、氣色(けしき)怖しくなり、卅八歲にて死にけり。
[やぶちゃん注:「三州、岡と云ふ村の近邊、江村」思うに、愛知県北名古屋市沖村岡ではあるまいか。ここの北部分が「江村」でそれを「沖村」と誤ったか、地名を隠したものかと思うのである。
「獨庵坊主」「江戸怪談集(中)」の注に、『一人住みで小庵に住む僧を呼ぶ慣用語』とある。但し、彼は「伯樂(ばくらう)」、則ち、博労で、あろうことか、生類である馬を売買をして生計を立てていたのであり、既にして破戒僧である。
「寬永十六年」一六三九年。]
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