鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 中卷「二十 幽靈來りて算用する事 附 布施配る事」
[やぶちゃん注:底本は、所持する明治四四(一九一一)年冨山房刊の「名著文庫」の「巻四十四」の、饗庭篁村校訂になる「因果物語」(平仮名本底本であるが、仮名は平仮名表記となっている)を使用した。なお、私の底本は劣化がひどく、しかも総ルビが禍いして、OCRによる読み込みが困難なため、タイピングになるので、時間がかかることを断っておく。なお、所持する一九八九年刊岩波文庫の高田衛編「江戸怪談集(中)」には、本篇は収録されている。
なお、他に私の所持品と全く同じものが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらにあり、また、「愛知芸術文化センター愛知県図書館」公式サイト内の「貴重和本ライブラリー」のこちらで、初版板本(一括PDF)が視認出来る。後者は読みなどの不審箇所を校合する。
本文は饗庭篁村の解題(ルビ無し)を除き、総ルビであるが、難読と判断したもの、読みが振れるもののみに限った。]
二十 幽靈來りて算用する事
附布施配る事
紀州、勇士某(ゆうしなにがし)と云ふ人の祖父、賄(まかなひ)爲(し)ける時、算用を遂げず、病死す。
相役の者、引負(ひきおひ)、多く有りけるを、手形など盜みて、彼(か)の死人(しにん)に負はす。
故に勇士、跡(あと)、立たず、剩(あまつさ)へ、子供、死罪に定まりぬ。
然(しか)るに、勇士下部(しもべ)の鶴(つる)と云ふ女、俄(にはか)に煩(わづら)ひ、一夜(いちや)、臥し、早朝に起き、手水(てうづ)を遣ひ、面色(めんしよく)、易(かは)りて、口走りけり。
「扨々(さてさて)、憎き奴原(やつばら)哉(かな)。余(よ)に無實を云ひ掛け、跡、滅亡に及ぶこと、無念なり。先づ御公儀へ申し、御目付を乞ひ、相役は云ふに及ばず、手代どもを喚(よ)ぶべし。急度(きつと)、算用を遂げん。」
と云ふ。
即ち、此の由、公儀へ申しければ、頓(やが)て、目付・相役人・手代共、來(きた)る。
扨、彼(か)の下女、出で合ひ、一言(ごん)云ひ出(いだ)すと、其の儘、主人の音聲(おんしやう)なり。
相役に向つて、
「其の方、卑怯なり。我、越度なし。只今、御目付の前にて、算用を遂ぐべし。」
と云ふて、硯・筆、取寄(とりよ)せ、日記を付(つけ)けるに、無筆の下女、筆を取りて書くに、主人手蹟(しゆせき)に、少しも、違(たが)はず。
「扨。如伺程(いかほど)の手形、其方(そのはう)に在り。只今、出(いだ)すべし。」
と云ふ。
相役、陳(ちん)ぜんとしければ、
「其の爲にこそ、御目付を申請(まをしう)けたり。少しも掠(かす)むべからず。其れ、其れ。」と云ふ間(あひだ)、力、及ばず、巾着(きんちやく)より、手形を出(いだ)す。
卽ち、一々(いちいち)に算用を合はせけり。
此の時、人々、
「後世(ごせ)は、有るか、無きか。」
と問へば、
「我は、算用に來りたり。後世の沙汰、無益なり。」
と云ふて、算用を究め、名判(なはん)して、
「最早、埒(らち)明きたり。」
と云ふて、退(しrぞ)き、又、打臥(うちふ)し、暫(しば)し、煩(わづら)ひて、本復(ほんぶく)せり。
人々、
「希代(きだい)なり。」
と云ひあへり。
内藤八衞門、聞いて、確(たしか)に語るなり。卯の春の事なり。
[やぶちゃん注:この話、昔から好きだった。どこがいいかって、やおら、周りの重臣どもが『「後世(ごせ)は、有るか、無きか。」と問へば、「我は、算用に來りたり。後世の沙汰、無益なり。」』と答えるシークエンスだ。これが、挟まることで、寧ろ、ある種の強いリアルな意志が画面を引き締め、この奇談の眼目となるからである。それを語って「きっ」と見るのは、下女の鶴の顔ですから、ご注意あれ!
「紀州、勇士何某」この「勇士」は「立派な武士」で一般名詞。紀州和歌山藩藩士何某。
「賄」藩の勘定方。
「相方」勘定方の同僚。
「引負」業務の引き継ぎをし。
「負はす」公金橫領の罪を亡き勘定方藩士に擦り付けた。
「跡、立たず」藩の公金横領は極罪であるから、当然、子は家督を継げず、お家断絶となり、しかも子は死罪を命ぜられたのである。但し、その死罪決行以前の時制が以下ととるべきであろう。
「公儀」ここは藩主及び重臣。
「御目付」藩の御目付役。馬廻(うままわり)役格の藩士から有能な人物が登用され、大目付や家老の統括に置かれることが多かった。配下に徒目付(かちめつけ)・横目(よこめ)などといった、足軽や徒士の勤務を監察する役職を置くのが一般的で、藩の諸役人の査察・検分を行った。
「手代」勘定方の下役。
「名判して」姓名の名を書き記して。或いは、加えて、印を押すこともある。
「本復せり」言わずもがなであるが、下女の鶴が、である。]
〇上總東金(かづさとうがね)下門屋村(しもかどやむら)、左吉と云ふ者、母の年忌を吊(とむら)ふ時、大眞(だいしん)と云ふ、廿歲ばかりの僧、亡者の取立子(とりたてご)なれば、
「我が爲には親なり。布施は、取るまじき。」
と云ふて、返しけり。
吊ひ過ぎて、皆々、家に歸れば、城宅(じいやうたく)と云ふ座頭の姉、召使(めしつか)ひの、六十餘りの下女、
「わつ。」
と呼ぶ。
「何事ぞ。」
とて、氣を付ければ、口走りて、
「子坊主に、會ひたし。」
と云ふ。
城宅、
「定めて、大眞のことなるべし。」
と云ふて、則ち、呼びければ、大眞、「法華經」八の卷を持ち來たりて、誦むなり。
彼(か)の女(おんな)、
「あら、なつかし。」
と抱(いだ)き付きければ、大眞、逃げんとす。
城宅、叱りて、
「逃げば、出家の恥なり。言語道斷。」
と云ひければ、大眞、留(とゞ)まりて、經を誦むに、
「彌々(いよいよ)、懷し。」
と叫び居(ゐ)たり。
城宅、
「さては。女は、後生(ごしやう)、惡(あし)し。如何樣(いかやう)なる若患(くげん)ぞ。」
と問へば、
「佛事の内(うち)、一人(にん)の僧、布施を取らず。五升の米に、二百の代物(だいもつ)、かますの内へ入れ、寺へ遣(や)らず、其の儘、置く故に、是、我が苦しみと成る。」
と云ふ。
「さては。米・代物、何方(いづかた)へ遣(つか)はすべし。」
と問へば、
「齋坊主(ときばうず)へ遣し給へ。」
と云ふ。
則ち、米・代物、寺へ遣りければ、
「是(こ)の二つの理(ことわり)申(まを)したき故に、一兩日、逗留したり。今は歸る。」
とて、走り出で、
「行く。」
と云ふて、則ち、庭にて、倒れ臥す。
良(やゝ)あつて、起こして、問へば、
「能く寢入りて、何事も覺えず。去りながら、何やらん、上に覆ひ懸(かゝ)るばかりにてありたり。」と云ふ。
寺は高野村(たかのむら)妙福寺なり。寬永十八年の事なり。
[やぶちゃん注:「上總東金下門屋村」東金市の諸資料も見たが、この村の名前は見当たらない。一つ可能性を考えたのは、「今昔マップ」の戦前の地図のここに、「御門」(みかど:これは東金市内の地名として現存する)があり、その南東直近に「下村(シタムラ)」とあることである。これが「御門」村のお屋敷のあるところの「下」の「村」の意味であったとしたなら、それらを組み合わせれば、「下門屋村」となる。以下の妙福寺に夜に出向としても、距離的にも実測で片道七キロで、私は問題ない位置であると思う。
「取立子」当初は、出産の際に産婆役をした子の意かと思ったが、「江戸怪談集(中)」の注には、彼女に生前、『世話を受けた子』とある。
「高野村妙福寺」東金駅に近い千葉県東金市台方(だいかた)にある日蓮宗羽黒山妙福寺である。
「代物」香奠の銭(ぜに)。或いは、それに代わる物品。
「かます」「叺」。叺俵(かますだわら)。藁莚を二つ折りにし、両端を「コデ縄」などと呼ぶ細い縄で縫って袋にし、容器として用いるもの。所謂、我々が想起する米俵を平たくしたもので、穀物・塩・肥料・石炭などを入れ、保存や輸送に利用する。材料には稲藁を使い、嘗つては農家が冬の農閑期に作っていたが、後には専門業者が作るようになった。現在は紙袋が普及し、その利用が急速に減っている。しかし、例えば、神奈川県相模原市(旧津久井郡)では正月に歳神様(としがみさま)を祀るのに、この「かます」を使ったり、千葉県印旛郡では家の交際仲間を「叺つきあい」と呼ぶなど、民俗社会では重要な意味を持っている(主文を小学館「日本大百科全書」に拠った)。
「寬永十八年」一六四一年。]
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