曲亭馬琴「兎園小説余禄」 感冒流行
[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。
底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちらから載る正字正仮名版を用いる。
本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。
句読点は自由に変更・追加し、記号(「〽」も)も挿入した。]
○感冒流行
文政三年庚辰[やぶちゃん注:一八二〇年。]の秋九月より十一月まで、世上、一同に感冒、流行して、一家十人なれば、十人、みな、免るゝものなし。輕きは、四、五日にして、本復す。大かたは、服藥せず。重きは傷寒のごとく、寒熱、甚しくて、譫言[やぶちゃん注:「うはごと」。]するものもあれども、それも病臥十五、六日にして、痊可[やぶちゃん注:「せんか」。治癒に同じ。]に及べり。この風邪にて病死せしものは、なし。江戶は九月下旬より流行して、十月盛りなりき。京・大坂・伊勢、及、長崎などは、九月、さかりなりしよし、大坂、並に、伊勢松坂なる友人の消息に聞えたり。前々流行の風邪には、「何風」など唱へて、必、苗字ありしが、こたびの風邪には、苗字を唱ることを、聞かず。二十餘年前に、琉球人來朝の折も、感冒流行したるに、今茲[やぶちゃん注:「こんじ」。今年。]も亦、琉球人の來ぬれば、京大坂にては「琉球風」といふものもありとぞ。予、おもふに、はやり歌・はやり詞の流行せる年は、必、感冒、流行す。安永の「おせ話風」、文化の「たんほう風」など、當時のはやり詞・はやり歌を苗字にして唱へたり。今茲は、秋八月の比より、江戶にて、「かまやせぬ」といふ小うた、流行したり【『〽くもらば、くもれ、箱根山、はれたとて、お江戶が見ゆるぢや、あるまいし、コチヤ、かまやせぬ。[やぶちゃん注:底本にここに囲み字で『原本脫字』とある。]く、名高き團十郞、あらためて、海老藏になりたや、親の株、こちや、かまやせぬ、』などいふたぐひ、あまたありて、小人は、をさをさ、うたへり。此うた、はじめは、「よみうり」とかいふ、ゑせあき人の、うたひしものなり。】しかるに、こたみ、流行の感冒は、中より以下の男女、多く、服藥せぬひとゝいへども、かまはずして、おこたりにき。童謠は、必、吉凶の表兆[やぶちゃん注:「へうてう」。前触れ。]たる事、和漢に例、尠[やぶちゃん注:「すくな」。]からず。「かまひはせぬ」といふ童謠、又、是、一奇といふべし。しかれども初冬一ケ月は、江戶中の湯屋[やぶちゃん注:「ゆうや」。銭湯。]も浴るもの[やぶちゃん注:「あびるもの」と訓じておく。]、多からざりしかば、風邪流行に付、「夕七時早仕舞」[やぶちゃん注:「ゆふななつどきはやじまひ」。不定時法で午後四時頃。]といふ札を出し置たり。この折、「窮民御救ひ」の御沙汰ありて、籾藏町會所へ裏借屋の町人を召呼れ、一人別に、御米五升、女は四升、三才以上の童には、三升づゝ下されしよし、聞えたり。文化の「たんほう風」の折には、錢にて、一人別に、二百五十文づゝ下されしよしなりしが、こたびは、米にて下されたり。借家といへども、表店に在りて、渡世しつるもの、並に、召仕は、男女ともに、除れしと云。
[やぶちゃん注:「感冒」現在のインフルエンザ。
「傷寒」漢方で「体外の環境変化により経絡が冒された状態」を指し、高熱を発する腸チフスの類を指す。
「二十餘年前に、琉球人來朝の折」文化三(一八〇六)年、琉球王国第二尚氏王朝の第十七代国王尚灝王(しょうこうおう 在位:享和四・文化元(一八〇四年)~天保五(一八三四)年)の国王就任挨拶の謝恩使使節が来府した時のことを指す。
「琉球風」この時のそれは前の来府の二十六年後に当たる天保三(一八三二)年。本篇の前の「木下建藏觀琉球人詩」の記事を参照。
『安永の「おせ話風」』病院検索サイト「DDまっぷ」の「感染症(インフルエンザ)特集2022 / 2023 インフルエンザの歴史と進化」では、安永五(一七七六)年に流行した風邪については、当時人気の高かった浄瑠璃「城木屋お駒」という毒婦の祟りという事で「お駒風」』(おこまかぜ)『と呼ばれた』と書かれてあったが、別な信頼出来る論文によれば、安永九(一七八〇)年に、当時の流行語に「大きに御世話、お茶でもあがれ」というのがあったとあるので、この別名もあったことが判る。
『文化の「たんほう風」』前注のリンク先に文政四(一八二一)年の『「ダンホ風(当時人気だった小唄のおはやしに”ダンホサン・ダンホサン”とあった事より)」』があったとある。文政の始めを、文化の終りと馬琴が勘違いしたものかも知れない。
「籾藏町會所」(もみくらまちかいしょ)「籾藏」囲籾(かこいもみ)= 囲米(かこいまい)と称して、 江戸幕府が、非常時に備えて、諸藩や町村などに命じて備蓄した籾米。 凶作や災害時の備蓄が目的であったが、中期以降は米価調節にも利用された。江戸では五ヶ所に常置された「町會所」は町内の用務のために町役人などが寄り合った所。
「裏借屋」(うらかりや)と読んでおく。借り長屋住まいの者。
「召呼れ」「めしよばれ」。
「表店」(おもてだな)「に在りて、渡世しつるもの」表通りに店を構えて商売をしている商人。
「召仕」(めしつかひ)。
「除れし」(のぞかれし)。]