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2022/10/14

鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 下卷「十七 人の魂、死人を喰らふ事 附 精魂寺ヘ來る事」

 

[やぶちゃん注:底本は、所持する明治四四(一九一一)年冨山房刊の「名著文庫」の「巻四十四」の、饗庭篁村校訂になる「因果物語」(平仮名本底本であるが、仮名は平仮名表記となっている)を使用した。なお、私の底本は劣化がひどく、しかも総ルビが禍いして、OCRによる読み込みが困難なため、タイピングになるので、時間がかかることを断っておく。なお、所持する一九八九年刊岩波文庫の高田衛編「江戸怪談集(中)」には、本篇は収録されている。

 なお、他に私の所持品と全く同じものが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらにあり、また、「愛知芸術文化センター愛知県図書館」公式サイト内の「貴重和本ライブラリー」のこちらで、初版板本(一括PDF)が視認出来る。後者は読みなどの不審箇所を校合する。

 本文は饗庭篁村の解題(ルビ無し)を除き、総ルビであるが、難読と判断したもの、読みが振れるもののみに限った。]

 

   十七 人の魂(たましひ)死人(しにん)を喰(く)ふ事

      精魂(せいこん)寺ヘ來る事

 山城より、丹波へ行く路の、沓掛(くつかけ)と云ふ所に、太郞兵衞(たらうびやうゑ)と云ふ者、京四條の多葉粉刻(たばこきざ)み、喜右衞門と云ふ者、近付(ちかづき)にて、恒々(つねづね)、出入(しゆつにふ)す。

 或時、

「沓掛より、京へ行く。」

とて、桂川(かつらがは)を渡れば、頓(やが)て、廟處(べうしよ)、有り。

 死人(しにん)を捨て置きたり。

 見れば、喜右衞門、日比(ひごろ)、癩病氣(らいびやうけ)なるが、彼(か)の死人(しにん)を、小刀(こがたな)にて、切りて、喰ひ居(ゐ)たり。

『さて。不思議なり。』

と思ひ、行きければ、案の外(ほか)、喜右衞門は、家に伏して居(ゐ)る。

 起こして對面すれば、喜右衞門、

「不思議なる夢を、見たり。」

と云ふ。

「何事ぞ。」

と問へば、

「桂川の渡りにて、死人を喰ふて、口の腥(なまぐさ)き事、限りなし。」

と云ふ。

 太郞兵衞、それにて、有(あり)の儘に語りければ、喜右衞門、聞いて、驚き、

『あさましきこと哉(かな)。』

と思ひ、髮を剃り、家を捨て、發心して後(のち)、癩病も、大方(おほかた)、能く成りて、乞食(こつじき)しけり。

 彼の太郞兵衞も、道心を發(おこ)し、慈悲を專(もつぱ)らとして、不斷念佛せし、となり。

 太郞兵衞、直(ぢき)に語るを聞きて、野尻萬助(のじりまんすけ)と云ふ人、一心(いつしん)と云ふ禪門に成りて、確(たしか)に語るを、寬永十八年の霜月に聞くなり。

[やぶちゃん注:「沓掛」「江戸怪談集(中)」の注に、『京都市西京区大枝沓掛町』(おおえくつかけちょう)、『丹波街道老の坂峠の京都側』とある。こ「老の坂峠」は国土地理院のここに相当し、グーグル・マップ・データ航空写真ではここ。大江山(大枝山)北山腹の峠である。

「多葉粉刻み」葉煙草を刻んで、販売する職人。当時は「賃粉(ちんこ)切り」と呼ばれていた。刻み方の好みも時代によって変わってようで、江戸初期は荒く太いものが好まれたが、中期頃には細く糸のように刻むのが好まれるようになった。

「桂川を渡れば、頓て、廟處、有り。死人を捨て置きたり」現在の桂川を渡った左岸の右京区の西院付近は中古以来、風葬の地として知られていた。

「癩病氣」ハンセン病に罹ったような感じ。「江戸怪談集(中)」の注に、『癩病。人肉食によって治癒すると考えられていた。』とある。ハンセン病については、既にこちらで既出既注であり、これも前に注したが、近代以前には、世界的に諸病(特に難病)の特効薬として人糞や人肉を食べる迷信や習慣が広くあった。ハンセン病に人肉が効くという迷信で、最も知られる事件は「野口男三郎(だんざぶろう)事件」であろう。野口男三郎(明治一三(一八八〇)年~明治四一(一九〇八)年七月二日死刑執行)は、謀殺強殺犯の他、著明な漢学者でハンセン病に罹患していた野口寧斎(妹の曾江子は男三郎の妻であった)、及び、野口に人肉を薬として与えんとして十一歳の少年を殺した犯人としても疑われ、結局、薬局店経営者強殺が認定され、絞首刑に処せられた。簡略なものは、『芥川龍之介「VITA  SEXUALIS」やぶちゃん語注』の「野口男三郞の事件」を見られたいが、事件の詳しい全容はウィキの「臀肉」(でんにく)「事件」(同猟奇的疑惑事件の別称)がよかろう。

「野尻萬助」「一心と云ふ禪門」不詳。

「寬永十八年の霜月」一六四一年十二月。]

 

〇賀州、牢奉行、五郞左衞門と云ふ者、後生願(ごしやうねが)ひにて、每月、親の忌日(きにち)に寺へ參る也。

 或時、融山院(ゆうざんゐん)へ來たつて、

「某(それがし)、煩ひ故、御寺へも參らず。」

と云ふて、茶の間にて、茶二、三服(ぷく)、呑みて、歸る。

 明日(あくるひ)、納所(なつしよ)、行きて、

「御煩(おんわづら)ひを存ぜぬ故、見舞ひ申さず、無沙汰なり。扨(さて)、昨日(きのふ)は、能く御出でそろ。」

と云へば、妻子、云ひけるは、

「五郞左衞門は、以ての外に煩ひて、立居(たちゐ)も叶はず、結句、昨日、今日は、取分(とりわ)け、煩ひ若(くる)しき故、『寺參りも成らず、無念なり。』と申されし。」

と語るなり。

[やぶちゃん注:しばしば見られる生霊の寺参りである。

「賀州」加賀国。

「融山院」現在の石川県金沢市寺町にある曹洞宗円通山融山院。元和九(一六二三)年に丹波国円通寺の住持であった融山泉祝が、加賀藩家老横山長知(ながちか)の請(しょう)を受け、八坂で松山寺を建立したが、その後、彼が隠居して結んだ庵が同寺の発祥。三千坪を有する伽藍となったが、幕末・明治の廃仏毀釈で堂宇は消滅した。後、明治の末に現在地に再建したが、第二次世界大戦の空襲で損壊し、現在も仮本堂の状態である(以上は上記リンク先のグーグル・マップ・データのサイド・パネルの解説版写真に拠った)。]

 

〇尾州名古屋、相見寺(さうけんじ)の小姓(こしやう)を、さる御方(おんかた)へ召仕(めしつか)はれけるが、科(とが)有りて、切腹す。

 彼(か)の小姓、寺へ來(きた)り、緣端(えんばな)に手を掛けて、

「菩提を、助(たす)け給へ。」

と云ふ中(うち)に、消え失せたり。

 其時刻を考ふれば、切腹したるより、少し、前方(まへかた)なり。

 閩山(みんざん)和尙の代なり。

[やぶちゃん注:「相見寺」「江戸怪談集(中)」の注に、『現名古屋市中区大須の』興聖山(こうしょうざん)『総見寺。臨済宗妙心寺派に属した。』とある。ここ同寺の公式サイトのこちらに、『織田信雄(のぶかつ)が父・信長を弔うために伊勢国桑名郡の安国寺を引き取り、忠嶽和尚を開山に迎え天正十一年』(一五八三)『に現在の地に「景陽山総見寺」を建立した。しかし、慶長十五年』(一六一〇)『「清須越し」によって名古屋大須に移る』。『名古屋総見寺の三代住職閩山永吃(みんざんえいきつ)和尚』(☜)『は、尾張初代藩主・徳川義直公と亀姫(徳川家康公長女)の御両人から並々ならぬ帰依を受け、義直公自らが開基大檀那となって正保元年』(一六四四)『「興聖山總見院」を現在の地に創建し、閩山和尚を開山に迎え、信長公の菩提を弔うよう命じたのが始まりである』とある。]

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