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2022/10/31

曲亭馬琴「兎園小説拾遺」 第一 「志賀隨應神書」

 

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。昨年二〇二一年八月六日に「兎園小説」の電子化注を始めたが、遂にその最後の一冊に突入した。私としては、今年中にこの「兎園小説」電子化注プロジェクトを終らせたいと考えている。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちら(左ページ上四行目から)から載る正字正仮名版を用いる。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。

 馬琴の語る本文部分の句読点は自由に変更・追加し、記号も挿入し、一部に《 》で推定で歴史的仮名遣の読みを附したが、訳の分からぬ怪しげな「隨應神書」については、ほぼそのままとし、文末と思われる箇所の読点のみ、吉川弘文館随筆大成版を参考に、概ね、句点とした。

 本篇の「隨應神書」部分は、一種の偏執病(パラノイア)の日本神話や神仙思想をゴチャまぜにして作り上げた妄想的創作物である印象が拭えず、所々、意味が私には判らぬだけでなく、何となくキビが悪いから、訓読しないし、注も附さない。せめても、電子化しただけでも、「よし」と認められたい。悪しからず。どなたか、訓読や注に挑戦されたら、是非とも、ネットにアップされ、その時は御一報下されば、有難い。

 

   ○志賀隨應神書

吾友、大鄕信齋《おほがうしんさい》云、榊原越中守照祗朝臣は、余が莫逆の友なり。彼《かの》家、舊傳《くでん》の書の内に、隨應が神道傳授の一卷あり。書尾に、「正德四年志賀隨應秀則。駿州府君と見《まみ》ゆ。彼家に師賓たり。」とぞ。

[やぶちゃん注:「志賀隨應」「秀則」加藤好夫氏のサイト「浮世絵文献資料館」の「曲亭馬琴資料」「文政十年(1827)」のページの「十一月十一日『馬琴日記』第一巻」の条に、『雪麿事田中源治来ル。先達而、英泉より、志賀随翁真跡所持之人有之、同藩雪麿ト申者持参、入御覧度旨、私迄頼候間、罷出候ハヾ、御逢被下候様申上候ニ付、今日逢有之』とあり、加藤氏の注で、『雪麿は戯作名墨川亭雪麿』(ぼくせんていゆきまろ 寛政九(一七九七)年~安政三(一八五六)年:浮世絵師で戯作者。本姓は田中、名は親敬。越後高田藩江戸詰藩士。喜多川月麿の門下で美人錦絵を描き、戯作を柳亭種彦に、狂歌を鹿都部真顔(しかつべのまがお)に学んだ)。『「滝沢家訪問往来人名簿」には』、『丁亥十月十一日初入来英泉紹介 榊原遠江守殿家臣湯嶋七軒町(上)中やしきに在り 雪麿事 田中源治』『とあり、ちょうど一ヶ月前に英泉の紹介で対面したばかりである。雪麿が持参した「志賀随翁真跡」の随翁は、大田南畝の』「一話一言」『巻四十九に』、『春毎に松のみどりの数そひて千代の末葉のかぎりしられず 藤恕軒志賀氏随応行年百有余歳』『と書き留められた長寿で有名な人であった』とある。これ以外には事績などの詳細は見出せなかった。同姓同名に本心刀流(ほんしんとうりゅう)の剣士がいるが、同一人物かどうかは不明。

「大鄕信齋」(明和九(一七七二)年~天保一五(一八四四)年)は儒者で越前鯖江藩士。名は良則。初め、芥川思堂、後に昌平黌で林述斎に学んだ。述斎が麻布に作った学問所城南読書楼の教授となった。文化一〇(一八一三)年、藩が江戸に創設した稽古所(後に「惜陰堂」と称した)でも教えた。著作に「心学臆見論」などがある(講談社「日本人名大辞典+Plus」に拠った)。

「榊原越中守照祗」不詳。「照祗」は「てるただ」と読むか。

「正德四年」一七一四年。

「駿州府君」徳川家康。ここは生前の駿府城の家康に逢い、ゲスト格で優遇されたということらしい。]

かく告られしかば、その神道傳授てふ書を、見まくほしう思ひたりしに、近ごろ越後高田候の家臣田中源治【戲號、「雪麿」。】、てふ人、五、六ひらの寫本を懷にし來《きたり》て、「こは、隨應が神書のうつし卷也。同家臣岡島但馬といふもの、『借《かり》得て寫しとりたれば、翁に見せまゐらせよ。』とて、おこしたり。」といふ。やがて、ひらき見れば、かねて信齋老人の告《つげ》られし件《くだん》の一卷なり。「原本は、大字にて、卷物なるを、借抄、只、一日と限られたれば、模寫するに遑《いとま》なかりき。よりて、印章をのみ、模して、余は絹字に錄したり。」といふ。いと惜むべし。則《すなはち》、季女《すゑむすめ》の舅《しうと》なりける渥見老人の手をかりて、臨寫せしめたるもの、左の如し。

[やぶちゃん注:「季女」瀧澤鍬(くわ)。

 以下、奇体な神話の部分は、底本では全体が一字下げである。]

書中に「先代舊事本紀」を引《ひか》れしなど、すべてうけがたきものなれど、その故鄕・實名などは、この書によりて知らる。とまれかくまれ、珍書なり。

天津兒屋根二十世神祗道宗源長祖種子命道統、二十世藤原大織冠鐮足公宗流神祗一道相續、三十九世九州志賀島遊人藤原隨應秀則。

謹奉尊紀

三社大權現普傳記

 葛城章         後號大諏敎本紀

白於天祖時天祖詔日、理罪不ㇾ可ㇾ逃、卽下天咒

 天人熊命化成幡取之則

大照太神大日孁立(をゝひるめのむち)天門前、

 是冗伏ニ誄心貳其元也。

是食保姬命得五穀、自在心生慢情、故遇此難

 人有慢心則得天障其理元也。

其後此三幡磐余彥(いはれひこ)天皇時、化金色鳶諒滕幡今在山背國怨兒(あたこ)山太神、此神摩爲ㇾ神。

 是天狗神爲ㇾ障爲ㇾ怨、其元也。

又素狹雄尊、猛氣滿胸腹而餘成吐物、化成天狗神姬神而威强、其軀人身頭獸首也。鼻長耳長、牙長形也。

食保媛神尸、即化白野干而化惑國神

 是狐化感人 其元也。

天照大神詔曰、地食保媛神者、吾分ㇾ魂神、非邪天神惡神中返怨其氣爲ㇾ魅。

汝月誦神宜ㇾ祭此神、時月弓尊設供祭ㇾ之。遂成世間大富饒主、是狐主富、其元也。

是後大己貴神、惡其妖國中狐一‘神怒曰、方使ㇾ假示ㇾ汝、追ㇾ吾者亦所ㇾ追、謂了西飛、果大己貴神、爲天孫四飛。

 是御威對凶御德和恩吉其元也。

今在山背國飯成山大神、使天下狐主司驗災害。又伏邪夭至人伏邪同彼還化、其元也。

種子命十八世常盤大連、以神代文字儒字

請誰改平安城洛外封藤森大明神

 唯一神祗道統記

宇加魂神、      宇宙曰、

宇所訓天地上下高太也。宙所謂四方四隅廣大也。

加ㇾ當巽虧盈加二不足故、巽撰而禎益道也。潔齋依ㇾ於ㇾ爰、魂造化萬種之氣、而無休神也。

五世國兩大神宮祭末社地、社隨一神、而尊體三面之宇加神也。

天狐神、空狐神、白狐神、地狐神、阿紫靈、是則土社神也。號五社大明神靈玅、大己貴神追ㇾ之、故渡于白齊國乎。其後大己貴神諸共歸朝、而任國中、且四國地不ㇾ足方百里、不ㇾ好天狐神、不ㇾ定千歲死靈之尊號也。

空狐神歷千歲、化仙狐神、則號空狐神乎。

三千年後、身蛻化天遷、則號飯成空狐神乎。千里通達神也。

白狐神、上九百歲餘、下五百歲餘、號白狐神乎。

地狐神、上五百歲餘、下百歲餘、號地狐神乎。是廼地仙神也。人間之一歲當千五年乎。

阿紫靈、上百歲下一歲迄、號阿紫乎。

阿紫五十歲而移靈山靈地修行、而學修身仙術道凡五十年乎。至百歲鄕府千古鄕乎。[やぶちゃん注:「千」の右にママ注記がある。]

崇神御宇、請混諡改或有ㇾ告。故至正一位類多末世乎。

上古奉封飯繩大權現

[やぶちゃん注:以下、底本では、「天遷」の前までが二字下げとなっているので、ブラウザの不具合を考え、一時下げで途中で改行した。]

 夫飯者萬像性情、本養育有於穀乎。繩者

 心緖而、所謂臍帶氣之繩乎。能結ㇾ之謹、

 則無爲而無疾病、得長生乎。

 或曰、無爲者非無有乃言、何爲之道

 乎。曰、本搖乎爲搖乎、大道一貫、貫

 理之明玅也。

 氣緩而解、則身緩解、而或早死。此繩身

 中十六丈二尺、一晝夜營衞身中、流行

 五十度、都八百十丈、而日出時也。氣筋

 骨行内外乎。故修身長生者、有ㇾ結

 於心緖乎。

天遷同空狐神、平安城飯成山、年歲臨遷之次第、

 正月神年壽十二萬七千五百歲餘

 二月神年壽十二萬五千三百歲餘

 三月神年壽十二萬三千七百歲餘

 四月神年壽十一萬七千五百歲餘

 五月神年壽十一萬五千七百歲餘

 六月神年壽十一萬三千九百歲餘

 七月神年壽十一萬二千八百歲餘

 八月神年壽十一萬一千七百歲餘

 九月神年壽十一萬七百五十歲餘

 十月神年壽十一萬五百七十歲餘

 十一月神年壽十一萬四百九十歲餘

 十二月神年壽十一萬三百七十歲餘

每年初午日、替飯成山而五世國、至兩身海邊、拜禮海回戸鏡、拜兩大神宮社宇加神、終歸社諸國于本社畢。

謹敬奉尊紀五社神禮社、

五社奉向神前五身印衆、  口議、

 終五神冗文曰、

 恩慈御意有今爰、

 用日日奉御意、

  次咒曰、

テソダギニ ギヤベヰ キヤチ ギヤヽ、ニヘヒ ソヮカ。

咒終て五神の尊號申して拜社して、

 五種印にて、  口議、

 東方 南方 西方 北方 中央、

 吐普神身依身多女、

 寒言神尊利根陀見、

日本國中大小乃神祇、別而氏神產守(うぶすなのかみ)名神と念終、

飯成五社祭、供饗、

花一枝、或は白けいとうの花、かけぼし口議、

赤飯、もち五かざり、あまざけ、肴鯛五つ、あらひよね五かざり、皆土器にもりて外に菓子有合。

御幣帛三飾、 口議、

  月次の祭

 洗米五そなへ、もち同、さけ二器、又洗米、

 たうふ、さかな有合、さけ迄なり。

 已上、

正德四年甲午歲正月吉祥日謹記之

               志賀隨應秀則

   駿州府君公

  奉呈上

[やぶちゃん注:以下、馬琴の附記で、字下げなし。]

この他、隨應が、牧野新右衞門【高田候家臣。】に與へし自筆の手簡一通あり。そは、興繼に草字せしめて、返魂餘紙、下卷に貼したり。隨應が、水馬の術に妙を得たる事、幷に門人上野恕信《うえのぢよしん》が事も、その書によりて知らる。祕藏すべし。件の老人の事の考《かう》は、予が「玄同放言」に載《のせ》たれど、なほ、引漏せし事、あり。近ごろ、信齋老人の抄錄して、忠告せられしもの、左の如し。

「月堂見聞集」に、『享保八年卯五月、下條長兵衞、尙齒會《しやうしくわい》の第一、志賀隨應一百七十七。』と記したり。又、見「掃聚雜談」、又、小野齋宮高尙【大御番。】の隨筆に、『百二十四』に作る。

又、正德五年、生島氏の會には、『百六十七』とあり。隨應の年紀諸書に載するもの、等しからざる事、斯の如し。件の翁は年をかくして、人には定かに告《つげ》ざりしならん。この他、なほ、考ふべし。

[やぶちゃん注:「牧野新右衞門【高田候家臣。】」やはり、加藤好夫氏のサイト「浮世絵文献資料館」の「ゆきまる ぼくせんてい 墨川亭 雪麿」のページの、文政一〇(一八二七)年の条の、「『滝沢家訪問往来人名録』下p117(曲亭馬琴記・文政十年十月十一日)」に、『貼紙・馬琴筆』として、『随翁手帋』(てがみ)『伝来 牧野新左衛門ひまご 當時 牧野新介 同 持主ハ 岡嶋但見』とあり、さらに、下方の天保五(一八三四)年の条に、「『馬琴日記』第四巻 p225(天保五年十月十八日付)」として、『榊原李部家臣田中源治事、雪丸来訪。予、対面。同藩牧野新右衛門、享保十三年七十算賀之時、志賀随応歌かけ物携来て見せらる。右新右衛門孫某書付ニ、随翁年百七十餘と有之。しかれども、随応自筆ニハ、百有餘歳としるす事、例のごとし。同人懇友梅丸、来訪願候よし、紹介致さる』と出る。因みに、その後に加藤氏の注があり、『墨川亭雪丸は文政十年、十一年に志賀随翁の書簡などを持参していたが、今度は古稀の祝の歌の掛け軸を持参した』とある。

「興繼」(おきつぐ)は本「兎園小説」諸本にしばしば登場してきた馬琴の嫡男。医名は宗伯。当時は松前藩医員。馬琴が自身の武家への復活をかけていた子で、大いに期待していたのであるが、病弱のため、後、医業をやめ、父の著述校正を手伝ったりしていた。天保六(一八三五)年五月八日に馬琴に先だって(馬琴は嘉永元年十一月六日(一八四八年十二月一日)死去)急逝してしまった。享年三十九。

「返魂餘紙」(四冊)馬琴手製の貼り交ぜ帖。「別集」(二冊)も文化五(一八〇八)年に編されている。「はんごんよし」と読んでおく。

「上野恕信」医師。以下に示す「玄同放言」の随応の記事中に出る。国立国会図書館の「リサーチ・ナビ」の「日本医家伝記事典 宇津木昆台『日本医譜』」の医師名リストにも出る。

「玄同放言」馬琴の考証随筆。三巻六冊。滝沢琴嶺興継と興継の親友であった渡辺崋山が画を担当している。一集は文政元(一八一八)年、二集は同三(一八二〇)年刊。主として天地・人物。動植物に関し、博引傍証して、著者の主張を述べたもの。題名の「玄同」は「無差別」の意である。同書は吉川弘文館随筆大成版で所持するので、調べたところ、「卷三 人事部二」の「壽算」の第三十二「壽算」の一節である。「国文学研究資料館」のこちらで原本の当該部が視認出来る(左丁四行目の「○」以下から)ので、本体部の訓読や注をしていない分、せめても、これは以下に電子化することとする。読みの一部を外に出した。[ ]は底本では囲み罫。読みは一部に留めた。訓点式の部分はそのままカタカナで書き下し、一部に《 》で字を添えた。異体字は知られた正字に代えた。

   *

○ちかき世の口碑に傳へたるものに、[志賀隨應]より壽なるはなし、しかれどもその事迹定かならず。一説云、隨應ハ、志賀氏、名ハ義則、藤恕軒(トウヂヨケン)ト號ス、天正四丙子ノ年[やぶちゃん注:ユリウス暦一五七六年。]、豊後國ニ生ル、童名ハ亀之助、少少(ワカキ)ヨリ武器ヲ作ルニ賢ナリ。人ト成ルニ及テ、織田内大臣二仕フト云フ、老後江戶ニ來リテ、新橋ノ上(ホトリ)ニ處(ヲ)レリ、又赤坂ニ居リシトモイヘリ、隨應曽(カツ)テ方伎(クスシ)ヲ業トシ、旁ラ神書ヲ看(ミ)ルコトヲ好ミ、閑暇ノ時ハ、釣(ツリ)ヲ垂レテ樂ミトセリ、竹田侯ヨリ月俸ヲ禀(ウケ)タルヲ、辞シテ江戶ヲ去リテ、上野ノ國ニ赴キヌ、時ニ年一百三十歲、其終焉ノ年ヲ詳カニセズ、或ハ云フ、百七十歲、上野ニ於《イテ》沒ス、又一說ニ、志賀隨應ハ、初名ヲ金五郞トイフ、曽て久能ノ摠關[やぶちゃん注:「そうくわん」統轄責任者。]ニ仕ヘタリ、享年百六十一歲、或ハ云フ百八十歲、後の一説は、麁(そ)にして弥々[やぶちゃん注:「いよいよ」。]疑ひあり、猶よく考て、追てしるすべし。昔(むかし)偶(たまたま)其蜩菴(きてふあん)ガ翁草を閱(けみ)せしに、生島幽軒老人、七十の算賀に、七叟來會せり、志賀隨應も、亦其一人なりしと、いへり、隨應が墨跡は、好事の家に鍾翫(ちやうぐわん)せらるれども、僞筆多かり、その手蹟のよきと、その詞句(しく)に趣キあるとは贋作なり、余が視(め)を歷(へ)たる中に梅龍園主人の所藏、是眞跡なり、影寫して右に出しつ、百有餘歲歳としるしたる、そのこゝろを得ざれども、年を隱すは、老人の情(ぢやう[やぶちゃん注:ママ。])なり、こゝをもて百幾歳と、定かには署せざるならん。又この老人の墓は、江戶愛宕下(あたごした)、天德寺の地中なる、不断院に在リ、墓誌には云云(しかしか)と、豫(かね)て聞しをよすがにて、一日(あるひ)興繼を將(い[やぶちゃん注:ママ。])て、不断院に赴きつ、その墓所をおちもなく、半日あまり索(たづね)しかども、竟(つひ)にその墓あるを見ず、困(かふ[やぶちゃん注:ママ。])じ果(はて)て布施を裹(つゝ)み、寺僧に請(こふ)て、過去帳を披閱(ひゑつ[やぶちゃん注:ママ。])するに、享保十五庚戌ノ年[やぶちゃん注:一七三〇年。]、と題せし條下(くだり)なる、許多(あまた)の戒名の中に、

  真月院諦念隨翁居士     志賀隨翁

    六月十六日      施主 上野恕信

とあり、この墓今なほありやと問フに、寺僧もしらず、今はその施主絕えたればなり。もし總墓(さうばか)の中にもやある、ゆきて見玉へといふにより、寺門を出て總墓所(さうむしよ)【天德寺本堂の左りなる、山の上下にあり。】に攀ぢ登り、興継もろ共に、聞つるほとりはさらなり、彼此(をちこち)を見めぐるに、こゝにも亦あることなし、よりて復(また)、興継を寺に遺はして、案内を乞はせしに、道人(てらをとこ)總墓所に来て、わが寺の諸檀の墓所は、こゝなりとて指(ゆびさ)す筋(ぢ)を、又ひとつひとつに索ねしかども、其処(そこ)にも彼墓あるを見ず、さてはその施主なくなりて、墓石も共に壞(くづ)れしならん、とやうやく思ひ決(さだ)むるに、比は卯月のながき日を、はかなくこゝに消(くら)したり。現(げに)寺の過去帳に、正しくその戒名あれば、ちかき比まで、彼ノ墓はありつらん、墓誌には、戒名の下に、志賀氏、左方に、施主上野恕信、と刻せしと聞つ、年月も寺の過去帳におなじ、但(たゞ)支干(しかん)あらざるのみ、よりて寺僧に、施主上野氏の事、又過去帳には、戒名俗名ともに、隨翁と書キたるよしを敲(たづ)ねしに、懜(もう)[やぶちゃん注:ぼんやりとして暗いこと。]として辨ずることなし、その寺により、在世の名號を、戒名に用ふる事を聽かさゞるもありと聞けり、しからば麻布二本榎、常行寺なる、徘諧師其角が墓誌に、喜覺と勒‘ろく)せし如く、隨應の應を、翁字に換(かえ[やぶちゃん注:ママ。])たるならん、とおもふに、そが俗名も、亦隨翁と書キたれば、疑ひいよいよ釋(とき)がたし。口碑に傳フる如く、隨應は、上野ノ國にて沒したらば、彼ノ墓は、その年忌の折などに、江戶なる親族、或(ある)は由緣(ゆかり)のものゝ立たるならん、しかれども、寺の過去帳によりて推(おし)はかるに、享保十五年六月十六日は、その亡日(きにち)なるべし、彼老人の生れしといふ天正四丙子年より、享保十五庚辰年迄僂(かゞなふ)れば[やぶちゃん注:「指を折って数えてみると」の意であろう。]、一百五十五年なり、これをもて推(お)すに、その享年、百六十一歲、或は百七十歲、或は百八十歲といふものは、皆(みな)信(うけ)がたし、百五十五歲といはゞ、當らずとも據(よりどころ)あり。又按ずるに、墓石の施主、上野恕信は醫師(くすし)なるべし、恕信の恕は、藤恕軒の恕を取リたるやうなり、上野はその氏なるべし、上野氏は、何地(いづち)の人なるをしらざれども、隨應衰邁(すいまい)の後、上野氏の扶助により、その家にて身まかりしを傳へ謬(あやま)りて、上野ノ國にて沒スといふにあらざる歟、こは余が推量の說なれども、姑(しばら)く疑ひを述べて、後ノ考を俟(まつ)のみ。

   *

また、図があり、「志賀隨應百餘歳眞跡」とある「長生」(ちやうせい)の遺墨がある(右下に「梅龍園主事藏」ともある)。左手上には「璽」の字のような落款らしきものがあって、さらに中、白抜き文字で「藤恕軒志賀氏隨應百有餘歲」とあって、その左下方に判読不能の文字とそれにかかった形で□がある。吉川弘文館随筆大成版のものトリミングしたものを以下に掲げておく(底本は画像保存が出来ないようになっているため。なお、底本と吉川弘文館随筆大成版では左部分の配置が異なる)。

 

Tiyausei

 

「月堂見聞集」不詳。

「享保八年」一七二三年。

「下條長兵衞」不詳。同じ姓で通称の旗本下條信隆がいるが、彼は享保元年に亡くなっているので違う。

「尙齒會」江戸後期に蘭学者・儒学者など、幅広い分野の学者・技術者・官僚などが集まって発足した会の名称。主宰は遠藤泰通(遠藤勝助)。構成員は高野長英・渡辺崋山などで、シーボルトに学んだ鳴滝塾の卒業生や、江戸で蘭学者で蘭方医の吉田長淑(ちょうしゅく)に学んだ者などが中心となって結成された。詳しくは参照した当該ウィキを見られたい。

「掃聚雜談」作者不詳の随筆。

「小野齋宮高尙【大御番。】」(享保五(一七二〇)年~寛政一一(一八〇〇)年)は幕臣で国学者。姓は平。名を直方・高格・高武ともいった。宝暦一三(一七六三)年に四十四歳で家督を嗣ぎ、明和二(一七六五)年に小普請方から大番に進んだ。天明四(一七八四)年に同じく国学者でもあった子の高潔に家督を譲り、隠居した。史学に通じ、「古今類聚名諱伝」や「三才雑録」など、数種の史伝や抄録のほか、「本朝奇跡談」(校閲)のような通俗書にも名をとどめている(「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

「生島氏」先の引用にも「生島幽軒」の名で出た。旗本。初名は山田市之丞。この長寿の祝賀会(生島は八十一で一番若い)については、随筆「翁草」(おきなぐさ:全二百巻。神沢杜口(とこう)貞幹著。寛政三(一七九一)年成立。全刊行はずっと下って明治三八(一九〇五)年。京都町奉行所与力であった自己の見聞した事実や中古以来の古書から記事を抜き書きして、批評などを加えたもの。なお、天明四(一七八四)年刊の抄出五巻本がある)の巻三十八の「生島幽軒年賀に老人集會の事」(国立国会図書館デジタルコレクションの活字本)で読める。その筆頭に「榊原越中守家來初名金五郞」とし「志賀瑞翁」とあって「百六十七歲」とある。その本文の頭に「此瑞翁は百八十歲の頃迄存命成し由。享保の中頃江府殿中の御沙汰書にも見えたり。正德五年に百六十七歲と有れば後奈良院御宇、武將光源院殿義輝公、天文十八己酉年の生れ成べし、寔に希世の老翁り」とある。]

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