曲亭馬琴「兎園小説拾遺」 第一 「文政十年丁亥の秋谷中瑞林寺の卵塔を穿掘して三千金を得たるものありとて、ゑせあき人が板せしを賣あるきしその事の實說」
[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。昨年二〇二一年八月六日に「兎園小説」の電子化注を始めたが、遂にその最後の一冊に突入した。私としては、今年中にこの「兎園小説」電子化注プロジェクトを終らせたいと考えている。
底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちら(右ページ上段二行目から)から載る正字正仮名版を用いる。
本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。
本文の句読点は自由に変更・追加し、記号も挿入し、一部に《 》で推定で歴史的仮名遣の読みを附した。
標題は「文政十年丁亥」(ひのとゐ:一八二七年)「の秋」(あき)「谷中瑞林寺の卵塔を穿掘」(せんくつ)「して三千金を得たるものありとて、ゑせあき人が板」(はん)「せしを賣」(うり)「あるきしその事の實說」と読んでおく。
この「谷中瑞林寺」は、現在の東京都台東区谷中にある日蓮宗本山慈雲山瑞輪寺(ずいりんじ:グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)である。同寺は天正一九(一五九一)年、日本橋馬喰町に創建され、慶長六(一六〇一)年に神田筋違橋外へ移り、その後、慶安二(一六四九)年に現在地に移転している。日蓮宗(旧法華宗)江戸三大触頭(ふれがしら)の一つに連なる名刹である(以上は、しばしばお世話になる松長哲聖氏の「猫の足あと」の同寺の記載に拠った。
また、「御府内寺社備考による瑞輪寺の縁起」の項には寺名を『慈雲山瑞林寺』としている)。「ゑせあき人が板せし」とは、しばしば馬琴が批判的に使う卑称で、虚実綯(な)い交(ま)ぜの噂を面白可笑しく垂れ流す似非商人(えせあきんど)、則ち、「瓦版屋」を指す。]
○文政十年丁亥の秋谷中瑞林寺の卵塔を
穿掘して三千金を得たるものありとて、
ゑせあき人が板せしを賣あるきしその
事の實說
「瑞林寺卵塔所《らんたふじよ》にて、金《かね》を掘《ほり》候。」と申《まをす》儀、さぞ、御聞及候半《おききおよびさふらはん》。「願主は橘樹《たちばな》郡東子安村、百姓孫右衞門祖父縺崎。同人、病氣に付《つき》、名代《みやうだい》孫右衞門、願ひ出《いで》、寺社奉行檢使、立合《たちあひ》之上、先月廿日後《はつかご》より、廿九日迄に、廣さ四尺餘四方、深さ二丈餘《あまり》ほり候處、朽骨《きうこつ》、五人分、出候のみにて、金は更に出不ㇾ申。」と申《まをす》、屆書《とどけがき》、一昨朔日《いつさくさくじつ》、出申候。「先祖より申傳《まをしつたふ》。」と申《まをす》事にて、しかといたし候。證據は、なきよし、申候。三千兩とか出候由、うりあるき候は、全く虛說にて御座候。
「縺」字は、「散水(さんすい)の誤《あやまり》」にも候歟。
當人の書面、右之通に御座候。
九月三日
右、近隣、一友翁《いちゆうをう》より、告《つげ》られしまゝを錄す。
丁亥九月四日
この卵塔を掘《ほり》しもの、「諸雜費、
凡《およそ》二十金に及びしのみにて、
功なかりし。」と、しれる人、云ひけり。
おろかにて、慾ふかきものゝ所行、かゝ
る事、多かるべし。
文政十一年八月
[やぶちゃん注:「卵塔所」ここでは広義の「卵塔場」(らんとうば)で単なる「墓場」の意。狭義の「卵塔」は無縫塔(むほうとう)で、主に僧侶(特に禅僧)の墓塔として使われる石塔を指す。塔身が卵形(というより擂り粉(こぎ)木尖塔状)を成す。百姓の墓には決して使われない。
「橘樹郡東子安村」現在の神奈川県横浜市神奈川区子安通のこの附近。
「縺崎」読み不明。「縺」は音「レン」で訓は「もつれる・もつれ」である。後で馬琴は、『「縺」字は、「散水(さんすい)の誤《あやまり》」にも候歟』(か)と疑問を呈しているのだが、これがまた、意味が判らない。「散水」という単語は「撒水」とも表記し、慣用読みで「さつすい(さっすい)」があるので、表記や発音上・慣用読みの誤りではないか、と言っているものか。色々調べたが。「散水の誤り」という慣用句は発見出来なかったし、「縺崎」は逆立ちしても「さんすい」「さつすい」とは読めない。それにしても、これ、この当時生きている百姓の祖父の名前としても、例えば、「つれさき」と読んでも、奇異なること、極まりない。この文字列で検索しても、ヒントになるページどころか、クリックしたくない怪しげなサイトしか掛かってこない。お手上げである。切に識者の御教授を乞うものである。
「一昨朔日」「おとつひ(おととい)さくじつ」とも読めるか。本文に即して推定すると、墓の掘削が終わったのが、文政十年丁亥の八月二十九日と読め、この年の八月は大の月であるから、八月三十日がある。文書末のクレジットは「九月三日」であるから、「九月一日に届け書きは出しました。」という意味となり、この日付には齟齬はないことが判る。]
« 曲亭馬琴「兎園小説拾遺」 第一 「おなじ頃、京なる一兩人より申來る風聞」(新たに項を起こした前回分の続篇) | トップページ | 曲亭馬琴「兎園小説拾遺」 第一 「京師大佛領阿彌陀が峰南の方地藏山を穿掘して古墳の祟ありし奇談」 »