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2022/10/09

鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 中卷「三十二 殺生の報いの事」

 

[やぶちゃん注:底本は、所持する明治四四(一九一一)年冨山房刊の「名著文庫」の「巻四十四」の、饗庭篁村校訂になる「因果物語」(平仮名本底本であるが、仮名は平仮名表記となっている)を使用した。なお、私の底本は劣化がひどく、しかも総ルビが禍いして、OCRによる読み込みが困難なため、タイピングになるので、時間がかかることを断っておく。なお、所持する一九八九年刊岩波文庫の高田衛編「江戸怪談集(中)」には、本篇以下の中巻の「二十九」から最後の「三十六」及び附記までは全く収録されていない

 なお、他に私の所持品と全く同じものが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらにあり、また、「愛知芸術文化センター愛知県図書館」公式サイト内の「貴重和本ライブラリー」のこちらで、初版板本(一括PDF)が視認出来る。後者は読みなどの不審箇所を校合する。

 本文は饗庭篁村の解題(ルビ無し)を除き、総ルビであるが、難読と判断したもの、読みが振れるもののみに限った。]

 

   三十二 殺生の報いの事

 三河下山(しもやま)、大森村、次郞左衛門と云ふ者、一代、殺生して世を送りけるが、足助(あすけ)の香積寺(かうしやくじ)へ、血脉(けつみやく)所望の爲めに、卅四歲になる子を遣はす。

 住持、對面して、

「殺生を止めずは、血脉、出(いだ)すまじく。」

と仰せける。

 子、かへりて、父に告ぐ。

 父、

「止め申すべし。」

と、請人(うけにん)を立て、血脉を授かりけり。

 其後(そのゝち)、一月(ひとつき)過ぎて、又、雉係蹄(きじわな)を掛くる。

 子、以ての外、制しければ、

「向後(きやうかう)、必ず、止めん。」

と云ふ處に、一兩日中に、煩(わづら)ひ付き、舌、すくみ、或は、臥し、或は、仰(あふの)きに成り、手足、ひりめかし、咽(のど)、

「ぎりぎり」

と云ひて、雉のわなに掛りたる如くに、十日程、難病を受け、終(つひ)に無言にて、死しけり。

 七日目に、總領の子、父の如くに、煩ひて死す。

 十八歲の娘と、婦(よめ)と、十二の孫と、同じ煩ひにて、死す。

 右、五人の者、卅日の中(うち)に死に果てけり。

 姥(うば)、一人、殘り、乞食(こつじき)して、苦しみ居けり。

 寬永十四年のことなり。

[やぶちゃん注:強力なヒトからヒトへ容易に感染する感染症であろうが、十日ばかりで死に至るもので、上記のような病態は、ちょっと、疾患名を同定し得ない。

「三河下山、大森村」愛知県名古屋市守山区大森か。

「足助の香積寺」複数回既出既注だが、再掲しておくと、愛知県豊田市足助町(あすけちょう)飯盛(いいもり)にある曹洞宗飯盛山(はんせいざん)香積寺(こうじゃくじ)。]

 

〇三州下伊保(しもいぼ)の淸藏と云ふ者、名を得たる殺生の上手なり。

 夜晝共に殺生しけるが、或夜(あるよ)、不圖(ふと)起きて、三つに成る我子の頸(くび)をしめ、

「雉(きじ)の鳥を、つきたり。」

とて、放さず。

 母、目覺(めざ)めて、起き上り、

「是は。氣(き)違(ちが)へるか。」

とて、とり放ちければ、子は、死にけり。

 慶長六年のことなり。

[やぶちゃん注:愛知県豊田市伊保町。「今昔マップ」の戦前の地図で現在の中心部が「下伊保」であることが確認出来る

「慶長六年」一六〇一年。]

 

 ○越中立山の入口に祖母堂(うばだう)と云ふ堂あり。三途川(さんづがは)の姥(うば)を六十六體(たい)、造り置きたり。殺生禁制の地なり。

 或餌差(えさし[やぶちゃん注:ママ。初版板本55コマ目)も同じ。])、彼(か)の祖母(うば)の目(め)に、鳥黐(とりもち)を塗り、

「眠り給へ。鳥、差すぺし。」

と云うて、鳥、多く差し取り、立去(たちさ)らんとすれば、兩眼(りやうがん)、忽ち、つぶれたり。

 此盲(めくら)に、伊藤久彌(ひさや)は、

「切々(せつせつ)、逢うたり。」

と語るなり。

 慶安年中の事なり。

[やぶちゃん注:「祖母堂」富山県中新川郡立山町(たてやまちょう)芦峅寺(あしくらじ)にあった「𪦮(うば)堂」。現存しない。「富山県」公式サイト内のこちらに、『𪦮堂は閻魔堂とともに、芦峅寺にあった中宮寺の中心となる堂舎でした。その中には、うば尊(芦峅寺ではおんばさまと呼ぶ)が本尊として』三『体、脇立として』六十六『体祀られていました。本尊については異説もみられますが、概ね大日如来・阿弥陀如来・釈迦如来の三尊とされています』。『古文書には「姥堂」、「祖母堂」と書かれたものもありますが、うば堂が正しい名称です。「うば」と女に田を三つ重ねた字は辞典にも見当たらず、立山信仰の中で生まれた独特の作字(国字)といえます』。『資料にうば堂がでてくるのは、文正元年』(一四六六年)六『月の日付がある越中守護代の神保長誠(じんぼながのぶ)の寄進状に「祖母堂」とあるのが、最初です。しかし、享徳』二年(一四五三年)『の椎名淳成の寄進状にも「三ケ所」(祖母堂、地蔵堂、炎魔堂か)とあるので、建立はもっと古くに遡ると考えられます』。『江戸時代の頃の堂舎は、「建築の様式は唐様で、屋根は入母屋造りに唐破風(からはふう)の向拝屋根で、堂の周囲には、縁側がめぐらされていた。柿屋根葺(こけらぶき)』六間、梁五間、奥の間二間通し四、各間下表内二間にて『半垂木等」と伝えられています』。『明治初期の廃仏毀釈に伴い』、『堂舎は破却されてしまい、以後再建されることはありませんでした』。『うば堂のあった付近に、昭和』四七(一九七二)『年に基壇が整備され』、天保一五(一八四四)年の『銘の入った手水鉢があります』とある。

「三途川の姥」奪衣婆(だつえば)のこと。冥府の葬頭河 (そうずか:三途の川) のほとりに立っており、亡者の衣類を剝ぎ取るのを仕事とする鬼婆。「脱衣婆 (鬼)」「 葬頭河婆」とも呼ぶ。懸衣翁が、その衣をやはり畔りにある衣領樹(えりょうず)という木に掛けて、その枝の高低によって、罪の軽重を定めるとも言われる。「地蔵十王経」などにある。

「伊藤久彌」不詳。

「慶安年中」一六四八年から一六五二年まで。]

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