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« ブログ1,840,000アクセス突破記念 梅崎春生 青春 | トップページ | 「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 千人切の話(その2) »

2022/10/27

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 千人切の話(その1)

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文部は後に〔 〕で「選集」を参考(「選集」は漢文部が編者によって訓読されてある。但し、現代仮名遣という気持ちの悪いもの)に訓読を示した。なお、本篇は、やや長いので、分割した。]

 

     千人切の話 (明治四十五年七月此花凋落號) 

 『此花』第四枝最終頁に、寬政十二年板『浪花(なには)の梅』を引《ひき》て、『天王寺境内に、供養塔とて、長き塚、有り。慶安三年庚辰《かのえたつ》、十二月十四日、九州肥後國益城(ますき)郡中島(なかじま)住人、田代孫右衞門造立。世俗に「千人切り」の罪を謝する供養の石碑也。」と云《いへ》り。一說に、田代氏は國元に住居の時、何某《なにがし》の娘と契りて後《のち》、他國へ稼ぎに行き、月日を經て歸國せし所、契りし娘、他家へ緣組せしと聞《きき》て、心外に思い、

「深き契約も今は仇となりし。」

迚《とて》、それより、

「魚鳥獸蟲に至る迄、千の數(かず)、命(いのち)を取り、娘の一命を失はしめん。」

と一心を究め、狂氣の如く、每日、生物の命を取るを、老母は憂(うた)てく思ひ、度々《たびたび》意見をすれども、聞き入れず。さて、九百九十九の命を取り、今、一命に、龜を捕《とらへ》ければ、手・足・首を出《いだ》さず。母、之を見て、さまざま止めければ、

「最早、是《この》一命にて、滿願成就なれば。」

とて、止まらず。母は詮方無く、

「龜を助けて、代りに此母を殺せ。」

と云《いへ》ば、孫右衞門、心得、母に取懸《とりかか》ると思ひしが、其儘、正氣を失ふ。老母も歎き入《いり》しが、忽ち、本性《ほんしやう》と成《なり》て母に向ひ、始終を物語る。

「かりにも、母に手向《てむか》ひし罪を免《ゆる》し給へかし。」

とて、髮を剃り、母に暇《いとま》を乞ひ、廻國に出で、津の國天王寺西門《さいもん》の邊《ほとり》にて、病死せりとぞ。龜の上に碑石を立つ。是れ、此因緣なるべし。』と出ず。

[やぶちゃん注:「『此花』第凋落號」宮武外骨が明治四三(一九一〇)年一月に発刊した浮世絵研究雑誌。大阪で発行されたが、赤字が嵩んで廃刊となったが、同雑誌に寄稿していた朝倉無声(朝倉亀三)の手によって「東京版」として新たに継続発行されることとなった。終刊号である「凋落號」は明治四十四年七月十五日発行。参照したサイト「ARTISTIAN」の「此花(大阪版)(雑誌)」に全リスト・データがある。最終巻を「凋落號」とするのは、これまた、お洒落。明治四三(一三一〇)年四月一日発行である。「最終頁」とあるから、外骨の編集後記内か。当該記事はネット上では読めないので、確認不能。

「寬政十二年」一八〇〇年。

「浪花(なには)の梅」本屋で、狂歌師にして文才もあった白縁斎梅好(はくえんさいばいこう 元文二(一七三七)年~文化二(一八〇五)年:縁斎一好の子で、大坂今橋の本屋金西館の主人。姓は陰山。通称は塩屋三郎兵衛。父に狂歌を学び、画にも長じた。編著に絵を主体にした「狂歌浪花丸」や、さらに説明文をくわえた大坂地誌「浪花のなかめ」などがある)この年に刊行した「狂歌絵本浪花のむめ」(全五巻)陰山白緑斎(別号)・撰で陰山玉岳画とするが、この絵師も本人であろう。国立国会図書館のこちらの書誌に拠った。

「龜」千人切りの動機からこの最後の対象がカメであるのは、フロイトを出すまでもなく、類感呪術的意味があると考えるべきである。バイ・プレイヤーながら、結果して出家遁世のスプリング・ボードとなる点でも、反転的に皮肉な象徴であり、この千人切り誓請を成就するまで、当然乍ら、田代孫右衛門は「女断ち」をしていたに違いなく、たまたまカメではなく、必然的にカメであったことは言うまでもないのである。

「天王寺境内に、供養塔とて、長き塚、有り」出身地繋がりでサイト「くまもと文化の風ドットコム」の高部道子氏の連載「Ms.高部の大阪からこんにちは」の「Vol.44 ある碑[2008.12.24]」に本碑の記事が載る。但し、そこでは「千人斬りの碑」とする。ネタ元として示されてある『南谷恵敬さんが綴る連載「四天王寺奇観」の「千人斬りの碑」』がネットには見当たらないのだが、高部氏の続編「Vol.47 ある碑(2)[2009.4.1]」に現地取材編があり、塔が現存し、その写真も掲載なさっていた。まっこと、「長き」、塔型の非常に高いものである。私の経験からすると、江戸時代の個人の供養塔としては、かなり高いものと思う。ここである。サイド・パネルに一枚だけ塔全景の画像があった。地図上でも「千人斬り碑」とあるので、これが正しい。]

「慶安三年庚辰、十二月十四日」グレゴリオ暦一六五一年二月四日。

「九州肥後國益城(ますき)郡中島(なかじま)」現在の熊本県上益城(ましき)郡山都町(さんとちょう)北中島きたなかしま)附近(グーグル・マップ・データ。以下、本篇で無指示のものは以下同じ)か。

「田代孫右衞門」不詳。次段参照。但し、以下の事績が正確かどうかは、読本の内容であるからして、私の保証する限りではない。

「仇」「あだ」或いは「かたき」。

「本性」物理的には「正気となって」であるが、ここは「殺生の悪を知り、正しく仏性(ぶっしょう)を得て」の意が強い。]

 「帝國文庫」四十九編に收めたる俗書『繪本合邦辻《ゑほんがつぽがつじ》』にも、田代の傳、有り。その名を彌左衞門とす。その略に云く、この處士(らうにん)、若くして父を失ひ、佛敎の信念厚き母と共に棲み、溫順の聞え有りしが、同じ中島村の貧醫藤田養拙の娘、見代女(みよ《ぢよ》)に通ぜり。偶《たまた》ま親戚の用事を受《うけ》て長崎へ行くに臨み、秘藏の小柄《こづか》を、女の護身刀(まもりがたな)と取替《とりかは》して、信(まこと)を表(あらは)し發足しぬ。長崎に二年許り留《とどま》り、還(へつ)て藤田家を訪ふに、彼女は國主の老臣へ奉公に出《いで》しと聞き、其邸に出入《でい》る者を憑(たの)み、書を贈る。見代女の主人の侍臣(ようにん)富田(とんだ)幸次郞、兼て、彼女を慕ひ、口說けども、聽入れず。偶ま出入の者、富田に件《くだん》の田代の書を見代女に傳へんことを賴む。富田、怪しみ、披見して、

「これ。乘ずべきなり。」

となし、女の返簡を僞造して、使者に付く。田代、得て、之を讀むに、

「既に主人の寵幸《ちやうかう》に預り 安樂なれば 卿(おんみ)と永く絕(たた)ん 嘗て取替したる紀念(かたみ)を相戾さん」

となり。田代、大いに怒り、自ら、城下に赴き、見代女が、主人の妻と花見に往(ゆき)し歸路、之を襲ひて、就(な)らず、衞士に縛られんとす。時に、傍らの庵より、老隱士、出來《いできた》り、

「これ、醉狂人なり。」

と辨じ、救助し、庵に伴(つれ)歸り、仔細を聽き、諫め喩(さと)せども、田代、聞き入れず。仍《よつ》て之に、彼女不慮に自ら禍《わざはひ》を受《うく》べき一法を授く。田代、

「之を行《おこなは》ん。」

とて、彼女の護身刀もて、一晝夜に百の生命を絕《たた》んと。既に九十九の動物(いきもの)を害し、最後に自家に飼《かへ》る龜を殺さんとして、母に遮られ、瞋恚《しんい》の餘り、母を斬らんとして、氣絕しければ、母、僧俗を請じ、百萬遍を催す。念佛、終るに臨み、田代、蘇(いきかへ)り、自ら、地獄に往《ゆき》て閻王に誡《いまし》められし次第を語り、出家、廻國して、天王寺邊に歿しぬ。是より前、富田、姦計、顯はれて、追放され、見代女は情人《いろおとこ》田代の成行きを悲《かなし》み、誓ふて、他に嫁がず、一生、主家の扶持にて、終わる、と。

[やぶちゃん注:『「帝國文庫」四十九編に收めたる俗書『繪本合邦辻』にも、田代の傳、有り』「帝国文庫」の第四十九編は渡邊乙羽校訂「續仇討小說集」で、「繪本合邦辻」は全十巻。京の浮世絵師で読本作者でもあった速水春暁斎(明和四(一七六七)年~文政六(一八二三)年の作・画である。文化二(一八〇五)年の序がある。国立国会図書館デジタルコレクションの同「帝國文庫」原本(活字本)のここの巻七の終りにある「肥州の處士田代か(=が)來歷の話」が始まりで、次の「田代私婦の薄情を怒る話」で同巻は終わるが、驚くべきことに、次の第八巻(同前)全部が、これ、まるまるこの話の続きになっているのである。なお、「繪本合邦辻」の原本は、早稲田大学図書館「古典総合データベース」にあり、このPDF・同巻一括版)の13コマ目から視認出来、巻八はこちら。正直、驚くべき作話物であり、この事績も私には、到底、信用出来ない。

 『嬉遊笑覽』卷四に云《いは》く、

「千人切りと云事《いふこと》云々、是も往昔(そのかみ)專ら言《いひ》し事と見えて、謠曲外百番《そとひやくばん》に「千人伐」有《あり》て、詞に云《いふ》、「阿武隈川の源左衞門殿と申す人、行衞も知《しれ》ぬ人に父を伐れて、其無念さに千人切をさせられ候云々。又、『秋の夜長物語』山門三井寺合戰の處、「千人切りの荒讃岐《あらさぬき》」云々抔も云《いへ》り。『續五元集』(中)、「心《しん》をつむ迚《とて》消し提燈《ぢやうちん》 出會へと千人切りを呼(よば)ふ覽《らん》」(晉子(しんし))。天野信景云《いふ》、「鵜丸(うのまる)」の太刀は、濃州久々利(くくり)の人、土岐惡五郞が太刀也。惡五郞は、天文頃の人也。土俗にいう、「惡五郞、京五條橋にて千人切りしたりし時、この太刀、川へ落としけるを、鵜二羽、喫(くは)へて上がりし。鵜の嘴(はし)の跡、殘りしゆえ、「鵜丸」と名づくると云り云々」(以上『笑覽』)。

[やぶちゃん注:「嬉遊笑覽」国学者喜多村信節(のぶよ 天明三(一七八三)年~安政三(一八五六)年)の代表作。諸書から江戸の風俗習慣や歌舞音曲などを中心に社会全般の記事を集めて二十八項目に分類叙述した十二巻付録一巻からなる随筆で、文政一三(一八三〇)年の成立。私は岩波文庫版で所持するが、巻四冒頭の「武事」パートの終りの方にある。国立国会図書館デジタルコレクションの成光館出版部昭和七(一九三二)年刊の同書の上巻(正字)の右ページ四行目から(熊楠の所持しているものは恐らくこちらが、その親本)。それも、私の岩波版(底本が異なる)も、孰れも「千人ぎり」である。

「謠曲外百番」書名ではなく、「百番のほかの百番」の意で、江戸初期以来、謡曲の内百番(うちひゃくばん:江戸初期に謡曲本を刊行する際に、広く世に行なわれているものの中から選ばれた百番の曲を指す)から漏れた選外百番を集め合わせ、二百番の謡本が作られたが、その選外となった百番を外百番と呼ぶ。但し、この選外の百番の曲には出入りがあり、完全に決定した百曲ではない。

「千人伐」サイト「義経伝説」の中の『島津久基著「義経伝説と文学」』の「(七) 橋弁慶伝説」の章の中に謡曲「千人伐」の章詞の一部が引用されてある。

「秋の夜長物語」南北朝時代に成立した代表的な稚児を素材とした物語。作者不詳だが、「太平記」作者の一人とされ、漢詩文に長じた天台密教の僧玄恵との関係が想定されている。三井寺の稚児で、花園左大臣の子息梅若丸と、比叡山の律師桂海との愛、それに関連して勃発する両寺の争いを描いたもの。梅若丸は入水し、それを儚んだ桂海は、離山して東山に籠り、瞻西(せんさい)上人と称した。梅若丸は、実は石山観音の化身であったという形をとる。この瞻西は、平安後期に実在した説教僧・歌僧で、洛東の地に雲居寺(うんごじ)を開いた人物である。物語は瞻西の「新古今和歌集」所収の歌を採り入れるなどして、事実譚化を図っている。梅若丸の名はかの名謡曲「隅田川」に引き継がれ、また、木母寺(もくぼじ)の縁起の形でも伝えられ、近松門左衛門の「双生隅田川」(ふたごすみだがわ)など、浄瑠璃・歌舞伎のいわゆる「隅田川」物の濫觴となった(以上は概ね、平凡社「百科事典マイペディア」に拠った)。ネット上では、原本が二ヶ所で視認出来るが、かな本の崩しで当該箇所を探す気にならない。悪しからず。

「千人切りの荒讃岐」日本刀買取専門店「つるぎの屋」公式サイト内の「千人切」に、『刀 (切付銘)天保八年十二月於千住山田吉利試之 太々土壇払 (号:千人切)』で、長さ二尺三寸五分(七十一・二センチメートル)とあり、『千人切は、千人の人を斬ること、または斬った刀をいう。千人は多数を意味することもある。なお、願をかけて千人斬りする場合もあった。阿武隈川の源左衛門は、父を行方も知れぬ人に討たれた仕返しに、千人斬りをした。三井寺の悪僧に千人斬りの荒讃岐とよばれるものがいた。鵜丸の太刀は、濃州久々利の土岐悪五郎が、京の五条橋で千人斬りしていて、河に取り落としたものを、鵜がくわえてきたものという』。『寛永六年』(一六二九年)、『江戸では白昼に千人斬りが行われた。千人刎ねともいう。織田信長の従弟』『津田信任は、千人刎ねの棟梁といわれているのを、豊臣秀吉がきき、その所領を没収した。千人殺しともいった。天正十四年』(一五八六年)、『大坂で大谷紀之助は癩病』(ハンセン病)『にかかっていて、千人の血をのめば治癒する、という俗説を信じてやったことだった』。幕府代々の首切り役人として知られる『首斬り浅右衛門の家に「千人切」とよばれる刀があった。刃長二尺三寸五分』の『無銘であったが、「天保八年』(一八三七年)『十二月於千住山田吉利試之 太々土壇払」と切りつけてあった。これで吉田松陰らの志士や、高橋お伝の首を落としたと言われていた』とあった。注記があり、『(参考文献:日本刀大百科事典より転載・引用・抜粋)』とある。

「續五元集」榎本其角(「晉子」は彼の号)自選で小栗旨原(しげん)編になる俳諧集。延享四(一七四七)年刊の「五元集」の続編で、宝暦二(一七五二)年刊。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の原刊本の「中」巻の(PDF「中」一括版)の27から28コマ目にある。

「天野信景云、……」確証はないが、恐らくは、尾張藩士国学者天野信景(さだかげ)が元禄一〇(一六九七)年頃に起筆し、没年(享保一八(一七三三)年)まで書き続けた随筆「塩尻」からの引用か。私は所持しないし、国立国会図書館デジタルコレクションにあるものの、調べるのは、時間がかかり過ぎるので、やらない。悪しからず。

『「鵜丸(うのまる)」の太刀は……』先の刀剣サイトにも出たが、サイト「名刀幻想辞典」の「鵜丸」によれば、この名の名剣は少なくとも異なる刀が五種が挙げられてある。その内、最もこの話に比較的よく適合するのは、「土岐家伝来の鵜丸」である。但し、持ち主である「土岐惡五郞」(「惡」は「強い」の意)を建武(元年は一三三四年)頃の人物としており、本篇の「天文頃の人也」(一五三二年から一五五五年まで)とは齟齬が甚だしい。引用元が書かれていないが、以下の古文が載る(漢字を概ね恣意的に正字化した)。

   *

三河守先祖ヲ尋ルニ、土岐大膳大夫ト申人在。其弟ニ土岐惡五郞ト云者。(略)[やぶちゃん注:サイト主による注記。]或時惡五郞五條ノ橋ニテ、武藏坊辨慶カ跡ヲ追。千人切リヲ思立。往來ノ人ヲ切ル事二三百人。或時太刀ヲ川中ニ落ス。尋之不見。惡五郞深ク祈氏神。心中ニ求。然時鵜一羽飛來、彼太刀ヲクワエ水上浮ヲ。惡五郞希異ノ思ヒヲ成。此太刀鵜ノ嘴ノ跡在、卽太刀ノ名鵜ノ丸ト號シテ。土岐家永代ノ重寶也。

   *

とあって、以下、その後の経緯が細かく記されてあり、なんと、この太刀、もともとは、仁平三(一一五三)年に、かの源三位頼政が鵺(ぬえ)を射落とした功により、拝領した太刀とあり、この悪五郎から土岐家、森家を経て、伊勢神宮に奉納されたとある(別説・異説・附説も記されてある)。残念ながら、寛文一一(一六七一)年十一月の『大火災で消失したという』とある。一言い添えておくと、この寛文十一年というのは、前年の誤りではないかと思われる。寛文一〇(一六七〇)年十一月に伊勢は大きな回禄に襲われているからである。この大火は「鉈屋(なたや)火事」と呼ばれ、伊勢神宮では月夜見宮(つきよみのみや)が炎上しており、死者四十九人・山田惣中の約六割に当たる五千七百四十三軒・土蔵千百七十七棟・寺院百八十九が焼失するという未曽有の大火であった。

「濃州久々利(くくり)」岐阜県可児市久々利。]

 『兼山記』には、之を南北朝時代の人とし、云く、「和田五郞に討たれし土岐惡五郞、打物取《とつ》て、早業《はやわざ》、太刀の剛の者なり。生得(うまれつき)惡逆無道也。或時、五條の橋にて、武藏坊辨慶が跡を追ひ、「千人切り」を思ひ立ち、往來の人を切る事、二、三百人下略」。

[やぶちゃん注:「兼山記」戦国時代から安土桃山時代にかけての武将で大名の森長可(ながよし 永禄元(一五五八)年~天正一二(一五八四)年:本姓は源氏)の一代記。先のサイト「名刀幻想辞典」の「鵜丸」によれば、彼は可児郡兼山(金山)城主であったが、「本能寺の変」の後、久々利城主土岐三河守(久々利頼興)を計略にかけ、滅ぼしており、その時に「鵜丸」を得ているのである。国立国会図書館デジタルコレクションの「續群書類從」「第二十一輯ノ下 合戰部」で当該部が視認出来る。「土岐三河守由來之事」の右ページの上段から下段にかけてである。長可が「鵜丸」を伊勢神宮へ奉納したことも記されてある。]

 『續群書類從』の『織田系圖』に、信長の從弟津田信任(のぶたふ)、從五位下左近將監たり。仕秀吉公、於伏見醍醐山科間、爲千人刎之棟梁旨、達上聽、可ㇾ被ㇾ處死流刑處、亡父(隼人正信勝)多年之昵近、所優奉公異ㇾ他、沒收所領(三萬五千石也)、仍落飾號長意、依中納言利光卿芳情、幽居加州金澤〔[やぶちゃん注:底本には返り点や文字位置におかしな箇所があるので、私が勝手に変更した。原本に当たれないので推定である。]秀吉公に仕ふ。伏見・醍醐・山科の間に於いて、千人刎《ぎり》の棟梁となりし旨、上聽に達し、死・流刑に處せらるべき處、亡父(隼人正(はやとのしやう)信勝なり)は、多年の昵近にて、優《あつ》く奉公せし所なれば、他に異(かは)り、所領(三萬五千石なり)を沒收するのみ。仍つて、落飾して「長意」と號し、中納言利光卿の芳情に依りて、加州金澤に幽居す。〕。又、『宇野主水記(うのもんどき)』に云く、「天正十四年二月廿一日頃、「千人切(ごろし)」と號して、大坂の町人にて人夫風情の者、數多《あまた》打ち殺す由、種々《しゆじゆ》、風聞あり。大谷紀之助と云ふ小姓衆、惡瘡氣(かさけ)[やぶちゃん注:三文字へのルビ。]に付《つき》て、千人殺して、その血を與《あた》ふれば、かの病《やまひ》、平癒の由、その義、申し付くと、云々。世上風說也。今、廿一日、關白殿御耳へ入り、如此《かくのごとき》の儀、今迄、申上《まをしあげ》ぬ曲事《くせごと》の間《あひ》だ、町奉行を生害《しやうがい》せらるべきことなれども、命を御免被成《ごめんなさる》る迚、町奉行、三人、被追籠也《おひこめらるるなり》云々。右の千人切の族《やから》、顯はれ、數多、相籠《あひこ》めらる云々。三月三日、四日頃、五人、生害、宇喜多次郞九郞、生害の内《うち》也。大谷紀之助所行《しよぎやう》の由、風聞、一圓、雜談也。」。

[やぶちゃん注:「津田信任」(生没年未詳:「のぶたか」とも読み、信秋(のぶあき)とも)は津田信勝(盛月)の長男。当該ウィキによれば、津田氏は勝幡織田氏庶流で、一説に『織田信長の従甥にあたると云う』。『羽柴秀吉(豊臣秀吉)に家臣として長浜城主時代から仕え』、天正元(一五七三)年には「黄母衣衆」(きぼろしゅう:秀吉が馬廻から選抜した武者で、武者揃えの際に名誉となる黄色の母衣指物(ほろさしもの)の着用が許されたことからの軍団名)に任ぜられた。文禄二(一五九三)年、『父の死去により家督を継いだが、山城国三牧城主として』三万五千石を領した。『しかし』、『同年または翌年、伏見醍醐』や『山科における洛外千人斬り事件の犯人として逮捕された。死罪になるところであったが、父の多年の功績に免じて死一等を減じ、所領(御牧藩の前身)を没収、改易された』。『剃髪出家して長意と号して』、『前田利家(または利光)に身柄を預けられて加賀国金沢に幽室蟄居となった』。『結局、家督は弟・信成が』一万三千石に『減封された上で相続した』とある。

「宇野主水記(うのもんどき)」「宇野主水日記」。宇野主水(生没年不詳)は十六世紀後期の本願寺門主顕如に仕えた右筆。室町・戦国時代の享禄三(一五三〇)年から一五五〇年代(一五五〇年は天文十九年)の本願寺教団や一向一揆及び畿内政情を知る上での第一級史料である「石山本願寺日記」(「天文(てんぶん)日記」とも)の下巻に所収されている。「史籍集覽」のこちらで当該箇所が読める(右ページ後ろから三行目)。

「天正十四年」グレゴリオ暦一五八七年。

「大谷紀之助」豊臣秀吉家臣で越前敦賀城主の知られた大谷吉継(永禄八(一五六五)年(永禄二(一五五九)年説もある)~慶長五(一六〇〇)年)の通称は紀之介で、彼はハンセン病(ここで言う「惡瘡氣(かさけ)」)に罹患していたとする説があり、彼は天正始め頃に秀吉の小姓となっており、彼をこの人物に当てる説もあるようである。既につい最近も述べたが(『鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 下卷「十七 人の魂、死人を喰らふ事 附 精魂寺ヘ來る事」』の私の注)、ハンセン病などの難病の場合、人肉や人の生き血を特効薬とした迷信が近代まで、あった。なお、Wikiwandの「豊臣秀次」の記載には、かの豊臣秀次は『鉄砲御稽古と称して北野辺りに出て行っては』、『見かけた農民を鉄砲で撃ち殺し、あるいは御弓御稽古と称して射貫遊びをするからと言って往来の人を捕まえさせてこれを射ち、また力自慢と称しては試し斬りをするから斬る相手を探してこいと言い、往来の人に因縁をつけさせて辻斬りを行った。数百名は斬ったが、これを「関白千人斬り」だとして吹聴し、小姓ら若輩の者がこれを真似て辻斬りを行ったが咎めなかったという』記載があり、『千人斬りに関しては』天正一四(一五八六)年に秀吉の馬廻衆であった『宇喜多次郎九郎が大坂で』、文禄二(一五九三)年には『津田信任が山科で、それぞれ』、『多数の人間を殺害した容疑で逮捕されており、前者は自害、後者は改易させられたという。特に津田信任は秀吉の城持ち家臣であり、他者の犯罪が秀次の話としてすり替わった可能性はあり、太田牛一が「よその科をも関白殿におわせられ」と書いたこともこれらを指していたと考えられる』という記載もあった。

「追籠」罪科ある者を家などに閉じ籠め、謹慎させること。]

 是等は武士跋扈の世に、武勇を誇るの餘り、成るべく多《おほく》人を殺せるなれば、千人切りとも言うべけれ。田代某が行なひしてふ所は、人ならで、蟲(むし)・畜(けもの)を多く殺せしなれば、千疋切・百疋切と云《いは》ん戶杜(こそ)適當ならめ。併(しかしなが)ら、田代氏が碑を建《たて》たる當時、千人切りの名高かりしは、貞享四年板『男色大鑑《なんしよくおほかがみ》』卷八に、「田代如風《たしろじよふう》は、千人切《せんにんぎり》して、津の國の大寺《おほでら》に石塔を立て、供養を成《なし》ぬ。我、又、衆道《しゆだう》に基《もとづ》き、廿七年、其色《そのいろ》を替へ、品《しな》を好《す》き、心覺えに書留《かきとめ》しに、既に千人に及べり。之を思ふに、義理を詰め、意氣づくなるは、僅か也。皆な、勤子《つとめこ》の、いやながら、身を任せし。一人一人の所存のほども慘(むご)し。『責(せめ)ては、若道(にやくどだう)供養の爲。』と思ひ立ち、延紙《のべかみ》にて、若衆《わかしゆ》千體、張貫《はりぬき》に拵へ、嵯峨の遊び寺《てら》に納め置《おき》ぬ。是れ、男好開山(なんかうかいさん)の御作《ごさく》也。末世《すゑのよ》には、この道《みち》、弘まりて、開帳あるべき物ぞかし。」。貞享元年板『好色二代男』卷八、女郞どもに作らせし「血書《ちがき》は、千枚、重ね、土中《どちゆう》に突込《つつこ》み、「誓紙塚《せいしづか》」と名《なづ》け、田代源右衞門と同じ供養をする。」抔(など)見えたるにて知るべし。

[やぶちゃん注:引用の読みは以下に示した原本を参考に、歴史的仮名遣を正し、一部を濁音にして入れてある。なお、言わずもがなだが、この二篇の「千人切り」は、これ、自ずと今一つの、それである。

「男色大鑑」井原西鶴の浮世草子。貞享四(一六八七)年四月刊。全八巻。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の原版本のこちら(最終巻一括PDF版)の12コマ目で視認出来る。

「好色二代男」井原西鶴作。貞享元(一六八四)年刊。副題が「好色二代男」。首章及び最終章では「好色一代男」の遺児世伝を登場させ、続編の体裁をとっているが、他の三十八章は独立した短編である。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の原版本のこちらの掉尾「大徃生(だいわうじやう)は女色(ぢよしき)の臺(うてな)」(最終巻一括PDF版)の19コマ目の左丁の後ろから四・五行目。]

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