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2022/11/30

大和怪異記 卷之五 目録・一 山路勘介化物をころす事

 

[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の本文部分はここから。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。なお、底本のルビは歴史的仮名遣の誤りが激しく、ママ注記を入れると、連続してワサワサになるため、歴史的仮名遣を誤ったものの一部では、( )で入れずに、私が正しい歴史的仮名遣で《 》で入れた部分も含まれてくることをお断りしておく。

 目録は総て読みを附した。歴史的仮名遣の誤りはママ。底本では数字の「十一」以下は半角。

 本篇部の最後の参考引用は、読みを除いて訓点をそのままに打ち、後に〔 〕で補正した訓読文を示した。

 挿絵があるが、これは「近世民間異聞怪談集成」にあるものが、状態が非常によいので、読み取ってトリミング補正し、適切と思われる箇所に挿入した。因みに、平面的に撮影されたパブリック・ドメインの画像には著作権は発生しないというのが、文化庁の公式見解である。]

 

やまと怪異記五

一 山路勘介(やまぢかんすけ)化物(ばけもの)をころす事

二 盲目觀音(もうもくくわんをん)をいのりて眼(まなこ)ひらく事

三 へび人(ひと)の恩(をん)をしる事

四 女(おんな)病中(びやうちう)に鬼(をに)につかまるゝ事

五 猿(さる)人(ひと)の子(こ)をかりて己(をの)が子(こ)のかたきをとる事

六 ばけもの人(ひと)のたましゐをぬく事

七 ゆめに山伏(やまぶし)來(きた)りて病人(びやうにん)をつれ行(ゆく)事

八 蓮入(れんにう)雷(いはづち)にうたるゝ事

九 大石※明(おほあはび)の事

[やぶちゃん注:「※」は「近世民間異聞怪談集成」では、『斐』としているが、恐らくは、「決」の異体字「𦐍」の左右が上下になった「グリフウィキ」のこれの崩しである。]

十 かいる蛇(へび)をふせぐ事

十一 猿(さる)身(み)をなぐる事

十二 小西(こにし)なにがしばけものをきる事

 

 

やまと述異記五

 第一 山路勘介化物をころす事

 するがの国、阿部山といふ所あり。

 同国に山路勘介とかやいふ侍、住居(すまひ)しけるが、ふすゐのとこに心かげ、土屋(とや)を、きり、てつぱうを、たづさえ[やぶちゃん注:ママ。]、心をしづめてきけば、あらしにそよぐならしばも、

『いまや、わたる。』

と、おもはれ、夜ふくるにしたがひ、遠山の鹿のね、松のひゞきに、かよひ、木ずゑにやどる、ましらの聲、物さびしき折ふし、みねのかたより、おざゝ、ふみしくおとして、「もの」こそ、まさしく來りけれ。

 山路は、待(まち)まうけたる事なれば、鉄砲を取《とり》て、向(むかひ)たれど、いまだ、いづかたとも、わかたず。

 しかる所に、うしろのかたに、おと、すれば、ふりかへりみるに、いかなるものとはしらず、まなこのひかり、あたりを射(ゐ)、時々、つき出《いだ》す息は、火(くは)ゑんのごとく、そのひかりに、みれば、くれなゐの舌を、まきかへし、くちは、みゝのねまで、きれたり。其《その》すさまじき事、いはむかたなし。

 

Yamaotoko

 

[やぶちゃん注:底本画像はここ。そこでは勘介と山男の台詞の書き込みがあるが、墨の色に濃淡があり、明かに旧蔵者の家中の誰彼が悪戯書きしたものと思われるので、活字化しない。]

 

 自余(じよ)のもの、是を見《み》ば、たちまち、きえもうすべきか。

 山路は、もとより不敵成(《ふ》てきなる)おとこ[やぶちゃん注:ママ。]なれば、少《すこし》もさはがず、かたなに、手をかけ、待(まつ)所に、やがて、とやの上に、とびかゝり、をしくづすを[やぶちゃん注:ママ。]、

「心得たり。」

と、わきざしをぬき、うへさまに、

「はた」

と、つく。

 つかれて、手ごたへしけるを、つゞけて、三かたな、さし通し、はねたをし[やぶちゃん注:ママ。]、ひなはの火をつけ、たけにて、たいまつにとぼし、見れば、かほは、うしのごとく、身は人に似て、六尺あまりの、くせものなり。

 世にいふ「山男」なるべし。

 慶長年中の事といふ。「異事記」

○「羅山文集」にも「山男」の事、見えたり。左に記して參考に備ふ。

『駿州阿部山中ㇾ物。號ケテ山男ト一。非ㇾ人非ㇾ獸。形似タリ巨木。有四肢。以手足。木ルヲ兩穴两眼甲折鼻口。左曲木一レ藤以為弓絃。右細枝一以為ㇾ矢。一且[やぶちゃん注:ママ。「旦」であろう。]猟師相逢射ㇾ之倒ㇾ之。大クニㇾ之。觸レテㇾ岩ㇾ血。又牽クニㇾ之甚不ㇾ動。驚走歸ㇾ家。与ㇾ衆共ルニㇾ之不ㇾ見。唯見血ノ灑クヲ岩石ニ一耳。』〔駿州(すんしう)阿部山中(さんちゆう)に、物、有り。號(なづ)けて「山男」と曰ふ。人に非ず、獸(けだもの)に非ず、形、巨木の斷(き)れに似たり。四肢、有りて、以つて手足と為(な)し、木の皮に兩穴(ふたつのあな)有るを、以つて、两眼(りやうがん)と為(し)、甲折(かぶとをれ)の處を以つて、鼻・口と為(な)す。左の肢(て)に曲木(まがりぎ)と藤(ふぢ)とを懸けて、以つて、弓絃(きゆうげん)と為(し)、右の肢(て)に細枝(ほそえだ)を懸けて、以つて矢と為(す)。一旦、猟師、相ひ逢ひ、之れを射て、之れを倒(たふ)す。大(おほ)いに恠(おそ)れて、之れを牽(ひ)くに、岩に觸れて、血を流す。又、之れを牽くに、甚だ重くして、動かず。驚き走り、家に歸る。衆(しゆ)と共に、徃(ゆ)きて、之れを尋(たづ)ぬるに、見えず。唯(ただ)、血の、岩石に灑(そゝ)ぐを見るのみ。〕とあり。

[やぶちゃん注:原拠とする「異事記」は不詳。「近世民間異聞怪談集成」の解題で土屋氏も、本書を『該当する資料名が不明なもの』の一つに入れておられる。

「山路勘介」不詳。

「するがの国、阿部山」「阿部」は「阿倍」ではあるまいか。現在の静岡県阿部川の山間部を「阿倍奥」と通称し、その最奥に「阿倍峠」がある。この附近、グーグル・マップ・データ航空写真を見ても、かなりの深山溪谷である。

「ふすゐのとこに心かげ」「臥す居の床に心掛け」であろう。「深山幽谷であるからして、獣や物の怪が多ければ、住まいの寝所や、猟に出て仮泊する際の寝場所にも、十全に用心して」の意と思う。

「土屋を、きり」「土屋倉」(つちやぐら)のことか。壁を土や漆喰で塗った土蔵で、危急の際の退避・応戦の場所となる。「きり」は、外部や通常の部屋とは、厳重に「遮断をして作る」の意か。但し、これは、挿絵で勘介が大層な屋敷から応戦していることに引かれた私の認識で、本文を虚心に読むなら、これは、山猟の山中にて、「山男」に遭遇したというシチュエーションであろうから、この場合の「土屋」とは、野営するための崖などの「岩窟・洞穴」或いは「仮に設けた掘っ立て小屋」を「穿ち鑿(き)り作る」或いは「草木を伐って作る」の意が正しいように思われる。

「ならしば」楢(なら)の木の枝。

「ましら」「猿」。

「おざゝ」「小笹」。

「自余(じよ)のもの」「その外の者」で、自分以外の普通の人。

「たけ」「竹」。枯れたそれか。

「六尺」一メートル八十二センチ弱。

「慶長年中」一五九六年から一六一五年まで。安土桃山時代と江戸時代を跨ぐ。

「羅山文集」儒者で幕府儒官林家の祖林羅山(天正一一(一五八三)年~明暦三(一六五七)年:名は忠・信勝。法号は道春。朱子学を藤原惺窩に学び、徳川家康から家綱まで四代の将軍に侍講として仕えた。上野忍岡の家塾は、後の昌平坂学問所の起源となった)の詩文集。当該部は発見出来ず。

「巨木の斷(き)れ」大木の枯れて断ち切れたもの。以下を見ても、これって、怪しげな心霊写真でよくある、シミュラクラでねえかい?]

曲亭馬琴「兎園小説拾遺」 第二 「寅七月二日申上刻京師大地震聞書」

曲亭馬琴「兎園小説拾遺」 第二 「西本願寺觸狀寫」

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。昨年二〇二一年八月六日に「兎園小説」の電子化注を始めたが、遂にその最後の一冊に突入した。私としては、今年中にこの「兎園小説」電子化注プロジェクトを終らせたいと考えている。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちら(右ページ下段終りの方から左ページ終りまで)から載る正字正仮名版を用いる。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。

 馬琴の語る本文部分の句読点は自由に変更・追加し、記号も挿入し、一部に《 》で推定で歴史的仮名遣の読みを附した。今回は短いので、そのままとした。

 本篇は「京都地震」関連記事の第四弾。第一篇以降で注した内容は、原則、繰り返さないので、必ず、そちらを先に読まれたい。

 なお、各条の解説部は、底本では全体が三字下げ。]

 

    ○寅七月二日申上刻京師大地震聞書

一、怪我人、凡千六十人。

  【右之内、卽死、幷に、養生不相叶分、凡三百餘人。】

一、御所、幷、堂上方御殿、幷、兩御門跡等。

   右何れも破損、別儀無ㇾ之分は稀にも無ㇾ之。

一、二條御城中、大損事。

   但、外曲輪北之方四十間餘、石垣、相崩、高塀、御堀之中へ落込、其外、所々、大破。

一、神社佛閣。

   右、大小は有ㇾ之候得共、何れも破損、別《べつし》て愛宕山宿坊、大破にて、谷底へ崩込候分も有ㇾ之、漸、一軒、破損にて相濟、其餘は、悉《ことごとく》、つぶれ、最《もつとも》、此度の地震中にて、御城と愛宕山の破損を、「東西の大關《おほぜき》」抔と風評いたし候。

一、市中建家《たてや》。

   右、何れも破損、中には潰家《くわいか》も數多《あまた》有ㇾ之、是が爲に、人、多《おほく》痛候。

一、洛中洛外之土藏、凡二萬。

   大破中には、壁、左右へ開き、或は鉢卷、落《おち》、又は、潰候方も數多有ㇾ之、依ㇾ之、卽死・怪我人等、多、有ㇾ之。

一、當二日より、同廿四日迄、地震、數《しばしば》、右[やぶちゃん注:上の余震のこと。]、大小は有ㇾ之候得共、晝夜にて、凡百二、三十遍のよし。去《さり》ながら、二日の大地震の様なるは、右以來、無ㇾ之、常は「餘程の地震」と申位の分は、日々、二、三度づゝも有ㇾ之候へ共、格別、家つぶれ倒《たふれ》候程の儀も無ㇾ之。今、以、相止《あひやみ》不ㇾ申事に候。

一、去る十一日、東山淸水寺廻廊の邊、欠崩《かけくずれ》、大破、同日、音羽川、出水《でみづ》、伏見街道五條下る處抔は、床の上、水、上り、急流にて、溺死も、四、五人、有ㇾ之よし。

右、荒增《あらまし》、御心得迄、申上候。右、卽死之内、家内、不ㇾ殘、潰れ、親子、四、五人も一時に死果《しにはて》、或は、夫婦・兄弟抔も卽死御座候て、哀成《あはれなる》方も、數多、有ㇾ之、氣の毒致候。于ㇾ今《いまに》、日々、地震は相止不ㇾ申候得共、日々の事故、一統、馴《なれ》候故、大體の地震は、さのみ、驚不ㇾ申候。【以下、文、略。】

[やぶちゃん注:以下は馬琴の附言で、底本では全体が一字下げ。]

京師には予が相識《あひしき》、多かりしに、こゝは、大かた、鬼籍に入れり。然《しかれ》ども、なほ、一條通り千本左へ入《いる》處に、角鹿淸藏あり。眞葛ケ原近邊に、三藏櫻田鶴丸あり。大佛門前に、松井舍人《とねり》【土御門殿家臣。】あり。七月に至《いたり》て、地震見[やぶちゃん注:ママ。吉川弘文館随筆大成版では「舞」の脱字かとする傍注有り。]の書狀を郵附して遣したれども、今に回報なし。角鹿生の居宅は、嵯峨にも二條へも程遠からねば、いかにありけん、心元《こころもと》なし。さばれ、千本通りは、空地多かる閑處《かんしよ》なれば、大かたは恙なかるべし。異日、囘報、聞えなば、別に謄寫すべくなん。

[やぶちゃん注:「角鹿淸藏」『曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 花』の本文中で馬琴が解説しているので、参照されたい。

「三藏櫻田鶴丸」戯作者仲間と思われる。

「松井舍人【土御門殿家臣】」これ以上の事績不詳。]

バーナード・リーチが愛読していたとする小泉八雲の著作の書名をご存知の方は御教授願いたい

ツイッターで相互フォローしている小泉八雲の玄孫の「あゆこ」(アイルランド在住)さんのツイートで、
陶芸家バーナードリーチがラフカディオ ハーン作品を読んでいたとの記述がWikipediaにありました。

>陶芸家バーナードリーチがラフカディオ ハーン作品を読んでいたとの記述がWikipediaにありました。
>本当なら何を読んでいたのかしら?と、気になりますがWiki 以外の情報が見つからず…💔
>ご存知でしたら教えてくださいませ。

とあったので、昨夜、取り敢えず、本文記事の検索をしてみたが、どうもどの記事も書名・小説名を出しておらず、ウィキを無批判に援用しているだけの感じが濃厚だった。
ただ、一つ、原拠を明らかにしていないが、仏教者の方の記事と思われるが、ここに、

『明治に日本にやってきた小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は、日本人の庶民があまりにも善良で無欲で純真であることに感動した経験を作品として残している。
陶芸家のバーナード・リーチは小泉八雲の作品を読んで、日本に強い憧れを持ち、留学先で友人となった彫刻家で詩人の高村光太郎に日本行きを相談している。
高村光太郎は、小泉八雲が見た日本はすでにないから、日本行きはよした方がよいと言っている。
明治の30年、40年の間にも急激に日本は日本らしさを失ったということのようである。』

とあるのを見て、『高村光太郎! やるじゃん!』と会心の笑みを浮かべた。光太郎には、私は、その後の第二次世界大戦中の戦意高揚のおぞましい詩篇「琉球決戰」などで複雑な思いがあるが、これは、正直、凄い! 彼は、それ以前に、『日本は日本でなくなった。』と誰よりも確かに感じていたのだ――

2022/11/29

ブログ1,870,000アクセス突破記念 梅崎春生 日時計(殺生石) (未完作)

 

[やぶちゃん注:本篇は『群像』の昭和二五(一九五〇)年四月号・九月号・十二月号に連載された。但し、底本(後述)の古林尚氏の解題によれば、『群像』では、以下の本文の、

「一」に相当する部分の標題は「日時計」

「二」に相当する部分の標題は「殺生石(Ⅰ)」

「三」に相当する部分の標題は「殺生石(Ⅱ)」

「四」に相当する部分の標題は 「殺生石(Ⅲ)」

であったとあり、さらに、「殺生石(Ⅲ)」の末尾には、『〈第一部了〉と記されているので、作者に書き継ぐ意志のあったことは明瞭だが、その後』、『未完のまま放置された』とあることから、本作は長篇小説を企図したものの打ち捨てた未完作であることを理解された上で読まれたい。「一」の末尾に表題変更の編者注として、『(以上「日時計」として発表、以下は「殺生石」と改題して連載された。)』と入るが、ここに示して、そちらでは省略した。

 底本は「梅崎春生全集」第六巻(昭和六〇(一九八五)年二月沖積舎刊)に拠った。なお、梅崎春生の短編小説は、最早、上記底本全集のものは、「青空文庫」ここで私よりも先行電子化された分の十一篇を除き、これで、総て、電子化を終わることになる(全リストは私のサイトのこちらの「■梅崎春生」、及び、ブログ・カテゴリ「梅崎春生」を参照)。残るのは、長編「つむじ風」と文芸批評八篇のみである。彼の著作権満了の翌日である二〇一六年一月一日から始めた、私のマニアックに五月蠅い注附きの梅崎春生の電子化も、七年目にして、もう遂に終わりに近づいた。本篇の注は、全くの偶然だが、謂わば――梅崎春生電子化マニアック注の私の最後の作――という気さえしている。但し、注では、その位置までの本文で推定される注に、基本、留めてある。若干、必要上、後文を示唆したものはあるが、ネタバレになるような読者の意欲を削ぐような注は、一切、していない。

 なお、本テクストは2006518日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが、本日、一分ほど前に、1,870,000アクセスを突破した記念として公開する。なお、この前のキリ番二つを作成しなかったのは、こちらの記事で示した通り、botの襲来によって、数日の内に二万アクセスを超えたからである。その後、通常の四百から九百アクセスの間に戻ったので、キリ番を再開することとした。【二〇二二年十一月二十九日 藪野直史】]

 

   日時計(殺生石)

 

      

 

 その猿は、始めの頃は、しばらく小野六郎に親しまなかった。馴れ近づく気配すら、なかなか示そうとしなかった。灰白色の毛におおわれたこの小動物は、つまり外界に妥協することから、意地になって自らを拒んでいる風(ふう)であった。猿の身でないから、その本心は判らないが、すくなくとも六郎にはそう思えた。餌を与えにゆく彼にたいしても、時としてはいきなり威嚇する姿勢をとったり、誇大な恐怖の表情を示して騒いだり、また冷たく黙殺するそぶりに出たりして、素直に食餌(しょくじ)を受取ることはほとんど稀れであった。そういう反撥の風情(ふぜい)は、彼の手に属する以前から、この猿に具わっていたに違いないが、檻(おり)がこの庭に運ばれて以来も、ひとつのしきたりとして、しばらく続けられていた。

 しかし、この猿を飼い馴らそうという気持は、始めから六郎にあった訳ではなかった。

 猿がこの庭に来たのも、六郎がそれを求めたり、欲したりしたからではなかった。もともとこの猿は、六郎のものではない。所有主は別にあった。鍋島という彼の昔の友達である。その鍋島に頼まれて、六郎はこれを預っているに過ぎなかった。

 あの日鍋島から、これを当分預ってくれと頼まれたとき、六郎は少しためらった。

「当分って、何時頃までだね。いろいろ手がかかるんだろうな。食物やなにかに」

「いや、それは簡単だ。君の食事の残りをやるだけで大丈夫だ。手はかからない」

 冬の日であったから、鍋島はしゃれた形のスキー帽をかぶり、ふかふかした新しい外套を着て、六郎の庭先に立っていた。そして六郎の方は見ず、冬枯れの荒れた庭全体を、眼で計るように見廻していた。昔からそうだったが、この男はこんな動作をするとき、身体いっぱいに動物的な精悍(せいかん)さを漲(みなぎ)らしているように見えた。自分の意を通すために、相手の言い分を無視するような、なにか強靭(きょうじん)なそぶりであった。時折現われるこのそぶりが、鍋島という男に生得(しょうとく)のものか、それとも意識的なものか、かなり長いつき合いであったけれども、六郎は未だにはかりかねていた。やがて鍋島は手をあげて、庭のすみを指さした。

「猿小屋をつくるなら、先ずさしあたり、あそこだな」

 そこは家の側面と板塀が直角になった、陽のあたる庭の一隅であった。そこには一本の瘦(や)せた南天(なんてん)の木が、小さな赤い実をいくつか点じていた。しかし六郎は、鍋島の指さした方は見ずに、鍋島の外套の柔らかそうな毛に踊る、冬の日射しの微妙な色合いをぼんやり眺めていた。その色は眼にとらえられないほど淡く、はかなく、幽(かす)かにちりちりと乱れ動いていた。人と話している時や仕事をしている時などでも、それと関係のない、何でもない別の事象に、ふと心を奪われる性癖が、六郎にはあった。鍋島の外套が動くと、日射しは翳(かげ)をふくんで、小さく七色に揺れた。ほのぬくい毛織物の匂いも、それにつれてかすかにただよった。

「猿小屋の費用は、もちろんこちらで持つ。日々の保管料も出すよ」

「まだ引受けるとは言わないよ」と六郎はふと気持を元に戻されて、すこし笑みをふくみながら答えた。「飼って面白い動物かね、それは」

「面白いさ。あんな面白い動物はない。ただし卵ごときを産まないから、実用的じゃないけれどな」

「乳なども出さないのか」

「出さないね。雄だからな。しかし無邪気なものだよ。しかもよく馴らしてあるしよ。極くおとなしい猿だ。君などには丁度(ちょうど)手頃だろう」

「君の家じゃ、飼えないのかね」

 少し経って、なにか考え込む顔付きになりながら、六郎は訊(たず)ねた。

「おれのうちでは駄目だ。町なかだから、音が多過ぎるんだ。あれじゃ猿は瘦せてしまう」

 猿を飼うには、ある程度しずかな環境が必要なのだと、鍋島は鼻を鳴らしながら説明した。その説明も、六郎はあまり聞いていなかった。声は耳を素通りするだけで、六郎は別のことをかんがえていた。庭のすみの南天(なんてん)の方を、すこしまぶしそうに眺めながら、やがて六郎はしずかに口を開いた。

「猿って、あの地方のやつだな。きっとそうだろう。あの山には、猿が沢山いたからな。そいつは奥さんの方の――」

「あ。鈴子のだ」

 鍋島はかるくさえぎった。それから一寸しんとした沈黙が来た。鍋島はだまって庭先に立ったまま、縁側の彼を見おろしていた。この家に、それまでに鍋島は何度か訪ねてきていたが、一度も上にあがったことはない。いつも庭先で用を済ませていた。その日もそうであった。冬にしては、割にあたたかい好天気が続いていたので、ぼろぼろに乾いた庭土を、鍋島の赤靴が踏んでいた。へんに平たい感じのするその靴の形に、その時六郎は視線をおとしていた。猿を預ることはいいけれども、それによって、また鍋島とのつながりが一つ殖える。そんなことを六郎は頭の遠くでぼんやり考えていた。鍋島のいらいらしたような声が、そこに落ちてきた。

「預け放しにする訳じゃないよ。いずれまた引取るんだ。それまでにも、月に二三度は見に来るよ」

 彼を見おろしているらしい鍋島の視線を、よく判らないが何かの意味をもつ圧力として、六郎は額に感じていた。別段の根拠はなく、ただ六郎がそう感じるだけであった。正体の知れない敵に、ただひたすら体を丸めて防禦(ぼうぎょ)しようとする昆虫の姿勢を、六郎は瞬間自分自身に感じた。そしていま限界にあるぼろぼろの庭土、平たい形の赤靴、そして鍋島の声音、(あ、鈴子のだ)とさえぎった軽い響きなど。これらが一緒になって、ある一つの感じとして、何時までもなんとなくおれの記憶にとどまるだろう。故もなくそんな想念が、その時ちらと六郎の脳裡(のうり)をはしり抜けた。その予感は、なにかふしぎな倦怠感を、漠然とともなっていた。次の瞬間、身体のあちこちの筋肉から、急に力が抜けてゆくような感じの中で、猿を預ることも断ることも、どちらにしても同じことだ、と考えながら、六郎はゆるゆると顔を上げて行った。鍋島はその六郎の顰(ひそ)めたような鼻の辺をまっすぐに眺めていた。そして押しつけるように言った。

「じゃ、いいね」

 何時までもなんとなく自分の記憶にとどまるだろう。そう考えたことで、その日の状況は、かなり長い間六郎の記憶にとどまっていた。その記憶も、後のほうでは、あちこちがぼやけて、色の濃淡や匂いのようなものだけになってしまったが。

 それから一週間ほどして、猿は六郎の庭に住むようになった。

 それはごく平凡な形の猿であった。顔と臀(しり)と四肢の先をのぞく全身に、灰白色の短い毛が一面に密生していた。体軀にくらべて、顔がすこし小さく狭い感じがした。そしてそのしなびた顔には、額にあたる部分がほとんど無かった。頭蓋の毛の下端から、すぐ眼のくぼみが始まって居た。そのくぼみの一番奥に、象嵌(ぞうがん)されたような小さな瞳があった。瞳の色は、時によっては黒く見えたり、灰色に淀んで居たり、また時には青く光ったりする。それに時々かぶさる瞼の皮は、薄黝(ぐろ)くしなやかで、なにか精巧な皮細工の一部分のように、柔軟な艶を含んで伸縮した。臀の皮膚はいくぶん暗みを帯びた赤色で、そのつるつるした表面は、なおりかけた傷口に張る薄皮のようななめらかさを、いつも六郎に感じさせた。見ることだけで、その感触が実感できた。その赤剝(む)けの皮膚の部分は、さほど広くなかったけれども、周囲の灰色の毛の部分に対応して、かなり鮮かに目立った。鍋島が言ったように、あの頃あの基地隊のうしろの山で、六郎が時々見かけた猿たちと、同じ種類の猿であることには間違いないようであった。それは毛の色や軀の形などで、おおむね判った。ただ違うのは、あの山の猿たちは、敏捷に樹から樹へ飛び動いていたのに、この猿はその自由をうばわれて、この檻(おり)小屋のなかに踞(うずくま)っている。その違いだけであった。しかしそうした環境の差異が、筋肉や器官などの眼に見えた退化をもたらすことも、あるいはあり得るだろう。この猿にも既に、その退化が始まっているかも知れない。そう思うと六郎には、これがあの山の猿と違った、別の形の生き物のようにも感じられた。[やぶちゃん注:「あの基地隊」ここで六郎の戦時体験がちらりと示されるのだが、以下、今一度、それらしいフラッシュ・バックが出現する。そちらの私の注を、そこで参照されたい。

 しかし軀の形や動作だけでなく、この猿の感情や心理の動きも、野放しの頃とは全く変化しているに相違ない。同じである筈がない、と六郎は時に考えたりした。この考えは、動物心理学的な推論からではなく、眼前の猿を眺めることで、自然に浮んできた。この猿は、鍋島が言ったような、無邪気なおとなしい猿では決してないようであった。よく馴らしてあると彼は言ったが、どう見てもそうだとは思えなかった。馴らすという言葉の意味が、鍋島とおれとでは食違っているのかも知れない。同一の言葉を、おれたち二人は別々の意昧に使っているのだろう。そんなことも六郎は思った。

 猿小屋は、鍋島が指定した通り、庭の東南隅につくった。いろいろ考えてはみたが、庭の形からしても、やはりそこ以外に適当な場所はなかった。建築は近所の釜吉という若い大工に頼んだ。

 猿を一目見た時、釜吉は言った。

「あまりいい柄の猿じゃありませんね、これは。やはりお買いになったんで?」

「預ったんだよ」と六郎は答えた。

 鍋島から運ばれてきた猿は、小さな箱檻(おり)[やぶちゃん注:「檻」にのみルビ。]に入れられたまま、縁側に置かれていた。枠にはまった細い鉄棒を両掌で握って、猿は上目使いに釜吉の様子をうかがっていた。

「猿にも柄があるのかね。それじゃまるで反物(たんもの)みたいだな」

「そりゃありますよ。毛並とか顔かたちによってね。こいつはそれほど上柄じゃないや」

「よく馴らしてあるというんだけれどね」

 釜吉は背を曲げ、掌を膝に支えて、檻の中をしげしげとのぞきこんだ。檻の中はうす暗いので、自然と釜吉の顔も上目使いになっていた。同じ眼付きになったまま、猿と人間はしばらく、お互いの様子をうかがい合っていた。そして急に猿は両掌を鉄棒から離して、狭い箱檻のなかで、ごそごそと後向きになった。軀をすこし低めるような姿勢になり、しかし頭をうしろに廻して、顔だけは釜吉の方をきっと振り向いていた。その小さな顔はくしゃくしゃと皺(しわ)を寄せ、口はすこし開かれて、黄色い歯がむき出しになっていた。両方の口角が後の方にぎゅっと引かれていた。そのままの表情で、鉄棒の方に向けた赤い肛門から、猿は突然少量の便を排泄した。

 つられたように釜吉の顔も、口角を後に引いて、猿と同じ表情になっているのを、六郎はちらと見た。と思ったとき、釜吉は掌を膝から離して、ゆっくりと上半身を元に立てた。顔に皺をよせ、並びの悪い歯を露わしたまま、咽喉(のど)の奥で音を立てるような笑い方をして、釜吉は猿の檻から視線を外(そ)らした。惨めになったようにも、また得意そうな表情にもとれる、へんな笑いであった。

「あの猿も、笑っているのかね」

 そっぽ向いてわらっている釜吉に、少し経って六郎は訊ねた。しかし直ぐあとで、あの猿も、ではなくて、あの猿は、と言わなくちゃいけなかったんだなと、六郎は気がついた。釜吉の頰から、急に笑いの皺が消えたようであった。

「こわがってるんでさ」

 そう言い捨てると、大きく眼を見開いて、ぶよぶよした頰から顎を、釜吉はしきりに搔き始めた。こちらに見せた

横顔のそこらに、吹出物のような赤い粒々が、たくさん出

ていた。

「猿小屋は、そこらが適当だと思うんだがね」

 南天の生えた一隅を、六郎は煙管(きせる)で指した。頰を搔きながら、釜吉は遠近のない視線でしばらくそこらの地形を眺めていた。やがて低い声で言った。

「さて、どんな具合につくるかな。つくるとしても、こいつは材料によるんでね」

「そりゃ立派なやつの方がいいな」と六郎は答えた。「材料費とか日当は、この猿の持主が払う予定なんだ。だから前もって請求して呉れたらいい」

「あ、それはあとでもいいですよ。どうせ同じことだから」

 そう言って釜吉は、ちらとはにかんだような笑いを、その横顔に走らせた。

 猿小屋の建造は、それから十日余りもかかった。それは六郎が想像していたより、はるかに立派な、豪華な檻であった。釜吉は毎日ひとりできて、材木を切ったり、穴をあけたり、組立てたりした。どんな檻が出来ようと、釜吉にそれを任せた以上は、六郎は口を出すこともなかった。六郎は一週間のうち四日仕事にでてゆく。あとの三日は家にいて、本を読んだり、釜吉の仕事ぶりを縁側から眺めたりしていた。

 釜吉は朝九時頃やってきて、ひとしきり仕事にかかり、昼になると、縁側にきて弁当を開く。日当りのいい暖かい日なら、六郎もテツに頼んで、自分の食膳を縁側にはこばせ、釜吉と向い合って昼餉(ひるげ)をとった。釜吉の弁当箱は、すばらしく大きかった。深さも三寸余りあった。その中には、真白な御飯と、いろんなお菜がぎっしりと詰まっていた。それを釜吉は、いちどきに食べた。こんな小柄な男のどこに、あれだけの分量の飯やお菜が入るのか、六郎にはふしぎでならなかった。釜吉は肥っているように見えたが、背丈は五尺ぐらいしかなかった。その肥り方も、どこか不均衡で、たとえば腹は大きいのに、手足は細かった。身体の中に、肥っている部分とそうでない部分とがあって、それらが皮膚によって、雑然と継ぎ合わされている風(ふう)な印象をあたえた。[やぶちゃん注:「テツ」突然に出てきて説明がないが、六郎の妻である。梅崎春生の妻は「恵津」(えつ)である。]

 釜吉は二十三四なのに、もう女房をもっていた。その女房は、釜吉より五つ六つ年長のようであった。駅近くの火の見櫓(やぐら)の下に、小さな細長い家をつくって、釜吉夫妻は住んでいた。なぜ六郎がそれを知っているかと言うと、釜吉の女房は闇の主食などをこっそり取扱っていて、彼も時々それを買ったりするからであった。女房はここら界隈(かいわい)のほとんどを、そのお得意にしていて、なかなか手広くやっていた。その方の収入があるせいか、当の釜吉はぶらぶらしていることが多くて、自分の本業に精出す気持もないふうに見えた。頼まれれば引受けるが、自分から進んで仕事を求めることはせず、あとは働き者の女房によりかかっていた。だから頼まれる仕事も、造作のつくろいや板塀の修繕程度で、ちゃんとした大きな仕事は委せられないらしかった。もっとも若いから仕方がないが、腕も確かでないという評判であった。そういう男に仕事を頼む気になったのも、釜吉の蛙に似た顔や動作に、六郎はもとから微かな関心を寄せていたからであった。この男からもやもや発散するものに、なにか変な異質的なものを、六郎は以前から感じていた。こんな感じの男の生態を知りたい。それほどの強い気持ではなかったけれども、釜吉を身近に眺めたり、また話し合ったりすることで、その何かを確めて見たい。その程度の気持の動きは、釜吉に仕事を頼むときの六郎の胸に、うすうすとあった。

 釜吉の仕事ぶりは、噂のように確かに下手であったが、決して雑ではなかった。むしろ妙なところでひどく丹念であったりした。たとえば材木に穴をあけるにしても、組み上がれば穴は見えなくなるにも拘らず、その穴の内側や底面まで、なめらかに削らねば承知しない、と言った風(ふう)なところがあった。たかが猿小屋に十日余りかかったのも、ひとつはその為(ため)でもあった。また別には、材料をよく吟味して、六郎の予想をはるかに超えた立派な小屋を、彼が作ろうとしているせいでもあったけれども。そしてその仕事ぶりは、なにか楽しそうであった。あるいは楽しもうとする気配が、ありありと見えた。今までは造作や板塀の修繕ばかり几ふるいにこの猿小屋が、釜吉が手がける最初の建築物なのかも知れない、と六郎はひそかに推定した。この仕事への身の入れ方も、そのせいだと思えたし、使用する材料や道具へ釜吉が示す偏愛も、六郎はそんな風(ふう)に一方的に解釈していた。

 しかし仕事以外のことにたいしては、へんにつめたい無関心な傾きが、釜吉の態度にはどことなく漂っていた。たとえば猿小屋をつくっているにも拘らず、その中に住むべき猿については、釜吉はほとんど関心を持たないふうであった。あの最初の日をのぞけば、縁側の箱檻にいる猿を、彼は眺めることもしなかった。少くとも六郎が見ている前では、猿に一瞥すら与えようとはしなかった。また小屋を建てようとする時も、そこに生えた南天の樹を、まるで牛蒡(ごぼう)を引くように、無造作に引き抜いて、庭の真中に投げすてた。道端の小石をかるく蹴飛ばすような無造作なやり方であった。南天を大事にしている訳ではなかったが、その夕方釜吉が帰ったあとで、六郎はそれを庭の西南隅に植え直した。南天を借しむ気待でもなく、また釜吉にあてつけるという気持でも、勿論なかった。ただそうしてみただけである。あまり強くない植物だと見えて、一日で南天はかなり弱っていた。米のとぎ汁などを、六郎はテツに頼んで、その根にかけさせたりした。南天を植え直したことも、翌日釜吉は見て知った筈だが、別段それを口にも出さないし、気にとめた様子も見せなかった。そんなことはどうでもいいと言った態度で、ちろちろと眼を動かしながら、鉋(かんな)を使ったり、丹念に墨縄を打ったりした。釜吉の眼は大きく見開くと、黒瞳(くろめ)が宙に浮くほど巨きく、翳(かげ)りがなく、動物的な感じであったが、すこし伏眼になると、瞳が瞼にかくれて安心するせいか、なにか狡智に満ちた、油断のならない動き方をした。しかし幅広くふくらんだその瞼の皮は、黒瞳の動きが透けて見えるほど薄い。薄い上質のゴムみたいな皮膚であった。それはこの男の中のある冷情さを、六郎に何時もつよく感じさせた。しかし両棲類のそれに似たこの眼は、ふたりで向き合って会話を交えている時でも、六郎の顔を絶対に見ようとしない。視線を相手の顔からすこしずらして、釜吉はいつも対話をする。まっすぐに相手を見ることを、極度に警戒し怖れる風(ふう)であった。しかし六郎がぼんやりと眼を外にあずけている時などに、ふと釜吉のするどい視線を、顔に感じることがある。はっとして瞳を戻しても、もうその時は釜吉はよその方を眺めている。早瀬をよぎる魚の影のような、すばやい盗視であった。

「あの眼付きや身体付きは、どうも変だな。女みたいな、いや、男でも女でもないような妙なところが、あいつにはあるようだ。あんた、そう思わないか」

 ある時六郎はテツに、そんな具合に訊ねてみた。テツは考え考えしながら、そうは思わない、と低声で答えた。

「じゃ、僕だけの感じかな。どうもあの男は、雨蛙みたいな感じがする」

 十何日目かに、猿小屋は完成した。二方は鉄柵(てつさく)になっていて、あとの二面は板張りであった。小屋の高さは、四米近くもあった。内部には、自然木の止り木や、天井から吊したブランコや、小さな椅子などがつくってあった。床が土間でなかったら、人間でも楽に住めそうであった。この出来上りには、誰よりも先ず、釜吉が深く満足したようであった。しかしテツの側からすれば、この猿小屋が出来たために、六郎の母屋(おもや)はいっそう古ぼけて、貧寒にすら見えた。廂(ひさし)を貸して母屋をとられたような感じがないでもなかった。仕事終いの日に、六郎は釜吉に言った。

「猿よりも、むしろ僕の方が住みたいな、こんなに立派な檻になら」

「ほんとですよ。全くですよ」

 釜吉は真顔になって、口をとがらせながら言った。そして鉄柵を掌で押したり引いたりして、そのはまり具合を満足げに確めて見たりした。大工のくせに、釜吉は右手の中指に、いつも金指輪をはめていた。

「どこか具合が悪いところでもあったら、何時でも直しに参りますよ」

 小屋代の支払いは、直接の方がいいとかんがえて、彼は釜吉に鍋島の住所を教え、そこに受取りに行くように言った。だから今にいたるまで、この小屋の建築費がいくら位であったのか、六郎は知らない。釜吉にも鍋島にもつい聞かなかった。その後も釜吉は、仕事のために、しばしば六郎の家に出入りしていた。猿小屋のそれではなく、もっぱら母屋の方の修繕である。母屋も急速に古びて、あちこちが次々にいたんだ。時に彼は頼みもしないのにやってきて、そうした箇所の修理をしたりすることもあった。やはり商売柄だけあって、いたみのくる時期をはかり、うまく目星をつけて修繕にくるのだろうと、六郎はかんたんに考えていたが、あるいは自分がつくった猿小屋を見たいために、釜吉はしばしばやって来るのかも知れなかった。そう言えば時折釜吉は庭に立って、猿小屋に長いこと見入っていたりしていた。そのまなざしからしても、猿を眺めているのではなさそうであった。そうした釜吉の姿から、イソップの絵本などに出てくる後肢で立った蛙の姿などを、六郎はなんとなく聯想(れんそう)したりした。そしてそんな時、釜吉に向けた自分の視線が、ただの好奇心みたいなものだけで支えられていることを、六郎は何時もはっきり自覚していた。網膜にうつすことだけで、そこで何かが完了してしまう一つの装置を、ちかごろ彼は自分の内部に、ありありと知覚していた。しかし相手が釜吉と限らず、そんな装置だけで自分が対象と繫(つなが)っていること、自分にとって他とはそういうものであるということ、その意識は、時として急にしめつけるような切なさを、六郎の胸の奥に伝えてくることがあった。そこに眠ったものを、突然呼びさましに来るかのように。――しかしその切なさも、切なさだけの感覚で、胸の奥の襞(ひだ)を僅かの時間にひりひりと擦過(さっか)し、あとにかるい虚脱を残すのみで、やがて直ぐ消え去ってゆくのが常であったけれども。

 

 猿が小野六郎に馴れてくるまでには、一年以上の月日が流れた。

 猿の日々の世話は一切、六郎の役目になっていた。六郎がやらなければ、誰もやるものがなかった。テツは始めから、はっきりした態度で猿の世話を拒(こば)んでいた。

「あたしはお断りですよ」

 この家の住人は六郎とテツだけだから、テツが拒めば、六郎が一切をやるよりほかはなかった。テツがなぜお断りなのか、猿という生物を嫌いなのか、世話が面倒くさいからなのか、六郎はつい聞きそびれた。もっともテツに世話する意思があるかどうかが、六郎には問題だったので、そんな気持がないと判れば、その理由は聞きただす程のこともなかった。六郎の方から訊ねない限り、自分から気持を説明するような女ではテツはなかった。テツにはもともと、そんな気質があった。そのようなテツを、六郎はある意味で愛していた。たとえば物質にたいするような愛情で。

 猿の飼育は、鍋島が言った通り、そう面倒なことではなかった。毎日食餌をあたえることと、五日に一度檻の中の清掃だけである。猿はほとんど何でも食べた。餌箱に食物を入れてやると、たとえその時はそっぽ向いていたとしても、後で見るとちゃんと食べてしまっていた。植物性の食餌だけでなく、煮干やスルメも食べたし、キャラメルなども食べた。南天の実を与えれば、それも食べた。始めは貪慾な生き物だという感じがしたが、いつかその感じも六郎には無くなっていた。食べるために食べているに過ぎないことが、やがて六郎には感じられてきた。

 馴れ親しんでくるまでの一年ほどの間は、六郎はほとんど無言でこの猿の生態に接していた。積極的に観察するというほどの意図はなかったが、やはり毎日接していることで、彼はかなり微細に、この猿の生態に通じてきていた。それはあるいは彼なりの通じ方にすぎないかも知れなかったが。

 飼い始めて当分の間、その反撥的な気配から、ずいぶん偏屈な動物だという印象は、なかなか彼の頭から抜けなかった。しかしこの印象は、類推として猿一般にひろがりはしなかった。眼の前にいるこの猿に関してだけであった。始めのうちこの猿は、檻の端に据(す)えられた小さな椅子に、陰欝な風貌で、一日中じっと腰掛けていた。折角しつらえたのに、ブランコなどには振りむきもしなかった。食餌(しょくじ)を与えても、素直に受領することはめったになかった。それはひねくれた猜疑(さいぎ)心を、六郎に感じさせた。猜疑心が強く、吝嗇(りんしょく)で、意地がきたなく、その癖ひどく傲慢で、見栄坊なところもあった。そして不親切で、残忍な感じさえあった。猿のいろいろな動作や表情から、六郎はその都度(つど)そんな性質を感受し、抽出していた。しかしたとえば傲慢という言葉にしても、吝嗇という言葉にしても、それらの言葉は、人間の性質の偏(かたよ)りを表示するための符号で、猿の属性にまで適用され得るかという疑念は、いつもその時々に六郎の心の底にかすかに動いていた。そしてその疑念がその度に彼の胸に反復され、やがてはっきりした疑問の形をとるようになった頃から、この猿は当初の印象から、微妙にその感じを変えてくるらしかった。それは飼い始めて、一年近くも経ったあたりからであった。何時の間にかすこしずつ、何かが変ってくる気配があった。それは猿自体が変化してゆくのか、自分の視角が変化してゆくのか、あるいはその両方なのか、その頃の六郎にははっきり判断できなかった。判断できないままに、彼は自分なりの理解が、ごく徐々になだらかに、この猿の生き方に近づいてゆく気配を感知した。同時に猿の方からも。たとえば妨げ隔てているものが、歳月の風化作用によって細い裂目や隙間を生じ、そこから何かが吹き通ってくるように、この猿が生きている隠微な気息が、属科を異にする条件を超えて、ひそかにほのかに伝わりはじまることを六郎はおぼろげに自覚した。

「これはたしかにおれの猿だ」

 ある日突然、六郎はそんなことを考えた。それは言葉としてでなく、ある実感として彼に落ちてきた。もしそれが言葉としてだったなら、その言葉は無意味な筈であった。猿の保管料や食餌費はまだ鍋島の手から出ていたし、その鍋島も月に二三度は、この猿の成長を見廻りにきていたのだから、自分の猿だと言い切る根拠は、現実にはどこにもなかった。だからそれは、六郎の漠然たる気持――だけなのであった。しかし彼のその気持の中には、嘘や錯覚の感じは全然なかった。それはぴったりと彼に粘着していた。

「とにかくこいつは、おれの猿なんだ」

 この猿に、カマドという名をつけたのは、近所に住む二瓶(にへい)という男である。二瓶は六郎より少し上の、三十をいくつか出た年頃で、神田かどこかにある学校の、講師か教師かをやっていた。小柄な身体にきちんと服をつけ、晴天の日でも洋傘をもって出てゆくような男であった。端正な、こぢんまりした顔に、鼈甲縁(べっこうぶち)の眼鏡をかけていて、なにかものを言い出そうとする時には、かならず眼を少し細めて、眼尻に笑みを含んだような皺をよせる癖があった。脂肪をふくんだその襞(ひだ)の形のなかに、かすかに宿るへんに暗い邪悪な翳(かげ)りのようなものを、この男と知合った最初から、六郎はぼんやり感じとっていた。そういう笑いに似た表情をこしらえない限りは、普通の話題にすら口を開かないということは、この男がどこかで韜晦(とうかい)した生き方をしている為(ため)だろうと、六郎はかねがね推定していた。そして二瓶の身のこなしや口の利き方には、自分と他を完全に意識したような、そしてそれがぴったり身についた、疑似の典雅さや柔軟さがあった。身体や顔が全体に小柄で、しかもそれなりに均衡がとれていたから、打ち見たところ、なにか精緻な雛形かカタログを眺めるような感じがした。この精巧なカタログは、しかしどうかしたはずみに、何気ない世間話の合間などに、ふとこちらの気持にひりひりと触れてくるような、はっきりしたものの言い方をすることがあった。そういう時でもこの二瓶の眼尻は、老獪(ろうかい)な笑みの翳をいつも絶やさずたたえているのであったが。[やぶちゃん注:「二瓶は六郎より少し上の、三十をいくつか出た年頃」発表時の梅崎春生は満三十五歳であった。]

 二瓶は学校の講義を受持っている他に、変名で子供雑誌に童話をしきりに書いていた。彼の童話は相当に金になるらしく、二瓶は割に裕福な生活をしていた。二瓶と知合うようになってから、この男の慫慂(しょうよう)で、六郎もいくつかの童話を書いて、その中の二篇ほど金に換えて貰ったことがあった。しかしこの二つの童話も、二瓶の口ききだから金になったので、雑誌社側で歓迎するほどの作品でもないようであった。むしろお情けで載せてもらったような具合であった。もともと六郎には自信もなかったし、情熱もあまりなかった。金にしてやるという二瓶のすすめで、暇々に書いたに過ぎなかった。二瓶にはそういう世話やきの一面があって、言わば六郎はそれに無抵抗で応じただけである。しかし書くことは別に苦痛ではなかった。と言って喜びも別段なかった。だからその作品も、とても二瓶のそれのように、うまく行く筈もなかったのだが。

「君のこの童話は、うまいことはうまいんだけれどもねえ――」

 ある日の夕方、庭の入口に立って、二瓶は原稿を六郎に手渡しながら、いつもの物柔らかな調子で言った。その原稿も、ずい分前に二瓶を通じて、ある少年雑誌に行っていた筈の童話であった。それをやっと六郎は思い出していた。

「ちかごろの子供には、ああしたものはぴったりしないと、雑誌社じゃ言うんだよ。戦争前の感じとは、子供たちだって、ちょっとはずれてきているんだよ」

「そうかな。そんなものだろうな」

 受取った原稿をかるく巻きながら、六郎は気のない受け答えをした。別に何の感情もなかった。この原稿のことはすっかり忘れていたのだし、実は自分で書いたものでありながら、その内容も彼はまだ思い出せないでいたのだから。しかしこちらを見詰めている二瓶の視線を感じると、六郎は義務のようにして言葉を継いだ。[やぶちゃん注:「童話」梅崎春生は実際に童話を幾つか書いている。本篇以前のものは確かには確認出来ないが、私の電子化したものでは、初出誌未詳の昭和三二(一九五七)年一月現代社刊の単行本「馬のあくび」に所収された「ヒョウタン」とか、「クマゼミとタマゴ」がそれである。確実に本篇よりも前のもので、童話風のものとしては、昭和二九(一九五四)年三月号『文芸』に発表され、後にやはり単行本「馬のあくび」収録された、大人向けのブラック・ジョーク風のコント「大王猫の病気」PDF)がある。童話ではないし、八年も後のものであるが、学研が発行していた高校生向け雑誌『高校コース』の昭和三三(一九五八)年一月号に発表された、学園を舞台とした推理物風の「狸の夢」なども青少年向けの特異点の作品である。また、本篇より二年前の昭和二三(一九四八)年九月号『文芸』に発表された「いなびかり」 「猫の話」 「午砲」(どん)の三篇から構成されたアンソロジー「輪唱」PDF)も、後の二篇は、永らく、中学校や高等学校の国語・現代国語の教科書に載せられたので、やはり、かなり若い年齢の対象者を想定して書かれたものであると言える。因みに、「猫の話」は高校教師時代の私の授業の定番小説であった。]

「そう言えば、近頃の子供というのは、よく判らないなあ。もっとも大人たちのことだって、僕にはてんで判りゃしないけれどね」

「そうでもないだろう」

「いや。どうもそうなんだよ。僕の中には、どこかしら足りないものがあるんだ。童話など書けるような柄じゃないんだね、つまり僕は」

「そうでもないよ。うまいよ、君は」

「そんな言い方はないよ」と六郎はちょっとわらった。

「でも大変なことだなあ。金になるならないは、別としてもね。あんたはよくそこをやって行くね」

 眼尻にれいの笑みをたたえたまま、かすかに顎(あご)でうなずいたりしながら、二瓶は洋傘の尖端で庭土にいたずらをしていた。その二瓶の姿を、見るだけの意味しか持たぬ視線で六郎はちらちらと眺めていた。それから暫(しばら)く、そんな風(ふう)な雑談をした。二瓶は庭土に眼をおとしたり、猿の檻を眺めたりしながら、何時ものようになめらかなしゃべり方をした。そしてふと語調を変えて、こんなことを言った。ぼんやり受け答えをしていたので、それまでの会話とどう繫(つなが)りがあるのか、六郎はちょっと戸惑った。

「君はねえ、とにかく安定してるよ。確かなんだよ。いろんなものがね」

「そんなものかねえ」と六郎はあやふやに相槌(あいづち)を打った。しかし二瓶のその言葉は、繫りが知れないままに、突然心に妙にからまってくるのを、六郎は感じた。

「ちょっと脇へ寄ればいいんだけれどねえ。そこで少し違うんだよ」

 その言い方もよく判らなかった。そこでどう違うのか。何と違うのか。しかしその問いはちらと頭の遠くを走っただけで、言葉にする程の気力も、けだるく六郎の胸からずり落ちて行った。猿を眺めている二瓶の眼尻の笑みから、六郎はなんとなく視線を外らした。そしてしばらく黙っていた。するとそのけだるさの底から、内臓の一部を収縮させるようなへんな笑いが、沼の底から浮いてくる気泡のように、ぽつぽつと不規則に六郎の頰にものぼってきた。二人はそれぞれに頰の筋肉をゆるめ、それぞれの顔形に応じて声なき笑みを含みながら、檻(おり)の中の猿の動きをしばらく眺めていた。やがて二瓶は手をあげて、檻の中を指さした。

「ねえ。やはりカマドにちょっと似てるだろう。あの形がさ」

 猿はその時椅子に腰かけ、大仰に肢をひらいて、しきりに蚤を探していた。その猿の姿勢は、強いて眺めれば、竃(かまど)の形に似ていないことはなかった。しかしそれよりも六郎はその二瓶の言葉の外らし方に、ある常套的な韜晦(とうかい)を瞬間に感じていた。六郎は黙った。彼が黙ったのを見ると、二瓶はふいに照れたような、なにか弁解がましい口調になって、すこしあわてた風(ふう)に言葉を継いだ。

「実はこの猿を始めて見たとき、こいつは丁度(ちょうど)今と同じ恰好(かっこう)をしてたんだよ。その印象が僕にはつよく残ってるんだ。つまりそのせいなんだな。僕はそれで、お猿のカマドという話を書いたりしたんだがね」

「ああ、それは読んだよ」自然と皮肉な調子になるのを自分でも意識しながら六郎は答えた。「お説の通り、カマドに似てるよ。だから僕もこいつを、カマドと呼んでいるんだ。ちかごろは、テツまでもね」

 六郎の家の竃(かまど)と二瓶の家の竃とは、同じ土質で同じ形をしていた。大きさも全く同じであった。それは偶然でも不思議なことでもない。六郎の家と二瓶の家は、同じ家主が設計し同じ大工や左官(さかん)がこしらえたものだったから。ちょっと変った形の、使いにくい竃であった。火つきが悪く、ともすればくすぶりたがる性質があった。二瓶が似ているというのは、この竃のことである。

「でも、もうすっかり、人間に馴れたようだな、こいつも」二瓶のその言い方は、急に六郎のその答えから遠ざかったが、独白めいた調子に変った。「早いようなもんだな。まだ君にも馴れてなかったのにね、あの頃はさ」

「ああ、そんな具合だったね」蚤をとらえて口に持ってゆく猿の手付きに、六郎はふと視線をうばわれていた。「しかし、そう早くもないさ。一年半、いや二年にもなるのかな。ずいぶん天塩にかけたんだよ。だってあんたと知合う前からだからね」

「いや、僕の方が、ちょっと先だ。まだこの檻がなかったんだから」

「そうだったかな」

「そうさ。これを造ったのは、あの若い大工だろう。火の見の下に住んでる。そら、柄(がら)の小さい、どこかぶよぶよした感じのさ」

「釜吉だろう」

「ああ、そうだったね。そんな名前だった。あいつはね、君、曲者(くせもの)だよ。身体つきからして、ただ者じゃないね。あんなのは、ちょっと変形すれば、童話のモデルには持ってこいの型だな。あれをモデルにして、ひとつ書いて見ないか。きっと面白いのが出来るよ」

「蛙の、釜吉か」頭に浮んだままを、六郎はふと口にすべらせた。「でも、もう童話に書くのも、少し億劫(おっくう)だな。見てるだけの方が、よほど面白いよ」

 そう言いながらも、屈折した笑いがあたらしく頰にのぼってくるのを、六郎は制し切れないでいた。いつか鍋島が二瓶を評した言葉を思い出したからである。それは二瓶が釜吉を評した言葉とそっくり同じであった。この二人がこの庭先で、始めて顔を合わせた、その直後のことであった。

「今の男はただ者じゃないな」その時、二瓶がいなくなると、鍋島は待ちかまえたようにそう言った。「どんな商売やってるんだね、あれは」

「学校の先生だよ」

「そうか。そう言えば、そういう感じだな。とにかく一筋縄でゆく男じゃない」

 鍋島にしても二瓶にしても、誰でも皆、どこかで力んでいる。皆それぞれのやり方で、無意識に力んでいる。力むことだけで、力んでいる。ちょっと人形芝居みたいだ。――六郎に笑いをいざなったのは、先ずその感じであった。しかしその折れ曲った笑いの中からも、遠くからくる風の音に似た低いささやきを、彼は次のようにとらえていた。――力むということは、そこに力点があるということだ。ところがお前は、お前の中のどこに、そんな力点を持っているのか。どこに。あるいはお前はそいつを、何時、どこ

で、見失ったのか。どこで?

 やがて二瓶は話をすますと、靴音をたてないような歩き方で戻って行った。それを見送ったあとも、六郎はしばらく庭先に佇‘たたず)んで、何となく檻の中に眼を放していた。さっきも二瓶が言ったように、この頃ではこの猿も、すっかり六郎に馴れてしまっていた。いや、馴れるというよりは、もっと別な感じの、もはや歩み寄りをもたぬ静止した関係が、猿と彼の間に生れ始めていた。猿は先ほどと同じく椅子にもたれ、こんどは右脚を曲げて蹠(あしうら)を膝の上にのせ、両掌を代る代る使って、足指を割ってその内をしらべたり、土ふまずのところをしきりに搔いたり、踵(かかと)の肉を不審そうにつまみ上げて見たりしていた。外界に気もとられず、背を曲げて、ゆっくりその動作をくり返している。六郎は黙ってそれを見ていた。やがて猿は右脚をおろして、左脚ととり換えた。同じ動作が始まった。

(この感じは何だろう)

 と六郎はふと思う。なにかがそこにある。たとえば自由とか平安とか幸福とか、そんなものすら感じさせるある雰囲気が、この閉じこめられた生き物のどこかに、ぼんやりと漂っている。いつからこの猿に、こんな雰囲気が具わってきたのか、六郎にははっきり判らない。ついこの頃からのような気もするし、ずっと前からだったようにも感じられる。その揺曳(ようえい)するものは、透明な屍衣のように、猿の全身をうすうすと包んでいる。その中でこの猿は、おだやかに自分の蹠とたわむれている。黒い蹠の形は、べたっと細長く、皺(しわ)をたたんでよく撓(しな)う。そこだけ独立した奇妙な生き物のようだ。――猿はその上半身に、小さな袖無しをまとっている。それはふしぎにこの猿に似合う。(袖無しが似合う猿とは何だろう)その赤い花模様も、前に結んだ白い紐も、まだそれほど汚れていない。この冬に入る前に、鍋島の妻の鈴子がつくって、わざわざ持ってきて呉れたものだ、その時鈴子は、紺のスカートに、緑の毛糸のセーターを着けていた。そして自分で檻に入り、この袖無しを猿に着せた。その姿を六郎は檻の外から眺めていた。猿は別段抗(あら)がいもしなかった。猿のそばにしゃがんで、それを着せることに没頭しているので、緑色のセーターから、鈴子の襟足が不用意にのぞかれた。それは牛乳のように白かった。なにか不幸を感じさせるほど、その皮膚はなめらかに白かった。その部分に視線を食い込ませながら、六郎は胸の底にかすかなカラニタチを感じた。(カラニタチという言葉は、六郎はテツから教わった)そのカラニタチも、自然に起ってきたのか、彼自身で無理にかき立てたのか、しかし六郎にもよく判らなかったのだが。……[やぶちゃん注:「カラニタチ」の意味は後で明かされる。]

「カマド、カマド」

 二三歩檻へ近づいて、六郎は低声で呼びかけた。猿は手を休め、脚を床におろしながら、ゆるゆると面をあげた。おだやかな翳(かげ)をふくんだその顔が、ぼんやりと六郎の方を向いた。六郎を見ているのではなく、六郎を透して遠くを眺めているような眼付きである。くぼんだ眼窩(がんか)の奥には、放射能を失ったある種の鉱石のような瞳が、黒くつめたく固定している。ただそれだけであった。しかしそれにも拘らず、その動きのない眼の中に、じっと見詰められている自分自身の姿を、六郎ははっきり感じていた。それと同時に、なぜか憎しみに似た感情が、六郎の胸の遠くで、かすかに揺れ動いた。何にたいする憎しみとも知れぬ、ゆたゆたと低迷する感情が。六郎は口の中でつぶやいた。

「そうだ。やはり二年経ったんだ」

 猿が始めてここに来たのも、今頃みたいな寒い日であった。そのことを今、六郎は思い出していた。するとそれからの二年の歳月が、捩(よじ)れたフィルムを一気にたぐり上げるように、触感を伴って突然六郎によみがえってきた。背筋に忍び入る夕昏(ゆうぐれ)の寒気をかんじながら、彼はなぜともなく手を伸ばし、丸めた原稿の端で、鉄柵(てつさく)をぐりぐりつついてみた。その六郎の動作を、猿は前と同じ眼付きでちょっとの間眺めていた。そしてゆっくりと腰を浮かしながら、いきなり口角の筋肉をゆるめ、白い歯を出して、瞬間にある表情をつくった。歯のうしろに、濡れた赤い舌が、ちろちろと動いていた。猿はそのまま椅子からずり落ちて後向きになり、三本肢で止り木の根元に、ひょいひょいとうつって行った。

 (あの表情だな)

 六郎はふと身慄いしながら、寒い檻の前をはなれた。あの変な表情を、この猿の顔に見るのも、つい近頃からのことである。以前には、この猿にはなかった。表情、というよりも、なにかが脱落したような、顔面筋肉の弛緩(しかん)に近かった。しかしその中に、六郎は何時からか、ある奇妙な笑いの翳を嗅ぎあてていた。奇妙な、強いて言えば、Xの笑い、といったような感じを。笑いに似かよったこの弛緩は、しかし他の驚愕とか恐怖とか憎悪などの表情と違って、外界に反応することで、この猿面に生起するのではないらしかった。そこと没交渉に生れ、没交渉に消えて行くもののようであった。それ故にこそ、笑い、という感じに、これは酷似していたのであったが。――

「二ヵ月。六十日、か。ふん」

 縁に上り、火の気のない部屋の真中につっ立ち、しばらくして六郎は呟いた。今日二瓶が持ってきた用件のことを、彼は考えていたのである。向う二カ月の間に、長篇童話を一篇書くこと。完成したその童話を、二瓶が手を入れて、ある児童出版社から上梓すること。二瓶の申し出はこうであった。二瓶はこの用件を、先刻の庭先の雑談の終りに、普通の語調で切り出していた。その何気ない調子が、かえって効果を計算した言い方を感じさせた。

「ねえ。やってみないかねえ」二瓶はすこしふくみ声になって、うながすようにそう言った。「もっとも代作だから、厭だろうけれどね」

「いや、それは、何でもないんだが――」

「材料は僕が提供してもいいんだよ。家に帰れば、いろいろあるんだから」

 六郎はただ曖昧に笑っていた。しかし二瓶はそれを、承諾と取ったに違いなかった。いつも二瓶の依頼や慫慂(しょうよう)を、六郎は今までそうした態度で果していたのだから。――二瓶が提出した条件は、割によかった。六郎が金に困っているのは事実だったし、それを知り抜いたような二瓶の条件の出し方であった。しかしそのことはどうでもよかった。また、どちらでもよかった。引受ければ金になるし、断れば金にならない。そのことが頭の表面を、そんな形で擦過(さっか)しただけであったが、ただその申し出の中で、向う二ヵ月という時日の限定の仕方が、へんな焮衝(きんしょう)みたいな感じとなって、じかに胸に貼りついてくるのを彼は意識した。なにか脅やかすような響きをもつ低音部を、その感じは伴っていた。シリーズ物になっているから、時日は絶対に延ばせないという、二瓶の説明であった。[やぶちゃん注:「焮衝」体の一局部が赤く腫れ、熱をもって痛むこと。炎症。]

「ギリギリ。ギリギリなんだよ。〆切りがね」

「ギリギリ、ね」

 分裂病患者の反響症状のように、六郎は唇だけ動かして、そう復唱した。この二瓶にも今までに、相当借金がかさんでいることを、その時ちらと六郎は思い出していた。前に心に貼りついてきたものと、もちろんこれはすこしも関連ないことではあったが。――[やぶちゃん注:「分裂病」統合失調症の旧名。]

(引受けてやってもいいな)火の気のない部屋に立ちすくんで、六郎はふと真面目にそう考えた。そう考えたことで、無抵抗におちた自分の姿勢を、六郎は同時にありありと感知した。彼は急に身体を動かして、やや乱暴に障子を引きあけ、足を踏み入れた。そこは台所になっていた。(――しかし先刻あいつは、おれのことについて、とにかく安定していると言ったが、あれはどういうつもりで言ったのだろう。何が暗手しているのだろう。それとも、おれのことではなかったったのかな)

 台所では、テツが炊事をしていた。しゃがんだまま、無感動な顔をちらと振りむけた。

「何をわらっていらっしゃるの」

「何もわらってやしないよ」

 六郎の眼はなんとなく、猿の食餌(しょくじ)になりそうな残滓(ざんし)を求めて、そこらを動いた。台所に入るたびに、その動作が彼の習慣になっていた。狭い台所には、味噌の匂いがただよっている。そして竃(かまど)の鍋がしきりに鳴っていた。しかし湯気は出ていない。カラニタチをやってるな、と六郎は思う。味噌のかたまりは、水に溶いて火にかけると、まだ煮え立たないうちから、ゴウゴウと沸騰するような音を立てる。それを味噌の「空煮立ち」と呼ぶのだと、六郎はテツからこの間教わった。その発音の仕方には、ある感じがあった。煮えてもいないのに、煮えたような音をたてるとは、何ごとだろう。

 この味噌汁という飲物を、六郎はそう嫌いではなかったが、またあまり好きでもなかった。しかしこのカラニタチという言葉は、軽噪(けいそう)な舌ざわりを伴って、それ以来ときどき、ひとりごとの場合などに、ふと彼の口にのぼってくることがあった。丸めた童話原稿をそのまま、竃の脇のたきつけ籠に放りこみながら、六郎はテツの後姿に訊ねた。

「鍋島は金を持ってきたかしら。前月分の」

「ええ。おととい」

「何か言ってはしなかった?」

「いえ。別段」[やぶちゃん注:「軽噪」軽薄に燥(はしゃ)ぐこと。]

 竃の鍋がその時、湯気をかすかに立て始めた。鍋の下の、竃のなかでは、薪火がしずかに燃えていた。焰はちろちろと分裂しながら、透明に上昇していた。すすけて狭い台所の、そこだけに揺れ動く火影は、この世の重量感をもたぬ、あざやかな非現実的な明るさをそこにひととき点じていた。六郎はその火の色をまっすぐに見ていた。そこに燃え上るものの色どりは、なぜかその時、旅への誘いをつよく彼に感じさせた。澄明な感動をともなって、それは突然彼に来た。その誘いかけは、しかし磅礴(ほうはく)としたひろがりでなく、鮮烈な色や音や匂いをそなえた実体として、いきなり彼にぶっつかってきた。あの磯の特有な匂い、泡立つ波の音、島や雲の形、その海面や砂丘や崖などの色。そこらを強く照りつける、ぎらぎらと灼熱(しゃくねつ)した太陽。そしてその風物の間に、動いたり走ったりする人々の姿なども。それらが一瞬間、確かな手ごたえを持つマスとして、はげしく胸をこすり上げてくるのを、六郎は感じた。それは彼の記憶の堆積(たいせき)のそこに沈んでいた、かつての夏日のあらあらしい風景であった。そしてそこでは、吹いてくる風すらも、ひりひりするような切ない感覚を、彼の皮膚に伝えていたのだが。――しかし六郎は急に我にかえったように首をふって、火の色からそっと視線をそらした。台所の揚板のつめたさが、足袋(たび)の破れを通して、じかに足裏にしみ入ってきた。むこう向きにしゃがんだテツの姿に、六郎はぼんやりと眼をおとした。テツは薪に手を伸ばすために、軀をななめに捩(よじ)りながら、思い出したように言った。[やぶちゃん注:「あの磯の特有な匂い、泡立つ波の音、島や雲の形、その海面や砂丘や崖などの色。そこらを強く照りつける、ぎらぎらと灼熱(しゃくねつ)した太陽。そしてその風物の間に、動いたり走ったりする人々の姿なども」ここが最初に指摘した「基地隊」の追想と直関連する戦時中の記憶のフラッシュ・バックである。梅崎春生が終戦を迎えた桜島での実体験(「桜島」及び「幻化」参照。リンク先は孰れも私のPDF縦書版オリジナル注附き。個別のブログ版は「桜島」はこちらで、「幻化」はこちら)がオーバー・ラップするものの、これは未完の本篇の最後まで、具体には示されない。本篇の続篇が書かれなかったことは、まことに残念で、或いは、「幻化」とは全く別の、彼の書きたかった特異な大作となった可能性も強く感じられるからである。

「そう言えば、鍋島さんも風邪のようだった。大きなマスクなどかけて」

「わるい風邪がはやってるようだね、近頃」

「カマドの餌はとってありますよ。流し板の下に」[やぶちゃん注:「磅礴」交じり合って一つになって広がっていること。「マス」mass。塊り。集合体。]

 テツは黒っぽい袷(あわせ)に、臙脂(えんじ)色の半幅帯を無造作にしめていた。帯の端がすこし垂れて、軀の捩りに応じてゆるく揺れていた。テツは冬でも、そう厚着はしなかった。寒さの感じには鈍いふうであった。元の姿勢にもどると、竃をのぞくように背を曲げながら、テツは薪をあたらしく押しこんだ。その動きとともに、ひとつの質量としてのテツの肉体が、黒っぽい袷のなかに妙にはっきり感じられた。薪がすこしいぶって、白い煙をはき出してきた。

「今来てたのは、二瓶さん?」

 火色にそまったテツの手の動きを、六郎は見るだけの視線で眺めていた。薪をつき動かすテツの手首は、微妙にしなやかに屈折していた。その手首の動きは、ほとんど骨というものを感じさせなかった。

「そう」

 手首にだけでなく、テツの肉体のすべてに、どことなくその感じはあった。骨格が年齢と共に硬化しないで、子供の頃の細さと柔らかさをそのまま保っている。そういう印象であった。肥ってはいなかったが、肉づきは決して貧しくなかった。部分的には豊かでさえあった。そしてどんなに粗食しても、あるいは絶食をしても、瘦せたり衰えたりしないものが、この身体にはあった。寒さや暑さに平気な感覚も、ひとつはこの生理に通じているようであった。水仕事しても、さほど手も荒れない。皮膚はいくらか浅黒く、またいくらか常人より体温が低い。その皮膚の下をはしる、人造バターみたいな無機質なうすい脂肪層を、それは時々六郎に想像させた。テツはたしか二十五歳になっていたが、ふつうその年齢よりはずっと若く見られていた。

「二瓶さんって、ちかごろ金廻りがよさそうね」

「そうらしいね。なぜ」

 腰を浮かせ、半ばふき立った鍋の蓋をとりながら、テツはちらとこちらを見た。

「ときどき、酔っぱらって帰る、という話を聞いたもの。配給所で」

「ああ。――それは昔からだろう」

「――部屋を建増しする、そんな話も出ていた。よく聞かなかったけれど」[やぶちゃん注:「配給所」戦後復興期には、戦前の配給制度が、米穀などの一部で、一時期まで残っていた。本篇の発表は昭和二五(一九五〇)年であるが、ウィキの「配給(物資)」によれば、酒はこの前年の昭和二十四年まで、衣料は昭和二十五年まで、『切符による配給が続けられた』とあり、また、検索したところ、「東京都中央区役所」公式サイト内の「平成20年度 戦中・戦後の食糧事情と配給制度」の「テーマ1:配給制度・切符制度一覧・配給切符」に『主要食糧選択購入切符(昭和26年発行)』という画像(拡大出来ないのが残念)がある。]

 テツの表情には、動きがすくない。表情を殺しているのではなく、もともとそんな感じの顔立ちである。薄い眉毛。大きな黒瞳(くろめ)。眼と眼の距離がぐっとひらいている。なにか未熟な童女的な稚さが、眼鼻の配置やその口元に、どことなく残っている。それは体付きの印象にも共通している。テツを年齢よりも若く見せるのは、先ずその感じであった。また逆に言えば、稚い形のまま成熟したという印象が、テツの全体にひとつのアクセントを与えていた。だから他の女には欠点となるようなところが、テツにとってはむしろ妙な特長になっていた。黒い袷に包まれたその背部を見おろしながら、それに話しかけるともなく、六郎は低く呟(つぶや)いた。

「建増しと言えば、鍋島の家もまだまだらしいな。大変だな、あの男も」

 やがて鍋が煮え立って、それを竃(かまど)からとりおろすために、テツの手や軀が急に生き生きと動いた。焰を前にしているので、その身体の動きのうすい影が、台所いっぱいに淡く揺れた。味噌(みそ)の匂いがつよくただよった。

 その匂いのなかで、テツの肩や腰の線の動きに、ふと六郎の眼は吸われていた。それは一瞬、探るような視線となった。

 ――それはどんなきっかけだったかも覚えはない。いつの時期からかの記憶もない。テツのこの撓(しな)やかな肉体に、なにか異質のものが投げてくる陰影を、いつか六郎はうすうすと感じ始めていた。ほとんどとらえ難いような、へんに茫漠とした翳りが、何時ごろからか、テツの身体のどこかに、ぼんやりとただよってきている。それは儚(はか)ないひらめきや幽(かす)かなたゆたいとして、どうかしたはずみに、ふと彼の触覚や嗅覚などに訴えてきた。しかしその異質なものの実体は、彼の知覚がとどく彼方のうす暗がりにじっとひそみ、未だその姿をあらわさない。輪廓すらもはっきり見せない。しかしそこにひそむものが、どこの誰かは判らないにしても、たしかに自分とは違う別の「男」であることを、生物の本能みたいなもので、やがて六郎は漠然と感知していた。どんな「男」かが、何時頃からか、このテツの肉体を訪れている。それがテツの肉体のどこかに、ふしぎな翳を射しかけている。――六郎にうすうすと触れてくるのは、ただその感じであった。そしてそれはまだ不確かな感じだけに止まっていた。その「男」がどんな相貌をもち、どんな肉体を持っているのか、それを推定する現実の根拠は、まだ彼のどこにもなかった。しかし彼は何時となく、意識のどこかでぼんやりと、知っている男の一人一人を、次々にその「男」の像にあてはめて眺めていた。そしてそこに生じる実感の濃淡から、自然といくつかの幻影が、六郎に迫くかすかに揺れ動いていた。そして意識のかなたに懸るその薄れた幻燈画のなかから、時折どうかした調子で、テツの像だけがふいに鮮明に浮きあがり、急速度に拡大し接近してくるのを、六郎は感じることがあった。それは閃(ひらめ)きはしる矢のように、瞬間に彼に近接し、そして遠ざかって行った。そんな時のテツの像は、なにかひりひりするようなものを、そのどこかに湛えていた。そしてまた、汚れれば汚れる程それだけ新しくなるような何かが、その何かの匂いのようなものが、同時にそこに感じられた。そしてこの感じは、現実のテツのいくぶん奇妙な生理と、部分的にはひどく食い違いながら、また別の部分ではぴったりと重なっていた。

 

      

 

 さむい日が、永いこと続いた。

 荒れた庭のいたるところに、はがねのような霜柱が、毎朝おびただしく立った。そして午近くまで、赤い表土を持ちあげて、その陰で白くつめたく光っていた。猿の檻(おり)の周辺にも、それらは地面に粗(あら)い亀裂をつくり、背丈をそろえた短い刃となって、ぎっしりと押し並んでいた。毎朝ほぼ同じ時刻に、猿に餌をやるために、小野六郎は庭をよこぎって、肩をすくめながら檻の方にあるいてゆく。下駄の歯のしたで、不規則な霜柱の群落は、その度にしろく砕け散って、Crash Crashと音をたてた。毎朝の庭のゆききに、乱れ砕けるその音を、ことあたらしく確めるように、六郎はいつもゆっくり歩を運んだ。昨日も一昨日もこうだった、と六郎は思う。その期待で踏みおろす、膝や足首の感じ。下駄が凍土に触れたとたん、足指や蹠(あしうら)につたわる霜柱の刃の堅くかすかな抵抗。ぐっと踏みこむ。ひとつのものが、たちまち数十数百に分散する、そのふしぎに錯雑した感触。意味もない、ただそれだけの短い潰音。そして折れ砕け、凍土に散乱した氷片の、つめたい色や形や光など。――記憶にあとを引かない、その瞬間に了(おわ)る、そのゆえに澄明な、閃光的な快感が、そこにはある。台所から庭へ廻り、檻の前に立つ。餌箱に投げ入れて、また庭を横切ってゆっくり戻ってくる。早朝の庭の一往復に、一歩一歩のはかない悦びを、こんな感じで六郎はひそかに愉(たのし)んでいた。使用する下駄は、穿(は)き古して歯もすり減った、杉の庭下駄である。霜柱を踏みしだく毎に、赤土をふくんだ氷片が飛びついて、それがそのまま乾くので、木目の浮き出た下駄の台は、常にざらざらと赤黒くよごれていた。そこに毎朝つめたく素足を載せるとき、いつも奇妙に不協和な哀感が、足裏からじわじわと六郎の腰のへんに這いのぼった。[やぶちゃん注:「潰音」ルビ無しなので、「かいおん」と読んでおく。「澄明」「ちょうめい」。]

 カマドの餌箱には、大根の葉や芋の皮がひからびたまま、むなしく積み重なっていた。ここ暫くつづいた寒気のせいか、冬眠に似た鈍麻の状態が、カマドの心身におちているようであった。赤い袖無しの下で、灰白色の背をまるく曲げ、手脚をちいさく縮めて、ペンキの剝げた椅子の上や止り木の枝などに、一日中じっとうずくまっている。うすぐろい瞼の皮は、おおむね閉じられたまま、六郎が檻に近づいても、反射的に薄眼をあけるだけで、自分から軀を動かそうとする気配はほとんどなかった。前日に投げ入れた餌が、そっくりそのまま残っている。手をつけた様子もない。そのままの量と形で、干からびたり、凍ったりしている。それにも拘らず、台所の残滓(ざんし)を手にして、毎朝ほぼ同じ時刻に、同じ表情で、六郎は檻の前に立つ。餌箱の内の堆積に、あたらしく今日の分を投げ入れながら、ちぢこまったカマドの軀幹に、しずかに執拗に視線を止めている。

(まるで剝製みたいだな)

(胎児の恰好(かっこう)にも似ているな)

 そんなことを六郎は思う。そしてまた霜柱を踏みながら、ゆっくりと母屋へ戻ってくる。ひとつのことを完了した、そんな安心の表情が、彼の顔をぼんやりと弛(ゆる)ませている。――

 餌箱にたまる葉や皮は、五六日目毎にすっかり掃除して、空にしてしまう。また翌朝から、一定量ずつ投げ入れてゆく。カマドがそれを食べない限り、これは無益な繰り返しであった。しかしこの繰り返しは、今はカマドの食慾と関係なく、しきたりじみた行事として、こうして六郎の毎朝にあった。その時刻がくると、なにか片付かないような気分になって、六郎は台所の残滓をあつめ始める。眼に見えない掌に背を押されて、霜の庭に出る。習慣化したこの日課は、つまり当初のものと一端を接したまま、他端は漠として遊離し、しかもそれ自身で、ヒドラのように単純に生き始めていた。いつの間にかその腔内に包まれ、そのなかで。オートマティックに動いている自分の姿を、時に六郎はありありと想った。そしてその自分を包む腔壁の、ぶわぶわした、手ごたえのない、ぶきみな分厚さをも。――盲虫のように、その内で生きている自分自身にたいして、しばしば六郎は、物憂(う)いような安堵感と同時に、ある種の笑いが頰の筋肉にはしり過ぎるのを感じた。Xの笑い、とでも言う他ない、原形とのつながりを失って、そのまま散大したような、不安定なたわけた笑いを。そしてそれは、檻の中のカマドの顔に泛(うか)ぶあの笑いと、どこかで類似しているようであった。[やぶちゃん注:「ヒドラ」刺胞動物門ヒドロ虫綱花クラゲ目ヒドラ科 Hydridae に属するヒドラ属 Hydra 及びエヒドラ属 Pelmatohydra に属する生物群の総称。注意されたいのは、狭義のヒドラであるこの二属は総てが淡水産で、海産は存在しないことである。古いが、私の「生物學講話 丘淺次郎 四 寄生と共棲 五 共棲~(1)」、及び、図の出る「生物學講話 丘淺次郎 第九章 生殖の方法 四 芽生 ヒドラ」を参照されたい。「盲虫」ルビがないが、「めくらむし」と訓じておく。「盲腸」と「虫垂」の混淆した造語であるとすれば、「もうちゅう」でもおかしくはない。前者の場合、クモの一グループで、フラフラ歩く私の甚だ生理的嫌いな、節足動物門鋏角亜門蛛形(クモガタ)綱ザトウムシ目 Opilionesの和名は「座頭虫」で、別名「メクラグモ(盲蜘蛛)」(これは差別異名として研究者は殆んど使わない)とも言うが、以上の叙述は本種を指しているとは思われない。寧ろ、前に言った――盲腸のように、人体の中で無益な存在として盲目の虫のようにあるそれ――を指しているという方が極めて腑には落ちる。]

「鍋島が引取って呉れないなら――」それを意識するたびに、六郎は本気でかんがえたりした。「この猿公も、檻から放してやろうかな」

 発作的にそう考えてみるだけで、手を下してやるまでには、もちろん気持が動かなかった。扉をあけ放せば、それで済む。そうと知ってはいても、それを実行するまでには、ある踏切りみたいなものを越えねばならない。どんな形の踏切りだろう。それすらはっきり判らないのに、その予感の重さだけで、彼の内側のものは、みるみるうちに萎(しな)び縮んでしまうのだ。寒さに触れてきゅっとちぢこまる虫の体のように。――その姿勢のまま、待っていること。何かがお前の肩をたたきに来るまで、じっとしていること。と、六郎は自分に言い聞かせ、胸の襞(ひだ)に切なく擦過(さっか)してくるものを、しきりになだめにかかる。しかしこの言いくるめに対しても、れいのXの笑いが、六郎の頰をうっかり弛(ゆる)ませてしまうのだが。――かすかな便意を怺(こら)えているような、そんな感じさえなければ、今のこの状態は、爽快だとは言えないだろうが、なにも居心地悪くはないじゃないか。どこかが痳(しび)れたような感じも、それはそれで、気にとめなければいい。そうすれば、むしろ確かな平安の風情さえ、この日常にはあるじゃないか。たとえそれが、色褪(あ)せた剝製の平安であるとしても。……

 来る日も来る日も、こうして寒さがつづいた。三月に入っても、気候はほとんど動かなかった。檻の檐(のき)から、いくつも氷柱(つらら)が垂れたりした。そのような張りつめた強情な寒気も、三月も半ば過ぎてからついに保ち切れなくなったように、ゆるみ立つ気配を見せ始めた。へんに湿気の多い、曖昧(あいまい)な天候が四五日つづいた。ある夜半から、にわかに大風が吹き起って、翌日いっぱい、母屋の軒のこわれかけた樋(とい)の端を、ひっきりなしに鳴らし続けていた。風が止むと、灰を吹き散らしたような雨が、しずかに地面におちてきた。二日あまり音なく降りつづいて、やっとその雨があがったあと、こんどは空気が急速に乾き始めた。火災警報が出た。

 そして突然、春がきた。

 庭の感じが妙に平らだと思ったら、気がついて見ると、あの霜柱の群がいつの間にか、すっかり地表から姿を消していた。しめり気を含んだ庭土のあちこちに、もう草の下萠(も)えが始まっていた。そして乏しい庭樹のたたずまいにも、やがて生色のよみがえる気配がうごき始めた。先ず他の樹にさきがけて、冬中は枯色にくすんでいたサルスペリの木が、その彎曲(わんきょく)した幹の背に、絹靴下をはいた小娘の膝頭のような、妙にいやらしい艶をのせてきた。と思うと、その枝々も一斉に、いつか脂をうっすらと皮肌に滲ませ、ぬめぬめと光りながら、それぞれの方向にくねり伸びていた。縁側から、庭先から、ふとその色合いを眼にする時、なにか嘔きたくなるような感覚が、ふいに六郎の咽喉(のど)の奥をはしったりした。不毛の色情、そんなものをその肌理(きめ)は感じさせた。そのサルスベリにだけでなく、庭中に音無くざわめき立つすべてにたいしても、時に六郎は、じわじわと肌な逆撫でされるような、かすかに不快ないらだちを感じた。理由もなにもない。しらじらとしたこの抵抗感は、その時の気持の上からではなく、もっと肉体的な、生理の奥から発するように思われた。それはやがて節々の疲労をともなって、けだるく六郎の毎日にかぶさってきた。

 身体の底にしゃがんでいる、なにか根元的な生理の破調を、そして六郎はぼんやりと自覚した。それはまだ、どの筋肉、どの器官にも、症状としては出てこないが、そこらのどこかにじっと潜んでいるのは確かであった。自分の経験から、六郎はそれをよく知っていた。気侯のかわり目を、季節の四つの関節とすれば、その第一関節にあたる今の気侯は、例年かならず六郎の身体に、なにかのわるい影響をあたえていた。ずっと少年の頃から。――その影響も、年によって大小があって、はっきり病気となって出てくることもあるし、どこか具合がわるいという程度の、ほのかな病感だけで通り過ぎることもあった。季節にまける、たとえば夏まけみたいに、六郎はこの季節にまけるのかも知れなかった。だからこの季節の大気に触れると、かならず六郎は自分の肉体の奥底に、感じまいとしても、得体の知れぬ不快なかたまりを感じてくる。かたまりと言っても、始めはまだ形を成さぬ、ただ鈍く押しつけてくる感じだけなのだが。――しかしその感じのなかに、漠とした病気の予覚が、今年もすでに彼にあった。

 (いずれどこかに、出てくるだろう)

 朝の寝覚めなどに、身体のあちこちの部分を、確めて見るように、掌や指先で押しながら、六郎はそう思う。昨年は妙な熱病だったし、一昨年はたしか黄疸(おうだん)だった。今年はどこに来るだろう。そう考えると、見知らぬ人を駅に待つような、かすかないらだちと、ほのかな期待が、六郎の胸を揺ってくる。来るなら、早く来い。病気を待ち望む、そんな倒錯した気持にも、彼はおちていた。[やぶちゃん注:ここで主人公小野六郎の近過去に示される病気は、発表の昭和二五(一九五〇)年当時の梅崎春生の病歴とは一致はしないと思うが、本篇の冒頭からずっと続く異様な対象の凝視と、それに対する拘った連想と観念的連合(異常な執着)は、既に読者はちょっと普通でない印象を持つであろう。これはある意味、ノイローゼや双極性障害(躁鬱病)、及び、統合失調症(但し、梅崎春生の場合はこの疾患の罹患可能性は中年期から没年にかけて以後では全く認められないと考える)の初期に見られる関係妄想にかなり近い。しかも、梅崎春生の小説には、こうした異様な感じを与える関係妄想的雰囲気や認識が、主人公等の中にも、頻繁に現れるのである。既に小説「その夜のこと」と、その続編「冬の虹」PDF『梅崎春生「その夜のこと」+続編「冬の虹」合冊縦書ルビ版(オリジナル注附)』も作った)など、幾つかの作品で語られているが、春生は東京帝大国文科に入学した翌年昭和一一(一九三六)年(満二十二歳前後)に、下宿の雇われていた老婆を椅子で暴行を加えて負傷させ、一週間ほど留置場に拘留された経験があるが、現在、これは『幻聴による被害妄想』(底本全集別巻の年譜)とし、加えて、入学以来、『多少』、『鬱病気味』(昭和六一(一九八六)年沖積舎刊中山正義「梅崎春生――「桜島」から「幻化」への道程」末尾年譜)とも推定されている。この事件の事実内容は詳しく知ることが出来ないが、私は双極性障害というよりも、かなり強い病的な関係妄想によるもので、強迫神経症の重度の様態に近いと私は考えている。なお、本篇以後では、晩年の昭和三三(一九五八)年、顔面痙攣を伴うような高血圧の発症が始まり、『いつ発作が起きるかという不安と緊張で(このことが血圧に悪い)だんだん外出するのがいやになり、ことに独りで歩くのがこわくなって来た。他人に会うのもいやで、厭人感がつのって来る。一日の中一時間ほど仕事をして、あとはベッドに横になり、うつらうつらとしている。考えていることは「死」であった』(梅崎春生「私のノイローゼ闘病記」)とあり、精神科の医師からも『鬱状態(不安神経症状)』(前掲中山氏著)と告げられ、翌昭和三十四年の五月に精神病院に入院し、持続睡眠療法を受けている(エッセイ「神経科病室にて」参照)。それから四年後の昭和三十八年八月、蓼科の別荘で吐血し、同年十二月に入院、翌昭和三十九年一月に肝臓癌の疑いで東大病院に入院し、昭和四〇(一九六五)年七月十九日に急逝した。満五十歳で、死因は肝硬変であった。]

 季節のそんな推移につれて、カマドの食慾もみるみる回復してくるらしかった。投入れた餌の減りに比例して、排泄物の量が、眼にみえて増えてきた。それらは堅い床のあちこちに、黒くころころと散乱していた。冬の間はうすれていた、猿特有のなまぐさくむれた臭気が、やがて磅礴(ほうはく)と檻に立ちかえってきた。その臭気のなかに、何よりも六郎は、今の季節の表情をつよく感じた。そしてそれに繫(つなが)る彼自身のなかの、ぼんやりした生理の不調をも。――その感じの芯(しん)を嗅ぎあてるように、六郎は檻の前に佇(たたず)んで、長いこと鼻を鳴らしていたりした。

「――この匂いだったかな。こうだったなあ」

 沈丁花(じんちょうげ)が道にかおり、コブシが白い花をつける頃から、やがて春の花々は一斉にひらき、それらの花粉が風にのってただようらしく、大気がしっとりと重さを加えてきた。すると六郎は急に、右の奥歯が痛み出した。

 一昼夜たつと、それはもう我慢できない程、ずきずきと疼(うず)きわたってきた。そしてその部分の頰の肉が腫脹(しゅちょう)して、一寸位の厚さになった。

「第一臼歯。下側の第一臼歯ですな、これは。人間の歯の中隊長です」

 痛む歯の名を訊ねたとき、顔の四角な実直そうな歯科医は、真面目な顔でそう答えた。そしてピンセットの先で、その歯をこつこつと叩いた。音がにぶく歯の根にひびいた。椅子に顔をあおむけて見上げているので、歯科医の肩がことのほか高く感じられる。ピンセットをはさむ指はフォルマリンの匂いがした。

「――そして、これが第二臼歯。奥にあるのが、親しらず――」

 次々の歯の孔に、ピンセットの先が撓(しな)うのが判った。口を大きく開いたまま、顔を固定しているから、動かせるのは眼球だけであった。六郎はしぜんと自分の眼が、しばられた犬の眼のようになるのを感じた。落着かぬまなざしで、六郎は医師の顔を見上げたり、窓外の柿の若葉に視線をうつしたり、医師の手がっぎつぎ取上げる道具類を、ちらと盗み見たりした。医師の姿勢がかわる度に、ガリガリと歯をけずる器械や、妙な匂いで噴出する空気や、ピンセットや先のとがった金属棒が、代る代る口の中に出入して、痛む歯のへんを縦横にかき廻した。そしてやっとのことで、一応の治療がすんだ。あまり長いこと口をあけていたので、閉じようとすると、顎骨がそのつけ根のところで、ごくりと不気味な音を立てた。

「いずれこいつは、抜かねばなりませんでしょうな」手を洗いながら、職業的な平気さで歯科医は言った。「しかし痛みはこれで、一応おさまる筈です」

「ほっとくと、どうなるんです?」

「多分また、痛みがくるでしょう。根が駄目になっているんですから。直ぐ抜いてあげてもよろしいが、しかし抜くのはいつでも抜けるんだから、その前に、上側の虫歯の治療をやったがいいでしょう。そして様子を見て、今の歯を抜くことにします」

「――抜くのは、痛いですか」頰を押えて椅子から立ちながら、ふくみ声で六郎は訊(たづ)ねた。

「いや。カンタンです」歯科医は四角な顎を動かして、いやにはっきりと答えた。

 しかし、その痛さがカンタンなのか、ひっこ抜くのがカンタンなのか、その口ぶりでは判然しなかった。六郎はだまった。曖昧な顔つきになりながら、しぶしぶ金入れを取出して、治療代を支払った。そして心の中でかんがえた。

(――引抜くとしても、それで今年の分が済むなら、まあ大したことだ)

 二日か三日に一度、この歯科医にかよって、脱ぎ捨てられた古靴のように無感動に口をあけて、その何分間かを辛抱すればいい。六郎は自分にそう言い聞かせ、すこしは安心した気分にもなった。漠としてかぶさっていたものが、とにかく形をなして、一応片付いた感じであった。しかし歯科医の説明では、第一臼歯という歯は、その歯自身の傷みだけでなく、内臓や器官の弱まりに関係あることが多い、という話であった。その言葉は、ちょっとした不安の根となって、六郎の胸にわだかまっていた。彼はときどき指を口に入れて、病んだその歯の形を探ってみた。その度に奇妙な感触が、指の腹につたわる。病歯は琺瑯(ほうろう)質の周辺がぎざぎざにとがって、まんなかに孔をふかく陥没させていた。痛みは一応おさまっていたけれども、小指でその孔を押えてみると、痛みの前兆みたいなものが、歯根のあたりにためらい動くようであった。歯齦(はぐき)にも、にぶい重さがあった。そしてこの歯だけでなく、他の歯も全体的に浮いている感じであった。どの歯かがまた、痛み出すかも知れない。歯齦の不確かな手ごたえが、そんな予感を彼に持たせた。[やぶちゃん注:「歯齦」は正しくは「しぎん」と読む。歯肉・歯茎(はぐき)の旧称。]

 三月末のある日、六郎はとつぜん三十三歳になった。

 年齢のあたらしい算え方で、そうなるのであったが、その日まで六郎は、そのことをすっかり忘れていた。その夕方、鍋島鈴子がやってきた。縁側に鏡を据(す)えて、六郎は鬚(ひげ)をそっていたが、鏡面のどこかに緑がひらめくと思った瞬間、痛みの伝わるような速さで、鍋島鈴子の全身を彼は感知した。手を休めてふりむいた時、長者門をくぐって、鈴子の姿が庭に入ってくるところであった。鈴子は紺のスカートに、いつもの緑色のセーターを着けていた。そしてその腕に、重そうに一升瓶をかかえていた。黄昏(たそがれ)の色がふかいので、白い顔が花のように、そこだけが非現実的に近づいてきた。故もなく、畏(おそ)れに似た感情が、神経的に彼のなかにはしった。[やぶちゃん注:「三月末のある日、六郎はとつぜん三十三歳になった」これは年齢の計算方法を定める戦後日本の法務省所管の法律「年齢のとなえ方に関する法律」が施行をされたことを指す。これは年齢の数え方について、それまでの数え年から満年齢に変更するために制定されたもので、昭和二四(一九四九)年五月二十四日公布で、翌昭和二五(一九五〇)年一月一日施行である。

「長者門」通常、古い屋敷の豪勢な長屋門を指すが、ここは単に正面玄関の門柱を指している。所謂、台所や風呂の側の勝手口や、庭などにある木戸などの裏口に対して言っているに過ぎないが、梅崎春生は、この見栄を張った大層な言い方が好みであり、他作品でも見られる。]

「鍋島が、持ってけと言ったの、これ」

 あいさつを済ますと、鈴子は持っていた酒瓶を、そっと縁側に押しやった。ふたたびカミソリをあてながら、六郎は横眼でそれをちらちらながめていた。戸惑ったような顔になるのが、自分でも判った。それを押えるように、カミソリの刃が頰の皮に、じゃりじゃりと粗い音をたてた。

「ありがとう」少し経って彼は言った。あとはひとり言のように「――でも、鍋島は、どんな趣向なのかな。こんなものを、僕によこすなんて」

「あなたの、誕生日なんでしょう、今日は」

 カミソリを持つ手が、ふと止った。そう言えばおれの誕生日だった、と彼は気付いていた。三十三歳。自分でも忘れていた今日の日を、鍋島がちゃんと憶えている。そのことが妙にからみつくような感じとなって、六郎の語調を急に曖昧にさせた。[やぶちゃん注:年齢が突然、一つ若くなるという、あり得ない椿事を上手く扱ったシークエンスである。なお、梅崎春生の誕生日は大正四(一九一五)年二月十五日生まれ(従って、既に述べた通り、当時の梅崎春生は満三十五歳である)であるが、本篇の初回の公開が昭和二五(一九五〇)年四月号であったことから、アップ・トゥ・デイトにそれに合わせた(「二」相当の原稿はある程度、初回の時に草稿が出来ていたのであろう)ものであろうかと思われる。]

「――ヘえ。よく、覚えてるんだなあ」

 放心したような視線を鏡面にもどして、六郎はそう呟(つぶや)いた。そしてなぜとなく注意ぶかい手付きになって、ゆっくりカミソリを動かし始めた。鏡にうつる彼の顔は、ただ剃られるだけの表情をつくって、彼をじっと見守っていた。――鈴子はしずかに縁側から離れると、檻の前にしゃがんで、カマドの姿に眺め入るらしかった。視野の端にぼんやりそれを収めながら、だまって六郎は周到に刃をうごかしていた。やがて顎の裏まで克明に剃り終えると、石鹸ですこし硬(こわ)ばった顔のまま、六郎も庭へ降りで行った。むこうむきにしゃがんだ鈴子の姿は、薄明のなかで、何故かひどく疲れたものの感じをただよわせていた。ふと息苦しい気持におちながら、その後姿に、六郎は低声で話しかけた。[やぶちゃん注:「なぜとなく」ママ。と言っても、おかしくはないが、今はこうした言い方は使わないだろう。「低声」「ひきごえ」。]

「――鍋島も、元気なようですか」

「ええ」のろのろと立ち上りながら、鈴子はちらと白い顔をふりむけた。「あまり元気でもないようだわ」

「仕事がうまく行かないのかしら」

「ええ。何もかも」

 そして鈴子は投げ出すような短い笑い声をたてた。なめらかな頰にうかんだ笑くぼを、ある惨酷な感じで六郎はぬすみ見た。

「元気になりますよ。あの男のことだから」

「どうかしら。――あの人も、ずいぶん変ったわ。この一二年で」

「変ったように見えるだけですよ」ふいに鈴子から眼をそらしながら、六郎はすこし乱れた声で呟いた。「もとと同じですよ」

「そうかしら。――そう言えば、貴方はすこしも変らないようね」無心な皮肉がそこにつよく響いた。六郎はすこしたじろいだ。「いつお会いしても同じ感じだわ。ふしぎね」

 ――やがで鈴子が帰った後、妙にけだるい気分におちながら、六郎は縁側に腰をおろしていた。病歯の対称の位置にある左の大臼歯に、かすかな疼(うず)きが感じられた。

 鈴子が置いて行った瓶には、芋焼酎がなみなみと入っていた。栓をぬくと、特有のあまい匂いが、ほのぼのと立ちのぼった。それは束の間の郷愁を、六郎の胸にかき立ててきた。田舎からわざわざ取寄せたものに違いなかった。

(それにしても――)瓶口に鼻をつけて、執拗(しつよう)にその香を嗅ぎながら、六郎は思った。(他人の誕生日を、よくあいつは知っているな)

 あの人もずいぶん変った、と先刻鈴子が言った時、六郎は現実の鍋島と会ったよりも、もっと歴然と、鍋島両介という男を実感した。鍋島両介という男の、容姿や挙動だけでなく、その内部にひそみ動く、ふしぎに暗い翳(かげ)のようなものまでも。――その瞬間を、今六郎は思い出していた。――その時の鈴子の声は、ひくく乾いていた。しかしそのすべすべした頰には、笑くぼがそのまま、白っぽく残っていたのだ。望遠レンズをのぞくように、その一瞬、六郎は自分の内のものが、一挙にそこに近まってゆくのを感じたのだが。――[やぶちゃん注:「今六郎」はママ。「今、六郎」とすべきところ。]

「両介は狩装束にて、か」

 思わずそんな呟きが出た。両介にたいしてか、鈴子にたいしてか、そんな疑似の接近を彼にうながしたものは、何だろう。そこにかかる不幸の形式を、六郎は今ありありと感知していた。

「……〽数万騎(すまんぎ)那須野を取りこめて草を分って狩りけるに。身を何と那須野の原に。顕れ出でしを狩人の。……」[やぶちゃん注:最後のそれは、謡曲「殺生石」のエンディングの地謡の章詞。この「狩人」の読みは、原拠では「かりびと」である。「殺生石」は五番目物の複式夢幻能で、五流で現行曲にある。作者不明であるが、日吉佐阿弥(さあみ)ともされる。玄翁和尚(げんのうおしょう:ワキ)が、供人(アイ狂言)を連れて那須野を通りかかると、飛ぶ鳥が大石の上に落ちるのを見る。呼びかけて出た女(前シテ)は、それは殺生石といって狐の執心だから近寄るなと警告し、美女となってインド・中国・日本の帝を悩ました昔話をして消える。和尚の授戒で大石は二つに割れ、中から本体を現した妖狐(後シテ)は、玉藻前(たまものまえ)に化けていたのを見破られ、逃げてきたこの原で退治されて執心の石となったことを演じるが、やがて和尚の法力に解脱して消え失せる。後シテを九尾の狐の冠を頂く官女の扮装とする演出もある。以上は小学館「日本大百科全書」に拠ったが、概ねの章詞はサイト「名古屋春栄会」のこちら、及び、小原隆夫氏のサイト内のこちらが読み易い。六郎の内面にある現実世界のあらゆる対象に対する執拗な拘り(特に自ら違和感を持ちながらの半肉感的・半性的な妄想的でフェェイシュなニュアンスを持つそれで、先のテツへの眼差しや、以下の「三」の冒頭にそれが強く感じられる)と、漠然とした死のカタストロフの予感がオーバー・ラップされてあるものと私には思われる。因みに、六郎がその前に呟く「両介は狩装束にて、か」という六郎の台詞の内の「両介は狩装束にて」は、正しく「殺生石」の章詞で、以上の「〽数万騎」の前にあり、さらにその前にシテの台詞で同じ「両介(リヨオスケ)は狩装束(カリシヨオゾク)にて」(所持する『新潮日本古典集成』の「謡曲集 中」(昭和六一(一九八六)年刊)に拠った)とある。ネット上の本謡曲の電子化では、中入のワキとアイの問答が、どのサイトのものも省略されているが、そこで過去の話がかなり具体に長く語られているのである。但し、それは本文の後半でもコンパクトに出てはいる。手っ取り早く言うと、小原隆夫氏の「殺生石」の冒頭の「玉藻前伝説」の項にあるように、美女「玉藻前」に耽溺した鳥羽院は、俄かに病いとなり、陰陽頭安部泰成を召し出して占わせたところ、「玉藻の前」が実は「九尾の狐」と判明し、彼女は消え失せるのだが、鳥羽院はそれを信じようとしなかったものの、自体の深刻さから、『妖孤が那須野に逃れたことを知った朝廷は、東国の武将上総介』(かずさのすけ)『と三浦介』(みうらのすけ)『に妖孤退治の勅を下し、八方の軍勢を遣わす』のである(「殺生石」本文の章詞にも結果して『その後』(のち)『勅使立つて』『綸旨なされ』と出る)。その後、紆余曲折があるが、二人の武将が鍛錬を尽くし、而して、再度、『妖孤退治に臨』み、遂に『両人は』『九尾の狐を射止めることに成功する』という過去の事実が示されるのである。さて、この台詞の「両介」とは、以上の通り、原謡曲本文では、その退治した名武将上総介と三浦介の「両介」の意なのである。それを六郎は、鍋島両介の名に洒落を掛けて、ぽつりと口に出したのである。梅崎春生の小説作法としては、「能」の予備知識なしには、到底、判りに得ないものであって、彼としては、かなり珍しい仕儀であるとは言える。但し、例えば、「猫の話」(単独PDF版)に唐突に出て、何の解説もない「詩経」の「国風」の一篇「蟋蟀」(しっしゅ)の二句「蟋蟀在堂 歳聿其莫」の超難解なケースもあることはある。なお、当該句については、私の『梅崎春生「猫の話」語注及び授業案』PDF)を参照されたい。

 

      

 

 沓(くつ)脱ぎから縁側にあがり、そのまま燈もともさず、小野六郎はしずかに片膝をたてて坐った。座蒲団をしかないので、冷えた板敷にふれて、脚の骨がごりごりと鳴った。そして六郎はしばらく、さっき鈴子が小走りに帰って行った長者門の方角を、ぼんやりと眺めていた。門のあたりから外にかけて、暮色が濃くただよい始めている。

 風がかすかに立って、南天の葉をひらひらと動かしてくる。

 やがて六郎は臂(ひじ)を伸ばし、鍋島両介から贈られた酒瓶を、膝もと近く引きよせた。透明な液体が瓶のなかで、ゆたゆた揺れるのが判る。手酌で湯呑茶碗になみなみとみたすと、彼は鼻の前でその匂いを確め、ゆっくりと一口含んでみた。芋焼酎特有の味と匂いが、口腔いっぱいにひろがってくる。なまぐさい後味をのこして、それは咽喉(のど)をすべりおちて行った。

「さっきは、妙な具合だったな」

 湯呑みを下に置きながら、六郎は思う。鍋島鈴子の頰の触感が、まだ六郎の唇の皮に、まざまざとのこっている。

 ――あの時鈴子は、短い驚きの叫びをたてて、顔を横にそむけたのだ。だから六郎の唇は、鈴子の唇にかぶさらずに、いきなりなめらかな頰につき当ってしまった。あの大きな笑くぼがうかぶ、頰のその部分に。六郎の両手に抱きすくめられて、鈴子の胸や胴が、緑の毛糸のセーターの下で、はげしくねじれ動いた。かなり長い時間だったような気がする。鈴子の頰の皮膚は、軟かくつめたかった。なめし皮にも似たその感触を、六郎はその間、自分の唇だけでなく、前歯の表面ででも確めていた、と思う。

「唇が割れて、歯が露われていた、とすれば」六郎はまた湯呑みをとり上げながら呟(つぶや)いた。「――おれはその時、わらっていたのかな?」

 その感じを顔の筋肉に呼びもどそうとして、六郎はうす暗がりの中で、ひとつの妙な表情を拵(こしら)えていた。そしてそのまま、湯呑みを唇にあてて、一息にかたむけた。密度のある液体が、また舌や咽喉(のど)に抵抗しながら、食道に流れおちて行く。しばらくして腸の部分部分に、熱感が追っかけるように走ってきた。

(おれはどう言うつもりだったのだろう?)

 猿の檻の前で、あの時六郎は、鈴子とむき合っていた。鍋島両介のことなどを、話し合っていたのだ。鈴子は片脚に重心をもたせ、ひどく疲れた感じで、そこに佇(た)っていた。そして何気ない会話にはさんで、投げやりな短い笑い声を立てたりした。その度に頰にうかぶ笑くぼの翳を、ある惨酷な感じで、六郎はぬすみ見たりしていたのだが。――そしてぽつんと会話がとぎれた。しばらく斜めにうつむいて、檻の猿を見ていた鈴子が、なにか言おうとして、ふいに顔を上げた。白い顔が眼の前で、花のように揺れた。ある衝動とともに、六郎は二三歩踏み出して、予行演習のようにぎごちなく、鈴子の体軀を抱きすくめようとした。短い叫びと一緒に、鈴子の上半身が六郎の腕の環のなかで、いきなりくねくねとよじれた。女の匂いがつよく。――その瞬間六郎は、自分を駆りたてた衝動と思ったものが、じつはどこかで計算され組み立てられた疑似の衝動であるらしいことを、はっきり感じてしまっていた。しかし彼は腕をとかず、鈴子のそむけた頰に、そのまま唇を押しつけて行った。そこにあるものを、とにかく確めよう、とするかのように。――

「条件は、そろっていた、と思ったんだがなあ」

 六郎はゆっくり立ち上って、電燈の位置をさがした。酔いがだるく下肢にきている。スイッチをひねると、四周にぼうと黄色い光がにじんでくる。近頃ひどく電圧が低下しているのだ。しかし六郎はわざとらしく、まぶしそうに目を細め、うす笑いの顔になりながら障子をあけて台所に入って行った。台所には、誰もいない。テツは昼頃から外出して、まだ戻ってこないのだ。どこに行ったのか、六郎も知らない。行先を知らせ合う習慣も、もとから二人の間にはなかったのだが。――暗い台所のすみで、六郎の手探る指にふれて、小鍋の蓋や戸棚の引手が、カタカタと音たてて鳴った。そこらでかすかに韮(にら)の匂いがした。

「条件もなにも、始めからなかったんだ」

 やがてまた縁側に戻ってきて、足をだるく投げ出しながら、六郎はそう考えた。条件と言っても、日が昏(く)れかかっていたとか、テツが不在であることとか、そんなことではなかった。急流で筏師(いかだし)が、材木から材木へ飛び移る、その瞬間の気息のようなもの。その類似のものがたしかに、あの時の自分にあった、と思う。しかしそれも、そんな気がした、というだけの話ではないのか。どうもそうらしい。たとえば味噌のカラニタチみたいな。――

(しかし、あの女の肩胛(けんこう)骨は、へんに大きかったな)

 なにかにがにがしい気がして、六郎はふたたび湯呑みに手を伸ばした。そしていま台所から探し出してきたビスケットの袋を、ざらざらと膝の上にあけた。見ると小さなビスケットはそれぞれ、象や鳥や猿の形につくってあった。片側に色砂糖をのせているやつもいる。そのひとつをつまんで、彼は口のなかに入れてみた。芋焼酎に溶けて、それは妙な感触を舌につたえてきた。歯科医が用いるセメントの味にも似ていた。薬品的な甘さが、いつまでも舌の根にのこる。六郎は無感動な顔付きで、丹念にひとつずつ口にほうりこみながら、その合い間に思い出したように、湯呑茶碗を唇にもって行った。旨さも不味(まず)さもない、ただ摂取(せっしゅ)するという感じだけで。――

 しばらく経った。そして酔いがすこしずつ、身内から四肢へ発してくるらしかった。あちこちの筋肉が、ゆるゆるとほぐれてゆくのが判る。六郎はちいさく貧乏揺ぎをしながら、不安定な瞳をしきりにあちこち動かしていた。さっき鬚剃(ひげそ)りに使用した手鏡が、三尺ほど隔てた縁側のすみに、こちら向きにひっそり立っている。六郎の眼はたまたまそこに落ちた。ぼんやりと自分の顔が、そこに映っている。黄黒い感じのその顔は、何かを懸命に思い出そうとする表情で、不確かな鏡面の奥から、じっと六郎を見据(す)えている。かるい戦慄が、六郎の背筋を走りぬけた。[やぶちゃん注:「貧乏揺ぎ」「びんぼうゆるぎ」。貧乏揺すり。]

 やがてかるく舌を鳴らし、六郎は猿臂(えんぴ)を伸ばして、手鏡を横にカタリと伏せた。そして赤らんだ瞼をしばたたきながら、焦点の定まらぬ視線を、どんより暗い庭の方にねじむけた。――先刻から酔いとともに、頭のなかを執拗に、謡曲のひと節がしきりに高まっては消えてゆく。

「――両介は狩装束にて。両介は狩装束にて数万騎那須野を取りこめて草を分って狩りけるに。――」

 ――酔った意識の入口に、ぼんやりと鍋島両介が立っている。六郎はいま漠然とそれを感じた。そこから見詰めてくる、うながすような、いどんでくるような、架空のつめたい眼を。――六郎は庭の暗さから顔をそむけ、湯呑茶碗に意思のない視線を戻した。黄色い電球の倒影が、焼酎の表面に小さく映っている。逆さに凝縮して、かすかに揺れている。六郎はそれを見た。現実のものでないその美しさが、火花のように彼をとらえた。弛緩(しかん)した笑いを頰にはしらせながら、彼は足裏をつかって、湯呑みをむこうに押しやり、そのまま脚を引きよせて片膝たてた。食べ残したビスケットが五つ六つ、膝から板敷きへ、ころころと転がり落ちた。

「――さて。さて」

[やぶちゃん注:これも六郎自身の呟きでは、ない。「殺生石」の一本で、中入前の自らを玉藻の前と名乗るコーダの直前に出るものである。サイト「名古屋春栄会」のそれを引く。

   *

ワキ「さてさてかように語りたもう。おん身はいかなる人やらん。

シテ「今は何をかつつむべき。そのいにしえは玉藻の前。今は那須野の殺生石。その石魂にて候うなり。

ワキ「げにやあまりの悪念は。かえって善心となるべし。さあらば衣鉢を授くべし。同じくは本体を。二度現わしたもうべし。

シテ「あら恥ずかしやわが姿。昼は浅間の.夕煙の。

地謡「立ちかえり夜になりて。立ちかえり夜になりて。懺悔の姿現わさんと。夕闇の夜の空なれど。この夜はあかし灯火の。わが影なりとおぼしめし。恐れたまわで待ちたまえと.石に隠れ失せにけりや。石に隠れ、失せにけり。

   *]

 耳朶(じだ)のうしろの血管が、じんじんと鼓動を打っている。その単純なリズムが、記憶のなかから、あるひとつの抑揚を誘いだしてくる。すこしずつ調子がはっきりしてくる。永いこと謡い忘れていたその抑揚は、若い日の鍋島両介の像を、おどろくほど鮮明に、六郎の胸によみがえらせてくるようであった。(もう十五年にもなるかしら)酔いにたすけられて、束の間の感傷が、六郎のなかでかすかにうごき揺れた。夜風がつめたく頰にふれる。テツはまだ戻ってこない。膝をかき抱くようにして、六郎は眼をつむり、しばらく気息をととのえていた。なんだか少しやり切れない。へんに熱っぽく、重苦しい。その気分をごまかすように、六郎は意識的に口をとがらせ、頭にひらめく抑揚に合わせて、しずかに声を押し出そうとした。しかしその意図に反して、彼の口から洩(も)れ出たのは、低くしゃがれた咽喉(のど)の響きにすぎなかった。瞼をかたく閉じたまま、しかし彼は強引に、その不確かな調子を押し進めようとした。

「――草を分って狩りけるに。身を何と那須野の原に。顕(あらは)れ出でしを狩人の。追っつまくっつさくりにつけて。矢の下に。射ふせられて。即時に命を徒に」

[やぶちゃん注:「分って」は「わかって」。「追っつまくっつさくりにつけて」は『新潮日本古典集成』の「謡曲集 中」の本文では、『追ふつくつつさくりにつけて』で、注によれば、『「追ひつまくりつ」の音便で、オッツマクッツ。「まくると云は、犬と馬との間遠き時、犬に近くあはんとて、手綱をつかひて馬を寄する事を云也」(『犬追物付紙日記』)』とある。「徒に」「いたずらに」。]

 ……ああ高等学校の裏手の、だだっぴろい素人下宿。そこの隠居の老いたる能楽師、古ぼけた鼓の音。枸橘(からたち)の垣根にかこまれたうす暗い部屋。母屋から流れてくる漢方薬の匂い。朽ちかけた竹の濡れ縁。そこに下宿している文科生徒の自分の姿。同じく鍋島両介のこと、など。一昔前のそれら風物や雰囲気が、今あやふやな声の抑揚にのって、六郎の酔った意識の面に、きれぎれに浮んできた。

「那須野の原の。露と消えてもなお執心は。この野に残って。殺生石(せっしょうせき)となって、人をとる事多年なれども――」[やぶちゃん注:同じく「殺生石」の前の引用に続く全体のコーダの一節。]

 あるもどかしさが、とつぜん六郎を駆りたててきた。ふいに声がとぎれた。そのまま彼はうながされたように、ゆらゆらと立ち上った。そして腰をすこし引いて、不器用に身構える姿勢をつくった。

「こんな型だったかな」

 うろ覚えの記憶をたどって、舞うつもりである。このひとくさりの仕舞の型を、彼は一昔前、あの下宿の能楽師から教わったことがあった。その記憶を手足の動きに確めながら、六郎はいきなり二三歩部屋のなかに踏み入った。脚がふらふらする。酔いに乱れた頭のなかで、まさに演技に入ろうとする自分自身の姿勢を、六郎はその瞬間はっきりと自覚した。その自覚が、彼の動作をやや活潑にした。舞いの記憶もあやふやなので、低声で文句を口吟(くちずさ)みながら、彼はわざと畳を鳴らし、徒手体操のように乱暴に手足を動かした。トンと足踏みする。両手を蟹のように構えて、すり足で前へ進む。くるりと廻る。なにかを抱くように、双手を内側によせる。

(あれはまずい演技だったな)

 鈴子を抱きしめた時の感じが、ふとした動作の聯想で、強くよみがえってくる。ちりちりした髪の感触、肌の色とほのかな匂い、はげしく揺れ動く胸の厚み、双の肩胛骨(けんこうこつ)のぐりぐりした動きなど。それらが突然なまなましく、皮膚の表面に戻ってくる。前後を切り離した、それのみの感覚として。――そしてその感覚が、なぜか急に混乱したように、二重にずれてぼやけるのを、六郎は瞬間に感知した。意識の人口に立つ鍋島の幻像が、その時ひとつの焦点のなかに、急速につかつかと歩み寄ってくるのを彼はかんじた。

(鍋島が鈴子を抱く。あるいはその感じを知らず知らず、おれは探っていたんだな)

 六郎の身体は弓を射る形となって、なにかを追っかけ廻すように、部屋をななめに勢いよく動いた。ふと立ち止って、はずみをつけてクルクル廻る。瞬時にしてこんどは射られる側となり、両手を大きく振り廻し、片足を上げて、すばやく体を一回転する。いきなり高く飛び上り、中空で脚を組んで安坐の姿勢となり、そのまま物体のように落下する。かたい畳が、ぐんと尻を衝(つ)き上げてくる。たけだけしい快感が、そこにあった。たちまち六郎ははね起きて、当初の姿勢にもどり、また同じコースを動き始める。その演技の中だけの充足感が、やがて彼のすべてを領してきた。着物の下で、彼の肌はしっとりと汗ばんできた。矢の下に射伏せられ、石となる瞬間の感じは、あの故知れぬ韜晦(とうかい)の快感に酷似していた。同じ動作を、執拗に彼はくりかえした。

[やぶちゃん注:この最後の段落で六郎が演ずるそれは、「殺生石」の終盤の演舞のいかにも痛そうな、それである。YouTube の『いしかわの伝統芸能WEBシアター「能」』の「殺生石」(宝生流)の2700以降で見ることが出来る。なお、以上の部分を読むと、鍋島両介と小野六郎は旧制高校時代以来の友人であることが、判ってくる。これは「一」の初めの方でも匂わせられてあり、さらに言えば、両介の妻鈴子をも、六郎は彼女が結婚する以前から両介の紹介で知っていた雰囲気が濃厚である。「一」の最初の方の六郎の台詞「猿って、あの地方のやつだな。きっとそうだろう。あの山には、猿が沢山いたからな。そいつは奥さんの方の――」を、「あ。鈴子のだ」と、鍋島が『かるくさえぎった』という部分が、それを強く示唆しているのである。而して、現在時制の主人公が、精神的にどこか病んでおり、戦中を回想し、さらにその戦前の旧制高校時代を想起するという構成は、まさしく「幻化」のそれと酷似していることに気づく。「幻化」では、名を伏せた旧制高校が、ロケーションから、梅崎春生の履歴と合致する熊本五高であることが判然とするし、そもそも、そちらでは、作者梅崎春生自身、主人公久住五郎が自身の分身であることを、全く隠そうとする雰囲気は皆無であるが、本篇にしても、小野六郎の異様な注視による観念的関係妄想は、精神医学書からの借り物ではなく、まさに作者自身が体験している事実実感を的確に叙述しているという印象を与える点で、二作は、全体の構成や叙述法にあっては、全く距離がない双生児に近いと言ってよいのである。されば、本作は、ある意味では、「幻化」へと発展することになる、準備稿的なものであったのではなかろうか? そう仮定する時、先の「基地隊」というのは、梅崎春生が配属された佐世保相ノ浦海兵団本部、或いは、その後に転々とした九州の海軍基地の通信隊、又は、終戦を迎えた桜島の「回天」特攻秘密基地であると、比定し得ることになるのであり、また、「あ。鈴子のだ」すぐ後に「あの頃あの基地隊のうしろの山」以下が六郎の内心として語られることからは、この鈴子の郷里も九州であることが同じく確定すると言える。

 

      

 

 小野六郎は、病気になった。

 はじめ腰から大腿部へかけて、筋肉の感じが、すこしずつ変であった。と思ううち、しだいにそれは、にぶい痛みとかわってきた。なにか重いものを、そこらに押し込まれたような、不快な圧痛である。起きていると少しつらいので、朝から床をとって、六郎はじっと横になっていた。そして、布団を頤までかぶせ、眼をうすく開いて、庭の景色をぼんやり眺めていた。痛みが気になって、食慾はほとんどなかった。熱もいくらかあるようだ。ものの形がうるんで見える。不快な状態のまま、午後になった。布団のなかに背をまるめて、いつか六郎はうとうとと眠りに入っていた。

 そうして眠っている間に、痛みは急速に強まってきたらしい。二三時間経って、おびただしい盗汗に目覚めながら六郎はすぐそれと気付いた。なにげなく身体をうごかすと、ギクリと腰に響いてくるものがある。じっとしているぶんには、さほどでもないが、不用意に姿勢を変えようとすると、痛みがそこから猛然と発してくる。思わず呼吸をつめるほどの、はげしい痛みだ。骨かその付近の、とにかく身体の深部に、その痛みはうずくまっているようであった。[やぶちゃん注:「盗汗」漢方医学で「とうかん」と読むが、私は素直にそれとイコールの「ねあせ」(寝汗)と読みたい。]

「あれが、悪かったのかな。あの飛上り安坐が」

 厠(かわや)に立とうと思って、ぎくしゃくと柱につかまり、やっとのことで中途半端な姿勢になった。そしてその途中で、悲鳴をあげた、と六郎は思う。そのまま立ち上ることも、元のように坐ることも、出来なくなってしまった。今の姿勢では、どうにか痛くないが、どちらへちょっと動いても、激烈な痛みが予想される。痛さと痛さの谷にはさまれて、六郎はひよわなカマキリのように、柱にしがみついて硬直していた。不自然な中腰なので、手やふくら脛などが、その形を保つ無理な努力で、すこしずつ痙攣(けいれん)してくる。台所からテツが出てくるまで、顔に汗をにじませながら、六郎はその恰好でいた。テツの無感動な声が、直ぐうしろでした。

「どうしたの」

「こんな恰好(かっこう)に、なってしまった」

 柱を見詰めながら、六郎は低く笞えた。笑おうとしても、うまく笑えなかった。その笑えないことが六郎に、つよく敗北をかんじさせた。姿勢はそのまま、片手を用心深く、柱から離しながら、

「ちょっと、肩を貸して呉れ」

 テツの肩や腕にたすけられて、そこにしゃがみこむまで、まる二分間かかった。ひどく骨の折れる作業である。体をそろそろ倒して、布団に平たくなりながら、六郎はうめくようにして言った。

「医者を、たのむ」

「どこを、どうしたの」

「筋を違えたらしいんだ」

「どこ?」

 テツの掌がそこに辷(すべ)って、その部分をかるく揉(も)むように動いた。六郎はいらいらしながら、身体を伏せたまま、じっとしていた。テツは掌をはなして、しずかに立ち上った。そこらをすこし歩き廻る音がして、やがて庭からひっそりと出てゆく気配がした。

 医者を呼びに行くには、長すぎるほどの時間が経った。テツはなかなか帰ってこなかった。[やぶちゃん注:或いは、梅崎春生の年譜を見たことがある方は、彼が、晩年に、かなりの骨折をしているを覚えておられるかも知れないが、あれは本篇公開から十二年も後の昭和三七(一九六二)年十月のことであるので、違う。底本別巻の年譜によれば、同年十月、『子供とふざけて転倒、第十二胸椎圧迫骨折、さらにギックリ腰ともなり難渋する』とあるのが、それである。]

 しかしその間に、彼はしだいに、先ほどのいらだちから解放され、ふしぎに平静になってゆく自分をかんじた。それはおおむね、いまの自分の姿勢からきている。その自覚も、同時に彼にあった。彼は胴体や足をうつ伏せにして、頭だけを横にむけていた。右の耳たぶが折れたまま、固い枕に押しつけられている。そこの血管の蠕動(せんどう)につれて、時間がのろのろと動いてゆくのが判る。縁さきにやぶ鶯(うぐいす)の声が聞えるが、この位置から姿は見えない。見えるのは障子に区切られた、縦細い庭の一部だけだ。猿の檻の檐(のき)に、サルスベリのぬめぬめした梢が、何本もくねって伸びている。彼の眼にはその風景も、うるんだ膜を冠っているように見えるのだが。そして彼はしずかに考えた。

(ここには誰もいないな。誰も――)

 鋏をもがれ、脚をくくられたドブ蟹。ただ待つだけで、自分から動いたり働いたりする機会を、すべて失った状況。それを六郎は自分に感じた。それを自分に課して感じることで、彼は今ひとつの平衡をとらえていた。ひらたく布団に腹這(ば)ったまま、彼はやがてその平衡を、あぶなくたのしみ始めていた。身体の平衡だけでなく、精神のそれをも。これがいつもの自分のシステムだ。いつもここに安坐してしまう。しばらく虚脱したように、全身の筋肉をゆるめながら、六郎は物憂(う)くそう考えていた。自らを尿器に擬することで満足を得る、ある種の性的変質者のやり方に、それはどこか似ている。そう思うと、ある弱い笑いが彼の咽喉(のど)に、泡のようにこみ上げてきた。

 そのままで、また長い時間がすぎた。台所の方で下駄を脱ぐ音がする。上げ板がカタリと鳴った。

 やがてそこから、畳を踏む跫音(あしおと)が、やわらかく近づいてくる。耳をぴったり枕につけているので、その撓(しな)やかな跫音は、骨のないようなテツの素足の感じを、じかに六郎の神経に伝えてくる。

「加減はどう?」

 黒っぽい袷(あわせ)をきたテツの身体が、視野の端にあらわれて、ゆるゆると近寄ってきた。臙脂(えんじ)色の半幅帯が、結び目がすこしゆるみ、垂れた端がかすかに揺れている。六郎の眼はそれを見ていた。そしてテツのなじるような声で、

「何をわらっていらっしゃるの」

「何もわらってやしない」

 顔を動かさず六郎はこたえた。

「じゃ、もうおさまったの」

 すこし経って、そこにしずかに坐りながら、テツが訊ねた。六郎は瞳だけを動かして、テツの顔を見上げていた。薄い眉毛。距離のひらいた双の大きな黒瞳(くろめ)。いつもは童女的なその顔の輪廓が、下から見上げるせいか、妙に成熟した色と匂いをたたえている。六郎は痛みを誘い出すように、わざと眉をしかめながら、しゃがれた声で言った。

「やはり、痛い」

「そうでしょう。あんな真似をするんだもの」

 それからテツは、一昨夜の六郎の「飛上り安坐」について、ちょっと非難めいた口振りをした。

「あんな乱暴なことをするから、筋を違えたりするのよ。あれはなに?」

「乱暴じゃないさ」

「乱暴よ。あそこの根太が、すこしゆるんでるわ。あるくと、ゆらゆらする」

 あの夜、テツはいつ頃、帰ってきたのだろう。それまでどこに行っていたのかも、六郎は知らないのだが。――焼酎の酔いに乗り、座敷いっぱい殺生石(せっしょうせき)を舞っていて、ふと気がつくと、縁さきの暗がりにテツが立って、こちらを見ていたのだ。通りすがりに立ち止って、なにげなく眺めている、そんな感じであった。それだのに、それまで自分の動作を演技だと、はっきり自覚していたくせに、その無造作な視線にあっただけで、なぜか動作の根源にあるものが、みるみる萎縮してしまうのを六郎は感じていた。へんな抵抗を覚えながら、六郎は舞いやめた。そう言えば、あの時舞っていた時も、強く足ぶみすると、畳がぐらぐらしていたような気がする。酔っているせいとばかり、六郎は思っていたのだが。

「あれはああいう、仕舞の型なんだ」

「上から落ちてくるのも、それ?」

「そう。あれで尾骶骨(びていこつ)でも、打ったかも知れない」

「そうでしょ。根太がとっても、ぐらついてる」[やぶちゃん注:「根太」「ねだ」。床下に渡し、床板をのせて直接支える角材。]

 表情のすくないテツの顔に、かすかに笑いがうかんでいる。根太がゆるんだことと、六郎が筋を違えたこと、その明快な因果関係を、こんどは単純にたのしんでいるように見える。袷が黒っぽいので、皮膚の色が白く浮き、光線のあたる半顔に、コノシロの腹の肌のような艶とあぶらをのせている。六郎はそれを上目使いに、ぼんやり眺めた。そして近頃テツの顔を、正面から眺める習慣をうしなっていたことに、彼はやがて気付いていた。六郎の視線を無視するように、テツは手をしなやかに曲げて、耳にかぶさった髪毛を、意味なくかき上げている。その動作のなかに、ある異質のものの投影をふと感じると、六郎はひるんだように顔を外らして、庭の方に視線をうつしていた。しばらくして、テツは身じろぎしながら、ふくんだ感じの声を出した。

「お医者さまより、揉療治の方が、よくはないの」

「うん」

「揉療治の方が、きっと利くわ。もうせん派出会にいた頃、あたしよく見たわ。その方がずっと、利くんですって」[やぶちゃん注:「派出会」恐らくは、一般家庭からの多様な求めに応じて出向いて、家事その他をする派出婦を派遣する組織であろう。]

「しかしまだ、病名も判らないんだから。とにかく医者に見せなけりゃ」

「あら。揉療治さんでも、診断できるのよ。それが専門なんですもの」

 鶯が一羽、サルスベリの梢にとまっている。短く啼きながら、梢を小刻みに移動している。ふしぎなものを眺めるように、六郎の眼はそれを見ていた。鶯の黒っぽい尾は、啼声といっしょに、意味なくよく動く。

「お医者さん、呼んだのかね。おテツさん」

 しばらくして、下半身は動かさないようにして、枕の上で顔の向きだけをかえながら、六郎は低い声で訊ねた。膀胱(ぼうこう)の辺が張っている感じだが欝然たる痛みに押されて、さきほどの尿意はすでに消えている。腰の容積が二三倍になったような、不安な膨脹感だけが、そこにあった。

「呼びましたよ、もちろん。もうじき来る筈だわ。揉療治さんも」

「へえ。それも頼んだのか。どこの?」

「そら、新しく看板が出てるでしょ。火の見櫓(やぐら)の下の――」

「ああ、釜吉さんの家ね。あれは、お内儀(かみ)さんのしごと?」

「いいえ。釜吉」

 いやにはっきりした調子で、テツは言葉を切った。そしてゆっくりと庭の方を振り返りながら、あとはつけ足すように、

「根太のことも、頼んできたわ。ついでだから」

 釜吉の家の小さな玄関に、白木の新しい看板がかけてある。それに六郎が気がついたのは、半月ほども前であった。それには勘亭流みたいな書体で、大東京指圧学校分校治療部、と大きく記してある。その文句の横に、いつでも治療依頼に応じることや、弟子を募(つの)るという意味のことが、細字でつけ加えてあったようである。通りすがりに始めてそれを見たとき、釜吉のお内儀の内職かと、ふと六郎は考えてみたが、それをその看板では、たしかめずに終っていた。釜吉の女房は釜吉よりも五つ六つ年上で、闇の主食などをこっそり取扱っている。頰がひらたく蒼白で、不自然なほど髪の多い女だ。頸のうしろでそれを束ねているが、豊穣な毛髪は、切り立った耳朶(じだ)を覆うて[やぶちゃん注:ママ。]、なお左右にふわふわと張出している。疲れたふうにそこだけ赤らんだ眼縁から、なにか無表情な固い瞳が、まっすぐにこちらをのぞいているのだ。背が低いのに、つねに真新しいわら草履(ぞうり)をはいて、街をあるいている。巫女(みこ)か霊媒みたいな印象を、いつも六郎は受けていたのだが、その看板を見たとき、すぐ聯想(れんそう)がお内儀に結びついたのも、おそらくその感じからだったのだろう。指圧という字面の、どこかものものしい、押しつけてくる感じ。釜吉は大工なのだから、六郎のなかで無意識裡(り)に、その結びつきから除外されていた。――しかし今テツからそうと聞けば、あの勘亭流じみた書体は、まさしく釜吉の感じにも、つながっているようだ。指圧師釜吉の風態が、そっくり浮び上ってくる。そう思うと、あちこちの筋肉がひとりでに小刻みに動き出すような、妙な感覚におそわれて、六郎は思わず枕に頭を立てた。痛みがぐきりと、腰の蝶番(ちょうつが)いにひびく。彼は鼻翼にうすく汗をにじませ、ゆるゆると顔を横に伏せながら、ひとりごとのように言った。[やぶちゃん注:「眼縁」ルビがないが、「まぶた」と当て訓しておく。「目の縁(ふち)」の意で「まなぶち」「まなぶた」「まぶち」などとも読む。]

「――大工じゃ、食えないのかな。そうだろうな。しかし、いつ指圧などを、あいつは覚えたんだろう」

「軍隊ででしょ」

 庭の方に顔をねじむけたまま、テツが返事をした。長者門の方角で、自転車がとまったらしく、鍵をかける音がカチャカチャと聞えてきた。そして跫音が庭に入ってくる。

「そう言えば、材木だって、人間の身体だって、まあ同じようなもんだからな」

 妙なところで丹念な釜吉の仕事ぶりを、六郎は今思い出していた。たとえば材木に穴をあけるにしても、組み上がれば穴は見えなくなるのに、その穴の内側や底まで、なめらかに削らねば承知しない。鉋(かんあ)を磨くとなれば、半目も費やして、剃刀みたいにとぎ上げる。浣熊(あらいぐま)のやり方みたいな、そんな神経質な丹念さを、釜吉は一面に持っている。雨蛙みたいなあの風貌や、不細工にふくらんだ胴体。関節がないような感じの、短い筒に似た指。あの指先が、と六郎はぼんやり考えた。あれがどんなふうに動いて、他人の肉体のあちこちを押えるのだろう。そこまで考えたとたんに、不随意な戦慄が背筋をちらと走りぬけて、あわててそれを断ち切るように、向うむきのテツの白いうなじに、彼は自分のでないような声で問いかけていた。

「さっきは、釜吉の家に――お内儀(かみ)さん、いなかった?」

「いいえ。――あら、お医者さまよ」

 縁側でいそがしそうに靴を脱いで、せかせかと小さな老人が、部屋に上ってきた。外套のまま枕許に坐ると、懐中時計をとり出してキチンと膝の上に置き、革鞄をがちゃりとあけて、もう気早く聴診器を引きずり出している。そしてそのゴムの部分を、掌にくにゃくにゃ巻きつかせながら、どんな雰囲気にもぬっと闖入(ちんにゅう)して意に介しないような、れいの職業的な口調で、

「如何ですな、具合は」

 六郎はかんたんに病状を説明した。しかしその説明も、老医師はほとんど耳に入れていない風である。形式的にうなずくふりはしているが、身体はしきりに働いて、脈を取ったり、鞄から検温器を出したり、いきなり手を伸ばして、説明中の六郎の眼瞼をひっくりかえして見たり、とにかく寸時も恂き止まなかった。その忙がしい動きのおかげで、あらかたの診察は、それから五分ぐらいで済んだ。[やぶちゃん注:「闖入」突然、無断で入り込むこと。]

「こりゃ、坐骨神経痛だね」

 検温器や聴診器をひとまとめにして、ごちゃごちゃと鞄に押しこみながら、医者は早口に言った。

「よくある病気ですよ。注射でもしときますかな」

 診察中はすこし乱暴に、下半身を押したり突かれたりしたので、やっと苦患(くげん)に離れた思いで、六郎は眼を開いた。医者は注射器をとり出して、筒の辷(すべ)り具合をしらべている。赤ん坊の腕ほどもある、太い注射筒だ。その先についた鈍色(にびいろ)の針の形を、決着しない気持で六郎は眺めた。針の長さは、二寸位もある。

「それから患部は、あっためたがよろしい。懐炉でいいでしょう」

 アンプルを切る医師の姿にかさなって、その背後に、白っぽいものが動くと思ったら、いつの間にか縁側に、釜吉がちゃんと坐っていた。身幅の狭い白い上っ張りを、引詰めるように着て、両掌をきちんと膝にのせている。律義な侍従のように、取り澄ました顔をやや傾け、眼をちろちろと動かしている。いつやって来たのか判らない。何時間も前から待っていると言ったふうに、しごく沈着な態度で、いかにも神妙に控えている。と見たとき、その神妙さがとたんに崩れ、首がのり出すようにゆらゆら伸びて、医師の肩越しに、六郎の裸の腕をのぞいてきた。その翳(かげ)りのない巨きな黒瞳に、動物的な好奇の色がはっきり浮んでいる。その瞬間前肘部(ぜんちゅうぶ)の一点に、六郎はチクリとするどい痛みをかんじた。

[やぶちゃん注:「引詰める」「ひっつめる」。「巨きな」「おほきな」。]

 上膊をゴム紐(ひも)できつく緊縛(きんばく)され、青くくっきり浮いた正中静脈に、針が半分ほども突きささっていた。そこから薬液がすこしずつ、用心深く体内に入ってゆく。しばらくすると咽喉(のど)の奥の奥から、湿った灰みたいな妙な匂いが、不快な温感をともなって、口腔いっぱいにひろがってきた。

「やはりこんな病気は、ころんだり蹴られたりして、起るものですか?」

 注射が三分の二ほど済んだ頃、聞いておかねばならないつもりになって、六郎は訊ねてみた。六つの眼が自分の肉体の一点にぞそがれていることが、なにか面白くない気持である。

「ほとんどそうじゃないね。そういう場合は、ごく稀れですよ」

 ポンプを押す手をひと休めして、医者は額の汗を拭った。小量の血が、紅い煙のように、注射筒に逆流するのが見える。医者のうしろで釜吉が、詰めていた息をはき出す鼻音を立てた。それは変に肉体的な、色情的と言っていいようなものを、六郎に感じさせた。その感じは、せんだって鍋島が釜吉について語ったことと、つよく関連していた。その時テツが側から口を出した。[やぶちゃん注:「せんだって鍋島が釜吉について語ったことと、つよく関連していた」れに相当する記載は、これ以前には、ない。私は当初、この「鍋島」は「一」の後半で、《二瓶》が釜吉を評した「あいつはね、君、曲者(くせもの)だよ。」と言ったのを、梅崎春生が《鍋島》に勘違いしてしまっているのではなかろうか? と疑った。それは戻って読めば判るように、この二瓶の釜吉への批評は、それ以前に『鍋島が二瓶を評した言葉』『とそっくり同じであ』って、鍋島は以前に二瓶と初めて小野の家で逢い、二瓶が帰った後に、「今の男はただ者じゃないな」「とにかく一筋縄でゆく男じゃない」と二瓶を批判した、とあるように輻輳構造になっているからであった。だが、「せんだって」と言う言い方では、如何にもそのシークエンスは離れ過ぎているようにも見える。結論を言うと、これは梅崎春生の錯誤ではない。以下、読み進められれば、判る。則ち、ここは所謂、「倒叙法」をとっているのである。]

「でも先生、二三日前すこし酔って、ひどく飛んだり跳ねたりしましたのよ」

「それとは別でしょう。おそらく」

 残りの薬液が注入される短い間、ふと白けてからっぽになった頭の中に、ある図式のようなものを、六郎はちらと感じていた。人間や人間関係から、いろんなものを捨象した、かんたんな線の組合せみたいなものを。しかしそれら交叉(こうさ)のなかに、彼は入ってはいなかった。彼自身はいつかその図式を離脱して、こちらの岸に立っている。――六郎は注射器から眼をそむけた。しばらく医者の顔からテツヘ、テツから釜吉へ、釜吉の顔から医者へ、ただ見るだけの視線を、ゆるゆると這わせていた。そしてやっと注射が済んだ。自分が妙な笑い顔になっているのを、そのとき彼はぼんやりと自覚した。頰の肉の感じとしては、それは作り笑いに似ていた。

「さ。これでよし、と」

 道具を手早くかたづけながら、老医者はもう中腰になって言った。

「これで、明日まで、様子を見ましょう」

「いそがしい先生ね」

 医者が靴をつっかけて自転車で帰ってゆくと、テツが待ちかねたように口を開いた。

「今の注射、利(き)いたかしら。痛みは、どう?」

「さあ。医者ってどれも、あんなものだろう」

 縁側では釜吉が、首を元のように戻して、ふたたび神妙な形に坐っている。両掌を膝にそろえたまま、ちろちろと上目使いして、こちらをうかがっている様子である。そしてしずかな声で、相槌(あいづち)を打った。

「医者ってみんな、あんなものでさ」

 横臥して揉(も)んで貰う姿勢になったとき、痛むのは腰だけだと言うのに、全身を揉まねば効果がないのだと、釜吉は頑強に主張した。痛みはその部分に発するのではなく、他の筋から来るのが多いというのが、その言い分である。身体のことなら何もかも判っているぞ、といった風な口ぶりであった。それならば、それでもいいので、六郎は材木のように口をつぐんだ。釜吉のつめたい指が、まず六郎の首筋にかかる。

 釜吉の指の力は、案外につよく、しなしなと粘着力があった。しかしその割には、深部に響いてこないようである。筋の押し方にも、初心らしい稚拙さがあった。テツは側に坐って、黙ってそれを見ている。六郎の身体にかぶさるようにして、首から肩、肩から背中と、丹念に押して行きながら、釜吉は怒ったような声で、しきりに医者の悪口をしゃべった。いまどきの医者は対症療法だけで、病理の根源を知らないというのである。その言い方も、言葉を重ねれば重ねるほど、どこか受売りじみてくるようであった。近頃どこかで速成的に、教わってきたらしい口跡である。またひっきりなしにしゃべることで、技の稚拙さをごまかしているようにも見えた。

「注射なんて、ありゃあほんとに、インチキなもんですよ」

「インチキかねえ」

「インチキですよ。瓦が飛んだところに、ベニヤ板貼りつけるみたいでさ」

 押す手がしだいに腰部に移ってくると、さすがにそこらはひしひしと痛み響いて、六郎がうめいたりするので、釜吉の指の動きも、おのずと慎重になる風であった。慎重というより、あやふやという感じに近い、心もとない手付きになりながら、それの弁解のつもりか、釜吉は唐突に話題を変えて、身体の不完全さについて説明し始めた。人間の身体というものは、ふつう考えられているような巧緻なものでなく、ごく出来が悪い、不完全なものだというのである。

「てんでガタピシですよ。こんな人間を造った神様の気持が、あたしには、どうにも判らないや」

 六郎は顔をしかめて、それを聞いていた。人間の身体はまるで、素人(しろうと)が設計した十五坪建築みたいだ、というのである。一つでいい器官が二つもあったり、役にも立たない器官があちこちに、飾りみたいに取りつけられていたりする。また生殖器と排泄器を兼用するような(ここらで釜吉は語調に力を入れた)、そんな節約した設計がしてあるかと思うと、その反面、背中みたいな広闊(こうかつ)な部位を、のっぺらぼうのまま放置してあったりする。内臓の配置にしても、立って歩くようには出来ていず、這って歩くのに適したように仕組んである。脛(すね)のあたりを圧しながら、そんなことを釜吉は言い聞かせるように呟(つぶや)いた。

「やはりまだ、立って歩くのは、無理なんだね。木組みもヤワだし、あちこち手が抜いてあるし、ね」

 圧す指がずっと下ってきて、最後に蹠(あしうら)がくねくねと揉み立てられた時、六郎は衝動じみた笑いとともに、ある神経的な不安が全身を駆り立てるのを感じた。皆が知っていることを、自分ひとりが知らないでいる、そういう感じの不安に、それは似ていた。足指が一本一本引っぱられ、そして治療は終った。

「さ。これでいくらか、お楽(らく)になりましたでしょ」

 釜吉は三尺ほど後すざりして、畏(かしこ)まった姿勢に戻り、しずかに莨(たばこ)をとり出している。テツが茶を入れに立ち上った。いつか痛みもどんよりと薄れ、事実いくらかラクになったようである。用心しいしい身体をおこし、やがて六郎はあぶなく床の上に正坐していた。痛みはラクになったけれども、すこしばかり忌々(いまいま)しい感じがないでもない。

「ありがとう。よほどいいようだ」

 六郎も横をむいて莨を吸いつけながら、感じを殺してそう答えた。釜吉は鼻のわきに小皺(こじわ)を寄せて、うっすらと笑っている。足裏を揉(も)まれたときの、あの奇妙な不安定感が、ふたたび六郎の身体を茫漠(ぼうばく)とはしり抜けた。彼はわざとゆっくり手を動かしながら、声の調子をすこし落して、何気ない感じのつもりで問いかけていた。

「鍋島の家は、もうすっかり、出来上ったのかね?」

 それはさっきから訊ねてみようと思っていた質問であった。しかし口に出したとたんに、無計算な悪意とでも言ったようなものが、かすかに胸に揺れ動くのをかんじて、六郎は言葉を切った。自分がそんな姿勢になっているということ、それが次の瞬間、ある不快な抵抗を彼にもたらしてきた。

「ええ。ええ。もう九分通りはね。建具さえ入れれば、結構あれでも住めますよ」

「広さは、どのくらい」

「建坪で、三十坪もあるかね。なにせ惜しいもんですよ。あと一息というところだからね」

「じゃ、何故あんたは、仕事を止めたの?」

「だって鍋島の旦那は、手間賃も呉れねえんですよ。指図だけは、さんざんする癖にね」

「そんなことかな」

 少し腑におちた感じにもなって、六郎は独り言のように言った。

「そんなことかも知れないな」

「そんなことですよ」口をとがら廿るようにして、釜吉は復唱した。「金がない訳はねえんですよ。出し渋ってんですよ。いつもあの旦那は、パリッとしたなりをしてるしさ」[やぶちゃん注:太字「なり」は底本では傍点「﹅」。]

「そうかな。パリッとしたなりをねえ」

「しかしあの旦那の眼はへんだね。ありゃあただ者の眼じゃないね。妙にぎらぎらして、追いつめられたイタチみたいでさ」

 そう言いながら釜吉の視線が、こちらをうかがうように、ちろちろと動いている。六郎は急にあいまいな笑い顔になって、ぼんやりと庭の方に注意を外(そ)らしていた。釜吉のその言葉から、鍋島の精悍な風貌や食い入るような眼付きなどが、まざまざと瞼の裡に浮んでくるようであった。なぜ自分のこの眼で眺めるより、第三者の眼を通じる方が、そのものの形がおれに髣髴(ほうふつ)としてくるのだろう。その思いもちらとひらめいただけで、すぐに六郎の胸から消えた。吸い捨てた莨の煙が、ちりちりと眼に沁みてくる。ぎごちなく膝をくずしながら、彼は気の抜けたような声でこたえた。

「あいつには、金がないんだよ、きっと」

「そうですかねえ」

「それですこしは、イライラしているんだろう。それとも、そんなふりをしてるのかな」

 鍋島の事業がうまく行かず、その新築中の家も、二重三重の抵当に入っている。そのことを六郎は知っていた。ついこの間、はっきり知ったばかりである。しかし彼の事業の経営が、よほど前から下り坂になっていることは、いつか六郎もうすうすと察知していた。預った猿の月々の飼育料が、しだいに遅滞する傾向があったし、時折訪ねる鍋島の事務所の、どこか荒廃したような空気にも、そのことは感じられた。またそれよりも、彼にたいする鍋島の態度の変化に、それは微妙にあらわれてくるようであった。その微妙な推移は、もちろん他人には判らないことだし、あるいは鍋島自身もはっきりとは、自覚していないことかも知れなかった。しかし六郎は本能のように、鍋島の内部にひそむものの翳(かげ)を、いつも敏感にとらえていた。その暗いものの動きは、六郎の心の中ではっきりと、ひとつの危機の予感につながっていた。その翳のうごめきも、会うごとに少しずつ、その濃さを加えてくる気配があった。ことに酔った時の鍋島の眼は、その感じをかくすことなく、露骨にあらわしてきた。追いつめられたイタチのそれのように、おびえたような、うながすような、またいどんでくるような色をたたえて、ぎらぎらと光っている。あの夜もそうであった。猿の預り代を請求に、鍋島の事務所を訪ねた日のことである。それは十日ほど前になる。釜吉の話もその時出たし、家が抵当に入っていると知ったのもその夜のことであった。飼育料の請求に行ったのに、その金は呉れようとはせず、彼はだまって六郎を、近所の小料理屋に連れて行った。奥まった小部屋で酒を飲みながら、話のついでのように、鍋島がこう言った。

「あの猿はね、もう君にやるよ。売るなり捨てるなり、君の自由にしてくれ」

 あまり何気ない言い方だったので、六郎はとっさに受け答えが出来ず、しばらく黙っていた。すると鍋島は咽喉(のど)の奥で、かすかに笑いながら、かぶせるように言葉をついだ。

「もうあいつも、君の方に、情がうつっているだろう。おれのところに引取る手はないようだな」

「家はまだ出来上らないのかい」

 少し経って六郎はそんなことを訊ねた。

「釜吉が入っているという話だったが」

「あの男は、もう止めたよ。こちらから断ったんだ」

「なぜ?」

「おれの留守中に、あいつは鈴子に言い寄ったんだ」

 鍋島の眼の奥に、暗く深い穴のようなものを、六郎は瞬時にして見た。その言い方も何気ない低い声であった。そして鍋島はうつむいて、グラスにかるく唇を触れている。そのうつむけた頭の地肌から、数多(あまた)の粗い毛根が、そこだけレンズで拡大したように、なまなましく六郎の眼に映じた。強い当惑に似た感じが、彼の胸をかすめた。釜吉が鈴子に言い寄る架空の状況が、六郎の脳裡に、へんにまざまざと浮んできたからである。次の瞬間、記憶の中の一片の形が、突然はっきりと彼の意識をとらえていた。いつか釜吉が庭で放尿していて、その時ちらと見た、その部分の原形であった。それは不自然なほど黒く、濡れたような艶をもって、今六郎の想像の視野の中空に、重々しく揺れ下っている。頭を振ってそこから逃れようとしながら、彼もまた手をグラスに伸ばして、同じ質問をくり返した。

「じゃ、家はまだ、出来上らないのかね」

 釜吉を鍋島に引き合わせたのは、もともと六郎である。猿小屋の建築費を、直接の方がいいと考えて、釜吉を鍋島のところへ行かせたことがある。端緒はそこに始まったに違いなかった。

「おあ」

 鍋島は顔を上げ、しばらくしてうなずいた。うす赤く血走ったが、いどむような光をはなって、じっと彼を見詰めている。こんな感じの鍋島の眼を、六郎はこの十五年ほどの間に、何度か見たことがあった。

「あれはほとんど出来上っているんだ。畳とか建具を入れさえすればね。あれはあれでいいんだ」

「じゃ直ぐ引越せばいいじゃないか」

「まあ、そんなことになるかな」

 グラスに唇をつけながら、鍋島はそのままじっとして、なにかを思いめぐらしている表情になった。そして低く押しつけたような声で言った。

「そのことで、君にひとつ、頼みがあるんだ。きいて呉れるだろうな」

「頼み?」

「頼みというほどのことじゃない。何でもないことなんだ。つまり君が、おれの債権者になって呉れればいいんだ。カンタンな仕事だよ」

「債権者って、僕には金なんかないよ」

「そりゃ知ってるさ。貸して呉れと言ってるんじゃない。ただそういう恰好(かっこう)さえして呉れればいいんだ」

「恰好だけで、いいのかい」

「うん。そして執達吏を使ってね、あの家をさ、モロに差押えして貰いたいんだ」

 それから鍋島はそのやり方について、簡単な説明をした。その説明では、六郎を仮装債権者に仕立てることによって、差押え物の売得金を、鍋島はほとんど自分の手に還元しようというのらしかった。鍋島もすこし酔っていて、舌がもつれたり、説明が前後したりしていたし、六郎もその方の知識が乏しいので、その要点がうまく摑(つか)めないでいた。説明が終ったところで、六郎は訊ねてみた。

「つまりね、あの家はもう、担保(たんぽ)に入っているという訳だね」

「そういうことになるね」

「じゃ君のそのやり方は、法律にも触れるわけだね」

 鍋島はぎらぎらする眼をあげながら、とつぜん、つめたい笑いを頰に刻んだ。そして掌をたたいて、酒の追加を注文した。酒を運んできて、小女が去ってしまうと、六郎はも一度たしかめるように口を開いた。

「そのことを、君は今思いついたのかね」

「仮装債権者をつくるということをか?」

「いや。僕にその役割をふりあてる、ということをさ」

 濁った太い声で、鍋島は笑い出した。そして瓶に手を伸ばして、六郎のグラスに充たしてやりながら、冗談めいた口調で言った。

「君は昔から、いつもおれの債権者だったよ。おれは何度も君から、いろんなものを差押えされたりしたよ。な。そうだろ」

 その言い方は、よく判らないまま、妙に六郎の胸にからまってきた。六郎はグラスの胴を両掌にはさんで、酔った頭のすみで、しばらくその言葉の意味を考えていた。不自然な沈黙がきた。その沈黙のなかに、すべてがはっきりしないまま、なにかするどく脅やかしてくるものの気配を、六郎はありありと感知した。グラスを一息にあおると、自分が無抵抗な姿勢になるのを感じながら、それを立て直すように彼は口を開いていた。

「もひとつ聞くけれどね、それは僕じゃなくてはいけないのかね。他の人ではいけないのか?」

「君じゃなくては、駄目なんだ」

 断乎とした口調であった。

 なぜ、と問い返そうとして、六郎は口をつぐんだ。その気配を察したように、鍋島は彼を見据(す)えながら、声だけは急にやさしい調子になって、口早にささやいた。

「あ。そのことでね、近いうち、君のとこに行くよ。いつも家にいるんだろう」

 おれを共犯に仕立てることで、犯罪に引きずりこみ、その上で鍋島は、すべてを暴露してしまうかも知れない。今もそのつもりかも知れない。ふとそう思いながら、六郎の眼はおのずから探るような色を帯びて、鍋島の手の指におちていた。鍋島はしゃれたシガレットケースから、莨(たばこ)を一本とり出して、いま卓上のマッチをすろうとしている。ふだんでも酒焼けのした大きな顔が、いっそう赫くなって、油を塗ったように精悍な艶をたたえている。マッチがぼっと音を立てたと思うと、粗悪な製品だったと見えて、箱の薬紙に火がつき、しだいに側面からめらめらと燃え始めた。鍋島は指でその端をつまんだまま、青白い火の色にじっと視線をおとしている。そしてひとり言のように言った。

Though we weepか。こんなの、覚えてるかい。Though we weep and pawn our watchesさ。Two and two are four

 箱中の軸木に火がつき、シュッと小さい焔が四方にほとばしった。その瞬間にそれは鍋島の指から離れて、灰皿におちた。箱は灰皿の中で、青い焰をあげ、身もだえするようにくねりながら、しだいに黒くなってゆく。硫黄のにおいが鼻を剌してきた。

Though we weep ?」

「そう。and pawn our watchesさ。Two and two are four

「パロディかね」

「忘れたのかい。高等学校のとき、習っただろう。なにかのエッセイの中にあった文句さ。そら、川島教授のさ」

「どうも思い出せないね。しかし君は、よく覚えてるんだな。十何年前のことを」

「そりゃ覚えてるさ。おれはあれで落第して、その挙句、学校を追ん出されたんだからな」

 火もつけない新しい莨を、そのまま灰皿につっこみながら、鍋島は頭をゆるゆると上げた。表情が沈欝にゆがんで、じっと六郎を見詰めている。彼と知合って十五年の歳月を、その十五年間の二人の感情のからまりを、ごく短い時間に、六郎はその鍋島の顔に見た。そして次の瞬間、Xの笑いとでも言ったようなものが、胸の底からほのぼのと湧き上るのを、六郎はかんじた。何かが、どこかで、破滅するだろう。しかし、破滅するようなものが、ここらのどこに残っているのだろう? しかしその予感は、その時確実に、六郎の心を摑んできた。彼は笑いのかげで、かすかに戦慄した。

[やぶちゃん注:「Though we weepか。こんなの、覚えてるかい。Though we weep and pawn our watchesさ。Two and two are four」はイギリスの作家で詩人のギルバート・キース・チェスタトン(Gilbert Keith Chesterton 一八七四年~一九三六年)のコント「歌わない小鳥」(‘The Little Birds Who Won't Sing’)の一節であることまでは、つきとめた。英文サイト‘Literature Network’のこちらで全文が読める。当該部は以下。

   *

   If reapers sing while reaping, why should not auditors sing while auditing and bankers while banking? If there are songs for all the separate things that have to be done in a boat, why are there not songs for all the separate things that have to be done in a bank?

   As the train from Dover flew through the Kentish gardens, I tried to write a few songs suitable for commercial gentlemen.

   Thus, the work of bank clerks when casting up columns might begin with a thundering chorus in praise of Simple Addition.

"Up my lads and lift the ledgers, sleep and ease are o'er.

Hear the Stars of Morning shouting: 'Two and Two are four.'

Though the creeds and realms are reeling, though the sophists roar,

Though we weep and pawn our watches, Two and Two are Four."

"There's a run upon the Bank--Stand away! For the Manager's

a crank and the Secretary drank,

and the Upper Tooting Bank

Turns to bay!

Stand close: there is a run On the Bank. Of our ship, our royal one,

let the ringing legend run,

that she fired with every gun

Ere she sank."

   *

私の英語力では、上手く訳せない。当該箇所は、

   *

私たちが啜り泣いても

私たちが啜り泣きながら腕時計を質屋に入れても

「二」たす「二」は「四」なのだ

   *

一般に最後のフレーズは「当たり前のこと」で「事実から判断された当然の結論だ」という意を指すらしい。以上の原文は銀行員の殺伐とした現実の仕事のシビアさを指しているようだが、ここでの鍋島両介の謂いは、「お前は俺(と妻の鈴子)とはあの高校時代の忌まわしい思い出で腐れ縁なのであって、どう踏もうが、『同じ穴の貉(むじな)』なのさ」と言いたいのか? となんとなくは、思ったが、よりよい注がお出来になる方は、是非とも御教授下さると幸いである。]

2022/11/28

曲亭馬琴「兎園小説拾遺」 第二 「西本願寺觸狀寫」

 

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。昨年二〇二一年八月六日に「兎園小説」の電子化注を始めたが、遂にその最後の一冊に突入した。私としては、今年中にこの「兎園小説」電子化注プロジェクトを終らせたいと考えている。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちら(右ページ上段終りの方から下段にかけて)から載る正字正仮名版を用いる。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。

 馬琴の語る本文部分の句読点は自由に変更・追加し、記号も挿入し、一部に《 》で推定で歴史的仮名遣の読みを附した。今回は短いので、そのままとした。

 本篇は「京都地震」関連記事の第三弾。第一篇以降で注した内容は、原則、繰り返さないので、必ず、そちらを先に読まれたい。

 

   ○西本願寺觸狀寫

一筆致啓達候。先以、御門跡樣、益、御機嫌能被ㇾ爲ㇾ成御座候間、可ㇾ爲御大慶候。然《しかれ》ば、二日申刻より、大地震にて、御眞影樣、庭上へ御動座《ごどうざ》、御門跡樣、親敷《したしく》御守護被ㇾ遊候。且、亦、京地、幷、諸國詰合之官中《しよこくつめあひのくわんちゆう》始《はじめ》、一同、守護被成上候。最《もつとも》、御殿向《ごてんむき》、所々、御破損、誠に以、古來未曾有之大變、今、四日に至候ても、鳴動、不相止、依ㇾ之、未御復座不ㇾ被ㇾ爲ㇾ在候得共、御眞影樣、無御恙被ㇾ爲ㇾ成御座候間、恐悅可ㇾ被ㇾ成候。右、格別之大變に付、態々《わざわざ》、此段、不取敢《とりあへず》申達《まをしたつし》候間、夫々《それぞれ》通達可ㇾ有ㇾ之候。恐惶謹言。

  七月四日      池 永 主 稅《ちから》

            島 田 帶 刀《たてはき》

            下間《しもつま》刑部卿法橋

            下間少進《せうしん》 法眼

   關東十三ケ國

     總御末寺所中

     總門徒所中

 猶、以、大谷御廟本、幷《ならびに》、山科御坊所、殊之外、御破損被ㇾ爲在候御事、夫《それ》、是《これ》、可ㇾ被恐入候、以上。

[やぶちゃん注:京都市下京区本願寺門前町にある浄土真宗本願寺派本山龍谷山西本願寺(グーグル・マップ・データ)が京都大地震の直後に出した宗門末寺及び信徒への触書(ふれがき)。

「御眞影樣」同寺の御影堂(ごえいどう)にある宗祖親鸞聖人の木像を指す。

「大谷御廟本」「本」は「もと」で、「御前」と同じく一種の敬語か。西本願寺が所有する親鸞の墓所。ここ

「池永主稅」以下四人は西本願寺坊官。孰れも諸文書に署名がある。]

曲亭馬琴「兎園小説拾遺」 第二 「二條御番内藤豐後守組寄騎伏屋吉十郞より或人え郵書 七月四日出 同十二日到着 書面之寫」

 

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。昨年二〇二一年八月六日に「兎園小説」の電子化注を始めたが、遂にその最後の一冊に突入した。私としては、今年中にこの「兎園小説」電子化注プロジェクトを終らせたいと考えている。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちら(右ページ下段)から載る正字正仮名版を用いる。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。

 馬琴の語る本文部分の句読点は自由に変更・追加し、記号も挿入し、一部に《 》で推定で歴史的仮名遣の読みを附した。今回は短いので、そのままとした。

 本篇は「京都地震」関連記事の第二弾。第一篇で注した内容は、原則、繰り返さないので、必ず、そちらを先に読まれたい。また、以下の二条城内の施設の様態や名称などは、調べるに、労多くして、私自身への益が殆んどないので、何となく勘で読み、読点を打ったが、多く誤りがあると思われる。重大な誤認部については御教授戴ければ、修正する。注は中に入れ込んだ。標題の「寄騎」は「與力」(与力)の当て字と判断した。

 

   ○二條御番内藤豐後守組
    寄騎《よりき》伏屋吉
    十郞より、或人へ、郵
    書、七月四日、出、同
    十二日到着、書面之寫。

文政十三寅年、京都大地震、御城内外、騷動、荒增《あらまし》記《しる》し申候。七月二日、夕七ツ時[やぶちゃん注:午前四時前後。以下総て定時法で換算した。]、打《うち》候て、程なく、地震、最初は、少し、ゆり初め、直《ぢき》に烈敷《はげしく》ゆり出《いだ》し、中之御小屋に居兼《をりかね》、庭へ、はだしにて駈出《かけいだ》し候處、益《ますます》募り、御小屋、御藏前、又は、廣き場所へ走出し候處、御米藏前、家根瓦、瀧の如く落《おち》、西小屋引出《ひきいだ》しは、小屋々々、住居《ぢゆうきよ》、幷《ならびに》、下陣《しものぢん》、暫時に、ゆりつぶし、逃出《にげいだ》し候も、間に合《あひ》かね候ものは、押《おす》に打《うた》れ申候。損所《そんずところ》は高麗御門《かうらいごもん》と申《まをす》、御本丸へ入候《いりさふらふ》總銅《さうどう》の御門、左手へ、たふれかゝり續き、御土塀、御天守臺、處々、損じ、御堀端通り、不ㇾ殘、三寸づゝ、さけ、其外、御城内、幷、御小屋、一めん、蜘《くも》の巢のごとく、ゑみわれ申候[やぶちゃん注:「ゑみ」は「笑み」で「口を開いて笑うが如く、ぱっくりと割れてしまった」ことを言う。]。西御門脇御小屋裏、高御土居の上、巾一尺程、ゑみわれ、二十間程[やぶちゃん注:三十六メートル強。]の御土居に候得ども、外御堀の方え、今にも崩れ落候樣に、「ふらふら」いたし候樣に御座候。其外、御太鼓櫓、昭[やぶちゃん注:底本にママ注記有り。]、石壇、鴈木《がんぎ》、なだれ落《おち》、上の御土塀も倒れかゝり、中仕切御門《なかじきりごもん》、臺續き石垣、二間[やぶちゃん注:三・六メートル。]程、拔落《ぬけおち》、二、三尺の石、落《おちて》有ㇾ之。西御門の御燒失迹《ごしやうしつのあと》、御門、臺石垣、處々、崩れ、御門、ねぢれ、西御門御橋も、ねぢれ、往來、危く候故、一人立《ひとりだち》にて、急ぎ通り、米ばかり、少々づゝ運び候よし。西御門續き、小門續き、御土居上、土塀、倒れ、御城外、見通《みとほ》し申候。御廊下橋入口御門、幷、土塀、十間[やぶちゃん注:約十八メートル。]、二十間程づゝ崩れ、御厩曲輪通《おうまやぐるわとほ》り御筋、塀、不ㇾ殘、ひゞわれ、拔倒《ぬけたふ》れ、東御門大番所うしろ、御土塀、大槪、倒れ、御破損。定小屋《ぢやうごや》、一ケ所、つぶれ、東御門、臺石、所々、はら、み渡出《わたしいで》し。塀等、損所、多く、御入物《いりもの》御道具外、箱等、不ㇾ殘、こわれ、辰巳《しんみ》・未申御櫓《びしんおやぐら》、其外、白土《しろつち》、鉢卷《はちまき》等、咸《みな》、落《おち》、御熖硝藏《ごえんしやうぐら》家根瓦、不ㇾ殘、落、稻荷、石鳥居、同燈籠、大抵、たふれ、但《ただ》、鳥居、三本、柱燈籠、十六、七本。稻荷曲輪《いなりくるわ》、入江御門棟通《いりえごもんどほ》り、落《おち》、石垣、破れ落、往來も、甚《はなはだ》氣遣敷體《きづかはしきてい》。稻荷曲輪同心は、不ㇾ殘、小屋、つぶれ、同心三人程、逃出し候に間に合兼《あひかね》、押に打れ、漸《やうやう》助出《たすけいだ》し候よし。先づ、一命には拘《かかは》り申間敷《まをすまじき》かと申候。七半時《ななつはんどき》[やぶちゃん注:午後五時頃。]より、地震は間遠に相成候得共、時々、地ひゞきいたし、其度々、壁、瓦、落、つぶれ候程には無ㇾ之候得ども、住居成兼《すみゐなりかね》候御小屋も餘程有ㇾ之。上下、身の置《おき》處なく、各《おのおの》、色を失ひ、十方《とはう》にくれ候次第にて、御小屋、押に打れ候者、助け出し候へども、步行不ㇾ叶《ほかうかなはざる》者、兩三人、有ㇾ之、是も一命に拘り不ㇾ申、戶板に乘せ、舁運《かきはこ》び候體《てい》、火事場よりも物凄く、『此上、いか程强き地震可ㇾ有ㇾ之哉《や》。」と、心中不ㇾ平《たひらかならず》、此上もなく覺申候。不ㇾ殘、御小屋内空地《おこやうちあきち》へ寄集《よりあつま》り、高張箱挑燈《たかばりはこぢやうちん》抔をつけ、寄《より》こぞり申候。六時《むつどき》[やぶちゃん注:暮六ツ。午後六時頃。]頃、俄に、所司代、御見分有ㇾ之。御破損奉行《ぶぎやうせらる》。其外、在役之者は、持場々々、見廻り、東西に駈走《かけはし》り候。兩御番頭《おばんがしら》、御出《おいで》にて、御殿、御金藏、其外、御門臺、御櫓等、不ㇾ殘、損所、御見分有ㇾ之候に付、御城入《ごじやういり》有ㇾ之候。六ツの御太鼓、打延《うちのべ》候間、所司代御城入は、五時過《いつつどきすぎ》[やぶちゃん注:午後八時過ぎ。]に相成申候。西御小屋内、御通りぬけ有ㇾ之候。最《もつとも》、所司代御城入に付、地役も、不ㇾ殘、組之者、召連《めしつれ》、御城入。御門番も御門に相詰《あひつめ》候。夜中も、度々《たびたび》、地ひゞきいたし、上下、安き心、無ㇾ之、皆々、外にて夜を明《あか》し、三日に至り、夜中とても、今に、時々、震動いたし、御小屋に相休み兼《かね》、寄集り居《をり》申候。御殿向《こてんむき》、御天井、幷、御襖繪、多く、さけ、損じ候。御襖、御欄間《らんま》、彫物《ほりもの》等も落ち損じ候。御金藏、御車屋も、瓦等、落申候。最《もつとも》、此《この》六、七日は、炎暑、甚敷《はなはだしく》、夜中も蒸暑《むさつ》く、堪《たへ》かね申候。大坂御城中抔は、是迄、覺《おぼえ》なき大暑にて、晝の内は、隣小屋へも參り兼《かね》候程の、大暑、上下、堪兼候よし。地震の樣子、いまだ大坂の左右《さう》は承り不ㇾ申候。御城外市中は、別《べつし》て、土藏、多く損じ、怪我人も、餘程有ㇾ之候よし、噂、有ㇾ之候。堀川通り其外、御城下御栅内馬場へ、女子共《をんな・こども》、敷物、出し、三日、終日、外にて暮し申候樣子、此上、靜《しづか》にいたし度《たく》、夫《それ》のみ、申くらし候。土御門陰陽師より、所司代へ、「いまだ此上、强き地震、可ㇾ有ㇾ之候間、用心可ㇾ有ㇾ之。」と申候由にて、上下、膽《きも》を冷し居申候。御番所は、東西とも、少しも怪我《けが》無御座候。

  七月四日

 [やぶちゃん注:「鉢卷」土蔵造りで、防火用に粘土と、漆喰(しっくい)を厚く塗り込めた軒下部分を指す。

大和怪異記 卷之四 第十四 狐をおどして一家貧人となる事 / 卷之四~了

 

[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の本文部分はここから。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。なお、底本のルビは歴史的仮名遣の誤りが激しく、ママ注記を入れると、連続してワサワサになるため、歴史的仮名遣を誤ったものの一部では、( )で入れずに、私が正しい歴史的仮名遣で《 》で入れた部分も含まれてくることをお断りしておく。]

 

 第十四 狐をおどして一家(《いつ》け)貧人(ひんじん)となる事

 肥前の土民(どみん)甚六といふもの、五月なかば、子供二人、つれ、朝、とく出《いで》て、田をうゑ、ひるつかた、馬に草かひ、ものなど、くひ、やすみいたる所に、ひだりのかたの、そわに、きつね、よく、いねて、死(しに)たるごとくに、みゆ。

 子ども、見付《みつけ》、

「あれや。」

と、いふほどこそあれ、親子三人、地をたきて、おめき、さけべば、きつね、めをさまし、

「つ」

と、をきて、にげゆく。

 二人の子ども、ひろきのばらを、いちあし出して、追《おひ》かくれば、其邊(《その》あたり)に居(ゐ)けるわかきものは、

『おもしろき事。』

にして、聲をあげ、手をうちて、あとにつゞく。

 かくれがも、なければ、のちは、いばらのしげれるなかに、おひこまれ、足、なへて、うごかず。

「ころさん。」

といふものも、あり。

「不便なり、ころすな。」

といふも、あり。いづれも、わらひて、歸りぬ。

[やぶちゃん注:「そわ」には、「近世民間異聞怪談集成」ではママ注記があるが、誤りではない。これは「岨」で通常は「そば」「稜(そば)」と同語源で、「山の切り立った険しい所・崖・絶壁」の意であるが、古くは「そわ」と表記したからである。

「のばら」「野原」。

「いちあし」「逸足」。急いで走ること。]

 かくて、二、三日過(すぎ)、甚六、ゆめ、見しは、いかなる人とも、しらず、よに、たつときすがたにて、枕上にたち、

「汝、つねに正直にして、道をまもるゆへ、福をさづくべし。汝が、豆、うゑたる畑の中、五尺下に、「ぜにがめ」、あり。掘(ほり)て取《とる》べし。」

と見て、ゆめ、さめぬ。

[やぶちゃん注:「よに」助動詞「やうなり」の近世口語形「ようなり」の連用形「ように」の変化したもので、副詞的に「いかにも~のようで」の意。]

 又、あくる夜(よ)の夢も、おなじごとく、見つ。

 三夜めには、甚六が妻子共゙も、おなじやうに、ゆめ、見ければ、あさ、とく、おきて、「かく。」

と、かたりあひ、

「我(われ)、年ごろ、福神(ふくじん)に、つくれる初穗(はつ《ほ》)を奉るゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、幸《さひはひ》をさづけ給ふにこそ。かならず、沙汰、なせそ。」と、さけなど、いはゐ、すき・くわを持《もち》て、うへ置《おき》たる豆を、ほりすて、おやこ、汗になりて、五尺ほど、ほりけれども、なにも、なし。

「爰(こゝ)にては、あらぬか。」

と、別の所を、ほれども、かはりたる事もなく、打腹立(うちはらたて)て、やどにかへり、つくれるものは、ほりかへして、物わらひになりぬ。

「沙汰、なせそ。」

といひて寢(ね)し。

 其夜、又、ゆめみるやう、

「汝、心、みじかし。祝ふ所に、福、來《きた》る。所の者どもにも、しらせ、よく、いわゐて[やぶちゃん注:ママ。]、地(ぢ)の底(そこ)、三間《さんげん》、ほりて見よ。かならず、有《ある》べし。」[やぶちゃん注:「三間」五メートル四十五センチ。]

と、みて、

「此上は。」

とて、近所の人を、よびあつめ、さけのませ、うたひ、たはふれ、十人ばかりにて、ほりけるに、はや、三間もほりたると、思ふとき、

「ぜにこそ、出《いづ》れ。」

といふ程こそあれ、土にまじりたるを、

「爰にもあり、かしこにもあれ、」

とて、十錢ばかり、ほり出《いだ》し、よろこび、いさみ、

「なを[やぶちゃん注:]、ひろく、ほれよ。」

とて、ひたほりに、ほる程に、

「かく。」

と、さたして、見に來《きた》る者ども、手に手に、十間[やぶちゃん注:十八メートル。]ばかり、ほりければ、暫く、ほりては、五錢、三錢、ほり出しける程に、其日、ぜに、五、六十、ほり出しぬ。

 さて、くれかたに歸り、人々、いへるは、

「げにも、土の内、二、三間下《した》に錢あること、ふしぎなり。つげのごとく、ぜにがめ、有べし。あけなば、人をやとひ、ほるべし。」

と云(いひ)て、あくる日は、二、三十人、やとひ、あさ、とく、あさ酒、したゝめさせ、又、終日(しうじつ)ほるに、五錢、三錢づゝ出ける程に、

「何(なに)さま、かめに、ほりつけん。」

と、日ごとに、家をすて、田うへ・草とる事を、やめ、夏のかてもの、たねあるかぎり、くらひ、もはや、食(しよく)すべき物、なければ、ほる事も、ならず。さらば、田うへつくりする事も、ならず。[やぶちゃん注:「かてもの」「糧物」。日々の糧食(りょうしょく)。]

 其年、家をうり、妻子、ちりぢりになり、後(のち)には、乞食(こつじき)となりにける。

「是は、かのきつねを追《おひ》、からき目、見せけるゆへ、かゝる「つげ」をなし、家を、ほろぼしけん。」

と沙汰し、あへりける。肥前土人物語

 

 

やまと怪異記巻之四終

[やぶちゃん注:今までの例から、原拠のそれは書名ではなく、「肥前の土人(どじん)の物語り」になる、との意と、とる。今回は注は、読み易さを考慮して、総て文中に配した。]

2022/11/27

大和怪異記 卷之四 第十三 愛執によつて女のくびぬくる事

 

[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の本文部分はここから次のページにかけてである。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。なお、底本のルビは歴史的仮名遣の誤りが激しく、ママ注記を入れると、連続してワサワサになるため、歴史的仮名遣を誤ったものの一部では、( )で入れずに、私が正しい歴史的仮名遣で《 》で入れた部分も含まれてくることをお断りしておく。

 挿絵があるが、これは「近世民間異聞怪談集成」にあるものが、状態が非常によいので、読み取ってトリミング補正し、適切と思われる箇所に挿入する。因みに、平面的に撮影されたパブリック・ドメインの画像には著作権は発生しないというのが、文化庁の公式見解である。底本の画像はここ。]

 

 第十三 愛執(あい《しふ》)によつて女《をんな》のくびぬくる事

 越中国に有德(うとく)なる人あり。男子(なんし)一人、女子(によし)一人を、もてり。

 かのむすめは、かたち人にこえ、すでに十四になりぬ。

 また、となりに十五になる美少人(びしやうじん)あり。

 かのむすめ、此男子に、れんぼして、度々《たびたび》、玉づさをおくりしかども、男子、返事をもせず。

 此事、いかゞして聞えけん、むすめが父母(ちゝはゝ)、かたく、たんせいして、むすめをほかに出さず。

 むすめ、かなしみ、うらみて、くひものを、たち、すでに死《しぬ》べく見えければ、うば、歎(なけき[やぶちゃん注:ママ。])て、いかにもして、男子にあはせんことをはかりしに、その事とても、かなふべくもあらねば、ひとしほ、なげきのいろ、まさりけり。

 

Kubinuke

 

 あるとき、男子、ゑん[やぶちゃん注:ママ。「緣」。縁側。]に出て、にはを、ながめけるに、むすめ、『いかにもして、あひたき』と思ふ心にや、くび、をのれと[やぶちゃん注:ママ。]、ぬけいで、へいのうへに居て、少人を、まもれり。

 これなん、世にいふ「轆轤首(ろくろくび)」とかや、いふものなるべし。

 かゝる所に、女子が兄(あに)、これをみるに、むすめがからだは、せうじ[やぶちゃん注:ママ。「しやうじ」で「障子」。]のうちに有《あり》ながら、くびは、かべの上にあり。

 ほそき糸、引《ひき》、はへたり。

 兄、おどろき、をそれ[やぶちゃん注:ママ。]、刀(かたな)をぬきて、いとを、切《きり》ければ、くびは、むなしく、へいより、ころびおちぬ。

 それより、となりの男子も、風のこゝちといひしが、四、五日、煩(わづら)て、つゐに[やぶちゃん注:ママ。]むなしくなれりとかや。

 轆轤首は「本草」・「五雜祖」などに記(しる)せる「飛頭蛮(ひとうばん)」の事なり。「叢談」

[やぶちゃん注:本文内の「轆轤首」の「轆」の字は、底本では「車」+「𢈘」(「鹿」の異体字)であるが、表字出来ないので、通常のそれを当てた。典拠とする「叢談」は私は不詳。

 さて、この話は、以下に見る通り、私は結構な数の「轆轤首」譚を電子化注してきているが、このシチュエーション――娘が隣家の美少年に恋をして、遂にその思いのために轆轤首に突発的に変じて、それを見てしまった実兄が驚き、迂闊にも糸を斬ってしまい死に(「死んだ」とは本文には書かれていないが、これは間違いなく死んでいる。「にょろにょろ」型の本邦の轆轤首ではなく、首だけが外れて飛び出して夜間に飛び回って、しかも、一本の糸で首と胴体が繋がっているというのは、実は唐(から)渡りの由緒ある「飛頭蠻」の古式の知られた属性なのである。私の『「和漢三才圖會」巻第十四「外夷人物」より「飛頭蠻」』を参照されたい)、ほどなく、その魅入られた少年も亡くなってしまう――という悲しい展開は他にあまり例を見ないものと思う。但し、若主人と腰元という設定で、挿絵がかなり似ているものに、私の

「太平百物語卷四 卅六 百々茂左衞門ろくろ首に逢し事」

がある(腰元は轆轤首に変じたことを恥ずかしく思い、致仕し、出家して尼になるという展開である)。

 轆轤首譚は、何よりも、小泉八雲の‘ ROKURO-KUBI ’にトドめを刺す。私の小学校三年生以来の永遠の遺愛の名品、

「小泉八雲 ろくろ首  (田部隆次訳) 附・ちょいと負けない強力(!)注」

を参照されたい。この注は、二〇一九年の公開当時の私の注としては、これ以上のものはないと思うリキを入れた「轆轤首」注であり、今も、その自信は基本、変わっていない。八雲のものでは、英文で「轆轤首」を訳すのに苦労したという語りで始まる、彼の、

『小泉八雲 化け物の歌 「五 ロクロクビ」  (大谷正信訳)』

は、面白い割に、あまり読まれていないと思うので、特に掲げておく。

 他に、総合的な意味では、公開の二〇一七年の私のブログの状況下では、頑張った注を附してある(ユニコード使用の前で正字化に不全があるのが恨みであるが)、

「柴田宵曲 妖異博物館 轆轤首」

が、一記事で手っ取り早く、本邦での「轆轤首」変遷を掻い摘んで読める便宜はある。以下、単発独立電子化注では、

「古今百物語評判卷之一 第二 絕岸和尚肥後にて轆轤首見給ひし事」

「諸國百物語卷之二 三 越前の國府中ろくろくびの事」

が、比較的読み応えがあり、また、ちょっと触れているだけであるが、

「宗祇諸國物語 附やぶちゃん注   千變萬化」

も参考になる。また、番外編としてお勧めなのは、噂で「ろくろ首」と差別された娘の珍しいハッピィー・エンドの快作、

「耳嚢 巻之五 怪病の沙汰にて果福を得し事」

と、小泉八雲がそうした噂を立てられた、自宅に出入りする髪結「オコトサン」の一件(やはりはハッピィー・エンド)を記した、

『小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第十八章 女の髮について (五)』

も、是非、読まれたい。

「玉づさ」「玉梓」「玉章」で「手紙」(時に「使者・使い」の意もある)。「たまあずさ」の転。昔、使者が梓(あずさ)の木の枝に結びつけて便りを運んだことによる。

「本草」明の李時珍撰で江戸時代まで本邦の本草学のバイブル的存在であった「本草綱目」のこと。「小泉八雲 ろくろ首  (田部隆次訳)」の注で原文の一部を引いたが、同書の巻五十二の「人之一」の掉尾(「本草綱目」本文の部の終りである)に配された「人傀」(じんくわい(じんかい):「人の怪異なる者」の意)のまさに最後の最後に、

   *

人具四肢七竅常理也而荒裔之外有三首比肩飛頭埀尾之民此雖邉徼餘氣所生同于鳥獸不可與吾同胞之民例論然亦異矣【山海經云三首國一身三首在崑崙東○爾雅云北方有比肩民半體相合迭食而迭望○南方異物志云嶺南溪峒中有飛頭蠻項有赤痕至夜以耳爲翼飛去食蟲物將曉復還如故也搜神記載吳將軍朱桓一婢頭能夜飛卽此種也欲○永昌志云西南徼外有濮人生尾如龜長三四寸坐則先穿地作孔若誤折之便死也】是故天地之造化無窮人物之變化亦無窮賈誼賦所謂天地爲爐兮造化爲工隂陽爲炭兮萬物爲銅合散消息兮安有常則千變萬化兮未始有極忽然爲人兮何足控摶化爲異物兮又何足患此亦言變化皆由于一氣也膚學之士豈可恃一隅之見而㮣指古今六合無窮變化之事物爲迂怪耶

   *

とある。今回は以上を国立国会図書館デジタルコレクションの風月莊左衞門寛文九(一六六九)板行の画像(ここから次の掉尾まで)を参考にしつつ、私の訓読を示しておく。

   *

人、四肢・七竅を具ふは、常の理(ことわり)なり。而しれども、荒裔の外(そと)[やぶちゃん注:辺境のさらにその外側。]に、三首・比肩・飛頭・埀尾の民、有り。此れ、邉徼(へんけう[やぶちゃん注:辺境。])、餘氣の生ずる所と雖も、鳥獸と同じくして、吾が同胞の民として例(くら)べて論ずべからず。然(しか)も亦、異なり。【「山海經」に云はく、『三首國、一身に三首たり。崑崙の東に在り。』と。○「爾雅」に云はく、『北方に比肩の民、有り。半體、相ひ合(がつ)し、迭(たが)ひに食しては、迭(たが)ひに望(なが)む。』と。○「南方異物志」に云はく、『嶺南の溪峒(けいどう)の中、飛頭蠻、有り。項(うなじ)に赤き痕(あと)有り。夜に至りて、耳を以つて翼(つばさ)と爲(な)し、飛び去りて、蟲や物を食らふ。將に曉(あかつき)に復(ま)や還(かへ)りて、故(かく)のごときなり。』と。「搜神記」に、『吳の將軍朱桓の一婢(いちひ)、頭、能く、夜、飛ぶ。卽ち、此の種なり。』と。』と。○「永昌志」に云はく、『西南徼外(けうがい)に濮人(ぼくじん)有り。尾(を)を生ずること、龜のごとく、長さ、三、四寸。坐せんと欲するときは、則ち、先づ、地を穿ちて、孔(あな)を作(な)す。若(も)し誤りて之れを折れば、便(すなは)ち、死す。』と。】是の故に、天地の造化、窮(きはま)り無く、人物の變化も亦、窮り無し。賈誼(かぎ)が賦(ふ)に、所謂(いは)ゆる、「天地を爐と爲(な)し、造化を工と爲し、隂陽を炭(たん)と爲し、萬物を銅と爲して、合散(がふさん)消息して、常(つね)有ることを安(やす)んずるときは、則ち、千變萬化、未だ始めより極(きはま)り有らず、忽然として、人と爲(な)る。何ぞ控摶(こうたん)する[やぶちゃん注:保持する。]に足(た)りてん。化して、異物と爲る。又、何ぞ患(わづら)ふに足らん。此れを亦、言はく、變化、皆、一氣に由(よ)るなり。」と。膚學(ふがく)の士[やぶちゃん注:浅学の徒。]、豈に一隅の見(けん)を恃(たの)んで、㮣(おほむ)ね古今六合・無窮の變化の事物を指(さ)して、「迂怪(うくわい)なり。」[やぶちゃん注:怪しく邪(よこし)まである。]と爲すべけんや。

   *

「五雜組」調べたが、同書には「飛頭蠻」或いは「飛頭」の文字列は存在しない。当初から気になっていたが、これは本書の作者の添書であろうからして、しばしば、私もふと勘違いする「酉陽雜組(俎)」の誤りではないかと踏んで、調べたところ、図に当たった。「酉陽雜俎」には「巻四」の「堺異」の中に、整理すると、五種の飛頭人(但し、「飛頭蠻」ではなく、「飛頭者」及び、一部の通称で「飛頭獠子」(ひとうりょうし)とする)の記載が並んであった。「中國哲學書電子化計劃」の影印本の当該部で起こす。句読点は同サイトの振ったものと、所持する東洋文庫の今村与志雄先生の訳を参考にした。訓読は今村先生のものをもとに自然流で行った。

   *

嶺南溪洞中往往有飛頭者。故有飛頭獠子之號。頭將飛一日前、頸有痕匝、項如紅縷。妻子遂看守之。其人及夜狀如病、頭忽生翼、脫身而去。乃於岸泥尋蟹蚓之類食、將曉飛還。如夢覺、其腹實矣。

梵僧菩薩勝又言、闍婆國中有飛頭者。其人目無瞳子、聚落時有一人。據于氏「志怪」、『南方落民、其頭能飛。其俗所祠、名曰蟲落。因號落民。』。

晉朱桓有一婢。其頭夜飛。

「王子年拾遺」言、『漢武時、因墀國使南方、有解形之民、能先使頭飛南海、左手飛東海、右手飛西澤。至暮、頭還肩上、兩手遇疾風、飄於海水外。

   *

①嶺南の溪洞の中(なか)に、往往にして、頭を飛ばす者、有り。故に「飛頭獠子」(ひとうりやうし)の號(な)有り。頭、將に飛ばんとする一日前、頸に、痕匝(こんそう)[やぶちゃん注:ぐるっと首を回った筋のような痕(あと)。]有りて、項(うなじ)の、紅縷(こうる)のごときものなり。妻子、遂(そのまま)に之れを看守(みまも)れり。其の人、夜に及び、狀(じやう)、病ひのごとくなりて、頭、忽ちに翼(つばさ)を生やし、身(からだ)から脫して去る。乃(すなは)ち、岸(かはぎし)に於いて、泥より、蟹・蚓(みみず)の類(たぐゐ)を尋(さが)し食(くら)ひ、將に曉(あかつき)にならんとするに、飛び還る。夢の覺めたるがごとく、其の腹、實(みて)り。

②梵僧[やぶちゃん注:インド出身の僧。]の菩薩勝(ぼさつしやう)、又、言はく、『闍婆國(じやばこく)[やぶちゃん注:ジャワ。]の中に、頭を飛ばす者、有り。其の人は目に瞳子(ひとみ)が無く、聚落には、時に一人は有り。』と。

③于氏(うし)が「志怪」に據(よ)れば、『南方の落民は、其の頭、能く飛ぶ。其の俗、祠(まつ)れる所のものを、名づけて「蟲落(ちゆうらく)」と曰ふ。因りて「落民」と號(なづ)く。』と。

④晉の朱桓(しゆかん)、一婢(いつぴ)有り。其の頭、夜、飛べり。[やぶちゃん注:今村先生の注によれば、この原拠は知られた晋の宝(かんぽう)の「搜神記」かとされ、それに従うなら、朱桓は呉の将軍である。]

⑤「王子年(わうしねん)拾遺」[やぶちゃん注:東晋の頃の志怪小説集。]に言はく、『漢の武の時、因墀國(いんちこく)の使(つかひ)いはく、『南方に、形を解(わ)くるの民、有り、能く、先づ、頭をして南海に飛ばしめ、左手は東海に飛ばしめ、右手は西の澤(さは)に飛ばしむ。暮れに至りて、頭、肩の上に還るも、兩手、遇(たまた)ま、疾風ありて、海の水外に飄(ただよ)へり。』と。

   *]

大和怪異記 卷之四 第十二 女鬼となる事

 

[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の本文部分はここ。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。なお、底本のルビは歴史的仮名遣の誤りが激しく、ママ注記を入れると、連続してワサワサになるため、歴史的仮名遣を誤ったものの一部では、( )で入れずに、私が正しい歴史的仮名遣で《 》で入れた部分も含まれてくることをお断りしておく。]

 

 第十二 女鬼となる事

 江戶、中橋《なかはし》に、庄右衞門といふ者あり。

 其妻、をつとを、ねたむ事、つもり、いつとなく、わづらひ、日かずふるまゝに、をとろへはて[やぶちゃん注:ママ。]、死すべきほども、ちかく見えしかば、をつとも、そばをはなれず、まもり居けるが、ある夜、

「がは」

と、おきあがり、

「あら、腹立(はらたち)や。」

と、いひて、双(さう)のゆびを、おのが口にいれ、引《ひき》ければ、みゝのねまで、さけ、かみ、さかさまにたちて、しゆろの葉のごとくなるを、みだし、をつとに、とびかゝるを、前なるふとんを取(とつ)て、なげかけ、

「むず」

と、くみ、

「よれや、ものども。」

と、聲をたてければ、下人も、となりのものも、かけつけ、よぎ・ふとん、うちかけ、六、七人、をりかさなり、

「ゑいや。」

声を出《いだ》し、をしころしける[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。]。

 されども、よぎ・ふとん、とりのくる事、おそろしく、そのまゝふるきながびつに、をし入《いれ》、寺にをくりしを[やぶちゃん注:ママ。]、法師ども、

「かみ、そらん。」

とて、取出《とりいだ》し、みるに、眼(まなこ)を見ひらき、口は、みゝのねまで、きれ、かみは、ゑりける[やぶちゃん注:「彫(ゑ)りける」で「像として彫刻された」の意。]羅刹のごとくなりしかば、をそれ、わなゝき、ふたをし、燒塲(やきば)につかはし、火葬としける。

 是より、をつとも、わづらひつきて、百日ばかり後に、身まかりけり。

[やぶちゃん注:「犬著聞集」原拠。これは、幸いにして、後代の再編集版である神谷養勇軒編の「新著聞集」に所収する。「第十一 執心篇」にある「妬女(ねたみをんな)鬼(をに[やぶちゃん注:ママ。])となる」である。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の寛延二(一七四九)年刊の後刷版をリンクさせておく。ここと、ここ。そこでは夫の名を姓も添えて『高野庄(こうのせふ[やぶちゃん注:ママ。])左ヱ門』となっている。

「江戶、中橋」中橋は京橋の東西にあった橋で、江戸歌舞伎の始祖中村勘三郎が江戸で初めて芝居小屋を掛けた(寛永元(一六二四)年。但し、当時、彼は猿若勘三郎と名乗っていた)場所に近い。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「しゆろの葉のごとくなるを、みだし」この「みだし」を「近世民間異聞怪談集成」では「見だし」と翻刻しているが、ここは「見だし」では意味が通らない。これは「見」を崩した平仮名の「み」であって、「亂し」として、初めて意味が通る。 ]

大和怪異記 卷之四 第十一 孕女死して子を產育する事

 

[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の本文部分はここと、ここ。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。なお、底本のルビは歴史的仮名遣の誤りが激しく、ママ注記を入れると、連続してワサワサになるため、歴史的仮名遣を誤ったものの一部では、( )で入れずに、私が正しい歴史的仮名遣で《 》で入れた部分も含まれてくることをお断りしておく。]

 

 第十一 孕女(はらみ《をんな》)死して子を產育する事

 土佐国、浦邊にあるもの、懷姙《くわいにん》にて、身まかりぬ。

 しかるを、染(そめ)かたびらを、きせて、葬れり。

 其のち、近邊に「もちや」ありしに、夜(よ)ごとに、錢壱匁づゝもちて、もちを、かい[やぶちゃん注:ママ。]に來《きた》る女、あり。

 六日、來《きたり》て、七日めには、「かたびら」をもち來り、

「これに、あたるほど、たまはれ。」

とて、もちにかへて、歸りぬ。

 翌日、かたびらを見れば、あまりによごれし程に、あらいて、ほしけるとき、かの女のをつと、通りあはせ、これをみ、

『もし、塚をほりて取(とり)たるか。』

と、うたがひ、ゆへをとひければ、

「しかしか。」

と、かたりしかば、ふしぎの事におもひ、其夜、「もちや」がかたに、女、來るを、うかゞひみるに、をのが[やぶちゃん注:ママ。]妻なりしかば、あとを、したゐ[やぶちゃん注:ママ。]ゆくに、はか所《しよ》に入《いり》けるを、心しづかに、耳をよせて、きけば、あか子のなく聲、しけるほどに、いよいよ、あやしみ、つかを、ほりかへし見れば、子をうみて、ひざのうへに、すへたり[やぶちゃん注:ママ。]。

 その子を、つれかへり、はごくみしに、成人して、寬文元年の比(ころ)、十八、九歲にて、船頭と成(なり)、大坂に來りしを、見たり。

 死しても、子をおもふみちに、まよふ。

 おやのこゝろほど、あはれなる事は、あらじ。「犬著聞」

[やぶちゃん注:「犬著聞集」の後代の再編集版である神谷養勇軒編の「新著聞集」にも採られていないようであるが、これは「子育て幽霊」として頓に知られる話柄であり、私の記事でも枚挙に遑がないほど、甚だ多い。個人的には好きな類譚である(「餅」の代わりに「飴」であるものも本邦では多い)。蘊蓄物で個人的には好かぬが、原拠の一つなどを注で探っておいた「古今百物語評判卷之二 第五 うぶめの事附幽靈の事」や、「伽婢子卷之十三 幽鬼嬰兒に乳す」、また、民俗学からの「うぶめ」の考証物では、『柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 橋姫(3) 産女(うぶめ)など』を挙げておこう。また、当該ウィキの「子育て幽霊」もあり、その「餅を買う女」の項を見て戴くと、本譚の濫觴が南宋の洪邁の撰になる怪奇談集「夷堅志」(一一九八年成立)に載せるものと酷似することが紹介されてある。これは同書の「夷堅丁志」の「宣城死婦」である。「中國哲學書電子化計劃」の影印本の当該部で起こす。暴虎馮河の自然流で訓読する

   *

宣城經戚方之亂、郡守劉龍圖被害、郡人爲立祠。城中蹀血之餘、往往多丘墟。民家婦任娠、未產而死。瘞廟後、廟旁人家、或夜見草間燈火、及聞兒啼。久之。近街餅店、常有婦人抱嬰兒來買餅。無日不然。不知何人也。頗疑焉。嘗伺其去、躡以行、至廟左而沒。他日再至、留與語、密施紅線綴其裙、復隨而往、婦覺有追者、遺其子而隱。獨紅線在草間塚上。因收此兒歸。訪得其夫家、告之故、共發塚驗視、婦人容體如生、孕已空矣。舉而火化之。自育其子、聞至今猶存。荊山編亦有一事小異。

   *

 宣城、「戚方の亂」を經て、郡守劉龍圖、害せられ、郡人、祠(ほこら)を立てんと爲(す)るも、城中、蹀血(てうけつ)の餘り[やぶちゃん注:血の海となって。]、往往、丘墟[やぶちゃん注:荒れ果てた野。]、多し。

 民家の婦(をんな)、任娠して、未だ產せずして、死す。

 瘞廟(えいびやう)[やぶちゃん注:廟を設けて埋葬すること。]の後(のち)、廟の旁らの人家、或る夜、草の間(あひだ)に燈火を見、兒の啼くを聞くに及ぶ。

 之れ、久し。

 近街の餅(もちう)る店に、常に婦人の嬰兒を抱きて來たりて餅を買へる有り。然らざる日、無し。何人(なんぴと)なるか知らざるなり。

 頗(すこぶ)る、疑へり。

 嘗(こころ)みに、其の去れるを伺ひ、以つて、躡(あとお)ひ行くに、廟の左に至りて、沒(うしな)へり。

 他日、再び至れば、留めて與(とも)に語り、密(ひそ)かに紅き線-綴(いと)を、其の裙(すそ)に施し、復た、隨ひて往(ゆ)きたるに、婦、追へる者、有るを覺え、其の子を遺(のこ)して隱れたり。

 獨(ただ)、紅線のみ、草の間の塚の上に、在り。

 因りて、此の兒を收(いだ)きて歸る。

 其の夫(をつと)の家を訪ね得て、之れを告げし故、共に塚を發(あば)き、驗(こころ)み視るに、婦人の容體(やうたい)、生けるがごとく、孕(はら)は、已に空(くう)たり。

 舉(とりあ)げて、火にて、之れを化(おく)れり。

 自(みづか)ら、其の子を育み、聞くに、今に至りて、猶ほ、存すと。

 「荊山編」に『亦、一事の小異、有り。」と。

   *

「寬文元年」一六六一年。徳川家綱の治世。

「死しても、子をおもふみちに、まよふ」と一見、辛口に批評しつつ(仏教では父母の子を思う心を最大の妄執の一つとして戒めている)、糞「徒然草」の辛気臭いそれに終らず。「おやのこゝろほど、あはれなる事は、あらじ」と思いやって感じは、いい。]

大和怪異記 卷之四 第十 蜘蛛石の事

 

[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の本文部分はここ。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。なお、底本のルビは歴史的仮名遣の誤りが激しく、ママ注記を入れると、連続してワサワサになるため、歴史的仮名遣を誤ったものの一部では、( )で入れずに、私が正しい歴史的仮名遣で《 》で入れた部分も含まれてくることをお断りしておく。]

 

 第十 蜘蛛石(くもいし)の事

 紀伊国那賀郡貴志庄《きいのくになかのこほりきしのしやう》北山村の西北山の半腹に、「蜘蛛石」とて、大小、數十(す《とう》)、皆、白色(しろいろ)なり。

『むかし、此所に「大くも」ありて、徃來(わうらい)の人を、なやますとき、貴志正平といふ者、かの「くも」を、退治す。蜘蛛がほね、石となれり。』と云傳(《いひ》つた)ふ。「紀州志」

[やぶちゃん注:「紀州志」既出既注であるが、再掲すると、「南紀名勝志」或いは「紀州名勝志」・「南紀名勝略志」という名で伝わる紀州藩地誌の写本の中の一冊であろう。底本と同じ「新日本古典籍総合データベース」の「南紀名勝志」を参看したところ、同書の「那賀郡」のここにあった。本篇の内容とほぼ同様であるが、一点、原拠では、退治した貴志正平を『社司』としている。

「紀伊国那賀郡貴志庄北山村の西北山」現在の地名としては、和歌山県紀の川市貴志川町北山となるのだが、「ひなたGPS」で戦前の地図を見てみると、「北山」は大字名であることが判り、この時には、「那賀郡中貴志村」に統合されていたことが判る。さらに、その西部分には「口北」・「西出」・「西山」の地名が確認されることから、私は、この蜘蛛石の比定地を現在の北山の西方の、この辺りではないかと、一旦は考えた。ところが、それを再検証しようと、調べてみたところ、サイト「ニュース和歌山」の「妖怪大図鑑」の「其の百弐拾〜蜘蛛血石(くもちいし)」に酷似する怪石が、この同じ貴志川町にあるとする記事があるのを見つけた。そこには、『紀の川市貴志川町、高畑山にある白岩には、白い肌に点々と血で染めたような斑がついていて、地元で「蜘蛛血石」と呼ばれている。かつて高畑山に棲んでいた大蜘蛛を坂上田村麻呂が退治した時、大蜘蛛が流した血の痕だという。現在なお、この山には「蜘蛛血石」がごろごろあるというが、ある男がこの石を持ち帰ったところ、石から夜な夜な「高畑山へ帰してくれ」と声が聞こえてきた。他にも、夜中に泣き出すとか、色が変わるとか、奇妙な現象が絶えなかった。』とあるのである。これは退治者が高名な人物であるが、間違いなく、本篇の石であると考えてよいだろう。そこで「高畑山」がポイントになる。調べた結果、山の名は見出せなかったものの、「紀の川市役所」の「農林整備課」の作成になる詳細を極めた「紀の川市ため池マップ」PDF)の「3」の「302085197」番の溜め池の名に貴志川町「高畑池」が載っていた。しかも、これをグーグル・マップ・データで見ると、貴志川町北山に辛うじて含まれてある、北の山間の池(中央の種型の小さなもので東の貴志川町丸栖に突き出ている。これはこの池の水が北山地区の水利用であることを示すものである)であることが判明した。さればこそ、やはり、この比定地は和歌山県紀の川市貴志川町北山でよかったのであった。而して、北山地区の産土神の『社司』であると仮定すれば、一つ、北山地区にあって、高畑池の南麓にある北山妙見宮(グーグル・マップ・データ)が候補となるか。ゆきまる氏のブログ「ゆきまるのブログ」の「北山妙見宮(紀の川市貴志川町北山)」を見ると、『旧那賀郡貴志荘北山村に鎮座とあるが、『紀伊続風土記』に記載なし。明治時代以降の造営と思われるが、境内に昭和53年(1978年)4月に改築した記念碑があり、これ以前にはすでに存在していたと思われる』とあったので、候補たり得るものと私は考える。先の「ひなたGPS」で見ると、山の名が「御茶屋御殿山」とあるのだが、その南の山腹に実に「白岩」とあるのを発見した。ますますここの可能性が、いや高である。私は高校時代地理Bまで、三年間、地理を習った地理フリークで、旅行は好まないものの、地図を調べるのは、頗る好きで、こうした検証は、只管、面白いのである。]

2022/11/26

大和怪異記 卷之四 第九 蜂蜘にあだをむくふ事

 

[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の本文部分はここから。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。なお、底本のルビは歴史的仮名遣の誤りが激しく、ママ注記を入れると、連続してワサワサになるため、歴史的仮名遣を誤ったものの一部では、( )で入れずに、私が正しい歴史的仮名遣で《 》で入れた部分も含まれてくることをお断りしておく。]

 

 第九 蜂(はち)蜘(くも)にあだをむくふ事

 相刕小田原の蓮池に、ふねを入《いれ》て、

「盆前(ぼんぜん)に葉花(ははな)を切(きり)する。」

とて、舟に乘居(のりゐ)ける者ども、船ばたに、手うちかけ。しばらく休(やすら)ひけるに、蜂、一つ、來て、花をすひけるが、蜘のゐにかゝりけるを、葉の下より、蜘、出《いで》て、ゐにて、まきけるに、蜂も、しばしは、ゐをやぶりかねしが、とかくして、やうやう、にげさりける。

 其後《そののち》、此くも、蓮花(はすの《はな》)の、半《はん》びらきたるにのぼり、ゐをもつて、まきよせ、はなのうへを、とぢあはせ、其内に、かくる。

「いかに、かくは、するぞ。」

と心をつけ、見ける所に、しばらくありて、蜂一つ、來《きた》ると思へば、あとより、百ばかり、

「どつ」

と、來て、蜘のかくれ居(ゐ)たる花のあたりを尋《たづぬ》ると見へけるが、蛛のかくれたる花にとりつき、みるうちに、花を、あみのごとくに、さしやぶり、

「ばつ」

と、立《たち》て、さりぬ。

 人々、舟をよせて、此花のうちをみるに、かくれたる蛛、

「ずだずだ」

になりて、死《しし》けり。

 前に、ゐにかゝりたる蛛、出《いで》て、ゐにてまかれし意趣を思ひ、ともを、もよほし、あだをむくゐける、と見えたり。相刕圡人物語

[やぶちゃん注:これも原拠は書名とは見做さない。「相刕(さうしう)の圡人(どじん)の物語り」である。

「相刕小田原の蓮池」これはまず、候補としては、小田原城南堀の別名「蓮池」(グーグル・マップ・データ)ととっておくべきか。城の北直近に明日池弁財天社もある。

「ゐ」「圍」(囲)で蜘蛛の網のこと。]

大和怪異記 卷之四 第八 蛇塚の事

 

[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の本文部分はここ。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。なお、底本のルビは歴史的仮名遣の誤りが激しく、ママ注記を入れると、連続してワサワサになるため、歴史的仮名遣を誤ったものの一部では、( )で入れずに、私が正しい歴史的仮名遣で《 》で入れた部分も含まれてくることをお断りしておく。]

 

 第八 蛇塚の事

 奧刕二本松領塩田郡(しほたごほり)宮本といふ所の明神の前にて、ある人、三、四尺ばかりの蛇をころしければ、それより、蛇、むらがり來り、われと、はらを、くひやぶりて、一万ばかり、いやがうへに、かさなり、死す。

「これ、たゞことに、あらず。」

とて、つきこめ、「蛇塚」とて、今にあり。

 かの蛇ころしける者は、程なく、一家(いつけ)、滅亡せり。いかなるゆへか有《あり》けん。

[やぶちゃん注:「犬著聞集」原拠。これは、幸いにして、後代の再編集版である神谷養勇軒編の「新著聞集」に所収する。「第六 勝蹟篇」にある「奥州蛇塚(じゃづか)」である。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の寛延二(一七四九)年刊の後刷版をリンクさせておく。同合巻「二」PDF)の64コマ目から。

「奧刕二本松領塩田郡(しほたごほり)宮本」福島県二本松市宮本

「明神」現在は見当たらない。]

大和怪異記 卷之四 第七 異形の二子をうむ事

 

[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の本文部分はここから。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。なお、底本のルビは歴史的仮名遣の誤りが激しく、ママ注記を入れると、連続してワサワサになるため、歴史的仮名遣を誤ったものの一部では、( )で入れずに、私が正しい歴史的仮名遣で《 》で入れた部分も含まれてくることをお断りしておく。]

 

 第七 異形(い《ぎやう》)の二子(ふたご)をうむ事

 奧州南部盛岡の妙泉寺門前の百性が女房、延宝八年夏のころ、二子をうみしに、一人(ひとり)は、片手、ながく、片手、短く、足、かゞまり、身に、毛、生《おひ》ければ、さながら猿猴(《えん》こう)に、ことならず。

 いまひとりは、目・鼻、なくして、手、七つ、足、四十三本あり。

「かゝることやうなる者は、はぢをさらさずれば、あとのため、よし。」

とて、捨《すて》たりしを、ある人、

「やしなひみん。」

とて、乳(ち)をのませけるに、五、六日へて、死しけり。

[やぶちゃん注:「犬著聞集」原拠。これは、幸いにして、後代の再編集版である神谷養勇軒編の「新著聞集」に所収する。「第十 奇怪篇」にある「異形(いぎやう)の二子(ふたご)を同產(どふさん[やぶちゃん注:ママ。])す」である。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の寛延二(一七四九)年刊の後刷版をリンクさせておく。ここ。にしても、二人目の奇形は甚だしい。これをも育てようとしたというのは、奇特の極みである。

「妙泉寺」現在の岩手県盛岡市加賀野にある寺(グーグル・マップ・データ)。

「延宝八年」一六八〇年。は徳川家綱(延宝八年五月八日(一六八〇年六月四日)没)・徳川綱吉の治世。

「猿猴」猿。]

大和怪異記 卷之四 第六 女の尸蝶となる事

 

[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の本文部分はここ。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。なお、底本のルビは歴史的仮名遣の誤りが激しく、ママ注記を入れると、連続してワサワサになるため、歴史的仮名遣を誤ったものの一部では、( )で入れずに、私が正しい歴史的仮名遣で《 》で入れた部分も含まれてくることをお断りしておく。]

 

 第六 女の尸(かばね)蝶《てふ》となる事

 ちかき比《ころ》にや、會津に何がしとかやいふものゝ婢女(げじよ)、朝(あさ)け[やぶちゃん注:ママ。]の米をかしくとて、ふと、わらひ出《いで》、聲のかぎり、どよみ、たをれて[やぶちゃん注:ママ。]、いき絕《たえ》たりしを、火葬になせるに、火も、漸く、めぐる、と見えしとき、鐵砲のごとく、鳴出(なり《いだし》)、たちまちに、火(ひ)消《きえ》、ちいさき蝶、いく千万となく、飛出(とび《いで》)、四方にちりしを、ふしんに思ひ、よりてみれば、はねも、のこらず。

『さては。しがゐ[やぶちゃん注:ママ。]、蝶になりし。』

と、おのおの、きゐ[やぶちゃん注:ママ。]の思ひをなす。

 其蝶、二つ、ほしからびたるを、信州高遠、月岡宗二といふ人のもとに、緣有人《えんあるひと》、をくり[やぶちゃん注:ママ。]侍《はべり》ぬ。「犬著聞」

[やぶちゃん注:原拠は「犬著聞集」。本書は本書最大のネタ元で既に注済み。「犬著聞集」自体は所持せず、ネット上にもない。また、前話の最後で示した同書の後代の再編集版である神谷養勇軒編の「新著聞集」にも採られていないようである。同様の場合は、以下ではこの前振りは略すこととする。さて、本篇、甚だ短いが、その中に、複数の怪異要素があるため、逆に一読、かなり印象に残る怪奇談である。まず、

①「笑い死にの不思議」。この下女、或いはマジック・マッシュルームの一種である担子菌門真正担子菌綱ハラタケ目オキナタケ科ヒカゲタケ属ワライタケ Panaeolus papilionaceus をこっそり食べて、幻覚性のかなりあるサイロシビン(Psilocybin)中毒になったものか? しかし、本邦産では死亡例はないようである(当該ウィキを参照)。或いは、基礎疾患があったか? 不思議。

②「鉄砲のように爆(は)ぜる火葬体の不思議」。現代のように高温で短時間で焼かれる場合には、しばしば遺体は爆ぜる。しかし、ここは古い野焼きのそれで、およそ鉄砲のように鳴りだすというのは、怪異(けい)に他ならない。極めて考え難いが、遺体とともに火葬に附した彼女の帷子或いは副葬で燃やしたものの中に、火薬様(よう)の物が含まれていたものか? 山猟の若者が恋人で、お守り代わりにそんなものを渡していたというのは、現在の弾丸ならまだしも、ポンポンと鳴りだすことなどは、ない。今の医療の場合なら、死の直前に特殊な薬剤を注入していたなどという原因可能性も考え得るかも知れないが。不思議。

③「火葬後の遺体から幾千万となく翔び立っていった蝶の不思議」。たまたま御棺に用いていた木板が古い安物で、白アリに喰われていたとかぐらいしか思い浮かばぬ。或いは、焼く場所の下に古木に根が残っており、彼らが熱とともにワーンと飛び立ったものか? 不思議。

④「後日にその蝶の二羽の干乾びた標本が会津から高遠まで送られた事実とその受領者の姓名が月岡宗二と明記されているリアリズム」。怪奇談の御約束事の超リアル(に見える)附帯後日談のこれは、実にニクいじゃないの!

「高遠」長野県伊那市高遠(グーグル・マップ・データ。但し、指示されたそこは高遠町西高遠)附近。桜の名所として知られる。私は行ったことがないが、私がただ一編、読んで気に入った井上靖の小説「化石」で記憶に刻まれている。

「朝け」「朝餉(あさげ)」。

「かしく」「炊(かし)ぐ」。

「月岡宗二」不詳。]

大和怪異記 卷之四 第五 古井に入て死る事

 

[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の本文部分はここから。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。なお、底本のルビは歴史的仮名遣の誤りが激しく、ママ注記を入れると、連続してワサワサになるため、歴史的仮名遣を誤ったものの一部では、( )で入れずに、私が正しい歴史的仮名遣で《 》で入れた部分も含まれてくることをお断りしておく。]

 

 第五 古井(ふる《ゐ》)に入《いり》て死(しす)る事

 奧州の者、かたりけるは、我国に、あるもの、

「井の水を、かゆる。」

とて、奴僕(ぬぼく)をあつめ、かへさせけるに、下の、にごり、つきず。

 とかく、

「人をおろし、掃除させよ。」

とて、井底におろしけるに、ひかへたる繩、かろければ、

『定(さだめ)て、おりゐたるらん。』

と思ひ、まて共゙まて共゙、おと、なければ、不思議におもひ、又、人を、おろすに、なわ[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。]、かろくなりて、かの者は、いづちゆきけん、しらず。

 みなみな、奇異の思ひをなし、あきれ、まどへり。

 其中に、をごの者、ありて、

「いざ、我をおろし給へ。いかなる變化(へんげ)の所爲(しよ《ゐ》)にもあれ、我は左《さ》は、せられじ。正躰を見とゞけん。」

と望み、手縄、二すぢ、より合せ、つよく帶(おび)し、かまを、こしにさし、桶の内に、足をふみ入《いれ》、おろせる繩に、をのが[やぶちゃん注:ママ。]こしを、つよく、ゆひ付、

「もし、かはれることあらば、此なわを、うごかさん。」

と、いひて、井に入《いり》しに、

『そこに、つきぬ。』

と思ふ時、かすかに、なわ、うごきしを、皆人(みな《ひと》)、手に手をかさね、引《ひき》あぐるに、ことの外にかろし。

 急《いそぎ》て、縄をくり上《あげ》たれば、又、人は、なく、こしに付《つけ》たる、なは、むすびたるまゝにて、もぬけせしごとし。

「こは、いかに。」

と、あきれ、まどゐぬれども、せんかたなし。

 井、ふかければ、そこ、見ゆるまでほらせんには、隣家(りんか)までも、くづれなん。

 もはや、「入れ」といふ事もなく、「入《いら》ん」といふ人も、なし。

「あたら、人を、おほく、ころせしよ。」

と、悔(くやみ)ながら、此井を、うづめし、となむ。

 是、「酉陽雜俎」・「輟畊錄」等に、古井ありて、人をうしなふ、と記(しる)せるたぐゐ成《なる》べし。陸奥国人ノ物語

[やぶちゃん注:原拠は書名とは思われない。本怪異は最後の志願者が縄を厳重に二重巻きで強く締めたのに遺体が抜けてしまっている点が不審乍ら、所謂、酸欠或いは一酸化炭素か二酸化炭素中毒で説明がつくであろう。

「おごの者」「おこの者」「おこ」は当て字では「嗚呼」「烏滸」が一般的で、他に「癡」(痴)「尾籠」などとも書く。古代からあった「愚かなこと・馬鹿げたこと・思慮の足りないことを行なうこと」、また、「そのさまや、そうしたその人」を意味する。小学館「日本国語大辞典」によれば、「うこ」の母音交替形で、奈良時代から盛んに用いられるようになり、漢字を当てて、日本漢文の中でも多く使われた。多くの漢字表記が残っているが、それぞれの時代で使う漢字が定まっていたらしい。平安時代の漢字資料では「𢞬𢠇」「溩滸」など、「烏許」を基本にこれに色々な(へん)を附した漢字を用い、院政期には「嗚呼」が優勢となり、鎌倉時代には「尾籠」が現われ、これを音読した和製漢語「びろう(尾籠)」も生まれた、とある。

「酉陽雜俎」唐の段成式(八〇三年~八六三年)が撰した怪異記事を多く集録した書物。二十巻・続集十巻。八六〇年頃の成立。「中國哲學書電子化計劃」の影印本で示すと、十一巻の「廣知」の中の「隱訣」の引用中、まず、ここの終りから二行目下方から、「井戸の水で、沸騰しているのは、飲んではいけない」とあり、次の丁の頭に、「凡そ、冢(墓)や井戸の閉じられた気は夏・秋に中(あた)ると、人を殺す。予め、雞(にわとり)の毛を投げ入れ、その毛が真っ直ぐ落ちていったなら、無毒であるが、それがぐるぐると旋回して下りていったら、無理をして危険を犯してはならない。醋(酢)を数斗[やぶちゃん注:唐代の「一斗」は五・九リットル。]注いで初めて、方(まさ)に入れるようになる。」とある

「輟畊錄」「輟耕錄」に同じ。元末の一三六六年に書かれた学者で文人の陶宗儀の随筆。正式には「南村輟耕錄」(「南村」は宗儀の号)である。世俗風物の雑記であるが、志怪小説的要素もある。当該話は多分、第十一の「枯井有毒」である。ここでは、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の承応元(一六五二)年板行の本邦の板本(訓点附き)を元に電子化して示すここ(巻十から十二の合本一括版)PDF)の31コマ目からである。但し、私の以下の訓読は、必ずしも訓点に従ってはいない。表記は若干、疑問があったので、「中國哲學書電子化計劃」の影印本と校合して一部を変えた。

   *

  枯井有毒(こせいうどく)

 平江の在城、峨嵋橋(がびきやう)に、葉剃(えふてい)といふ者の門首(もんしゆ)の簷(ひさし)の下に、一つの枯れ井、有り。深さ、丈(じやう)許(ばか)りなるべし。

 偶(たまた)ま、畜(か)ふ所の猫(ねこ)、墮ち入る。

 隣家、井を浚(さら)ふに適(あた)れば、遂に、井夫に錢一緡(さし)を與へ、下(お)りて猫を取らしむ。

 夫(そ)の父子、諾(だく)す。

 子、既に井に入りて、久しく出でず。

 父、繼(つづ)いて入り、之れを視るも、亦、出でず。

 葉、惶-恐(きやうこう)して、索(なは)を腰に繫ぎて、家人をして、次第に索を放たしめ、將に井の底に及ばんとして、亟(きふ)に、

「命(いのち)を、救へ。」

と、呼ばふ。

 拽(ひ)き、比(なら)べて、起こすに、體の下、已に僵木(きやうぼく)となること、屍(かばね)のごとく、而(しか)も、氣息、奄奄(えんえん)たり。

 鄕里(がうり)、救ひて、之れを活(い)かしめんとして、官に白(まを)す。

 官、來たりて、驗視(けんし)す。

 火をして、下を燭(てら)さしむに、仿佛(ほうふつ)として、旁(かたは)らに空(あ)ける者、有るがごとく見ゆ。

 向(さき)の死人、一(ひと)りは、橫に地上に臥(ぐわ)し、一りは、斜めに倚(よ)りかかりて、倒れず。

 其の髮を、鉤(ひきか)けて提(あ)げ出だせり。

 遍身、恙無(つつがな)くして、止(ただ)、紫黑なるのみ。

 衆議して以(おもへ)らく、

「恐らくは、是れ、蛟蜃(かうしん)の屬(ぞく)ならん。之れ、土(ど)を實(じつ)とす。餘意、山崗(さんこう)の蠻瘴(ばんしやう)すら、尚ほ、能(よ)く人を殺す。何ぞ況んや、久しき年、乾涸(かんこ)して、陰の毒、凝結し、其の氣を納(い)れて、而して死すを、復(ま)た奚(なん)ぞ疑はんや。」

と。

 此の事、至正己亥(きがい)の秋八月初旬に在り。後に「酉陽雜俎」を讀むに、云へる有りて、

『凡そ、冢(はか)・井(ゐ)の間氣(かんき)、秋、夏、多く、人を殺す。先づ、雞(にはとり)の毛を以つて、之れに投じて、直ちに下れば、毒、無し。廻り舞ひして下る者は、犯すべからず、當(まさ)に泔(ゆする)[やぶちゃん注:米の研ぎ汁。]數斗を以つて、之れに澆(そそ)ぎ、方(まさ)に入るべし。』

と。此の一章を得て、餘意の誠(まこと)に是れなるを信ず。

   *

この「鄕里」は当該地方の現地の実務官吏であろう。「土(ど)を實(じつ)とす」は『五行の「土」を本性・本質とする』の意でとる。「蠻瘴」蛮地の自然の悪しき瘴気。「至正己亥」は元の至正十九年。ユリウス暦一三五九年。トゴン・テムルの治世。中和剤が異なるのは御愛嬌。ここで遺体が「紫黑」というのは、一酸化炭素中毒の遺体によく似ている。同中毒死の直後は遺体がピンク色を呈するのである。]

大和怪異記 卷之四 第四 繼母の怨㚑繼子をなやます事

 

[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の本文部分はここ(標題のみ)とここ。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。なお、底本のルビは歴史的仮名遣の誤りが激しく、ママ注記を入れると、連続してワサワサになるため、歴史的仮名遣を誤ったものの一部では、( )で入れずに、私が正しい歴史的仮名遣で《 》で入れた部分も含まれてくることをお断りしておく。]

 

 第四 繼母(けいぼ)の怨㚑《おんりやう》繼子(まゝこ)をなやます事

 下㙒国那須の下蛭田村に助八といふ者あり。

 父は死し、繼母ばかりなるを、常につらくあたりしかば、母(はゝ)、恨みかこち、

「汝、いま、かくのごとく、からき目にあはする共《とも》、物には、むくゐ、あり。やがて、思ひしらせんものを。」

と、にらみし眼(まなこ)、いと、おそろしかりき。

 其後、母わづらひつきて死(しに)けるが、其夜より、怨㚑、來りて、助八を、なやましければ、おそろしさ、やるかたなく、身の毛よだち覚ける故、妻子をすて、かみをそり、湯殿山行人(ゆどのさんぎやうにん)にさまをかへ、諸こく、しゆ行せしより後、怨㚑、又も見へずなりしとかや。「犬著聞」

[やぶちゃん注:これは、「犬著聞集」の後代の再編集版である神谷養勇軒編の「新著聞集」に所収する。「第十二 冤魂篇」にある「継子(けいし)母(はゝ)にさからひ恨霊(こんれい)子(こ)を惱(なやま)す」である。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の寛延二(一七四九)年刊の後刷版をリンクさせておく。ここ(単独画像)。しかし、それを見ると、ロケーションを『下野(しもつけ)那須野(なすの)の内(うち)下蛙田村(しもかはつたむら)』とある。但し、調べるに、これは「新著聞集」の写し間違いかとも思われる。現在、広義の旧那須野の東に、栃木県大田原(おおたわら)市蛭田(ひるた)がある。

「湯殿山」山形県鶴岡市及び同県西村山郡西川町にある、標高千五百メートルの山。ここ(グーグル・マップ・データ)。近くの月山・羽黒山とともに「出羽三山」の一つとして、修験道の霊場として知られる。]

《芥川龍之介未電子化掌品抄》(ブログ版) 寄席 附:草稿二種 オリジナル注附き

《芥川龍之介未電子化掌品抄》(ブログ版) 寄席 附:草稿二種

[やぶちゃん注:大正一三(一九二四)年六月一日発行『女性』に掲載され、後、作品集『百艸』『梅・馬・鶯』に収録された。芥川龍之介満三十二歳の折りの小品である。盟友小穴隆一によれば、この作品が書かれた凡そ一年足らずの四月十五日、龍之介は自決の覚悟を小穴に伝えている(私の『小穴隆一 「二つの繪」(5) 「自殺の決意」』、及び、『小穴隆一「鯨のお詣り」(13) 「二つの繪」(2)「自殺の決意」』を参照されたい)。

 底本は岩波旧全集「芥川龍之介全集」第七巻(一九七八年刊)を使用した(『梅・馬・鶯』版底本で校合)。

 後に岩波新全集「芥川龍之介全集」の「第二十一巻 初期文章・草稿」に載る本作の草稿を恣意的に概ね正字化して添えた。

 オリジナルな簡単な注を文中及び最後に附した。]

 

 寄  席

 

 或春の夜、僕は獨逸から歸つて來た高等學校以來の友だちと或寄席の二階へ上つた。寄席へは何年にもはひつたことはない。のみならず高座を眺めるのも古往今來七八遍目である。それを今夜はひつたのは――寄席に藝を賣る藝術家諸君には甚だ失禮には違ひない。が、實は生憎ふり出した雨の晴れ間を待つ爲にはひつたのである。

 この寄席の天井は合天井である。高座も昔見た高座のやうに塗り緣の杉戶のあるばかりではない。お神樂堂を數寄屋にしたらばかうなるに違ひないと思つた位、甚だ瀟洒に出來上つてゐる。僕は寄席の高座と雖も、一藝を天下に示す舞臺は莫迦に出來ないのを發見した。

 かう云ふ高座に上つてゐるのは何とか云ふ年少の落語家である。落語家?――實は落語家と云ふものかどうか、その邊は頗る判然しない。もし藝を以て判斷すれば正に物眞似の藝人である。彼はやつと二分ばかり、何か辯舌を弄したと思ふと、忽ち座蒲團を向うへはねのけ、操り人形の眞似をし出した。それも日本の操り人形ではない。活潑なる西洋の操り人形である。僕は再び如何なる藝術も勞働を伴ふのを藝見した。

 その次に現れたのは女琵琶師である。これは綠色の袴の上へ桃色の被布を一着してゐたから、田園の春のやうに美しかつた。琵琶も亦甚だ小さい。まづ臺所の龜の子笊よりも幾分か大きいぐらゐである。彼女は情緖纏綿と那須の與一の扇の的を語つた。昔天德寺了伯はこの琵琶の一曲に淚を落したと云ふことである。僕は幸ひに泣かなかつた。――と云ふよりも寧ろ那須の與一に名狀すべからざる可愛さを感じた。彼女の曲中の與一は鞦置いたる木馬に跨り、五六間離れたる扇の的へ握り細の楊弓を引絞つてゐる。[やぶちゃん読み注:「鞦」「しりがい」。「握り細の楊弓」「にぎりほそのやうきゆう」。]

 その次に現れたのは落語家である。これは落語家に違ひない。正に落語を一席辯じた。但し一席か半席か或は又四半席か、その點は保證出來ない。のみならず落語家には違ひないにしろ、頗る騷騷しい落語家である。ハイネは徒らなる饒舌を「舌の戰ぎ」と形容した。これは「舌の戰ぎ」所ではない。盛なる舌の鳴動である。僕は活力に充滿した彼の顏を眺めながら、纔かに七八遍足を入れた昔の寄席を思ひ出した。――[やぶちゃん読み注:「戰ぎ」「そよぎ」。]

 僕の最初に聞いたのは柳橋と云ふ落語家である。ぼんやりした記憶を正しいとすれば、柳橋は色の蒼白い才槌頭の落語家だつた。當時まだ小學校の生徒だつた僕が孝行鍛冶の名を覺えたのは柳橋を聞いたおかげである。その次に聞いた落語家は――必しもその次には聞かなかつたかも知れない。しかしその次に思ひ出すのは圓喬と云ふ落語家である。彼は人間と云ふよりも火喰鳥に近い顏の持ち主だつた。その上又話をはじめる時には高座の直前に坐つてゐたにもしろ、到底はつきりとは聞えない位、小聲を出す技巧の持ち主だつた。その次に記憶に殘つてゐるのは「彌太つぺい」と稱する落語家である。僕は後に「彌太つぺい」の馬樂なることを發見した。馬樂は吉井勇君の俳諧亭句樂に違ひない。彼は酒燒けのした胸をいつも懷に覗かせてゐる毬栗坊主の落語家だつた。その次には全然身動きもせずに滔滔としやべり立てる圓藏である。或は高座へ脫いだ羽織に赤い色の見える遊三である。或は又枯骨にも舌のあるかと思ふ芝居話の桂小文治である。彼等は今日の落語家よりも、悉く上品ではなかつたかも知れない。たとへば遊三は年少の僕をも辟易させたことは確かである。しかし彼等は悉く今日の落語家よりも上手だつた。少くとも西洋人の言葉を借りれば、彼等自身のビズネスをちやんとのみこんでゐたやうである。が、あの高座にゐる落語家は――いや、もう高座に上つてゐるのは盛なる舌の鳴動業者ではない、嬋娟たる男裝の女劍舞である。[やぶちゃん注:「嬋娟」「せんけん」は容姿が艶(あで)やかで美しいこと。品位があって艶(なま)めかしいさま。]

 女劍舞はその後ろに羽織袴を着用した八字髭の紳士を從へてゐる。彼は劍舞のはじまる前――讀者はこの一條を信じないかも知れない。少くとも僕の老父などは「莫迦を云へ」と一笑に付したものである。が、これは譃ではない。彼は劍舞のはじまる前に雲井龍雄の詩の講義をした! 事の民衆に關するものは一として莊嚴ならざるはない。俗惡も勿論莊嚴である。寄席は百年の洗練に成つた江戶の風流を失却した。しかし風流は滅んだにしろ、莊嚴なる俗惡の存する限りは、必しも絕望に及ばずとも好い。俗惡は僕の脣に多少の嘲笑を浮べさせるであらう。が、俗惡を憎むことは、天の成せる通人は知らず、少くとも僕には出來ないことである。けれども公然と高座の上に雲井龍雄の詩の講義をするのは俗惡どころの不料簡ではない。まづ贋物の天國の劍を田舍の成金へ賣りつけるのと類を同うした罪惡である。僕はこの講義を聞いてゐるうちに、いつかあの八字髭の紳士を射殺したい誘惑を感じ出した。

 この誘惑を實行に移さなかつたのは一つには平生ピストルをポケツトに入れて置かない爲である。しかしまだその外にも全然理由のなかつた譯ではない。女劍舞をする女史は詩の講義の終つた後、朗朗たる紳士の吟聲と共に勇ましい劍舞を演じ出した。僕は如何なる劍舞にも危險以外の感銘を受けたことのない臆病者である。が、この一場の女劍舞は忽ち僕に幸福なる少年時代を想起させた。何でも明治三十年頃の「牛の御前」のお祭などには屢かう云ふ女劍舞の見世物小屋がかかつてゐたものである。其處までは無事だつたのに違ひない。けれども劍舞を終つた女史は刀や襷をとつてしまふと、今度は雲井龍雄からお龍さんか何かになつたやうに娘手踊りを演じ出した。これはもう善惡の問題ではない。善惡を超越した悲劇である。我我の生活に共通した二重職業の悲劇である。僕はこの悲劇的感銘のもとにあらゆる意志を失却した。同時に又あの八字髭の紳士を射殺したい誘惑をも失却した。悲劇は美學者の敎へるやうにまことに人間を淨化するものである!

 「おい、出よう。」

 僕は匇匇立ち上つた。

 「出るか? まだ降つてゐるだらう?」

 友だちも雨だけ氣にしてゐるのはさすがにあきらめの好い江戶つ兒である。二人は廣い木戶を出た後、蕭蕭と降る春雨の中を軒下も傳はらずに步きつづけた。兎に角今日の寄席と云ふものは雨宿りの役にも立たないらしい。

 

 

   「寄席」草稿二種

[やぶちゃん注:以下、おぞましい新字体採用の岩波新全集に載る草稿を概ね恣意的に正字化したもの(『久保田万太郞』は久保田自身が「万」と表記し、芥川龍之介の諸作でも「萬」ではなく「万」であるので、「万」としてある)。同書解題に拠れば、二種あって最初の草稿(編者によって『Ⅰ― a』とされるもの)は『署名の入った四枚』で、後の草稿(編者によって『Ⅰ― b』とされるもの)は御覧の通り、『同じ書き出しの箇所で表題などの無い二枚連続のもの』とある。興味深いのは、冒頭が元はロケーション設定ではなかったということである。二種を見るに、その書きっぷりから見ても、初めは純粋な随筆として書き始め、決定稿の額縁となる物語風の実景ロケーションは、実際の実見ではあるものの、後から嵌め込んだ可能性が高いと思われる。]

 

     寄  席

 

 寄席、落語家、講釋師、――さう云ふものに通じてゐるのは日暮里の久保田万太郞君である。或は根岸の小島政二郞君である。僕は――僕の田舍者に異らぬことは斷る必要もないかも知れない。が、時たま該博なる兩君の見聞を聞かされると、同じ東京に生まれながら、かうも違ふかと感心するほど、卸何にも無學を極めてゐる。けれども昔をふり返つて見ると、――と云ふと老人のやうに聞えるかも知れない。が、二十何年か前は兎に角昔には違ひないから、その昔なるものをふり返つて見ると、不思議にもやはり二三人は落語家や講釋師を覺えてゐる。

 その一人(ひとり)は柳橋である。僕は芝の何とか云ふ寄席へ父と一しよに行つた時に、この人の話す牡丹燈籠を聞いた。が、唯聞いたと云ふ外には殆ど何も覺えてゐない。柳橋自身も漠然(ばくぜん)と妙に色の靑白い好男子だつたやうに思ふだけである。

 圓喬と云ふ落語家は柳橋よりもはつきりと覺えてゐる。これは人間と云ふよりも駝鳥に近い顏の持ち主だつた。その上話をはじめる時には高座の下に坐つてゐても、決して滿足には聞きとれないほど、小さい聲を出す技巧家だつた。僕は誰よりも彼の顏や彼の話しぶりを覺えてゐる。しかし聞いた話そのものは不幸にも全然覺えてゐない。

 馬樂と云ふ落語家は當時の僕にはまづ「彌太つぺい」と敎へられてゐた。これは後に吉井勇君の戲曲に仕組まれた落語家であらう。彼は毬栗坊主の上に、いつもはだけた懷の中に酒燒けの胸を曝らしてゐた。僕は   [やぶちゃん注:底本に編者注で『三字欠』とある]〕の橘亭に彼の話す「三人心中」を[やぶちゃん注:以下、なし。]

 

[やぶちゃん注:以下、草稿の二種目。]

 

 寄席、落語家、講釋師、――さう云ふものに關する僕の知識は田舍出の書生も同じことである。動坂の寄席の前を通る時に、看板の名前を讀んで見ても、知つてゐる名前などは滅多にない。たまに又知つてゐる名前でもあれば、それは大抵新聞か何かに出てゐたと云ふ記憶のあるばかりである。けれども昔をふり返つて見ると、――と云ふと老人のやうに聞えるかも知れない。が、二十何年か前は昔と稱しても好いと思ふから、兎に角昔をふり返つて見ると、東京に生まれた難有さにはやはり落語家や講釋師の顏の二人や三人は覺えてゐる。[やぶちゃん注:以下、なし。]

 

[やぶちゃん決定稿注:「龜の子笊」(かめのこざる)は底が円く、口が広いもので、伏せた形が亀の甲に似た笊。「どんがめ笊」「どうがめいかき」とも呼ぶ。所謂、上部の一部が箕(み)のように開放されているタイプのものが、その形状に最もマッチする。

「天德寺了伯はこの琵琶の一曲に淚を落したと云ふ」戦国・安土桃山時代の武将佐野房綱(永禄元(一五五八)年~慶長六(一六〇一)年)。剃髪して「天徳寺宝衍」或いは「了伯」と号した。兄昌綱と甥宗綱の二代に亙り、下野佐野家当主を補佐した。天正一三(一五八五)年に宗綱が戦死し、北条氏忠が養子として佐野氏の家督を継ぐに至り、佐野家を出た。その後、上洛して豊臣秀吉に仕え、北関東の佐竹・宇都宮や下総結城氏・会津蘆名氏に、秀吉の意向を取り次ぐ役割を果たした。天正十八年の「小田原攻め」で北条氏を滅ぼして関東を支配下に収めた秀吉から、佐野家当主の地位を認められ、佐野唐沢山城に戻った。文禄元(一五九二)年、秀吉の命で富田知信の子信吉を養子に迎えて隠居している。以上は朝日新聞出版「朝日日本歴史人物事典」に拠ったが、当該ウィキによれば、天正一五(一五八七)年には、『すでに秀吉に仕えており、京都で自らルイス・フロイスと面会、佐野領奪還とその際のキリスト教保護の意向を示している』として、フロイスの「日本史」には、『「天徳寺と称する坂東の一人の貴人が」三、四『度、司祭を訪ねて来た。彼は思慮分別のある人物で、今なお繁栄している坂東随一の大学、足利学校の第一人者であった。知識欲が旺盛なためにヨーロッパの諸事ならびに我らの教えについて質問し、」と描かれている』とある。而して、この「琵琶の一曲に淚を落したと云ふ」のは、備前岡山藩主池田氏に仕えた徂徠学派の儒者湯浅新兵衛常山(宝永五(一七〇八)年~安永一〇(一七八一)年)の書いた戦国武将の逸話四百七十条から成る江戸中期の逸話集「常山紀談」(明和七(一七七〇)年成立とされる)の巻一にある「輝虎平家を語らせて聞かれし事佐野天德寺の事」に載る。国立国会図書館デジタルコレクションの湯浅元禎(他)輯の有朋堂大正一五(一九二六)年刊の画像のここの右ページ後ろから六行目から視認出来る。それによれば、彼が落涙したのは、まず、「平家物語」の佐々木高綱の「宇治川先陣」で、さらに望んで、「屋島の戦い」の那須与一の扇の的を射る下りを語った時、滂沱と落涙したとあるのを指す。読点を増やし、段落を成形し、記号と推定の読みも添えて以下に電子化する。別に所持する岩波文庫版の同書も参考にした。

   *

 相州北條の幕下佐野城主天德寺、勇將なりしが、或時、琵琶法師に「平家」を語らせ聞きけるに、未だ語らぬ先に、

「我は唯、哀(あはれ)なる事を聞き度(た)こそあれ。其心得せよ。」

と言ひしに、法師、

「承り候。」

とて、佐々木髙綱が宇治川の先陣を語り出(いだし)たりしに、天德寺、雨雫(あめしづく)と淚をながして泣たりけり。さて、又、

「今、一曲、前のごとく、哀なる事を、聞きたし。」

と、いへば、那須與一が扇の的を語る。半(なかば)に及びて、天德寺、また、落淚數行(すかう)に及べり。

 後日に、側(そば)に仕へし者どもに、

「過ぎにし日の『平家』は、如何(いかが)聞きつる。」

といふに、皆、

「面白き事に覺え候。但し、一つ、心得ぬ事こそ候へ。二曲ともに、勇氣功名なる事にて、哀なるかた、少(すこし)も候はぬに、君には、御感淚に咽(むせ)ばせられ候。今に不審なる事と申し合ひ候。」

といへば、天祐寺、驚きて、

「只今迄は、各(おのおの)を賴母(たのも)しく思ひ候ひしが、今の一言にて、力を落したるぞ。」

とよ。

「先(まづ)、佐々木が事を、よく、心にうかべて見られ候へ。右大將、舍弟の蒲冠者(かばのくわんじや)[やぶちゃん注:頼朝の異母弟源範頼。]にも賜はらず、寵臣の梶原[やぶちゃん注:梶原景時の弟影季。]にも賜はらぬ生唼(いけずき)を、高綱に賜はるにあらずや。『其甲斐もなく、此馬にて、宇治川の先陣せずして、人に先をこされなば、必ず、討死して、ふたゝび歸るまじき』暇乞(いとまごひ)して出(いで)ける。其志、哀ならぬ事かは。」

とて、屢(しばしば)、淚を拭(のご)ひつ〻、暫しありて、言ひけるは、

「又、那須與一も、人多き中より撰ばれて、只一騎、陣頭に出(いで)しより、馬を海中に乘入(のりい)れて、的にむかふに至るまで、源平兩家、鳴(なり)を靜めて、是を見物す。『若(も)し、射損じなば、味方の名折(なをれ)たるべし。馬上にて、腹、搔切(かきき)つて海に入らん。』と思ひ定めたる志を察して見られよ。弓箭(ゆみや)取る道ほど、哀なるものは、あらじ。我は每(いつ)も戰場に臨みては、高綱・宗高[やぶちゃん注:その武勇から「丹波鬼」と呼ばれた丹波波多野氏の家臣波多野宗高(永正八(一五一一)年~天正元(一五七三)年)か。]が心にて、鎗を取り候ゆゑ、右の平家を聞時も、兩人の心を思ひ遣り、落淚に堪へざりし。然るに、各(おのおの)は、哀に無かりしとや。思ふに、『各の武邊は、只、一旦の勇氣にまかせて、眞實(しんじつ)より出(いづ)るにては、無きにや。』と思はれ候。夫(それ)にては、賴母しからず。」

と、歎きけるとぞ。

   *

「鞦」馬具の緒所(おどころ)。馬の頭・胸・尾に繋げる緒(帯)の部分の総称。

「五六間」約九~十一メートル。

「握り細」弓の弦(つる)張る本体部である弓柄(ゆづか=握(にぎり))がいかにも細いちゃちなもの。

「楊弓」(やうきゆう(ようきゅう))遊戯用の小さな弓。約八十五センチの弓に約二十七センチの矢を番(つが)え、座って射る。江戸時代から明治にかけて民間で流行した。もと、柳の枝で作られたため、この名がある。

「柳橋」春風亭の四代目麗々亭柳橋(万延元(千八百六十)~明治三三(一九〇〇)年)。「坐り踊り」高座にしゃがんだままで、膝と腰とで呼吸を巧みとって踊るもの)で人気を博した。落語は実父三代目譲りの人情噺が得意とした。

「才槌頭」(さいづちあたま)木槌の形に似て、額と後頭部が突き出ている頭。しばしば人を罵倒する際にも用いられる差別語である。

「孝行鍛冶」(かうかいかぢ)落語の演目であろうが、不詳。「孝行糖」(当該ウィキ参照)なら知っているが。

「圓喬」三遊亭の四代目橘家圓喬(慶応元(一八六五)年~大正元(一九一二)年)。江戸生れ。本名は柴田清五郎(元は「桑原」姓で養子になったものと思われる)。当該ウィキによれば、『叔父が三遊亭圓朝の贔屓客だった関係で』、『幼いころから寄席の楽屋に出入りするようになり』明治五(一八七二)年に七歳でかの『三遊亭圓朝門下に入門し』た高弟である。『「鰍沢」「三軒長屋」「牡丹灯籠」「柳の馬場」「真景累ヶ淵」』『などを得意と』し、『後世に大きな影響を与えた名人であ』るとある。

「彌太つぺい」「馬樂」三代目蝶花楼馬楽(ちょうかろうばらく 元治元(一八六四)年~大正三(1914)年)。本名は本間弥太郎。当該ウィキによれば、『俗に「弥太っぺ馬楽」「狂馬楽」「気違い馬楽」』と呼ばれた。『俳句も好くし』、「長屋の花見」の『マクラに好く使われている』「長屋中齒を食ひしばる花見かな」「古袷秋刀魚に合わす顏もなし」『などの佳句を残している』とある。

「吉井勇君の俳譜亭句樂に違ひない」所持する筑摩書房『全集類聚』版「芥川龍之介全集」(第五巻)の脚注に拠れば、歌人で劇作家でもあった『吉井勇作』の戯曲『「俳諧亭苦楽の死」(一九一四年初版)の主人公』とある。

「圓藏」四代目橘家圓蔵(文久三或いは四年或いは元治元(一八六四)年~大正一一(一九二二)年)。本名は松本栄吉。当該ウィキには、『立て板に水の能弁で、作家芥川龍之介は「この噺家は身体全体が舌だ。」と感嘆した。「嘘つき弥次郎」「首提灯」「蔵前駕籠」「お血脈」「反魂香」「釜どろ」「百川」「松山鏡」「廓の穴」「芝居の穴」「三人旅」などが得意』であったとあるのだが、この芥川龍之介の引用は出典が示されていない。旧全集で彼の名が出るのは、本篇だけである。不審。

「遊三」(いうざ(ゆうざ))は初代三遊亭遊三(天保一〇(一八三九)年~ 大正三(一九一四)年)。当該ウィキによれば、もとは『徳川家に仕えた御家人の生まれで』、本名を『小島弥三兵衛長重と言』ったが、『その頃の御家人の例に漏れず、武士の階級でありながら』、『芸人仲間に加わり好きな芸事に耽溺していた。幕末頃』、『病昂じて』二『代目五明楼玉輔門人となり』、『玉秀と名乗って寄席に出るようにな』っていた。慶応四(一八六八)年の「上野戦争」には『彰義隊の一員として参加した。倒幕後の維新後は司法省に入り』、『裁判官の書記を経て判事補となるなど』、『完全に寄席から離れ』た『が、函館に勤務中、関係を持った被告の女性に有利な判決をするという不祥事を引き起こし』、『官を辞』し、『女性をつれて東京へ戻』った。『帰京後、口入屋などをしていたが、旧友初代三遊亭圓遊を頼って寄席に復帰』し、六『代目司馬龍生門で登龍亭鱗好となるが』、『師が女性問題で駆落ちしてしまい、止む無く』、『三遊亭圓朝の進めで圓遊門人となり』、『三遊亭遊三となる。「三遊亭遊三」は回文形式の洒落た名前で』ある。『御家人生まれだけに「素人汁粉」など武士の演出が優れていたという。十八番は「よかちょろ」で「よかちょろの遊三」とまで呼ばれた。他に「転宅」「厩火事」「お見立て」「権助提灯」などの滑稽噺を得意とした』。五『代目古今亭志ん生が』、『若い頃、遊三の「火焔太鼓」を聞いて、後に自身の十八番とした逸話は有名である』。『晩年に義理の甥(妻の甥)にあたる』二『代目三遊亭遊三に譲り』、『隠居』した、とある。

「桂小文治」前掲の筑摩類聚版の脚注によれば、大阪出身の落語家で、上方の『七代目桂文治』(嘉永元(一八四八)年~昭和三(一九二八)年:本名は平野治郎兵衛)『の弟子。上方古典落語に巧み。本名稲田祐宏』とあり、生年は明治二六(一八九三)年とする。

「雲井龍雄」(天保一五(一八四四)年~明治三(一八七一)年)は佐幕系志士。米沢藩士中島惣右衛門の次男で、後に同藩士小島才助の養子となった。通称は龍三郎。雲井龍雄は変名。慶応元 (一八六五)年、江戸に遊学して安井息軒に師事し、朱子学・陽明学を修め、後に藩の依頼で、公武合体に奔走。慶応四(一八六八)年四月、新政府の貢士として議政官下局に名を連ね、徳川氏の立場を弁護した。官軍東征の動きを知ると、帰東して迎撃の態勢を整えるよう奔走し、「討薩の檄」を作成して、薩長間の離間を策した。「奥羽越列藩同盟」の結成に尽力して策謀を練り、敗戦とともに米沢に謹慎した。明治二(一八六九)年七月、東京に出て、再挙をはかり、長州・土佐系高官と通謀して、新政府の転覆を策したが、新政府側の察知するところとなり、捕えられ、斬首された。雲井の思想は佐幕・勤王・攘夷・封建で、つまりは「公武合体」のうえに立った「攘夷論」で、極めて特異なものであった(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。当該ウィキには、『壮志と悲調とロマンティシズムに溢れた詩人とも評されている』とあった。

「天國の劍」」前掲の筑摩類聚版の脚注によれば、『天国は飛鳥の時代の刀工、日本刀剣の祖といわれる。平家の重宝小烏丸』(こがらすまる)『はこの人の作という。歌舞伎にはこの刀をめぐる騒動が多く扱われる』とある。

「明治三十年」一八九七年。

「牛の御前」現在の東京都墨田区向島にある牛嶋神社(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。江戸本所総鎮守で、隅田公園内にある。当該ウィキによれば、貞観年間(八五九年~八七九年)の創建とされ、『慈覚大師円仁が当地に来た際に、須佐之男命の化身の老翁から託宣を受けて創建した。明治以前は「牛御前社」と呼ばれており、本所の総鎮守であった』。『鎌倉に進軍する源頼朝の軍勢が隅田川を渡河する際に、千葉常胤が当社で祈願したため、無事に渡ることができたという。以降、千葉氏の崇敬を集めるようになった』。『元々は』五百『メートル北の弘福寺』(ここ)『のそば(現在の桜橋付近)に位置していたが』、大正一二(一九二三)年の「関東大震災」で『罹災し、また』、『墨田堤の拡張工事に伴い』、昭和七(一九三二)年に『現在地に移転した』。『なお、神社には』弘化二(一八四五)年に『奉納された葛飾北斎の大絵馬「須佐之男命厄神退治之図」があったが、関東大震災で現物は焼失し、現在は原寸大の白黒写真が本殿内に掲げられている。なお、同作は』二〇一六年に『色彩の推定復元が行われ、すみだ北斎美術館にて展示』されている。『境内には「撫牛」と呼ばれる牛の像がある。自分の体の悪い所と同じ部分を撫でると病気が治ると言い伝えられている。また』、『本殿前の鳥居は三ツ鳥居と呼ばれる比較的珍しい形態の鳥居である』とある。本所は芥川龍之介の生地である。]

2022/11/25

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「話俗隨筆」パート 武邊手段の事

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから次のコマにかけて。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。

 なお、私は本篇を、二〇一〇年一月二十八日に、上記「選集」を底本としてサイト版として「武辺手段のこと」として電子化注しているが、今回は全くの零から始めており、これを決定版とする。

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。]

 

      武邊手段の事 (大正二年九月『民俗』第一年第二報)

 

 「武邊手段の事」と題して、根岸肥前守の「耳袋」二編に次の話が有る。寬延の末頃、巨盜日本左衞門の餘類の山伏、長《ながさ》三尺、周《めぐり》一寸餘の鐵棒を用るのが上手で、諸國で手に餘つた。所ろが、大阪町同心の内に武邊の者有《あり》て、手段もて、難無く捕へた。其法と謂《いは》ば、此同心、長五尺、廻り二寸近い鐵棒を作り、姿を變じて、彼《かの》山伏の宿に詣《いた》り、知人に成り、色々、物語の上、自分も鐵棒を使ふ由言《いひ》て、持參した棒を見せると、山伏、驚きて、同心の大力《だいりき》を讃《ほ》め、自分のと取更(とりかえ[やぶちゃん注:ママ。])に、同心の棒を手に取《とつ》て觀る。隙に乘じ、山伏の鐵棒で、山伏の眞甲を打つ。山伏、「心得たり。」と、同心の棒を取上《とりあげ》たが、力に餘つて、働き、十分ならず。彼是する内、組の者、入來《いりき》たりて捕へた。

[やぶちゃん注:『「武邊手段の事」と題して、根岸肥前守の「耳袋」二編に次の話が有る』「『耳袋』二編」とあるが、私が全電子化注(二〇一五年四月完遂)の底本した所持する三一書房『日本庶民生活史料集成』第十六巻「奇談・紀聞」中の「耳囊」(底本は本篇を含む巻一については東北大学図書館蔵狩野文庫本)では「卷之一」にあるし、別に所持する岩波文庫の、現在、唯一の十巻完備本であるカリフォルニア大学バークレー校本東アジア図書館蔵旧三井文庫本でも、同じく「巻之一」である。但し、「耳囊」の伝本は不完全なものが複数あり、そうしたものの一つ翻刻したものを熊楠は所持していた可能性があり、熊楠の誤記や、驚くべき記憶力で書くことの多い彼の誤記憶とは必ずしも断定出来ない。特に、この「武邊手段の事」は上記二本ともに第一巻の終りの方にあるため、錯本が第二巻に回した可能性はあると言えるのである。なお、ブログ単発では、「耳囊 武邊手段ある事」(当時、第一巻では標題では巻数を外していた)であり、そちらで十二年前の私が真摯に注を附しており、現代語訳もやっているから、ここでは、それに敬意を表してそこに注したものは繰り返さない(今回、当該記事のみの正字不全(ユニコード前のための不可抗力)だけは修正しておいた)。そもそもサイト版「武辺手段のこと」のここの部分への注は、直前(前日)に電子化した「耳囊」の注を援用したに過ぎないからである。閑話休題。「根岸肥前守」は根岸鎭衞(しづもり 元文二(一七三七)年~文化一二(一八一五)年)は旗本。下級旗本の安生(あんじょう)家の三男として生まれ、宝暦八(一七五八)年二十二歳の時、根岸家の養子となり、その家督を相続した。同年中に勘定所御勘定として出仕後、評定所留役(現在の最高裁判所予審判事相当)・勘定組頭・勘定吟味役を歴任した。また、彼は河川の改修・普請に才覚を揮い(「耳嚢」にはそうした実働での見聞を覗かせる話柄もある)、浅間大噴火後の天明三(一七八三)年、四十七歳の時には浅間復興の巡検役となった。その功績によって翌天明四(一七八四)年に佐渡奉行として現地に在任、天明七(一七八七)年には勘定奉行に抜擢されて帰参、同年十二月には従五位下肥後守に叙任、寛政一〇(一七九八)年に南町奉行となり、文化一二(一八一五)年まで、終身、在職した。

「長三尺」約九十一センチ。

「周一寸」直径三センチ。「周」は今なら円周だが、それでは九ミリほどの細いものでおかしい。「わたり」(径)に「周」を当てたものと判断する。後の「廻り」も同じ。

「五尺」一メートル五十一センチ。

「廻り二寸」直径六センチ。]

 是は事實譚らしいが、似た話が伊太利の文豪「ボカッチオ」[やぶちゃん注:ママ。]の「デカメロン」の第五日、第二譚に在る。此譚は、伊太利の「リパリ」島の富家の娘「ゴスタンツァ」と、貧士「マルツッチオ」が相惚《あひぼ》れと來たが、女の父、男の貧を蔑《さげす》みて、結婚を許さぬ。男、大《おほい》に奮發して、身、富貴とならずば、生きて再び、此島を見ぬと言放《いひはな》ち、同志を募り、海賊となり、繁盛したが、「チュニス」人と戰ふて、囚はれた切り、故鄕へ、消息が無い。娘、失望の餘り、潜かに家を出《いで》て海濱にゆき、空船を見出《みいだ》し、海中で死なうと、それに乘《のり》て宛も無く漕出《こぎいだ》し、哀《あはれ》んで、船中に臥すと、船は無難に「チュニス」近き「スサ」市につき、情有る漁婦に救はれ、富家の老婦に奉公し居《を》る。「マルツッチオ」は、長々、獄中に居る内、「チュニス」へ敵が大擧して攻入《せみら》うとすると聞《きき》て、獄吏に向ひ、「『チュニス』王、予の謀《はかりごと》を用ひたら、必勝だ。」と云ふ。獄吏から、此事を聞いた王は、大悅びで、「マルツッチオ」を延見《えんけん》して、奇計を尋ねる。「マルツッチオ」曰く、「王の軍勢が用《もちひ》る弓弦《ゆづる》を、敵に少しも知れぬ樣に、至《いたつ》て細うし、其に相應して、矢筈《やはず》をも、至て狹うしなさい。扨、戰場で雙方、存分、矢を射盡して、彌《いよい》よ拾ひ集めた敵の矢を用るとなると、此方《こなた》は弦が細いから、敵の廣い矢筈の矢を射る事が成るが、敵の弦は、此方から放つた矢の狹い矢筈には、ずつと太過《ふとすぎ》て、何の用をも成《なさ》ぬ。此方は、矢、多く、敵は、矢がなくなる道理で、勝つ事、疑い無し。」と。王、其策を用ひ大捷《たいせふ》し、便《すなは》ち「マルツッチオ」を牢から出し、寵遇、限りなく、大富貴と做《なつ》た。此事、國内へ知れ渡り、「ゴスタンツァ」女《ぢよ》、「マルツッチオ」を訪《おとな》ひ、戀故に辛苦した話をすると、大悅びで、王に請《こふ》て、盛んに婚式を擧げ、大立身して、夫婦が故鄕へ歸ったと云ふ事ぢや。「エー・コリングウッド・リー」氏の『「デカメロン」出所及び類話』(一九〇九年の板、一六〇頁)に據ると、「ジォヴニ・ヴラニ」(一三四八年歿せり)の「日記」卷八に、一二九九年、韃靼帝の子「カッサン」が、己れの軍兵の弦と筈を特に細くして、埃及王を酷《むご》く破った、と有る由。「ヴィラニ」は「ボカッチオ」と同時代の人だ。

[やぶちゃん注:『「ボカッチオ」の「デカメロン」の第五日、第二譚』中世イタリアのフィレンツェの詩人で作家のジョヴァンニ・ボッカッチオ(Giovanni Boccacio 一三一三年~一三七五年)、及び、彼の代表作で一三四九年から一三五一年にかけて執筆された(本邦では南北朝時代に相当)イタリア散文の濫觴にして世界文学に於ける近代小説の魁(さきがけ)として評価される作品「デカメロン」(DecameronDecamerone))については、サイト版「武辺手段のこと」の私の注を参照されたい。梗概が記されたそれは、国立国会図書館デジタルコレクションの戸川秋骨訳の同書の翻訳「十日物語」(大正五(一九一六)年国民文庫刊行会刊)のここから視認出来る。

『伊太利の「リパリ」島』イタリア語で“Isola di Lipari”。「リ―パリ」とも音写する。シチリア(Sicilia)島の北東沖に浮かぶエオリエ諸島最大の島。の紀元前四千年から人が住んでいたと言われており、城塞地区には住居跡も残り、居住の歴史は六千年前の新石器時代にまで遡るとされ、青銅器時代やギリシャ時代の遺跡が残る歴史の島である。ギリシャの詩人ホメロス(Homeros)の「オデュッセイア」(Odysseia)に登場する風の神アイオロスの住む島とされ、島の名もホメロスの娘婿リパロに由来するとされる。古くは黒曜石や軽石(エオリエ諸島は火山列島)の交易で栄えた。現在はエオリエ諸島観光の拠点である。

「ゴスタンツァ」原文(イタリア語の「Wikisource」のこちらに拠った。以下同じ)では‘Gostanza’。戸川は『コンスタンチア』と訳している。

「マルツッチオ」“Martuccio”。戸川訳は『マルツチオ』。

「空船」これを「うつろぶね」と読むなら、このシークエンスは一種の汎世界的な各種の創世神話の変形譚が意識されているパロディのようにも思われる。

『「チュニス」人』“Tunis”は現在のチュニジア共和国の首都で、その地の民。以下、ウィキの「チュニス」によると、古代フェニキア人によって建設されたカルタゴ近郊の町であったが、『ローマ共和国との間で戦争を繰り返し、紀元前』百四六『年の第三次ポエニ戦争で完全に破壊され』、『その後、ローマの属州アフリカとなり』、再建され、三七六『年のローマ帝国の分裂に伴い、東ローマ帝国の属州となった』。七『世紀にはウマイヤ朝(イスラム帝国)は、当時イフリーキヤと呼ばれたチュニジアの占領を目指していた』六七〇『年のオクバの遠征によって』、『イフリーキヤにはカイラワーンが建設され、ウマイヤ帝国のアフリカ支配の拠点として更なる拡大をもくろんだが、ベルベル人の激しい抵抗にあって苦戦した。その後、ハッサン・イブン・アル=ヌマン率いるウマイヤ朝軍が東ローマ帝国軍を破って』、『カルタゴを占領、さらに』七〇一『年にはベルベル人が支配するカヘナも攻略する。これ以降、この街はチュニスとしてアラブ人によって開発されること』となり、イスラーム化された。『一時期』、『シチリア王国を築いたキリスト教徒のノルマン人に占領され』たこともあったが、十二『世紀には西方から侵攻したモロッコのムワッヒド朝が支配することになった』とある。

「スサ」“Susa”。ウィキの「スース」によると、フランス語で“Sousse”(「スース」。又はアラビア語で“Sūsa”(スーサ)と言う。港湾都市で、『チュニスの南約』百四十キロメートルに『に位置するチュニジア第三の都市で』、現在の『人口は約』四十三『万人。町は美しく、「サヘルの真珠」といわれる。旧市街メディナはユネスコ世界遺産に登録され』た。『紀元前』九『世紀頃』、『フェニキア人によって「ハドルメントゥム(Hadrumentum)」と』いう名で『開かれた。古代ローマと同盟を結びんでいたため』、「ポエニ戦争」『中も含め』、『パックス・ロマーナの』七百『年の間』、『比較的』、『平和で、大きな被害を免れた』。『ローマ時代の後、ヴァンダル族、その後』、『東ローマ帝国がこの町を占拠し、町の名を「ユスティニアノポリス(Justinianopolis)」と改名』、七『世紀にはアラブ人のイスラム教軍が現在のチュニジアを征服し、「スーサ(Sūsa)」と改名。その後』、『すぐアグラブ朝の主要港となった』。八二七『年にアグラブ朝がシチリアに侵攻した際、スーサは主要基地となった』。『その後』、『ヨーロッパでは技術革新が進み』、『イスラム教に対して優勢に出始め』、十二『世紀にはノルマン人に征服された時期もあり、その後』、『スペインに征服された』。十八『世紀にはヴェネツィア共和国とフランスに征服され、町の名をフランス風に「スース(Sousse)」と改名した。その後もアラブ風の町並みは残り、現在ではアラブ人による典型的な海岸の城砦都市として観光客が多く訪れる』とある。

「延見」呼び寄せて面会すること。「引見」に同じ。この「延」は「引き寄せる・招く」の意。

「矢筈」矢の末端の弓の弦(つる)を受ける部分で、弓の弦に番(つが)えるための切り込みのある部分を指す。この時代のそれは、木製の矢柄を、直接、二股に削ったものであったと考えられる。

『「エー・コリングウッド・リー」氏の『「デカメロン」出所及び類話』(一九〇九年の板、一六〇頁)』A. Collingwood Lee(詳細事績不詳)の一九〇九年刊の‘The Decameron. : Its sources and analogues’。調べたが、原本に当たれなかった。

『「ジォヴワニ・ヴヰラニ」(一三四八年歿せり)』フィレンツェの銀行家にして歴史家でもあったジョヴァンニ・ヴィッラーニ((Giovanni Villani ? ~一三四八年)のこと。ヴィッラーニは「新年代記」の作者として知られ、南方の言う「日記」も、それを指すものと思われる。以下、ウィキの「ジョヴァンニ・ヴィッラーニ」より引用する。『父親のヴィッラーノ・ディ・ストルド・ヴィッラーニはフィレンツェの有力な商人の』一『人であり』、一三〇〇『年にはダンテ・アリギエーリとともに市の行政委員(プリオーネ)を務めた』(但し、『ほどなく辞任して翌年の政変で失脚した同僚ダンテと明暗を分けることとな』った)。この年、ジョヴァンニはペルッツィ銀行に入社して』一『人前の商人の』一『人としてのスタートを切っている。この年はローマ教皇ボニファティウス』Ⅷ『世が初めて聖年とした年であり、各地より』二十『万人がローマ巡礼に訪れた。ジョヴァンニもまた』、『これに参加してローマを訪問し』、『ローマの史跡や文献に触れる機会があった。そこで彼は古代ローマ以来の歴史家の伝統が途絶したことを嘆き、「ローマの娘」を自負するフィレンツェ市民である自分が』、『その伝統を復活さなければならないとする霊感に遭遇した(と、本人は主張した)ことによって、彼は「ローマの娘」フィレンツェを中心とする年代記編纂を決意したと伝えられている』。『だが、彼の決意とは裏腹に』、『実際には商人・銀行家としての道を着実に歩む彼には執筆の時間はほとんど無かったと考えられている。代表者の死去によって』、『当時の慣例に従って』、『ペルッツィ銀行は一旦清算されることなると、彼は再設立されたペルッツィ銀行ではなく、縁戚の経営するブオナッコルシ銀行に移り』一三二五『年には共同経営者となった。同時にフィレンツェ市の役職も歴任し』、一三一六年・一三一七年・一三二一年には『父と同じ行政委員に就任したほか、各種の委員を務め、この間に多くの行財政文書を閲覧する機会に恵まれた。ところが』一三三一『年に市の防壁建築委員を務めていたジョヴァンニは』、『突如』、『公金横領の容疑で告発を受けることとなる。これは間もなく無実と判断されたが、政治的な挫折を経験したジョヴァンニの年代記執筆がこの時期より本格化していったと考えられている』。『ところが、ジョヴァンニの引退後、フィレンツェの政治は混乱して信用問題にまで発展、更に百年戦争による経済混乱も加わって』、一三四〇『年代に入ると』、『フィレンツェは恐慌状態に陥った結果、同地の主要銀行・商社のほとんどが破産に追い込まれた』。一三四二『年にブオナッコルシ銀行が破綻に追い込まれると、ジョヴァンニは債権者との交渉にあたったが、続いてペルッツィ銀行・バルディ銀行など』、『他の会社も次々と倒産した混乱もあって混乱が収まらず』、一三四六年二月には、『ジョヴァンニが債権者の要求によって』、『一時』、『投獄される事件も起きている。そして』、一三四八『年にフィレンツェを襲った黒死病はジョヴァンニの命をも奪ってい』ったのであった。『その後、ジョヴァンニの後を引き継ぐ形で』、『三弟のマッテオ・ヴィッラーニ』(一三六三年没)と、『その子フィリッポ・ヴィッラーニも年代記を執筆している』とあり、以下、「新年代記」の内容を記載する。“Nuova Cronica”「新年代記」は全十二巻から『構成され、大きく』二『部に分けられる。前半』六『巻はバベルの塔からフリードリヒ』Ⅱ『世までを扱い、父祖以前の歴史に属するため先人の著書に依存する部分が多い。また、ジョヴァンニはラテン語をほとんど知らなかったとされる一方で、聖書や古典に関する知識が豊富であり、それが記述にも生かされている。後半の』六『巻は』一二六六『年のシャルル・ダンジューのシチリア王継承から始まり、父親』或いは『自己の生きた時代を描いて』一三四六『年で終了している。彼が銀行家・政治家として活躍した』一三一〇『年代を描いた第』八『巻以後については綿密な記載がされており、彼が優れた観察者であったことがうかがえる。特に第』十一『巻にある』千三百三十八『年頃のフィレンツェの風景と経済状況に関する記述の緻密さはヤーコプ・ブルクハルトにも注目された。また、彼も同時代の他の人々と同じく熱心なキリスト教徒であり、神の裁きや』、『占星術を信じた記述があるものの、一方で経済特に商業関係の記述においては合理的な記述を尽している』とある。南方は『日記』の『卷八』と記しており、このウィキの「新年代記」の記載内容と合致している。

『一二九九年、韃靼帝の子「カッサン」が、己れの軍兵の弦と筈を特に細くして、埃及王を酷く破った』「カッサン」はモンゴル帝国を構成したイル・カン国(イルハン国、又は「フレグ・ウルス」とも呼ぶ)の第七代皇帝であったガザン・ハン(Ghāzān khān  ロシア語表記:Газан-хан 一二七一年~一三〇四年)のことを指す。彼の曽祖父で初代のイル・カン国皇帝であったフレグは、チンギス・ハーンの孫に当たる。ガザン・ハンは、イスラム教に改宗し、イラン人との融和を図るなどして、内政を安定させ、政治的にも文化的にも、イル・カン国の黄金時代を築いた名君であったが、三十四歳の若さで亡くなっている。一二九九年当時のエジプトは、バフリー・マムルーク朝ナースィル・ムハンマドの統治時代であったが、熊楠の述べる通り、この年、イル・カン国のガザンが、シリア侵攻を開始し、ナースィルはシリア北部のマジュマア=アルムルージュでガザン・ハン軍で迎え撃ったが、実戦経験が乏しかったため、大敗を喫して敗走、イル・カン国はシリアを支配下に置き、ダマスクスを百日に渡って占領した(以上は嘗つて、高校教師時代、同僚の世界史の先生からの教授を受けて作文したものである)。]

大和怪異記 卷之四 第三 甘木備後鳳來寺藥師の利生を得る事

 

[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の本文部分はここから。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。なお、底本のルビは歴史的仮名遣の誤りが激しく、ママ注記を入れると、連続してワサワサになるため、歴史的仮名遣を誤ったものの一部では、( )で入れずに、私が正しい歴史的仮名遣で《 》で入れた部分も含まれてくることをお断りしておく。

 挿絵があるが(先般まで、本巻四の第一話の丁内にあったため、話柄と合致しない不審な挿絵と判断していた)、これは「近世民間異聞怪談集成」にあるものが、状態が非常によいので、読み取ってトリミング補正し、適切と思われる箇所に挿入した。因みに、平面的に撮影されたパブリック・ドメインの画像には著作権は発生しないというのが、文化庁の公式見解である。底本(カラー。但し、挿絵は単色)の挿絵部分のリンクも張っておく。]

 

 第三 甘木備後鳳來寺藥師の利生を得る事

 むかし、出羽国庄内に甘木備後(《あまき》びんご)と云(いひ)し人あり。

 三河國、鳳來寺の藥師如來を、ふかく信じ、

「いかにもして、一たび、如來に、まうでばや。」

と常にねがひしに、はからず、用の事有《あり》て、みやこにのぼりしつゐでに、

「年來(としごろ)のねがひ、此ときなり。」

とて、藥師の御堂にまうでて、宿願をはたし、すでに下向せむとせしとき、かたはらを見れば、ちいさき葛籠(つ《ゞ》ら)をおろし、中より、色よき小袖を取出《とりいだ》し、佛前に打(うち)ひろげ、肝膽(かんたん)をくだき、いのる者ありしかば、不審に思ひ、立《たち》よりて、みれば、まさしく我妻が小袖にて、慥(たしか)に、見おぼえたる、しるしなど、あり。

 弥(いよいよ)あやしく思ひ、其故を尋(た《づ》ね)しに、

「されば。それがしは、藥をうりて渡世仕《つかまつ》る者なり。いつも、關東にくだり侍るが、今度(こんど)も、奧《おく》にいたり、出羽の庄内にて、かゝる人の舘(たち)にゆきしに、家老と見へし人、奧にいざなひ、いまだ年若き女房と、局(つぼね)と見へしと、出《いで》あひ、三人、一所にて、

『毒(どく)を求(もとめ)む。』

と有《あり》しを、『なき』由を答(こたへ)て、いなみしかども、かたく『なるまじ』といはば、ころしつべき氣色(けしき)に見へし[やぶちゃん注:ママ。]程に、力なく、うり侍しに、あたゐ、おほく、あたえ、其上に、

『褒美。』

とて、此小袖を給りし。かゝるつたなき世のわざを、佛前にて懺悔(さんげ)し、罪をのがれんと、思ひ侍る」

と、淚をながし、語《かたり》ける。

 備後、つくづくと聞《きく》に、まがふ所もなく、

『我、身のうへ。』

と、おどろきしかど、さらぬ躰(てい)にもてなし、

「申さるゝ所、聞《きく》につけて、あはれに候。それにつきて、其小袖、古さとヘの土產には、なるまじ。我は、遠国の者なり。うられよ。」

とて、かひとり、餘りに、たうとく思ひ、其日は、とゞまり、御堂に通夜(つや)せしに、夢中に、老僧、枕上(まくらがみ)にたちて、

「汝、年比(としごろ)、我を念ずる心ざし、ふかく、今度《このたび》、參詣せし事、あさからず、思ふなり。国にかへりて、そこつに、さけをのむ事、なかれ。是、大毒なり。」

と、しめし給ふ、と、覺へて、夢、さめぬ。

「誠に有がたき御事なり。」

と、ふかく隨喜して、國にぞ、かへりける。

 妻女、出《いで》むかひ、行旅(かうりよ)の勞(らう)を問(とひ)、さまざまに饗應(もてなし)て、

「君の、常に好(このみ)給へる程に、待まうけに、仕置《しおき》たり。」

とて、醴(さけ)を出《いだ》しける。

 

Amakibungo

 

『さればこそ。夢の御告よ。』

と思ひ出し、少《すこし》猶豫(《いう》よ)する所に、手なれたる猫、來りしを、ひざもとにかきよせて、醴を口に入《いれ》しがば[やぶちゃん注:ママ。]、たちまちに、くつがへり、死しぬ。

 家老某《なにがし》を、よび出し、

「是を、のむべし。」

と、いへば、彼(かの)男、平伏して、

「此間、腹中(ふくちう)あしく候。御ゆるしあれ。」

と、いふを、

「腹中あしく共、某《それがし》が前にて、いなむべきなき。是非、くらへ。」

と、せめられて、

「つ」

と、たつて、にげけるを、やがて、追懸(《お》つかけ)、切殺(きりころ)し、局(つぼね)を、からめ置《おき》、妻女の親・兄㐧(《きやう》だい)をよび、

「かく。」

と、かたり、件(くだん)のねこを出《いだ》しみせ、

「女をつれて、歸られよ。」

と、いふとき、女は、あはてゝ乘物にのらんとする所を、女が弟某《なにがし》、はしりかゝつて、姊(あね)がもとどりを取《とつ》て引《ひき》ふせ、一刀(《ひと》かたな)に、さし殺し、備後にむかひ、

「姊が不義は、是非に及ず。去(さり)ながら、某《それがし》が妹(いもと)を妻にしてたべ。姊がごときの不義は、よも候《さふらは》じ。」

といふ眼(まなこ)さし、「いな」ともいはゞ、さしちがへんと思ふ氣色あらはれしに、備後も、さすがにて、

「よく、いはれたり。はやく、よびよせよ。」

とて、妹をむかへ取《とり》、其時、かの弟、己《おの》が妹に、姊が死骸をみせ、

「汝も、不義のふるまひをなさば、かくのごとくなるぞ。侍の名を、くたすな。」

と、かたく、いひふくめ、婚姻のよそほひを取つくろひ、姊がしがいを葬送せしめし躰(てい)、

「たゞものに、あらず。」

と、見《み》きくもの、感ぜぬは、なかりしとかや。

「是、ひとへに藥師如來の利生なり。」

とて、備後、やがて、鳳來寺の柱(はしら)を、ことごとく、金柱(きんはしら)にし侍りしとかや。「犬著聞」

[やぶちゃん注:原拠は「犬著聞集」。本書は本書最大のネタ元で既に注済み。「犬著聞集」自体は所持せず、ネット上にもない。また、前話の最後で示した同書の後代の再編集版である神谷養勇軒編の「新著聞集」にも採られていないようである。

「甘木備後」不詳。

「鳳來寺」愛知県新城市の鳳来寺山の山頂付近にある真言宗五智教団煙巌山鳳来寺。寺伝では大宝二(七〇二)年に利修仙人が開山したとされ、本尊はその利修作とされる薬師如来である。

「醴(さけ)」穀類を一晩だけ醸した濁り酒・甘酒。]

大和怪異記 卷之四 第二 下総国鵠巣の事

 

[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の本文部分はここから。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。なお、底本のルビは歴史的仮名遣の誤りが激しく、ママ注記を入れると、連続してワサワサになるため、歴史的仮名遣を誤ったものの一部では、( )で入れずに、私が正しい歴史的仮名遣で《 》で入れた部分も含まれてくることをお断りしておく。

 挿絵があるが(先般まで、本巻四の第一話の丁内にあったため、話柄と合致しない不審な挿絵と判断していた)、これは「近世民間異聞怪談集成」にあるものが、状態が非常によいので、読み取ってトリミング補正し、適切と思われる箇所に挿入する。因みに、平面的に撮影されたパブリック・ドメインの画像には著作権は発生しないというのが、文化庁の公式見解である。底本(カラー。但し、挿絵は単色)の挿絵部分のリンクも張っておく。

 なお、林羅山の前書附きの漢詩部分は、読み易さを考え、私の判断で前書に句読点を打ち、漢詩は句ごことに改行を施した。漢詩には一部に句末の跡があるが、私は好まないので省略した。]

 

 第二 下総国《しもふさのくに》鵠巣(かうのす)の事

 そのかみ、下総国に一社あり。

 其《その》社檀(しやだん)のうへに、さしおほひたる大木(たいぼく)あり。

 其樹(き)の上に、數年(すねん)、鵠(こうの)、巣をかけて、龜・蛇等(とう)の物をくらひ、骨をちらし、糞(ふん)を社に懸(かけ)、中々、むさき体(てい)なりし。

 あるとき、氏子共、此社に來りいふやうは、

「社に、神體は、ましまさずや。鵠に社をけがされ、罸(ばち)をも、くはへず、置《おき》給ふことの、口をしさよ。」

と、のゝしりて、各(おのおの)、歸宅しける。

 其夜(よ)、神巫(かんなぎ)につげて、のたまふは、

「氏子どもの申《まをす》所、ことはりなり[やぶちゃん注:ママ。]。來《きた》る、いく日に、此鳥を罸せむ間、いづれも、出《いで》て、みるべし。」

との告(つげ)なれば、近鄕はいふに及《およば》ず、遠境(ゑんきやう)までも聞傳(きゝつた)え[やぶちゃん注:ママ。]、

「末世の奇特(きどく)、これなり。」

と。

 其日になれば、此社に羣集(ぐんじゆ)して、

「今や、今や、」

と侍(まつ)所に、巳(み)の刻ばかりに、社檀の内より、八尺ばかりの白蛇(はくじや)、くれなゐの舌を、ひるがへし、大木にのぼりければ、見物の貴賤、渴仰(かつがう)のかうべを、かたふけて、礼拜(らいはい)す。

 

Kounosu

 

 かくて、此蛇、木のなかばまで、のぼるとき、雌雄(めを)二つの鵠、これをみて、よろこぶけしきにて、巣を、はなれ、飛《とび》かゝり、飛(とび)かゝり、白蛇のかしらを、さんざんに蹴(け)ひしぎ、くはえて、社檀の上(うへ)に下居(おりゐ)、ことごとく、くくらひ、殘るは、骨ばかりなり。

 あつまりたる貴賤、

「これは、これは、」

と、あきれ、まどふ。

 神体、かくのごとくななれば、此鵠を神(かみ)とあがめ、社をたて、所をも「鴻巣(かうのす)」とぞ、なづけたる【「異神記」に見へたり[やぶちゃん注:ママ。]。】。「羅山文集」、題詩あり。左に附す。

○鴻巣【或作ㇾ鵠】傳說ツノ大樹樹神。民以飮食レヲ。不レバ則害ㇾ人。一旦鵠來テ巣樹上。巨蛇、欲ㇾ呑ント其卵。鵠啄ㇾ之レヲ。自ㇾ是神不ㇾ害ㇾ人。於ㇾ是鵠之除ㇾ害一レ誉、故曰、「鵠巣」。遂名ㇾ社。又、為地號

 毒蛇屈曲シテ叢梢《一》

 尖觜穿錐爪ニシテ

 黃鵠千年來

 秋風檜雨不ㇾ飜ㇾ巢

 

[やぶちゃん注:原拠とする「異神記」は不詳。「近世民間異聞怪談集成」の解題で土屋氏自身が、本書を『該当する資料名が不明なもの』の一つに入れておられる。

「下総国鵠巣(かうのす)」埼玉県鴻巣市本宮町にある鴻神社(こうじんじゃ:グーグル・マップ・データ)が、その後身かと思われる。旧下総国には埼玉県東辺が含まれる。「鴻神社」公式サイトの「こうのとり伝説」を参照されたいが、そこには、ここにあった大木は公孫樹(いちょう)とされ、「鴻巣(こうのす)の地名の由来と鴻神社」に、

   《引用開始》

 「こうのす」という地名は、古代に武蔵国造(むさしのくにのみやつこ)である笠原直使主(かさはらのあたいおみ)が現在の鴻巣市笠原のあたりに居住したとされ、また、一時この近辺に国府関連の施設があり、荒川や元荒川などを利用した水運も盛んだったと推測されることから、「国府の洲 こくふのす」が「こうのす」となり、後に「こうのとり」の伝説から「鴻巣」の字をあてるようになったと思われます。

 国府のことを「こう」と呼ぶのは、他の地名(国府台[こうのだい]、国府津[こうづ]など)からも類推され、国府のお宮を国府宮(こうのみや)と呼ぶのは、愛知県稲沢市にある尾張大国霊神社、別名国府宮(こうのみや)など、全国でも例があります。

 このことからこうのとりのお宮「鴻の宮」は「国府の宮(こうのみや)」であったのではないでしょうか。

※笠原直使主(かさはらのあたいおみ)

 6世紀に活躍した豪族で行田市の埼玉古墳群の中の稲荷山古墳にまつられています。そこから出土した大和朝廷から拝領したとされる金象眼銘の鉄剣は国宝に指定されています。

 鴻神社は氷川社・雷電社・熊野社をはじめ、多くの神々をまつる鴻巣総鎮守で社殿の脇にそびえる大いちょうの下、四季折々に様々な祭りが行われます。

   《引用終了》

とある。

「鴻」はコウノトリ目コウノトリ科コウノトリ属コウノトリ Ciconia boyciana で、中国東北部(満州)地域やアムール・ウスリー地方で繁殖し、中国南部で越冬する。渡りの途中に少数が日本を通過することもある。博物誌は私の「和漢三才圖會第四十一 水禽類 鸛(こう)〔コウノトリ〕」を参照されたい。国土交通省関東地方整備局河川部河川環境課・制作/(公財)日本生態系協会・編集になるリーフレット「こんなところにも?! コウノトリにまつわる関東の歴史・地名等々」PDF)によれば、その⑮の『和田沼のコウノトリ(千葉県柏市・我孫子市)」の項に『和田沼にはかつて共同狩猟地があり、 明治で禁

猟がとけると鶴などの狩猟が行われていた。 鶴は明治 16 年頃までは上空に飛来したが沼に降りる事はなかったが、コウノトリは明治 35 年 (1902 年)頃までは渡来していたとの記述がある。(出典 : 「野田の自然誌」 新保國弘他著)』とあった。

「巳(み)の刻」午前十時前後。

「八尺」二メートル四十二センチ。

「羅山文集」儒者で幕府儒官林家の祖林羅山(天正一一(一五八三)年~明暦三(一六五七)年:名は忠・信勝。法号は道春。朱子学を藤原惺窩に学び、徳川家康から家綱まで四代の将軍に侍講として仕えた。上野忍岡の家塾は、後の昌平坂学問所の起源となった)の詩文集。複数のネットの版本を縦覧したが、発見出来なかった。

「題詩」「鴻の巣に題す」の詩。以下、訓読(句読点を打ち換え、一部の読み・送り仮名を補填した)して示す。

   *

   鴻巣【或いは「鵠」に作(な)す。】
   傳說に、昔し、一(ひと)つの大樹
   有り。「樹神(じゆしん)」と稱す。
   民、飮食を以つて、之れを祭る。せ
   ざれば、則ち、人を害す。一旦、鵠、
   來りて、樹上に巣くふ。巨蛇、其の
   卵を呑まんと欲す。鵠、啄(ついば)
   みて、之れを殺す。是れより、神、
   人を害せず。是(ここ)に於いて、
   以つて、鵠の、害を除きて誉れ有る
   を、故に號して曰はく、「鵠の巣」
   と。遂に社と名づけ、又、地號と為
   す。

毒蛇 屈曲して 叢梢(さうしやう)に棲む

尖觜(とがれるはし) 穿(うが)ち開きて 錐爪(きりのつめ)にして 搯(うがちいだ)す

黃鵠(かうこく) 千年 來り集(つど)ひて後(のち)

秋風 檜雨(ひう) 巢を飜(ひるが)へず

   *

結句の「檜雨」は意味不明。識者の御教授を乞う。]

2022/11/24

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「話俗隨筆」パート 蛇を引出す法

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから次のコマにかけて。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文部は全体が一字下げなので、それを再現するために、ブラウザの不具合を考えて、一行字数を少なくしておいた。今まで通り、後に〔 〕で推定訓読文を添えた。

 標題の「引出す」は「ひきいだす」と読んでおく。]

 

      蛇を引出す法 (大正二年九月『民俗』一年二報)

 

 「和漢三才圖會」卷四五に、凡て蛇が穴に入ると、力士が尾を捉《とら》て引《ひき》ても出《いで》ぬが、煙草脂《たばこのやに》を傅《つく》れば出《いづ》る、又、云く、其人、自分の耳を左手で捉へ、右の手で引けば出るが、其理が知れぬ、と見ゆ。是に似たる事、レオ・アフリカヌス(一四八五年頃、生れ、一五五二年、歿せり。)の「亞非利加記(デスクリプチヨネ・デル・アフリカ)」第九篇に云く、「ヅツブ」は沙漠に住み、蜥蜴に似て、大きく、人の臂《ひぢ》程長、く、指四つ程、厚し。水を飮まず。無理に水を口に注込《そそぎこみ》續けると、弱つて死す。「アラブ」人、之を捕へ、皮、剝ぎ、灸り食《くら》ふに、香味、蛙の如し。此物、蜥蜴同樣、疾《とく》走る。如《も》し、穴に隱れて尾丈《だ》け外に殘る時は、如何《いつか》な大力も、之を引出《ひきいだ》し得ず。獵師、鐵器もて、穴を掘り擴げて、之を捕ふ、と。物はやつて見物《みるもの》で、蛇と蜥蜴類は似た動物故、「ヅツブ」の住む沙漠へ行く人に、煙草脂と、耳捉んで努力の二法を試みるやう、忠告し置《おい》た。

[やぶちゃん注:『「和漢三才圖會」卷四五に、凡て蛇が穴に入ると、……』私の寺島良安「和漢三才圖會 卷第四十五 龍蛇部 龍類 蛇類」の掉尾の「蛇皮」に出る。引用する(前が訓点を排した原本に一致させた白文で、後は私が訓点に従いつつ、補正したもの。【 】は二行割注、〔 〕は私の補正。なお、古い電子化注なので、数ヶ所に補正を加えてある)。

   *

蛇皮 蛇衣  蛇脫

△按蛇秋蟄前脫皮光白色如薄紙首尾全不損也未雨

 濡者取【黑燒油煉】傅兀禿則生毛髪【蜘蛛脫皮褐色八足無筒恙空殼風吹散亦奇也】

凡蛇忌煙草脂汁入蛇口則困死如入穴蛇力士捉尾引

 不能出傅煙草脂則出【又云其人左手捉自身耳右手引蛇則出未知其理】有人

 擲馬古沓中蛇則甚恚追其人【白馬沓弥然抑惡之乎好之乎】

蝮咬足或螫牙針留膚痛急緊縛其疵上可傅煙草脂如

 緩則直上至肩背煩悶用眞綿撫其邊則牙針係綿以

 鑷抜取次傅煙草脂或膏藥愈〔=癒〕

   *

蛇皮(へびのきぬ) 蛇衣・蛇脫

△按ずるに、蛇、秋、蟄(すごも)る前、皮を脫(ぬ)ぐ。光、白色にして、薄紙のごとくにして、首尾、全く損せざるなり。未だ雨に濡(ぬ)れざる者〔を〕取りて【黑燒にして油煉〔(あぶらねり)〕す。】、兀-禿(はげ)に傅(つ)くれば、則ち、毛髪を生ず【蜘蛛も皮を脫ぐ。褐色、八足、恙無し。空殼、風に吹き散る、亦、奇なり。】。

凡(すべ)て、蛇、煙草(たばこ)の脂汁(やに〔じる〕)を忌む。蛇の口に入れば、則ち、困死す。如〔(も)〕し穴に入る蛇は、力士、尾を捉(とら)へて引くに能く出さず〔→出づる能はず〕。煙草の脂を傅くれば、則ち、出づ【又、云ふ、其れ、人の左の手にて自身の耳を捉へて、右手にて、蛇を引けば、則ち、出づると。未だ其の理〔(ことわり)〕を知らず。】。人、有りて、馬の古沓(〔ふる〕ぐつ)を擲(な)げて、蛇に中(あた)れば、則ち、甚だ恚(いか)りて、其の人を追ふ【白馬の沓、弥(いよいよ)、然り。抑〔(そもそも)〕之れを惡〔(にく)〕むか、之れを好むか。】。

蝮(まむし)、足を咬み、或は螫(さ)す〔に〕、牙・針、膚〔(はだへ)〕に留まり痛む〔時は〕、急に、緊(きび)しく、其の疵の上(か〔み〕)を縛(くゝ)り、煙草の脂を傅くべし。如し緩(ゆる)き時は[やぶちゃん字注:「時」は送り仮名にある。]、則ち〔牙・針〕、直ちに上りて、肩・背に至りて、煩悶す。眞綿を用ひて其の邊を撫〔(なづ)〕れば、則ち、牙・針、綿に係る。鑷(けぬき)を以て、抜き取り、次に、煙草の脂、或は、膏藥を傅けて、癒ゆ。

[やぶちゃん注:標題は蛇の抜け殻についての記載のように見えるが、それは第一段落で終り、「凡て、蛇」以下では蛇の忌避物質としての煙草のヤニ及び馬の草鞋(わらじ)の効用を述べ、「蝮、足を咬みる」以下では、マムシ咬傷の際の救急法を述べる。

「蛇、秋、蟄る前、皮を脫ぐ」とあるが、誤り。爬虫類の愛好家の方のブログ「Reptiles Cage」の「ヘビの脱皮」についての記載から引用させて頂く(但し、途中の改行を省略した)。『ヘビは年に数回脱皮する。成長期にはその回数が多い。脱皮は口から脱ぎ始め、ストッキングを脱ぐように裏返しに脱いでいく。うろこは11枚離れているように見えるけど、実はその間に薄い皮で繋がっていて、普通は鱗の間に畳み込まれている。大きいものを飲み込んで皮が伸びるのは、その畳まれたのが伸びるわけ。脱皮の1週間前くらいから目が白濁してくる。ヘビはまぶたを持たないので、眼の保護に透明な皮が目の上を覆っている。その皮も脱皮するので、脱ごうとする皮と新しい皮の間に体液が入って白濁して見えるのだ。このあいだは、ヘビは餌を食べたりせず、目が利かないので用心深くなる。』ホントにホントの文字通り、眼から鱗!!! なお、蛇の寿命は二~二十年程度(飼育下)で、シマヘビElaphe quadrivirgataで四年程度、アオダイショウElaphe climacophoraで十二~二十年(飼育下)。但し、外国産のペットの中には、ヘビ亜目ボア科ボア亜科ボア属のボア・コンストリクター Boa constrictor(通常我々が呼ぶ「ボア」のこと)等に飼育下で四十年以上の記録もある。

「黑燒」は漢方の製法の一つで、動植物を土器に入れて時間をかけて蒸し焼きにし、黒く炭化させたものを言う。

「油煉」恐らく少し炒って油を沁み込ませ、練って固めたものを言うのであろう。

「兀禿」「兀」は音「ゴツ」で「禿」(トク)と同じく、「はげ(あたま)」の意。

「蜘蛛も皮を脫ぐ」蜘蛛も節足動物であるから脱皮する。種によっては十五回の脱皮をするものもいるとのことである。

「恙無し」は「欠けたところがない」という意味であろう。「完全な八足の蜘蛛の形のままの抜け殻となる」の意。

「蛇、煙草の脂汁を忌む」蛇の愛好家の方の記載を見ると、実際に多くの蛇は煙草(煙やヤニ)を忌避するらしい。古き嫌煙家であったわけだ。

「困死」悶え苦しんで死ぬこと。

「馬の古沓」「馬の沓」とは馬の草鞋のことで、「馬沓」(まくつ)とも言う。蹄に付けた。因みに、よくある「沓掛」という地名は、馬を休ませて、この馬沓を木に掛けたところからついた地名という。

「蝮」ニホンマムシGloydius blomhoffii。本巻の「蝮」の項を参照。

「牙・針」中黒で分けた。ここは直前の「足を咬み、或は螫す」に着目して欲しいのである。「牙」が「咬」むのであり、「針」が「螫す」である。即ち、「牙」と「針」は別物なのである。これは前掲の「蝮」の項にある『其の鍼、尾に有りて、蜂の針のごとく、常には見えず。時に臨んで出だし、人を刺す。毒、最も烈し。然るに、鍼、鼻の上に有ると謂ふは、未審し。』が解となる。良安は蝮は口中の毒牙以外に、尾部に毒針を隠し持っていると考えているのである。また、この叙述から、良安は蜜蜂のように蝮の牙も針も人体に打ち込まれると脱落するもの、と考えていたことが分かる。

   *

「レオ・アフリカヌス」(Leo Africanus 一四八三年?~一五五五年?)の名前で知られる、本名をアル=ハッサン・ブン・ムハンマド・ル=ザイヤーティー・アル=ファースィー・アル=ワッザーンというムーア人で、アラブの旅行家にして地理学者。「レオ」はローマ教皇レオⅩ世から与えられた名で、「アフリカヌス」はニック・ネーム。

「亞非利加記(デスクリプチヨネ・デル・アフリカ)」‘La descrittione dell’Africa’で一五五〇年刊。ラテン語タイトルは‘Cosmographia de Affrica’。元は当然のこと乍ら、アラビア語で、次いでトスカーナ語で書かれ、ベネチアで、‘Description de l'Afrique vers 1530’というタイトルで出版された。

「ヅツブ」「選集」では、『ヅップ』。種不詳。識者の御教授を乞う。]

 序《ついで》に云ふ、「改定史籍集覽」第十六册に收めた「渡邊幸庵對話」に、『女の陰門へ蛇の入《いり》たるを、予、一代に、三度、見たり。一人は片羽道味《かたはだうみ》、療治す。是は、手洗《てあらひ》に水を溜め、蛙を放置《はなちおき》候處、蛇、頭を出《いだ》す。其時、足の末を、蛇の際《きは》へ寄《よす》る所に、『可喰《くらふべく》』と致し申すを、引取《ひきと》り、二、三度も左樣に致して後、蛇に喰《くらは》せ申し候。又、蛙の太き所を出し、右之通り、『可喰』と致し、頭を出し申すを、二、三度も引取り、外《ほか》の蛙の中へ、山椒を、二、三粒、入包《いれつつ》み、外《そと》へ不知樣《しれざるやう》に認《したた》めて、蛇、飛付《とびつき》申す刻(とき)、最初の蛙と取替《とりかへ》、山椒の入《いり》たる蛙を喰せ候へば、四半時の内に、蛇、外へ出《いで》申候。『内にては、膓《はらわた》を喰居《くらひを》り申す。』との了簡にて、蛙を以て、差引致し申す内、蛇も其所《そこ》へ心を移し、内卷《うちまき》、ほくれ申《まをす》考へにて、差引致し申候。「左も無く、理不盡に出し候へば、腹、痛み候半《さふらはん》。」と、右の通り、道味、考へ、致療治候。』(寶永七年筆記)。予、幼時、和歌山で、二、三度聞きしは、田舍で、蛇、時として、女陰に入る事、有り。直ちに其尾を割《さ》き、山椒の粉を割目《さきめ》に入《いる》れば、弱つて出來《いでく》るとなり。「和漢三才圖會」八九には、『蛇、山椒樹を好み、來り棲む。蝮、最も然り。』と有る。蛇が人の竅(あな)に入ること、實際、有るにや。

[やぶちゃん注:『「改定史籍集覽」第十六册に收めた「渡邊幸庵對話」に、『女の陰門へ蛇の入《いり》たるを、……』熊楠が底本とした原本を国立国会図書館デジタルコレクションの画像(ここ)で視認して校合した(漢字表記は概ね渡邊の原表記に代え、脱文部を復元した)。「渡邊幸庵」(生没年不詳)は江戸初期の武士。徳川家康・秀忠に仕え、上野国で知行三百石を賜り、「関ケ原の戦い」や「大坂の陣」には父と共に参加して軍功を挙げ、逐次、加増を受けたのち、寛永二(一六二五)年に徳川忠長に付属せられ、大番頭となって、五千石を知行したとする。忠長が改易となった後は、浪人となり、その後の経歴は不明であるが、彼の後年の回想記とされる本「渡辺幸庵対話」によれば、「島原の乱」の時には、細川忠利の部隊に陣借りして働き、その後は、中国大陸に、長年、滞在し、再び日本に戻ったという。老年には武蔵国大塚に住んだが、加賀藩主前田綱紀は宝永六(一七〇九)年、家臣を遣わして、幸庵の昔話を筆記させ、同八年に上記の回想記がまとめられた。一説に天正一〇(一五八二)年生まれで、正徳元(一七一一)年に百三十歳で没したとするが、凡そ信じ難い。謎の多い人物であるが、元幕臣ということからすると、「寛政重修諸家譜」に載る渡辺茂、或いは、その子の忠が、モデルの一部として比定はし得るであろうとはいう(朝日新聞出版「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。孰れにせよ、「対話」にあるような経歴を持った幕臣は実際にはいない。

「片羽道味」実在した医師・本草家のようである。

「内卷、ほくれ申考へにて」「内部で、蛇が体をぐにやぐにゃと内臓器と絡め巻いているのを、すんなりとほぐらし、直すという手法で」の意。底本では、この前後がごっそり抜けているので、完全に復元した。

『「和漢三才圖會」八九には、『蛇、山椒樹を好み、來り棲む。蝮、最も然り。』と有る』これは、巻八十九の「味果類」の三番目に出る、「朝倉椒(あさくらさんしやう)」の最後の作者寺島良安の添え(この項は和品であるため、全文が寺島の記載である)辞で、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の板本画像で示すと、ここ。なお、この「朝倉椒」とは双子葉植物綱ムクロジ目ミカン科サンショウ属サンショウ Zanthoxylum piperitum 突然変異で現れた棘の無い栽培品種で、江戸時代から珍重されてきたものである。実生では、雌雄不定で、且つ、棘が出てくるため、主に、雌株を接ぎ木で栽培した物を「朝倉山椒」として販売されている。学名はアサクラザンショウZanthoxylum piperitum forma inerme 。ここはウィキの「サンショウ」に拠った。以下、画像から訓読して示す(一部の送り仮名と読みは私が添えた)。

   *

凡そ、蛇(へび)山椒の樹を喜びて、來り棲む。反鼻蛇(くちはみへび)、最も然(しか)り。

   *

「反鼻蛇」ニホンマムシの異名。特にマムシの皮を取り去って乾燥させたものを「反鼻(はんぴ)」と呼び、漢方薬として滋養強壮などの目的で用いる。

「蛇が人の竅(あな)に入ること、實際、有るにや」私は、ない、と考える。男根のミミクリーの卑猥な妄想である。寧ろ、古代からあった夜這いを蛇に喩えて、神話・伝説・説話の類に変容させたものは、結構、多い。]

 東晋譯「摩訶僧祇律」卷四十に、佛住舍衞城。爾時比丘尼、初夜後夜、跏趺而坐、時有蛇來瘡門中。〔佛、舍衞城に住す。爾(そ)の時、比丘尼、初夜・後夜、跏趺〕かふ)して坐す。時に、蛇、有り、來たりて瘡門《さうもん》の中に入る。〕。比丘尼の總頭《さうがしら》で、佛の叔母なる大愛道《だいあいだう》が佛に白《まう》すと、佛、言《いは》く、應ㇾ與某甲藥、蛇不ㇾ死而還出、卽與ㇾ藥而出。〔應(まさ)に某甲(そのもの)に藥を與ふべし。蛇は、死せずして、還り出でん、」と。卽ち、藥を與へて出だせり。〕。以後、『比丘尼は、必ず、一脚を屈め、一脚、跟《くびす》もて瘡門を奄《おほ》ふべし。男僧同樣、跏趺して坐すれば、越毗罪たるべし。』と制戒せり、と有る。

[やぶちゃん注:『東晋譯「摩訶僧祇律」』の当該部は「大蔵経データベース」で校合した。

「瘡門」辞書などに見当たらないが、女性の会陰部の膣の出口を言っている。「瘡」には「切られた傷」の意があるので、そのミミクリーであろう。]

 一七六九年板、「バンクロフト」の「ギアナ博物論(アン・エツセイ・オン・ゼ・ナチユラル・ヒストリー・オブ・ギアナ)」二〇五頁に、「コムモード」は水陸兩棲の蛇で、長《たけ》十五呎《フィート》、周《めぐり》十八吋《インチ》、頭、濶《ひろ》く、扁《ひらた》く、尾、長く、細く、尖る。褐色で、脊と脇に栗色の點有り。毒蛇で無いが、頗る厄介な奴で、屢《しばし》ば、崖や池を襲ひ、鵞《がちやう》・鶩《あひる》等を殺す。印甸人《インジアン》言ふ、「此蛇、自分より大きな動物に會ふと、尖つた尾を其肛門に插入て之を殺す。故にギアナ住《ぢゆう》白人《はくじん》、これを男色蛇(ソドマイト・スネイク)と呼ぶ。」と。同書一九〇頁に「ペリ」てふ魚が、水に浴する女の乳房や男の陰莖を咬み切る、と有る。紀州田邊灣にも「ちんぼかぶり」とて、泳ぐ人の一物を咬む魚が有る。「大英類典」十一板廿卷七九四頁に、巴西國(ブラヂル)の「カンヂル」魚は、長《たけ》纔か日本の三厘三毛で、小便の臭を慕ひ、川に浴する人の尿道に登り入る。能く頰の刺を起こすから、引出す事成らぬ。故に「アマゾン」河邊の或る土民は、水に入る時、椰子殼《やしがら》に細孔を明け、陰莖に冐《かぶ》せ、其侵入を防ぐ、と出づ。焉《いづ》れも、本題に緣があまり近く無いが、中々、珍聞故、書て置く。

[やぶちゃん注:『一七六九年板、「バンクロフト」の「ギアナ博物論(アン・エツセイ・オン・ゼ・ナチユラル・ヒストリー・オブ・ギアナ)」二〇五頁』エドワード・バーソロミュー・バンクロフト(Edward Bartholomew Bancroft 一七四四 年又は一七四五年~一八二一年:ベンジャミン・フランクリンの手下のスパイとなり、後にはイギリスのスパイともなった政治上の人物として知られるが、本来は自然史が専門であった)の‘An Essay on the natural history of Guiana in South America(「南アメリカのギアナの自然史とエッセイ」。一七六九年刊)。原本当該部が「Internet archive」のここから視認出来る。

「コムモード」原本綴りは“Commodee”。これは爬虫綱有鱗目   有鱗目 Laterata 下目テユー上科 Teiioideaテユー科Tupinambinae亜科カイマントカゲ属ギアナカイマントカゲDracaena guianensis のこと。但し、ここに書かれているような習性が本当にあるかどうかは、不詳。欧文綴りから、有鱗目オオトカゲ科オオトカゲ属オニオオトカゲ亜属コモドオオトカゲVaranus komodoensis を想起されたあなた、彼らはインドネシアにしかいませんから、ご注意を。因みに、「コモド」の方の綴りは“Komodo”。

「男色蛇(ソドマイト・スネイク)」原本の綴りは“Sodomite Snakesodomiteは「男性とのアナル・セックスに魅了される男性」の意。

『同書一九〇頁に「ペリ」てふ魚が、水に浴する女の乳房や男の陰莖を咬み切る、と有る』これは一八九ページから書かれてある。綴りは“peri”。現在の同定種不詳。

『紀州田邊灣にも「ちんぼかぶり」とて、泳ぐ人の一物を咬む魚が有る』種不詳。識者の御教授を乞うものである。

『「大英類典」十一板廿卷七九四頁に、巴西國(ブラヂル)の「カンヂル」魚』「Internet archive」の原本のここの「PARASITISM」(「寄生」)の“List of Parasites”“A. — Animals. の八行目から、

   *

Vandellia cirrhosa, the candiru of Brazil, a minute fish 60 mm.in length, enters and ascends the urethra of people bathing, being attracted by the urine; it cannot be withdrawn, owing to the erectile spines on its gill-covers. The natives in some parts of the Amazon protect themselves whilst in the water by wearing a sheath of minutely perforated coco-nut shell.

   *

とある。これは、条鰭綱ナマズ目トリコミュクテルス科Trichomycteridaeヴァンデリア属の総称、或いはカンディルVandellia cirrhosa である。私は二十五年程前のTVの特集番組で初めて「カンジール」の名で知った。当該ウィキによれば、『カンディル(Candiru)は、ナマズの仲間で、アマゾン川など南アメリカの熱帯地方に生息する肉食淡水魚の種の総称である。セトプシス(ケトプシス)科およびトリコミュクテルス科がこれに属する。狭義のカンディルとしてトリコミュクテルス科のVandellia cirrhosa、もしくはVandellia亜科に属するナマズのみを指す場合もあるが、トリコミュクテルス科およびセトプシス科全体をカンディルと呼ぶのが一般的である。日本ではカンジェロ、カンジル、カンジルー、カンジール、カンビルとも表記される』。『銀色の』十センチメートル『ほどの小魚だが、生育すると』三十センチメートル『ほどに達する個体もいる』。『カンディルには、自身よりも大きな魚のエラなどから』、『細い体を潜り込ませて体の内側を捕食するものや、直接』、『他の生きた魚や死魚の体表を食い破り』、『肉を食すものが存在する。性質は獰猛で、獲物に集団で襲いかかる。カンディルのヒレには侵入した獲物から離れないように返し針のようなトゲがあり、無理に引き離そうとすると肉を切り裂いてしまうため、生息地の人々には毒針を持つ淡水エイと並び、ピラニア以上に恐れられている』。『その体型と習性から、女性の膣に侵入した事例が報告されている』。但し、『種類によっては、砂の中の微生物を食べて生きる比較的おとなしいものも存在する』。『トリコミュクテルス科バンデッド・カンディル』『Pseudostegophilus nemurus』は、『全長』十センチメートル『ほどで、黄土色の体に黒い縞模様が入るのが外見的な特徴である。エラに侵入するタイプの典型として、頭部が押しつぶしたように平たくなり、他の魚の体内へ入り込みやすくなっている』。『セトプシス科』『ブルー・カンディル』『Cetopsis coecutiens』は『全長』二十センチメートル『ほどの大型のカンディル。クジラを思わせる丸い頭部が特徴で、英語ではWhale Catfishとも呼ばれる。大型の魚や死骸の表皮を食い破り、肉を食う。人目をひく捕食形態から水族館やアクアリウムで飼育されることがあるが、エラや排泄孔から侵入するトリコミュクテルス科のカンディルと異なり、皮膚に噛み付いて』、『直接』、『穴を開けることがあるため、注意が必要である』。以下、『男性の尿道に侵入するという風聞』の項。十九『世紀の探検家が報告して以来』、『カンディルは、ほかの魚が排出したアンモニアに反応するため、時には人間も襲うことがあり、肛門や尿道から膀胱などの内臓にまで侵入された際には、切開による除去手術が必要となる』という『風聞がある』が、『実際には、カンディルが男性の尿道に侵入したところが目撃されたことはない』。『Stephen Spotteの研究によれば、カンディルはアンモニアなどの化学物質には反応せず、視覚で獲物を探す』。『カンディルに関する文献を調査したIrmgard Bauerは、カンディルの生息域とその地域の人口を考えれば、危険性はないと結論している』。一九九七『年にはマナウスでカンディルが尿道に侵入した男性患者を処置したという医学論文が』一『件あるが、その執筆者を訪れた』人物は『報告は疑わしいものとしている』。但し、最後にイギリスの『アニマルプラネットの番組『怪物魚を追え! S1 アマゾンの殺人魚』では、番組ホストのジェレミー・ウェイドが実際に尿道に侵入された男性との対面に成功し、病院において内視鏡で取り出され、ブラジル国立アマゾン研究所にてホルマリン漬けで保存された個体標本が登場する。またカンディルを取り出す時に撮影された内視鏡カメラの映像もポルトガル語題名のyoutube動画として存在する』とはある。]

 蛇が瘡門に入る事、本邦の古書に明記は見當らぬが、似た例を見出だす儘、少々、記さう。「日本靈異記」中卷に、天平寶字三年四月、河内の馬廿里《うまかひのさと》の富豪の女《むすめ》が、桑の樹に登ると、大蛇も隨《したがひ》て登り、女が人に示されて、驚き落《おち》ると、蛇も、亦副墮、纏ㇾ之以婚、慌迷而臥、父母見ㇾ之、請召藥師、孃與蛇倶載於同床、歸ㇾ家置ㇾ𨓍(音「廷」。「草逕」也。[やぶちゃん注:「庭の小径」で「庭」の意。])、燒稷藁三束、合湯取ㇾ汁三斗、煮之成二斗、猪毛十把剋末合ㇾ汁、然當孃頭足、打ㇾ橛懸鉤、開ㇾ口入ㇾ汁、汁入一斗、乃蛇放往、殺而棄、蛇子白凝如蝦蟆子、猪毛立蛇子身、從※出五升許[やぶちゃん注:「門」+(中下に)「也」。膣。]、口入二斗蛇子皆出、迷惑之孃、乃醒言語、二親問ㇾ之、答我意如ㇾ夢、今醒如ㇾ本、藥服如ㇾ是、何謹不ㇾ用、然經三年、彼孃復蛇所ㇾ婚而死。〔亦、副(そ)ひ墮ちて、之れに纏ひ、以つて、婚(くなが)ふ。慌(ほ)れ迷(まど)ひて[やぶちゃん注:正気を失って。]、臥す。父母、之れを見て、藥師(くすし)を請ひ召し、孃(をとめ)と蛇とともに同じ床に載せて、家に歸り、𨓍(には)に置く。稷(きび)の藁三束(みたばり)を燒き、湯に合はせ、汁を取ること、三斗、之れを煮-煎(につめ)て、二斗と成し、猪(しし)の毛十把(じつたばり)を、剋(きざ)み末(くだ)きて、汁に合はせ、然(しか)して、孃の頭・足に當たりて橛(くひ)を打ち、懸け鉤(つ)り、※(したなりくぼ)の口に、汁を入(い)る。汁、入ること、一斗、乃(すなは)ち、蛇、放れ往(ゆ)く。殺して棄てつ。蛇の子、白く凝(こご)り、蝦蟆(かへる)の子のごとし。猪の毛、蛇の子の身に立ち、※より出づること、五升ばかりなり。口に、二斗を入るれば、蛇の子、皆、出づ。迷-惑(まど)へる孃、乃(すなは)ち、醒めて、言語(かたら)ふ。二親(ふたおや)、之れに問ふに、答ふらく、「我が意(こころ)、夢のごとく、今、醒めて、本(もと)のごとし。」と。藥服、かくのごとし、何ぞ、謹しみて用ひざらめや。然(しか)れども、三年を經て、彼(か)の孃、復(ま)た、蛇の婚(くがな)はれて死す。〕

[やぶちゃん注:「日本靈異記」の原漢文は私の所持する二種の原本データ(伝本によって異同がある)から、最も納得出来ると判断したものを、熊楠の表記をメインとしつつ、校合した。]

 「今昔物語」二九卷に、小便する若き女の陰を、蛇が見て魅入《みい》れ、其女、二時《ふたとき》斗《ばか》り、其場を去《さり》得なんだ話有り。又、三井寺で、若い僧、晝寢の夢に、若い美女、來たりて、婬す、と見、覺《さめ》て、傍を見れば、五尺許《ばか》りの蛇が、口に、婬を受けて、死居《しにをつ》た、と出づ。是は「アウパリシュタカ」とて、口で受婬する事が、インドで、古來、大流行で、之を業とする閹人(ユーナツク)多く、其技《そのわざ》、亦、多端だ(一八九一年板「ラメーレツス」譯、「愛天經《カーマ・スートラ》」九一―九三頁。此書は基督と同じ頃、「ヴワチャナ」梵士作。)。隨《したがつ》て、佛律に、其制禁、少なからず。例せば、姚秦譯「四分律藏」五五卷に、佛在毗舍離城、有比丘、體軟弱、以男根口中云々、時有比丘、於狗口中行ㇾ婬。〔佛、毘舍離城に有り。[やぶちゃん注:以上は熊楠の作文と推定する。近いのは、ずっと前にある「爾時世尊在王舍城」で、「爾(こ)の時、世尊、王舍城に在り。」である。]、比丘、有り、體、軟弱にして、男根を以つて口中に内(い)れ、云々、比丘、有り、狗(いぬ)の口中に於いて婬を行なふ。〕。何《いづ》れも、自《みづか》ら受樂せし故、佛、之を波羅夷罪《はらいざい》と判ず。時有比丘、褰ㇾ衣小便、有ㇾ狗舐小便、復前含男根、彼受樂已還。出ㇾ疑佛問言、汝受樂不、答言受樂、佛言、汝波羅夷、時有比丘、褰ㇾ衣渡伊羅婆提河、有ㇾ魚含男根、彼不受樂。〔時に比丘有り、衣を褰(かか)げて小便す。狗(いぬ)有り、小便を舐(な)め、復(ま)た、前(すす)みて、男根を含む。彼、受樂し已(をは)りて還る。疑ひを出だして、佛、問ひて言はく、「汝、受樂せざるやいなや。」と。答へて言はく、「受樂せり。」と。佛、言はく、「汝、波羅夷たり。」と。時に比丘有り、衣を褰げて伊羅婆提河(いらばだいが)を渡る。魚、有り、男根を含む。彼は受樂せず。〕。不犯で無罪放免された。又佛在王舍城、〔又、佛、王舍城に在り。〕。萍沙王《ひやうさわう》の子無畏王子、其の男根を病む。令女人含之、後得差已云々、此女人憂愁不ㇾ樂、〔女人ををして、之れを含ましめ、後(のち)、差(い)ゆを得已(をは)んぬ云々、此の女人、憂愁(うれ)ひて樂しまず。〕。自《みづか》ら一計を出《いだ》し、王の前に全體を裸《ら》し、頭のみ、覆ふ。王、之を見て、「狂人か。」と問ふ。女、答て言く、不狂、是王子所ㇾ須故。我今覆護、何以故、王子常於我口中行ㇾ婬、是故覆護、〔「狂ならず。是れ、王子の須(もと)むる所を、我れ、今、覆ひて護(まも)る。何を以つての故か。王子、常に我が口中に於いて婬を行なふ。是の故に覆ひて護る。」と。〕。之を聞《きい》て、王、王子を詰《なじ》つたので、王子、大《おほい》に慙《は》ぢ、返報に、彼女に娼妓同樣、黑衣を著せ、安置城門邊、作如ㇾ是言、若有如是病者、當此婬女口中行ㇾ婬得ㇾ差。〔城門の邊りに安置し、是(かく)のごとき言を作(な)す。「若(も)し、是のごとき病ひの者、有れば、當に此の婬女の口中に於いて婬を行へば、差(い)ゆるを得べし。」と〕。蕭齊《せうせい》の衆賢譯「善見毘婆沙律」卷七には、蛤口極大、蛤口極大。若以男根蛤口。而不ㇾ足、如内瘡無異。得偸蘭遮罪。〔蛤の口、極めて、大なり。若(も)し、男根を以つて蛤の口に内(い)るるも、而(しか)も足らず。瘡(さう)に内るるがごとくにて異(かは)り無し。偸蘭遮罪(とうらんじやざい)を得。〕。前文に魚・龜・鼉・鼈・蛤と續け序(のべ)たれば、「はまぐり」で無《なく》て、蛙也。斯る異類の物の口婬さへ、印度に行われたのぢや。

[やぶちゃん注:『「今昔物語」二九卷に、小便する若き女の陰を、蛇が見て魅入《みい》れ、……』「今昔物語集」の巻第二十九の「蛇見女陰發欲出穴當刀死語第三十九」(蛇(へみ)、女陰(によいん)を見て欲を發(おこ)し穴を出でて刀(かたな)に當たりて死ぬる語(こと)第三十九)。かなり知られた話である。小学館『日本古典全集』版の第四巻を参考に、漢字を恣意的に正字化して示す。読点・送り仮名を追加し、段落を成形、鍵括弧改行も加えた。

   *

   蛇、女陰を見て欲を發し、穴を出でて、刀に當たりて死にたる語第三十九

 今は昔、若き女(をむな)の有りけるが、夏比(なつころほひ)、近衞(こんゑ)の大路を西樣(にしざま)に行きけるが、小一條と云ふは宗形(むなかた)なり、其の北面を行きける程に、小便の急なりけるにや、築垣(ついがき)に向ひて、南面に突居(ついゐ)て尿(ゆばり)をしければ、共に有りける女(め)の童(わらは)は、大路に立ちて、

『今や、爲畢(しは)てて、立(たつ)、立(たつ)、』

と思ひ立てけるに、辰の時[やぶちゃん注:午前八時。]許りにて有りけるに、漸く一時(ひととき)[やぶちゃん注:二時間。]許り立たざりければ、女の童は、

『何かに。』

と思ひて、

「やや。」

と云ひけれども、物も云はで、只、同じ樣にて、居たりけるが、漸く、二時許りにも成りにける。

 日も、既に午(むま)の時に成りにけり。

 女の童、物云へども、何(な)にも答へも爲(せ)ざりければ、幼き奴(やつ)にて、只、泣き立てたりけり。

[やぶちゃん注:当該ロケーション地は現在は京都御所内となっている。この中央附近相当

「宗形」宗像神社。清和天皇の産土神。現在は京都御所内のずっと南に移っている(前の地図でポイントしてある)。]

 其の時に、馬(むま)に乘りたる男(をとこ)の、從者、數(あまた)、具して、其こを過ぎけるに、女の童の泣き立てりけるを見て、

「彼(あ)れは、何(な)ど泣くぞ。」

と、從者を以つて問はせければ、

「然々の事の候へば。」

と云ひければ、男、見るに、實(まこと)に女の、中(なか)、結ひて、市女笠(いちめがさ)着(き)たる、築垣に向ひて蹲(うづくま)りて居(ゐ)たり。

「此(こ)は、何(いつ)より居たる人ぞ。」

と問ひければ、女の童、

「今朝より居させ給へるなり。此(か)くて、二時には成りぬ。」

と云ひて、泣きければ、男、怪がりて、馬より下りて、寄りて、女の顏を見れば、顏に、色もなくて、死にたる者の樣にて有りければ、

「此は何かに。病ひの付きたるか。例(れい)も此(か)かる事、有るや。」

と問ひければ、主(あるじ)は、物も、云はず。

[やぶちゃん注:「例(れい)も此(か)かる事、有るや。」「今までにも、こんな風になることが、あったのか?」。]

 女の童、

「前に此かる事、無し。」

と云へば、男の見るに、無下(むげ)の下衆(げす)には非(あら)ねば、糸惜(いとはし)くて、引き立てけれども、動かざりけり。

 然(さ)る程に、男、

「急(き)」

と、築垣の方(かた)を、意(おも)はず、見遣りたるに、築垣の穴の有りけるより、大(おほ)きなる蛇(へみ)の、頭(かしら)を、少し、引き入れて、此の女を守りて[やぶちゃん注:「見守りて」。凝っと見つめていたのである。]有りければ、

「然(さて)は。此の蛇の、女の尿(ゆばり)しける前(まへ)[やぶちゃん注:外陰部。]を見て、愛欲を發(おこ)して蕩(とらか)したれば、立たぬなりけり。」

と心得て、前に指(さ)したりける一(ひ)とびの劍の樣なるを拔きて、其の蛇の有る穴の口に、奧の方に齒をして、强く、立てけり。

[やぶちゃん注:「一(ひ)とびの劍」参考底本の別巻(第三巻)の六三三ページの注に、『「一佩」と同じものと推断する。短い腰刀の一種。一本差しの刀の意で、太刀をはかない時にも、それだけを腰に差したもの』とある。]

 然(さ)て、從者共を以つて、女を濟上(すくひあげ)て、其(そこ)を去りける時に、蛇、俄かに築垣の穴より、鉾(ほこ)を突く樣(やう)に出でける程に、二つに割(さ)けにけり。一尺許り割けにければ、え出でずして死にけり。早(はや)う[やぶちゃん注:何ということか。驚くべきことに。]、女を守りて蕩(とろか)して有りけるに、俄かに去りけるを見て、刀を立てたるをも知らで、出でにけるにこそは。

 然(しか)れば、蛇の心は、奇異(あさま)しく、怖しき者なりかし。

 諸(もろもろ)の行來(ゆきき)の人、集まりて見けるも理(ことわり)なり。

 男は、馬に打ち乘りて行きにけり。從者、刀をば、取りてけり。女をば、不審(おぼつかな)がりて、從者を付けてぞ、慥(たし)かに送りける。然(しか)れば、吉(よ)く病ひしたる者の樣(やう)に、手を捕らへられてぞ、漸(やうや)くづづ、行きける。

 男、哀れなりける者かな[やぶちゃん注:まっこと、情け深き人物ではあったなぁ。]。互ひに誰(たれ)とも知らねども、慈悲の有りけるにこそは。

 然(しか)れば、此れを聞かむ女、然樣(さやう)ならむ藪に向ひて、然樣の事は、爲(す)まじ。

 此れは、見ける者共の語りけるを聞き繼ぎて、此(か)く語り傳へたるとや。

   *

「三井寺で、若い僧、晝寢の夢に、若い美女、來たりて、婬す、と見、覺《さめ》て、傍を見れば、五尺許《ばか》りの蛇が、口に、婬を受けて、死居《しにをつ》た、と出づ」これは「今昔物語集」巻第二十九の「蛇見僧晝寢𨳯吞受媱死語第四十」(蛇(へみ)、僧の晝寢の𨳯(まら)を見、吞(の)み、媱(いむ)を受けて死にたる語(こと)第四十(しじふ))を指す(「媱」は「淫」に同じで、ここは「射精」を言う)。同前で他本も参考にしつつ、示す。

   *

   蛇、僧の晝寢の𨳯を見、吞み、媱を受けて死にたる語第四十

 今は昔、若き僧の有りけるが、止事無(やむごとな)き僧の許(もと)に宮仕へしける有りけり。妻子など、具したる僧なりけり。

 其れが、主(あるじ)の共に、三井寺に行きたりけるに、夏の比(ころほひ)、晝間に眠(ねぶ)たかりければ、廣き房(ばう)にて有りければ、人離(ひとはな)れたる所に寄りて、長押(なげし)を枕にして、寢(ね)にけり。

 吉(よ)く寢入りたりけるに、夢に、

『美き女(をむな)の若きが、傍らに來たると、臥(ふ)して、吉々(よくよ)く婚(とつ)ぎて媱(いむ)を行ひつ。』

と見て、

「急(き)」

と、驚き覺(さ)めたるに、傍らを見れば、五尺許りの蛇、有り。

 愕(おどろ)きて、

「かさ」[やぶちゃん注:オノマトペイア。「がばっ」。]

と、起きて見れば、蛇、死して、口を開きて有り。

 奇異(あさま)しく、恐しくて、我が前(まへ)を見れば、媱を行ひて、濕(ぬ)れたり。

『然(さて)は。我れは、寢たりつるに、美き女と婚ぐと見つるは、此の蛇と、婚ぎけるか。』

と思ふに、物も思(おぼ)えず、恐しくて、蛇の開きたる口を見れば、婬、口に有りて吐き出だしたる。

 此れを見るに、

『早(はや)う、我が吉く寢入りにける間(あひだ)、𨳯の發(おこ)たりけるを、蛇の、見て、寄りて吞みけるが、女を嫁(とつ)ぐとは思(おぼ)えけるなりけり。婬を行ひつる時に、蛇の、え堪へで、死にけるなりけり。』

と心得(こころう)るに、奇異(あさま)しく、恐しくて、其(そこ)を去りて、隱れにて[やぶちゃん注:人の見えない所で。]、𨳯を吉々(よくよ)く洗ひて、

『此の事、人にや語らまし。』[やぶちゃん注:「このこと、誰かに話してみようか?」。]

と思ひけれども、

『由無(よしな)き事、人に語りて聞えなば、「蛇に嫁(とつ)ぎたりける僧なり」ともぞ、云はるる。』

と思ひければ、語らざりけるに、尙、此の事、奇異く思(おぼ)えければ、遂に、吉(よ)く親(した)しかりける僧に語けるに、聞く僧も、極(いみ)じく、恐れけり。

 然(しか)れば、人離れたらむ處にて、獨り晝寢は爲(す)べからず。

 然(しか)れども、此の僧、其の後(のち)、別の事、無かりけり。

「畜生は、人の婬を受けつれば、え堪へで、死ぬ。」

と云ふは、實(まこと)なりけり。

 僧も、臆病に、暫くは病み付きたる樣(やう)にてぞ有りける。

 此の事は、其の語り聞せける僧の語りけるを聞きたる者の、此く語り傳へたるとや。

   *

「アウパリシュタカ」口淫。フェラチオ(Fellatio)。

「閹人(ユーナツク)」宦官に同じ。東洋諸国で宮廷や貴族の後宮に仕えた、去勢された男子。中国・オスマン帝国・ムガル帝国などに多かった。王や後宮に近接しているため、勢力を得やすく、政治に種々の影響を及ぼした。Eunuch(ギリシャ語由来の英語)。

『「ヴワチャナ」梵士』何度も出、注もした古代インドの「カーマ・シャーストラ」(性愛論書)の一つとして知られた「カーマ・スートラ」の著者ヴァーツヤーヤナのこと。

『姚秦譯「四分律藏」』以下は総て「大蔵経データベース」で校合した。熊楠は短縮するために、どれも一部を改変している。例えば、「佛在毗舍離城」「佛、毘舍離城に有り。」というのは熊楠の誤った作文と推定され、近いのは、ずっと前にある「爾時世尊在王舍城」で、「爾(こ)の時、世尊、王舍城に在り。」である。最もひどいのは、「復前含男根、」以下の部分のカットで、犬に口淫させた比丘を熊楠は「彼不受樂不犯」とするところで、意味が通らなくなってしまっているのである。これは実は熊楠が安易にカットしたために生じた大誤謬である。本文ではそこを復元してある。則ち、「時有比丘、褰ㇾ衣渡伊羅婆提河、」の前の部分である。私の復元と推定訓読を底本と比較されたい。それにしても、どうして誰もこのトンデモ引用の誤りを指摘しなかったのだろう? 所持する「選集」(一九八四年版)でも補正されて訓読しているものの、誤った当該部はそのまま訓読されてある。初出から実に五十八年以上に亙って誰にも検証されていないというのは、話柄の内容が性に係わるとはいえ、放置されてきたこの為体には、正直、呆れ果てたと言わざるを得ない。

「波羅夷罪」波羅夷(はらい)は仏教の戒律で最も重い罪を指す語。サンスクリット語「パーラージカ」(「他に勝(まさ)ること」の意)の漢音写で、「根本罪」「辺罪」とも言う。修行者がこの罪を犯すと、僧伽(そうぎゃ:出家教団)から永久に追放される大罪とされる。比丘戒の波羅夷は、①淫(性交)を犯す。②物を盗む。③殺人(堕胎を含む)。④大妄語(悟りを得ていないのに得たと嘘を言うこと)の四条からなるが、比丘尼戒の波羅夷には、さらに四条(「触」(欲心を持ちつつ、男性に首下から膝上までの領域を触られること)・「八事」(男性との八種の淫らな逢瀬)・「覆」(波羅夷を犯した他の比丘尼を告発せずに匿すこと)・「随」(僧伽に背く比丘に随っていることに対する、他の比丘尼からの注意に三度に亙って従わないこと)が加わり、全八条から成る(小学館「日本大百科全書」及びウィキの「波羅夷罪」に拠った)。

「伊羅婆提河」比定河川不詳。

『蕭齊の衆賢譯「善見毘婆沙律」』(ぜんけんりつびばしゃ:現代仮名遣)は上座部所伝の律蔵を注釈したもの。全十八巻。南北朝時代の斉の僧伽跋陀羅による漢訳であるが、四四〇年頃のインドのマガダの学僧ブッダゴーサがセイロン (現在のスリランカ)で撰述した律蔵の注釈の抄訳といわれている。第一から第三結集までを述べ、アショーカ王の子マヒンダがセイロンに渡って弘法に努めたこと、さらに比丘・比丘尼の戒律を詳しく記述している(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。例によって「大蔵経データベース」で校合した。最後の「罪」は原本にはないが、判り易いのでそのままとした。

『「はまぐり」で無て、蛙也』「蛤」の字はハマグリに限らず、海産斧足類(二枚貝)の総名であるが、同時に「蛙」の意も持つ。]

 又、畜生同士、口婬の例は、「摩訶僧祇律」卷六に、佛、迦蘭陀竹園《からんだちくえん》に在(おは)せし時、優陀夷《うだい》の方《かた》へ、知れる婆羅門、其婦を伴來《つれき》たり、諸房を示さん事を請《こひ》しに、優陀夷於一屛處、便捉婦人手把持抱、婦人念言、此優陀夷必欲ㇾ作ㇾ如ㇾ是如是事、弄已還放、語婆羅門云、我以已示竟云々、彼婦以優陀夷不共行欲故、便瞋言、用ㇾ看房舍、爲此是、薄福黃門出家、遍摩觸我身、而無好事、時婆羅門語優陀夷言、汝實於ㇾ我知識、而生非知識想耶、而於平地更生堆阜耶、而於水中更生火想耶。〔優陀夷、屏處(ものかげ)に於いて、便(すなは)ち、婦人の手を捉(と)り、把持(かか)えて、抱(いだ)かんと捉(とら)ふ。婦人、念言(おもふ)らく、『此の優陀夷、必ずや、是(か)くのごとく作(な)し、弄(たはふ)れ已(をは)れば、還(ま)た、放つならん。』と。婆羅門に語ひて、「我れは、以つて、示し竟(をは)れり。」と云々。彼(か)の婦は、優陀夷、以つて、共に欲を行はざるが故に、便(すなは)ち、瞋(いか)りて言はく、「房舍を看るを用ひて、此(か)くのごときことを爲(な)す。薄福(さちうす)き黃門(わうもん[やぶちゃん注:去勢。])せる出家、遍(あまね)く我が身を摩(な)で觸(さは)るも、而(しか)も好(よ)き事、無し。」と。時に、婆羅門、優陀夷に語って言はく、「汝は實(まこと)に我れに於いて、知識なり。而(しか)るに、非知識の想を生ずるや。而して、平地に於いて、更に堆阜(をか)を生ずるや。而して、水中に於いて、更に火を生ずるや。」。〕とて、優陀夷の頸を繫ぎ、牽去《ひきさ》りて、佛《ほとけの》所に之《ゆ》き、告ぐ。佛、優陀夷を罰し、其《その》因緣を說く。過去世時、香山中有仙人住處、去ㇾ山不ㇾ遠有一池水、時池水中有一鼈、出池水求食、食已向ㇾ日張ㇾ口而睡、時香山中有諸獼猴、入ㇾ池飮ㇾ水、已上ㇾ岸、見此鼈張ㇾ口而睡時、彼獼猴便欲ㇾ作婬法、卽以身生鼈口中、鼈覺合ㇾ口、藏六甲裏、如所ㇾ說偈言、愚癡人執ㇾ相、猶如鼈所一ㇾ咬、失修摩羅提、非ㇾ斧則不離。〔過去世の時、香山中(かうざんちゆう)に仙人の住む處、有り。山を去ること、遠からず、一つの池水、有り。時に、水中に一つの鼈(べつ[やぶちゃん注:スッポン。])有り。池水を出でて、求め食らひ、食らひ已(をは)りて、日に向かひ、口を張(あ)けて、睡(ねむ)る。時に、香山の上に諸(もろもろ)の獼猴(びこう)[やぶちゃん注:猿。]あり、池に入りて、水を飮む。已りて、岸に上がり、此の鼈の、口を張けて睡れるを見て、かの獼猴、便(すなは)ち、婬法(いんぱふ)を作(な)さんと欲す。卽ち、身生(しんしやう)[やぶちゃん注:ここは陰茎のこと。]を以つて、鼈の口中に内(い)れり。鼈、覺(めざ)め、口を合(がつ)し、六(りく)[やぶちゃん注:頸・四肢・尾。]を甲(かうら)の裏(うち)に藏(かく)す。說く所の偈(げ)のごときに言ふ、愚癡(ぐち)の人の相(さう)を執(と)るは、猶ほ、鼈に咬(か)まれて、摩羅提(まらだい)[やぶちゃん注:陰茎。]を失修(しつしゆ)し、斧に非(あら)ざれば、則ち、離れざるがごとし。」と。〕。鼈《すつぽん》は猴《さる》の陰《まら》を嚙《かん》だ儘、水に入れんと却行《あとずさり》し、猴は往《ゆ》かじと角力《あらそ》ふ内、鼈、仰《あほの》けに轉がり廻る。猴、鼈を抱き、仙人を訪《おとな》ひ、救ひを求め、仙人、猴の難を脫せしめた。仙人は、佛、鼈は、婆羅門、猴は優陀夷の前身ぢや、と有る。此樣《このやう》に口婬の話が佛典に多いから、上述、三井寺で僧が蛇の口を犯して美女と會ふと夢みたてふ「今昔物語」の譚抔も出來たのだろう[やぶちゃん注:ママ。]。

[やぶちゃん注:『「摩訶僧祇律」卷六』の引用は同じく「大蔵経データベース」で校合した。

「迦蘭陀竹園」「竹林精舍」(ちくりんしょうじゃ)とも呼ぶ。釈尊時代、中インドの最強国であったマガダ国の首都王舎城(ラージャグリハ。現在のビハール州ラージギル)の郊外に造られた僧園。サンスクリット名「ベーヌバナ・カランダカ・ニバーパ」と称した。迦蘭陀長者が寄進したものとも、「カランダカ」という栗鼠或いは鳥の住する竹で囲まれた園林をビンビサーラ王が奉献したものともされる。これは釈迦によって初めて受納された僧園で、成道(じょうどう)後の二、三、四年目の雨安居(うあんご)をここで過ごしたと伝えられる。玄奘によれば、この東に仏陀入滅に際して八分された舎利の一つを祀る、阿闍世王によって建てられた仏塔があったという(小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「優陀夷」は「ウダーイ」「ウダーイン」の漢音写で、釈迦の弟子の一人で「勧導第一」の弟子と称された。]

 序いでに言ふ。「五雜俎」九に、水碓《みづからうす》、番する壯士、虎に打《うた》れ、上に坐らる。其時、水車、飛《とぶ》が如く動くを、虎が見詰《みつ》め居《を》る内に、其人甦つたが、手足壓へられて、詮術《せんすべ》、無い。所ろが、虎の陰莖、翹然(によつきり)口に近きを見、極力、嚙付《かみつ》くと、虎、大《おほい》に吼《ほえ》て、逃去《にげさつ》た。又、昭武、鄕に、熊、多く、其勢《へのこ》[やぶちゃん注:陰茎。]、極《きはめ》て長く、坐する每《ごと》に、先づ、土に穴掘り、其勢を容《いれ》て後《のち》、坐る。山中の人、其穴を見付《みつけ》て、其上に桎梏《しつこく》[やぶちゃん注:挟ませて対象物を捕える枷罠(かせわな)。]を置き、機《ばね》を設《まう》く。熊、例の如く來て、其大事の物を穴に入れると、機、動き、兩木《りやうぼく》で莖《くき》を夾《はさ》まれ、號呼して、復《また》、起つ能はず、擊殺《うちころ》さると有るは、猴が鼈に一件を嚙まれたと、三幅對の珍談ぢや。又「根本說一切有部毘奈耶雜事《こんぽんせついつさいうぶびなやざつじ》」三一に、比丘尼共が園林中に默坐思惟すると、虫が來て、不便處《ふべんしよ》に入り、苦惱す。因《より》て、佛、半跏を命ぜしに、尙、細蟲、有り、身に入《いり》て惱ます。佛、命じて、故破衣(ぼろぎぬ)と輭葉《なんえふ》[やぶちゃん注:柔らかな葉。「輭」は「軟」の異体字。]で掩ふて寂定《じやくぢやう》を修《しゆ》せしめた、と有る。不便處とは大小便處を云《いふ》たらしい。

[やぶちゃん注:「五雜俎」「五雜組」とも表記する。明の謝肇淛(しゃちょうせい)が撰した歴史考証を含む随筆。全十六巻(天部二巻・地部二巻・人部四巻・物部四巻・事部四巻)。書名は元は古い楽府(がふ)題で、それに「各種の彩(いろどり)を以って布を織る」という自在な対象と考証の比喩の意を掛けた。主たる部分は筆者の読書の心得であるが、国事や歴史の考証も多く含む。一六一六年に刻本されたが、本文で、遼東の女真が、後日、明の災いになるであろう、という見解を記していたため、清代になって中国では閲覧が禁じられてしまい、中華民国になってやっと復刻されて一般に読まれるようになるという数奇な経緯を持つ。以上は巻九の「物部一」の一節(一つの話の中のある人物の台詞内の話)。今回は早稲田大学図書館「古典総合データベース」の寛政七(一七九五)年の訓点附き板本の当該部を元に電子化する。白文(句読点を打った)をまず示し、後に訓点を参考に書き下す。

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近歲、有壯士守水碓。爲虎攫而坐之。碓輪如飛、虎觀良久、士且甦、手足皆被壓不可動、適見虎勢、翹然近口、因極力嚙之。虎驚、大吼躍走、其人遂得脫。

   *

 近き歲(とし)、壯士の水碓(みづうす)を守る有り。虎の爲めに攫(つか)みて、之れに坐せらる。碓(うす)の輪(わ)、飛ぶがごとし。虎、觀ること、良(やや)久し。士、且つ、甦へる。手足、皆、壓(お)されて動くべからず。適(たまた)ま、虎の勢(へのこ)、翹然(げうぜん)として、口に近きを見て、因りて、力を極みに、之れを嚙む。虎、驚き、大いに吼(ほ)え、躍り走る。其の人、遂に脫(のが)るゝを得たり。

   *

熊の方も見つけた。同じ巻の前話の少し後のここ。同様に処理する。

   *

昭武謝伯元言、「其鄕、多熊。熊勢極長。毎坐必跑土爲窟、先容其勢、而後坐。山中人尋其窟穴、見地上有巨孔者,以木爲桎梏、施其上、而設機焉。熊坐、機發、兩木夾其莖。號呼不能復起、土人卽聚而擊之。至死不能動也。

   *

昭武の謝伯元の言はく、「其の鄕(がう)、熊、多し。熊の勢(へのこ)、極めて長し。毎(つね)に坐するときは、必ず、土を跑(あが)いて、窟(くつ)を爲(つく)り、先づ、其の勢を容れて、而して後(のち)、坐す。山中の人、其の窟穴を尋ね、地上に巨孔(きよこう)の有る者を見て、木を以つて、桎梏(しつこく)を爲(つく)り、其の上に施して、機(からくり)を設(まう)く。熊、坐はれば、機、發(はつ)して、兩木、其の莖を夾(はさ)む。號呼(がうこ)するも、復た、起くること能はず、土人、卽ち聚(よ)りて之れを擊つ。死に至るまで、動くこと能はざるなり。」と。

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「唐義淨譯『根本說一切有部毘奈耶雜事』」は何度も出てきている。今までと同じく「大蔵経データベース」で本文を確認した。特に大きな問題はない。

「不便處」熊楠は最後にかく言っているが、この漢語は、人間の両性の生殖器を指す語である。]

 

追 記 (大正三年四月『民俗』二年二報)

 前に引いた「和漢三才圖會」とレオ・アフリカヌスの記文を英譯して、八月二日の『ノーツ・エンド・キーリス』に出すと、同月三十日の分に次のような二文が出た。先づ、プリドー大佐言く、『往年、在インドの節、聞《きい》たは、土著《どちやく》の一英人、入浴中、壁に穿つた排水孔より、蛇、入り來《きた》るを見て、その人、恐れて詮術《せんすべ》を知らず。翌日、復《また》入り來り、排水孔より出去《いでさら》んとする時、尾を捉えて[やぶちゃん注:ママ。]引《ひい》たが、蛇、努力して、迯去《にげさつ》た。三日目にも來たが、今度は、去るに臨み、先づ、尾を孔に入れ、彼《かの》人を見詰め乍ら、身を逆《さかしま》にして迯去た。何と、蛇は、評判通り、慧(かしこ)い者ぢや。』と。次にフェヤブレイス氏曰く、『日本人は穴に入掛《いりかけ》た蛇の尾を捉へて引出す能はぬか知《しれ》ぬが、二十年斗り前、印度で、英人、獨りで、殆んど八呎[やぶちゃん注:二メートル四十四センチ弱。]、長き蛇を引出すを見た。』と。扨、田邊近き芳養(はや)村の人に聞くと、蛇の尾を捉へて、一人で引出すは六かしいが、今一人、其人を抱きて引くと、造作も無く、拔け出る由。

[やぶちゃん注:「八月二日の『ノーツ・エンド・キーリス』」の南方熊楠の当該投稿記事は、「Internet archive」の‘Notes and queries’のこちらの右ページで読め、以下の二氏の応答記事はここで読める。

「紀州芳養(はや)村」底本は「たや」と誤植。旧和歌山県西牟婁郡に上・中・下芳養村があった。だいたい、この中央の南北附近(グーグル・マップ・データ)。]

2022/11/23

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「話俗隨筆」パート 米糞上人の事

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから次のコマにかけて。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文部は全体が一字下げなので、それを再現するために、ブラウザの不具合を考えて、一行字数を少なくしておいた。今まで通り、後に〔 〕で推定訓読文を添えた。

 なお、底本では標題下に「同前」とあるが、これは冒頭の本文が前話と同じ大正二(一九一三)年五月『民俗』第一年第一報所収であることを言う。

 標題「米糞上人」は引用の「日本文徳天皇実録」の訓点から「べいふんしやうにん」と読んでおく。] 

 

      米糞上人の話 (大正二年五月『民俗』一年一報)

 

 明治四十一年六月の『早稻田文學』六三―四頁に、予此話に就き說く所有り。略記せんに云く、「文德實錄」に之を齊衡元年の事實として、

 六月乙巳、備前國貢一伊蒲塞、斷ㇾ穀不ㇾ
 食、有ㇾ勅安置神泉苑、男女雲會、觀者
 架ㇾ肩、市里爲ㇾ之空、數日之間、遍於天
 下、呼爲聖人、各々私願伊蒲塞、仍
 有許諾、婦人之類、莫ㇾ不眩惑奔咽
 後月餘日、或云、伊蒲塞、夜人定後、以ㇾ水
 飮送數升米、天曉如ㇾ廁、有ㇾ人窺ㇾ之、
 米糞如ㇾ積、由ㇾ是、聲價應ㇾ時減折、兒婦
 人猶謂之米糞聖人

〔六月乙巳(きのとみ)、備前の國より、一(ひとり)の伊蒲塞(いふそく)[やぶちゃん注:「優婆塞(うばそく)」に同じ。僧。]を貢(かう)す。「穀を斷ちて、食らはず。」と。勅、有り、神泉苑に安-置(おら)しむ。男女(なんいよ)、雲のごとく、會(あつ)まり、觀(み)る者、肩に架(の)る。市-里(まち)、之れが爲めに空(むな)し、數日(すじつ)の間に天下に遍(あまね)し。呼んで「聖人」と爲(な)す。各々、竊(ひそか)に伊蒲塞に願ひ、仍(よ)つて許諾する有り。婦人の類(たぐゐ)、眩惑し、奔咽(ほんいん)せざるなし。後(のち)、月の餘日(よじつ)、或(あるひと)云はく、「伊蒲塞は、夜(よる)、人(ひと)定(しづ)まりたる後、水を以つて、升の米(こめ)を飮み送(くだ)し、天(てん)の曉(あ)くるとき、厠(かやは)に如(ゆ)く。人、有りて、之れを窺(うかが)ひしに、米糞(へいふん)、積むがごとし。」と。是れに由りて、聲價(せいか)、時に應じて、減折(めつせつ)す。兒(こ)と婦人、猶ほ、之れを「米糞聖人」と謂へり。〕

と錄せり。イタリア人ヨサファ・バーバロの紀行(上記「無眠、一眼、二眼」に引けり)一一一頁に云く、『爰に囘敎の一聖人あり。野獸の如く裸行說法し、民の信仰厚く、庸衆、羣集追隨す。聖人、尙、以て足れりとせず、公言すらく、「一密室に入定し、四十日、斷食して、出《いづ》るに及び、よく、心身、異狀なからん。」と。仍《よつ》て此邊にて、石灰を作るに用ふる石を、林中に運ばせ、圓廬(ゑんろ)を構へて入定す。四十日後、出來《いできた》るを見るに、心身、安泰なれば、皆、驚嘆す。一人、細心にして、廬傍の一處、肉臭を放つを感知し、地を發掘して、積粮《せきらう》を見出す。事、官《くわん》に聞え、聖人、獄に繫《つなが》る。一弟子、又、囚《とら》へられ、拷問を重ねざるに、自白しけるは、「廬の壁を穿ちて、一管を通し、夜中、私《ひそ》かに滋養品を送り入れし也、と。是に於て、師弟併《あは》せ、誅せらる。賣僧、種々の方便もて、人を欺く事、古今諸國、例《ためし》多ければ、本邦と裏海《カスピかい》地方に、此《この》酷似せる二話有るは偶合ならん。「實錄」に日附をすら明記したれば、多少の事實は有りしなるべし。馬琴の「昔語質屋庫」末段に、見臺先生、次の夜の會合に演《の》べらるべき題號を拳ぐる中に、この聖人のことあれば、曲亭、多分、「實錄」と「宇治拾遺」の外にも、之に似たる東洋の古話を、若干、集置《あつめおき》たりつらめ、その續篇、版行無くて、其考、世に出でざりしは遺憾也。

[やぶちゃん注:「明治四十一年六月の『早稻田文學』六三―四頁に、予此話に就き說く所有り」前回と同じく「Googleブックス」のこちら以降で、原雑誌画像を視認して、以下に初出形そのままを示す。二重右傍線は太字とした。

   *

第一 米糞聖人の話、文德實錄に、之を齊衡元年の事實として、六月乙巳、備前より此伊蒲塞を貢せし由を記せり、伊太利人ヨサフアバーバロの、一四三六より十六年間に涉れるタナ紀行(Viaggio di M. Iosafa Barbaro alla Tana,’ in Ramusio, vol.ii. p. 111.)に曰く、「爰に回敎の一聖人あり、野獸の如く裸にして行き[やぶちゃん注:「ありき」。]ながら說法し、民の信仰厚ければ、庸衆羣集して追隨す、聖人尙以て足れりとせず、公言すらく、密室に入定し、斷食四十日して、出ずるに及び能く精神健かに、身體聊も恙無らんと、仍て此邊にて石灰を製するに用る石を林中に運ばせ、一圓盧を構へて入定す、四十日の後、出來るを見るに、心身安泰なりければ、僉な[やぶちゃん注:「みな」。]驚嘆す、一人細心にして、廬傍の一處、肉臭の氣を放つを齅[やぶちゃん注:「かぎ」。]知り、地を發掘して積粮を見る、事[やぶちゃん注:「こと」。]官に聞し、聖人獄に繋がる、一弟子又囚へられ、拷問を重ねざるに自白すらく、盧の壁を穿て一管を通じ、夜中竊に滋養品を送り入れし也と、是に於て師弟併せて誅せらる」と、諸國に賣僧[やぶちゃん注:「まいす」。]が種々の方法を以て人を欺くこと、古今例多ければ、本邦と裏海[やぶちゃん注:「カスピかい」。]地方に、此相似たる二話有るは偶合ならん、實錄に日附をすら明記したれば、多少所據とする事實は有しなるべし、但し、馬琴の質屋庫末段に、見臺先生明夜の會合に論ずべき題號を擧る中に、米糞聖人の事あれば、曲亭は多分實錄と宇治拾遺の外より、之に似たる、日本若くは支那印度の古話を若干集め置たりしならんが、質屋庫の續編版行無りし故、其考は世に出ずして已みたるにや。

   *

「文德實錄」「日本文德天皇實錄」(にほんもんとくてんのうじつろく)の略称。勅撰の歴史書で全十巻。六国史の一つ。嘉祥三(八五〇)年から天安二(八五八)年までの文徳天皇の在位の一代の歴史を編年体に記したもの。藤原基経らが、貞観一三(八七一)年に文徳の次代の清和天皇の勅により、撰集が開始されたものの、一時、中止された。後、元慶二(八七八)年に清和の次代の陽成天皇の勅によって再開され、翌年に完成した。本書は以前の史書に比べ、薨卒伝(こうしゅつでん:令制で「薨」は親王と三位以上、「卒」は四位・五位と諸王の逝去することを指す)が豊かで、これは、律令体制の解体期に、古代国家再編に努めた人物群の伝記によって、当代と将来の範としたものと考えられている(小学館「日本大百科全書」に拠った)。さて、後者「日本文徳天皇実録」の当該部は国立国会図書館デジタルコレクションで調べたところ、巻一のここである(出雲寺和泉掾の宝永六 (一七〇九)年出版になるもの)ので、それで本文を校合し、訓点附きなので、それも参考にして訓読文を作った。

「馬琴の質屋庫」「昔語質屋庫」(むかしがたりしちやのくら)は小説仕立ての考証随筆。その初編末尾の広告に(早稲田大学図書館「古典総合データベース」の文化七(一八一〇)年の後刷原本の画像)、確かに『○崇德院(しゆとくゐん)天狗(てんぐ)の爪取剪(つめとりはさみ) ○鎌倉時代(かまくらじだい)の上下(かみしも) ○米糞上人(べいふんしやうにん)の乞食袋(こじきふくろ)右初編總目録(しよへんそうもくろく)に載(の)せるといへども巻数(かんすう)既(すで)にかぎりあれば釐(さい)て次編(じへん)の首巻(しゆくわん)に入(い)れたり』とあるものの、後に並ぶ「中編五册」も「同後篇五册」も全く刊行されなかった。

「イタリア人ヨサファ・バーバロの紀行(上記「無眠、一眼、二眼」に引けり)」そちらで注済み。]

 此拙考、『早稻田文學』に載せられて後、印度、亦、此類話有るを知れり。龍樹大士の「大智度論」卷十六(鳩摩羅什譯)に、釋迦佛、前身、大國王の太子たり。父王の梵志師、五穀を食《くらは》ずと詐《いつは》り、一同、尊信す。太子、之を信ぜず。林間に至り、其住處を探り、林中の牧牛人より、「梵志師、夜中、少しく酥(ちゝ)を服して、活《いく》る。」と聞き知り、宮に還りて、種々の瀉下劑を以て、靑蓮花を薰じ置く。明旦、梵志、宮に入り、王の側に坐するを見、太子、此花を、自ら彼に奉りけるに、梵志、『是迄、此太子のみ、我を敬せざりしに、今こそ歸伏したれ。』とて、大《おほい》に喜び、花を嗅ぐに、藥氣、腹に入り、瀉下を催す事、頗る急なり。因て、厠に趨《おもむ》かんとするを、太子、「物食《くら》はぬ者、何の譯《わけ》有つて、厠に向ふぞ。」とて、捉へて放たず。梵志、耐《たふ》る能《あた》はず、王の邊りに嘔吐す。之を見るに、純(もつば)ら酥也。王と夫人と、乃《すなは》ち、其詐りを知る、と出でたる也。

[やぶちゃん注:以上の『「大智度論」卷十六(鳩摩羅什譯)』の当該部を「大蔵経データベース」から引く。一部の漢字を正字化した。

   *

宿世爲大國王太子。父王有梵志師不食五穀。衆人敬信以爲奇特。太子思惟人有四體必資五穀。而此人不食必是曲取人心非眞法也。父母告子此人精進不食五穀是世希有。汝何愚甚而不敬之。太子答言。願小留意。此人不久證驗自出。是時太子求其住處至林樹間。問林中牧牛人。此人何所食噉。牧牛者答言。此人夜中少多服酥以自全命。太子知已還宮欲出其證驗。卽以種種諸下藥草熏靑蓮華。淸旦梵志入宮坐王邊。太子手執此花來供養之拜已授與。梵志歡喜自念。王及夫人内外大小皆服事我。唯太子不見敬信。今日以好華供養甚善無量。得此好華敬所來處。擧以向鼻嗅之。華中藥氣入腹。須臾腹内藥作欲求下處。太子言。梵志不食何緣向厠。急捉之須臾便吐王邊。吐中純酥。證驗現已。王與夫人乃知其詐。

   *]

2022/11/22

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「話俗隨筆」パート 無眼、一眼、二眼

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから次のコマにかけて。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。本篇の正規部の漢文部は全体が一字下げなので、それを再現するために、ブラウザの不具合を考えて、一行字数を少なくしておいた。今まで通り、後に〔 〕で推定訓読文を添えた。

 なお、底本では標題下に「同前」とあるが、これは冒頭の本文が前話と同じ大正二(一九一三)年五月『民俗』第一年第一報所収であることを言う。]

 

     無眼、一眼、二眼 (同 前)

 

「蟻を旗印とせし話」に出たる「ベンスリ」敎授、三年前、二月二十七日の『ノーツ・エンド・キーリス』に說《とき》て曰く、「バートン」の「鬱憂の解剖(アナトミー・オヴ・メランコリー)」(一六五一―二年板、四十頁)に、『支那人の諺に、歐州人は一眼《ひとつめ》、支那人は二眼、其他の諸民、總て眼なしと云ふ』と言へり。是は「ジョセフ・ホール」の「新世界發見誌」(Joseph Hall, ‘Mundus alter et idem,’ 1605 ? and 1607)に、斯《かか》る詞有るに據れるならん。併乍《しかしなが》ら、支那書、又、外人が、實際、支那を旅行觀察して記せる者に、支那人間、果して、斯る諺《ことわざ》、行はれたる證左有りや。「エイテル」博士(「漢英佛敎語彙」の著者)等に問ひしも、答ふる能はざりき、と。

[やぶちゃん注:「蟻を旗印とせし話」先行するこれ

『「ベンスリ」敎授』エドワード・フォン・ブルームバーグ・ベンスリー(Edward von Blomberg Bensly 一八六三年~一九三九年)は英文学者。

「三年前、二月二十七日の『ノーツ・エンド・キーリス』に說て曰く、……」英文「WIKISOURCE」の‘Notes and Queries’ のここに発見した。電子化もされてある。

『「バートン」の「鬱憂の解剖(アナトミー・オヴ・メランコリー)」(一六五一―二年板、四十頁)』イギリスの作家でオックスフォード大学のフェローであったロバート・バートン(Robert Burton 一五七七年~一六四〇年)の‘The Anatomy of Melancholy’(「憂鬱の解剖学」:初版一六二一年刊)はメランコリーの医学的・科学的・哲学的・文学的百科事典として知られる。「Internet archive」のこちらにあるが、版が多過ぎ、五、六冊で、目がチラチラしてきて当該部を探すのは諦めた。

「ジョセフ・ホール」(Joseph Hall 一五七四 年~一六五六年)はイギリスの司教で風刺作家。以下の「新世界發見誌」「Mundus alter et idem」は彼のディストピア小説。ラテン語の標題は‘An Old World and a New, The Discovery of a New World’ (「古い世界と新しい世界の発見」)、他に‘Another World and Yet the Same’ (「別な世界とまだ同(おんな)じのそれ」)と訳されている。

『「エイテル」博士(「漢英佛敎語彙」の著者)』「火齊珠に就て (その二・「追加」の1)」で既出既注であるが、再掲しておくと、エルンスト・ヨハン・エイテル(Ernst Johann EitelErnest John Eitel 一八三八 年~一九〇八年)。ドイツのヴュルテンベルク生まれのドイツ人で、元々は「ヴュルテンベルク福音教会」の牧師であったが、「バーゼル伝道会」に入って、広東省に福音を広めるために渡った。一八六二年からは、香港で布教活動に従事するとともに、香港政庁下での教育行政官としても活躍した。後には「ロンドン伝道協会」に入会するとともに、イギリス国籍を取得している。中英辞典・広東語発音本・広東語辞典など。多くの言語学の著書を編纂している。「支那佛敎語彙」が彼のどの著作を指しているかは判らぬ。]

 十月二日の同誌に、予の答《こたへ》、出でたり。次の如し。一三〇七年筆、Haiton, Histoire orientale,ch. I, col. I, in P. Bergero, Voyages,à La Haye 1735 に、『支那人、聰慧明察なれば、外國諸民の學術巧技を蔑如し、謂《いは》く、支那人二眼、羅甸《ラテン》人一眼有り。其他は全く盲也、と。」と出で、一四三六年より十六年間、「タナ」と波斯《ペルシア》に旅行せる「ヨサファ・バーバロ」の紀行(Ramusio, Navigationi e Viaggi, in Venetia, 1588, I. 103c.)に、彼《かの》地方で逢いし[やぶちゃん注:ママ。]支那商客、自《みづか》ら、『吾等、二眼、佛郞機(フランキ)(當時、囘敎國人が歐州人を總稱せる名。之より、支那で大砲を、此稱で呼べり。)、一眼、韃靼人、無眼。』と誇れり、と云へり。又、「松屋筆記」卷八五に、明の崇禎中、徐昌治編纂「聖朝破邪集」に收めたる蘇及寓の「邪毒實據」に、

 艾儒略等、夷人也、自萬歷間、入我中國、有識
 者、窺其立心詭異、行事變詐、已疏其不軌而驅
 之矣、今也胡爲乎複來哉、其故可思矣、複來而
 天下不惟莫能詳察其奸、併且前驅諸疏、亦幾不
 得見、夷輩喜而相告曰、我西士有四眼、日本人
 有三眼(兩到日本開教、被其兩殺、故云。)中
 國人有兩眼、呂宋人無一眼。

〔艾儒略(がいじゆりやく)等(ら)は、夷人なり。萬曆(ばんれき)の間(かん)より、我が中國に入る。有識の者、其の立心[やぶちゃん注:決心。「選集」は「どうき」と振る。「動機」であろう。]の詭異(きい)にして、行事(おこなひ)の變詐(へんさ)なるを窺ひ、已(すで)に其の不軌なることを疏(そ)して、之れを驅(おひた)てたるに、今や、胡(なんす)れぞ、複(ま)た、來たれるや、其の故を思ふべし。複た、來たるも、天下、惟(ただ)、其の奸を能く詳察するもの莫(な)きのみならず、併(な)ほ且つ、前(さき)の驅てたる疏も、亦、幾(ほとん)ど見ることを得ざればなり。夷輩、喜びて相ひ告げて曰はく、「我が西土は四眼有り、日本人は三眼有り(兩(ふたた)ぴ、日本に到りて開敎し、兩び、殺さる。故に云へり。)、中國人は兩眼有り、呂宋(ルソン)人は一眼も無し。」と。〕。

 呂宋人、天主敎に化して、國、亡びしを指す也。

[やぶちゃん注:「十月二日の同誌に、予の答、出でたり」同じく、英文「WIKISOURCE」の‘Notes and Queriesここと、ここ。同前。

「一三〇七年筆、Haiton, Histoire orientale,ch. I, col. I, in P. Bergero, Voyages, à La Haye 1735 」南方熊楠の「『大日本時代史』に載する古話三則」(明治四一(一九〇八)年六月発行『早稲田文学』三十一号発表)の中の「毛利元就、箭を折りて子を誡めし話」の中に(以下はたまたま「Googleブックス」で視認出来た原雑誌の当該箇所を元に、そのままに電子化した。所持する「選集」とは異なる箇所が、複数、箇所ある)、

   *

 又千三百七年に、シリシアの小王ハイトンが筆せる東國史(Haiton, Histoire Orientale,en  P. Bergeron, Voyages faites principalementen Asie,à la Haye, 1735, ch. i. cols 31-32)には、成吉思汗を此話の主人公とせり。云く、是に於て汗其十二子を喚出し、常に相親和すべしと敎訓し、其例を示さんとて、每子一箭を持來らしめ、十二矢を集て、長子をして折しむるに能はず、二男三男、亦然り、然る後、成吉思、更に十二矢を散解して、箇々之を折れと末子に命ずるに、容易に折り盡し畢る。汗之を見て顧て諸子に問ふ、何の故に汝等折り得ざりしか、皆答ふ箭多くして束ねたればなり、又問ふ、何の故に季弟一人能く之を折り得たるか、答ふ、一一別て之を折れば也と、汗諸子の斯く答ふるを聴て言く、其汝等に於るも又然り、一和すれば長え[やぶちゃん注:「とこしへ」。ママ。]に栄え、相離るれば忽ち亡びんと。

   *

さて、「選集」では、整序されて「シリシア」は『シリア』としている。書かれた一三〇七年当時のシリアはモンゴルによるシリア侵攻が終焉した年であるので、この話は何やらん、意味深長である。但し、その後のシリアはエジプトのマムルーク朝の支配を受け、それが亡ぼされると、今度は、オスマン帝国の支配を受けることになるのだが。

「ヨサファ・バーバロ」十五世紀のヴェネチアの貴族で商人にして外交官でもあったヨサファト・バルバロ(Josaphat Barbaro(一四一三年~一四九四年:Josaphat は Giosafat 又は Giosaphat ととも記す) 。確かに紀行を残していることが、信頼出来る日本人の論文にあった。また、彼の英文ウィキも参照されたい。

「Ramusios,‘Navigation et Viaggi’」ベネチア共和国の官吏(元老院書記官など)を務めた人文主義者で歴史家・地理学者のジョヴァンニ・バティスタ・ラムージオ(Giovanni Battista Ramusio  一四八五年~一五五七年)が、先達や同時代の探検旅行記を集大成した、大航海時代に関する基本文献とされる「航海と旅行」(Delle navigationi et viaggi :全三巻。一五五〇年~一五五九年刊)のこと。

「佛郞機(フランキ)(當時、囘敎國人が歐州人を總稱せる名。之より、支那で大砲を、此稱で呼べり。)」‘Notes and Queries’ の原文では“Franks”。これは、世界史では、ローマ帝国後期から記録に登場するゲルマン人の部族名であるが、ウィキの「フランク人」によれば、西ヨーロッパ全域を支配するフランク『王国を建設したことから、東方の東ローマ帝国やイスラム諸国では、西ヨーロッパ人全般を指す言葉として用いられた事もある』とあった。

『「松屋筆記」卷八五』国学者小山田与清(ともきよ 天明三(一七八三)年~弘化四(一八四七)年)著になる膨大な考証随筆。文化の末年(一八一八年)頃から弘化二(一八四五)年頃までの約三十年間に、和漢古今の書から問題となる章節を抜き書きし、考証評論を加えたもの。元は百二十巻あったが、現在、知られているものは八十四巻。松屋は号。国立国会図書館デジタルコレクションの活字本画像ではここ(右ページ上段の(五十)日本人三眼幷自鳴鐘」の条。

「聖朝破邪集」(明の徐昌治編になる一六八三年成立の儒者や仏教僧のキリスト教に対する反対意見を纏めたもの)は「中國哲學書電子化計劃」の電子化されたここ334のガイド・ナンバーの本文と校合した。「併」はそちらでは「並」であったが、ここでは訓読の理解のし易さから、熊楠の「併」を採った。

「艾儒略」イタリア出身のイエズス会宣教師で、明末の中国で宣教活動を行ったジュリオ・アレーニ(Giulio Aleni 一五八二年~一六四九年)の中国名。帰国することなく、亡くなった。

「萬曆(ばんれき)の間(かん)より、我が中國に入る」「萬曆」は明代の元号で一五七三年から一六二〇年七月まで。当該ウィキの「ジュリオ・アレーニ」によれば、彼は『ゴア経由で』一六一〇『年にマカオに至り、そこで数学を教えながら』、『中国に潜入する機会をうかがった』一六一三『年に中国に入り、北京で徐光啓の知遇を得て』、『各地で布教活動を行った』とある。]

 惟ふに、此一眼、二眼、無眼の譬喩、其頃、支那と歐州、又、西亞細亞間に往復する輩が、專ら唱へし所にて、或は支那人に、或は外人に、適宜、充稱せしなるべし。中世紀に、支那人の西遊せる者、歐人の東遊せる者、交互、其遊べる地に、靈妙の幻師ありし、と記し、十七世紀に、支那で、日本の磁石を珍重せし(「サン・ルイ」の「支那誌」に出づ)と同時に、日本には唐物《からもの》の磁石を貴びし抔、似たる例也。古梵土《こぼんど》、亦、斯る諺有りしにや。北凉の曇無讖《どんむしん》譯「大般涅槃經」卷廿五に云く、

 世有三人、一者無目、二者一目、三者二目、言
 無目者、常不聞法、一目之人、雖暫聞法、其心
 不住、二目之人、專心聽受。如聞而行、以聽法
 故、得知世間、如是三人、以是義故、聽法因緣、
 則得近於大般涅槃。

〔世に、三人、有り。一(いつ)は、目(め)無く、二は一目(ひとつめ)、三は二目なり。目無き者と言ふは、常に法を聞かず。一目の人は、暫(しばら)く法を聞くと雖も、其の心、住(とどま)らず。二目の人は、專心、聽受し、聞きしがごとくに行なふ。法を聽きしを以つての故に、世間を知るを得(う)。是(か)くのごとき三(みたり)の人は、是の義を以つての故に、法を聽きし因緣もて、則ち、大般涅槃に近づくことを得。」と。〕

[やぶちゃん注:『「サン・ルイ」の「支那誌」』不詳。

「古梵土」古代インド。

「北凉の曇無讖」中インド出身の訳僧曇無讖(ダルマクシェーマ/漢名「法楽」 三八五年~四三三年)。当該ウィキによれば、彼は『謀られて誣告され』、『王の怒りを買った』『ため』、『殺されると思い、インドを出た。而して、『敦煌に到り、しばらく滞在した』が、『数年後には涼州姑臧に赴いた。一説にこの地へ赴いたのは、北涼の国王(河西王とも)沮渠蒙遜(そきょもうそん)が敦煌を平定した』(四一六年~四二三年)『後に、曇無讖と出遭い丁重に涼州に迎え入れたとも言われている。しかし涼州入国後の曇無讖の訳した経典の量が膨大だったこと、また後に涅槃経中分以下の巻を捜し訪ねて故郷に向かって旅する期間とを考慮すると、その数年後』の四一二年に『一介の遊方僧として涼州姑臧』(こぞう)『に到った説があり、これが事実で正しいと考えられている』とある。

「大般涅槃經」は「大蔵経データベース」の当該部と校合した。有意な異同はなかった。]

 

追 加 (大正二年九月『民俗』第一年第二報)

 法華經云、若有利根、智慧明了、多聞强識、乃可爲說、大凡參玄之士、須ㇾ具二眼、一己眼明ㇾ宗、二智眼辯惑、所以禪宗云、單明自己、不ㇾ了目前、如ㇾ此之人、只具一眼、理孤事寡、終不圓通。〔「法華經」に云はく、『若(も)し、利根有り、智慧、明了にして、多聞强識なれば、乃(すなは)ち、爲めに說くべし。大-凡(およ)そ、參玄の士は、須(すべか)らく二眼を具すべし。一(いつ)は己(おの)が眼もて、宗(しゆう)を明らかにし、二(に)は智眼もて、惑ひを辯ず。』と。所以(そゑ)に、禪宗にて云はく、『單(た)だ、自己を明らむるのみにて、目前を了(りやう)せずんば、此(か)くのごとき人は、只だ、一眼を具するのみ。理(ことわり)、孤にして、事(こと)、寡(すくな)く、終(つひ)に圓通せず。』と。〕と、「宗鏡錄《すぎやうろく》」卷四一に出づ。

[やぶちゃん注:「宗鏡錄」(中国五代十国時代の呉越から北宋初の僧永明延寿が撰した仏教論書。全百巻。九六一年成立)は「大蔵経データベース」で校合したが、底本には、幾つかの大きな誤字・脱字があり、特に最後を「終可圓通」とするのは、致命的な誤りである。

「參玄」「玄」は「幽玄・奥深い仏道」の意。仏道を修行すること。]

 

追 記 (大正十五年八月二十七日記)

 故杉浦重剛氏は、屢《しばし》ば、一眼・二眼等の字を、其詩に用ひたり。司馬江漢の「春波樓筆記」にも、海國乍ら、吾が國人の駕航柁術に詳《くは》しからざるを、西洋人、評して曰はく、『支那、以て、「盲のり」、日本、以て、「片目乘り」といふ。』と記せり。

[やぶちゃん注:「杉浦重剛」(じゅうこう 安政二(一八五五)年〜大正一三(一九二四)年)は滋賀県出身の思想家・教育家・ジャーナリスト。別称、杉浦梅窓(ばいそう)。膳所藩の貢進生として大学南校に入学したが、制度が変わったため、東京開成学校に学んだ。在学中、選抜され、明治九(一八七六)年にイギリスに留学。同十五年、東京大学予備門長。同十八年、辞職後に主に在野で多彩な言論・教育活動を行った。同二十一年には三宅雪嶺とともに『政教社』の設立に参加し、雑誌『日本人』を発刊、国粋主義を唱えた。また、東京英語学校の設立に関与し、『称好塾』を経営、青少年の教育に尽力した。後、東亜同文書院長等を経て、大正三(一九一四)年には東宮御学問所御用掛となり、倫理を進講した(以上は国立国会図書館の「近代日本人の肖像」のこちらに拠った)。

『司馬江漢の「春波樓筆記」』(しゅんぱろうひっき)は江戸後期の画家で蘭学者司馬江漢晩年六十五歳の時の随筆。文化八(一八一一)年四月から十月にかけて、稿が成った。江漢その人が、和漢洋の学に通暁した、当時、第一級の知識人であったために、その該博な知識が熟年の思考の中で見事に結実している。全体が長短二百十余の節からなり、江漢の自叙伝・人間観・人生観・社会観等をはじめ、「西洋創世紀」の抜書、「伊曽保(いそほ)物語」の引用など、幅広い西洋文化受容の初期的形態が見られ、興味を惹く。本書は、早く『百家説林』や『有朋堂文庫』に所収され、読者の注目を集めた(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。]

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「話俗隨筆」パート 糊の滓

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここ。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。

 なお、標題は「のりのかす」と読む。]

 

    糊の滓 (大正二年五月『民俗』第一年第一報)

 

 處女が、糊のすり滓を握り、灸り食らへば、嫁する時、犬に吠《ほえ》らる。此物、犬と老人のみ、正《まさ》に食らふべければ也。(紀州田邊)

[やぶちゃん注:「選集」で一部を増補改変した。女性としてはしたない行為だからであろう。]

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「話俗隨筆」パート 羊を女の腹に𤲿きし話

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから次のコマにかけて。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文部は後に〔 〕で推定訓読文を添えた。特に今回より、読者の便宜を考えて、底本中の表記の有無を無視し、基本、書名は「 」、雑誌名・引用部は『 』で統一することとした。

 なお、標題中の「𤲿きし」は「ゑがきし」と読んでおく。また、標題下の「同前」は前の「蟻を旗印とせし話」と同じで、大正二(一九一三)年五月『民俗』第一年第一報所収であることを言う。]

  

     羊を女の腹に𤲿きし話 (同 前)

 

 無住法師の「沙石集」七卷六章に、遠江池田の庄官の妻、嫉妬甚しく、磨粉(みがきこ)に、鹽を和し、夫の陰《かくしどころ》に塗り、夫が娼《よね》[やぶちゃん注:情人。]を置けるを驗證せる話を擧げ、次に、或男、他行《たかう》に臨み、『妻の貞操を試みん。』とて、陰所《かくしどころ》に牛を描きしに、姦夫、來たり、通じて後、實の男は臥牛を描けるに、姦夫は、立てる牛を描く。夫、還り來たり、檢《けん》して妻、を詰《なぢ》りしに、「哀れ、止《や》め給へ、臥せる牛は、一生臥せるか。」と云ひければ、「さもあらん。」とて、許しつ。男の心は淺く大樣《おほやう》なる習《ならひ》にや云々。「池田の女人には、ことのほかに似ざり鳧《けり》。」と見ゆ。紀州に行はるゝ此話の作替へには、夫、彼所に勒具(くつわぐ)したる馬を畫き、還り視れば、勒(くつわ)無(な)し。妻を責めしに答へて、「豆食ふ馬は、勒を脫するを知らずや。」と云へり、と。(「松屋筆記」卷九四、「室町殿日記」十九「德永法印咄のこと」の條に、『女陰《ぢよいん》を「豆」と云ふ。西行の歌に見ゆ。「豆泥棒」抔も云ふめり。「宇治拾遺」に陰莖を「まめやか物」と云へり。可考《かんがふべし》。』。)

[やぶちゃん注:「無住法師」(嘉禄二(一二二七)年~正和元(一三一二)年)は鎌倉時代後期の僧。当該ウィキによれば、『字は道暁、号は一円。宇都宮頼綱の妻の甥。臨済宗の僧侶と解されることが多いが、当時より「八宗兼学」として知られ、真言宗や律宗の僧侶と位置づける説もある他、天台宗・浄土宗・法相宗にも深く通じていた』。『梶原氏の出身と伝えられ』、十八『歳で常陸国法音寺で出家。以後』、『関東や大和国の諸寺で諸宗を学び、また』、臨済僧『円爾』(えんに)『に禅を学んだ。上野国の長楽寺を開き、武蔵国の慈光寺の梵鐘をつくり』、弘長二(一二六二)年に『尾張国長母寺(ちょうぼじ)を開創してそこに住し』、八十歳で『隠居している』。「和歌即陀羅尼論」の提唱者で、『「話芸の祖」ともされる』。『伝承によっては』、『長母寺ではなく、晩年、たびたび通っていた伊勢国蓮花寺で亡くなったともされる』。『様々な宗派を学びながらも、どの宗派にも属さなかった理由については、自分の宗派だけが正しいとか』、『貴いものと考えるのは間違いで、庶民は諸神諸仏を信仰していて、棲み分けており、場合や状況によって祀るものが異なり、そうした平和的共存を壊すのは間違った仏教の行き方だと考えていたためとされ、諸宗は平等に釈迦につながるため、どれも間違ってはいないという立場であったとする』。『また、説法の対象は読み書きのできない層だった』という。著書は、この知られた説話集「沙石集」(しゃせきしゅう)の他、「妻鏡」・「雑談集」(ぞうだんしゅう)などで「沙石集」は五十四歳の『時に執筆』にとりかかり、『数年かけて』五『巻を完成させたが、死ぬまで手を加え続けた結果、全』十『巻となり、書いている過程で、他の僧侶に貸したものもあり、どの段階の本が無住の考えた最終的な本かを判断するのは難しいとされる』。本書は私の愛読書でもあり、『無住は鎌倉の生まれで、梶原氏の子孫と考えてよい』とする判断に私は賛同している。

『「沙石集」七卷六章に、遠江池田の庄官の妻、……』「池田」は遠江国にあった古代末期から中世の宿駅で、現在の静岡県旧豊田(とよだ)町、今は磐田市池田(グーグル・マップ・データ)に比定されている。この二つの話は、「無嫉妬事」の条であるが、この話は複数の類話を重ねた、やや長いものの中の二つを抜粋・抄録(不全)したものである。以下に所持する筑土鈴寛校訂の一九四三年岩波文庫刊の「沙石集 下卷」他を参考底本に全文を示す。段落を成形し、読点や記号及び送り仮名を追加した。踊り字「〱」「〲」は正字化した。話柄の変わる部分に「*」を入れて読み易くした。

   ※

      六 嫉妬の心無き人の事

 或殿上人、田舍下りの次(つい)でに、遊女を相具して上洛せられけるが、使をさきだてて、

「人を具して上り候なり。むつかしくこそ思し食さんずらめ。出させ給へ。」

と、女房の許へ情なく申されけり。

 女房、すこしも恨みたる氣色なくして、

「殿の、人を具して上せ給ふなるに、御まうけせよ。」

とて、こまごまと下知して、見苦き物ばかりとりしたためて、よろづあるべかしく用意して、我身ばかり、いで給ひぬ。

 遊女、この事を見聞きて、おほきに恐れ驚きて、殿に申しけるは、

「御前の御ふるまひ、ありがたき御心ばえにておはしますよし、承りて、且つ、事の樣、モ見まゐらせ候ふに、いかがかかる御栖居(おすまゐ)の所には候ふべき。身の冥伽も、よも候はじ。ただ、御前をよびまゐらせて、本のごとくにて、此身は別の所に候ふて、時々めされんは、しかるべく侍りなむ。さらでは、一日も、爭(いかで)か、かくて侍べき。」

と、おびただしく誓狀しければ、殿も理りに折れて、北の方の情もわりなく覺えて、使者をやりて、北方をよびたてまつる。すべて、返事もなかりけれども、たびたび、とかく申されければ、歸り給ひぬ。

 遊女も心あるものにて、互に遊びたはぶれて、へだてなき事にてぞありける。

 ためしなき少なき心ばえにこそ。

   *

 遠江の國にも、或人の女房、さられて、すでに馬に乘りて出でけるを、

「人の妻のさらるる時は、家中の物、心にまかせて、とる習ひにて侍れば、何物もとり給へ。」

と、夫、申しける時、

「殿ほどの大事の人を、うちすててゆく身の、何物か、ほしかるべき。」

とて、うち咲うて、にくいげもなくいひける氣色、まめやかに、いとほしく覺へて、やがて、とどめて、死のわかれになりにけり[やぶちゃん注:「偕老同穴」の意。]。人に、にくまるるも、思はるるも、先世の事といひながら、只、心がらによるべし。

   *

 常陸の國、或所の地頭、京の名人、歌道、人にしられたる女房を、かたらひて、年ひさしく、あひすみけるが、鎌倉へ、おくりて後、年月へて、さすが、昔のなごりのありけるにや、衣・小袖など、色々に調へて、送りたりたりける返事、別の事はなくて、

  つらかりしなみだに袖は朽ちはてぬこのうれしさをなににつつまん

是を見て、さめざめとうち泣きて、

「あら、いとほし。その御前、とくとく、むかへよ。」

とて、よび下して、死のわかれになりにけり。更に近くは、まゝ、あるべし。

   *

同國に或人の女房、鎌倉の官女にてありけり。歌の道も心得て、やさしき女房なりけり。心ざしやうすかりけん、

『事の次でをもとめて、鎌倉へ送らばや。』

と思ひて、

「この前栽の鞠(まり)のかかりの四本の木を、一首によみ給へ。ならずば、おくりたてまつるべし。」

と、男にいはれて、

  櫻さくほどはのきばの梅の花もみぢまつこそひさしかりけれ

これを感じて、おくる事、思ひ留まりにけり。人の心は、やさしく、いろ、あるべし。

 當時、ある人なり。

   *

 或る人、妻を送りけるが、雨のふりければ、色代(しきだい)に[やぶちゃん注:挨拶の代わりに。]、

「けふは、雨ふれば、留まり給へ。」

と云ふを、既に出でたちて、出でつつ、かくこそ詠じける。

  ふらばふれふらずはふらずふらずとてぬれでゆくべき袖ならばこそ

餘りに、あはれに、いとほしく覺えて、やがて留めて、死のわかれになりにけり。

 「和歌の德は、人の心をやはらぐる。」と云へり。誠なるかな。「西施が江(え)を愛し、嫫母(ぼも)は鏡を嫌ふ。」[やぶちゃん注:「嫫母」は黄帝の妃の一人で、才徳を備えた賢い婦人だったが、顔は醜かったとされる。一方で石板鏡の発明者とされる。]と云ひて、わが形、よかりし西施は、江に影のうつるを見て、是を愛しき。我貌(かたち)、みにくかりし嫫母は、鏡にうつるかげ、見にくきまゝに、鏡をきらひき。是、江のよきにあらず、わが形のよきなり。鏡のわろきにあらず、わが顔の見にくきなり。然れば、人のよきは、我が心のよきなり。あたみ[やぶちゃん注:憎み、敵視し。]、恨めしきは、我が身のとがなり。縱ひ、今生にことなるとがなきに、人のにくみあたむも、先世の我がとがなり。おのづから人に愛せらるるも、先世の我がなさけなるべし。されば、人を恨むる事なくして、我が身の過去、今生の業因緣、心からと思ひて、いかり恨べからず。世間の習ひ、多くは、嫉妬の心ふかくして、いかり、はらたち、推し疑ひて、人をいましめ、うしなひ、色を損じ、目をいからかし、語をはげしくす。かかるにつけては、彌(いよいよ)うとましく覺えて、鬼神の心地こそすれ。爭(いかで)か、いとほおしく、なつかしからむ。或は龍(りやう)となり、或は蛇となる。返々も、よしなくこそ。されば、かの昔の人の心ある跡をまなばば、現生は敬愛(きやうあい)の德を施し、當來には毒蛇の苦をまぬかるべし。

   *

 ある人、本(もと)の婦(め)をも、家におきながら、又、婦を迎へて相住みけり。今の妻と一所に居て、かき一重へだてて、本の妻ありけるに、秋の夜、鹿の鳴く聲、聞えければ、夫、

「聞き給ふか。」

と、本の妻に云ひければ、返事に、

  我も鹿なきてぞ人に戀られし今こそよそに聲ばかりきけ

と云ければ、わりなく覺えて、今の妻を送りて、又、還りあひにけり。

 嫉妬の心ふかくして、情なくば、かくはあらじかし。ただ、嫉(そね)み妬(ねた)まず、あたをむすばずして、まめやかに色ふかくば、おのづからしも、あるべきにや。

   *

 信濃國に、或人の妻のもとに。まめ夫(をとこ)のかよふ由、夫、聞きて、天井の上にて伺ひけるに、例のまめ夫、來たりて、物語し、たはふれけるを、天井にてみるほどに、あやまちて、落ちぬ。

 腰打損じ、絶入しければ、まおとこ、是を、かへて看病し、兎角あつかひ、たすけてけり。心ざま、たがひに、おだしかり[やぶちゃん注:「穩しかり」。]ければ、ゆるしてけり。

   *

 洛陽にも天文博士(はかせ)が妻を、朝日の阿闍梨と云ふ僧、かよひて、すみけり。

 ある時、夫、他行の隙と思ひて、うちとけて居たる所に。夫、にはかに、來たる。逃ぐるべき方無くして、西の方の遣戶をあけて、にげくるをみつけて、かくぞ云ひける。

  あやしくも西に朝日の出るかな

阿闍梨、とりもあへず。

  天文博士いかが見るらん

さて、よびとどめて、さかもり・連歌などしてゆるしてける。

   *

 ある人の妻、まをとこと、ねたりける時、夫、俄に、ねやのうちへ、いらんとす。

『いかにしてか、にがさん。』

と思ひて、「衣の蚤(のみ)とる。」由にて、にがさんとて、まをとこの、はだかなるを、むしろに、かいまいて、

「衣の、のみ、とらしむ。」

とて、すびつを、とび越えけるほどに、すべらかして、すびつに。

「とう」

ど、おとしつ。

 男、是を見て、目、見のべ、口、おほひして、のどかなる氣色にて、

「あら、いしののみの、大きさや。」

と云ひて、なにともせざりければ。勢は大なれども。小(こ)のみの如くも、とばずして、はだかにて、はひにげにけり。

 あまりに、肝すぎてしてけるにこそ。夫の心、おだしかりけり。

   *[やぶちゃん注:以下が熊楠の引いた第一話。]

 遠江國、池田の邊(ほとり)に、庄官、ありけり。かの妻。きはめたる嫉妬心の者にて、男をとりつめて。あからさまにもさし出さず。

 所の地頭代、鎌倉より上りて、池田の宿にて、あそびけるに、見參のため、宿へゆかんとするを、例の、ゆるさず。

 地頭代、知音なりければ、

「いかが見参せざらん。ゆるせ。」

といふに、

「さらば、しるしを、つけん。」

とて、かくれたる所にすり粉をぬりてけり。

 さて、宿へゆきぬ。地頭みな子細しりて。いみしく女房にゆるされておはしたり。

「遊女よびて、あそび給へ。」

と云ふに。

「人にもにぬ物にて、むつかしく候。しかも符(しるし)をつけられて候。」

というて、

「しかじか。」

と、かたりければ。

「冠者原にみせて、本の如く、ぬるべし。」

とて、遊びて後、もとの樣に、たがへず、摺粉(すりこ)をぬりて、家へ歸りぬ。

 妻

「いで、いで、見ん。」

とて、すりこを、こそげて、なめてみて、

「さればこそ、してけり。我がすりこには、鹽をくはへたるに、是は、しほが、なき。」

とて、ひきふせて、しばりけり。

 心深さ、あまりに、うとましく覺えて、頓(やが)て、うちすてて、鎌倉へ下りけり。

 近き事なり。

   *[やぶちゃん注:以下が第二話。]

 舊き物語に、ある男、他行の時、まをとこもてる妻を、

「しるし、つけん。」

とて、かくれたる所に、牛を、かきてけり。

 さるほどに、まめ男の來たるに、

「かかる事、なん、あり。」

と語りければ、

「われも、繪はかけば、かくべし。」

とて、さらば、能々、みて、もとのごとくもかかで、實の男は、「ふせる牛」をかけるに、まをとこは、「たてる牛」を、かきてけり。

 さて、夫、歸りて見て、

「さればこそ。まをとこの所爲にこそ。我がかける牛は『ふせる牛』なるに、是は『たてる牛』なり。」

と、しかりければ、

「あはれ、やみ給へ。『ふせる牛』は、一生、ふせるか。」

と云ひければ、

「さも、あるらん。」

とて、ゆるしつ。

 男の心は、あさく、おほやうなるならひにや。おこがましきかたもあれども。情量のあさきかたは、つみも、あさくや。

 池田の女人には、事のほかに似ざりけり。

   *

 ある山の中に、山臥と、巫女(みこ)と、ゆきあひて、物語しけるが。人もなき山中にて、凡夫の習ひなれば、愛欲の心、起りて、このみこに、おちぬ。

 このみこ、山澤の水にて、垢離(こり)かきて、つづみ、

「とうとう」

と、うち、數珠(じゆず)をしすりて、

「熊野、白山、三十八所、猶も、かかるめにあはせ給へ。」

と祈りけり。

 山臥、又、垢離かきて、數珠をしすりて、

「魔界の所爲にや。かかる惡緣にあひて、不覺を仕りぬる。南無惡魔降伏、大聖不動明王。今は、さて、あれと、制せさせ給へ。」

と云ひて、二人、ゆきわかれにけり。

 是も男子は愛執のうすきならひなるべし。

   ※

『「松屋筆記」卷九四』国学者小山田与清(ともきよ 天明三(一七八三)年~弘化四(一八四七)年)著になる膨大な考証随筆。文化の末年(一八一八年)頃から弘化二(一八四五)年頃までの約三十年間に、和漢古今の書から問題となる章節を抜き書きし、考証評論を加えたもの。元は百二十巻あったが、現在、知られているものは八十四巻。松屋は号。当該箇所は、国立国会図書館デジタルコレクションの活字本画像ではここの「(六十七)女陰を豆といふ事」にある。

「室町殿日記」室町幕府将軍足利義晴・義輝・義昭、及び、織豊期の軍事・政事のほか、世相などの説話的な事柄を記した二百四十余章から成る軍記物。編者は楢村長教。当該ウィキによれば、『序によれば、前田玄以の要望により、京都検断職猶村市右衛門尉長高、脇屋惣左衛門尉貞親の日記、幕府料所沙汰人三好日向守義興の日記、将軍の祐筆鳥飼如雪斎の書簡・日記をもとに』、『編者により文禄年間』(一五九二年~一五九六年)『の風説を加え』て『編まれた』『前田玄以』『の指示であること、また足利義昭の臨終』(慶長二(一五九七)年『の記事があることから、慶長年間』(一五九六年~一六一五年)『頃の成立とされる』とある。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の写本を見たが、当該巻中には発見出来なかった。

「德永法印」徳永寿昌(ながまさ 天文一八(一五四九)年~慶長一七(一六一二)年か。彼は戦国時代から江戸前期にかけての武将で大名。美濃高須藩初代藩主。彼は別名を「式部卿法印」と称した。

『女陰を「豆」と云ふ』陰核(クリトリス)のメタファー。

「西行の歌に見ゆ」当該歌不詳。

「豆泥棒」不正確。「夜這い」の隠語である。

『「宇治拾遺」に陰莖を「まめやか物」と云へり』「宇治拾遺物語」巻一の「中納言師時、法師の玉莖(たまくき)檢知(けんち)の事」を指す。下ネタお笑い古文としてはかなり有名な一篇。サイト「日本古典文学摘集」のこちらで原文(但し、新字)が電子化されており、別ページに現代語訳もある。但し、これは陰茎の隠語とは言い難い。本文を見れば判る通り、隠語としては「松茸」ではっきりと判るように出してあり、最後に出る「まめやか物」とは、隠語とは言えず、「まめやか(なる)物」(本物である対象物)の意であるに過ぎない。]

 英國の「エー・コリングウッド・リー」氏、予の爲に此の種の諸話を調べられ、伊、佛、獨、英等に在れど、無住より三百年後、十六世紀より古き者、なし。例《たとへ》ば、十六世紀に刊行せる書に、畫工、旅するとて、若き艶妻の腹に、羊を畫き、己《おのれ》が歸り來る迄、消さぬ樣、注意せよ、と命じ、出行《いでゆき》し跡に、好色未娶《みしゆ》の若き商人、來《きたり》て、彼《かの》妻を姦し畢《をはり》て、前に無角の羊なりしが消え失せたる故、角有る羊を畫きしてふ譚、見ゆ。委細は、予の‘Man who painted the Lamb upon his Wife's Body, Vragen en Mededeelingen, Arnhem, I ser., i, 261-262, 1910. 又『東京人類學會雜誌』三〇〇號二一八―九頁に出《いだ》せり。

[やぶちゃん注:「‘Man who painted the Lamb upon his Wife's Body, Vragen en Mededeelingen, Arnhem,」これは、既に「南方熊楠 西曆九世紀の支那書に載せたるシンダレラ物語 (異れる民族間に存する類似古話の比較硏究) 3」に出るが、不詳。欧文名を検索すると、一番上に私の以上のページが出てしまう。標題は「妻の身体に子羊を描いた男」。“Arnhem”は出版地で「アーネム」「アルンヘム」で、オランダのヘルダーラント州の州都。“Vragen en Mededeelingen”はオランダ語で「質問と回答」であるから、オランダ版の‘Notes and Queries’とは思われる。

「エー・コリングウッド・リー」前のリンク先にも出ており、私は「南方熊楠 本邦に於ける動物崇拜(20:蟾蜍)」に「A. C. Lee, The Decameron its Sources and Analogues, 1909, p.139」(「デカメロンの原拠と類譚」か)と出た著者のアルフレッド・コーリングウッド・リー(Alfred Collingwood Lee)であろう(詳細事績未詳)、と注した。

「『東京人類學會雜誌』三〇〇號二一八―九頁」前掲「南方熊楠 西曆九世紀の支那書に載せたるシンダレラ物語」初出のこと。「J-STGE」のPDF版原本画像の45コマ目。]

 「沙石集」の話、佛經より出でたるならんと、精査すれども、今に見出でず。漸く近日、支那にも此類話有ると知れり。乃《すなは》ち「笑林廣記」卷一に云、(掘荷花)一師出外就舘、慮其妻與人私通、乃以妻之牝戶上、𤲿荷花一朵、以爲記號、年終解舘歸、驗之已落、無復有痕跡矣、因大怒、欲責治之、妻曰、汝自差了、是物可𤲿、爲何獨揀了荷花、豈不曉得荷花下靣有的是藕、那須來往的人、不管好歹、那個也來掘掘、這個也來掘掘、都被他們掘乾淨了、與我何干〔「荷(はす)の花を掘る」 一(ひとり)の師、外に出でて、舘(じゆく)に就(つと)めんとし、その妻、人と私通するを慮(おもんぱか)り、乃(すなは)ち、妻の牝戶(ほと)の上に荷の花一朶(いちだ)を號(しる)し、以つて、記號と爲(な)す。年、終はりて、舘を解かれ、歸りて、之れを驗(あらた)むるに、落ちて、復(ま)た、痕跡も無し。因りて大いに怒り、之れを責め治(こらし)めんと欲す。妻曰はく、「汝、自(みづか)ら差(たが)へ了(をはん)ぬ。是(いか)なる物にても畫(ゑが)くべきに、何-爲(なんす)れぞ、獨(ひと)り、荷の花を揀(えら)べるや。豈に曉(し)るを得ざらんや、荷の花の下(しも)の靣(むかひ)に有るは、是れ、藕(れんこん)なるを。那(なん)ぞ須(すべか)らく、來往せる人、好歹(こうたい)[やぶちゃん注:好むことと、悪く思うこと。]に管(かかは)らず、那個(それかれ)や、來たりて掘り、這個(これこれ)や、來たりて掘る。都(すべ)て、他們(かれら)に掘り乾-淨(つく)されたり。我れと、何ぞ干(かかは)らんや。」と。〕。

[やぶちゃん注:「笑林廣記」(清の遊戯主人編著になる笑話集。「古艶」(官職科名等)・「腐流」・「術業」・「形體」・「殊稟」(しゅひん:癡呆善忘等)・「閨風」・「世諱」(幫間娼優等)・「僧道」・「貪吝」(どんりん)・「貧窶」(ひんろう)・「譏刺」(きし)・「謬誤」(びようご)の十二部で構成されている)は、かなり画像が傷んでいるが、「中國哲學書電子化計劃」の「新鐫笑林廣記」のこちらから載る影印本当該部で校合した(底本は冒頭標題からして「拙荷花」と致命的に誤っている)。但し、この影印本、活字の一部が明らかに後代に補正されてあるので、推定で正字に直した箇所があるので、「選集」(近代漢文であるため、読みの一部は「選集」のそれにかなり頼った。これは以下の「追加」でも同じ)の訓読文の漢字表記も参考にした。]

追 加 (大正三年四月『民俗』第二年第二報)

 「笑林廣記」卷三に出づ。云く、(換班)一皂隸妻性多淫、夫晝夜防範、一日該班、將妻陰戶左傍畫一皂看守、並爲記認、妻復與人幹事、擦去前皂、姦夫倉卒仍畫一皂形于右邊而去、及夫落班歸家、驗之已非原筆、因怒曰、我前記在左邊的、緣何移在右邊了、妻曰虧你、做衙門多年、難道不要輪流換班的麼。〔「換班(くわんはん)」 一(ある)皂-隸(さいれい/こもの)[やぶちゃん注:身分の低い使用人。]の妻、性、多淫なり。夫は晝夜、防-範(みはり)をせり。一日(あるひ)、該(か)の班(をとこ)、將に妻の戶(ほと)の左の傍(わき)に一(ひとり)の皂隸を畫(ゑが)きて、看-守(みはら)せ、並(あは)せて記-認(しるし)とす。妻、復た、人と事を幹(おこな)ひ、前(さ)きの皂(こもの)を擦(す)り去る。姦夫(まをとこ)は倉-卒(あはただ)しくせば、仍(よ)りて一(ひとり)の皂の形を、右の邊(ほと)りに畫きて去る。夫、落-班(ことをは)りて、家へ歸るに及び、之れを驗(あらた)むるに、已(すで)に原(もと)の筆に非ず。因りて怒りて曰はく、「我、前(さき)に記せしは左の邊りに在り。何に緣(よ)りてか移りて右の邊りに在るや。」と。妻は虧你(いに/からか)ひて曰はく、「汝(なんぢ)、衙門(がもん/やくしよ)に做(つと)むること多年なるに、難-道(よも)や、輪-流(いれかは)り、換班(かんはん/こうたい)するを、要せずとせんや。」と。〕。

[やぶちゃん注:『「笑林廣記」卷三』のそれは、同じく「中國哲學書電子化計劃」のこちらから載る影印本当該部で校合した。前と合わせて訓読に自信がない。識者の御教授を乞うものである。

 以下の〔 〕は底本のものである。「增」は「增補」の意。]

〔(增)(大正十五年九月二十四日記) 和歌山市に古く行なわれし笑話に、行商する者、出立に臨み、彼《かの》所の右の方に鶯を描き置き、歸つて見れば、左に描けり。妻を詰《なじ》ると、「鶯は。『谷渡り』せり。」と答へし。次に他行の時、「玄米」と書《かき》て出で、歸つて見れば「白米」と書きあり。又、詰るに、「米屋に搗《つい》て貰つた。」と答へしと。蓋し、其妻は、米屋の番頭を情夫に持ちたるなり。(吉備慶三郞氏報)〕

[やぶちゃん注:この最後の和歌山の猥談は前の如何なる古話よりも出色の出来である!

2022/11/21

亭馬琴「兎園小説拾遺」 第二 「文政十三年庚寅秋七月二日京都地震之事」

 

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。昨年二〇二一年八月六日に「兎園小説」の電子化注を始めたが、遂にその最後の一冊に突入した。私としては、今年中にこの「兎園小説」電子化注プロジェクトを終らせたいと考えている。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちら(左ページ下段後ろから三行目以降)から載る正字正仮名版を用いる。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。

 馬琴の語る本文部分の句読点は自由に変更・追加し、記号も挿入し、一部に《 》で推定で歴史的仮名遣の読みを附した。今回は短いので、そのままとした。

 なお、これは京都地震の様子を語った書簡が主文であるが、以下、それの関連記事が、六つ、続く。]

 

   ○文政十三年庚寅秋七月二日京都地震之事

一、七月二日申の上刻、大地震ゆるぎ出し、尤《もつとも》、所々の地、さけ、京中の土藏、一ケ所も無難のもの無ㇾ之、大造《たいさう》に倒れ、又は不ㇾ殘、土、落《おち》候て、壁、したじ計《ばかり》に成候も有ㇾ之。處々、怪我人も多く、別《べつし》て上京西山邊、嵯峨・桂川つゞき、伏見邊、荒れ、强く、前代未聞の事にて、「何時《いつ》死命相成候哉《や》。」と、京中の人々、大道中へ、皆々、疊等、其外、丈夫成《なる》物を拵へ、子供・老人・病人・女共、野宿同樣にて、二日より四日朝迄、更に人心地付不ㇾ申、不快の由、處々騷敷《さはがしき》に付、大工等、呼《よび》に遣し候ても、御所方人足《ごしよがたにんそく》にとられ、つぶれのつくろひも出來不ㇾ申。其中に、火事をあんじ、大心配に御座候。上《うへの》禁裡御所・仙洞御所、御庭廣き處え、御立退《おたちのき》、御所司代、町御奉行、御附方《おつきかた》、其外、近國の大・小名、不ㇾ殘御所え、御詰《おんつめ》、大變、いふばかりなく、一時に、大ゆり、五、六度づゝ、ゆり返しもあり、諸人、面色、靑ざめ、食事もすゝみ不ㇾ申、誠に生《いき》たる心地、無ㇾ之と申《まをす》事に御座候。

  寅七月      手利組合飛脚所

               島屋佐右衞門

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が一字下げ。]

此一左右《このいちさう》[やぶちゃん注:「左右」は書簡の意。]を得て、尙、亦、島屋、三度、飛脚、當時、京都に逗留せし者に聞しに、其者の言《いはく》、所によりて、地の裂《さけ》たるも有ㇾ之。最初は卽死人、六百許《ばかり》、怪我人二千餘と風聞御座候へ共、實は其半分位の事のよし。

禁裡御所は煩《わづらはし》き候處も有ㇾ之、御築地《おんついぢ》等は、たふれざるよし。寺院・門跡をはじめ、倒れ候處は無ㇾ之、況《いはんや》、山などの崩れ候事は、決して無ㇾ之候。此節、ちまたを賣《うり》あるき候者は、多く相違の事に御座候。七月二日申の刻より、翌三日辰の刻迄、ゆりかへし、ありし、といふ【實は、酉の刻以來は、振動なり。】。

右、京師の大震は、豐太闇の時、伏見大地震の外、實に前代未聞也。

七月朔日、京四條鉄屋町、失火、半町四方、延燒、家數六十棟許《ばかり》類燒せり。其翌日、此土、地震あり。是、實說也。

[やぶちゃん注:以上は文政十三年七月二日(一八三〇年八月十九日)に発生した京都地震の記録。当該ウィキによれば、「京都大地震」「文政京都地震」とも『呼ばれる直下型地震で、京都市街を中心に大きな被害を出した』。震央は『京都府亀岡市付近と推定』され、『地震規模は』マグニチュード六・五前後とされる。『京都市街地を襲』った『内陸型の地震で』、『二条城や御所では石垣や塀が崩れ、町人街では土蔵に被害が集中した』。『被害は京都市内だけでなく、伏見、宇治、淀でも生じ』、研究者は、『天明大火以降』、『急速に普及した倒壊しやすい桟瓦葺屋根(波形の瓦葺き屋根)が被害を拡大したと分析している』。「甲子夜話」の『記述では、市中の二階建ての建物は』、『ことごとく倒壊し、土蔵や塀なども大きな被害を出したと伝えている』『が、御所や公家屋敷地区では壊滅的な被害ではなかった』。「文政雑記」の『記述によると、町方の人的な被害は怪我人』千三百『人、即死』二百八十『人であるが、御所内や武士の犠牲者数は不明である』。『著名な建築物や寺院も例外ではなく、二条城、興正寺、北野天満宮など多数の建築物が被災している』。『扇状地内の旧池沼地に造営された二条城は地盤が軟弱で』、『局所的に被害が集中し、石垣の崩壊、櫓・門・土塀の倒壊が記録されているが』、『二ノ丸御殿』等は『部分的な損壊であったとされている』とある。

「申の上刻」午後三時頃から午後三時四十分頃。

「手利組合飛脚所」飛脚業の「優れた」の意を冠した通称の固有名詞か。

「島屋佐右衞門」「島屋」「嶋屋」で江戸の定飛脚問屋の支配人で、元禄四年五月に江戸で飛脚会所を開いて、飛脚組合を始めたのが始まり。

「辰の刻」午前七時頃から午前九時頃まで。

「酉の刻以來は」地震発生の日の午後五時頃から午後七時頃まで。

「振動なり」軽い微振動。軽い余震。

「伏見大地震」「慶長伏見地震」。文禄五年閏七月十三日(一五九六年九月五日)子の刻(午前零時前後)に山城国伏見附近(現在の京都府京都市伏見区相当地域)で発生した大地震。推定マグニチュードは七・五前後で、畿内の広範囲で震度六相当の揺れであったと考えらえれている。京都では、伏見城天守・東寺・天龍寺・方広寺大仏等が倒壊し、死者は千人を超えたとされる。詳しくは参照した当該ウィキを見られたい。

「七月朔日」一八三〇年八月十八日。

「半町四方」五十四・五メートル四方。]

大和怪異記 卷之四 目録・第一 女の生㚑蛇となつて男をなやます事

 

[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の本文部分はここから。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。なお、底本のルビは歴史的仮名遣の誤りが激しく、ママ注記を入れると、連続してワサワサになるため、歴史的仮名遣を誤ったものの一部では、( )で入れずに、私が正しい歴史的仮名遣で《 》で入れた部分も含まれてくることをお断りしておく。

 目録部は総ての読みをそのまま振った。歴史的仮名遣の誤りはママである。条番号の「十一」以降のそれは底本では半角である。]

 

やまと怪異記四

一 女(をんな)のいきれう蛇(じや)となつて男(おとこ)をなやます事

二 下總国(しもふさのくに)鵠巢(かうのす)の事

三 甘木備後(ぴんご)鳳來寺(ほうらいじ)藥師(やくし)の利生(りしやう)を得(う)る事

四 継母(けいぼ)の怨㚑(をんれう)継子(けいし)をなやます事

五 古井(ふるい)に入(いり)て死(しす)る事

六 女(をんな)の尸(しかばね)蝶(てう)となる事

七 異形(いぎやう)の二子(ふたご)をうむ事

八 蛇塚(じやづか)の事

九 蜂(はち)蛛(くも)にあだをむくふ事

十 蜘蛛石(くもいし)の事

十一 はらみ女(をんな)死(し)して子(こ)を產育(さんいく)する事

十二 女(をんな)鬼(おに)となる事

十三 愛執(あいしう)によつて女(をんな)の首(くび)ぬくる事

十四 狐(きつね)をおどして一家(いつけ)貧人(ひんにん)となる事

 

 

やまと怪異記四

 第一 女の生㚑(いき《りやう》)蛇(へび)となつて男をなやます事

 阿波国の二宮氏(にのみやうぢ)といふもの、薩摩にくだるに、日向国にいたりて、行《ゆき》くれぬ。

 宿をかるに、

「所の法度(はつと)なり。」

とて、かさず。

 せむかたなくて、

「よしや、一夜(ひとよ)は㙒(の)にも、いぬべし。」

とて、出行《いでゆき》ければ、ある家より、よびかへし、

「所の法令(ほうれい[やぶちゃん注:ママ。])なれ共、あまりにいたはしければ、一夜(《いち》や)を、あかさせまいらせん。」

とて、請じいれ、人《ひと》して、いひけるは、

「あるじ出《いで》て見參(げんざん)に入申度《いれまをしたく》侍れども、病人にて候へば、ちから、なし。これへ入らせ給へ。逢(あひ)參らせて、都あたりの事など、きかまほしう侍る。」

といふに、心にまかせ、行《ゆき》てみるに、色(いろ)、靑ざめたる男、ふとん、たかくかさね、夜着(よぎ)、身にまとゐ、くるしげに、息、つぎ、

「今宵の御宿は、かつは、御ため、且は、身の爲を思ふにこそ侍れ。我やまひの程見せ參らせ、世にもかゝるたぐゐも有て、癒せし事もありや、承りたく侍る。」

とて、首すぢにまきたる絹をとれば、細き蛇、二すぢ、首をならべて、まとゐたる体(てい)、恐しなども、いふばかりなし。

 二宮氏、

「世に、かゝる病(やまひ)有事《あること》、聞(きゝ)も及び候はず。」

と答ふ。

 かの病人のそばに、二八に一つ二つあまれるかと見へし女二人、双六(すごろく)をうち居(ゐ)たり。

 病人がいはく、

「此蛇は、これなる女どもの、執心にて候。ひとり、いかれば、一筋、しめ、二人、腹たうれば、二すぢ、しむる。其時には、息もたえぬる心地す。こよひは、めづらかなる御《おん》やどし、幸《さひはひ》の緣に候。それなる鎗(やり)を。」

とて、取(とり)よせ、

「是は、人がましき申事゙《まをしごと》にて侍れ共、それがしが家(いへ)に、代々持(もち)つたへ、手柄をあらはせし道具に侍り。これを、かたみに奉りぬ。おぼし出《いで》らるゝ折節(をりふし)は、一扁(《いつ》へん)の御廻向(《ご》ゑかう)を、たのみ參らせ候。定めて明日(《みやう》にち)は立(たゝ)せ給はんにや。」

「左もあらば、やがてのぼり給ふときにこそ、逢參らせん。」

と、いとまごひして、わかる。

 それより薩摩にいたり、歸りに、彼《かの》所に立《たち》よりければ、家と覚《おぼ》しき所は、大きなる渕(ふち)なり。

 不審に思ひ、里人にとへば、

「されば、其御やどありし家は、それより、三日過(すぎ)て、地震、風、雨、はげしかりし夜(よ)、彼(かの)者が屋敷ばかり、殘る所なく、渕になり、家にありし男女、一人も生(いき)たるは、侍らず。」

とかたりける。「犬著聞」

[やぶちゃん注:「犬著聞集」原拠。これは、幸いにして、後代の再編集版である神谷養勇軒編の「新著聞集」に所収する。「第十 奇怪篇」にある「二蛇(にしや)頸(くひ)をまとひ人家(しんか)渕(ふち)に變(へん)ず」である。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の寛延二(一七四九)年刊の後刷版をリンクさせておく。十巻から十二巻の合巻となっているPDF一括版22コマ目から。

「阿波国の二宮氏(にのみやうぢ)」不詳。「新著聞集」には、薩摩への「使者」とあるから、時制設定が不明なので、阿波国の国司或いは守護或いは藩主の公的なそれである。

「所の法度(はつと)なり」日向国の宿駅以外の場所で他国者を宿泊させてはいけないという禁令であろう。これは、江戸時代にも普通にあった。知られたケースでは、「奥の細道」で芭蕉と曽良が仙台藩に入ってから、水を乞うてさえ、受け入れられなかった難渋が曽良の「随行日記」に記されているのが、有名。私の『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅25 あやめ草足にむすばん草鞋の緒』の私の注を参照。

「細き蛇、二すぢ、首をならべて、まとゐたる体(てい)、恐しなども、いふばかりなし」「新著聞集」では、

   *

細き蛇、二ツ、首をそろへて、まとひ、目を「ぼちぼち」せし。其いぶせさ、又、たぐひなし。

   *

で、遙かに映像的で優れている。

「二八に一つ二つあまれる」十七或いは十八歳。]

大和怪異記 卷之三 第十二 大蛇をころしたゝりにあふ事 / 卷之三~了

 

[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の本文部分はここから。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。なお、底本のルビは歴史的仮名遣の誤りが激しく、ママ注記を入れると、連続してワサワサになるため、歴史的仮名遣を誤ったものの一部では、( )で入れずに、私が正しい歴史的仮名遣で《 》で入れた部分も含まれてくることをお断りしておく。]

 

 第十二 大蛇をころしたゝりにあふ事

 伊與国宇間郡《うまのこほり》龍池(りやうのいけ)の庄屋龍池忠衞門といひしものゝ屋敷は、いにしへ、龍のすみし淵を、うづみて、家を作りしとかや。

 そこに、三、四尺四方に、水、少《すこし》、殘《のこり》て、常に、あり。

 寬永十五年七月十五日に、一在所(ひとざいしよ)の者共、

「嘉例なり。」

とて、忠衞門が庭にて、おどり[やぶちゃん注:ママ。]を催しけるに、いかなる事にか有けん、忠衞門夫婦、いさかひを仕出(しいだ)し、宵より、奧の座敷に入《いり》、八歲になる子を、いだきて、いねたりしに、かの子、

「わつ。」

と鳴出(なき《いだ》)しにおどろきをきて、みれば、何とはしらず、子が片うでを吞(のみ)しかば、咽(のど)とおぼしき所を、

「はた」

と、にぎりて、声を立(たて)しかど、おどり、最中なれば、しばしは聞えざりしが、とかくして聞付(きゝつけ)、踊子をはじめ、見物のものまで込入(こみ《いり》)、我も我もと、わきざしをぬきて、かのばけものを切(きれ)ば、見るうちに大《おほき》なる蛇(じや)となる。

 胴中(どう《なか》)は、臼(うす)程なりしを、人、あまたにて、とりすて、

「さもあれ、此蛇は、いづくより來りし。」

と、座敷の内を尋(たづね)見しに、蚯蚓(みゝず)の出入《いでいる》程の穴、座(ざ)のわきに有て、件(くだん)のたまり水の砂の上に、はひたる筋(すぢ)、ほそく見えし。

「これより出《いで》たる成《なる》べし。」

と諸人(しよにん)思へり。

 やがて、忠衞門、わづらひて死し、それより、兄弟・伯父・從弟にいたるまで、一族七十餘人、相《あひ》つゞきて死(しに)けるぞ、不思儀なれ。「犬著聞」

 

 

やまと述異記卷三終

[やぶちゃん注:原拠「犬著聞集」自体は所持せず、ネット上にもない。また、所持する同書の後代の再編集版である神谷養勇軒編の「新著聞集」にも採られていないようである。

「伊與国宇間郡龍池」「宇間郡」は「宇摩」で、現在の愛媛県の東部(グーグル・マップ・データ)で、四国のほぼ中央の地域名。当該ウィキによれば、『宇摩は、歴史的にも古くからあった名称で、古文書によると、和銅二(七〇九)年の『「河内国古市郡西林寺事」に「伊予国宇麻郡常里」とあるのが郡としての名の初見とされる。また』、「和名類聚抄」に『「宇摩郡」とあり』、五『郷が記されている。また』、「宇麻」とも『異記されている。このように古くは「宇麻」としていたようであるが』、「和名類聚抄」の『「宇摩」を今日まで継承している』とある。「龍池」は不詳。

「寬永十五年七月十五日」グレゴリオ暦一六三八年八月二十四日。

「奧の座敷に入」の「座敷」の「敷」の右手には「いた」という読みが振られているが、意味不明なので示さなかった。]

大和怪異記 卷之三 第十一 龍屋敷よりあがる事

 

[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の本文部分はここから。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。なお、底本のルビは歴史的仮名遣の誤りが激しく、ママ注記を入れると、連続してワサワサになるため、歴史的仮名遣を誤ったものの一部では、( )で入れずに、私が正しい歴史的仮名遣で《 》で入れた部分も含まれてくることをお断りしておく。]

 

     第十一 龍(りやう)屋敷よりあがる事

 寬永の比、豊前国小倉の侍、夏のいとあつきに、庭に水うたせ、緣に腰を懸(かけ)、すゞみ居(ゐ)ける。

 三間程むかふに、竹がきありしに、一尺ばかりの小蛇、

「するする」

とのぼり、中にも、少したかき竹のすえに[やぶちゃん注:ママ。]、『五、六寸もあがるよ。』と見れば、

「するり」

と落《おつ》。又、あがり、此たびは、蛇の尾、竹のすゑ、にはづるゝ程に、のぼりて、落《おち》、かくする事、四、五度に及ぶとき、東西、にはかに、くらくなり、風雨、しきりにして、かの蛇、終《つひ》に、竹のすえより[やぶちゃん注:ママ。]、一尺ばかり、

「ひらひら」

と、はなれ、のぼる、と、みえしより、黑雲、たちまち、おほひ、雨ふり、風はげしければ、みるべきやうもなくして、戸をたてて、内に、いる。

 しばらく有て、雨風やみしとき、近隣より、使《つかひ》をつかはして、

「足下(《そ》こ)の屋敷より、たゞいま、龍、あがりぬ。家内、別条なきや。」

と、とふ。

 其後、近所の者ども、申けるは、

「風雨しきりなるとき、足下の屋敷の上に、雲、おほひしかば、不思儀に思ひみる所に、一間余(よ)ほどの物、

『ひらひら』

とあがる、と、みへて、次第に大きになり、地より十間もあがれるときは、四、五間程なりしに、黑雲、くだりて、まきあげぬ。」

と、かたりぬ。

 『能(よく)あらはれ、よくかくる。』と、古人のいひけんやうに、いとちいさくなりてかくれ居《ゐ》、時をまちて、かたちをあらはし、天にのぼるとみへたり。「豊前國人物語」

[やぶちゃん注:典拠とする「豊前國人物語」は不詳。「近世民間異聞怪談集成」の解題で土屋氏も本書を『その書名を聞かないような未刊の写本』の一つに入れておられる。

「寬永」一六二四年から一六四四年まで。徳川家光の治世。

「三間」五メートル四十五センチ。

「一尺」約三十センチ。

「五、六寸」十五~十八センチ。

「一間余(よ)」一メートル八十一センチ超え。

「十間」十八メートル強。

「四、五間」約七・二七~九・一〇メートル。]

大和怪異記 卷之三 第十 出雲国松江村穴子の事

 

[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の本文部分はここから。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。なお、底本のルビは歴史的仮名遣の誤りが激しく、ママ注記を入れると、連続してワサワサになるため、歴史的仮名遣を誤ったものの一部では、( )で入れずに、私が正しい歴史的仮名遣で《 》で入れた部分も含まれてくることをお断りしておく。]

 

 第十 出雲国松江村穴子の事

 但馬土人(どじん)、かたりけるは、

「去(さる)子細ありて、一とせ、出雲にゆきけるに、松江といふ村に『穴子』と呼(よび)て、十歲ばかりなる童(わらんべ)あり。

『何故に、「穴子」といふ。』

と、所の者に問(とへ)ば、答《こたへ》ていはく、

『かの童が母、此子を懷姙しけるとき、卒(にはかの)病《やまひ》にて死しけるを、夫、かなしみにたへず、

「あまりに殘《なごり》おほければ、死骸を、二、三日もおきて、見るベし。』

と云。女房が父母、いかりて、

「死したる者を家内にひさしく置《おく》といふ事やある、いそぎ、葬るべし。』

とて、土葬したりしに、男、なをしも[やぶちゃん注:ママ。]なげきて、塚の上に、三日三夜、いねたりしかば、みる人、

『未練なる男かな。生死《しやうじ》は、さだまれる事なり。いかにかなしければとて、あまりなる事や。』

と、そしりあへり。

 かくて、三日夜半ばかりに、塚の内に、赤子のなく声、しきりなれば、おとこ[やぶちゃん注:ママ。]、

『さては。』

と思ひ、宿所にはしりかへり、鍬をもち來り、ほりかへし見けるに、女房、たちまちに蘇り、子も生れたり。男、悅びて、つれかへりしに、女房も、程なく日足(ひだし)、子も盛長して、すこやかなる男子なり。この故に「穴子」と名づけしとかや。』。「怪事考」

[やぶちゃん注:原拠とする「怪事考」は不詳。「近世民間異聞怪談集成」の解題で土屋氏も本書を『該当する資料名が不明なもの』の一つに入れておられる。

「日足(ひだし)」「脚足」などとも書き、「雲などの切れ目や物の間から差し込んでくる日光・陽射し」、或いは、「太陽が東から西へと移る動き・その速度・時間の経過」から、「その動きとともに移動していく光線」で、転じて、「昼間の時間」の意があるが、ここは「肥立ちし」で、「日が経つにつれて(元気に)成育し」の当て字であろう。]

大和怪異記 卷之三 第九 人の背より虱出る事

 

[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の本文部分はここから。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。なお、底本のルビは歴史的仮名遣の誤りが激しく、ママ注記を入れると、連続してワサワサになるため、歴史的仮名遣を誤ったものの一部では、( )で入れずに、私が正しい歴史的仮名遣で《 》で入れた部分も含まれてくることをお断りしておく。]

 

 第九 人の背(せ)より虱(しらみ)出《いづ》る事

 下總の者、かたりけるは、

「我國に、かはりたる病(やまひ)にて、死したる者、あり。『牧(まきの)』何がしといふ者の妻、三十あまりになりけるが、ある日、

『背の中ほど、ことの外に、かゆき。』

とて、婢女(げじよ)をよびて、かゝせけれども、こらえがたければ、夫がいはく、

『われ、かきてみむ。』

とて、つよく、かきて、皮、やぶれしに、やぶれたる所に、穴、あきて、虱、

『ばらばら』

と出《いで》たり。妻をどろきて、

『ふしぎの事なり。とてもの事に、剃刀(かみそり)にて、切《きり》さき、見給へ。』

と望む。夫、

『いかでか、さる事、有べき。』

とて、承引(《しよう》いん)せざれば、

『よしよし。聞《きき》いれ給はずは、我、うしろさまに、切やぶらん。』

と、いひて、剃刀を取出しける故、是非なく

『更(さら)ば、試(こゝろみ)に、やぶり、みん。』

とて、少し切けるに、下より、其切目《きりめ》を、はねやぶりて、虱、いか程といふばかりもなく、出たり。

 箒《はうき》にて、はらひ、あつむるに、およそ一升餘も有べし。

 かくて、虱、すきと、つきければ、女は、ねふれるがごとくに、死したり。

 いかなる病と知人《しるひと》なし。」。

[やぶちゃん注:原拠表記なし。

「虱」博物誌は私の「和漢三才圖會卷第五十二 蟲部 蝨」を見られたいが、このような状態でヒトに寄生することはあり得ないので、その点で怪異と言える。皮膚の角質層の内部に鋏脚でトンネルを掘って寄生するヒゼンダニによる疥癬が真っ先に想起され、その強烈な寄生(百万から二百万虫体)による重症型の過角化型疥癬(ノルウェー疥癬)もあるが、病態がそれらしくはない(背中の一ヶ所にのみ営巣している点)し、そもそもヒゼンダニは虫体が極めて小さく、肉眼では見えないから、こうしたシークエンスにはならず、箒で払って虫一升という表現はあり得ないだろう。私はこの話、先行する浅井了意の「伽婢子卷之十三 蝨瘤」の体のいい焼き直しに過ぎないと思う。そちらの注で、しかつめらしく真面目に、この虫の注を附してあるので見られたい。

「すきと」副詞で「残らず・完全に・すっかり」。

「つきければ」「盡きければ」。]

大和怪異記 卷之三 第八 殺生して我子にむくふ事

 

[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の本文部分はここ(単独画像)。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。なお、底本のルビは歴史的仮名遣の誤りが激しく、ママ注記を入れると、連続してワサワサになるため、歴史的仮名遣を誤ったものの一部では、( )で入れずに、私が正しい歴史的仮名遣で《 》で入れた部分も含まれてくることをお断りしておく。]

 

 第八 殺生して我子にむくふ事

 勢州日永《ひなが》村の六左衞門といふもの、狐をとらへしかど、

「明日(あす)は親の忌日(き《にち》)なり。たすけん。」

といふを、庄三郞といふ者、

「我に得させよ。」

とて、耳と口とを、打《うち》さきて殺せり。

 其後、妻女、產(さん)をせしに、女子の、耳、さけ、口、ゆがみたるを、うめり。

 寬文十二年の事なり。

 又、尾州あつた邊(へん)、山崎の者、鳫(がん)を、かごに入れ置《おき》しに、夫(おつと)他行(たぎやう)の跡にて、籠をぬけたるを、妻女、鳫をとらえ[やぶちゃん注:ママ。]、羽を、ことごとく、むしり、足をもぎ、ころせしに、此女、程なく產したりしとき、肩骨(かたほね)は有《あり》ながら、手のなき男子をうみしとなり。

[やぶちゃん注:原拠「同」は前々話・前話と同じで「犬著聞集」。「犬著聞集」自体は所持せず、ネット上にもない。また、所持する同書の後代の再編集版である神谷養勇軒編の「新著聞集」にも採られていないようである。

「勢州日永村」現在の三重県四日市市日永(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「寬文十二年」一六七二年。徳川家綱の治世。

「尾州あつた」「山崎」愛知県名古屋市熱田区附近であるが、「山崎」は不詳。

「鳫」「雁」に同じ。広義の「かり」=ガン(「雁」)は、広義のカモよりも大きく、ハクチョウ(カモ科Anserinae亜科Cygnus属の六種及びCoscoroba 属の一種の全七種。全長百四十~百六十五センチメートルで、翼開長は二百十八~二百四十三センチメートルあるだけでなく、飛翔する現生鳥類の中では最大級の重量を有する種群で、平均七・四~十四、最大で十五・五キログラムにも達する)より小さい種群の総称。より詳しくは、私の「和漢三才圖會第四十一 水禽類 鴈(かり・がん)〔ガン〕」を参照。]

2022/11/20

曲亭馬琴「兎園小説拾遺」 第一 「享保八癸卯年御蔭參抄錄」

 

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。昨年二〇二一年八月六日に「兎園小説」の電子化注を始めたが、遂にその最後の一冊に突入した。私としては、今年中にこの「兎園小説」電子化注プロジェクトを終らせたいと考えている。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちら(右ページ上段最終行から)から載る正字正仮名版を用いる。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。

 馬琴の語る本文部分の句読点は自由に変更・追加し、記号も挿入し、一部に《 》で推定で歴史的仮名遣の読みを附した。今回は短いので、そのままとした。

 前回の「松坂友人書中御陰參りの事」に続き、文政一三・天保元(一八三〇)年閏三月に発生した伊勢神宮への「お蔭参り」の正篇の続篇のキリとなる第五弾である。但し、内容は、以上の「お蔭参り」の比較対照附録としての先行する享保八(一七二三)年に発生した同じ爆発的集団参拝(当時は「お蔭参り」の言葉はなく、概ね「抜け参り」と呼ばれた)の参考資料の抄録である。

 なお、前回までに注したものは繰り返さないので、検索でこちらへ来られた方は、上記正篇第一話から順にブログ・カテゴリ「兎園小説」で読まれたい。

 

   ○享保八癸卯《みづのとう》年「御蔭參」抄錄

當三月初《はじめ》かたより、諸國、伊勢參《まゐり》、多く、京都も、下々《しもじも》、子供迄、ぬけ參仕候。大かた、「先年、寶永三年の參宮人《さんぐうびと》程も、可ㇾ有ㇾ之か。」と噂御座候。依ㇾ之、東石垣町の者共、申合《まをしあはせ》、男女《なんによ》廿人餘《あまり》、參宮仕《つかまつり》、下向《げかう》に、津に一宿仕候處、旅籠屋《はたごや》亭主と、石垣町の駕籠の者と、喧嘩仕、駕籠の者三人、薄手《うすで》負《おは》せ申候。津よりも、京都御町奉行へ申參、種々《しゆじゆ》御穿議之處、手負は、所にて養生被仰付候て、事、相濟候。旅龍屋は津の「桔梗屋」と申候由。是の者の所、御奉行、御《お》かばひ故、樣子、知れ不ㇾ申候。右は四月中旬之事也。右の喧嘩に打續《うちつづき》、祇園町之者、男女三十八人、此外、荷持《にもち》・駕籠之者共、大勢、召巡《めしつれ》參宮仕候。「のぼり千里安行參《せんりやすくゆきまゐる》」と書付、其次に三色染分《みいろそめわけ》の吹貫《ふきぬき》、太鼓・笛・鼓・三味線の類《たぐゐ》、爲ㇾ持《もちなし》、衣服、種々、異形《いぎやう》にて、宿々共《ども》、囃子立《はやしたて》、步行仕《ありきゆきつかまつり》候樣子、相知《あひし》れ、四月廿二日、御屋敷え[やぶちゃん注:ママ。]、被召寄、樣子、御聞被ㇾ遊。廿三日、又々、不ㇾ殘、銘々、口書《くちがき》御取可ㇾ被ㇾ成候由。參宮仕候男女・下々迄、御呼寄、御詮議之最中に、松屋理兵衞儀、年寄故、御屋敷へ相詰居《あひつめをり》候留守の内、忰《せがれ》佐兵衞、頓死仕候。「若《もし》は、自害にも可ㇾ有《あるべき》。」と御檢使被ㇾ遣候處、病死に極《きはま》り申候。のぼり・吹貫、銘々着仕候衣類、取寄御覽被ㇾ成候。扨、被仰渡候趣は、「旅の事故、伊達成《だてなる》物を着候儀は、尤《もつとも》に候得共《そうらえども》、總體《そうたい》の致方《いたしかた》、よろしからず。道中、傍若無人の樣子、不埒《ふらち》に候。依ㇾ之、すみ田屋才右衞門、翁屋伊左衞門、すみ田屋庄右衞門、弟・吉文字屋庄―郞、四條角屋五郞右衞門、うどんや・繩手の水茶屋、二人《ふたり》【二人は「かさや平七」、「平野屋」。】、国太夫、常太夫、合《あはせて》九人、御預け被ㇾ成候。祇園町、南北年寄、繩手新地、建仁寺町、宮川町、以上、拾町《じつつやう》の年寄共、遠慮被仰付候。石垣町、祇園町、南町共、濟候。いまだ得《とく》と樣子相知れ不ㇾ申候。以上【名付に、少々、相違《あいひたがひ》、有ㇾ之。過料の所に委《くは》し。】

一、五月廿六日、祇園町、參宮の出會料《しゆつくわいれう》上納にて、御赦免。

 鳥目十貫文【建仁寺北門前、上之町。】丸屋 五郞右衞門

 同 參貫文【同所。】        年 寄 勘  兵  衞

 同 五貫文【祇園町。】       吉文字屋 庄次郞

 同 五貫文              十文字屋次郞三郞

 同 六貫文              翁屋  伊左衞門

 同 三貫文              松代屋 理  兵  衞

 同 六貫文【同所。但、三文めづゝ。】年寄     理   兵   衞

                        同      五   兵   衞

 同 五貫文【祇園新地・淸水町。】  宮 こ 路國太夫

 同 三貫文【同所。】        年 寄 喜左衞門

 同 三貫文【同新地・富永町。】   同   吉  兵  衞

 鳥目五貫文【大賀路廿一新町。】   若狹屋 半右衞門

 同 五貫文              一文字屋   源 助

 同 三貫文【同所。】        年 寄 伊  兵  衞

 同 三貫文【建仁寺西門前上之町。】 大和井 常  太  夫

 同 三貫文【同所。】        年 寄 新  兵  衞

 同 三貫文【同北門前南町。】    同   治  兵  衞

 同 三貫文【大賀路常磐町。】    同   右  兵  衞

 同 三貫文【同辨才天町。】     同   十右衞門

 同 三貫文【四條河原。】      同   新  四  郞

 同 三貫文【宮川筋三町目。】    同   五郞右衞門

  合《あはせて》鳥目八拾二貫文

「すみ田や」才右衞門は、元より、御構《おかまひ》無ㇾ之、依ㇾ之、過料も出し不ㇾ申候。

 右、「月堂見聞集」卷之十五に出《いづ》。

按に、世人、只、寶永二年に「お蔭參り」の事を、のみ、知《しり》て、享保八年にも、又、かくの如くなりしを、いふもの、稀也。因《よつて》抄出、畢《をはんぬ》。

[やぶちゃん注:「寶永三年の參宮人」ウィキの「お蔭参り」によれば、宝永二(一七〇五)年の夏四月から五月にかけて、「抜け参り」の特異点があったことが記されてあり、発生地は京都で、参詣者は三百三十万から三百七十万人に及んだ(当時の日本総人口は元禄一三(一七〇〇)年で二千七百六十九万人であるから、当時の日本人の約七%相当)とし、以下の解説がある。『宝永のお蔭参りは、「お蔭参り」という呼称はまだ用いられていないものの、京都と大坂を中心に、畿内一円から四国、東は江戸まで及ぶものとなったことや、沿道で参宮者への施行が行われたこと、人々の社会観に新しい展開をもたらしたことから、本格的なお蔭参りの始まりであるとされる』。『本居宣長の』「玉勝間」の『記載によると』、四『月上旬から、京都の人々を中心に』一日に二、三千人が『松阪を通り』、四『月中旬には』一『日に』十『万人を超えた』。五『月に入ると』、『大坂にまで波及し、五『月中旬には最高値となる』一日二十三万人を『数えた』、『この間の平均値は』、一日七『万人程度であった』。『元禄期以降』、『盛んになっていた伊勢参りにおいては、その中心はあくまで成人男性であったが、この宝永のお蔭参りでは』、『女性や子供の割合が高くなっている』。『元禄期以降の経済成長によって、庶民経済が向上し』、『伊勢参り』が『盛んになる一方、格差が生じて』、『貧しい生活を強いられ、参宮が困難な階層も生じてきたが、女性や子供など、そのような日常において参宮の機会を得られない人々が、突発的に参詣に向かったことで生じたのが』、「お蔭参り」『であると考えられ』ている。『このため』、この『宝永の』「お蔭参り」では、『後のような享楽的現象は見受けられず、伊勢参りへの信仰心の強さが根底にある』とある。なお、ウィキによれば、その後で、この記事よりも五年前の享保三(一七一八)年にも、「抜け参り」の特異点があった(こちらは発生年だけで記事はない)。

「參宮の出會料」よく判らないが、「伊勢参り」の人々に施行するための寄付金を京都奉行所へ先に出していたということだろうか。

 なお、以下、京の旧町名など、知らぬものだらけだが、私には労多くして、益、全くない。やらない。悪しからず。

 それにしても、この全五篇の「お伊勢参り」の面影は、私には、現代の日本より、遙かに人心が暖かったのだなぁと強く感じたことを述べて終わりとする。

曲亭馬琴「兎園小説拾遺」 第二 「伊勢松坂人櫟亭琴魚【殿村精吉。】より來狀御蔭參りの事」

 

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。昨年二〇二一年八月六日に「兎園小説」の電子化注を始めたが、遂にその最後の一冊に突入した。私としては、今年中にこの「兎園小説」電子化注プロジェクトを終らせたいと考えている。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちら(右ページ上段)から載る正字正仮名版を用いる。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。

 馬琴の語る本文部分の句読点は自由に変更・追加し、記号も挿入し、一部に《 》で推定で歴史的仮名遣の読みを附した。今回は短いので、そのままとした。

 前回に続き、文政一三・天保元(一八三〇)年に発生した伊勢神宮への「お蔭参り」の正篇の続篇の第四弾(第一弾の筆者と私が推定する馬琴の親友で伊勢松阪の国学者殿村安守の、実弟にして戯作者であった殿村精吉(文化五(一八〇八)年に馬琴に入門。戯作名は櫟亭琴魚(れきていきんぎょ))の「お蔭参り」の様子を報知した書簡)である。以下、まだ、第五弾がある。

 なお、前回までに注したものは繰り返さないので、検索でこちらへ来られた方は、上記正篇第一話から順にブログ・カテゴリ「兎園小説」で読まれたい。

 

   ○伊勢松坂《まつざかの》人、櫟亭琴魚【殿村精吉。】より來狀、「御蔭參り」の事。

一、當春「御蔭參り」賑合《にぎあひ》の儀は、追々、御承知と奉推上候《おしあげたてまつりさふらふ》。未《いまだ》、五月、七月に至り、次第に、薄らぎ候處、七月盆前後より、又、そろそろ、群集いたし、此節にては、最初の十分二とも申《まをす》べき位《ぐらゐ》に御座候。是《この》「御陰」、九月にも至り候はば、又々、一盛《ひとさかり》いたし候半《さふらはん》か。此節は、駿・遠・參、幷に、信濃・美濃に及び申候。是亦、一奇事、神惠、難ㇾ量奉ㇾ存候。右、賑合候に付、小子《しやうし》共も申合せ、八郡より施行《せぎやう》等、取立《とりたて》、白粥《しろがゆ》を振舞申候に、每日、五俵、七俵に及申候。追々、俵增《ひやうまし》の樣子に候へば、猶、鬧《さはがし》かるべくと奉ㇾ存候。此節は、俄《にはか》に、朝夕、冷氣、病身者の小子抔は、綿入《わたいれ》ほしき位に御座候。され共、日中は單物《ひとえもの》にて、丁度、宜敷《よろしく》御座候。時候《じこう》、其地も、大樣《おほやう》に、おなじからんと奉ㇾ存候【下略。八月五日。】

[やぶちゃん注:今一度確認しておくと、時制は「文政十三庚寅年」(グレゴリオ暦一八三〇年だが、この文政十三年は十二月十日(一八三一年一月二十三日)に天保に改元している)である。

「此節」最後の割注のある八月五日。グレゴリオ暦九月二十一日。この年は閏三月があったため、通常よりズレが大きいので注意が必要。

「最初」これまでの三篇でも語られていた通り、この年の「お蔭参り」は、前兆は前年文政十二年にあったが、文政十三年三月に強い兆候が見られ、爆発的に発生したのが、閏三月(陰暦三月一日がグレゴリオ暦四月二十三日)終息は、この八月末(大の月で晦日三十日はグレゴリオ暦十月十六日)であった。

「小子」自分を遜って言った語。「小生」(しょうせい)。

「八郡」伊勢国は古く中古までは十三郡に別れ、その内、度会(わたらい)・多気(たけ)・飯野(いいの)の三郡は神郡(しんぐん)と呼ばれ、古くから伊勢神宮の支配下にあり、これを「神三郡」(じんさんぐん)と呼んだ。後に員弁(いなべ)・三重・安濃(あの)・朝明(あさけ)・飯高(いいだか)の五郡も神郡となり、合わせて「神八郡」(じんはちぐん)と総称された。その呼び方が残っているのである。

「其地」伊勢神宮の門前町である旧伊勢山田(グーグル・マップ・データ)。松阪からは十七キロメートル東南東に当たる。]

大和怪異記 卷之三 第七 紀州眞名古村に今も蛇身ある事

 

[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の本文部分はここと、ここ(単独画像)。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。なお、底本のルビは歴史的仮名遣の誤りが激しく、ママ注記を入れると、連続してワサワサになるため、歴史的仮名遣を誤ったものの一部では、( )で入れずに、私が正しい歴史的仮名遣で《 》で入れた部分も含まれてくることをお断りしておく。]

 

 第七 紀州眞名古(まなご)に今も蛇身(じやしん)ある事

 紀州日高郡眞名古村は、いにしへ、眞名古庄司(まなごのしやうじ)が住《すみ》し所なり。

 此村は、

「蛇(じや)の子孫なり。」

とて、隣鄕(りん《がう》)より、婚姻を、むすばざれば、伯父・姨(おば)・姊妹のわかちもなく、緣をむすび侍る。

 此村に、いにしへより、蛇身の女、一人づゝ、かならず、うまるゝ事、今にいたりて、たゆる事、なし。

 其女は、眉目(みめ)かたち、人にすぐれ、髮は、たけにあまり、地を、ひけり。

 五月、墜栗花(つゆ[やぶちゃん注:三字への読み。])に入《いる》ごとに、件(くだん)の女の髮、とりもちなどを塗(ぬり)たるやうに、もつれあひ、櫛(くし)も、いれがたし。

 梅雨侯(つゆのこう)、あけば、あたりの川にて、あらふに、さはやかに、

「はらはら」

と、とける、となり。

「此女は、在所にても、一生、つれあふ男、なし。」

と、いへり。同【○『紀州矢田庄《やたのしやう》、天音山《てんおんざん》道成寺は、文武帝、大寶年中、紀大臣道成《きいのおほおみみちなり》、奉行として草創なる故、「道成寺」と號す。』と、「紀州志」に見たり。世に云《いふ》怪說の事は、曽《かつ》て見えず。】

[やぶちゃん注:前話同様、「犬著聞集」原拠。調べてみたところ、底本と同じ「新日本古典籍総合データベース」のこちらで、当該原本の抜書と同一と思われる写本「犬著聞集 拔書 全」(高知県立高知城歴史博物館・山内文庫)があり、ここに「真砂村蛇身女叓」(まさごむらじやしんのこと)とあった。さらにこれは、幸いにして、後代の再編集版である神谷養勇軒編の「新著聞集」にも所収する。「第十 奇怪篇」にある「眞名古村(まなこむら)蛇孫(じやそん)髮(かみ)粘(ねば)る」である。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の寛延二(一七四九)年刊の後刷版をリンクさせておく。ここ、と、ここ(単独画像)。今までと同様、本書の作者がだいたい忠実に引用しているのであろう様子が窺える。

「紀州日高郡眞名古村は、いにしへ、眞名古庄司が住し所なり」筆者は敢えて何も言わないのであるが、これはもう、所謂「道成寺物」「安珍清姫」の物語として知られる場所と人物である。私はサイトに「――道 中―― Doujyou-ji Chronicl」という単独ページを作るほどには、「道成寺」フリークであり(私は若き日に教え子に招待されて金春流の「道成寺」を観賞し、激しい感動を受けたのが最初である。私は生涯で見た舞台では、真に感銘して文字通り、「息を止めて」見たのは、この時の「道成寺」と、アントニオ・ガデス舞踊団の「血の婚礼」、転形劇場の「水の駅」の三つだけである。道成寺を訪れた際には鬼となった彼女が本堂で踊り狂うという現場を見たほどであった(事実である。実は、たまたま、町内の秋に向けての観光キャンペーンのために能楽師のシテを呼んでポスター写真を撮っていたに過ぎなかったのだが、それを知らずに入ったら、鬼面の後シテが、御堂の柱に纏わってこちらを「きっ!」と見つめられた時には、正直、心臓がドキドキした))。同伝承の現存する最も古い記載は、十一世紀初頭平安中期の比叡山の僧鎮源(伝不詳)の記した上中下三巻から成る仏教説話集

「大日本國法華經驗記(げんき)」の下巻掉尾にある「第百廿九」の「紀伊國牟婁郡の惡しき女」

とされる。そこでは、女に名はなく、彼女が恋慕する僧にも名は、ない。二人の僧が熊野詣での途中、「牟婁郡(むろのこほり)」の「路の邊(ほとり)の宅(いへ)」に泊めて貰う。その家の「主(あるじ)」で独り身の女が若い方の僧に恋慕するという形をとっており、後半の道成寺に至るカタストロフと救済の枠組みは既にしてほぼ同じである。その後、この伝承が後に、

「今昔物語集 第卷十四」の「紀伊國道成寺僧寫法花救蛇語第三」(紀伊の國の道成寺の僧、法花を寫して蛇(じや)を救へる語(こと)第三)

となって人口に膾炙し始めるが(「今昔物語集」の成立は平安末期の一一二〇年代(元永三・保安元(一一二〇)年~大治四(一一二九)年)からあまり遠くない白河法皇・鳥羽法皇による院政期の頃に成立したものと考えられている)、そこでも、未だ、二人の男女に名は、ない。僧らの泊ったのは「牟婁の郡」の、やはり独り身の女の自宅であるが、従者が、二、三人いる相応の屋敷である。因みに、これ以前の設定では、この女、おぼこい娘という感じでは、実は私には全くしないのである。若くして父母の旧主人を失って、忠実な下人らに守られて、ここに住みなしているやや若い女(年増女とは思いたくはないが、それは完成されてしまった「道成寺」伝承に私が無意識的に惹かれているからに過ぎないのであって、虚心に読むなら、一屋の下男下女を持つ女主人は十代の娘よりも、二十代後半の方の印象の方が相応しいのではないだろうか?)であって、後の清姫のような、清純一筋、意地悪に言い換えると、現実を理解し得ないパラノイア的傾向を多分に持った娘には、とても読めないことも、言っておく。

鎌倉末期の元亨二(一三二二)年に、臨済僧で東福寺・南禅寺住持を務めた名僧虎関師錬によって書かれた本邦初の仏教通史

「元亨釋書」(げんこうしゃくしょ)の「卷第十九」の「願雜十之四 靈怪六 安珎」の「釋安珎」

に載った際、恐らく現存する道成寺伝説の中で初めて主人公が「鞍馬寺の」「釋安珎」と名指さられることとなる。泊るシークエンスは「今昔物語集」に相同(従者は「婢」)。而して、

道成寺所蔵の「道成寺縁起(絵巻)」(この絵巻自体は室町後期十六世紀に描かれたものである)

の私も面白く拝聴させて戴いた「安珍清姫の物語」の「絵解き」のそれでは(「道成寺」公式サイト内のこちらを参照されたい)。

時制が延長六(九二八)年の物語

として設定されており、

安珍奥州から熊野詣でに来た修行僧

とされ、

彼に恋慕する少女も真砂庄司の娘「淸姫」

となっている。則ち、この「元亨釋書」から「道成寺縁起」の絵巻の形成される間で、現在、我々が認識している伝説が、ほぼその基本的諸設定のデーティルが整えられたと考えてよい。そうして、満を持して登場するのが、

謡曲の先行して出る観世小次郎信光の作とされる「鐘卷」と、それを切り詰めて見事な乱拍子を中心に構成してインスパイアされた作者不明の名品「道成寺」

が生まれるということになる。そこでワキによって語られる謂われは、

   *

「昔この所にまなごの庄司と云ふ者あり 彼の者一人(いちにん)の息女を持つ またその頃奧より熊野へ參詣する山伏のありしが 庄司がもとを宿坊と定めいつも彼の所に來りぬ 庄司娘を寵愛の餘りに あの客僧こそ汝が妻よ夫よなんどと戲れしを をさな心にまことと思ひ年月(ねんげつ)を送る。またある時かの客僧庄司がもとに來りしに 彼の女夜更け人靜まつて後 客僧の閨に行き いつまでわらはをばかくて置き給ふぞ 急ぎ迎へ給へと申ししかば 客僧大きに騷ぎ さあらぬよしにもてなし 夜(よ)にまぎれ忍び出でこの寺に來たり ひらに賴むよし申ししかば 隱すべき所なければ 撞き鐘を下ろしその中(うち)にこの客僧を隱し置く さてかの女は山伏を逃(のが)すまじとて追つかくる 折節日高川(ひたかがは)の水もつてのほかに增さりしかば 川の上下かみしもをかなたこなたへ走り𢌞りしが 一念の毒蛇となつて 川を易々と泳ぎ越し この寺に來たりここかしこを尋ねしが 鐘の下(お)りたるを怪しめ 龍頭を銜(くは)へ七纏ひ纏ひ 炎(ほのほ)を出だし尾をもつて叩けば 鐘はすなはち湯となつて 終(つひ)に山伏を取り畢んぬ なんぼう恐ろしき物語にて候ふぞ。」

   *

と語るのである。ここでは俗臭を排するために二人の名は示されない。能の「道成寺」は滅多に見られぬし、現在、謡曲本が普通に読まれることは少ないが、まさにこのワキの語りの内容こそが、最もコンパクトに我々の知る「安珍清姫の物語」(厳密には最後の済度大団円のプレの悲劇部分)の濫觴であると言ってよいように思う。さて、最後になるが、

安珍の「奥州から熊野詣でに来た修行僧」という新設定の伝承はどうか

というと、これまた、ちゃんと事実として語られていることが証明されているのである藤川建治のサイト「いこいの広場」の「安珍堂、 安珍の墓 根田 白河市」を見られたい(写真あり)。そこに、「里帰りした」(!!!)安珍像の写真があって、『この安珍像は、和歌山川辺町の道成寺に所蔵されていましたが、昭和』六〇(一九八五)年三月、『道成寺及び地元有志の御好意により、東北新幹線上野駅乗入れを記念し、安珍の生誕の地、根田に里帰りしたものです。伝説によれば、修験僧安珍が延長』六(九二八)年十九『歳の時、修行のため熊野山に登った折』、『その途中で泊った紀州御坊の庄司の家の娘、清姫』十三『歳に恋慕されたが、安珍は、幼女の気まぐれと考えて、末の契りに答えてしまいました。後に、これが偽りと知った清姫は、激怒のあまり』、『蛇身と化して安珍を追い、道成寺の鐘の中に逃げ込んだ安珍を恨みの火焔で責め殺してしまったといわれております』。(☞)『この地に伝わる安珍念仏踊りは、彼の冥福を祈る為』、『根田の里人がはじめたものといわれ、歌舞伎などで知られる娘道成寺の物語を美しく歌い込んだ、念仏踊りとして知られ、毎年』三月二十七日の『安珍忌に供養として踊られています。なお』、『この安珍堂は、各種団体及び市民有志から寄せられた浄財により建立されたものです、』という最後に昭和六十一年十月のクレジットと『安珍像郷里安置対策委員会』の署名がある(これは以下のグーグル・マップ・データのサイド・パネルのこの解説板の電子化であることが判った)。而して、確かに福島県白河市萱根根田(かやねねだ)に「安珍堂」があるのである。ただごとではない。道成寺が「里帰り」を許すということは、安珍の出自をここと認定したものと認められるし、「白河市」公式サイトの文化のページの県指定重要無形民俗文化財として「奥州白河歌念仏踊」が挙げられており、『いつの頃から行われているか明らかではないが、白河市付近の村々に、盛大な歌念仏踊が伝承されている。口碑では、流布するに至ったのは、江戸時代の中頃からという。根田組、久田野組、釜の子組、柏野組、羽太組等がそれぞれの集落にある念仏踊りには、村内安全と五穀豊』饒『を祈ることに始まったと言われるが、長い間に舞踊化し、交情和親の娯楽ともなって各村に定着した』とあって、最後に、『なお、根田においては「道成寺物語」の安珍僧が、市内萱根の生れと伝えられ、これにちなんだ歌詞や踊りがあるので』、『安珍念仏踊りとして有名である。旧暦』二月二十七日『の「安珍忌」には歌と踊りで供養する』(後に括弧附きで、現在は毎年三月二十七日に行われているという注記がある)とあるのである。これを読むに、発生が江戸中期ならば、これは浄瑠璃・歌舞伎・日本舞踊等の種々の道成寺譚が盛んになり、口碑の変形が生じさせたもののようには思われるし、安珍像が、見た目、かなり新しいものであることから、或いは、江戸時代、この白河からの参詣者が奉納像なのかも知れぬ(もし、この念仏踊りが、中世、或いは、それ以前に遡れるとなら、私は安珍の白河出自を俄然、支持したいとは思う。「鞍馬寺の安珍」の方が遙かに噓臭くて厭だからである)。

「紀州日高郡眞名古村は、いにしへ、眞名古庄司(まなごのしやうじ)」さて、私が以上の経緯を長々と記した理由は、以上の「紀州日高郡眞名古村」の位置や、そこを支配した「眞名古庄司」なる人物を特定することが、本伝承の形成過程を見て戴ければ判る通り、伝承初期に於いては異なる以上、あたかも史実上の設定が存在してそれを同定する気には、実は、全くならないからである。その原拠から見て、日高川を蛇龍となって泳ぎ越えて道成寺へ至るというシーンから、素人考えでは、女の里の後身「日高郡眞名古村」は日高川以東でなくてはならないことだけが、揺るぎないたった一つの地理的事実のみのように見えるだけだからなのである。しかし、それは民俗学的には、現在の紀州に残る最終的に変成した伝承に従って、この「紀州日高郡眞名古村」の比定地と、「眞名古庄司」なる人物を考察せねばなるまい。ネットを調べてみると、サイト「わかやま歴史物語100」の「ストーリー053」の『妖しく、そして悲しき「道成寺物」  安珍・清姫の悲恋の物語』には、『奥州から熊野詣に訪れた修行僧・安珍は、現在の田辺市中辺路町にあったという真砂庄司清重』(☜)『の屋敷に一夜の宿を求めました。安珍に一目惚れをした女房の清姫は求婚しますが、困った安珍は「熊野詣の帰りに必ず立ち寄る」と言い残して熊野詣へ出立。約束を信じて帰りを待つ清姫でしたが、安珍は一向に戻らず、通りすがった旅人に尋ね、潮見峠を通る別の道で帰ったと知ります。怒り狂った清姫は、髪を振り乱して、その後を追い、ついには大蛇に姿を変えて日高川を渡り、道成寺の鐘の中に隠れた安珍を焼き殺してしまいました。田辺市には中辺路町を中心に、清姫の生家があったと言われる跡地や「清姫の墓」などの伝承地が多く点在。妖しく、悲しい「道成寺物」。その悲恋の地で』二『人に思いを重ねれば、新たな一面を知ることができるでしょう』とあり、写真入りで所在地を明記した上で、「清姫の墓」に始まり、『清姫一族の菩提寺でもあり、江戸中期のものと推測される安珍・清姫物語の絵巻(非公開)も収められてい』るという「一願寺(福巖寺)」、「(伝)真砂一族住居跡・(伝)清姫生誕屋敷」、『安珍を追う清姫』が『この杉に上って前方を逃げる安珍を見つけ、悔しさのあまり杉の枝を捻じ曲げたと』伝える「捻木の杉(潮見峠越)」、『安珍を追いかけてきた清姫が、この泉の水を飲んで』、『力をもらった』と伝える「清姫の井戸」が載るので、是非、見られたい。他に、サイト「日本伝承大鑑」の「清姫の墓」にも、『清姫が住んでいたとされる真砂の地には、清姫の墓と呼ばれるものがある。この地の伝説では、清姫は、真砂の庄司藤原左衛門之尉清重』(☜)『の娘であるが、その母親は清重に命を救われた白蛇であるとされる。そして安珍が清姫に言い寄るものの、障子に映った清姫の影が蛇であることに気付いて逃げ出す。これに世をはかなんだ清姫は』、『淵に身を投げて亡くなるが、その安珍を思う情念が蛇に化身して道場寺まで追い詰めたとされる』という異聞が記されてあり、『清姫の墓がある場所が庄司の館、そのそばにある淵が清姫が身を投げた場所(清姫渕)と言われる』とあって、さらに『真砂の庄司家』として、『清姫の実家である庄司家は熊野本宮の禰宜職』(☜ ☞)『にあり、父の清重が』三『代目にあたる。この清重の代の時に真砂の地の荘官として移ってきたとされる。その後、庄司家は小領主としてこの土地を治めていたが』、天正一三(一五八六)年の『豊臣秀吉の紀州攻めの際に一族ことごとく滅びたという』の補注がある(写真・地図あり)。これらを整理すると、「紀州日高郡眞名古村」は、

現在の田辺市中辺路町真砂まなご:グーグル・マップ・データ。以下無指示は同じ)

ということになる。而して、道成寺は、ずっと西の和歌山県日高郡日高川町鐘巻のここである。直線で計測しても、真砂から道成寺までは、三十四キロメートルあるしかもその間は起伏激しい山間である(グーグル・マップ・データ航空写真)。その真砂地区に「清姫生誕地 真砂一族住居跡」のポイント」が示されてあり、そのサイド・パネルの「(伝)真砂一族住居跡・(伝)清姫生誕屋敷」という解説版画像を見ると(読みは一部に留めた)、

   *

 この住居跡は、物部阿斗(もののべのあと)の姓から真砂姓に改名した2代目真砂清春(まさごきよはる)が西暦800余年[やぶちゃん注:西暦八〇〇年は延暦十九年。桓武天皇の御代。]の頃、本宮大社より荘園主として遣わされ当地の国造りと神仏の勧請、住民の統率等を行ってきた場所と伝えられている。

 しかし、長く続いた家系も、1585年頃に始まる豊臣秀吉の紀州攻略によって、本家の真砂一族(第31代目友家)並びに本陣に仕えていた家臣ら71名の討死により滅びたとの記録が残されている。

  その後、生き残った第32代目友定(ともさだ)は、徳川家に仕えた後に越前にて三千石を領すとの記録があり、本家は滅亡したものの、全国には枝分かれした分家が多くあり、真砂に由来する神社や地名も各地に存在している。

  清姫は、この家系の第3代目清重(きよしげ)の後妻との間に生まれた子で927年8月23日、13歳にして没したと伝えられている。

   *

と、驚くべきことに、清姫の没日と享年まで記されてあるのである(原拠不明)。ユリウス暦九二七年八月二十三日は延長五年七月二十四日(グレゴリオ暦換算八月二十八日)である。万一、月日が陰暦八月二十三日だとした場合のことを考えて換算すると、ユリウス暦九二七年九月二十一日(同前九月二十六日)である(実際、後の説明板によって月日は陰暦で後者が正しいことが判った)。

さらに、真砂地区のその南直近の富田川(とんだがわ)の右岸には、異聞の中の、清姫が身を投じて蛇体に変じた淵の側にあるとする「清姫の墓」のポイントがある。また、麻巳子氏のブログ「癒しの和歌山」の「清姫伝説」の記事に、ここは、福巖寺(通称・一願寺)の「境外地 薬師堂 清姫堂」であるとあり、飛地境内であることが判る(同寺は、ここから北西の谷の奥である和歌山県田辺市中辺路町西谷のここにある)。『「伝説 清姫生誕の地」の説明板』の写真と字起こし、同じく石碑「清姫之里の伝説」(画像はちょっと小さくて読みづらい)のそれが丁寧になされてある。後者の画像は「清姫の墓」のサイド・パネルのこれがよい。麻巳子氏の後者のデータを元にこの写真で起こしておく。字空けがあるが、句読点に自由に代え、それ以外にも記号を追加し、段落も成形した。段落の頭は一字下げにし、準直接話法は改行した。

   *

   清姫之里の伝説

 清姫の父、真砂の荘司藤原左衛之慰[やぶちゃん注:誤字ではない。「尉」の異体字。]清重は、妻に先立たれて、その子、清次と暮らしていた。ある朝、散歩の途中、黒蛇に呑まれている白蛇を見て、憐れに思い助けた。数日後、白装束の女遍路(白蛇の化身)が宿を迄[やぶちゃん注:ママ。「乞」の誤刻か。]い、そのまま清重と夫婦の契りを結び、清姫が誕生した。

 清姫が十三才の年、毎年、熊野三山へ参拝の途中、ここを宿としていた奥州(福島県)白河在萱根の里、安兵衛の子、安珍、十六才は、みめうるわしい清姫の、稚い頃より、気をとられて、

「行く末はわが妻にせん。」

とひそかに語られ、姫も真にうけて、安珍を慕った。

 ある夜、安珍は障子に映った蛇身の清姫を見て、その物凄い形相に恐れをなした。

 それとは知らぬ姫は、思いつめて、遂に、胸のうちを語り、

「いつまでも待たさずに、奥州へ連れていってほしい。」

と頼んだ。

 安珍は、突然の申し入れに大いに驚き、

『これは。なんとかして、避けよう。』

と思い、

「我は今、熊野参拝の途なれは[やぶちゃん注:ママ。]、必ず、下向には、連れ帰る。」

と、その場のがれの申しわけをされた。

 姫は、その真意を知らず、安珍の下向を、指おり数えて、待ちわびたが、あまりにも遅いので、旅人に尋ねると、

「あなたの申される僧は、先程、通られ、早、十二、三町[やぶちゃん注:一・三~一・四キロメートル。]も過ぎ去られた。」

と聞くや、

『さては、約束を破り、道を変えて、逃げられたのだ。』

と察し、あまりの悔しさに、道中に伏して、泣き叫んだ。

 やがて、気を取り直して、汐見峠まで、後を追い、杉の大木に、よじ登り(現在の捻木)、はるかに望めば、すでに田辺の会津橋を渡り、逃げ去る安珍を見て、瞋り[やぶちゃん注:「いかり」。]にくるい、

「生きてこの世でそえぬなら、死して、思いをとげん。」

と、立帰り、荘司ヶ淵に身を投げた。

 その一念が、怨霊となり、道成寺まで、蛇身となって後を追い、鐘にかくれた安珍を、七巻半して、大炎を出し、焼死させ、思いをとげたと云う。

 時、延長六年八月二十三日(今から約千八十年前、西暦二九八年。[やぶちゃん注:ママ。先の説明板とは一年ズレている。])。

 後、里人達は。この渕を「清姫渕」と呼び、霊を慰めるため、碑を建立、「清姫の墓」として、毎年四月二十三日、供養を続けている。

 平成二十年 四月吉日

  福巌寺第十二世 霊 岳 代 誌

         髙 岡 節 子

    寄贈者

         清 水 泰 弘

   *

なお、ここに出る「汐見峠」、先の「捻木の杉(潮見峠)」は、ここ思うに、この淵に身を投げて、大蛇に変じて安珍の後を追ったとなら、容易に山越えも出来ようか。しかし、さらに私がそうなったらと考えると、現行、蛇というよりも殆んど龍に造形されているから、富田川を下って、海に出、白浜・田辺・千里・風早と沿岸をゆうゆうと北西へ登り、日高川を遡った方が、遙かに容易いと思うたことを最後に記しておく。「眞名古庄司」については、以上の解説版電子化で十分であろう思う。

「蛇身の女」私はこの手の因果譚に出る代々の因果というのは、概ね、遺伝性魚鱗癬(ぎょりんせん)と見做していた。「MSDマニュアル家庭版」の「魚鱗癬」に、『重度の皮膚の乾燥の一種で、皮膚に鱗屑が大量に生じます。鱗屑とは、死んだ皮膚細胞が蓄積し、薄く剥がれ、乾燥し、ざらざらになった斑状の領域です』。『魚鱗癬は、ただの皮膚の乾燥である 乾皮症とは異なり、遺伝性の病気として、または他のいくつかの病気や薬によって、皮膚の乾燥が生じる病気です(前者は遺伝性魚鱗癬、後者は後天性魚鱗癬と呼ばれます)』。「遺伝性魚鱗癬」は本疾患の『最も多いタイプ』で、『遺伝子の変異により生じるもので、変異は通常は親から子へと伝わりますが、自然発生的に生じることもあります。遺伝性魚鱗癬は出生時にみられることもあれば、乳児期や小児期に発生することもあります。遺伝性魚鱗癬には様々な種類があります。皮膚にのみ生じるものもあれば、他の臓器に生じる遺伝性疾患の一部に過ぎない場合もあります』。『その種類により、鱗屑は細かいこともあれば、大きく厚く、いぼ状であることもあります。鱗屑が手のひらや足の裏にのみ生じることもあれば、体のほとんどの部分を覆うこともあります。水疱を引き起こすものもあり、その場合、細菌に感染しやすくなります』とある(リンク先には「小児の重度の魚鱗癬」のかなり激しい症状の画像があるので、クリックは注意されたい)。しかし、本篇の語る「蛇女」は、さわにある髪の毛が、梅雨時になると、ヌメり始め、次第に、縺れ合って、びっちりがっちりと鳥黐(とりもち:「耳嚢 巻之七 黐を落す奇法の事」の私の注を参照されたい)のように固まってしまい、櫛さえ入れ難くなるという、奇体な(しかし、忌まわしいとは私は感じない)状態を呈するという怪奇現象である。「ぬめぬめぬったりとなるんだから、蛇でっしょう!」と言う勿れ。私が、現代文の教科書に載り、好んでやった安倍公房の随想「ヘビについて――日常性の壁」を思い出し給え。蛇は「ぬるぬる」などしていないさ! 寧ろ、乾いて鱗の向きに沿って撫でてやれば、極めてさらっとしているぐらいである!

「紀州矢田庄」現在の道成寺のある鐘巻は、正確には和歌山県日高郡日高川町大字土生(はぶ)で、ここは旧川辺町の矢田地区の鐘巻である。

「文武帝、大寶年中」七〇一年から七〇四年まで。

「紀大臣道成」藤原姓。詳細不詳。ウィキの「道成寺」によれば、『大宝元年』(七〇一年)、『文武天皇の勅願により、義淵僧正を開山として、紀大臣道成なる者が建立したという。別の伝承では、文武天皇の夫人・聖武天皇の母にあたる藤原宮子の願いにより文武天皇が創建したともい』い、『この伝承では宮子は紀伊国の海女であったとする考証もある』。『これらの伝承をそのまま信じるわけにはいかないが、本寺境内の発掘調査の結果、古代の伽藍跡が検出されており、出土した瓦の年代から』、八『世紀初頭には寺院が存在したことは確実視されている。昭和六〇(一九八五)年に着手された、『本堂解体修理の際に発見された千手観音像も奈良時代にさかのぼる作品である』とある。

「紀州志」「紀州志」「南紀名勝志」或いは「紀州名勝志」・「南紀名勝略志」という名で伝わる紀州藩地誌の写本の中の一冊であろう。底本と同じ「新日本古典籍総合データベース」の「南紀名勝志」を参看したところ、同書の「日高郡」のここ以下の「天音山道成寺」の条。

「世に云怪說の事は、曽て見えず」則ち、「紀州志」には見えない、ということ。「怪說」とは「安珍清姫」の伝承のことではなく(いやいや! 「元亨釈書」の日本漢文の訓点附きでしっかりばっちり載っている。「鞍馬寺」の「安珍」として名も出ている)、この奇体な髪の時期的変成が生ずる「蛇女」の話のことである。]

2022/11/19

大和怪異記 卷之三 第六 不孝の女天罸をうくる事

 

[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の本文部分はここ(単独画像)。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。なお、底本のルビは歴史的仮名遣の誤りが激しく、ママ注記を入れると、連続してワサワサになるため、歴史的仮名遣を誤ったものの一部では、( )で入れずに、私が正しい歴史的仮名遣で《 》で入れた部分も含まれてくることをお断りしておく。]

 

 第六 不孝の女天罸をうくる事

 武藏国熊谷邊、戶田村に、嬬(やもめ)、女子《むすめ》二人をもてり。

 姊(あね)は、廿にあまりて、壻(むこ)をとり、妹(いもと)は、十八にて、母と一所に居(を)れり。

 あるとき、いもとむすめ、己《おの》が母を、さんざんに打擲(《ちやう》ちやく)し、

「くたびれたり。」

とて、紙帳(し《ちやう》)の内に昼寢したるに、にはかに、天、かきくもり、大雨(《たい》う)、しきりにふり、雷(いかづち)落かゝりて、かの女をつかみ、行《ゆき》かた知《しれ》ず成《なり》にけり。

 かゝる事にも、猶、おそれず、姊も不孝にて、食物も母にくはせず、つらくあたりしを、婿、かなしみにたえず、下男をば、㙒《の》に出《いだ》し、

「妻(さい)は、さけを、もとめよ。」

とて、つかはし、其ひまに、姑(しうと)に物をくはせしに、母も斜(なゝめ)ならず悅び食(くふ)を、彼(かの)女、かへり見て、

「にくき事にこそ。」

と、はしりかゝつて、食物をうばひ取(とり)、けちらしければ、母、なくなく、家を立出《たちいで》、井に身をなげけるを、壻、おどろきて、梯(はしご)をおろさんとする所に、女(むすめ)、

「何とせしぞ。」

とて、井の内をのぞき、あやまつて落《おち》しかば、母は、半身、蛇(じや)になれるが、むすめが腰に、まとゐつき[やぶちゃん注:ママ。]、終《つひ》に、しめ殺しけるとなん。

 正保年中の事とかや。「犬著聞」

[やぶちゃん注:典拠「犬著聞集」は既に先行するこちらで注済み。本書の最大のネタ元。「犬著聞集」自体は所持せず、ネット上にもない。また、前話の最後で示した同書の後代の再編集版である神谷養勇軒編の「新著聞集」にも採られていないようである。姉妹ともに、ここまで不孝であるのは、何か、理由があるのだろうが、それが書かれていないこととともに、母が、半身を蛇と変じて姉を絞め殺すという展開が、所謂、仏教説話からも限りなく距離があり、近世怪談の視点から見ても、凡そ救いが全くない。善意の婿は実は話柄を単にカタストロフへ導くための道化役でしかない。地平が意味不明という点で怪奇談の一つの「突(とつ)」である。

「武藏国熊谷邊、戶田村」不詳。現在の埼玉県熊谷市戸出(とで)の書写の誤記か。

「正保年中」一六四四年から一六四八年まで。徳川家光の治世。]

大和怪異記 卷之三 第五 猫人をなやます事

 

[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の本文部分は、ここと、ここ(単独画像で本文から。標題は前ページ)。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。なお、底本のルビは歴史的仮名遣の誤りが激しく、ママ注記を入れると、連続してワサワサになるため、歴史的仮名遣を誤ったものの一部では、( )で入れずに、私が正しい歴史的仮名遣で《 》で入れた部分も含まれてくることをお断りしておく。

 挿絵があるが、これは「近世民間異聞怪談集成」にあるものが、状態が非常によいので、読み取ってトリミング補正し、適切と思われる箇所に挿入する。因みに、平面的に撮影されたパブリック・ドメインの画像には著作権は発生しないというのが、文化庁の公式見解である。底本(カラー。但し、挿絵は単色)の挿絵部分もリンクを張っておく。]

 

 第五 猫(ねこ)人をなやます事

 筑後の国、ある侍(さふらひ)の家に、ふしぎの事、あり。

 夜になれば、手鞠の大(き)さなる火、たゝみより、上、三寸程に、通り、ひらめきしを、追《おひ》かくれば、それにしたがひて、飛(とび)まはり、あるいは、隣家(りんか)に有(ある)榎木(《え》のき)に、此火、あまたたび、のぼりあがる。

 此事、国中に沙汰しければ、老若(らうにやく)、薄暮(はくぼ)より、こぞり、あつまりて、これを、みる。

 又、あるときは、婢女(しも《をんな》)どもの寢ゐたるを、おびやかし、中にも、「常《つね》」とかやいふ女の、糸よる車、人もひかざるに、めぐり、寢(ね)ゐたるをも、西枕をば、東にし、南を、北になす。

 此女、おそろしき事に思ひ、巫(ねぎ)・祝(はふり)・山伏・僧などに、いのらせ、札《ふだ》をおせども、しるしも、なし。

 此あるじは、元來(《もと》より)、物に動ぜざる氣象(きしやう)なりしかば、かゝる怪異を、もののかず共《とも》せず、しらぬ顏にて打過(《うち》すぐ)すに、ゆくさきにて、此事をとはれ、かへつて、快(こゝろよから)ず思ひ、

『いかにもして、正躰(しやうたい)を見あらはさん。』

と、心にかけて思ひけるに、ある日、庭に出《いで》て、屋《や》の上を見れば、いく年ふるともしれざる猫の、すさまじきが、件《くだん》の下女がもてる赤き手拭をかぶり、尾と、あとあしにて、たち、目《ま》かげをさして、四方(よも)を見ゐたり。

 

Nekomata

 

 あるじ、

『幸《さひはひ》。』

と、よろこび、半弓(はんきう)に、矢をつがひて、はなちけるに、あやまたず、猫にあたり、二まろび、三まろびして、起(おき)あがり、此矢を、寸々に、かみ折りて、死しぬ。

 引《ひき》おろして見れば、尾、ふたまたありて、頭(かしら)より尾まで、五尺ばかり有《あり》けり。

 其後、火も見えず、不思議もなかりしとかや。

 其主(あるじ)の名も聞《きき》しかど、わすれ侍り。「思出草」

[やぶちゃん注:原拠とする「思出草」は不詳。同名の江戸時代の随筆は複数あるが、孰れも内容の確認が出来ない。「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の解題でも、『該当する資料名が不明なもの』の第一番に挙げられている。

「目かげをさして」小学館「日本国語大辞典」「まかげ」があり、「目陰」で『①遠方を見るとき、光線をさえぎるために、額(ひたい)に手をかざすこと。』とあり、例文は「源平盛衰記」、次に『② (「いたち(鼬)の目陰」という表現から)疑わしく思うような目つきをすること。』として、例文を「源氏物語」の「東屋」の帖から引いている(他に『③ 目のとどかないところ。すき。油断。』を挙げてあるが、この用法例は浮世草子であるから、江戸以降)から、この②の意でよいだろう。

「半弓」常の弓より短い長さの弓。射出力が落ち、射程も短いが、機動性に富み、接近した対象や室内などで効力を発し、座位でも射ることが出来る軽便性が大きな特徴である。]

大和怪異記 卷之三 第四 ふし木の中の子規の事

 

[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の本文部分は、ここ(単独画像)。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。なお、底本のルビは歴史的仮名遣の誤りが激しく、ママ注記を入れると、連続してワサワサになるため、歴史的仮名遣を誤ったものの一部では、( )で入れずに、私が正しい歴史的仮名遣で《 》で入れた部分も含まれてくることをお断りしておく。]

 

 第四 ふし木の中の子規(ほとゝぎす)の事

 信州高遠《たかとほ》の人、僕(ぼく)に薪《たきぎ》をきらせけるに、ふし木の中より、ほとゝぎすの死したるを見出しぬ。其時は、冬のことなり。箱にいれ置《おき》、其後は、ふつと、わすれぬ。

 かくて、翌年のやよひすえつかた、かの箱を、あえみるに、件《くだん》のほとゝぎす、羽《は》だゝきして、飛《とび》さりし、となん。

 此鳥は、秋より後の、春までは、くち木の中に、かくれいるにや。されば古哥(こか)に、

 奧山のくち木の中の時鳥なつを待てや音(ね)には鳴(なく)らん

是を思ふに、世に、「冥途の鳥」といふ說も、よみがへりて來る故にや侍りけん。

[やぶちゃん注:前話同様、「犬著聞集」原拠。これは、幸いにして、後代の再編集版である神谷養勇軒編の「新著聞集」に所収する。「第九 崇厲篇」(「すうれい」と読む。「あがむべき貴い対象を疎かにした結果として起こる災い」の意)の掉尾にある「女人高野(こうや)山に詣(まふ)て害(かい)せらる」である。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の寛延二(一七四九)年刊の後刷版をリンクさせておく。ここ、と、ここ(単独画像)。本書の作者がだいたい忠実に引用しているのであろう様子が窺える。

「信州高遠」長野県伊那市高遠(グーグル・マップ・データ。但し、指示されたそこは高遠町西高遠)附近。桜の名所として知られる。私は行ったことがないが、私がただ一編、読んで気に入った井上靖の小説「化石」で記憶に刻まれている。

「ふし木」上記「新著聞集」では「節木」とある。これは「ふしき」或いは「ふしぎ」と読み、 節に穴があり、中が空洞になっている木のことを指し、「臥木」とも書く。

「奧山のくち木の中の時鳥なつを待てや音(ね)には鳴(なく)らん」大久保順子氏の論文「説話にみる文事の志向―――『古今犬著聞集』序文と考証的説話――」(福岡女子大学国際文理学部紀要『文藝と思想』第八十六号所収・二〇二二年二月発行。「福岡女子大学機関リポジトリ」のこちらからPDFでダウン・ロード出来る)の本文で、本和歌の出典は未詳とされつつ、末尾の注(28)で、『「ほととぎす」の古歌のうち「こかくれていまそきくなるほとときすなきひひかしてこゑまさるらむ」(赤人集、二二六)、「年をへてみ山かくれの郭公きく人もなきねをのみそなく」(実方、拾遺集一〇七三)等の「音を鳴く」時鳥の「深山かくれ」「木かくれ」や、「朽木」の古歌「かたちこそみ山かくれのくち木なれ心は花になさはなりなむ」(古今集、巻十七:雑上八七五)等の、「朽木」―「奥山」「深山かくれ」―「ほととぎす」の連想の親和性によるか。』と注されておられる。

「冥途の鳥」BON氏のブログ「BON's diary」の「【真読】 №112「冥途の鳥」 巻四〈送終部〉(『和漢真俗仏事編』web読書会)」を読むに、元は仏典の誤認・誤解のレベルのものであることが判る。]

《芥川龍之介未電子化掌品抄》(ブログ版) 思ふままに

 

[やぶちゃん注:芥川龍之介満三十一歳の大正一二(一九二三)年六月八日発行『時事新報』夕刊に「思ふままに 三」の題で、「淺香三四郞」の書名で掲載された。単行本には未所収。なお、先行する同年六月五日発行の同誌(夕刊)に、同題同署名で、「思ふままに 一」として「放屁」が、六月六日発行のそれに『「女と影」讀後』が掲載されている。「放屁」は私のサイト版があり、「放屁」と「「女と影」讀後』は後の作品集(随筆)『百艸』(大正一三(一九二四)年九月新潮社刊)に「續野人生計事」に「一」「二」として収録されているので、国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像で二篇続けて視認出来る。但し、『百艸』では「「女と影」讀後』は「女と影」に改題されている。その「女と影」はここから。

 底本は岩波書店の旧「芥川龍之介全集 第六巻」(一九七八年一月刊)に拠った。一部、段落末に注を入れた。

 本篇は倉田百三(龍之介より一歳年上)に対する批評であるが、相当に辛辣である。嘗つて芥川龍之介は書簡で倉田の戯曲「出家とその弟子」(大正五(一九一六)年に同人誌『生命の川』で連載され、翌年に岩波書店から出版された)を高く評価していたことを考えると、その大きな豹変が興味深い。なお、個人的には「出家とその弟子」は、二十歳の頃に必要があって精読し、評論を同人誌に書いたことがあるが、その内容は親鸞(私は日本の「思想家」として彼を非常に高く評価している)の思想を、致命的に、はき違えた感が随所にあることで、大いに不満があり、また、戯曲としては台詞その他に於いて、技術的に問題が多過ぎる失敗作だと考えている。]

 

 思ふままに

 

 最も水に憧れるものは水囊に水を貯へない駱駝背上の旅客である。最も正義に憧れるものは社會に正義を發見しない資本主義治下の革命家である。このやうに我々人間の最も熱心に求めるものは最も我々に不足したものである。此處までは誰も疑ふものはあるまい。

 しかしこれを眞理だとすれば、最も足に憧れるものは足を切斷した廢兵である。最も愛に憧れるものは愛を失つた戀人である。最も眞面目さに憧れるものは――予は論理に從はざるを得ない。眞面目さに憧れる小說家、眞面目さに憧れる評論家、眞面目さに憧れる戲曲家等は悉く彼等自身の心に眞面目さを缺いてゐる俗漢である。彼等は元來他人のことを不眞面目だなどと云はれた義理ではない。況や喜劇的精神の持ち主に兎角の非難を加へるのは上を極めた暴行である。

 又歷史の敎へるところによれば古來眞面目なる藝術家は少しも眞面目さを振りかざさない。彼等の作品には多少によらず、抑へ切れない笑ひが漂つてゐる。辛辣の名の高いイブセンさへ、眞面目さを看板に苦りきる程、人間離れのした怪物ではない。「ピイア・ギユント」は少時問はず、「鴨」の中から迸しるものは神鳴のやうな笑ひ聲である。「鰐」や「叔父の夢」のドストエフスキイも常談を好むことは人後に落ちない。御亭主と接吻をする間さへ、着物の皺になるのを心配するのはトルストイの描いた女である。義眼の片眼に人生を見ながら、道德を說いてやまないものはストリントベルグの描いた男である。

[やぶちゃん注:「ピイア・ギユント」( Peer Gynt )「ペール・ギュント」。ノルウェーの劇作家ヘンリック・イプセンが一八六七年に作った戯曲(劇詩)。

「少時」「しばらく」。

「鴨」イプセンが一八八四年に発表した悲劇「野鴨」( Vildanden )。

「鰐」(わに: Крокодил )一八六五年発表のドタバタ喜劇的小説。但し、未完。

「叔父の夢」同じくドタバタ喜劇的な中編小説「伯父さまの夢」( Дядюшкин сон )。一八五九年発表。これはシベリヤ流刑後に「ドストエフスキー」の名前で発表された最初の作品で、発表は彼がロシア内地へ帰ることを許される五ヶ月前に当たる。]

 所謂眞面目なる小說家、評論家、戲曲家等に眞面目さの訣けてゐることは論理の證するところにより疑ふ餘地のない事實である。尤もかう云ふ結論だけは誰も氣づかずにゐる譯ではない。實は大抵暗暗の裡にかんづいてゐることはゐるのである。

 たとへば武者小路實篤氏は眞面目なる藝術家の一人である、これは誰一人疑ふものはあるまい、しかし思想のみならず、文藝さへ武者小路氏に酷似した倉田百三氏の場合になると、疑ひなきを得ないものも多さうである。武者小路氏と倉田氏と、どちらが手腕があるかは問はないでも好い、唯眞面目さを問題とすれば、兩氏とも大抵同一に認められさうなものである。それが不思議にもさうならないのは、何か武者小路氏と倉田氏との間に異なつたものがなければならない、では何處が異るかと云へば武者小路氏の眞面目さの中には愛すべきヒュウモアの閃きがある、一休和尙や曾呂利新左衞門は今更說明する必要もあるまい、大蛇を退治した素盞嗚の尊は踊りにさへ加はる雅量を持つてゐる、地球を創造した神樣も滑稽天使を呼ぶ時には「コツケイ!」と叫ぶことを憚らない。しかし倉田氏の親鸞上人は悲しさうな顏を片づけてゐる、いや、親鸞上人に限つたことではない。俊寬は平家を呪つてゐる、布施太子は悄然と入山してゐる、父は――まだ讀んだことはない、しかし廣告に偏りがなければ、兎に角父も心配してゐる。

[やぶちゃん注:「一休和尙」武者小路実篤の戯曲「或日の一休」(『白樺』掲載時は「或日の一休和尚」。大正二(一九一三)年発表)を指す。

「曾呂利新左衞門」同じく武者小路の戯曲「秀吉と曾呂利」(大正一一(一九二二)年発表)。

「素盞嗚の尊」同じく武者小路の戯曲「一日の素盞嗚尊」(いちにちのすさのをのみこと:大正九(一九二〇)年発表)。

『地球を創造した神樣も滑稽天使を呼ぶ時には「コツケイ!」と叫ぶことを憚らない』同じく武者小路の戯曲「人間万歳」。大正一一(一九二二)年九月の『中央公論』に初出で、大正十四年三月に帝劇で「文芸座」によって初演された。

「俊寬は平家を呪つてゐる」倉田百三の戯曲「俊寛」を指す。

「布施太子は悄然と入山してゐる」倉田の戯曲。大正九(一九二〇)年発表。大正一四(一九二五)年、帝国劇場で上演。主人公は若きブッダを思わせる人物。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで翌年の刊本で読める。

「父」倉田の戯曲「父の心配」。大正一一(一九二二)年岩波書店刊。]

 武者小路氏は「常に」眞面目ではない。倉田氏は「常に」眞面目である。常に眞面目に構へてゐるのは生死さへ多少疑はしい。山椒の魚は常に眞面目である。サンドウイツチ・マンも常に眞面目である。埃及の王樣の木乃伊などは就中常に眞面目である。倉田氏の眞面目さを疑はれるのは當然のことと云はざるを得ない。

 人間はパスカルの言葉によればものを考へる蘆である。蘆はものを考へないかどうか――それは予には斷言出來ない。しかし蘆は人間のやうに笑はないことだけは確かである。予は笑ひ顏の見えないところには、獨り眞面目さのみならず、人間性の存在をも想像出來ない。眞面目さに憧れる小說家、評論家、戲曲家等に敬意を持たないのは當り前である。

大和怪異記 卷之三 第三 高野山に女人のぼりて天狗につかまるゝ事

 

[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の本文部分は、ここ(単独画像)。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。なお、底本のルビは歴史的仮名遣の誤りが激しく、ママ注記を入れると、連続してワサワサになるため、歴史的仮名遣を誤ったものの一部では、( )で入れずに、私が正しい歴史的仮名遣で《 》で入れた部分も含まれてくることをお断りしておく。]

 

 第三 高野山に女人のぼりて天狗につかまるゝ事

 寬文六年五月廿日、越前の国より、女順礼(《をんな》じゆんれい)、高㙒山にのぼるを、道掃除(《みちさう》ぢ)の者の、

「爰《ここ》は女人の來る所にあらず。とく、とく、かへれ。」

と、追(おひ)おろせども、立《たち》かへること、三度に及しが、夜《よ》に入《いり》て、終《つひ》に登山(とう《ざん》)しけるにや、谷二つ、へだてたる、むかひの松のえだにかけ置《おき》しを、朝に見出して、おろし、葬(ほうふ)りしに、二度、三度、おなじ所にかけたりしを、法性院《ほつしやうゐん》、きゝつけ、とふらはれしより、さはりなく成《なり》にけり。

 此とき、山は、大雨大風(たいう《たい》ふう)おびたゞしく、道も、そこね侍りし。世にいふ、「天狗の所爲《しよゐ》」なるべし。

[やぶちゃん注:前話同様、「犬著聞集」原拠。これは、幸いにして、後代の再編集版である神谷養勇軒編の「新著聞集」に所収する。「第九 崇厲篇」(「すうれい」と読む。「あがむべき貴い対象を疎かにした結果として起こる災い」の意)の掉尾にある「女人高野(こうや)山に詣(まふ)て害(かい)せらる」である。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の寛延二(一七四九)年刊の後刷版をリンクさせておく。ここと、ここ(単独画像)(第九巻の掉尾)。本書の作者がだいたい忠実に引用しているのであろう様子が窺える。

「寬文六年五月廿日」家綱の治世。一六六六年六月二十二日。

「法性院」和歌山県高野町にある高野山真言宗の大本山「寳壽院」の前身の一つの旧寺名。本尊は大日如来。藤原師輔の子深覚を開山とし、永く「無量寿院」と呼ばれていたが、大正二(一九一三)年に「宝性院」と合併して「宝寿院」となった。「宝性院」は法性覚円房を開山とし、初め、「法性院」と称していたが,中世に「宝性院」と改名したらしい。両院とも学問寺として有名であった(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。ここ(グーグル・マップ・データ)。女人結界の外にある。]

大和怪異記 卷之三 第二 古石塔たゝりをなす事

 

[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の本文部分は、ここ(単独画像)。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。なお、底本のルビは歴史的仮名遣の誤りが激しく、ママ注記を入れると、連続してワサワサになるため、歴史的仮名遣を誤ったものの一部では、( )で入れずに、私が正しい歴史的仮名遣で《 》で入れた部分も含まれてくることをお断りしておく。]

 

 第二 古石塔(ふるせき《たう》)たゝりをなす事

 延寶年中、奧州二本松の藥硏屋久心(やげん《や》きうしん)といふ者、庭を作(つくる)とて、正念寺(《しやう》ねんじ)の山に、ふるき石塔の苔(こけ)生《おひ》たるありしを、取《とり》よせ、たてけるより、おそろしき夢をみる事、度《たび》かさなりし。

 あるとき、昼、いねたりし夢に、二八ばかりなる女の、枕もとにたちつゝ、ことの外、いかれるけしきにて、

「いかなれば、我《われ》、ひさしく住《すみ》なれし所を引はなち、これへ、つれ來《きた》るぞや。此うらみ、すくなからず。」

と、にらみしまなこ、おそろしく、むねうち、さはぎしに、かたはらの人、おこして、やうやう目をさまし、

「かく。」

と、かたりければ、老たる者、いひけるは、

「『八十年程前に、此所に畠山重次(はたけ《やま》しげつぐ)と聞えし人、あり。其女子(むすめ)、十七、八にて身まかりしを、葬(ほうふ)りし、塚なり。』と、我《わが》親、かたりしなり。はやく、其石塔を、もとの所に、かへし、たてよ。」

と、をしヘしかば、かく、たてゝのち、夢みる事、なかりしとかや。「犬著聞」

[やぶちゃん注:典拠の「同」は前話と同じ「犬著聞集」を指す。本書は既に先行するこちらで注済み。本書の最大のネタ元。「犬著聞集」自体は所持せず、ネット上にもない。また、前話の最後で示した同書の後代の再編集版である神谷養勇軒編の「新著聞集」にも採られていない。

「延寶年中」一六七三年から一六八一年まで。徳川家綱・綱吉の治世。 

「奧州二本松」二本松藩。現在の福島県二本松市(グーグル・マップ・データ)。

「藥硏屋久心」不詳。

「正念寺の山」同音の称念寺ならば二本松城跡の直下にある。文治元(一一八五)年に法相宗の尊道和尚により、塩沢の道場が原で開山された。二本松は戦国時代まで畠山氏の所領であったものを、天正一四(一五八六年)に伊達政宗が畠山氏を滅ぼして伊達領となり、寺は信夫郡大森(現在の福島市大森)に移ったが、二本松藩丹羽家初代藩主丹羽光重による町割りの完成後の延宝三(一六七五)年頃に現在地に移築・再興された。二本松城址の畠山氏の菩提寺であり、奥州探題畠山家累代墓所であった(「二本松市観光連盟」公式サイトのこちら、及び、以下リンク先のサイド・パネルの解説版に拠った)。以下の叙述から、ここで間違いないであろう。グーグル・マップ・データ航空写真を見ると、称念寺の東西と北後背は山である(奥州探題畠山家墓所は東方にある)。

「二八」十六歳。

「畠山重次」「八十年程前」という老人の、その親が語ったという叙述があるから、一・五倍掛は必要であろう。すると、約百二十年前で西暦一五五三年から一五六〇年の前後となる。旧畠山家で伊達政宗に攻められ、遺体を惨たらしく扱わられたとされる当該ウィキ参照二本松城主二本松(畠山)義(天文二一(一五五二)年~天正一三(一五八五)年)が音では近い。]

2022/11/18

大和怪異記 卷之三 目録・第一 人面瘡事

 

[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の本文部分は、ここ(単独画像)。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。なお、底本のルビは歴史的仮名遣の誤りが激しく、ママ注記を入れると、連続してワサワサになるため、歴史的仮名遣を誤ったものの一部では、( )で入れずに、私が正しい歴史的仮名遣で《 》で入れた部分も含まれてくることをお断りしておく。本篇では、会話記号を「 」にするため、全体の額縁である語りの始まりを「……」で始めた。

 目録部(ここと次のコマ)は総ての読みを振った。歴史的仮名遣の誤りはママ。「十一」は底本では半角。

 本篇には挿絵があるが、これは「近世民間異聞怪談集成」にあるものが、状態が非常によいので、読み取ってトリミング補正し、冒頭に挿入した。因みに、平面的に撮影されたパブリック・ドメインの画像には著作権は発生しないというのが、文化庁の公式見解である。]

 

やまと怪異記三

  近世(きんせ)

一 人面瘡(にんめんさう)の事

二 古石塔(こせきとう)たゝりをなす事

三 高野山(かうやさん)に女人のぼりて天狗につかまるゝ事

四 ふし木の中の子規(ほとゝぎす)の事

五 ねこ人をなやます事

六 不孝(ふかう)の女(をんな)天罸(てんばつ)をかうふる事

七 紀州(きしう)眞名古村(まなごむら)に今も蛇身(じいやしん)ある事

八 殺生(せつしやう)して我子にむくふ事

九 人(ひと)の背(せ)より虱(しらみ)出(いづ)る事

十 出雲國(いづものくに)松江村(まつゑむら)穴子(あなご)の事

十一 龍(りやう)屋敷よりあがる事

 

 

 やまと怪異記三

   近世(きんせ)

 第一 人面瘡(にんめんさう《の》)事

 今はむかし、幸若八郞(かうわか《はちらう》、かたりけるは、

 

Jinmenso

 

[やぶちゃん注:底本の画像はここ。正直、人面瘡をバーンと描いて欲しかったな。]

 

……みやこにのぼるとて、木曾路を行《ゆき》けるに、所はわすれぬ、ある山かげにて、手をつかね、腰をかゞめて、よれるものあり。其さま、ひなびたれ共、さすが、下部(しもべ)とも見えぬが、馬の口によりて、いへるは、

「我、たのゝたる者[やぶちゃん注:ママ。「たのみたる者」で主人の意か。]、ひさしく治しがたき病(やま《ひ》)れば、祿を辞して、是成《これなる》森の内に引《ひき》こみ、二十(はた)とせの春秋をおくるに、次㐧《しだい》に、身、をとろえ[やぶちゃん注:「衰(おとろ)へ」。]、心、つかれて、此世に久しからじと、みゆ。されば、君の爰《ここ》もとを、のぼりたまふふこと、さきだつてきゝ、

『此世の思ひ出に、逢《あひ》たてまつりたき。』

と、ねがひ、今日、かくと、久しく、待《まち》侍りぬ。いざ、させ給へ。道しるべ、せん。

と、いへば、

『遠近(《をち》こち)のたつきもしらぬ山中《さんちゆう》。』

とは思へ共、

『煩へる人の、「我《わが》一ふし」と、ねがふに、いかで、「いな」とは、いふべき。若(もし)のあやしき事も、定まれる事なり。』

と、おもひ、此者と、うちつれゆくに、道より十町[やぶちゃん注:約一キロ九十一メートル。]ばかりすぎて、山かげの松・杉、木(こ)だち、物さびたる森のうちに行《ゆき》つきぬ。

 家づくりは、草ぶきにして、槇(まき)の戶たてたる内ながら、さすが、よしあるすみかにて、客人(まろうと)の迎(むかへ)、はかまきたる者、二、三人出《いで、》色代(しきだい)[やぶちゃん注:挨拶。会釈。]し、うちつれ通るに、亭には、弓・鑓、あまた、かけをき、二間、三間[やぶちゃん注:二百十八~三百二十七メートル。]、過行(すぎゆく)に、『左《さ》も』とおぼえし[やぶちゃん注:「如何にもそれらしい」と感じられる。]老たる、若き、詰居(つめゐ)て、其外、人、多し。

 案内するにまかせて、通りたれば、奧ふかく、作れる家、有《あり》て、庭の木だち、物ふり、よし有《あり》げなる風情(ふぜい)なり。

 しばし有《あり》て、一間(《ひと》ま)なる障子をあけ、

「是へ。」

と、いふをみれば、あるじとおぼしくて、五十ばかりの、色靑ざめたるおとこ[やぶちゃん注:ママ。]、かみ、長く、ひげがちなるが、夜着(よぎ)、引《ひき》まはし、火燵(こたつ)に、よりかゝりながら、いふやう、

「足下(そこ)に、のぼり給ふことを傳え聞《きく》。見たまふごとく、病(やみ)おとろえて、世にあらん事も、此年ばかりとおもへば、『聞及《ききおよび》たる一ふしを聞《きき》、此《この》よの思ひ出(で)にし侍らん。』と、あからさまにおとづれしに、來り給ふ事の、うれしさよ。」

「世上に何事か候。かたり給へ。」

「さらば、先(まづ)、來(こし)かたを、語侍《かたりはべ》らん。我は、もと、武士にて、主君にも、いやしからずつかえ、ゆたかにくらし侍りしが、二十歲(はたち)ばかりの比《ころ》、さだまれる妻(め)とてはなく、妾(《を》んなめ)を置(おき)て愛(あい)せしに、此もの、嫉妬の心、ふかく、かりそめにも、甚だしく、いかり、恨(うらみ)ける。有《ある》とき、我、いたはる事ありて、打《うち》ふしける枕によりゐて、又、例のごとく、うらみけるを、あまりに、腹(はら)に、すへ[やぶちゃん注:ママ。]かねつゝ、扇を取《とり》て、二つ、三つ、うちければ、

『こは。情なき御事や。とてもの事に、殺し給へ。』

と、たもとにすがり、なきさけべば、

『ころすにかたき事か。』

とて、匕首(わきざし)をぬいて、あえなく、首を、うち落せば、此くび、むかふに、ころびゆき、我《わが》かたに、むかひ、生(いけ)るときの顏色(がんしよく)のごとく、「につこ」

と、わらひぬ。扨《さて》、有《ある》べき程のさたして、㙒邊(のべ)におくり、葬(《は》うふ)る。其夜よりして、身、ほとほりて[やぶちゃん注:熱を持ってきて。]、股に、一つの腫物(しゆもつ)、出來(いでき)、見るが内に、大きになり、ころせし女の顏に、露、たがはず。髮を乱し、かねぐろに笑へるさま、すさまじといふも餘(あまり)あり。是なん、世にいふ、「人面瘡」なるべし。けづりすつれど、其日のうちに、又、出來て、少しも、かはらぬ、てい、なり。祈禱・醫療、さまざまにつくせども、其《その》甲斐、なし。今は、すべきやうなく、次第に、心氣《しんき》つかれて、つとめも、かなはず。つかえを、かへし、此所《ここ》に引《ひき》こみ、二十年(はたとせ)餘になり侍り。『此世だに、かくあれば、來世も、さぞ。』と、思はれぬ。生涯の思ひ出に、足下(そこ)の一ふしを聞《きき》て、往生の期(ご)をまたんと思ひ侍る。」

と、かたりて、淚にむせべり。

 我、

「やすきこと。」

と、いらえて、夜とともに、望《のぞみ》にまかせて、舞《まひ》ぬ。

 かくて後、病人、いへるは、

「此歲月《としつき》の憂(うき)おもひ、今宵(こよひ)ばかりぞ浮雲(うきぐも)の、風に消(きえ)たる心地し侍り。さらば、こなたに。」

と人をのけ、

「是、見たまへ。」

とて、衣(きぬ)、引《ひき》のけ、見すれば、此《この》面(おもて)、打《うち》わらひて、みゆ。

『扨《さて》も希有(けう)のことかな。』

と、すさまじく思へり。

 さて、いとまをこひければ、

「此後までの記念。」

とて、からの香箱(かうばこ)・同《おなじき》硯(すゞり)をあたへ、なみだながらに、わかれぬ。

 其夜、弓もたせ、鎗つかせ、侍僕(じぼく)十人ばかりにて、おくりかへされたり。

 其のち、

『かならず、尋《たづね》ん。』

と思ひしに、くだりには、東海道を通り、其後、のぼらねば、今は、一木(ひとき)のしるしとこそ、成《なり》つらめ。」

と、淚をながし語り侍る。「怪㚑雜記」

[やぶちゃん注:最後の典拠であるが、「近世民間異聞怪談集成」の本文・解題では、『怪異雑記』とするのであるが、原本のここ(クリックして拡大されたい)の、この書名の二字目は確かに「異」の異体字「异」の「グリフウィキ」のこの字によく似てはいるのだが、逆に「㚑」の崩しにも酷似しているのである。而して、以下の資料では、これを「靈」と採っている。それは、高い確率で本篇を読んだものと推定される田中貢太郎の怪奇小説「人面瘡物語」(以下の引用は所持する国書刊行会の一九九五年刊の改造社再編集版の「日本怪談大全」所収を底本とした。「青空文庫」のこちらでは別底本(桃源社本)で読める)の冒頭で、

   *

 谷崎潤一郎氏に人面疽(じんめんそ)のことを書いた物語がある。其の原稿はある機会から私の手に入って今に保存されているが、何(な)んでも活動写真の映画にあらわれた女のことに就(つ)いて叙述したもので、文学的にはさして意味のあるものでもないが、材料が頗(すこぶ)る珍奇であるから、これは何か粉本(ふんぽん)があるだろうと思って、それとなく注意しているうち、諸国物語を書くことになって種々の随筆をあさっていると、忽(たちま)ちそれと思われる記録に行き当った。それは怪霊雑記[やぶちゃん注:「霊」となっていることに注目。](かいれいざつき)にある話で、幸若舞(こうわかまい)の家元になった幸若八郎と云うのが、京都へ登って往く途中、木曾路(きそじ)で出会った出来事であった。

   *

である(因みに、谷崎の「人面疽」恐ろしくつまらない怪奇小説で、読んで時間を損したと思ったほどに下等なレベルの怪談である)。而して、この谷崎の「人面疽」を論じた金井公平氏の論文「西洋と日本の怪奇小説 ――人面疽をめぐる短篇小説、谷崎潤一郎の「人面疽」を中心に――」(『明治大学人文科学研究所紀要』第四十八冊所収。二〇〇一年三月発行。PDF直リンク)で、田中の「人面瘡物語」を挙げた上で(コンマは読点に代えた)、『粉本としての『怪霊雑記』を私は現在探しているが、残念ながらいまだ見つからないままである』と言及しておられる。まあ、金井氏は田中の小説の前振りの「怪霊雑記」をそのまま正直に採用されておられ、論旨も本原話を探す方向のものではないから、強力な傍証とはならないのであるが、では、或いは、「近世民間異聞怪談集成」の「怪異雑記」が正しのかと思って調べても、「大和怪異記」以前の怪奇談集には、そんな書名の物はないのである。と言うより、「近世民間異聞怪談集成」の解題で土屋氏自身が、本書を『該当する資料名が不明なもの』の一つに入れておられるのである。作者の典拠表示の律義さを好意的に受けとめるならば、今は散佚した写本の怪談集であるのかも知れない。悪意で考えるなら、作者のフェイクで、これは本「大和怪異記」の作者のデッチ上げた創作でないとも言い切れないのである。としても、私は、本篇、なかなかに出来の良い作品だと思っている。なお、老婆心乍ら、金井氏の言っておられる通りで、谷崎の「人面疽」の粉本・原拠は絶対に本篇ではない。これほども谷崎のそれは面白くも糞くもないものであることを、再度、ブチ挙げておく。なお、「人面疽」は例えば、私の「柴田宵曲 妖異博物館 適藥」、或いは、金井氏も挙げておられる「伽婢子卷之九 人面瘡」を見られたい。

「幸若八郞」「幸若舞」の創始者と伝えられる桃井幸若丸(もものいこうわかまる 生没年未詳)か、その直系伝授を受けた人物であろう。桃井幸若丸は越前の人で、南北朝時代の武将桃井直常の孫とも言われ、名は直詮(なおあき)で、「幸若丸」は元の幼名。室町前期、比叡山の稚児であった折に、平曲や声明(しょうみょう)などを取り入れて「幸若舞」を始めたとされるが、幸若舞の始祖としての桃井直詮説には疑問が多い。

「さすが、下部とも見えぬが」「どうみても、下級の下男のレベルではなく、相応の上級の用人ように見受けられる人物が」。]

大和怪異記 卷之二 第十 芦名盛隆卒前に怪異ある事 / 卷之二~了

 

[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の分は、ここ(単独画像)。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。なお、底本のルビは歴史的仮名遣の誤りが激しく、ママ注記を入れると、連続してワサワサになるため、歴史的仮名遣を誤ったものの一部では、( )で入れずに、私が正しい歴史的仮名遣で《 》で入れた部分も含まれてくることをお断りしておく。

 なお、本篇を以って「大和怪異記 卷之二」は終わっている。]

 

 第十 芦名盛隆(もりたか)卒前(そつすまへ)に怪異ある事

 芦名盛氏の養子、三浦介(《み》うらの《すけ》)盛隆、家人(け《にん》)に弑(しい)せられし以前に、秘藏の鷂(たか)、鴨《かも》二つを、一寄《ひとよせ》に、とる。これを、

「希代(き《だい》)の逸物(いちもつ)なり。」

と、ほむるやからも、あり。

「いや、小《ちさ》きものゝ、大なるを、無理にしたがへたるは、よからぬ先表(ぜんひやう)にやあらん。」

など、口々に評(ひやうし)しけるが、程なく、盛隆、此鷂を、すえながら、家人、大庭三左衞門《おほばさんざゑもん》がために、切(きら)れし、となむ。

[やぶちゃん注:典拠の「同」は前話と同じ典拠とするの意で「会津四家合考」。国立国会図書館デジタルコレクションの「会津四家合考 南部根元記二」(大正四(一九一五)年国史研究会刊)のここで当該部を確認出来た。より詳しく、他の怪異も添えてあるので、以下に電子化する。一部に句読点・記号・読み(推定・歴史的仮名遣)を挿入した。踊り字「く」は正字化した。

   *

    盛隆生害(しやうがい)の事

國家の癈興に、至誠の先如(せんじよ)、歷然なれば、事の有無、愚(ぐ)が肯(うべなひ)て評すべきにあらず。只、俗說を取りて記し侍る。「盛隆生害の少し前の事なりし。」といふ。祕蔵の鷂(たか)、鴨二つを、一度に把(と)る。是を、「希代の逸物なり。」と、譽むる族(うから)もあり、又、「いや。小さき物の、大(おほき)なるを無理に從へたるは、世の中、能(よ)からぬ先表にもや、あらん。」など、口々に評したりけるが、程なく、盛隆、此鷂を居(す)ゑ乍(ながら)ら、生害なりし、といふ。又、盛氏、岩崎に御座したる時、鷹が、鴨を二つ、一度に取りたり。「希代の事。」と、鵜浦(ううら)入道[やぶちゃん注:会津蘆名氏四代(盛舜・盛氏・盛興・盛隆)の重臣であった鵜浦左衛門尉家の一人。]が方へ、盛氏自筆の消息ありしを見たり。是れ、若(も)し、盛興逝去の頃にてもや、ある。又、蒲生秀行[やぶちゃん注:安土桃山時代から江戸時代初期にかけての大名で陸奥会津藩主。]、逝去あるべき春、鹽川へ鷹野に出でられたるに、鷂が、鴨を、二つ一度に取りたり、といふ。

一、地下の雜談に、盛隆生害の前の事なるに、厩に立竝(たちなら)びたる馬の内にて、「何とすベき、何とすべき、」と、繰返し、物を、いふ。附き居たる馬取(うまとり)共、肝を潰(つぶ)して、急ぎ、厩別當(うあまやべつたう)に此由(このよし)を告ぐる。別當も「怪し。」とて、馳せ來り、「何の馬が、さ、いひたるぞ。」と、尋ぬる辭(ことば)の下(しも)より、側(そば)に立ちたる馬、「此馬が、さ、いひたる。」と、いひしとなり。

   *

後の馬が貴人の今はの際の折りに、人語を語る怪異は、後の「伽婢子卷之十三 馬人語をなす恠異」が人口に膾炙する。

「芦名盛隆」蘆名盛隆(永禄四(一五六一)年~天正十二年十月六日(一五八四年十一月八日)は安土桃山時代の武将で陸奥国の戦国大名。蘆名氏十八代当主。当該ウィキによれば、『須賀川二階堂氏』七『代当主』『二階堂盛義の長男として誕生。生母は伊達晴宗の娘である阿南姫。伊達晴宗は』以下の養父盛氏の祖父『蘆名盛高の外孫であるため、盛隆は蘆名盛高の玄孫に当たる』。永禄八(一五六五)年に父『盛義が蘆名盛氏に敗れて降伏した際、人質として会津の盛氏の許に送られた。ところが』、天正三(一五七五)年に蘆名氏十七代当主『蘆名盛興』(もりおき)『が継嗣を残さずに早世すると、盛興未亡人の彦姫』『と結婚したうえで、盛氏の養子となって』『当主とな』り、天正八(一五八〇)年の『盛氏の死去により』『実権を掌握した』とある。以下、諸業績はリンク先を見られたい。彼は、『黒川城内で寵臣であった大庭三左衛門に襲われて死亡した』。『享年』僅か二十四歳であった。死後も不幸が『重なり、蘆名家中は混迷した。この盛隆の早すぎる死が、蘆名氏滅亡を早めた原因といえる』とあり、さらに、「奥羽永慶軍記」では、『猛勇ではあったが、知恵や仁徳が無かったと伝えて』おり、「新編会津風土記」は、『大庭三左衛門が盛隆を襲った理由について、男色のもつれが原因としてい』て、「武功雑記」などにも、『男色絡みの逸話がいくつか残されている』とあった。

「芦名盛氏」前話の私の同人の注を参照されたい。

「三浦介」前話の私の盛氏の注で示した通り、蘆名氏は平氏姓の三浦氏の系統の一族であった。

「鷂」これはタカ類の中でも、タカ目タカ科ハイタカ属ハイタカ Accipiter nisus を指す。タカ目タカ科ハイタカ属オオタカ Accipiter gentilis とともに鷹狩に用いられた種である。]

大和怪異記 卷之二 第九 芦名盛氏は僧の再來なる事

 

[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の分は、ここと、ここ(単独画像。前者に挿絵有り)。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。

 挿絵があるが、これは「近世民間異聞怪談集成」にあるものが、状態が非常によいので、読み取ってトリミング補正し、冒頭に挿入した。因みに、平面的に撮影されたパブリック・ドメインの画像には著作権は発生しないというのが、文化庁の公式見解である。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。なお、底本のルビは歴史的仮名遣の誤りが激しく、ママ注記を入れると、連続してワサワサになるため、歴史的仮名遣を誤ったものの一部では、( )で入れずに、私が正しい歴史的仮名遣で《 》で入れた部分も含まれてくることをお断りしておく。]

 

     第九 芦名盛氏は僧の再來なる事

 

Asinamoriuji

 

 

 奧州伊達郡に、「菖蒲澤《しやうぶさは》の上人」とて、有驗(うけん)の僧ありけるが、芦名盛舜(《あしなもり》とし[やぶちゃん注:ママ。])の家老、松本・平田・佐瀨・富田《とみた》を、うらむる子細あつて、

「我(われ)、隔生(きやくせう[やぶちゃん注:ママ。])に會津の主(あるじ)とうまれ、四人の者どもを、したがへむ。」

と云《いひ》て、程なく、死す。

 此一念によつて、盛舜の子、盛氏と生(うま)る。

 其いはれは、其ころ、廻国の白拍子ありて、會津に來《きた》る。

 盛舜、これを寵愛す。

 ある夜(よ)の夢に、ひとりの僧、來りて、女にむかつて、

「汝が胎内を、からん。」

ことを、こふ。

 女、應諾(《わう》だく)して、夢、さめ、程なく姙(はらみ)す。

 月ごろ、たりて後、家臣富田に、此女を、あづけらる。

 富田も又、此女、はらみけるころ、一僧、來りて、

「我、かの女が胎(たい)をかつて[やぶちゃん注:ママ。]後、汝がもとに、託《たく》せむ。」

と云《いふ》と、夢(ゆめ)む。

 はたして、姙婦(にんふ)をあづかり、あやしみ思ふ所に、又、女、はらめるはじめの夢をかたるに、富田が夢と符節(ふせつ)を合《あはし》たるがごとし。

 誕生の後、

「二人ともに、同じ夢のよし。」

を盛舜に披露す。

 此男子、四、五歲の比より、異相、あつて、かしこく、會津四人の家老をはじめ、おのおの、恐怖する事、甚だし。

 元服ありて、盛氏と名乘《なのり》、隣国に武名をあらはせる、となり。「會津四家合考《あひづしけがふかう》」

[やぶちゃん注:典拠とする「会津四家合考」は天正八(ユリウス暦一五八〇)年から慶長六(グレゴリオ暦一六〇一年:江戸幕府開府の二年前)年までの岩代国会津に於ける葦名・伊達・蒲生・上杉の四家の出来事を会津松平家家臣向井新兵衛が記した武辺史書で寛文二(一六六二)年成立。幸いにして国立国会図書館デジタルコレクションの「会津四家合考 南部根元記二」(大正四(一九一五)年国史研究会刊)のここで当該部を確認出来た。但し、前後でしつこく「野人怪妄の雜談」「野人の妄談」と断っている。

「芦名盛氏」蘆名盛氏(大永元(一五二一)年~天正八(一五八〇)年)戦国武将。蘆名氏は平(たいら)姓(せい)三浦氏系統の一族で、南北朝期には、会津に勢力を廻らし、盛氏の代に全盛期を迎えた。金上盛興(盛貞とも)の娘を母として、盛舜の次男として会津に生まれた(長男の氏方は遊女腹(サイト「会津への夢街道 夢ドライブ」の「蘆名氏」のページに『側室 川野御前(白拍子)』とあった)であったからか、盛氏が誕生すると、黒川城を出され、富田義実の元で養育された。永禄四(一五六一)年二月に盛氏が長沼実国を攻めるために黒川を留守にした際、義実父子らに奉じられ、謀叛を企てたが、数日で鎮圧されて家臣と共に自害している。ここは当該ウィキに拠った)。天文一九(一五五〇)年、田村隆顕と戦うなど、安積郡への支配を強め、安達郡,・岩瀬郡方面にも進出、また、北進化する佐竹氏に対抗するため、白川小峯氏と戦い、さらに元亀二(一五七一)年には北条氏とも同盟し、佐竹氏と、連年、交戦した。天正六(一五七八)年頃までには、田村郡は守山まで、石川郡は、ほぼ全域を掌握した。越後方面では永禄七(一五六四)年に武田信玄と連携し、菅名庄に侵入、天正六年の「上杉御館(おたて)の乱」にも上杉景虎に味方して出兵した。室町幕府は「大名在国衆」の一人として蘆名氏を扱っている(永禄六年の「諸役人付」に拠る)。一度、隠退し、会津黒川城から大沼郡岩ケ崎城に移り、「止々斎」と号したが、その子盛興の死に伴い、再び政務に戻った。天正五年頃からは、佐竹氏と協調し、大連合して、伊達・田村勢力と対抗する構図を形成した。領国政策では、徳政令の発布や流通統制によって、領内支配を強化した(以上の主文は概ね朝日新聞出版「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

「奧州伊達郡」陸奥国及び岩代国で現在の福島県北部の伊達市(グーグル・マップ・データ)相当。

『「菖蒲澤の上人」とて、有驗(うけん)の僧ありけるが、芦名盛舜(とし)の家老、松本・平田・佐瀨・富田を、うらむる子細あつて』「菖蒲澤の上人」は不詳だが、「会津四家合考」ではちゃんと彼が怨んだ具体的な理由が書かれてある。一部に句読点・記号・読み(推定・歴史的仮名遣)を挿入した。踊り字「く」は正字化した。

   *

此先、一年、蘆名と伊達と確執(かくしふ)なる事あり。其時、伊達より和を乞はれけるに、「しやうぶ澤の上人」とて、其頃、有驗(うげん)の僧、伊達にあり、此僧を和睦の使(し)に、會津へ越(おこ)さる。時に四天の宿老共、一向、許容せねば、上人、手を失ひ、本意(ほい)なく歸りけるが、路(みち)すがら、四天の宿老共の振舞を由(よし)なく思ひ、「願はくは、我、隔生(きやくしやう)に、會津の主護(しゆご)と生れて、ねたかりし四天の宿老共を、怖れしめたき。」と、瞋恚(しんい)、熾盛(しせい)し、檜原峠より、會津の方を、見返り、見返り、觀念し、伊達に歸りて、程なく、死す。

   *

ここで「家老」とする「松本・平田・佐瀨・富田」は、一々、調べて注する気にならない。悪しからず。但し、この内の「富田」は前で注した庶長子の蘆名氏方が預けられ、氏方を唆して謀反を企てて滅ぼされた富田義実(とみたよしざね)であろう。彼は「菖蒲沢の上人」の祟りを最も強く受けた一人であったこと(という本話のニュアンス)だけは判る。思うに、この伝承は、先の引用先で「白拍子」(この頃の白拍子は既に芸能者であると同時に春を売る遊女でもあった。挿絵の女も被りものが、モロ白拍子というのは、逆にいかにも過ぎてちょっと違和感がある)のこの氏方の出生と、盛氏の果敢な性格とが混同されて形成されたもののように見える。

「隔生」「きやく(きゃく)」は「隔」の呉音。 仏語で「生(しょう)を隔てて、生まれかわること。」を意味する。

「盛舜(とし)」蘆名盛舜(もりきよ 延徳二(一四九〇)年~天文二(一五五三)年:享年六十四歳)戦国武将で蘆名氏第十五代当主。永正一八(一五二一)年に兄盛滋の跡を継ぎ、陸奥会津黒川城主となる。家臣の猪苗代氏らの反乱を鎮圧し、領国の支配を固めた。享禄元(一五二八)年、伊達稙宗(たねむね)を助けて、石巻城の葛西氏を攻めた(講談社「デジタル版日本人名大辞典+Plus」に拠った)。]

大和怪異記 卷之二 第八 石塔人にばけて子をうむ事

 

[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の分は、ここと、ここ(単独画像)。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。なお、底本のルビは歴史的仮名遣の誤りが激しく、ママ注記を入れると、連続してワサワサになるため、歴史的仮名遣を誤ったものの一部では、( )で入れずに、私が正しい歴史的仮名遣で《 》で入れた部分も含まれてくることをお断りしておく。]

 

 第八 石塔(せき《たふ》)人にばけて子をうむ事

 大内左京太夫義弘(おほうちさきやう《たいふ》よしひろ)、在京のとき、「玉屋《たまや》)」といへる糸屋(いと《や》)が娘に、ちぎり、歸国のとき、つれてくだりまほしけれ共《ども》、さはる事あれば、

「むかひに、人をのぼすべき。」

と云《いひ》かはし、とかくして、打過《うちすぎ》たりしを、女、おもひわづらひて、身まかりぬ。

 父母、かなしみにたへず、發心(ほつしん)しけり。

 かゝる所に、彼(かの)女、周防(す《はう》)の山口にいたり、義弘の許《もと》へ、「御あとをしたゐ[やぶちゃん注:ママ。]、くだりたる。」

由(よし)を云入(いひ《いれ》)しかば、義弘、

「女の身として、はるばるの旅泊を凌(しのぎ)、よくこそ、來りたれ。」

とて、妹背(いもせ)の契(ちぎり)、あさからざりし中に、ひとりの男子を、まうけたり。

 其子、三歲のときに、世をのがれし父母、修行の身となり、周防にくだり、かなたこなた、徘徊せしに、相《あひ》しれる人に、あひ、

「娘に、をくれし[やぶちゃん注:ママ。]歎(なげき)にたえず、かく、さま、かへ侍り。さすが、殿の御事を思ひにたえで、よそながらも、見たてまつらんと、くだりし。」

と、かたりて、なきければ、其人、手をうちて、

「不審なる事かな。足下(そこ)の息女は、こなたにくだり給ひ、若君、出來(いでき)、はや、三歲にならせ給へ。」

とて、殿に、

「かく。」

と、つげしかば、

「それ、めせ。」

とて、むかえ[やぶちゃん注:ママ。]とり、むすめに、

「汝が親ども、來《きた》れり。いで、あへ。」

と有《あり》しかば、一間(ひとま)なる所に入《いり》て、衣(きぬ)、引《ひき》かづき、ふしたりしを、行《ゆき》て見れば、五輪一基(いつき)、有《あり》て、女は、見えず。

 義弘も、大《おほき》におどろき、あはれに思ひ、いみじく、跡を、とふらはる。

 其男子、ひとゝなりて、「石丸」何がしと名づく。

 石丸氏の祖なり。

[やぶちゃん注:典拠の「同」は前話と同じ「犬著聞」を指す。正しくは「犬著聞集」。本書は既に前々話の冒頭で注済み。「犬著聞集」自体は所持せず、ネット上にもない。また、前話の最後で示した同書の後代の再編集版である神谷養勇軒編の「新著聞集」にも採られていない。

「大内左京太夫義弘」(延文元/正平一一(一三五六)年~応永六(一四〇〇)年)は南北朝末から室町前期の武将。弘世(ひろよ)の子。周防介・左京権大夫(さきょうごんだゆう)。周防・長門・豊前・和泉・紀伊の五ヶ国の守護。建徳二/応安四(一三七一)年、九州探題今川貞世(さだよ:了俊(りょうしゅん))に従い、転戦し、天授三/永和三(一三七七)年には懐良(かねよし)親王を奉ずる菊池武朝(たけとも)を大破した。元中六/康応元(一三八九)年三月の足利義満の厳島参詣に際し、防府にて迎え、義弘はこれに随行して二十七日から二十八日に上洛、以後、義弘は幕政の中枢に参加したため、在京が多くなる。元中八/明徳二(一三九一)年の「明徳の乱」では幕府方として反乱を起こした山名氏清らを破るなど、活躍し、その功により、山名氏の旧領国である和泉・紀伊の守護職を与えられている。また、南北朝合体斡旋に尽力した。さらに室町幕府と朝鮮との通交に仲介の労をとり、自らも朝鮮と交易して強盛を誇った。応永六(一三九九)年、義弘は、大内氏が百済の後裔であることを理由に、その縁故の土地を分けてくれるよう、朝鮮に要求していることは注目に値する。同年、義弘は鎌倉公方足利満兼や山名時清らと謀って「応永の乱」を起こしたが、地方での挙兵も鎮圧され、和泉堺に拠った義弘も幕府軍の攻囲を受け、十二月二十一日(ユリウス暦では一四〇〇年一月十七日)、敗死した。享年四十五。また、義弘は和歌・連歌に通じ、「新後拾遺和歌集」の作者に列している。死後、堺の義弘山(ぎこうさん)妙光寺に葬られたが、後に、彼が、生前、山口に建立した菩提寺である香積寺(こうしゃくじ:現在の瑠璃光寺)に移葬された(小学館「日本大百科全書」に拠ったが、一部で当該ウィキも参考にした)。「在京のとき」。元中六/康応元(一三八九)年三月末以降の初上洛を時制としてよいか。但し、史実上は、上記の通り、それ以降は在京が多くなるので、本話の内容とは上手くは噛み合わない。以下の「石丸」某の注に引いた内容からは、実は義弘の没年である応永六年の出生とする。

『「石丸」何がしと名づく。石丸氏の祖なり』不詳。但し、その末裔とする戦国末から江戸初期の石丸忠兵衛なる人物がおり、サイト「愛媛県生涯学習センター」の「石丸忠兵衛」のページによれば、石丸忠兵衛(天正一三(一五八五)年~万治元(一六五八)年)は現在の今治市の『越智朝倉下村に』『生まれる。その祖は大内義弘で、応永』六『年』、『一子石丸の来住と伝える。庄屋、開拓者。初め甚蔵、後に忠兵衛吉久と改める。寛永』六(一六二九)年から同九『年の間、松山藩庁の許可を得て同村野々瀬原を開拓し、同村天王堰から山鼻を開削して水田』十二『町余を得た。しかし同地が今治藩との係争地となり、両藩協議によって野々瀬は今治領の朝倉中村となり、朝倉中村の内字岡、榾を朝倉下村とした。忠兵衛は仕方なく同郡長沢~桜井間の湾入の低湿地に着目、藩許を得て寛永』一一(一六三四)年五月、『一族と共に移住し、干拓に着手、同』十七『年に田畑』十五『町』七『反余を得た。後に藩は彼の功を賞して忠兵衛作村を立村し、忠兵衛を庄屋とした』(但し、忠兵衛の死後百五年の後の明和二(一七六五)年に『松山藩が』一『万石上地の際に、同村』は『長沢・桜井』の『二村に分割されて消失し』てしまっている)。鋭敏『闊達で』、『胆力があり』、『忠厚』の人物であったと『伝える。墓所は朝倉村満願寺にある。雲晴院秘月道円居士。(『愛媛県史 人物』より)』とあった。]

大和怪異記 卷之二 第七 一條兼良公御元服のとき怪異ある事

 

[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の分はここから。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。なお、底本のルビは歴史的仮名遣の誤りが激しく、ママ注記を入れると、連続してワサワサになるため、歴史的仮名遣を誤ったものの一部では、( )で入れずに、私が正しい歴史的仮名遣で《 》で入れた部分も含まれてくることをお断りしておく。]

 

 第七 一條兼良(かねよし)公御元服(《ご》げんぶく)のとき怪異ある事

 一條兼良公、十二歲にならせ給ひ、御元服有《あり》しとき、虛空(こくう)に、ものゝ聲して、

 さるのかしらにゑぼしきせけり

と、きこえしかば、其まゝ、緣にはしり出《いだ》させ給ひて、

 元服はひつじの時のかたふきて

と、つけさせ給ひし、となり。

 此君の御かほ、猿に似たまへる故とぞ。

 おさなくわたらせ給ふときより、御才智、他にすぐれ、博識にして、あらはし給ふ書、おほし。「犬著聞」

[やぶちゃん注:原拠は「犬著聞集」が正しい。本書は既に前話の冒頭で注済み。「犬著聞集」自体は所持せず、ネット上にもない。また、前話の最後で示した同書の後代の再編集版である神谷養勇軒編の「新著聞集」にも採られていない。

「一條兼良(かねよし)公、十二歲にならせ給ひ、御元服有《あり》しとき」「一條兼良」(応永九(一四〇二)年~文明一三(一四八一)年)は室町前期から後期にかけての公卿で古典学者。名は「かねら」とも読む(私は一貫して「かねら」と読み慣わしてきた)。関白左大臣一条経嗣の六男で、一条家八代当主。最終官位は従一位で、摂政・関白・太政大臣・准三宮。但し、当該ウィキ(引用符内はこちらのもの)、及び、信頼出来るネット上の「一条兼良略年譜」PDF)でも、正長二(一四二九)年、二十八歳で『左大臣に任ぜられるが、実権は従兄弟の二条持基に握られて』おり、永享四(一四三二)年八月十三日には『摂政となったが』、『月余で』(後者によれば、十月二十七日)『辞退に追い込まれ、同時に左大臣も辞職を余儀なくされる』(後者によれば、摂政辞任の前の八月二十八日)。『その背景には』、『同年に実施された後花園天皇の元服を巡る』、『兼良と二条持基の対立があった』。嘗つて、『後小松天皇の元服の際に、摂政の二条良基が加冠役』を、『将軍の足利義満(左大臣)が理髪役を務めた。後花園天皇の元服を後小松天皇の先例に倣って実施しようとした際に、二条家の摂政が加冠役』、『足利将軍が左大臣として理髪役を務めるべきとする主張が出され、兼良は摂政を持基に、左大臣を足利義教に譲』らざるを得ない状況へ追い込まれのであった、とある。『その後は』政治的に『不遇をかこったが、学者としての名声は高ま』った。『将軍家の歌道などに参与し』、古典・有職故実・神道・和歌に通じていたため、周囲からも「日本無双の才人」と評され、自身も「菅原道真以上の学者」と豪語しただけあって、「公事根源」・「桃華蘂葉」・「樵談治要」・「文明一統記」・「花鳥余情」・「日本書紀纂疏」や、複数の「源氏物語」注釈書など、著書も多い。さて、当該ウィキによれば、応永一九(一四一二)年、『病弱であった兄の権大納言・経輔が隠居した後を受け、元服して家督を継ぐ』とあり、生年を見て貰うと、本篇の「十二歳」というのは、「十一歲」でないとおかしいことが判る。前掲「一条兼良略年譜」でも、『応永十九(一四一二)』の数え十一歳の十一月二十八日に『元服、禁色・昇殿を聴』(ゆる)『され、正五位下い叙せらる(補任』(「公卿補任」)『・一条家譜)』とあるので、誤りである。因みに、応永十九年十一月二十八日はユリウス暦でギリギリの一四一二年である(グレゴリオ暦換算では翌一四一三年一月九日となる)。

「さるのかしらにゑぼしきせけり」「元服はひつじの時のかたふきて」南方熊楠の知られた『十二支考』の内の「猴に関する民俗と伝説」の「一 概言(1)」(大正九(一九二〇)年一月発行『太陽』初出)のまさに冒頭の枕として本話を洒落て引き、

   *

 一条摂政兼良公の顔は猿によく似ておった。十三歳で元服する時、虚空に怪しき声して「猿のかしらに烏帽子(えぼし)きせけり」と聞こえると、公たちまち縁の方へ走り出でて「元服は未(ひつじ)の時の傾きて」と付けたそうだ。予が本誌へ書きかけた羊の話も、例の生活問題など騒々しさに打ち紛れて当世流行の怠業中、未の歳も傾いて申(さる)の年が迫るにつき、猴(さる)の話を書けと博文館からも読者からも勧めらるるまま今度は怠業の起らぬよう手短く読切りとして差し上ぐる。

   *

と述べている(所持する平凡社「南方熊楠選集」第二巻(一九八四年刊)に拠った)。未の刻は午後二時前後、申の頭(「かしら」)は午後三時である。怪しの響きが虚空から齎したいまわしい前句の意の即物性を、完璧に時刻へと転じて封じ込め、自らの元服の言祝ぎへとメタモルフォーゼさせた手腕は、凡そ現在の普通の中学一年生には無理であろう。作り話ながら、面白い。]

2022/11/17

大和怪異記 卷之二 第六 吉田兼好が墓をあばきてたゝり有事

 

[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の分はここ(単独画像ページ)。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。なお、底本のルビは歴史的仮名遣の誤りが激しく、ママ注記を入れると、連続してワサワサになるため、歴史的仮名遣を誤ったものの一部では、( )で入れずに、私が正しい歴史的仮名遣で《 》で入れた部分も含まれてくることをお断りしておく。]

 

 第六 吉田兼好(けんかう)が墓をあばきてたゝり有《ある》事

 兼好法師、高師直(かうのもろ《なほ》)にそむきて後、伊賀守橘成忠《たちばなのしげただ》を賴《たより》て、伊賀国にいたり、阿拜郡《あはいのこほり》多那尾村《たなをむら》国見山《くにみやま》の麓(ふもと)、田井といふ所に住居(すみゐ)す。

 此とき、成忠が女子(むすめ)、十七、八にて、容色すぐれたるありしに、兼好、密通し、他(た)にしられんことを恥(はぢ)て、

〽しのぶ山又ことかたの道もがなふりぬる跡は人もこそしれ

と、よめり。

 かくて、數年を經て、貞治元年五月廿三日、兼好、病死す。六十三歲なり。國見山に葬(はうふ)る。

 しるしに、松を植置(うえおき)しに、近きころ、土民とも[やぶちゃん注:ママ。]、塚をほりてみれば、六尺四方斗《ばかり》に、刀《かたな》を、

「ひし」

と、うゑ、其下に、大瓶・小瓶を置《おき》、其中に、鏡(かゝみ)、あり。

 不審に思ふに、殊の外に、たゝり有《あり》ければ、おそれて、もとのごとくに埋(うづみ)ぬ。

[やぶちゃん注:典拠が挙げられていないが、次話「第七 一條兼良公御元服のとき怪異ある事」が典拠とする「犬著聞集」(いぬちょもんじゅう) に係わるものであることが判った。「犬著聞集」(いぬちょもんじゅう:別名「古今犬著聞集」)は江戸初・中期の俳諧師椋梨一雪(むくなしいっせつ 寛永八(一六三一)年~宝永三(一七〇六)年から宝永五年頃か)が書いた江戸時代の説話集の濫觴の一つで、貞享元(一六八四)年に成稿、元禄九(一六九六)年板行されている。但し、本篇は当該書ではなく、以下に示す論文と、「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の解題から、本篇は、椋梨が儒学者で神道家であった谷泰山谷秦山(たにしんざん 寛文三(一六六三)年~享保三(一七一八)年)に送った「犬著聞集抜書」に拠っていることが判明している。調べてみたところ、底本と同じ「新日本古典籍総合データベース」のこちらで、当該抜書と同一と思われる写本「犬著聞集 拔書 全」(高知県立高知城歴史博物館・山内文庫)があり、その「兼好法師塚叓」(けんかうはうしつかのこと)がそれであると思われる。ただ、前半の和歌までの内容はなく、塚の話がほぼ一致している。因みに、原拠のそこでは、を掘ったのを、『寛文七年歳』(一六六七年)と明記していることが注目される。因みに、土屋順子氏の解題によれば、本「大和怪異記」の出典の多くは「犬著聞集」に求められるとされ、『その数は飯倉』洋一『氏の調査によれば』、本書『所収の説話百五話のうち』、半分を超える『五十六話に及ぶ』とされる。私は生憎、同書を所持せず、ネットでも完本を披見出来ないため、原拠との対比が出来ないことは、ちょっと残念ではある。

 さて、先に私が述べた論文とは、「J-STAGE」のこちらからダウン・ロードできる川平敏文氏の「兼好伝と芭蕉」(『近世文藝』第六十五巻所収・一九九七年発行)で、その17ページ上段末から二行目以降がそれである。さらに、本篇の前半の兼好が女の色香に惑うという如何にも作話性の強い怪しい箇所については、その原拠とともに、同じ川平氏の論文「兼好伝の造型――『園太暦』偽文を読む――」(熊本大学『文学部紀要』第九巻二号所収・二〇〇三年三月発行/「熊本県立大学学術リポジトリ」のここからダウン・ロードできる)がそれを明らかにしておられるので、是非、参照されたい。ここに出る「園太暦」(えんたいりゃく)は、兼好と同時代人であった「中園太政大臣」と称された鎌倉後期から南北朝時代の公卿洞院公賢(きんかた)の実在する漢文体日記であるのだが、川平氏は論の冒頭で、

   《引用開始》

 兼好がその晩年を伊賀国のとある山村で過ごし、そこで最期を遂げたという、何とも奇妙な行状が世に注意されるようになるのは、ちょうど『徒然草』の注釈書が量産され、様々な角度からの「読み」が交錯していた時期と重なる。すなわちそれは、前述した『徒然草』の「発見」から約七〇年が過ぎた頃、寛文・延宝期[やぶちゃん注:一六六一年から一六八一年、]である。いま、この偽文を〈『園太暦』偽文〉と称する事とするが、それはこの偽文が、兼好と同時代の公卿、洞院公賢の漠文体日記『園太暦』からの抜粋という体裁で書き綴られているからである。

   《引用終了》

とある。我々は、この「大和怪異記」の本篇を相当に眉に唾して読む必要があるのである。

「兼好法師」卜部兼好(うらべかねよし 弘安六(一二八三)年頃?~文和元年/正平七(一三五二)年以後?)は、知らぬ者のないほど、古文の授業でやった。かなり長い間、大学受験の古文のバイブルが「徒然草」の全文であった(私も一応、古い学習参考書で全文を、嫌々、読んだ)。私は定番の「あだし野の露」と「花は」以外は、辛気臭くて嫌いであったから、それ以外はすっ飛ばすのを常としていた。所収する笑話や擬似怪奇談も高校生時代からまるで面白くなかった。だから、度応時期に芥川龍之介の「侏儒の言葉」を読んで、その「つれづれ草」(私のブログの同条の「やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈」を参照)を読んだ時は、痛快極まりなかったのを覚えている。

「高師直」(?~正平六/観応二(一三五一)年)は足利尊氏に側近として仕えた武将で官僚。歌人としても知られた。正式な名乗りは「高階師直」(たかしなのもろなお)である。当該ウィキ他によれば、事実、晩年に兼好の方が接近して親交があり、『公卿洞院公賢に狩衣着用の規則を尋ねる際、兼好法師を使者として遣わしている』(「園太暦」貞和四(一三四八)年十二月二十六日の条)とある。しかし、また、彼は、「太平記」では『卑小な好色家としても描かれる。例えば、師直が塩冶高貞の妻に横恋慕し、恋文を』『吉田兼好に書かせ、これを送ったが』、『拒絶され、怒った師直が高貞に謀反の罪を着せ、塩冶一族が討伐され』、『終焉を迎えるまでが描かれている』とある。「あだしの露」を授業で初めて読んで、ちょっと感心した高校時代の私は、その古典の蟹谷徹先生の雑談で、ラヴ・レター代筆を聴くや、一気に鼻白んだのを覚えている。兼好は、「徒然草」から想像される隠者などではなく、生涯を通じて、諸著名人の関係を結んで工作を成した俗臭の強い男であり、その故に父が神職であった吉田神社との関係などでも上手くゆかなかった。ここでは兼好が彼「にそむきて」とあるが、そうした彼の小賢しい部分を見抜いた師直が、体よく使い捨てたというのが、事実ではなかろうか。

「伊賀守橘成忠」不詳。同姓同名の人物がいるが、戦国時代の武将であり、違う。彼が兼好を招いたとする話は、先の川平氏が後者の論文で示された「園太暦」偽文が元であろうからして、架空と考えてよい(ネットで兼好を招いた伊賀守橘成忠という文々(もんもん)はあっても、その人物が如何なる事績の実在した人物であるかを述べているものは、管見した限り、一切ないのである。例えば、兼好がメインではないが、サイト「三重の木」の「種生のオオツクバネガシ」(伊賀市指定天然記念物)を参照。「兼好塚」の写真もある)。川平氏自身、そこで『伊賀守橘成忠なる』(☜「なる」に注目)『人物と親交のあった兼好が伊賀国に下り、国見山のふもと田井庄に結庵した事、そして其頃十七、八歳であった成忠の娘と数年にわたって通じていた事』を「園太暦」偽文の『何と言っても』『新奇な点』の一つである、と述べておられることからもほぼ明らかなのである。

「伊賀国」「阿拜郡多那尾村国見山」現在の三重県伊賀市種生(たなお)「国見山城跡」(グーグル・マップ・データ)があり、その山城の北西の麓の平地の向かいの山の下に伝「兼好法師終焉之地(草蒿寺跡)」(グーグル・マップ・データ航空写真)がある。サイド・パネルの伊賀市教育委員会の説明板をリンクさせておく。なお、「阿拜」は現代仮名遣で「あはい」の他、「あえ」と読む。

「田井」「Stanford Digital Repository」のこちらで戦前の地図を見たが、これに相当する小字地名は見当たらなかった。従って読みも不明である。

「しのぶ山又ことかたの道もがなふりぬる跡は人もこそしれ」「新拾遺和歌集」の卷第十一 戀歌一」に兼好の作として載る(所持しないので国立国会図書館デジタルコレクションの「二十一代集 第九」のこちらで確認した)。

   *

   忍久戀

しのふ山又ことかたに道もかなふりぬる跡は人もこそしれ

   *

「貞治元年五月廿三日」南朝で正平十七年、北朝は康安二年九月二十三日に貞治に改元している。従ってまだ康安二年であるが、改元年は後代に記す場合、元日に遡って表記するのが普通であるから問題はない。ユリウス暦一三六二年六月十五日でグレゴリオ暦換算で六月二十三日。

「六十三歲なり」機械換算すると、彼の生年は正安二(一三〇〇)年となる。現在の推定

生没年より、不自然ではないが、かなりのズレがある。

「六尺」約一メートル八十一センチメートル。

『刀を、「ひし」と、うゑ、其下に、大瓶・小瓶を置《おき》、其中に、鏡(かゝみ)、あり』ちょっと聞いたことのない、恐ろしげな埋葬法・副葬品である。

 なお、本篇は後の寛延二(一七四九)年刊の紀州藩士の学者神谷養勇軒の「新著聞集」(こちらの「新著聞集往生篇第十三に、上總福津(ふつつ)のじやじや庄右衞門てふ大若黨者、……」の私の注を参照されたいが、実は椋梨の「犬著聞集」の再編集版である)の「第六巻 勝蹟篇」にも載る。所持する吉川弘文館随筆大成版の当該部を恣意的に正字化して示す。

    *

   ○伊賀國兼好法師の塚

伊賀の國阿拜郡多那尾村の内國見山に、吉田の兼好塚あり。そのしるしに松のありし。寬文七年に、土民ども塚をほりくずしてみれば、四面六尺ばかりに、刀をひしとつめ、其下に大小の甁二つありて、中に鏡をおさめし。此ころ、村中多く煩しまゝ、神子をよせてきゝしに、塚を崩せし咎めにてありしと云しを、地頭の藤堂玄蕃殿聞たまひ、かばかりの舊蹟を、容易に掘べき事かはとて、本のごとくにおさめおかれしと也。洛西の雙丘に、無常所をかまへしと、みづからの家の集に記されしかど、もしその比、亂世にて、かゝる所へさそうへ[やぶちゃん注:底本にママ注記有り。「左樣に」か。]行れしやらん。いと不審き事なり。

   *]

2022/11/16

大和怪異記 卷之二 第五 源實朝は宋鳫陽山の僧の再來なる事

 

[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の分はここ(標題は前ページ)。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。なお、底本のルビは歴史的仮名遣の誤りが激しく、ママ注記を入れると、連続してワサワサになるため、以降では、歴史的仮名遣を誤ったものの一部では、( )で入れずに、私が正しい歴史的仮名遣で《 》で入れた部分も含まれてくることをお断りしておく。]

 

 第五 源實朝は宋(そう)鳫陽山(がんやうさん)の僧の再來なる事

 右大臣源實朝公、ある夕(ふゆべ)、㚑夢(れいむ)の告(つげ)あり。

「前生(ぜんじやう)は、宋の温州鳫陽山の僧なり。今、日本の將軍と、うまる。」

と。

 さめて後《のち》、詠哥(ゑいか)に、

〽よもしらじ我もえ知ずからくにの いはくら山に薪(たきゞ)こりしを

                  「紀州志」

[やぶちゃん注:原拠とする「紀州志」については、「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の解題では、「南紀名勝路志」を正式書名とするが、これは「南紀名勝略志」の誤りである。「南紀名勝志」とも言う。底本と同じ「新日本古典籍総合データベース」の「南紀名勝略志」でやっと見つけた。「日高郡」の中の「鷲峯山興國寺」(しゅうほうざんこうこくじ)の条の中の記載である。ちょっと長いが、内容がブッ飛んでいるので、実朝に関連する箇所のみを訓読して電子化する。段落を成形し、句読点・記号を打ち、一部に歴史的仮名遣で読みや濁点を推定で入れた。【 】は二行割注。

   *

  鷲峯山興國寺

 由良庄、門前村の西北にあり。

 緣起に曰(いはく)、

『夫(そ)れ、紀州海部郡(かいふのこほり)由良の莊(しやう)、鷲峯山西方寺(さいはうじ)草創由来の事。

 抑(そもそも)、當時、本願檀那、願性(ぐわんしやう)上人は、関東の武士、藤原景倫(ふじはらのかげとも)、葛山(かつらやま)の五郎なり。

 右丞(うじやう)将軍實朝(さねとも)公の、寓直(ぐうちよく)の近習(きんじふ)にして、恰(あたか)も、影の形に隨ふごとし。

 然(しかれ)ども、實朝、一夕(いちゆふ)、

「吾が前生は、宋の温州雁蕩山(がんたうざん)に夙因(しゆくいん)有り。其の功力(くりき)を以て、日本の将軍と為(な)る。」

と夢(ゆめみ)て、覺(さめ)て後(のち)、詠歌、有り、

  世もしらじ我もえしらじから國のいはくら山に薪とりしを

 加-旃(しかのみならず)、建仁開山葉上僧正[やぶちゃん注:栄西のこと。]の夢めに、

「実朝公は、玄奘三蔵の再誕なり」

 所以(このゆへに[やぶちゃん注:ママ。])、身は靑油幕(せいゆばく)に在りと雖(いへど)も、心は常に墨汁の衣(ころも)に染む。

 実朝、宋朝に於て、之(これ)、前因(ぜんいん)、唯一ならず。

 然(しか)るに、景倫を以て、宋國に差(さ)し遣(つかは)され、

「彼(か)の雁蕩山を繪圖に寫(うつ)し来(きた)れ。日本に於て、圖のごとくに、寺を建(たつ)べし。」

 仍(より)て、景倫、其の命を奉(たてまつり)て、鎮西博多(はかた)の津(つ)に下(くだ)り、宋舶(そうせん)の順風を待つ處に、関東より、飛脚、下(くだり)て、

「去る正月廿七日【𣴎久(じようきう)元年。】将軍御夭薨(ごえうこう)」

の訃(ふ)を告ぐ。

 景倫、哀歎(あいたん)して、即時に、髪、剃(そ)り、衣、染めて、法名を「願性」と称す。

 再び鎌倉に帰らず、徑(たゞち)に髙野に登り、主君實朝将軍、御菩提を弔ひ奉る。

 誠に以て、忠心の致す所(ところ)なり。

 實朝御母儀、尼将軍【賴朝の御内(みだい)。従二位政子(まさこ)。】、此の㫖(むね)を聞し召(めし)て曰(のたま)はり、

「近習、七百人の中(うち)に忠義、景倫にしく者、無し。」

 然る間(あひだ)、髙埜(かうや)居住・資緣(しえん)の為めに、由良庄地頭職を下し賜はる。

 承久三年辛巳、入部、其れより、七年後(のち)、安貞元年丁亥、當寺を建立【「西方寺」と号す。】、右丞相(うじやうしやう)兼(けん)征夷将軍実朝公、并(ならび)に、二品(にぼん)真如大禪定尼[やぶちゃん注:政子。]兩㚑(れい)の御菩提の為めに、當荘の地頭職、二つに割(さ)き分(わけ)て、半分充(はんぶんあて)、金剛三昧院と西方寺とに寄進す。兼(かね)て、願性、金剛三昧院、居住の砌(みぎ)り、鹿跡(しゝどの)二郎入道西入(せいにふ)、将軍葬所に於て、御頭骨(おんとうこつ)を取り、持ち来(きたつ)て、願性に付輿す。

 願性、當寺、思遠卵塔(しをんらんたう)の西に就(つけ)て、實朝の石塔を建て、塔の火輪(くわりん)の中に、御骨(おんこつ)、半分を安ず。師、其の半骨(はんこつ)を以て實朝前生の國に納めんと欲す

[やぶちゃん注:以下は原本でも改行している。]

師四十五歳、宋の淳祐十一年、明州、育王山(いわうざん)【「育(い)」は唐音。】掛塔(クハタ)す[やぶちゃん注:ママ。]。寺は平坦なる山の中(なか)に在り。爰(ここ)に、塔、有(あり)、是れ、阿育王八万四千基の其一(いち)なり【故に「育王山」と曰(いふ)。】〉。傳に曰(いはく)、

『定海(ぢやうかい)の網人(あみびと)、此の塔を牽(ひ)き上(あげ)たり。』

と。又の說(せつ)には、

『寺より、四、五町の外(ほか)に、大石(だいしやく)の上に現(げん)じて、舍利、光明を放ちたまふ。』

と。

 諸國より、毎年、二、三月、人、多く参詣す。奇瑞、太(はなは)だ、多し。大権菩薩(だいごんぼさつ)を守護神と為(な)す。

 師、此の山に於て、一宇の堂を建て、日本将軍實朝の遺骨を、等身の観音の像の肚内(づない[やぶちゃん注:原本は「ツー」。この読みの後者の長音符のようなものは、他の箇所からも普通の「音(オン)」を指示する記号ととった。)に安ず。凢(およ)そ、實朝前生の鴈蕩山に遺骨を納めらるべきに、此の山に安措(あんそ)したまふ。未-審(いぶか)し、師の意、如何。師、此山に止住(しぢゆう)すること三年

師五十二歳、正嘉二年戊午、嗣書(ししよ)を無門和尚に通(つう)す。禪定院の住持を罷(や)めて由良鷲峯に遊(あそび)て、終老(しゆうらう)の志(こころざし)有り。功徳主、願性、拝請(はいせい)して、以て、開山住持と為(な)して、同心同力に、精藍(せいらん)を新たにして、後鳥羽禪定法皇の仙駕を資嚴(しごん)し、專(もつぱ)ら、実朝公・真如禪定尼の為に、道塲を追修(ついしゆ)す【安貞元年丁亥、由良の庄地頭、願性、始て此の西方寺を、建立より、三十二年の間、他宗なり。茲(こ)の年、前意を囘(かへ)して、改めて禪刹と為(し)、覺心長老を拝請(はいしやう)す。以て、開山住持と為す。】。願性云く、

「師は、戒珠、疵(きず)無(なく)、道眼(だうがん)、是(これ)、明かなり。是の故に、道俗、嶮(けん)を冒(をか)して、遠近(をちこち)、風(ふう)に趍(わし)ると云」。』[やぶちゃん注:以下略。「わしる」は「走る」で、「競って、その足下へと走り集まってくる」の意でとった。]

   *

まず、この「鷲峯山興國寺」であるが、これは、現在の和歌山県日高郡由良町にある臨済宗妙心寺派鷲峰山(しゅうほうざん)興国寺(こうこくじ:グーグル・マップ・データ)で、本尊は釈迦如来。而して、ここに出る願性(がんしょう ?~建治二(一二七六)年)は、俗名を葛山景倫(かずらやまかげとも)で、元は源実朝に仕えた近習の一人であった。実朝が陳和卿(ちんなけい)に対面し、夢が一致したことから、「大陸へ渡る」と言い出して後、実朝の命により、まずは彼が宋へ渡ることになったが、紀伊由良荘で実朝暗殺の報を受け、高野山に登った。真言宗禅定院の退耕行勇に従い、出家するも、同荘の地頭職に任ぜられたが、一方で熱心に実朝の菩提を弔った。後、金剛三昧院の別当となり、由良に西方寺(後の興国寺)を創建した(講談社「デジタル版日本人名大辞典」に拠った)。史実上は彼は大陸に渡った事実は全くないが、以上の「鷲峯山興國寺」縁起では、極めて詳細に彼が宋に渡って、彼の前生が僧であった鳫陽山ではなく、阿育王山に実朝の遺骨を納め、而して本邦に戻って西方寺を建立したという驚天動地の話が語られているのである。また、ここに出る「明州、育王山」は、後で「吾妻鏡」から引く台詞の中の「醫王山」と同一で、現在の浙江省寧波市鄞州区太白山の麓にある阿育王寺(アショーカおうじ)である。鑑真が日本に渡る際に休息したとされ、鎌倉時代には重源が訪れている。

 本篇では、名が出ないが、この話には絶対必要条件の人物である陳和卿は、これ、甚だ怪しい人物であり、胡散臭さがプンプン臭う輩だ。最初は、治承四(一一八〇)年の東大寺焼失後、勧進上人となった重源に従って、大仏の首を鋳造する役を受けて登場する(私の「北條九代記 南都大佛殿供養 付 賴朝卿上洛」参照)。頼朝が上洛し、開眼供養の際、これに貢献した南宋渡りのその僧に逢って結縁(けちえん)をと、面会を求めたが、彼は、『國敵對治の時、多く人命を斷ち、罪業、深く、重きなり。謁に及ばざるの由』を言って、再三、断っている(「吾妻鏡」建久六(一一九五)年三月十三日の条に出る)。そんな彼奴が、二十一年後の建保四(一二一六)年六月、ふらりと鎌倉に現われ、十五日には、実朝に謁見し、「吾妻鏡」では、

   *

十五日丁酉(ていいう)。晴る。和卿を御所に召して、御對面、有り。和卿、三反(さんべん)拜し奉り、頗(すこぶ)る涕泣す。將軍家、其の禮を憚り給ふの處、和卿、申して云はく、

「貴客(きかく)は、昔、宋朝、醫王山(いわうさん)の長老をたり。時に、吾(われ)、其の門弟に、列す。」

と云々。

此の事、去(いん)ぬる建暦元年六月三日丑の尅、將軍家、御寢(ごしん)の際、高僧、一人、夢の中(うち)に入りて、此の趣を告げ奉る。而うして、御夢想の事、敢へて、以て、御詞(おんことば)に出だされざるの處、六ケ年に及び、忽ちに、以つて、和卿の申し狀に符號す。仍(よ)つて、御信仰の外(ほか)、他事(たじ)無し、と云々。

   *

という、トンデモ糞芝居をやってのけるのだ。ここは「北條九代記 宋人陳和卿實朝卿に謁す 付 相摸守諌言 竝 唐船を造る」、及び、「★特別限定やぶちゃん現代語訳 北條九代記 宋人陳和卿實朝卿に謁す 付 相摸守諫言 竝 唐船を造る」を読まれたいが、それらを公開した直後に、教え子から、以下の質問と添書を受け取った。

   *

・陳和卿の言葉に実朝の心が動いたのはなぜか?(真意はどこにあるかは別として)

・もし、船の建造に成功したら、実朝には日本を離れる意思が本当にあったのかどうか?

・陳和卿の胸には大船の竣工・進水のあてがあったのかどうか?

・彼に、もし、確信なかったのなら、その真意はどこにあったか?

・もし、竣工・進水に成功したら、彼にはどのような目算があったのか、実朝とともに一緒に大陸へ戻ろうと考えていたのか?

・陳和卿は、進水に失敗した場合、監督者としての責任追求はされなかったのか?

・日宋貿易にも使われたような大船の建造技術があったはずの当時の日本で、なぜ、進水失敗という噴飯物のミスを犯したか?

・少なくとも大輪田泊に行けば、大陸へ渡る際に使用できるような船は調達できたはずなのに、なぜ、わざわざ新造させたのか?

『由比ガ浜に打ち捨てられた大船の姿を想像すると、まるで悪夢を見ているようです。本当に事実だったのか、にわかには信じられません。』

   *

それに私は『やぶちゃんのトンデモ仮説 「陳和卿唐船事件」の真相』で答えている。これも一興にはなろう。彼は結局、京と鎌倉との二重スパイとしての両方を手玉にとっていた(逆にとられてもいた)一面があったと、今は考えている。ともかくも座礁破船事件以来、全く行方を断った彼奴(恐らくは孰れかの側の刺客によって葬られた)は――これ、――頗る怪しい奴――である。

「㚑夢(れいむ)」「㚑」は「靈」(霊)の異体字。

「温州」現在の浙江省東南沿海に位置する温州市

「鳫陽山」不詳。温州市のここに奇岩で知られる雁蕩山ならある。似た漢字の名なら、温州市の西方の浙江省麗水市慶元県に「鳳陽山」がある。孰れも寺があったかどうか、不詳である。毛利豊史氏の「幻の渡宋計画 実朝と陳和卿」(『専修人文論集』巻一〇五・二〇一九年十一月発行・「専修大学学術機関リポジトリ」のこちらからPDFダウン・ロード可能)によれば、『西安大慈恩寺(玄奘の拠点)の「大雁塔」の誤伝とも』とある。この論文、ここに至って発見したが、誠に興味深い。

「よもしらじ我もえ知ずからくにの」「いはくら山に薪(たきゞ)こりしを」私は実朝の歌としては初めて読んだ。同前の毛利氏の論文には、「紀伊続風土記」(江戸幕府の命を受けた紀州藩が文化三(一八〇六)年に藩士で儒学者の仁井田好古を総裁として複数の者にに編纂させた紀伊国地誌)から酷似した箇所が引かれており、和歌は

 世も知らじわれもえ知らず唐国のいはくら山に薪樵りしを

とある。]

大和怪異記 卷之二 第四 鵺が執心馬となつて賴政に讐をなす事

 

[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の分はここ。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。なお、底本のルビは歴史的仮名遣の誤りが激しく、ママ注記を入れると、連続してワサワサになるため、以降では、歴史的仮名遣を誤ったものの一部では、( )で入れずに、私が正しい歴史的仮名遣で《 》で入れた部分も含まれてくることをお断りしておく。]

 

 第四 鵺(ぬえ)が執心《しふしん》馬となつて賴政に讐(あた)をなす事

 源三位賴政、化鳥(けてう)を禁庭(きんてい)に射る。

 其鳥(とり)、化(くは)して良馬となつて、賴政が方(かた)あり。

 賴政、及《および》、其子仲綱、此馬を愛し、名付(なづけ)て「木下(このした)」と云《いふ》。

 平宗盛、「木下」を仲綱に、こふ。

 仲綱、おしみて[やぶちゃん注:ママ。]あたえず。

 つゐに[やぶちゃん注:ママ。]、馬故に、宗盛が爲に、ころさる。

 「木下」、此宿怨を、むくゐて後[やぶちゃん注:ママ。]、斃《たふ》る。

 時の人、これを「うづみ神」と、いはふ。

 今の洛陽の「木嶋明神(このしま《みやうじん》)」」なり。「常陸志」

[やぶちゃん注:原拠「常陸志」が同定できず、また、常陸の地誌に頼政を繋げるものも、私にはよく判らない。ネットで判ったことは、wata氏のサイト「茨城見聞録」の『【まとめ】源三位頼政の伝説【源頼政】』に、「茨城にも来ていた?」という条があり、『確実ではないものの頼政公は茨城に来ていた可能性があります』。『頼政公の父・源仲政(なかまさ)は下総守でした。下総は常陸国(いまの茨城)の南と南西部の辺り。どうやら父について兄の頼行(よりゆき)と共に下総国まで来ていたようなんです』。『兄弟揃って「東国」の和歌を詠んでいるんですが、頼政公には信太の浮島(いまの稲敷市)の和歌もあるんです』。『あきさゐる 海上潟を見渡せば 霞にうかぶ信太の浮島』[やぶちゃん注:これは「源三位頼政集」の九にあり、読みは「あきさゐるうなかみがたをみわたせばかすみにまがふしだのうきしま」である。]

『下総から浮島は比較的近くです。浮島では歴史人物がいくつも歌を残していますから、昔はちょっとした観光地だったかもしれませんね』とある。彼が実際に東国に行ったかどうかは確認出来なかったが、今回、原拠を探すために、複数の新旧の常陸地誌を縦覧した際、そもそも「茨城郡」がそこに所収されていたから、まず、この常陸との違和感は緩んだ。さらに、サイト「妖怪検索」の「鵺」の記載ページに、「続日本妖怪大全」からの引用として、頼政の鵺退治を扱った謡曲「鵺」の梗概を記した後に、

   《引用開始》

 現在、大阪府都島区都島町3丁目の商店街の一角に、〈鵺〉の死体を埋葬したという《鵺塚》がある。京より頼政によって空舟(うつぼぶね)に乗せられ、淀川を流れて、この近くに漂着したからである。[やぶちゃん注:注記略。]

 源三位頼政による『鵺退治』の話は『平家物語』『源平盛衰記』などに詳しく、当時から有名な話であったらしい。それが世阿弥の謡曲により、さらに知られるところとなった。謡曲では歌や掛け詞を交えながら、〈鵺〉の未練や悲哀を見事に表現している[やぶちゃん注:注記略。]。

 〈鵺〉の亡骸を入れて淀川に流したという《空舟》は丸太をくりぬいて造られた船で、魂を封じ込めることができると伝えられる。しかし、この空舟が流れ着いた蘆の郷では病気が蔓延し、〈鵺〉の祟りと恐れられた。そこで築かれたのが《鵺塚》であるという。

 こうした〈鵺〉の怨霊が、源三位頼政自身に祟ったという伝承が『常陸志』にあり、『大語園_7』に収められている。

 この伝承によると、〈鵺〉の怨霊は良馬と化し、頼政の家に飼われたという。頼政も息子の仲綱もこの馬をかわいがり、《木下(このした)》という名前まで付けられた。

 ところがこの馬に、平家の大将である宗盛が目をつけ、盛んに仲綱に所望した。仲綱は何度も断り、このことをきっかけに源氏の中で唯一、平氏政権内部にとどまっていた頼政父子と平家との関係が悪化し、やがて頼政は挙兵し宇治平等院での討ち死にに至る。《木下》は宿怨を晴らしたことを確認した後に倒れ、土地の人はこの馬を埋めて神として祀った。木馬明神とよばれ、崇められたという。

   《引用終了》

とあった。喜び勇んで、巖谷小波の「大語園」を探したが、国立国会図書館デジタルコレクションのそれは公開になっていないので、糸口が断たれた。最早、これまで、である。因みに、この話、「柴田宵曲 續妖異博物館 化鳥退治」の引用注で、一度、出しており、知ってはいた。因みに、本篇は余りに知られた対象が多いので、注はごく一部に留めた。

「仲綱」(大治元(一一二六)年?~治承四年五月二十六日(一一八〇年六月二十日)は頼政の嫡男。父と同じく平等院で自害した。詳しい事績は参照した当該ウィキを見られたい。序でに、父頼政のそれもリンクしておく。

「うづみ神」「埋み神」で御霊信仰であろう。

『洛陽の「木嶋明神(このしま)」』「木嶋(このしま)」となると、「蚕(かいこ)の社(やしろ)」として知られる、京都市右京区太秦森ケ東町(うずまさもりがひがしちょう)にある木嶋坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ)が知られるが、この神社は鵺とは関係がないようである。京都市上京区主税町(しゅぜいちょう)に鵺大明神はある。但し、これは昭和六(一九三一)年の建立である。しかし、サイト「シティリビングWeb」の「京都の魔界スポット」には、『頼政の矢が刺さった鵺は、恐ろしい声を発し、現在の二条城の北あたりに落ちたとか。その鵺を退治した矢じりについた血を洗った池が、二条公園の中に “鵺池” として現在も残されています』とは、ある。因みに、その記事の真上に、偶然だろうが、木嶋坐天照御魂神社の「三本柱の鳥居」が載っている。いやいや、或いは、これも因縁か?]

大和怪異記 卷之二 第三 室生の龍穴の事

 

[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の分はここから。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。なお、底本のルビは歴史的仮名遣の誤りが激しく、ママ注記を入れると、連続してワサワサになるため、これ以降では、歴史的仮名遣を誤ったものの一部では、( )で入れずに、私が正しい歴史的仮名遣で《 》で入れた部分も含まれてくることをお断りしておく。]

 

 第三 室生《むろふ》の龍穴《りゆうけつ》の事

 大和国室生の龍穴は、善達龍王のすめる所なり。龍王、はじめは、「猿沢の池」に住(すみ)けるに、天智帝の御宇に、采女(うねめ)、身を投(なげ)し故、龍王、死穢(し《ゑ》)をさけて、香山《かうぜん》に住《ぢゆう》す。此所にても、死人を捨(すつ)るもの、有《あり》しかば、爰をも、去《さり》て、室生に移れり。

 室生に賢俊僧都といふ人あり。

『龍王を拜(おがま)せむ。』

と思ふの志(こゝろざし)ありて、龍穴に入《いる》こと、三、四町に及び、くらきを凌(しのぎ)て後、靑天の所にいたる。

 此所に、一つの宮殿あり。

 僧都、其南《みんなみ》砌(みぎり)に、立(たつ)てみるに、珠簾(しゆれん)をかけ、光(ひかり)、あたりを、かゞやかす。

 簾(すだれ)を、風の吹(ふき)あげたるに、裏(うち)を見れば、玉机(ぎよくき)の上に「法華經」一部を置《おけ》り。

 しばらく有《あり》て、人、出《いで》て、

「足下(そこ)。何のために、來《きた》るや。」

と、とふ。僧都、答《こたへ》て、

「御躰(《おん》てい)を拜し奉らんとて、參入(さんにう)せしむ。」

と、いふ。

 龍王いはく、

「此所にをいて[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]、對面、かなふべからず。穴を出《いで》、三町を經て、あふべし。」

と。

 僧都、もとのごとく、穴(あな)に出《いづ》るに、約せしごとく、龍王、衣冠を着し、腰より上(かみ)、水中より、出《いで》つ。

 僧都、拜するに、たちまち、消(きえ)うせぬ。

 是によつて、件《くだん》の邊(ほとり)に社《やしろ》を建(たて)、龍王のかたちをきざんて[やぶちゃん注:ママ。]、安置す。

 是よりして、雨を祈るには、件の社頭にをいて、經をよめば、龍穴の上に、黑雲(くろくも)、たなびき、雨、くだる、といふ。「古事談」

[やぶちゃん注:出典の「古事談」は既注。「佛教大学図書館デジタルコレクション」のこちらの嘉永六(一八五三)年の版本で13コマ目、単独画像ではここと、ここ。それを見ても判る通り、僧名を本篇では誤っていることが判る。「賢俊僧都」ではなく、「賢憬僧都」が正しい。所持する「新日本古典文学大系」版四十一「古事談 続古事談」(川端善明・荒木浩校注)では、本文を『賢憬(けんきやう)僧都』とする一方、脚注では、佐久間竜氏によれば、「賢環」が正しいとする、とある。但し、ウィキでは「賢憬」で挙げている(孰れにせよ、その脚注中には「賢俊」と記す資料はないことが判るので、誤りである)。以下、引用する。賢憬(けんけい 和銅七(七一四)年~ 延暦一二(七九三)年)は『奈良時代の法相宗の僧。俗姓は荒田井氏。尾張国の出身。賢璟(けんきょう)とも称される。尾張僧都あるいは尾張大僧都とも呼ばれた』。『興福寺の宣教に師事し』、『唯識法相を学ぶ一方で』、『苦業練行を重ね』、天平一五(七四三)年『正月に「師主元興寺賢璟」として同族の子麻呂を優婆塞に貢進推挙し』ている。天平勝宝六(七五四)年、『唐の僧鑑真を難波に迎え、翌』年に『旧戒を破棄し』、『鑑真から具足戒を受けた』。天平宝字二(七五八)年に『唐招提寺に一切経』四百二十『巻を奉納して』おり、宝亀五(七七四)年には『律師に任じられている』。宝亀九(七七八)年『頃、大和国室生山で延寿法を修して』、『山部皇太子(後の桓武天皇)の宿痾を治したために、後に桓武天皇の深い信頼を得た』宝亀一一(七八〇)年には、『多度大社神宮寺に三重塔を建立、また』、この『宝亀年間』(七七〇年~七八〇年)『には室生寺を創建している』。延暦三(七八四)年、『大僧都に任じられ』、翌延暦四年四月の『最澄の戒牒』(かいちょう:僧尼が戒を受けた後、その事実証明として交付される公文書。「度牒」とも言う)や「多度神宮寺伽藍縁起並資財帳」には、『ともに僧綱の一人として署名し』ている。延暦一二(七九三)年、『遷都を行うにあたって』、『遷都先の地を選ぶ際、山背(山城)の地に派遣されて』おり、『その際、比叡山文殊堂供養で導師をつとめている』。八十『歳で没した』。『高い学識で知られ、大安寺戒明が入唐求法で請来した「釈摩訶衍論」を調べ』、『これを偽書と判定し、最澄と』、陸奥国『会津』(あいづ)の法相宗の僧『徳一』(とくいつ)『との論争に影響を与えた。多くの弟子がいたが、その中でも修円・明福は有名である』とある。

「室生」現在の奈良県宇陀市室生にある真言宗室生寺派大本山宀一山(べんいちさん:又は檉生山(むろうさん))室生寺(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)。本尊は如意輪観音。当該ウィキによれば、『この寺は奈良時代末期の宝亀年間』(七七〇年~七八一年)』に『興福寺の僧』でここに出る賢憬に『よって開かれた。創建については、役小角(役行者)の草創、空海の再興とする伝えもあるが、これらは後世の付託である』。『平安時代を通じて興福寺別院としての性格が強く、俗世を離れた山林修行の場、また、諸宗の学問道場としての性格も持っていた。中世以降の室生寺は密教色を強めるものの、なお興福寺の末寺であった。興福寺の傘下を離れ、真言宗寺院となるのは江戸時代のことで』、『真言宗の拠点である高野山が』、『かつては女人禁制であったことから、女性の参詣が許されていた室生寺には「女人高野」の別名があるが、この別名は』以上から、『江戸時代以降のものである』とあり、『なお、山号の「宀一」は「室」のうかんむりと「生」の最後の一画だという』とある。

「龍穴」「新日本古典文学大系」版脚注に、『室生川上流の、室生火山群の造り出した洞穴が屏風岩の下に口を開け』ており、『そこに龍が棲むという伝承と信仰は古い』とある。ここ。以上の地図で判る通り、室生寺東南直近(徒歩実測で一キロほど)に「室生龍穴神社」があり、これが最後の「件の邊(ほとり)に社を建(たて)」に相当する。

「善達龍王」「阿那婆達多竜王」(あなばだったりゅうおう)。サイト「神魔精妖名辞典」によれば、『仏教における八大竜王の第六尊。八大竜王の中でも最も徳が高いとされる。尊名の「阿那婆達多(あなばだった)」はサンスクリット名である』「アナヴァタプタ」を漢音写したもので、『他に「阿耨達龍王(あのくだつりゅうおう)」』(「長阿含経」等)、 『「阿耨大龍王」(あのくだいりゅうおう)」』(「仏説興起行経」)、『「阿那婆答多龍王(あなばとうたりゅうおう)」』(「大唐西域記」)『と音写されるほか、住んでいる池の名前から「阿耨達池龍王(あのくだっちりゅうおう)」、「阿耨大池龍王(あのくだいちりゅうおう)」、サンスクリット名の意味訳から「無熱惱池龍王(むねつのうちりゅうのう)」、「無熱池龍王(むねつちりゅうおう)」、「無熱龍王(むねつりゅうおう)」とも称される。大雪山の山頂にあり、人間界を潤す源泉となっているとされる、「阿耨達池(あのくだっち)」と呼ばれる池に住んでいるとされる』とある。これは前掲の「新日本古典文学大系」版の別な記事の脚注で、以上の内容とほぼ同じものが確認出来た。

「猿沢の池」法相宗興福寺(天智天皇八(六六九)年に山背国山階(現在の京都府京都市山科区)で創建した山階寺(やましなでら)が起源で、「壬申の乱」があった天武天皇元(六七二)年、寺は藤原京に移り、地名の高市郡厩坂をとって厩坂寺(うまやさかでら)と称した。以上は当該ウィキに拠った)が行う「放生会」の放生池として天平二一(七四九)年に造られた人工池。ここ。「新日本古典文学大系」版脚注に、興福寺の縁起類を纏めた秀盛編の「興福寺流記(るき)」に、『興福寺伽藍は伏龍の集まる上に結構されたといい、殊に金堂の下は龍宮で、南大門の槻木』(つききのき:欅(けやき:バラ目ニレ科ケヤキ属ケヤキ Zelkova serrata )の別称)『のもとの穴から通うことができたという』とあり、この『南大門の外に位置した放生池である猿沢池は龍池であった』とる。底本と同じ「新日本古典籍総合データベース」の「興福寺流記」(写本)の、ずっと後のここで(単独固定画像)、金堂の伝承は記されてあり、前のここと、ここで、以上の本篇の第一段落の内容も含めて、総てが確認出来る。なお、この猿沢の池の龍伝承は、「宇治拾遺物語」の「藏人得業猿さはの池龍事(蔵人(くらうど)得業(とくごふ)、猿澤の池の龍の事/巻第十一第六話・第百三十話)で知られ(「やたがらすナビ」の同話(訓読・新字)をリンクさせておく)、また、芥川龍之介の小説「龍」でとみに知られる(『中央公論』大正八(一九一八)年五月初出で、翌年に刊行された作品集『影灯籠』に所収された。国立国会図書館デジタルコレクションの同原本の本文冒頭をリンクさせておく)。

「天智帝の御宇に、采女(うねめ)、身を投(なげ)し」「新日本古典文学大系」版脚注に、『奈良の帝に仕える采女が一度しか召されなかったことを憂えて投身した伝説』に拠るとある。「天智帝の御宇」は天智天皇七(六六八)年から天智天皇一〇(六七二)年(没年)。

「香山《かうぜん》」読みは「新日本古典文学大系」版本文に拠った。脚注に、この山は『春日山の東南、もと香山薬師寺』(こうぜんやくしじ)『の存在した山』で、『平城京の水源の一つに当たり、水神の信仰があり』、『祈雨も行われた』。この附近に当たる。上に示した「興福寺流記」画像にある通り、『興福寺南大門に七十年住んだ龍は香山に移り』、さらに、その『四十後、室生に移住したという』とある。

「三、四町」約三百二十七~四百三十六メートル。

「砌(みぎり)」軒下或いは階下の石畳。

「法華經」「新日本古典文学大系」版脚注に、「法華経」には、『釈迦の説法を八代龍王が聞いた話や八歳の龍女成仏の話がある』とある。

「雨を祈る」「新日本古典文学大系」版脚注によれば、『龍穴神への祈雨は、以後、興福寺僧で僧綱(律師以上)のものが導師となり』、『天応元年(七八一)から承平七年(九三七)までに二十七度の請雨・止雨の祈禱がなされている』とある。]

2022/11/15

大和怪異記 卷之二 第二 日田永季出雲小冠者と相撲の事

 

[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の分はここから。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。なお、底本のルビは歴史的仮名遣の誤りが激しく、ママ注記を入れると、連続してワサワサになるため、これ以降では、歴史的仮名遣を誤ったものの一部では、( )で入れずに、私が正しい歴史的仮名遣で《 》で入れた部分も含まれてくることをお断りしておく。

 挿絵があるが、これは「近世民間異聞怪談集成」にあるものが、状態が非常によいので、読み取ってトリミング補正し、適切と思われる箇所に挿入する。因みに、平面的に撮影されたパブリック・ドメインの画像には著作権は発生しないというのが、文化庁の公式見解である。底本(カラー。但し、挿絵は単色)の挿絵部分もリンクを張っておく。

 なお、標題の名前の「季」の「すへ」(「すゑ」が正しい)、「相撲」の「すもう」はママ(「爭(すま)ふ」の連用形の名詞化したもの。歴史的仮名遣では「すまひ」「すまう」「すまふ」が普通。但し、江戸時代には既に当時の口語として「すもう」という表記も一般化していた)。]

 

 第二 日田永季(《ひたなが》すへ)出雲小冠者(《いづものこ》くわん《じや》と相撲(すもう)の事

 人王七十一代三條院御宇、延久三年、豊後国日田郡《ひたのこほり》に、日田鬼太夫大藏永季といふ者、強力(ごうりき)のきこえあるに依(よつ)て、十六歲にて、「相撲の節會(せちゑ)」にめされて、上洛す。

 此とき、出雲國より、竒代(きだい)の強力、宣旨にまかせて、參洛せしむる旨、風聞す。

 これによつて、永季、諸社に祈誓をかけ、上洛の節、筑前太宰府にをいて[やぶちゃん注:ママ。後の「をゐて」もママ。]、ひとりの童女(どうによ)に行《ゆき》あふ。

 童女、永季にむかつて、

「君、此度《このたび》、禁裏にをゐて、古今絕倫(ここんぜつりん)の大力(《だい》りき)にあふべし。其長(たけ)、普通の人よりは、ひきく、惣身《そうしん》、鉄(てつ)にして、力、無量(むりやう)なり。これにかたん事、人力(《じん》りき)に及《および》がたしといへども、彼(かの)童(わらは)が母、諸願の旨、あつて、懷姙のはじめより、鉄砂(てつしや)をくらふ故、うまるゝ子、惣身、鉄なり。しかれ共、母、あやまつて甜瓜(あまうり)をくらひしかば、童が頭上(かしらのうへ)にとゞまり、方《はう》三寸の肉となれり。今度《このたび》、『すまうの節(せつ)』にいたりて、乾(いぬ《ゐ》)の方(かた)をうかゞふべし。我、汝に方便をしめすべし。」

と、いひおはつて[やぶちゃん注:ママ。]、飛(とび)さりぬ。

 

Hitanonagasue

 

 永季、此竒特(きどく)を感じ、天滿宮にまふでて、無二の丹誠(たんせい)を抽(ぬきんで)、奉幣(ほうへい)し、日田郡の内、大肥庄《おほひのしやう》を寄進せしめ、其地に「老松明神《おひまつみやうじん》」を勸請すべき旨、祈願して、京都にいたり、「相撲の節」に望んで、小冠者に出あひ、手合《てあはせ》するとき、乾の方をうかゞふに、以前の童女、空中にあらはれ、永季にむかひ、みづから、右の手をもつて、額をおさえて、さとしめたり。

 永季、やがて、小冠者が額を、

「丁(てう)」

ど、うちければ、はたして、人肉なりしかば、破れて、血、顏に、ながる。

 さしもの小冠者も、少しひるみて、たゞよふを、かひつかむで、引《ひき》よせ、目より高くさし上《あげ》、一ふり、ふりて、大地になぐるに、頭(かしら)・手足、ちぎれて、四方に、ちりぬ。

 かゝりしかば、

「日本第一の大力。」

と云《いふ》綸旨を賜り、歸國し、所願のごとく、大肥庄に「老松大明神」を勸請す。

 又、高城《たかじやう》に、みづからの長(たけ)に、少しも、たがえず、冠者をふまへたる躰(てい)をつくり置《おく》。

 後に、寺を建(たて)、「永福傳寺(ゑいふくでん《じ》)」と號す【一說に、此とき、永季が出立《いでたち》は、草鎧《くさよろひ》二兩、かさね着《ぎ》し、八寸まわりの竹を、握《にぎり》ひしぎ、帶とす。】。

 それよりのち、三度《みたび》、「すまうの節會」に侯(こう)し、堀河院御宇、寬治五年より、長治元年にいたりて、七度《しちたび》、以上、十箇度(かど)、終(つ《ひ》)に、一度も、負(まく)る事、なし。

 此永季、あるひは、枚(きのいた)に、大石を、はさみ、大石の上に、同じごとくの石を置

 小山のごとし。

 世に、是を、「日田が重石(かさねいし)」といふ。

 永季が先祖を善憧鬼(ぜんどうき)といふ。紀州大藏谷より、豊後國日田に下向し、戸山に住(ぢう)す。

 其末葉(ばつ《えふ》)、妙憧鬼、後に鬼藏太夫永弘と改む。白鳳年中の人なり。

 それより數代をへて、永季に、いたれり。

 永季より、次郞太夫季平、太夫高家、五郞太夫永平、新六太夫永宗、次郞永秀、三郞永隆、四郞永俊、六郞永綱、左衞門永信、彌次郞永基《ながもと》、六郞永資、肥前權守永貞、出羽守永俊、上㙒守詮永、筑後守永息《ながやす》、安藝守永秀、七郞丸と相續(さうぞく)す。七郞丸、十二歲にて、早世し、家、絕たり。代々の戰功、詳(つまびらか)に「日田事記」に見えたり。

[やぶちゃん注:原拠は前話に同じ。前回と同じく、伝承と比較するには、古賀勝氏のサイト「筑紫次郎の世界」の「怪力! 鬼太夫」(副題「豊後日田の大蔵永季」)がよい。前回同様、伝說が細かなシークエンスが重なれられて、読んでいて楽しい。

「日田永季」(天喜(てんぎ)四(一〇五六)年~長治元(一一〇四)年)は平安後期の豪族で豊後日田郡司であった。本姓は大蔵(おおくら)。通称は鬼太夫(おにだゆう)。延久三(一〇七一)年の朝廷での「相撲節(すまいのせち)」(=「相撲の節會(せいゐ)」)に相撲人(すまいびと)として参加し、優勝、この勝利を天神の加護とし、大肥荘に「老松天満宮」を建て、木彫毘沙門天立像を永興寺に安置したとされる(主文は講談社「デジタル版日本人名大辞典+Plus」に拠った)。享年四十九歳。最後に系譜が載るが、ウィキの「大蔵氏(豊後国)」を比較参照されたい。但し、若干、系図の名と異同がある。なお、そこの解説によれば、永季の死因は「風邪」とある。

「人王七十一代三條院御宇」以上はトンデモない誤りである。三条天皇は第六十七代で在位は寛弘八(一〇一一)年から長和五(一〇一六)年で寛仁元(一〇一七)年にとっくに没しているここは文字通り、「数字」だけが正しく、第七十一代の後条天皇(在位::治暦四(一〇六八)年~延久四(一〇七三)年)の治世である。

「相撲の節會(せちゑ)」小学館「日本国語大辞典」によれば、『天皇が宮中で相撲を観覧され、参列の諸臣と饗宴を催される儀式。延暦以降』十二『世紀までは七月に行なわれた。相撲使(すまいのつかい)を地方につかわして相撲人(すまいびと)を召し出させる。七月』二十六『日頃に相撲の下げいこである内取(うちどり)が仁寿殿(じじゅうでん)で行なわれ』、二十七『日頃に紫宸殿で召合(めしあわせ)があり、はじめは』二十『番、後には』十七『番の相撲が行なわれ、翌日には、天皇に指名された者が相撲を行なった。これを抜出(ぬきで)という』。『宮中で天覧相撲が催された記録自体は、すでに』「日本書紀」の皇極元(六四二)年七月の条に『見える。「続日本紀」では、聖武天皇の天平六』(七三四)『年及び』十『年の七月七日に天覧相撲が開催された記録があり、この頃には七月に行なうことが恒例化していたものと思われる』。『中古には、儀式としての制度諸式も整い、「内裏式」には「相撲式」として、七月七日及び八日の二日間にわたる式の次第が詳しく記されているが、この頃は必ずしも定期的なものではなかったらしい』。『院政期以降は武士勢力の台頭に伴う朝廷の力の衰微もあり、保安以後』、三十『年余り』に亙って『中断』し、『その後、保元三』(一一五八)年に『再興するものの、承安四』(一一七四)年を『最後に廃絶した』とある。

「童女」言うまでもないが、これは正体は太宰府天満宮の天神である。サイト「日本伝承大鑑」の「日田神社」のページこれは本篇の「老松明神社」ではなく、日田市内にある「日田殿(ひたどん)」の愛称を持つ永季を祀った「相撲の神様」として知られるもの)には、永季は『都に出る前に、信心している天神社へ参拝に向かった。途中の川べりで若い娘が大根を洗っているのを見て後ろから抱きついたが、逆に娘の怪力で身動きが取れなくなってしまう。実は娘の正体は天神で、相撲の対戦相手が“出雲の小冠者”という全身鉄の皮膚を持った強敵であり、心して掛かるよう託宣したのである』とある。伝承の多様な膨らみ方が楽しめる内容になっている。また、そこには、『現在、鬼蔵大夫が娘と出会った場所には“鬼松天神”の社がある』とあるのは、福岡県朝倉市相窪(あいのくぼ)にある「鬼松天神社」のことであろう。太宰府天満宮の南東、約十八キロメートル位置にある。やはり、伝説なればこそ、スケールが広い。

「甜瓜(あまうり)」真桑瓜。双子葉植物綱スミレ目ウリ科キュウリ属メロン変種マクワウリCucumis melo var. makuwa のこと。当該ウィキによれば、『この系統のウリが日本列島に渡来したのは古く、縄文時代早期の遺跡(唐古・鍵遺跡)から種子が発見されている』とある。

「童が頭上(かしらのうへ)にとゞまり、方三寸の肉となれり」以下では、童女がその部分を手で「額をおさえて、さとしめたり」とある。これは、所謂、「ひよめき」=大泉門が閉じていない病態を示すものだと思う。大泉門は頭の中央の前方ある骨のない柔らかい部分を言い、菱形をしている。通常一歳から一歳半ほどの間に閉じるとされる。ここが開いたままである場合、脳室に過剰な脳脊髄液が貯留した状態となる水頭症を発症することがある。この「出雲小冠者」が幾つであったか判らないが、「小冠者」は「年若い元服して間もない若者」を指す語であるから、満で十五、六歳で、「ひよめき」が九センチメートル四方も開いているのは、巨漢であったとしても尋常ではない。なお、子を育てたことがない私は、五十五になるまで、この「ひよめき」を知らなかった。芥川龍之介の「子供の病氣――一游亭に――」(サイト版)に「しほむき」という言い方で出てきて、トンデモ注(残してある)をし、ブログで疑問を呈したところ、さる女性から御教授戴くというお恥ずかしい経験をした。ご覧あれ。

「乾(いぬ《ゐ》)の方(かた)」北西。

「日田郡の内、大肥庄」現在の大分県日田市大肥(おおひ)、及び、その東の大鶴本町(旧大鶴村南部)などを含んだと考えられる旧広域。

『大肥庄に「老松大明神」を勸請す』大分県日田市大鶴町に老松天満宮が現存する。サイト「産土神名帳」の本神社のページに、『延久三年』に『相撲の神様として知られる日田永季が大宰府天満宮を勧請』と記されてある。

「高城」『後に、寺を建(たて)、「永福傳寺(ゑいふくでん《じ》)」と號す』日田神社東北直近に日田城(ひたじょう)の跡があるが、この城は永季の属する大蔵氏流日田氏の城で、「大蔵城」「鷹城」「高城」とも称することから、読みを、かく、振った。さらに、ウィキの「日田城」によれば、『日田城の西端には、大蔵永季が父・永興を供養するために建立した慈眼山永興寺(じげんざんようこうじ)があった』とあり、現在、まさにそれと名を同じくする浄土宗永興寺(ようこうじ)があり、これが遠い後身(実際の原「永福傳寺」の位置は微妙に異なるかも知れない)であると考えてよかろう。

「草鎧」「草摺」(くさずり)のことか。甲冑の胴から吊り下げられた、腰から太腿までの下半身を覆い、防護するための部位で、通常は韋(鞣革:なめしがわ)や鉄板などで作るが、相撲取りであるから、前者で出来たものか。「二兩」の「兩」は鎧の数詞。ここは巨体であるから、革製の草摺を「化粧まわし」代りに、二人分、用いたという謂いか。

「八寸まわりの竹」筒の円周が二十四センチメートルもある竹。

「握《にぎり》ひしぎ、帶とす」自ら、握り拉(ひし)いで(平たく潰して)、帯の代わりとしたのである。

「堀河院御宇、寬治五年」第七十三代堀河天皇の御代。ユリウス暦一〇九一年。

「長治元年」同一一〇四年。

「枚(きのいた)」木の板。

「日田が重石(かさねいし)」想像も出来ない木と石の合体物である。

「永季が先祖を善憧鬼(ぜんどうき)といふ」不詳。

「紀州大藏谷」和歌山県有田郡有田川町(ありたがわちょう)大蔵(おおぞう)があるが、ここか。

「戸山」日田市市街の北方に「戸山」を冠する神社と小学校が確認出来る。

「其末葉(ばつ《えふ》)、妙憧鬼、後に鬼藏太夫永弘と改む。白鳳年中の人なり」ウィキの「大蔵氏(豊後国)」に、永季の前に一人、「大蔵永弘」の名が挙がっており、原拠「豊西記」では仁寿三(八五三)年から延喜一〇(九一〇)年まで、実に五十七年もの間、『永弘が日田郡司を勤め』、『日田大蔵氏の始祖となったとしているが、二百数十歳生きたなどの逸話を残しているため』、『その実在については詳らかでない』とある。「白鳳年中」は、当該ウィキによれば、『白鳳(はくほう)は、寺社の縁起や地方の地誌や歴史書等に多数散見される私年号(逸年号とも。』「日本書紀」『に現れない元号をいう)の一つで』、『通説では白雉』(六五〇年〜六五四年)『の別称、美称であるとされている(坂本太郎等の説)』ほか、「二中歴」等では六六一年から六八三年とし、『また、中世以降の寺社縁起等では』六七二年から六八五年『の期間を指すものもある』とあり、さらに、「続日本紀」の『神亀元年冬十月条』(七二四年)『に聖武天皇の詔として「白鳳より以来、朱雀以前、年代玄遠にして、尋問明め難し」といった記事がみられる』とある。

「彌次郞永基《ながもと》」「近世民間異聞怪談集成」では土屋順子氏は『(ながとも)』とルビしておられるが、違和感があったので、調べて見たところ、サイト「神社人」の福岡県福岡市早良(さわら)区西新(にしじん)にある松山稲荷神社の解説ページの「由緒」に、文永一一(一二七四)年、『八角田(博多)に蒙古軍が襲来し、日田永基(ひたながもと)は、筑前国早良郡にある姪の浜及び百路(道)原にある稲荷祠の所で忠死したという。戦後、その活躍に応じて、国東郡安岐郷に所領を与えられ、子の基宗が入部して弁分』(個人的には「わけべ」と読んでおく)『八郎を号したという。このため、当社は、伊勢の皇大神宮の外宮で京都伏見稲荷大社の直轄の末社であるとされ、九州で最も古い稲荷神社とされているが、その詳細は不明となる』とあるのに従った。]

曲亭馬琴「兎園小説拾遺」 第二 「駿州沼津本陣淸水助左衞門、或る人に與ふる書狀」

 

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。昨年二〇二一年八月六日に「兎園小説」の電子化注を始めたが、遂にその最後の一冊に突入した。私としては、今年中にこの「兎園小説」電子化注プロジェクトを終らせたいと考えている。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちら(右ページ下段五行目以降)から載る正字正仮名版を用いる。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。

 馬琴の語る本文部分の句読点は自由に変更・追加し、記号も挿入し、一部に《 》で推定で歴史的仮名遣の読みを附した。今回は読み易さを考えて段落を成形した。「□」は欠字であるが、底本では四字分であるが、吉川弘文館随筆大成版では五字分ほどある(孰れも□ではなく、長方形)。原本を見られないので判らぬが、底本は、欠字の終りが行末にあることから、後者の推定字数分を□で入れた。思うに、下の繋がりから考えて、縦横のサイズ、或いは、同等の大きさの比較物品の名前が記されてあったものと思われる。

 前回に続き、文政一三・天保元(一八三〇)年に発生した伊勢神宮への「お蔭参り」の正篇の続篇の第三弾(ある人物(恐らくは江戸の人。馬琴自身ではないように思う)に東海道の駿河の沼津宿の本陣の一つの支配であった「淸水助左衞門」が、「お蔭参り」の様子を報知した書簡)である。以下、第五弾まで続く。

 なお、前二回分で注したものは繰り返さないので、検索でこちらへ来られた方は、上記正篇第一話から順にブログ・カテゴリ「兎園小説」で読まれたい。

 今回、ブログ標題は、原標題が返り点を含むため、推定訓読して示した。

 なお、冒頭割注に、投函を「八月六日」(文政一三・天保元(一八三〇)年)とするが、この時の「お蔭参り」の爆発的発生は、前回(第二弾)の初めの方の注に、当該ウィキの同年の記載から引いた通り、閏三月初めに起こってから、この八月末を以って漸く終息している。]

 

   ○駿州沼津本陣淸水助左衞門與或人書狀【是は、七月廿七日、認(したため)置候得共、彼是、世話敷(せはしく)、漸(やうや)く、八月六日、差出申候間、左樣思召可ㇾ被ㇾ下候。】

 別紙を以、「伊勢おかげ參」の事、申上候。誠に古今珍敷《めづらしき》御事に御座候。沼津の内よりも、六月廿日晝時《ひるどき》、山王前と中江戶方宿《しゆく》の入口、「山王樣御宮」と御座候脇《ござさふらうふわき》へ、御祓《おはらひ》、ふり、其家にては、大に相悅《あひよろこび》、其日かせぎの者に候ヘ共、三日の間、小豆粥、施行《せぎやう》いたし、家内にては、日待《ひまち》等いたし候處、翌廿一日夜、其家の近所より、出火致候得共《そうらえども》、となり迄、燒《やく》。其家は、誠に、そゝけも不ㇾ致相殘り、又、其家を飛越《とびこへ》、家數《いへかず》二軒、是は、火消の者、屋根へ上り、屋根等、不ㇾ殘、むしり取候へ共、中に、挾《はさま》りし御祓のふり候家は、少しも、いたみ不ㇾ申。皆々、あきれ申候。

[やぶちゃん注:「沼津本陣淸水助左衞門」ここに沼津宿の跡碑があるが、本陣はここから南下する通り附近にあった。それはサイト「東海道五十三次 沼津宿」の記載と(非常に詳しい)、そこにリンクされてある、松本あずさ氏の「わくらばに」の「【十二】いにしえの沼津を石で辿る 後編」の豊富な写真を元に割り出し、「本陣淸水助左衞門」の跡碑をストリートビューで、やっと発見した。地図ではこの中心に当たる。

「七月廿七日」グレゴリオ暦九月十三日。

「八月六日」同前で九月二十二日。

「六月廿日」同前で八月八日。

「山王前と中江戶方宿の入口」「山王樣御宮」これは沼津宿跡碑の地図の北東に配しておいた「沼津日枝神社」(社地に「山王公園」とある)で、平安時代からの神社で「山王社」とも称され、人々には「山王さん」として親しまれてきたそれである。

「御祓」前話の私の「劔先御祓」の注を参照。

「日待」往来する「お蔭参り」の連中が夜明け頃、この沼津宿の江戸方向の端を通過するので、その夜の明けるのを待っているのである。彼らに小豆粥を無償で提供するためである。それが自身の功徳となるのである。前の二話にも、水・食物・銭を配ったり、老人や子どもを車附きの舟型をした台車に載せて引いてやったり、借りたお店(たな)を宿として率先して提供する、現在の四国巡礼の巡礼を迎える「施し宿」のようなことを自発的に始めた者たちが、多数、描かれている。

「そゝけも」「そそく」は「布・紙などが毛羽立つ・髪などが解(ほつ)れる」の意であるから、それを名詞化し、さらに副詞的に「解れも毛羽立ちも致さず」で「少しも焼けなかった」の意に転じたものであろう。]

 亭主、難ㇾ有存候哉《や》、其翌日、直《ただち》に參宮に參り、最早、とうに歸り申候。

 右家へふり候「御はらゐ」[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]は、私も拜見仕候處、□□□□□此位《このくらゐ》の少き箱の「御はらゐ」にて、能手《のうしゆ》にて認《したため》候「はんこう」にて、誠に新敷《あたらしく》御座候。

[やぶちゃん注:「はんこう」伊勢神宮の配布の朱印。海老名の鎮守「弥生神社」公式サイトの『「神宮大麻(じんぐうたいま)」の歴史とお祭り』の写真を参照。]

 夫より、四、五日以前迄、追々、當宿内へ、十ケ所程、「御祓」、ふり、尤、當所に不ㇾ限、吉原・岩ぶち・蒲原・由比、其外、近在へもふり候噂、所々より承り申候。

[やぶちゃん注:「吉原」現在の静岡県富士市吉原(よしわら)附近。

「岩ぶち」富士市岩淵附近。

「蒲原」静岡市清水区蒲原(かんばら)附近。

「由比」静岡市清水区由比(ゆい)附近。沼津から西方に順に記されてあるので、上記リンクとは別な場所である可能性はないと考えてよい。]

 右の次第にて、此節は「おかげ參り」、誠に澤山に御座候。勿論、當初、夏頃より、追々、參り候得共、分《わけ》て、盆の、十五、六日頃は、甚敷相成《はなはだしくあひなり》、晝夜のわけなく、子供は九ツ、十《と》ヲ位《ぐらゐ》より、十四、五迄位の子供、連立《つれだち》、組み參申候。女《をんな》は、當才《たうさい》の子供より、二、三才位迄の子供、おぶい[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]、としまの女、おびたゞ敷《しく》參候程の事故、娘。又は、下女等は不ㇾ及ㇾ申、夜晝とも、くんじゆいたし、驛々、在々とも、參宮人の數は知れ不ㇾ申。當町内にても、向《むかひ》、となり、一、二人づゞ、參り不ㇾ申《まをさざる》家、一軒も無ㇾ之。其内にて、にんしんの婦人抔も參り、向の家抔にては、當才にて、漸く百目餘《あまり》過《すぎ》候計《ばかり》の子供をおぶい、參り申候。扨々、ケ樣の儀も、まれ成事に御座候。

[やぶちゃん注:「在々」宿駅ではない東海道の村々。

「當才」この年に生まれたばかりの子のこと。数えで一歳の乳児。

「扨々、ケ樣の儀も、まれ成事に御座候」「尤も、そうした新生児を連れての「お蔭参り」の女は、流石に稀では御座いました。」の意であろう。]

 松屋よりも下女三人、參り、「ぬのや」と申は、「きく」を遣《つかはし》候家に御座候處、是にても、下女三人一同に參り、跡にては、誠に困り入申候。私方《わたくしかた》嫁の里、三方の親類には、嫁も參り、下女も三人、下男も三人、皆々、追々、參り、是もこまり入申候。

[やぶちゃん注:「松屋」「ぬのや」書簡筆者と受け取った人物の知る沼津の商人であろう。

「きく」この書き方からはこの書簡の差出人の娘の名であろう。

「遣候家」娘「きく」を奉公人として行かせた「ぬのや」という商家。]

 右樣《みぎやう》のわけにて、扨も、扨も、道中筋、賑やか成《なる》御事、最《もつとも》、宿々《しゆくしゆく》に、いろいろ、有德《うとく》の者は、施行《せぎやう》いたし、當宿にても、一人へ、わらんじ一足づゞ、遣し候家も有ㇾ之、又、餅二切づゝ遣し候家も有ㇾ之。酒の施《せつ》たい、茶のせつたいも御座候由。

[やぶちゃん注:「施たい」「せつたい」接待の当て字。]

 岡崎・吉田邊にては、駕籠、二、三百挺づゝ出《いだ》し、「いせ參り」、乘せ候由。其内には、「びろうど」・「緋縮緬《ひぢりめん》」等のふとん、重《かさね》て敷き、駕籠をかつぎ候者は、「ちりめん」のじゆばんなぞ、着《ちやく》し候て、かつぎ候由、風聞に御座候。

[やぶちゃん注:「岡崎」以上は、まず、東海道の宿でなくては、継ぎ駕籠にならないことと、駕籠も駕籠舁きも、これまた、異様に派手なことから、遠江ではなく、三河国の話と踏んだ。すると、これは現在の愛知県岡崎市中心部にあった岡崎宿と思う。

「吉田」同前で、愛知県豊橋市中心部にあった吉田宿と思う。]

 當宿にても、一夜の内、盆中は、二、三百人づゝ、每夜、出立《しゆつたつ》いたし、夫婦に、母親・下女・子供、つれ、七、八人づゝ、參り候家抔も御座候。在方にて、百軒、家數《いへかず》有ㇾ之《これある》村方にても、二百人、三百人づゝ、參り候由。何れも、一軒より、二、三人づゝ參り、夫婦、かけ向ひのもの、亭主のかせぎに出候留主に、子供をおひ、いせ參り致し候。亭主一人に相成り候者も有ㇾ之。又、亭主、子を案じ、跡より、追かけ參り、夫婦共、參候者抔も御座候。

[やぶちゃん注:「村方」原則として宿駅以外の場所での宿泊は御法度であったが、こうなっては、宿駅では賄えないから、周辺の村方への宿泊を黙認していたものであろう。但し、宿駅以外の庶民の宿泊は、それほど厳密なものではなく、平時でも黙認されたケースが多々ある。例えば、根岸鎮衛の「耳囊」中、私の最も好きな「耳囊 卷之九 不思議の尼懴懺解物語の事」などが(主人公の尼は宿駅でも何でもない茶店に一泊を求める)、その例となる。

「夫婦、かけ向ひのもの」「缺け向ひの者」で、ここは、夫がおらず、妻と子どもと、伊勢参宮に向っている者たちの意であろう。]

 此分にては、いまだ、追々、關東筋も流行可ㇾ仕《はやりつかまつるべし》と存候。先《まづ》、私方《わたくしがた》計《ばかり》は、いまだ、下女・下男等、一人も不ㇾ參、安心仕候。餘り珍敷事故、荒々、御しらせ申上候。以上。

 七月廿七日           助左衞門

 尙々、此せつは、とかく、女の方《はう》、多く、當時にては、女、六、七分、男、三、四分位の事に御座候。女、三十人位づゝ、組《くみ》て參り候内にて、十人も、其餘も、子供をうぶい[やぶちゃん注:吉川弘文館随筆大成版にはママ注記がある。「おぶひ」。]、參り候者、多く御座候。少《ちさ》き子供なぞは、迷惑の事と存候得共、「おかげ」にて何れも無難に歸り候由に御座候。

[やぶちゃん注:以下の二伸は、底本では全体が一字下げ。]

 返々、本文之通、當才の子供より、六十以上迄、老若男女、無差別、參宮いたし候事は、誠に難ㇾ盡筆紙存候。以上。

2022/11/14

曲亭馬琴「兎園小説拾遺」 第二「伊勢參宮お陰參りの記」

 

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。昨年二〇二一年八月六日に「兎園小説」の電子化注を始めたが、遂にその最後の一冊に突入した。私としては、今年中にこの「兎園小説」電子化注プロジェクトを終らせたいと考えている。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちら(右ページ下段四行目以降)から載る正字正仮名版を用いる。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。

 馬琴の語る本文部分の句読点は自由に変更・追加し、記号も挿入し、一部に《 》で推定で歴史的仮名遣の読みを附した。今回は読み易さを考えて段落を成形した。

 前回の「松坂友人書中御陰參りの事」に続き、文政一三・天保元(一八三〇)年に発生した伊勢神宮への「お蔭参り」の続篇の第二弾(馬琴の知人で堺の者からの現況報告の書簡)である。以下、第五弾まで続く。]

 

   ○伊勢參宮お陰參りの記

 來卯のとし、伊勢大神宮六十一ケ年目、お蔭の年に相當る由にて、當年、「前年參り」と唱《となへ》、去月廿日過《すぎ》より、此節、追々、四國邊の者は、夥敷《おびただしく》、當地を相通り候。人數、凡《およそ》一日に、六、七百人と申事にて、俗に「蟻の百度參り」とか申如く、殊の外、群集の由《よし》御座候。

[やぶちゃん注:以上の冒頭の部分はウィキの「お蔭参り」の『1830年(文政13 / 天保元年)』の条で明らかとなる。『文政のお蔭参りでは』、六十『年周期の「おかげ年」が意識されていた。前回のお蔭参りから』六十『年に当たるのは』天保二(一八三一)年『であったが』(本文で「六十一ケ年目」とあるのは、当時の習慣である「数え」で言っているのである)、『おかげ年が意識され』、『お蔭参りの期待が高まる中で、前年に式年遷宮があったことや、豊作であったことなどから』、一『年早い』文政一二(一八三〇)年『にお蔭参りが始まった』(有意な兆候が見られたということを言っている)。『四国の阿波国で』六、七『歳の子供らが抜け参りを始め、それを制止しようとした大人たちが制止しきれず、一緒に参詣したことが文政のお蔭参りのはじまりとなった』。『文政のお蔭参りでは、参宮者数が増大し、範囲も西は九州、東は東北の一部にまで広がったと言われ、大規模な国民運動となった』。「浮き世の有りさま」『所収の「御蔭参耳目第一」によると、参宮者が大群衆となって押し寄せてくる大坂や奈良では』、『大混雑となり、街道や宿屋では十分な対応ができなかったという』。『また、宮川のあたりも大混乱となり、当時は橋がなかったため、川止めになると』、『数万人が滞留し、船の転覆事故なども相次いだ』。『道中では、宝永の時と同じように施行が行われ、お伊勢参りの人は参宮者の証として柄杓を持つようになった』。『柄杓は、参詣の際に外宮の北門で置いていくということが流行った。享楽の度合いも高まり、男女や老若を入れ替えた』、『仮装のような出で立ちで参宮する例も多く見られ、町の祭礼などに似た賑やかさを思わせるものであった』が、『他方で参宮者の増加に伴い』、『事故や事件なども多発するようになり、道中で仲間とはぐれて』、『病気にかかったり、食べ物が手に入らず』、『飢え死にしたり、女は駕籠屋に騙され』、『遊女に売られたりする事件も起き』、『参宮を果たすことができず』、『途中で引き返す者も多くあった』とあり、以下、前回にも数値で引いたが、『参詣者』は凡そ四百二十七万六千五百人で、『当時の日本総人口』の三千二百二十八万人(嘉永三(一八五〇)年のデータとする)の実に当時の日本の全人口の十三%を超えるものであった。最初の『発生地域』は『阿波』で、この年も閏三月初めから八月末までの実に半年間続いた。その『経済効果』は実に八十六『万両以上』とされ、『物価上昇が起こり、大坂で』十三『文のわらじが』二百『文に、京都で』十六『文の』柄杓(ひしゃく)が三百『文に値上がりしたと記録されている』とある。]

 堺、南・北、鄕中《がうちゆう》の内にも、參宮の者へ、笠・手拭の類《たぐひ》、又は、食物の類、錢、或は「施し湯」なども有ㇾ之、「施し宿」等いたし候者は、最前、明店《あけみせ》、借受《かりうけ》、爲ㇾ泊《とまりなし》候由、大變の騷《さはぎ》に御座候。

 當地市中《いちなか》、家持《いへもち》を始《はじめ》、下女・下男に至《いたる》迄、追々、駈出《かけだ》し、當地にて、鍛冶商人《かぢあきんど》、多く御座候何《いづれ》も、職人を遣ひ罷在候處、右、職人共、「駈出し參詣」に罷越候に付、内は亭主一人に罷成、職分も出來兼《できかね》、致方《いたしかた》無ㇾ之、右亭主一人、内《うち》に罷在候。無詮方、是も、跡より、參詣いたし候由、申聞候者も御座候。當地、「茶立奉公人」・「垢すり女」と唱《となへ》候賣女《ばいた》は不申及一、「ちもり」、幷《ならびに》、「六間町」と唱《となへ》申候「けいせい」迄も、參宮相願候樣子、旱《ひでり》に雨を望むが如く、やゝもすれば可駈出樣子に付、不ㇾ得止事、亭主、家内、幷、賣女、召連《めしつれ》、參宮に罷出候者も御座候。右は、無理に留置《とめおき》候ては、拾兩と、廿兩の、代物《しろもの》、「お蔭」で損金致候儀に付、夫よりは、廿金も遣捨《つかいすて》候はゞ、家内、不ㇾ殘、幷、右の奉公人までも、參宮相成候儀に付、明屋《あきや》いたし罷在候ものも御座候。

[やぶちゃん注:「駈出し」「駈出し參詣」主人に無断で、突然、参宮に出てしまう「抜け参り」の別称と思われる。この部分の実状を考えるに、所謂、突発的集団ヒステリー現象が蔓延し、一気に感染拡大してゆくさまが見てとれる。鍛冶職人の頭目独りだけが職場にあって、仕方なく、その頭目も後から参詣するという状態は、間接性「お蔭参り」感染症と言える面白い病態である。

「茶立奉公人」(ちゃたてほうこうにん)とは、江戸時代の大坂の遊女の一種で、茶屋(料理屋)に雇われ、客に給仕をする女ではあるが、実際には遊女と変わらなかった。「茶くみ女」「茶立て」とも呼ぶ。

「垢すり女」古くよりお世話になっている菊池眞一先生のサイト内の、宮武外骨著「笑ふ女 本名 売春婦異名集」(大正一〇(一九二一)年刊)の電子化ページに、

   *

垢掻女(あかかきおんな)

「風呂屋者」の一名なり、天和二年の『好色一代男』に此語あり、又兵庫の風呂屋の図として、湯女[やぶちゃん注:「ゆな」。]が男客の背を洗ふ様をも描けり、垢をかく故に「猿」とも呼べり、後には「垢すり女」と称せり、『筆拍子』に「延宝の頃、大阪の市中にあかすり女のありたる風呂屋十四軒」と記せり、又大阪島の内の風呂屋者を「髪洗女」と称せり、これも男客の髪を洗ふ故に名づけしなり

是等の「風呂屋者」が淫を売りしことは、足利時代よりの風習にて、明治二十年頃まで其余風継続して行はれたり、予が少壮の頃、東京の各湯屋にも此怪しき女が二、三人づゝ居たり、浴客は先づ二階に上りて衣を脱し、入浴せば女来りて背を洗ひ、浴後其女に戯れながら茶菓を喫し、夜間密かに付近の曖昧屋に連れ行きしなりと聞けり

髪洗女、猿、風呂屋者、呂衆等の項をも見よ

   *

とあった。

「ちもり」「乳守(ちもり)」で「乳守の遊女」。「乳守」は「六間町」(ろっけんちょう)と同じで、当時の堺の遊廓名(地名)。米澤光司氏のサイト「ご昭和ねがいます」の『堺・乳守遊郭(大阪府堺市)|おいらんだ国酔夢譚|』のページに二つの名が出る。

「亭主、家内、幷、賣女、召連」の「亭主」は遊廓の各遊女屋の支配亭主。

『無理に留置《とめおき》候ては、拾兩と、廿兩の、代物、「お蔭」で損金致候儀に付』「代物」は「使える人気の遊女」の意であろう。則ち、『「お蔭参り」に行かせて呉れないなら、あちきは客はとりんせん。』と臍を曲げられて、大枚の損をする結果となるということか。]

 扨、又、當地大坂へ、松平阿波守殿より、宿駕籠《しゆくかご》、差出《さしいだし》有ㇾ之、何百挺《ちやう》とか申事に御座候。是は、老少共《らうしやうども》に、疲《つかれ》候はゞ、「時雇《ときやとひ》かご」に無ㇾ之、「御救《おすくひ》かご」の由に御座候。

[やぶちゃん注:「松平阿波守殿」これは、この当時の阿波国徳島藩第十二代藩主蜂須賀斉昌(なりまさ)のこと。彼は阿波守で、第十一代将軍徳川家斉から「松平」の名字を授与されている。阿波が今回の「お蔭参り」の震源地であったことによる。

「時雇かご」藩が臨時に「お蔭参り」用に雇った駕籠。それではなく、老人たちや子どもらが「お蔭参り」の途中で疲弊・発病した際のために「御救かご」として雇ったというのであろう。]

 此間も、

「盜物斷《ぬすみものことわり》」

御座候處、右は、盜賊、這入《はひいり》候儀には無ㇾ之、女房が、盜出《ぬすみいだ》し、質入《しちいれ》いたし、夫《それ》を路用に、參宮へ出掛候故《ゆゑの》意に御座候由。ケ樣の心得違も御座候。

[やぶちゃん注:「盜物斷」これは質屋の張り紙にあったのであろう。]

 又は、食郞邊[やぶちゃん注:底本にママ注記有り。]と、漸《やうやく》く罷越候處、行先、施し人も無ㇾ之、旅籠《たびかご》は高く、路用は、元より、用意無ㇾ之、仕方なく、空敷《むなしく》故鄕へ立歸候不本意の者も有ㇾ之。

[やぶちゃん注:「食郞邊」不詳。「食郞」は地名か。]

 又は、參宮と唱へ、參宮無ㇾ之者、施物を貪《むさぼり》候族《やから》も有ㇾ之。

 大坂にては御存《ごぞんじ》の「辰已屋」抔にては、施し金、壹萬兩差出、「鴻の池」は、いまだ承り不ㇾ申候ヘ共、其外も、施し金錢、其外、格別に御座候。

[やぶちゃん注:「辰已屋」三代で大豪商の仲間入りを果たした大阪の炭問屋。嘗つて、跡目争いから、将軍徳川吉宗や大岡忠相らを巻き込んだ大疑獄事件「辰巳屋一件」で知られ、歌舞伎の演目にもなっている。だから「ご存」と前振りしたのである。

「鴻の池」大坂の富商。寛永二(一六二五)年に初代善右衛門が海運業を始め、主として諸侯の運送等を引き受け、後、金融業として大を成した。]

 堺にても一軒にて、七十兩餘、施し候もの、有ㇾ之。其外、鐚《びた》拾貫、拾五貫、口々に施し候者共は、只、施し者の數に入候上に由。只、

「おかげ、おかげ、おかげさん。」

抔と計《ばかり》申居候。

 諸商人、

「旦夕、人、出入、薄く、訴へ公事《くじ》、少《すくな》し。」

などと申候へば、

「是も『お蔭』故。」

と申居《まをしをり》。

 大神宮へ參り候ものを、「おかげ參り」と唱申候。

 御役所四方、柄杓持候道者《だうじや》、夥敷《おびただしく》通り候事、櫛の齒を引《ひく》が如く、當所の蚊よりも、多く御座候。

「四國邊へ、劔先御祓《けんさきおはらひ》、降り候。」

抔、申觸《まをしふれ》、此間も、風烈の節《せつ》、裾、廻し、飛散《とびち》り、雪、空に飛行《ひぎやう》し、夫より吹下《ふきくだ》し候へば、

「それ、いせ大神宮の御祓、ふり候。」

など、大勢、騷立候事、有ㇾ之。尤《もつとも》、何方《いづかた》へか、御祓、振り候儀に付、伊勢より御迎參り候に付、かく申。

 右樣、騷立候に御座候。右に付、同心共え[やぶちゃん注:ママ。]、承合候處、山師の致《いたす》事にて候哉《なり》。伊勢神宮祓降り申《まをす》儀にては、無ㇾ之儀と存候段、申聞候。

[やぶちゃん注:「劔先御祓」伊勢神宮に所属する御師(おし)の手によって全国に配布された御札。鎌倉時代には既に記録に見え、普通はそれを「お祓大麻(はらいたいま)」と呼び、熨斗形に包んだ「剣先祓(けんさきばらい)」として配られ、丁重なものは箱に収めて配った。海老名の鎮守「弥生神社」公式サイトの『「神宮大麻(じんぐうたいま)」の歴史とお祭り』を見られたい。実物の写真もある。]

 堺市中も七分通りは、參宮に出かけ候よし申觸候。明屋に仕《しまひ》、表戶へ、

「おかげ參り仕候」

と立紙に認《したため》、賣家同樣の有樣に御座候。

 此節は、途中より伊勢迄は、平船ヘ、車を仕懸け、老・兒共、疲れ候ものをのせ、大勢にて、引船仕《しかまうり》候段、此節は、誠に、人の「お蔭」にて、參宮仕候儀に御座候。

 參宮人の、隨分、身元、しかと仕候者罷出、着類《ちやくるゐ》、うへは太織《ふとおり》、下に島縮緬《しまちりめん》小袖など、着し、笠に「おかげ參」と認、右樣の着類、仕候者も、是非々々、柄杓を持參仕候儀に御座候。

 此間は、大坂へ罷出候節、道にて見請候道者の物、男女《なんによ》、打交《うちまぢ》り、尤、女子、十六、七歲位の女《むすめ》、五十人計《ばかり》にて、揃《そろひ》のゆかたを着し、同音にて、「伊勢おんど」をうたひながらの參宮も、いせい、よろしく、別儀に御座候。おんど、數多く御座候。先《まづ》、一つ、申上候。

  おいせさんまへおかげでまゐるヨイヨイ

  みちはてんきのヤレほどのさ、

  ヤアトコナヨンヤナアアリヤリヤコリヤリヤサアヨンヤサア

右の通の歌はやしにて、殊の外、賑々敷《にぎにぎしく》、いせい、よく、いさましく御座候。堺へ入候所に大和川と申、「千住の大橋」位《ぐらゐ》の橋、有ㇾ之、此橋の上にて、人、五、六人、罷在、參宮道者、日暮前七ツ時時分、道者參り次第、

「最早、日暮に相成候に付、此所《このところ》、止宿いたし候。」

樣申聞、此方《こなた》より留候事に御座候。

[やぶちゃん注:「大和川」この辺りだが、「今昔マップ」の戦前の地図を見る限りでは、「大和橋」である。

「日暮前七ツ時」午後四時頃。]

 其外、錢施し候所は、往來へ二間に三間程の臺を仕《つかまつり》、其上へ疊を敷《しき》、毛氈の上へ錢を積置《つみおき》、參り候人々、一人も不ㇾ殘遣《つかは》し候事、遣し候方より、

「御面倒ながら、御持參被ㇾ下候へ。」

と申、不ㇾ殘、遣し候事、誠にあきれはて候儀に御座候。

 大坂表などは、市中、不ㇾ殘、うかうかと仕罷在候儀にて、大坂へは、殊の外、救駕籠、澤山、出候由に御座候。河内國より出候救駕籠、五十挺ほど差出、駕籠かきの者、何れも揃《そろひ》の着類、仕、緋縮緬《ひじりめん》の下帶抔、着し罷出候事、先《まづ》、申上候所より夥敷《おびただしく》御座候。

 荒增《あらまし》、申上候。愚文の段、御笑留《ごしやうりう》の上、只、實事の所を申上候迄に御座候。何《いづれ》も取込、早々、如ㇾ斯《かくのごとく》御座候。以上。

 閏三月五日

[やぶちゃん注:「閏三月五日」グレゴリオ暦一八三〇年四月二十七日。]

大和怪異記 卷之二 目録・一 草野經廉化物を射る事

 

[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の分はここから(目録から示した)。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。なお、底本のルビは歴史的仮名遣の誤りが激しく、ママ注記を入れると、連続してワサワサになるため、これ以降では、歴史的仮名遣を誤ったものの一部では、( )で入れずに、私が正しい歴史的仮名遣で《 》で入れた部分も含まれてくることをお断りしておく。

 以下、頭に巻之一の目録を示す。「十一」以下の頭の数字は底本では半角。ここでは読みは総て附した(歴史的仮名遣の誤りは総てママ)。

 挿絵があるが、これは「近世民間異聞怪談集成」にあるものが、状態が非常によいので、読み取ってトリミング補正し(今回は二幅を合成して見やすくした)、適切と思われる箇所に挿入する。因みに、平面的に撮影されたパブリック・ドメインの画像には著作権は発生しないというのが、文化庁の公式見解である。底本(カラー。但し、挿絵は単色)の挿絵部分もリンクを張っておく。

 なお、以下で本書名が「やまと述異記」とあるのは、初期の作者の書名が残っているこれは、山川等の地理に関する異聞や、珍しい動植物に関する話などを多く集めた志怪小説集「述異記」(全二巻。南朝梁の官吏で文人の任昉(じんぼう)が撰したとされているが、偽書説もある)に倣って、その「日本」版ということで、かく名づけたものの、出版の土壇場になって、書名を急遽、「大和怪異記」に変更した結果である。]

 

やまと述異記二

一 草野經廉(くさのつねかど)化物(ばけもの)を射(ゐ)る事

二 日甲氷季(ながすへ)出雲小冠者(いづものこくわじや)と相撲(すまひ)の事

三 室生(むろう)の龍穴(りうけつ)の事

四 鵺(ぬえ)が執心(しうしん)馬(むま)となつて賴政(よりまさ)に讐(あた)をなす事

五 源實朝(さねとも)は宋(そうの)鳫陽山(かんやうざん)の僧(そう)の再來(さいらい)なる事

六 吉田兼好(よしだのけんかう/かねよし)が墓をあばきてたゝりある事

[やぶちゃん注:読みは(右/左)にある。]

七 一条兼良公(かねよしこう)御元服(ごげんぷく)のとき怪異(くわゐ)ある事

八 石塔(せきとう)人(ひと)にばけて子(こ)をうむ事

九 芦名盛氏(あしなもりうぢ)は僧の再來なる事

十 芦名盛隆(あしなもりたか)卒前(そつぜん)に怪異(くわいゐ)ある事

 

 

やまと述異記二

 第一 草野經廉(つねかど)化物を射(い)る事

 筑後國、山本の住人、草㙒太郞經廉といふ者、あり。

 常に山中(さんちう)に入《いり》て、猪鹿(ちよろく)を狩(かり)て、たのしみとす。

 あるとき、弓矢をたづさえ[やぶちゃん注:ママ。]、「小黑(こぐろ)」・「眞黑(まくろ)」といふ二犬(にけん)をひき、深き嶺(みね)にのぼり、鹿(しか)を、もとむ。

 かの二犬が行(ゆく)にしたがひ、山谷(やまたに)をしのぎ、豊後(ぶんご)日田郡の内《うち》、「内野狩倉(うちのかくら)」に出《いづ》る【「内河㙒由桶原(《うちかはの》ゆず《けはら》)」也。】。

 爰に、ひとつの家《いへ》、有。

 外郭(ぐわいくはく[やぶちゃん注:ママ。])、ひろくして、閣殿、棟門(とうもん)、美をつくし、碧甍(みどりのかわら[やぶちゃん注:ママ。])、空(そら)にかゝやき、丹檐(あかきのき)、地をてらす。數棟(すとう)の倉庫(そうこ)、扉(とびら)を鎖(とざ)す。東にあたつて、小川、ながる。爰に、虹桁(こうゑん)の橋をなし、里民、旅驛(りよえき)の勞(らう)を、いこはしむ。

 もつとも、財福・有德のよそほひなり。

 折節、南庭の梅花(ばいくわ)、ひらきて、芬々(ふんふん)たり。

 經廉、門前にいたり、案内をこふといへ共、人、なし。

 其内を、うかゞひ見れば、庭上(ていじやう)に春草(しゆんさう)ふかく、廣亭(くわうてい)、塵埃(ぢんあい)に埋(うづ)もれ、窓扉(さうひ)、をのづから[やぶちゃん注:ママ。]ひらけ、春風、簾帳(れんてう[やぶちゃん注:ママ。])をやぶる。

 奧室(をうしつ[やぶちゃん注:ママ。])に入《いる》に、いよいよ、人、なし。

 

Kusanounekado

 

[やぶちゃん注:底本の画像はこれ。以前のものと同じく、台詞のようなものがあるが、墨の濃淡が異なり(特に娘の左のそれ)、落書きと断じて電子化しない。]

 

 爰に、齡(よはい[やぶちゃん注:ママ。])、二八《にはち》ばかりの美姬(びぢよ)一人、悲淚啼泣(ひるいていきう)す。

 經廉、問《とふ》ていはく、

「汝は、人間なるや。」

 彼(かの)女子(によし)、こたへていはく、

「我は草壁春里(くさかべはるさと)が季(すへ[やぶちゃん注:ママ。])の女子なり。然《しかる》に、我父、春里は、冨貴有福(ふうきゆうふく)にして、七珎万寶(《ひつ》ちんまんばう)を、藏庫(くら)にたくはえ[やぶちゃん注:ママ。]、累葉(るいえう[やぶちゃん注:ママ。「るいえふ」が正しい。]。)、繁榮せしめ、諸從春属(しよしけんぞく[やぶちゃん注:ママ。])、數(かず)をつくす。去月(きよげつ)はじめより、不思議の魔生、夜〻(よなよな)、來(きたり)て、我(わが)親兄(しんきやう)を、一〻《いちいち》、取《とり》つくす。諸從《しよじゆう》、おそれて迯去(にげさり)、今は、我身一人、殘れり。何さま、今宵、かの魔のために、とらるべき事、必定《ひつぢやう》なる故、かく、悲歎に及《および》候。」

といふ。

 經廉、重(かさね)て、いはく、

「それがし、今夜(こよひ)、彼(かの)魔生を、退治すべし。」

と契約し、女子を唐櫃(からひつ)に入《いれ》、經廉は、其ふたの上に座し、件《くだん》の二犬を、左右に置《おき》、魔生が來る尅限(こくげん)を、

『いまや、いまや、』

と相待(あひまつ)に、夜半に及《および》て、巽(たつみ)の方(かた)より、雷(いかつち)のごとくになり、車輪のごとくにめぐり、電(いなづま)のごとくに來《きたつ》て、寢殿の破風(はふ)より、入《いら》むとす。

 經廉、山鳥の羽にてはぎたる大矢(おほや)をもつて、

「ひよう」

ど、射る。

 電、(いなひか《り》)、たちまち、南方に去(さり)て、ふたゝび、來らず。

 曉天《げうてん》に、これをみるに、破風より、血、ながれたり。

 件の二犬を先にたてゝ、血をしたひ行(ゆく)に、櫛川山にいたる。

 爰に、ふし木あり。

 其なかばに、彼(かの)矢、たちて、血ながるゝ事、おびたゞし。

 時に、經廉、竒異の思ひをなす所に、樵夫(せうふ)、一人、來り、語《かたり》ていはく、

「此木は、一莖千條(いつ《ぎ》やうせんでう)の柏木(はくぼく)、山中一の木神(もくしん)なり。しかるを、草壁春里、しらずして、これをきる。此木、すでにくつがへり、倒(たを[やぶちゃん注:ママ。])るゝ時、声、有《あり》て、さけぶこと、あたか[やぶちゃん注:ママ。「も」の脱字。]、百千の雷(いかつち)のごとし。これよりして、其木精(もくせい)、春里にあだをなす事、右の如し。」

と云(いひ)おはつて[やぶちゃん注:ママ。]、見えず。

 經廉、伏木にむかつて、

「汝が憤怒、ことはり、至極せり。此上は、速かに、塞氣逆生(そくきぎやくしやう)の木体(もくたい)を轉じて、万德(まんとく)圓滿の佛體に刻(きざ)ましむべし。自今(じこん)以後、恨(うらみ)を散ずべし。」

といふ時に、窾(か)の中に、聲、あつて、これに應ず。

 經廉、重て、いはく、

「まことに、猶、木精あらば、みづから、某《それがし》が住国(すむくに)に來《きた》るべし。」

と。

 其言葉、おはらざるに[やぶちゃん注:ママ。]、山河(さん《が》)大地、震動し、大雨(たいう)、車軸をなし、洪水、おびたゞしく、伏(ふし)たる柏木、をきあがり、龍(りやう)のかたちに変じ、大河(だいが)にくだれり。今に櫛川山に「蛇道(じやのみち)」といへる、是なり。

 かくて後、筑後国、「九万死路(くましろ)の渡(と)」に、怪鬼、出現し、夜々(よなよな)、人を、とりころす。

 これによつて、人民の通路(つうろ)、たえ、国中の禍害(くはがい)となる。

 經廉、これを聞《きき》、退治の爲、かしこに行《ゆき》、うがゝひみるに、夜半に、河邊(か《は》べ)の砂中(すなのなか)より、光を、はなつ。

 其所を、ほりうがつに、窾(かの)木、砂中に有《あり》て、矢、たてり。

 よく見るに、經廉が矢なりければ、かの木にむかつて、

「去るころ、櫛川山にて約せる旨にまかせ來る事、殊勝なり。ねがはくは、是より行程一里のほづて[やぶちゃん注:ママ。「のぼつて」の誤刻であろう。]、我《わが》城地(《じや》ち)に來るべし。」

といふに、又、風雨おこりて、大河の水、さかさまにながれ、かの木、經廉が城地にいたりければ、經廉、件(くだん)の木をもつて、佛像をきざましめ、堂舎をたてて、安置(あんぢ)す。

 今、筑後國「山本の觀音」、これなり。

 其後、經廉、草壁春里が女子を妻(つま)とし、子孫、繁榮しけるとなり。「豊後日田事記」

[やぶちゃん注:原拠とする「豊後日田事記」(ぶんごひたじき)は、『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の解題によれば、「豊西記」(ほうせいき)の異名とある。「豊西記」は春森樹の著になるもので、「西尾市岩瀬文庫/古典籍書誌データベース」の写本の書誌によれば、『豊後国日田の沿革・歴代領主について記した地誌。漢文体。序によれば、本書は天和』三(一六八三)『年に新領主松平大和守直矩に献上され、更に貞享』三(一六八六)]『年に日田が公領となり』、『国替えとなると、新代官小川藤左衛門尉正辰に献上された』とあり、『貞享』三『年青陽、自序』で、『巻末の「日田郡守護領主之次第」は寛政』五(一七九三)『年の記事まで増補あり(本文同筆)』とある。ネットでは現物には当たれない。非売品で昭和三〇(一九五五)年に校訂本が刊行されている。有意な破綻のない展開を持ち、何らかの原話があるようでもなく、是非、原話を見てみたいものである。

「草野經廉」本篇は時代背景が明らかでないが、かなり類似した名で、九州北部に関連し、鎌倉時代の武将で神主でもあった草野経永 くさのつねなが 生没年未詳)がいる。講談社「デジタル版日本人名大辞典+Plus」によれば、父祖から受け継いだ肥前松浦郡鏡社(長崎県)の宮司職に専念するため、本拠の筑後山本郡から同地に移住。弘安四四(一二八一)年の「蒙古襲来」に出陣し、戦功をたてた。通称は次郎とあった。龍となった異界のものと感応出来るというのはシャーマンとしての神職とも通っじ、本拠が一致することから、この者の祖先がモデルと措定される(理由は後の「「草壁春里(くさかべはるさと)」の注を参照。

「筑後國」「山本」現在の久留米市の一部。この附近(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)

「豊後(ぶんご)日田郡の内」「内野狩倉(うちのかくら)」「内河㙒由桶原(《うちかはの》ゆず《けはら》)」大分県宇佐市院内町落狩倉(いんないおちかくら)という山間部があるが、ここであろう。

「東にあたつて、小川、ながる」大分県宇佐市院内町落狩倉の東方なら、新貝川が流れる

「虹桁(こうゑん)の橋」美しい支えの橋桁(はしげた)を架けた橋の意であろう。

「芬々(ふんふん)たり」芳気の高く香るさま。

「二八」十六歳。

「草壁春里(くさかべはるさと)」日田には古くから「日下部(くさかべ)の長者」伝説がある。古賀勝氏のサイト「筑紫次郎の世界」の「一夜川」(ひとよがわ:副題は「榧の木物語」「榧」は「かや」)を読まれたい。その冒頭に、千三百年以上も昔の話として出る。これは単純計算で養老六(七二二)年以前で、奈良時代以前ということになる(本篇の私の最後の注も参照)。その伝説によれば、本篇の草野経廉は、『草野太郎常門(くさのたろうつねかど)』で、『耳納』(みのう)『山麓の山本郷(現久留米市)の豪族である』とあるのでほぼ一致を見る。ピークの耳納山はここで、この一帯を「耳納山地」と呼ぶ。伝説と本篇とは微妙な小道具が異なるが、

・最初に逢うのは娘ではなく、長者の下男の初老の者であり、娘に逢わせるために、屋形へ案内するシーンがあること。

・その娘は『末娘の玉姫』と名が出ること。

・犬は二匹ではなく、三匹であること。

・変化が具体な「鬼」として形象化されているらしいこと。

・祟りの謂われを語る怪しい「樵夫」が、『白装束で白髪の老人』である

こと等々であるが、同一の伝承に基づく酷似した譚である。敢えて言うと、大きな違いは、

  • 変化元の神木が「柏」(被子植物門のブナ目ブナ科コナラ属コナラ亜属 Mesobalanus 節カシワ Quercus dentata )ではなく、「榧」(裸子植物門マツ綱マツ目イチイ科カヤ属カヤ Torreya nucifera )であること

と、

  • 日下部の長者は『生前このご霊木で観音像を彫り、供養すると約束した』にも拘らず、斬り倒したままに、『大事な約束を反故にした』結果、『春里は罰を受けて死んだ』という霊の語りの部分がより詳しいこと

であろう。なお、この伝承は実はもっと遅いことが後で判る。本篇の私の最後の注も参照。

「諸從春属(しよしけんぞく)」前の部分は後の「諸從《しよじゆう》」が正しい。振り仮名の誤刻であろう。

「巽(たつみ)」東南。

「櫛川山」不詳。但し、「Stanford Digital Repository」の戦前の地図の「豐岡」で前注の位置を調べ得見ると、古くはここは広域の「安心院村」で、これ、驚くべきことに、「あじみ」(むら)と読んでいることが判明した。というより、現在も落狩倉の東北に接して、やや読み方が変わって、大分県宇佐市安心院町中山(あじむまちなかやま)が現存することも判った。その辺りを探してみたが、「櫛川山」は見あたらない。ただ、落狩倉の北方の現在の院内町副の丘陵部に「櫛野」の地名が見出せた(上櫛野・下櫛野も並ぶのですぐ見出せる。現在のグーグル・マップ・データ航空写真のここで、東部分が有意なピークを持つ山体であることが判る)。ここがそこか?  なお、本篇の私の最後の注も参照。

「ふし木」ここは「倒木」の意。

「一莖千條(いつ《ぎ》やうせんでう)」不詳。通常の草木の一茎の千本分に当たる霊験あらたかな神木・木神であることを言うか。

「塞氣逆生(そくきぎやくしやう)」不詳。倒木となって、本来の陽気が閉塞して、逆に陰気となってしまった状態を言うか。

「窾(か)」洞(ほら)。倒木に生じた空洞。

「大河(だいが)」先の古賀氏の記載によれば、筑後川ということになる。

「蛇道(じやのみち)」不詳。

「九万死路(くましろ)の渡(と)」古賀氏の記載に『神代(くましろ)(久留米市)』とある。(旧)神代橋はここであるから、この「渡し」はこの附近となろうか。但し、少し上流のここに「古北渡船場跡」(明治八(一八七五年より)があるので、こちらの方が候補地としてはより近いか。冒頭の旧「山本」も、この左岸である。

「是より行程一里のほづて、我城地(ち)に來るべし」それらしい山砦跡はないようである。

「山本の觀音」先の古賀氏のページに、『山本町の観興寺には、常門が榧の霊木で彫った千手観音像が秘仏として祭られているという』とあるのがそれである。曹洞宗山本山普光院観興寺(やまもとざんふこういん かんこうじ )。解説は短いが、サイト「筑後三十三所観音霊場」のこの寺のページが、本伝承を述べてあり、解説版写真も拡大して読める。それを見ると、『天智天皇の白雉年中(六五〇年頃)』(この言い方はおかしい。白雉時代(六五〇年~六五四年)の実際の天皇は孝徳天皇で、中大兄皇子(=天智)は孝徳の皇太子となって「大化の改新」を進めていたが、白雉四年に二人の対立は深まり、翌五年に孝徳帝は崩御する)、『草野太郎常門が豊後国串川山(現日田市)に狩りをし、榧(かや)の木の霊木を得て、これで千手観音の像を彫刻し、それを本尊として当山を開基、伽藍堂坊三十六坊を建立したのが始まりといわれてい』るとあり、『特に天智天皇により「観興寺」の勅額を賜ったほどで、境内の小池から、大宰府の都府楼と同じ「観興寺」の銘の入った布目瓦が出たことがあり、草野氏の信仰と当時の隆盛がしのばれ』るとする。さらに、『寺宝としては、千手観音の霊木にまつわる鎌倉後期の作と伝えられる「観興寺縁起」二幅があ』るとある。而して、本話は以上の寺の記載が正しいとならば、確実に千三百七十二年前の六五〇年、或いは、それ以前に遡ることが可能ということになるのである。なお、この解説の中の狩りをした場所を『豊後国串川山(現日田市)』とするのは、一寸悩ましいのである。串川山という山は現在の日田市にはない。しかし、日田市には串川という川はある。しかし、ここは私が先に比定した大分県宇佐市院内町落狩倉とは遙かに隔たっているのである。無論、一種の神話であるからして、まさにこの広域に於いて、この神話の原形が生まれ、それぞれの地が超現実的に組み合わされ、話も多彩な変異を見せて、複数生れたと考えればよかろう。

2022/11/13

大和怪異記 卷之一 第十八 壬生の尼死して腹より火出る事 / 卷之一~了

 

[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の分はここから。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。

  なお、本篇を以って巻之一は終わっている。]

 

 第十八 壬生(みぶ)の尼(あま)死して腹より火(ひ)出(いづ)る事

 六条壬生に、尼の死《しし》たるを、引《ひき》すてしを、犬(いぬ)、かの死がいのはらを、一《ひと》くち、くひやぶりければ、腹中より、火、出て、からだを、やきうしなひけり。「續古事談」

[やぶちゃん注:「續古事談」鎌倉初期の説話集。本来は六巻(但し、現存諸本は第三巻を欠く)。現存本の収載説話は、王朝時代の天皇・貴族の逸事を中心に、中国説話も含む百八十五話。編者不明であるが、内容に帝王のあるべき道を示そうとする意識が認められ、「承久の乱」を前にした後鳥羽院への諫の書とする説もある。跋文には、建保七(一二一九)年四月二十三日、草庵の中で完成したことが記される。巻構成は、巻六の漢朝部を除き、書名通り、直近で先行する「古事談」(鎌倉時代の説話集。全六巻。源顕兼編。建暦二(一二一二)年から~建保三(一二一五)年の間に成立。奈良から鎌倉初期までの説話を集め、王道后宮・臣節・僧行・勇士・神社仏寺・亭宅諸道の六編に分類したもの。文体は和製漢文体や仮名交り文など、多様)に、ほぼ準ずるが、文体は和文であり、説話の性格にも相当の違いがある。本書の説話には儒教的教訓性が強く、学才称揚の姿勢、及び、尚古思想・末代意識も顕著である。出典には「古事談」・「中外抄」・「富家語」(ふけご)・「中右記」(ちゅうゆうき)・「長秋記」などが認められる(小学館「日本大百科全書」に拠った)。所持する岩波の「新日本古典文学大系」版で確認した。巻の第二六七〇ページ所収(通し番号(二―二七、五三))。それによれば、原拠では、頭に、『大二条殿の日記にこそ、不思議の事は侍れ』とあって、ほぼ同様の文があって、最後に『これ権者にや』と結んでいる。「大二条殿」とは、藤原道長の五男で、従一位・関白・太政大臣・贈正一位の藤原教通(のりみち 長徳二(九九六)年~承保二(一〇七五)年)の別名で、彼の日記。但し、現在は断片的にしか伝わっていない。因みに、「人体自然発火現象」は現在に至るまで、本邦では稀な怪奇現象である。

「六条壬生」現在のこの中央附近(グーグル・マップ・データ)。]

大和怪異記 卷之一 第十七 大江匡房は蛍惑星の化身たる事

 

[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の分はここから。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。]

 

 第十七 大江匡房(まさふさ)は蛍惑星(けいこくせい)の化身(けしん)たる事

 大江匡房は、やんごとなき人なり。

 あるとし、天文(てんもん)陰陽道に達せる唐人(とう《じん》[やぶちゃん注:ママ。])きたりて、匡房を拜して、

「君は、『けいこくせい』の変作(へんさ)なり。」

と、いひける。

 これより、世に相傳へて、

「たゞ人に、あらず。」

と稱しける、となり。「江談」

[やぶちゃん注:本篇も所持する岩波版「新日本古典文学大系」版「江談抄」(既に述べた通り、匡房自身の直談が元)に所収しない。不思議。

「蛍惑星」火星。「熒惑星」とも書く。

「変作」本来は仏教用語。姿を変えて現れること。また、特に菩薩などが世の人を救うために、仮に姿を変えて現われたすること。「化作(けさ)」とも言う。]

大和怪異記 第十六 宇治中納言在原業平の幽靈にあふ事

 

[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の分はここから。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。【 】は二行割注。]

 

 第十六 宇治中納言在原業平の幽靈にあふ事

 在原業平は、十四歲より、眞雅僧正にしたがひ、眞言の奧儀(をうぎ[やぶちゃん注:ママ。以下の「奥旨」も同じ。])をきはめ、二十八歲まで、つとめらる。

 この故に、詠哥、をほく、眞言の奧旨(をうし)にかなへる事、あり。眞言の血脉(けつみやく)に好賢(こうけん)とあるは、業平の名(な)なり。

 天安元年正月廿八日、文德天皇、住吉に行幸(ぎやうがう)のとき、業平、供奉せらる。

 此とき、明神の託(たく)に、

  尋《たづね》ても君にぞかたる神のますあこねのうらの昔語《むかしがたり》を

中將、かへし、

  いせの海やあこねのうらのいにしへをいかでか人に語《かたり》そめけん

 業平は、淳和帝、天長二年に、うまれ、元慶四年五月九日より、やまひにふし、同廿八日子《ね》の刻に死去、五十六歲なり。

 遺言にまかせ、東山の麓に葬(はうふ)る【一說に「大和國、在原寺、葬地なり。」と云。】。

 同年九月十三日、宇治中納言藤朝雄(とうのあさを)卿、くまのさんけいのとき、いづみの國大島郡にて、なりひらに、あひ給へり。

 そのゝち、ゆめの告(つげ)によつて、なりひらの死骨(しこつ)を、いづみの国に、うつして、塚をきづき、寺をたて、和泉寺《いづみでら》と名づく。又、「濱寺《はまでら》」とも、「在平寺《なりひらでら》」ともいふ。

 延喜帝の御宇、「在原寺」のはしらに、虫くひのうたあり、

  あり原や中なるさとの道とめていわゐかしづけやどはしらせん

かゝりしかば、左少弁淸原の光任(《みつ》とう)に仰《おほせ》て、中將の靈を、神とあがむ。いまの「大和大明神」なり。又、「池田の社《やしろ》」共、云。「玉傳深祕」

[やぶちゃん注:以下、底本では、終りまで全体が一字下げ。]

 同書云《いはく》、『業平、交會(こうくわい)につけて、かくし名、おほし。「初紅葉(はつもみぢ)」【二條后《にじやうのきさき》をいふ。「秋風」共云。】、「白雲(しらくも)」【染殿内侍《そめどののないし》を云。】、「初草(はつくさ)」【業平、妹《いもと》を云。】、「若紫(わかむらさき)【紀有常が女《むすめ》をいふ。】、「忘草(わすれ《ぐさ》)【染殿后《そめどののきさき》を云。】、「武藏(むさし)あぶみ」【四條后をいふ。】、「やまぶき」【定文《さだふみ》女《むすめ》をいふ。】、「浮雲(うきくも)」【當紀、妹をいふ。】、「唐衣」【伊勢をいふ。】、「千草(ち《くさ》)」【小㙒小町をいふ。】、是等(これら)なり。

[やぶちゃん注:原拠とする「玉傳深祕」は「玉傳深祕卷(ぎょうでんしんぴくわん)」が正しい。中世の歌論書。作者未詳。底本と同じ「新日本古典籍総合データベース」で写本が見られるが、以上は、同書の幾つかの別々な箇所を繋げたもので、例えば、冒頭部はここの右丁が元で、文徳天皇の供奉はここの左丁最終行、及び、ずっと後のここの右丁から左丁の部分が相当する(ここに歌が出る)。霊に行き逢ったところはここの右丁後ろから二行目以降。但し、評言にある「隠し名」は、この写本には、ない。

「宇治中納言」不詳。前注の最後のリンク先の原拠を見ると、『宇治関白ノ末孫宇治中納言藤原朝雅』とある。この「宇治関白」とは藤原頼通(道長の子)のことである。しかし、系図を見ても、「朝雄」も「朝雅」も見当たらない。

「在原業平」は天長二(八二五)年生まれで、元慶四年五月二十八日(八八〇年七月九日)没。数え五十六。当該ウィキによれば、『父は平城天皇の第一皇子』であった『阿保』(あぼ)『親王、母は桓武天皇の皇女』であった『伊都』(いと)『内親王で、業平は父方をたどれば』、『平城天皇の孫』で『桓武天皇の曾孫であり、母方をたどれば』、『桓武天皇の孫にあたる。血筋からすれば』、『非常に高貴な身分だが』「薬子(くすこ)の変」(大同五(八一〇)年に故桓武天皇皇子である平城上皇と嵯峨天皇が対立、嵯峨天皇側が迅速に兵を動かした結果、平城上皇が出家して決着、上皇の愛妾の尚侍藤原薬子や、その兄である参議藤原仲成らが処罰された)により、『皇統が嵯峨天皇の子孫へ移っていたこともあり』、天長三(八二六)年に父『阿保親王の上表によって臣籍降下し、兄(七つ年上)『行平らと共に在原朝臣姓を名乗』ったのであった。

「眞雅僧正」(延暦二〇(八〇一)年~ 元慶三(八七九)年)は空海の弟で讃岐国多度郡屏風浦の出身。空海の十大弟子の一人。清和天皇の誕生以来の護持僧で、天皇と、その外祖父藤原良房から、厚い信任を得た人物である。

「好賢」先の「玉傳深祕」で見た通り、確かに業平の『法名ナリ』と書いてある。但し、他のメジャーな記載には載らない。

「天安元年正月廿八日」ユリウス暦八五七年二月二十六日。但し、「玉傳深祕」の後者の記載では、『二月』となっている。その場合は同年三月二十七日である。

「住吉」現在の住吉大社(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)。

に行幸(ぎやうがう)のとき、業平、供奉せらる。

「託(たく)」神託。

「あこねのうら」「阿古根の浦」。「万葉集」に出る。和歌山県御坊市野島附近の海岸ともされるが、未詳。後世、「阿漕ケ浦」(あこぎがうら)と混同された。一説に伊耶那岐命と伊耶那美命が「みとのまぐはひ」を行なった場所とされる。神託の『「昔語」り』も、この後の女色の「まめ男」業平の作とする歌も、明かにそれを意識したものである。

「東山」京都府京都市東山区附近。

「大和國、在原寺」今の奈良県天理市櫟本町(いちのもとちょう)にある在原神社附近が旧在原寺。「天理市」公式サイト内の「在原寺跡」によると、『在原寺の縁起によれば、この東の石上領平尾山に、光明皇后が開かれた補陀落山観音院本光明寺があり、本尊は聖武天皇御縁仏の十一面観音であった。第』五十一『代平城天皇の御子阿保親王はこの観音を信心して業平が生れたと称し、このため親王は』、承和二(八三五)年に『今の地に移し、本光明山補陀落院在原寺と称した』とある。

「同年九月十三日」元慶四年のその日はユリウス暦で十月二十日。

「いづみの國大島郡」これは和泉国「大鳥郡(おほとりのこほり)」の誤り「玉傳深祕」では正しくそうなっている。現在の高石市と、そこに北と東で接する堺市の一部を含む広域。

「いづみの国に、うつして、塚をきづき、寺をたて」『「和泉寺」と名づく。又、「濱寺」とも、「在平寺」ともいふ』「大阪府」公式サイトの「和泉市和泉寺跡(いずみでらあと)現地公開資料」を参照されたい。詳細不詳の古代寺院で、一説に行基の創建になり、在原業平の遺骨を蔵すると一般には流布されている。遺跡の場所は和泉市府中町(ふちゅうちょう)四丁目である。

「延喜帝の御宇」醍醐天皇の御代。在位は寛平九年七月(八九七年八月)から 延長八年九月(九三〇年十月)まで。「延喜帝」の延喜の元号はその間に入るが、彼の治世は三十四年の長きに亙り、しかも摂関を置かず、形式上は親政を行って、数々の業績を収めたことから、後代になってこの治世は最も長かった延喜(二十三年間)をとって「延喜の治」と称されたことに基づく。以下は、「玉傳深祕」では、ここの右丁四行目から書かれてある。

「虫くひのうたあり」キクイムシなどが空けた孔が崩し字のようになって、以下のように読めたというのであろう。

「あり原や中なるさとの道とめていわゐかしづけやどはしらせん」意味不明。

「左少弁淸原の光任」不詳。

『いまの「大和大明神」』「池田の社」不詳。天理にある在原神社の別称か。

「交會」「交際」。或いは「性交」をも指す。

「二條后」藤原高子(たかいこ)。「伊勢物語」のモデルで、お馴染み。

「染殿内侍」後の染殿后の女房。

「妹」確かに妹がいたようである。腹違いか。

「紀有常」(弘仁六(八一五)年~貞観一九(八七七)年)は従四位下・周防権守。「伊勢物語」第十六段で、長年連れ添った妻が、尼となって去ってしまったことを悲しんだ有常が、親しい友人と和歌のやりとりをした話が語られてある。この娘は業平の正式な妻として記されており、業平が仕えていた、文徳天皇の皇子惟喬親王の母静子の父でもある。

「染殿后」藤原明子。「大和怪異記 卷之一 第十三 金峯山の上人鬼となつて染殿后を惱す事」を、或いは、『「今昔物語集」卷第二十「染殿后爲天宮被嬈亂語第七」(R指定)』を参照。

「四條后」在原行平の娘の在原文子か。清和天皇の更衣。

「定文女」不詳。「在中・平中」として在原業平と並び称されたプレイ・ボーイ平貞文(定文とも書いた)がいるが、彼は貞観一四(八七二)年頃の生まれで、時代が合わない。

「當紀」不詳。

「伊勢」不詳。知られた女流歌人のそれは、やはり時代が合わない。

「小㙒小町」言わずもがなの小野小町。業平と和歌の贈答をしている。]

大和怪異記 卷之一 第十五 赤染衞門が妹魔魅にあふ事

 

[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の分はここから。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。]

 

 第十五 赤染衞門が妹(いもと)魔魅(まみ)にあふ事

 中《なか》の關白道隆公、少將たる比《ころ》、赤染衞門がいもとに、かよひたまふ。

 赤染衞門が、

 〽やすらはでねなまじ物をさよふけてかたふくまでの月をみしかな[やぶちゃん注:「じ」はママ。]

と、よめるは、此とき、妹にかはりて、よみし、となむ。

 かゝりしのち、道隆公に、わすられしかば、女《をんな》、しきりに戀たてまつり、南面(なんめん)の簾(みす)をまきあげて、ながめ居(ゐ)けるに、たれとはしらず、直衣人(なをしのひと[やぶちゃん注:「直衣」は「なほし」が正しい。])、入來《いりきた》る。

 女、よろこぶ心ありて、これに、あへり。

 其のち、夜々、來る。

 たゞし、曉《あかつき》、車馬の音、なし。

 女、あやしみて、長きいとに、針をつけて、直衣の袖に、さし、其朝、これをみるに、糸、南庭(なんてい)の樹上(きのうへ)に、とゞまる。

 其後、來《きた》ること、なし。

 これ、魔魅の所爲(しよい[やぶちゃん注:ママ。])か。

 件《くだん》の女、懷姙して、ひとつの胞衣(ゑな[やぶちゃん注:ママ。「えな」が正しい。])を、うむ。

 ひらきてみるに、血、おほく、ありて、他物(たのもの)、なし、と云。「江談」

[やぶちゃん注:原拠とする「江談」は「江談抄」の略で、平安後期の説話集で公卿で文人・学者であった大江匡房(おおえのまさふさ 長久二(一〇四一)年~天永二(一一一一)年)の晩年の談話を、信西(藤原通憲)の実父である実兼(さねかね)が筆録したもの(一部に実兼以外の筆録も混じっている)。匡房の談話は有職故実・漢詩文・楽器などに関する知識、廷臣・詩人たちの逸話など、多岐に亙る。教授された知識の忘備を目的としているため、表現は簡略でしばしば不完全であり、体系を持たない。しかし、正統な学問や歴史の外縁にある秘事異伝をも積極的に取り上げており、院政期知識人の関心の向け方や、説話が口語りされる実態を窺うことが出来る。平安・鎌倉時代の古写本は、問答体をとどめて原本の姿を伝えるが、一部分しか伝存していない(小学館「日本大百科全書」に拠った)。しかし、所持する岩波の「新日本古典文学大系」版では、この話、見当たらない。ネットで調べたが、この話の原拠は不明。識者の御教授を乞うものである。この話、魔魅の実体が示されず、今一である。

「中の關白道隆」「中の關白」は藤原北家の、この関白藤原道隆(天暦七(九五三)年~長徳元(九九五)年)を祖とする一族の呼称。彼が左近衛少将になったのは、天延二(九七四)年十月で、貞元二(九七七)年一月、昇殿を許される前に左近衛少将を去っているが、天元元(九七八)年十月には右近衛権中将に任官している。寛和二(九八六)年七月に右近衛中将を去っている。姉(但し、以下に見る通り、「はらからなる人」であるから姉ではなく、彼女の方が妹ともとれる。調べても、この「赤染衛門の」姉妹なる人物の事績は不明である)の赤染衛門は天暦一〇(九五六)年頃の生まれであるから、この話は、左近衛少将時代(二十二から二十五歳)の話という設定ではないかと思われる。

「〽やすらはでねなまじ物をさよふけてかたふくまでの月をみしかな」「後拾遺和歌集」巻十二「恋二」の以下で、「小倉百人一首」にも採られていることでよく知られる。

   *

  中關白少將に侍りける時、はらからなる人に

  物言(ものい)ひわたり侍(はべり)けり。

  賴(たの)めてまうで來ざりけるつとめて、

  女(をんな)に代りて、よめる、

                  赤染衞門

やすらはで寢(ね)なましものを小夜ふけて

        かたぶくまでの月を見しかな

   *

但し、岩波の「新日本古典文学大系」版脚注(一九九四年刊。平田善信氏担当分)では、『馬内侍集に「今宵必ず来んとて来ぬ人のもとに」という詞書で、全く同一の歌が収められている』とあった。馬内侍(うまのないし 生没年不詳)は赤染門と同時代の歌人で、『斎宮』(さいぐうの)『女御徽子』(きし)『女王(村上天皇女御)、円融天皇中宮媓子、賀茂斎院選子内親王、東三条院詮子(円融天皇女御)、一条天皇皇后定子に仕えた(定子立后の際に掌侍となった)。藤原朝光・藤原伊尹・藤原道隆』(☜)『・藤原道兼など権門の公家と恋愛関係があり、華やかな宮廷生活を送った』と当該ウィキにある。一首の意味はhonda氏のサイト「百人一首で始める古文書講座【歌舞伎好きが変体仮名を解読する】」のこちらがよい。

「胞衣」胎児をつつんでいる膜と胎盤。この場合は奇形嚢腫である。]

ブログ・アクセス1,860,000突破するもボットによるものと判断されるため記念テクストは再びナシ

1,860,000アクセスを突破したが、ボット襲来が止まないため、記念テクストは今回も行わない。

11/05(土) 1,990
11/06(日) 2,350
11/07(月) 2,093
11/08(火) 1,933
11/09(水) 2,070
11/10(木) 1,815
11/11(金) 1,659
11/12(土) 1,260

これらの半分は、滞在時間がゼロ秒である。

曲亭馬琴「兎園小説拾遺」 第二 「松坂友人書中御陰參りの事」

 

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。昨年二〇二一年八月六日に「兎園小説」の電子化注を始めたが、遂にその最後の一冊に突入した。私としては、今年中にこの「兎園小説」電子化注プロジェクトを終らせたいと考えている。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちら(左ページ上段後ろから五行目以降)から載る正字正仮名版を用いる。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。

 馬琴の語る本文部分の句読点は自由に変更・追加し、記号も挿入し、一部に《 》で推定で歴史的仮名遣の読みを附した。今回は読み易さを考えて段落を成形した。]

 

   ○松坂友人書中御陰參りの事【文政十三庚寅年三月下旬より、同年五月上旬に至る略記也。】

一、扨《さて》、前段に申上候「おかげまゐり」の事、委しく申上《まをしあげ》んには、殊の外、長く相成候。且、珍らしき事はめづらしき事ながら、先年もありて、此度とても大かた、その先年のありさまなる事、先年のは、御如才なく、何ぞ、記《しる》し候もの御所藏と奉ㇾ存候故、あらあら、申上候。

[やぶちゃん注:「文政十三庚寅年」グレゴリオ暦一八三〇年だが、この文政十三年は十二月十日(一八三一年一月二十三日)に天保に改元しており、まさにこの文政十三年=天保元年にも「お蔭参り」が流行しているのである。因みに、本「兎園小説拾遺」の末尾の追記のクレジットは天保三(一八三二)年である。

「同年五月上旬」以下に見る通り、閏三月があったので、六月上旬はグレゴリオ暦で七月

二十日から二十九日相当。

「前段に申上候」相手を伏せているが、思うに、既出(『曲亭馬琴「兎園小説余禄 雷雪』他、三篇に登場する」の馬琴の親友で国学者の殿村安守(号は「篠齋」)と思われ、その往復書簡の、この前の便で語っているのであろう。

「おかげまゐり」「御蔭參り」。江戸時代、特定の年に起った集団的な伊勢参詣の現象。「抜け参り」ともいう(こちらの方が古い。但し、本文を読む限りでは、話者は、単独の内緒の「伊勢参り」を「抜け参り」と呼び、集団化したものを「お蔭参り」と言っているようにしか見えない)。これは、奉公人などが主人に無断で、または、子供が親に無断で参詣したことに由来する別称で、大金を持たずとも、「信心の旅」ということで、「お遍路さん」と同じように、沿道の人々から施しを受けることも出来た。伊勢参詣は封建的抑圧からの解放感を味わえるので、農民は競って「御蔭参り」に参加した。江戸時代を通じ、約六十年前後を周期とし、慶安三(一六五〇)年より、数回、発生しているが、伊勢の御師(おし)[やぶちゃん注:次の次の私のリンク先を参照のこと。]や、豪商の扇動により意図的に発生したケースもあると言われている。特に幕末の、この伝統の上に「世直し運動」として展開した有名な「ええじゃないか」は伊勢参りをするわけではないが、この影響下にあった集団ヒステリーの一種である。以上は概ね「旺文社日本史事典」に拠ったが、当該ウィキが非常に詳しいので、参照されたい。そこでは、江戸時代の集団参詣現象としては、慶安三年の前に寛永一五(一六三八)年を挙げてある。これは、最近の電子化物の『鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 中卷「一 神明利生之事 附 御罰之事」』に寛永中のこととして、伊勢への『ぬけ參り』が登場している。また、同ウィキでは、「お蔭参り」という呼称は明和八(一七七一)年のそれから始まったとある。さらに、なお、「お蔭参り」と直接にはリンクはしていないが、驚天動地の、犬や豚が単独で伊勢参りをした事実があることもお示ししておく。私の「耳嚢 巻之九 奇豕の事」を読まれたい。]

 此度《このたび》のは、御聞及《おききおよび》の如く、阿波國より、はじまり候。

 尤《もつとも》、當春は御返宮翌年故、早春より參宮人、おほし。

 但し、いつも三月は、京・大坂、もつぱら出《いで》候事なれども、當春は餘寒長きと、閏月との故にや、三月、いまだ、京・大坂は、いかふ、出不ㇾ申候所、三月廿七、八日比《ころ》、阿波と記し候笠、おほく見えかけ、閏月朔日二日、いよいよ、阿波、たくさん、其内、大坂へ、阿波船、日々《ひび》、着《つき》候噂なども有ㇾ之、

「御陰詣が、はじまる。」

など、申内《まをすうち》、三日、四日と續《つづけ》て、ドヤドヤいたし、且、阿波船、紀州へも着《つく》。

[やぶちゃん注:「御返宮翌年」この前年の文政十二年に伊勢神宮の式年遷宮が行われていた。

「閏月」文政十三年は閏三月があった。春三月まで余寒が続いたことと、「まだ三月がもう一月あるから」という認識で、やや参詣者が出遅れたということか。

「いかふ」恐らくは「一向」の意であろう。

「三月廿七、八日」文政十三年のそれは、グレゴリオ暦で四月十九、二十日である。]

 それに、さそはれて、紀州も出かけ、泉州も、おひおひ、出かけ、六日、七日にいたりては、いよいよ

「おかげに成《なり》たり。」

とて、當地なども、町々、施行《せぎやう》をはじめ候。

 大坂も、其比より、施行、始候よし。

[やぶちゃん注:「施行」この場合は、膨大な「お蔭参り」の発生を受けとめるための、伊勢の町全体が、いろいろな準備・仕度をし出すことを言っていよう。中心になるのは、伊勢の御師(おし)であるが、宿屋・飲食店・土産物屋等も相応のそれが急務となる。]

 もちろん、其比より、大坂も、追々、出かけ、大和も出かけ、上野街道・阿保《あお》街道・田丸街道と、三つ、有ㇾ之候。上野と阿保は、當地より一里西なる、三渡六軒茶屋《みわたろくけんちやや》と申にて、落合候。田丸街道は宮川上《みやがはうへ》之《の》渡《わたし》え[やぶちゃん注:ママ。]出候。よつて、是は、當所は通り不ㇾ申候。此街道も、其比より、日々、大込合《おほこみあひ》、當所は、前《さきの》二街道、落合《おちあひ》候事故、猶、又、大込合、宇治山田は、右、三方、人、込《こみ》候事、其大込は申上る迄も無御座候。十日比は、大坂、もつぱら、攝州・阿州・播州、追々、出候。備中、其外、石見なども、ちらちら見え候。され共、是等は、「おかけ」に出《いで》しに、あらじ。例の「ぬけまゐり」が、途中から、「おかげ」に成《なり》候にも有るべし。廿日比は、京、もつぱら、城州・江州、おほく見かけ候。尤、阿波・大坂・和泉・攝・播抔《など》も、やはり、うちまじり出候事、右に、「何日比は何州。」と認《したため》候は、其比、その州がおもに出盛り候を申上候なり。

[やぶちゃん注:「上野街道、阿保街道、田丸街道と、三つ、有ㇾ之候」伊勢の株式会社「伊勢福」の公式サイトでズバり、「おかげ横丁」の「ちょっと寄り道 第二回」の、うえのめぐみ氏の「お伊勢まいり 各道」の地図を見られたい。「上野街道」は恐らくそこにある現在の三重県「伊賀」上野から津の方に向っている街道で地図では「伊賀街道」とあり、その下の桜井から松阪(まつさか)に出る地図の「初瀬(はせ)街道」が途中で伊賀市阿保(あお:グーグル・マップ・データ。以下無指示は同じ)を通過することから「阿保街道」となろう。最後の「田丸街道」は起点を名古屋として終点直近の伊勢参宮の宿場町として栄えた旧度会郡田丸町、現在の三重県度会郡玉城町(たまきちょう)に至るまでの「伊勢参宮街道」のことを指すのであろう。

「三渡六軒茶屋」三重県松阪市六軒町(ろっけんちょう)に三渡神社(みわたりじんじゃ)があり、その東方直近の三渡川の南詰に「いがごえ追分」の石柱が残る。三渡川の右岸をそこから少し川上に行くと、これが旧初瀬街道とある。

「宮川上之渡」現在の三重県伊勢市川端町にあった「上の渡し」(別名「柳の渡し」)のこと。宮川にある三箇所の「渡し」の中で一番上流にあった。サイド・パネルの説明板を見られたいが、ここは主に上方・西国・熊野からの参宮客を渡したとある。そこには、渡しは二つとあるが、ここから下った中流に「宮川・桜の渡し」があり、そのサイド・パネルの記銘石の写真を見ると、他に「磯の渡し」があったとあるので、都合、三つの渡しがあったということになる(ここには「おかげまいり」の集団を描いた浮世絵もある)。伊勢参宮のためには、必ず、この宮川を舟で渡らねばならなかった、とある(橋は架かっていなかった。従って、物資の運搬もそうであったということで、これは、「お蔭参り」の前の「施行」は、これ、なかなか大変だっただろう。但し、それらの大物や、量のある物は、以下に出る沿岸を抜けて宮川右岸に持ち込まれたのであろう)。

「宇治山田」伊勢神宮の前の広域の地名

「十日」閏三月十日はグレゴリオ暦四月二十九日。

「廿日」同じく五月十二日。]

 閏月末《すゑ》、四月差入《さしいり》は、丹波、丹後、多く候。十日比は、尾張・三河・遠江など、船にて、おほく、出かけ候。猶、陸路をも、尾州・美濃・其内、陸は濃州澤山、廿日頃より、尾張、又、陸を多く出かけ候。此節も尾張、不ㇾ絶、見かけ候。

[やぶちゃん注:「閏月末、四月差入」閏三月末から四月の初め頃。

「十日」四月十日はグレゴリオ暦五月三十一日。]

 閏七、八日頃がはじめの盛《さかり》、十五、六日比も、又、一盛り、廿日過《すぎ》が、一番、大さかりにて、四月に成候ては、そろそろ、減《げん》じかけ、此節は、大に、うすく相成候。

[やぶちゃん注:「閏七、八日」同前で四月二十九、三十日。

「十五、六日」同前で五月七、八日。

「廿日」同前で五月十二日。

「四月」この年の陰暦四月一日はグレゴリオ暦五月二十二日。]

 されども、猶、此節とても、地場《ぢば》は、三月比のにぎはひほど、有ㇾ之候。日によりては、それよりも賑ひ候日、有ㇾ之候。東國は遠州まで、その餘は、いかふ、見かげず、打《うち》まじりは、あるべく候へども、目立候ほどにあらぬ成べし。江戶々々といふも、大ぶん有ㇾ之候へども、地場の「ぬけ參り」か、「おかげ」に出かけ候か、はかりがたし。

[やぶちゃん注:「地場」ここは狭義の「地元」の意でであろう。宇治山田、或いは、話者の住む「いがごえ追分」附近から東に一里離れた場所(松阪市市街地の海浜近く)の様子ででもあろう。

『地場の「ぬけ參り」』この場合の「地場」は、かなり広域の意味での「地元」の意でもとれるが、或いは「その土地の取引所に出入りする取引員及び常連客」の謂いかも知れない。]

 此節の處、まづは、末とも見え候へども、

「植付《うへつけ》、片付《かたづき》候はゞ、又、今、一盛りあるべし。」

とも申候へば、そも、はかりがたし。先年も、一旦、薄く成《なり》、また、出盛《でさかり》候事ありし趣也。何《いづ》れ、少々宛《づつ》の增減は、かれこれ、秋迄は、「おかげ」のなごりは、あるべく存ぜられ候。

[やぶちゃん注:「植付」稲の植え付け。

「先年」物理的に直近の「お蔭参り」とすると、当該ウィキによれば、二十七年前の享和三(一八〇三)年となる。その前となると、ウィキに詳細が載るほどのデータがある明和八(一七七一)年があるが、これは凡そ六十年前のことで、ここで現役の商人や庶民が「先年」と呼ぶようなもの、記憶に残っているものとは認められないのだが……(後注参照。この否定を結果として解除し、明和八年のそれを言っていると採る)。]

 先年は、凡《およそ》百日餘りに及《および》候よし。此度は、此節を「末」と見れば、日數は、みじかく、但し、はじめより、ドヤドヤと出かけ候模樣、先年とは、はげしき樣子なり。猶、又、先年の「おかげ」にうたひし唱歌、老人、謠ひ候を聞くに、拍子、ゆるき者なり。此度の、あるきぶりには合不ㇾ申候。

[やぶちゃん注:前注では、ああ書いたが、この『先年の「おかげ」にうたひし唱歌、老人、謠ひ候を聞くに』という辺りは、寧ろ、明和八年のそれのようにも見えてはくる。明和のそれは、当該ウィキによれば、参詣者は約二百万人(当時の日本総人口は三千百十万人ほど)、発生したのは山城国の宇治で、期間は四月から七月(四箇月間・機械計算で百四十七日)であった。また、『参詣者らは「おかげでさ、ぬけたとさ」と囃しながら歩いた』とある。『先年の「おかげ」にうたひし唱歌』とは、これか?]

 されば、此度のは、先年にくらべ候へば、はげしくせわしきかたとも申べし。六十年のちがひと、ぞんじられ候。

[やぶちゃん注:「六十年」これは明らかに明和八年の「お蔭参り」を念頭に置いた謂いである。]

 且、京・大坂の男女は申に不ㇾ及、其餘も、何れも、花やかにて、一《ひと》むれ、一むれ、揃《そろひ》の出立《いでたち》なり。勿論、着のまゝぬけ出候筋も多く見え候へ共、

「いざや、おかげ詣せん。」

とて、こしらへて出かけ候樣なるも、多く相見《あひみ》え候。老人の中に、

「すべて、此度《このたび》のは、先年より、何事も、陽氣、花やかなり。」

と申候。さもあるべくぞんじ候。

「にぎはひは、先年より、多い。」[やぶちゃん注:「多い」はママ。]

と申《まをす》老人も、あり、又、

「先年のかた、多かりし。」

といふ老人も、あり、定めがたく御座候。

 廿日頃、「宮川の渡し」、幷に「上《か》みの渡し」とも、一艘に百人として、一日、凡《およそ》、二十四、五萬人、左樣の日、前後十日計《ばかり》、有ㇾ之候樣にも相聞え候也。又、左もなく、頂上《ちやうじやう》の日、凡、十四、五萬人なりし樣に申《まをす》人もあり。いづれならんや。何にもせよ、大そう成《なる》事にて、ちよと、むかう側へ往來《ゆきき》も、おしわけかね候とも、よろしき程の事、有ㇾ之候。

[やぶちゃん注:「頂上の日」最も乗船客が多かった日の意であろう。]

 「おかげ」につきての奇事、いろいろ、たくさん、中々、かりそめの筆には、盡しがたく御座候。前段人數の事抔も、猶、とくと聞定め候はゞ、大體、實《じつ》に近き所もしれ候はんか。何やかや、此度の「おかげ」、くわしき事、一册に、しるしたく、友達共、申合せ居候へば、委敷《くはしき》のか、あらきのか。いづれ、出來《しゆつらい》可ㇾ申候へば、追《おつ》て、御目にかけ候樣可ㇾ仕候。

 先年のは、はなしにのみ、聞及居《ききおよびをり》候處、此度のにて、實に、おどろかれ候ほどの賑ひ、閏月一月《ひとつき》は、唯、ざわざわと、日を立《たたせ》候事也。宇治山田をはじめ、當所、其外、往還、いづかたも、諸施行、此費用も、すくなからぬ事成《なる》べく候へ共、又、宇治山田は、勿論、往還筋へ、潤ひ候金銀、錢《ぜに》、大き成《なる》事、何にもせよ、昇平の餘澤金澤結構《よたくきんたくけつこう》難ㇾ有き事と奉ㇾ存候。京大坂抔も、色々、施行、花々敷《はなばなしき》樣子承り申候。すべて、見、あつめ、聞、集め、いかで委敷一册を記したく、心組《こころぐみ》はいたし居候へ共、例の多用、いかゞ御座候はん。無覺束候。

[やぶちゃん注:「昇平の餘澤金澤結構難ㇾ有き事」「世の中が平和に治まっていることによるおこぼれを戴き、その黄金(こがね)が、この伊勢の地に落ち溜まって、結構毛だらけ猫灰だらけ、「お蔭」を以って有り難い。」という感じか。]

 扨《さて》、閏月十九日夜より廿日朝へかけての、宇治橋燒落《しやうらく》、御山《みやま》へ飛火《とびひ》にて、燒込《やけこみ》、御古殿《おんこでん》荒祭宮《あらまつりのみや》、其外、いわゆる八十末社抔、御炎上、いともかしこく恐入候。しかれども、御正殿、幷、東・西寶殿、御饌殿、御神樂殿無御別條、わきて、御正殿、東西、寶殿は東と御古殿、西は八十末社、實《じつ》に、わづかの隔《へだて》のみ。その東西は炎上いたし候に、中にありて、無御別條、鳥居・玉垣迄、聊《いささか》の焦《こげ》も無ㇾ之事、今更、申上《まをしあぐる》も、無ㇾ之候へ共、神威、かしこく、難ㇾ有奉ㇾ存候。

[やぶちゃん注:「宇治橋」伊勢神宮内宮の入り口の手前の五十鈴川に架かる檜造りの橋。ここ

「御古殿」以下の荒祭宮の敬称冠辞ととっておく。

「荒祭宮」内宮(皇大神宮)の境内別宮。ここ

「八十末社」不詳。私は妻と行ったが、「伊勢うどん」を食って、宇治橋の北詰までで、神宮内には足を踏み入れなかったから、中を知らない。入らなかったのは西行・芭蕉に倣ったのではなく、興味が全くなかったからである。

「御正殿」ここ

「東・西寶殿」前記リンクの北に東西にある。

「御饌殿」ここ

「御神樂殿」ここ。]

 但し、かぐつちの神の御あらびは、大御心《おほみこころ》にも、まかせられざる事なれば、御正殿、御炎上ありとて、あやしむべきにあらず。

 既に、昔より、萬治年中などにも、御炎上ありし事にはあれど、今年、「おかげ」の最中、御炎上にては、何とやらん不都合成べきを、三方、四方、火の中にて、聊の焦も無ㇾ之事、諸人、かんるいを流し、尊《たつと》く有がたく奉レ存候事也。且、風烈急火《ふうれつきふくわ》の處、大勢、入込居《いりこみをり》候土地不案内の諸國人迄、一人も怪我無ㇾ之事、是又、有がたく奇妙の至《いたり》に御座候。火は、山のうしろ、磯部山の方へ、凡、一里餘小二里も燒行《やけゆき》、廿一日の朝、雨にてしづまり候趣に御座候。

[やぶちゃん注:「かぐつちの神」伊耶那岐(いさなき)・伊耶那美の産んだ最後の火之迦具土神(ヒノカグツチ)。火の神。そのため、出産時に伊耶那美の陰部が焼け爛れて、伊耶那美は亡くなる。それに怒った伊耶那岐によって天之尾羽張(あめのをはばり)の剣で首を落とされ、殺されてしまう。回禄除けの神として知られる。

「大御心」ここは伊勢神宮の祭神天照大御神のことであろう。

「萬治」一六五八年から一六六一年まで。第四代徳川家綱の治世。

「磯部山」内宮の神宮宮域林のある広域の山体を古くには、かく読んでいたのであろう。この地域を南東に抜けると、三重県志摩市磯部町が広がり、皇大神宮別宮である伊雜宮(いざわのみや)がある。]

 荒祭宮は御案内の如く、おもき御宮故、右に付、閏下旬、禁中五日(イ、二、三日)の御つゝしみ被ㇾ爲ㇾ在候。此節、公卿勅使として、葉室左大辨殿、藤波祭主殿、參向、有ㇾ之候。右、火の節、いろいろの奇妙申《きみやうのまをし》となへ候事、有ㇾ之候へども、碇《しか》と致し候儀も不ㇾ承候。

[やぶちゃん注:「イ」不詳。物忌(ものいみ)のそれか。

「葉室左大辨殿」当時の藤原北家勧修寺流の支流葉室家当主は葉室長順(ながとし)。

「藤波祭主殿」藤波家は祭主として神祇を司る家。伊勢両宮・伊勢大湊八幡宮・伊勢香良洲社・尾州内宮御祭社の伝奏役であった。]

 荒祭宮、自然《おのづ》と、御扉の、ひらけたる事は、實正《じつしやう》と承り候。

 閏月上旬、外宮、玉串、御門内の敷莚《しきえん》に、穗を生じ、實を生ず祥瑞、有ㇾ之候。是も實正の趣に御座候。

 前にも「おかげ」に付、例の御祓《おんはらへ》のふり候事抔、又、いろいろ、さまざま、奇事《くしきこと》、かぞへ盡しがたし。

[やぶちゃん注:「御祓」幣帛(へいはく)。御幣のこと。]

 先年の「おかげ」の節、京都何某が書し、「ぬけ參夢物語」てふものゝ如き、いはゆる。儒見漢意にて論ぜんは、いかぞ也《や》。されども、又、中には、あまり奇怪過《すぎ》、世にいふ「はやり神さま」などに有《あり》そうな[やぶちゃん注:ママ。]奇特《きどく》にては、御人柄ではない御神柄《おかみがら》には不似合など、難說等も御座候。

 あらあらと申せど、認《したため》かけ候へば、つい、長く相成候。まづ、此邊にて差置候。

 前段、申上候如く、小子《しやうし》は、多用、おぼつかなく候へ共、友人ども申合せ置候へば、友人のにても出來候はゞ、近日入御覽候樣可ㇾ仕候。此間中は、梅雨、降つゞき、尤《もつとも》、おりおりは、雨間も候ヘ共、とかく晴《はれ》かね候。貴地も同樣と奉ㇾ存候。もはや、植付に十分のよし候へば、早々、快晴を祈入候。晴上候《はれあがりさふら》はゞ、追々、暑《あつさ》をもよほし可ㇾ申候。せつかく、御自愛被ㇾ成候樣奉ㇾ存候。恐惶渥言。

 五月七日

[やぶちゃん注:実は、この後、四篇、「お蔭参り」の記録が続くことを断っておく。]

2022/11/11

大和怪異記 卷之一 第十四 阿部晴明花山院の前生をうらなふ事

 

[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の分はここ。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。

 標題の「阿部晴明」の「阿部」はママ。「安倍」が正しい。「髑髅」の「髅」は「髏」の異体字。]

 

 第十四 阿部晴明花山院の前生(ぜんじやう)をうらなふ事

 阿部晴明は、讚岐國厚東(こうとう)郡の人なり。賀茂保憲(かもやすのり)に從(したがふ)て、曆算推步(れき《さん》すいほ)の術を、きはむ。

 しかるに、花山院在位のとき、頭風(づふう)を病《やみ》給ふ。

 雨氣(うき)あるときは、殊《こと》に、甚だし。

 醫療、更にしるし、なし。晴明、奏しけるは、

「君の前生は、やんごとなき行者(ぎやうじや)にておはします。大峯(《おほ》みね)」に入(いり)て、入滅し給ふ。其德によつて、今、天子と、うまれさせ給へども、前生の髑髅(どくろ)、岩(いわ[やぶちゃん注:ママ。])のはざまに落入(おち《いり》)侍るが、雨氣(あまけ)には、岩、ふとりて、つめ侍るあいだ[やぶちゃん注:ママ。]、かく、御《おん》いたみ、あり。御療治にをゐては[やぶちゃん注:ママ。]、かなふべからず。かの、どくろを、取《とり》て、廣き所に、をかれ候はゞ、御平愈ましまさん。」

とて、

「しかじかの谷底に。」

と、をしへて、人をつかはし、髑髅を取出《とりいだ》さしめければ、御頭風(《おん》づふう)、ながく、御平愈あり。「古事談」・「讚州志」

[やぶちゃん注:原拠の「古事談」は源顕兼の編になる鎌倉初期の説話集。全六巻。建暦二(一二一二)年から建保三(一二一五)年の間に成立した。「王道・后宮」・「臣節」・「僧行」・「勇士」・「神社」・「仏寺」・「亭宅・諸道」の六篇に分類された上代から中古の四百六十一話を収める。文体は和製の漢文体・仮名交り文など、多様で、どの説話も短文であり、資料からの抄出が多い。「続日本紀」・「往生伝」・「扶桑略記」・「江談抄」・「中外抄」などの記録や談話録に取材している。「佛教大学図書館デジタルコレクション」のこちらの嘉永六(一八五三)年の版本の24コマ目を見られたい。単独画像ではここ。この話は私の非常に好きなニクい話である。しかし、これ、少しく読み難いので、カタカナをひらがなに代え、岩波の「新日本古典文学大系」版を参考に読み下し(カタカナはひらがなに代えた)、異体字漢字を書き変え、読みなど添えて、書き換えたものを、『「南方隨筆」底本正規表現版「紀州俗傳」パート 「七」』で既に公開しているので、そちらを参照されたい。今一つの「讚州志」は増田休意撰の「讚州府志」のことであろう。別名「翁嫗夜話」(おきなおうなやわ)。原本はネットでは一部しか見られないので、お手上げ。

「阿部晴明」安倍晴明(延喜二一(九二一)年~寛弘二(一〇〇五)年)平安中期の陰陽(おんみょう)家で土御門家(つちみかどけ)の祖。益材(ますき)の子。文武朝の右大臣阿倍御主人(あべのみうし)の後裔とされるも、ここにあるように讃岐国の人という伝承もある。天文博士(はかせ)・大膳大夫(だいぜんだいぶ)などを歴任した。従四位下。清明社が九月二十六日を例祭日とするのは没した日に因むという。賀茂忠行・保憲父子を師として陰陽道の達人となり、とくに「天文密奏」は安倍氏の独占するところとなって、暦道の賀茂家と並ぶ天文道の安倍家(土御門家)の基礎を開いた。花山天皇の譲位を天変で予知したなど、神秘化された説話が諸書(「大鏡」・「今昔物語集」など)に多い。彼の著書と伝えるものも多いが、現存する確実なものは「占事略決」一巻のみである(小学館 「日本大百科全書」に拠った)。後代の土御門家については、私の「譚海 卷之三 土御門家の事」を見られたい。

「讚岐國厚東(こうとう)郡」「厚狹郡(あづさのこおり)」の誤り。「厚東郡」は嘗てあるにはあったが、それは南北朝時代から寛文四(一六六四)年まで(厚狹郡はこの間、厚東郡と厚西郡に分かれていた)であり、平安時代としても、本書刊行頃(宝永五 (一七〇八)年)としてもおかしな謂いである。個人ブログ「讃岐の風土記 by 出来屋」の「(42)“陰陽師安部晴明は讃岐生まれ”」に、

   《引用開始》

 晴明の生まれは謎に包まれていますが、その出生地のひとつとして讃岐が数えられています。大日本史料「讃岐国大日記」によれば讃岐国香東郡井原庄、また丸亀藩の公選地誌「西讃府志」によれば讃岐国香川郡由佐がその生まれだとされています。「井原」という地名は古代讃岐の郷の一つで、現在の高松市香南町辺りです。「由佐」という地名は現在も香南町にあり[やぶちゃん注:ここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。]、そこは室町時代に由佐氏という武将が領有していたところです。

 由佐氏は、藤原秀郷の後裔といい、そもそもは常陸国(現在の茨城県)益戸(下河辺)の城主だったといい、建武の争乱に際して、足利尊氏に従って活躍し、讃岐国香東郡井原庄の荘司職を与えられたといいます。その後、讃岐守護となった細川氏に従い、東に香東川、西に沼地が広がる要害の地に居館由佐城[やぶちゃん注:ここ。]を築いて代々の本拠としたと云われています。

 おもしろいことに、晴明の生誕地については、由佐氏の出身地である常陸国であるという説もあります。「ほき抄」[やぶちゃん注:安倍晴明撰と伝える「簠簋内伝」(ほきないでん)全五巻(「続群書類従」所収)のこと。但し、晴明の撰であるかどうかは疑わしいとされ、私は抄訳本で読んだが、それだけでも彼の書いたものという感じはしなかった。]所収の「由来」によると、常陸国筑波山麓の猫島、現在の茨城県真壁郡明野町猫島[やぶちゃん注:現在の茨城県筑西市猫島(ねこしま)。]というところで生まれたとされています。猫島の旧家である高松家の敷地には誕生に由来する晴明神社があり、また、高松家には宝永8年(1711年)頃にまとめられた「晴明伝記」が蔵されているそうです。由佐氏と安倍晴明には何らかの関係があるのかもしれません。

   《引用終了》

とあった。

「賀茂保憲」(延喜一七(九一七)年~貞元二(九七七)年)陰陽家で賀茂忠行の子。暦博士・陰陽頭・天文博士・主計頭・穀物院別当などを歴任する。「今昔物語集」によれば、十歳程の時、忠行に伴われて祓殿(はらいでん)に行くと、おそろしい姿の鬼神を目撃し、そのことを父親に語った。鬼神を見ることが難しいことであることを知っている忠行は、我が子の天分に驚き、陰陽道の奥義を、残らず伝えたことで、保憲は斯道の第一人者となったという。暦道と天文を司り、暦道を子の賀茂光栄に、天文道を弟子の安倍晴明に伝えた。それ以降、陰陽道は賀茂家と安倍家が分掌するようになったとされる。入唐僧日延に依頼し、新修の暦経を求めるなど、中国の知識の移入にも意を用いた。神護寺で「三方五帝祭」を行い、八省院で「属星祭」(開運のため、その年に当たる星を祭る行事)を修すなど、陰陽道の祭祀を主宰し、日時や方角の吉凶・災異を占って上申するなど、陰陽家として活躍した。娘の賀茂女(かものむすめ)は歌人として有名で、「賀茂保憲女集」がある。著書に「暦林」があったが、伝存しない(朝日新聞出版「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。そこに出た「今昔物語集」のそれは、巻第二十四の「賀茂忠行道傳子保憲語第十五」(賀茂忠行、道を子の保憲に傳ふる語(こと)第十五)である。「やたがらすナビ」の当該話をリンクさせておく。実は、この話の次が、「安倍晴明隨忠行習道語第十六」(安倍晴明、忠行に隨ひて道(みち)を習ふ語第十六)なので、それもリンクさせておく(但し、総て新字である)。

「曆算推步」「推步」は天体の運行を測ること。そのためには天文観測による数値や、暦などの計算をする必要があるために頭がつく。

「花山院在位」花山天皇の在位は永観二年八月二十七日(九八四年九月二十四日)~寛和二年六月二十三日(九八六年八月一日)で僅か二年足らずである。即位時で数え十七であった。古文でよくやったよなぁ、「大鏡」の藤原兄弟のバレバレの芝居、晴明の予言もやったなぁ、ただ、花山天皇を可哀そうと思う生徒は甚だ多かったのを記憶する。だから言わなかったが、彼は生まれつき、性欲過多の病的傾向が強い人物だったようで、退位後、出家してからも、甚だお盛んだったのである。四十一で亡くなっている(推定で悪性腫瘍)。

「頭風(づふう)」頭痛。]

大和怪異記 卷之一 第十三 金峯山の上人鬼となつて染殿后を惱す事

 

[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の分はここから。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。【 】は底本では二行割注。漢文部は読みを訓点風にして、その一部をカタカナに代え、変則的に示した

 挿絵があるが、これは「近世民間異聞怪談集成」にあるものが、状態が非常によいので、読み取ってトリミング補正し、適切と思われる箇所に挿入する。因みに、平面的に撮影されたパブリック・ドメインの画像には著作権は発生しないというのが、文化庁の公式見解である。

 なお、標題の「鬼」の読み「をに」はママ。]

 

 第十三 金峯山(きんぶせん)の上人(しやうにん)鬼(をに)となつて染殿后(そめどのゝきさき)を惱(なやま)す事

 染殿の后、やまひにおかされて、醫療、かなはざりけるに、

「金峯山に一人の沙門(しやもん)あり、咒力(じゆりき)をもつて、人のやまひを、のぞく。」

と聞えしかば、忠仁公(ちゆうじんこう)、かの僧を、めして、后を、いのらしめらるゝに、一兩日の間に、后の病(やまひ)、いヘぬ[やぶちゃん注:ママ。]。しかるに、沙門、后の容色にまよひ、后に、とりつき奉る。數百(すひやく)の侍女ありといへども、これをふせぐこと、あたはず。

 侍醫當摩鴨繼(たへまかもつぐ)、御簾(みす)の中(うち)に、はしり入《いり》、僧を引出《ひきいだ》し、からめて、文德天皇(もんどくてんわう[やぶちゃん注:ママ。])に、まうす。

 天皇、大《おほい》に、いかり給ひて、獄に入(いれ)しめ給ふ。

 僧、大にいかり、天にあふぎて、

「ねがはくは、我、はやく死して、鬼となり、后と配匹(はいびつ)すべし。」

と云《いふ》。

 獄吏、此よしを、忠仁公に、まうす。

 忠仁公、をどろきて[やぶちゃん注:ママ。]、沙門を、ゆるさる。

 沙門、南山(なん《ざん》)にかへり、食をたち、十餘日にして、餓死(がし)す。

 

Somedono

 

 其後、宮中に、鬼、あらはる。

 其かたち、長(たけ)、八尺ばかり、かしら、かぶろにして、はだかなり。身のいろ、黑ふして、うるしのごとし。

 すぐに、后の帳(てう[やぶちゃん注:ママ。])に入(いる)に、后、本心を、うしなひ、鬼と通ず。此鬼、あるひは、其かたち、見へ、又は、すがたを見せず、つねに、后と物がたりす。其趣(をもむき[やぶちゃん注:ママ。])を知(しる)もの、なし。

 天皇、是におぢて、后に、ちかづき給はず。

 あるとき、鬼、ことばをはなして、

「鴨繼を、とりころさん。」

と云。

 程なく、鴨繼、死《し》しぬ。

 元慶のはじめ、大后(をほきさき[やぶちゃん注:ママ。])、すでに五十になり給ふ。

 淸和天皇、御賀(をんが[やぶちゃん注:ママ。])をいとなみ給ひ、后の前に再拜ましましけるに、大后、人の心なくして、鬼、后のかたはらに有(あり)て、あたかも、夫婦のごとく、盃(さかつき)を、のみかはし給へり。

 帝、これを見させ給ひ、大《おほい》に御《おん》かなしびありて、世をいとふの賢慮(けんりよ)、これより、甚だし。

 昌泰(しやうたい)二年春三月に、三善淸行(みよしきよゆき)、翰林学士として、閑居のいとま、あり。 時に、后宮(こうぐう)の命婦(めうぶ[やぶちゃん注:ママ。「みやうぶ」が正しい。])百濟繼子(くだらのつぐ《こ》)、暮齡(ぼれい)にいたるまで、后につかへ、年八十餘(よ)なりしが、言談(こんだん[やぶちゃん注:ママ。])のつゐでに、このことを述(のぶ)るを聞《きき》て、淸行、これをしるすといふ。

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が一字下げ。]

 愚(ぐ)、按(あんず)るに、世に此事をあやまり傳へ、『眞濟(しんせい)僧正、染殿后の色にまよひ、「紺靑鬼(こんせいき)」となつて、后をなやます。』といふ。あるひは[やぶちゃん注:ママ。]、「三代實錄」に、『眞濟僧正、入(い)リ愛宕山高尾(あたごさんたかを)ノいて、ざる[やぶちゃん注:ママ。連体詞「然(さ)る」(そのように)の誤りであろう。]事、十二年、嵯峨天皇聞(きゝ)テ其苦行、爲《す》内供奉(ないぐぶ)十禪師《ト》。』とあるを、あやまり、右の說に混(こん)じて、「眞濟僧正、染殿后を戀(こひ)、愛宕山に入《いり》、天狗となり、太郞坊と、なづく。」と附會す。眞濟は弘法大師のの[やぶちゃん注:ダブりはママ。]高㐧(こうてい)なり。いかでか、魔魅(まみ)とならんや。殊に「三代實錄」に、『貞觀二年二月五日丙午、僧正傳燈(でんどう)大法師位、眞濟、卒(そつ)す。時に六十一。』と、みえぬれば、其妄説(まうせつ)、論せずといへ共、明《あきら》かなり【一説には、善祐法師が、二条后に通じて、伊豆に流されし事を、眞濟法師と誤《あやまり》傳ふとも、いへり。豆州熱海に善祐が塚、あり、所にては「紀僧正《きのそうじやう》」と誤《あやまり》いふ。】。

[やぶちゃん注:半年余り前に、『「今昔物語集」卷第二十「染殿后爲天宮被嬈亂語第七」(R指定)』細かく注を入れて電子化訳注してあるので、そちらを読まれたい。そこで注したものは繰り返さない。なお、本篇の原拠は記されていないので、不詳。前半のメイン・ストリーの原拠は「今昔物語集」とよく一致するが、「今昔物語集」の原拠は平安中期(十世紀初頭)の三善清行(きよつら:後注する)の撰になる伝奇的古伝承や巷間の奇譚異聞怪奇譚を集めた「善家秘記」であり、そこでは後半の下りも書かれていることが、小学館の『日本古典全集』「今昔物語集(3)」の当該話の前説に記されてあった。しかも作者清行が最後部分で登場してもいるので、本話の原拠は「善家秘記」とするべきであろう。なお、染殿=文徳天皇の女御=清和天皇の母藤原明子(あきらけいこ:良房の娘)の当該ウィキによれば、『父の良房が「年経れば 齢は老いぬ しかはあれど 花をし見れば 物思ひもなし」と詠じて、明子を桜花とみた話が『古今集』によって伝わっており、大変な美貌の持ち主だったという』が、貞観七(八六五)年)『ごろから、物の怪に悩まされるようになったという記述が』、「今昔物語集」・「古事談」(巻第三第十五話)・「平家物語」(延慶本)・「宇治拾遺物語」『(第百九十三話)などに散見され』、『これらの記述にある言動により』、『一種の双極性障害』(旧躁鬱病)『に罹患していたとみる説もある』とするが、単なるそれでは、このような怪異印象は生まれにくいと思われ、一人で二役を演ずるような状態が異様に見做されたとすれば、私は寧ろ、解離性同一性障害(多重人格)を深く疑うものである。

「忠仁公」は文徳天皇の即位を推しながら、結果して、実際の権勢を揮った摂政太政大臣藤原良房の漢風の諡号。

「元慶のはじめ」元慶は八七七年から八八五年まで。染殿は元慶六年一月七日(八八二年一月二十九日)に没しており、「五十になり給ふ」とあるので、元慶二年で確定。

「淸和天皇」元文徳天皇の第四皇子であるが、この時は既に退位しているので、清和上皇が正しい。天皇は陽成。清和は、この二年後の元慶四年十二月四日に享年三十一で崩御している。

「御賀」数え五十で「早寿(そうじゅ)の祝い」と呼ぶ。

「昌泰(しやうたい)二年春三月」

「三善淸行」(承和一四(八四七)年~延喜一八( 九一八)年)は平安前期の文人官僚。三善氏吉(うじよし)の子で、善相(ぜんしょう)公とも称される。また、「きよつら」という訓もあるが、正しくは「きよゆき」である。貞観一五(八七三)年に文章生(もんじょうしょう)、翌年、得業生となり、元慶五(八八一)年に「方略試」(平安初期から室町時代まで行われた官吏登用のための最高国家試験。この試験に合格すれば、必ず、官吏に登用された)を受けたが、不合格となった。この時の問者(試験官)が菅原道真で、以後、清行が道真と立場を異にすることが多いのは、これに起因するとみる説もあるが、明らかではない。二年後に三十七歳で「対策」(先の「方略試」に同じ)に及第し、大学少允(しょうじょう)となった。仁和二(八八六)年には少内記となり、翌年には従五位下・大内記となる。この年に始まる「阿衡(あこう)紛議」では藤原佐世(すけよ)らの意見に組みし、橘広相(ひろみ)を弁ずる菅原道真に対した。寛平五(八九三)年に備中介となり、初めて地方社会の実情を知り、また政治の生きた理念を学んだ。この経験は、後の延喜一四(九一四)年の「意見封事十二箇条」に強く反映されている。昌泰三(九〇〇)年に刑部大輔(ぎょうぶたいふ)・文章博士(もんじょうはかせ:大学寮に属して詩文と歴史とを教授した教官。天平二(七三〇)年設置。平安時代には多く東宮学士・大外記を兼ね、天皇の侍講としても仕えた)となり、右大臣菅原道真に辞職を勧め、さらに同年に道真左遷の後、翌年が辛酉の年に当たるとして「辛酉革命の勘文」を上奏して改元を主張し、延喜(九〇一年~九二三年)への開元を実現させた。次いで、大学頭(だいがくのかみ)となり、「延喜格式」(えんぎきゃくしき)の編纂にも参画したが、晩年は特に目立った活動はなく、延喜一七(九一七)年には七十一歳の高齢で、参議・宮内卿となっている。著作には他に「円珍和尚(えんちんかしょう)伝」「藤原保則伝」「などがあり、歌集として「善家集」(一巻。但し、現存しない)があった(以上は概ね、小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「翰林学士」文章博士の唐名。

として、閑居のいとま、あり。

「百濟繼子(くだらのつぐ《こ》)」小学館の『日本古典全集』「今昔物語集(3)」の前説では、『くだらのつぎこ』とルビがある。

「暮齡」老齢。老いた晩年。

「眞濟(しんせい)僧正」真済(しんぜい、延暦一九(八〇〇)年~貞観二(八六〇)年)は平安前期の真言僧。当該ウィキによれば、父は巡察弾正紀御園。『空海の十大弟子の一人で、真言宗で初めて僧官最高位の僧正に任ぜられた。詩文にも優れ、空海の詩文を集めた』「性霊集」(しょうりょうしゅう)を『編集している。また、長く神護寺に住し、その発展に尽力した。高雄僧正・紀僧正・柿本僧正とも称される』とあり、リンク先の箇条履歴を見ても、天安元(八五七)年一〇月、『文徳天皇、真済の師を思う心に感激し、空海に大僧正位を追贈し、真済を僧正とする』とある。但し、翌天安二年八月二十三日に、『文徳天皇が突然』、『病に倒れる。真済の看病も空しく』、二十七日、三十二『歳で崩御』し、『天皇の急死』によって、彼は『世論の激しい批判を浴び』、『隠居する』とあり、『真済の付法』を受けた『弟子は一人もいない。真済の地位からすれば』、『極めて不自然で、文徳天皇の急死に際し』、『激しい批判を浴び』て『隠居したこととの関連が疑われる』とある。『染殿后の色にまよひ、「紺靑鬼(こんせいき)」となつて、后をなやます』などという感じは、史実上は見られない。敢えて言うなら、この最後の世上の批判が、僧正という高位へのやっかみとともに、こうした巷間のデッチ上げの怪奇談に組み込まれて堕(お)とされてしまったものかも知れない。

「嵯峨天皇」在位は大同四(八〇九)年~弘仁一四(八二三)年で、当時は既に退位しているので「上皇」が正しい。先のウィキには、承和二(八三五)年頃、『嵯峨天皇(上皇)が』、十二『年篭山の苦行を評価して』、『内供奉十禅師に抜擢する。ただし、通説では』承和七(八四〇)年とする、とある(前者を採る理由が注で記されてある)。本文にも出る、「内供奉十禪師」は「内供」「内供奉」「十禅師」などと略称され、宮中で天皇の安穏を祈ることを職務とし、天皇の看病などに当たる他、正月の「御斎会」(ごさいえ/みさいえ)で読師となる。原則として地位は終身で、童子二人と供養米が支給される。僧綱(そうごう)との兼帯は出来なかった(但し、天台宗は例外)。

「高㐧(こうてい)」「高弟」の「弟」の異体字。

「三代實錄」「日本三代實錄」。「六国史」の第五の「日本文徳天皇実録」を次いだ最後の勅撰史書。天安二(八五八)年から仁和三(八八七)年までの三十年間を記す。延喜元(九百一)年成立。編者は藤原時平・菅原道真ら。編年体・漢文・全五十巻。

『貞觀二年二月五日丙午、僧正傳燈(でんどう)大法師位、眞濟、卒(そつ)す。時に六十一』先のウィキには、貞観二(八六〇)年二月二十五日没で享年六十一とある。「曆のページ」で見ると、「丙午」(ひのえうま)は二十五日で、五日は「丙戌」(ひのえいぬ)である。諸史料から、「五日」は「二十五日」の誤りである。

「善祐法師が、二条后に通じて、伊豆に流されし事」「二条后」は、かの在原業平の悲恋の相手で、清和天皇の女御、後に皇太后となった藤原高子(たかいこ 承和九(八四二)年~延喜一〇(九一〇)年)のこと。ウィキの「藤原高子」によれば、寛平八(八九六)年、『宇多天皇の時、元慶年代に』、『自らが建立した東光寺』(現在の京都府京都市左京区岡崎東天王町にある「兎の神社」として知られる岡﨑神社。グーグル・マップ・データ)『の座主善祐と密通したという疑いをかけられ、皇太后を廃され、翌年天皇の生母班子女王が皇太夫人から皇太后に進んだ。没後の天慶』六(九四三)年に『朱雀天皇の詔によって(』但し、『詞を濁して)復位されている』とあるのが、それである。当時、彼女は五十五歳であった。「善祐法師」の経歴は不詳。業平、善祐、それに実子の乱行の陽成といい、なんとなく、高子って哀れな感じだなぁ。

「豆州熱海に善祐が塚、あり。所にては「紀僧正」と誤いふ。】」熱海の「古屋旅館」公式サイトの「熱海古屋旅館の歴史」に、『善祐のお墓』とあって、『平安時代には流刑にも幾つかの段階があり、伊豆や四国はもっとも重い「遠流の地」と定められていました。つまり都から一番離れた遠隔地と考えられていた訳です』。「続日本紀」『によると、平安時代』、『寛平』八(八九六)年に、『京都東光寺の僧』『善祐が』、『密通の罪で』、『阿多美郷(今の熱海)に遠流となった記録があります』。『密通の相手は清和天皇の女御で、狂気の帝』、『陽成天皇の生母藤原高子』『でした』として、注して、『ちなみに』、『歴史文献上』、「続日本紀」は、『熱海(当時は』「阿多美」『と表記)の名前が出現する最古の文献です』とあって、さらに『善祐は熱海市和田浜の辺りに住み、松を植え』、『枝を都の方角に曲げて』、『京都を偲んだそうです。その後』、『和田浜にあった善祐のお墓は古屋旅館敷地内に移され、現在に至っております。平安の時代にまで遡って、思いを巡らせてみるのも楽しいものですね』とあった。お墓の写真もある。古屋旅館さんのお蔭で「紀僧正」などと誤らずに、大事にされてるんだ。よかったな。善祐法師も毎日、いい湯に浸かっているんやなぁ……。]

大和怪異記 卷之一 第十二 雲中ににはとりたゝかふ怪異事

 

[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の分はここ。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。【 】は二行割注。]

 

 第十二 雲中ににはとりたゝかふ怪異事

 天安二年三月壬辰(みつのえたつ)の夜(よ)の、左近衞の大宅年麻呂(おほやのとしまろ)といふもの、北㙒(きたの)にいたりて見しに、稻荷神社の上、空中(くうちう)に、两(ふたつ)、雞(にはとり)ありて、たゝかふ。其《その》いろ、赤し。たゝかふごとに、毛羽(けは)ちりをち、地、あひへだつといへ共゙、眼前(がんぜん)にみるとなん。

[やぶちゃん注:最後の「同」は前話と原拠が同じで、「日本後紀」と「文德實錄」(「日本文德天皇實錄」)であることを指す。国立国会図書館デジタルコレクションの前掲のもの後者(板本)で発見した。ここの左丁三行目(頭の「○」のみ)以下で視認出来る。空中に逆転層が発生し、有意に離れた場所で焚火をし、そこで闘鶏の練習でもしていたなら、有り得るかも知れぬが、どうも怪しい(次注参照)。

「天安二年三月壬辰」ユリウス暦八四八年三月だが、いつもお世話になっている「曆のページ」で調べたところ、月の干支は「丙辰」で、この月(大の月で三十日まである)の中には「壬辰」の日はないから、日は特定出来ない。正規の「六国史」の一つで、干支の誤りは致命的である。なお、文徳天皇はこの天安二年の八月二十七日に三十二歳で急死している。当該ウィキによれば、彼は、生来、病弱で『通説では死因は脳卒中といわれているが、歴史学者の彦由一太はあまりの病状の急変から』、即位を推して権勢を強めていた『藤原良房による暗殺説を唱えている』とある。詳しくは、そちらを参照されたいが、或いは、暗殺說をとるなら、こうした怪異を配する(ざっと見たが、同巻には似たような怪異が他にも載っている)ことで急逝を天命として理由づけするキナ臭さを感じるように思えなくもなく、干支の誤りは逆に後ろめたい噓だから、確信犯で違えたともとれる気もする。

「北㙒」原御所の北の地域を指す。この附近(グーグル・マップ・データ)。

「地、あひへだつといへ共゙」「空中と、年麻呂の立っている地面とでは、有意に離れているのだが、それが(謂わば、映画を見るように)眼前にはっきりと見えた。」と言うのである。]

曲亭馬琴「兎園小説拾遺」 第二 「江戶大雹」

 

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。昨年二〇二一年八月六日に「兎園小説」の電子化注を始めたが、遂にその最後の一冊に突入した。私としては、今年中にこの「兎園小説」電子化注プロジェクトを終らせたいと考えている。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちら(右ページ下段七行目から)から載る正字正仮名版を用いる。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。

 馬琴の語る本文部分の句読点は自由に変更・追加し、記号も挿入し、一部に《 》で推定で歴史的仮名遣の読みを附した。今回は読み易さを考えて段落を成形した。]

 

   ○江戶大雹《えどだいひよう》

 

Hyou100

 

Hyou

 

[やぶちゃん注:底本の図の円部分のみをトリミング補正した。最初に掲げたのは、国立国会図書館デジタルコレクションの画像を百%でダウン・ロードしたものを、中の活字を削除し、改めて私が明朝体で文字を入れたものであるが、実物の原板本を見たことはないのだが、百%では、あまりに原本が大きくなり過ぎ、雹の直径は五センチ八ミリになってしまう(以下の文中では、場所によっては『手鞠』大のものが落ちたとするが、それは後に馬琴が聴いた話に過ぎず、実見したわけではない)。そこで、吉川弘文館随筆大成版の円の大きさに近づけて、中の字を削除したものを後に添えた。馬琴は以下の本文で『欒子の如し』と言っている。「木欒子」はムクロジ目ムクロジ科ムクロジ属ムクロジ Sapindus mukorossi のことである。羽根突きの玉に用いることで知られるが、ムクロジの実は概ね直径二センチメートルである。上の前図の直径は一センチ四ミリしかないが、馬琴のそれは、雹が降った時の最初の印象記であり、後図の中にある通り、この絵は『なかばとけたるもの此大さなりき』(半ば、溶けたる物、此の大きさなりき)で、時間が経過して溶けてしまったものを描いたのであるから、私はこの大きさでよいと考える(実は馬琴は直径としか思えない数値も添えており、それは一センチ六ミリ相当なのである)。

 

 文政十三年庚寅閏三月小廿九日、昨今、南風、烈《はげし》く、溫熱、五、六月の如し。

 この日、晴天、午後、俄-頃《にはか》に、雲、起《おこり》て、風、止む。

 忽《たちまち》、大雹《だいひよう》、降れり。

 神田明神下、吾家の邊《あたり》は、その雹、木欒子《むくろじ》の如し【雹、止《やん》で、既に解《とけ》んとせしを、秤《はかり》にかけて見つるに、一匁《もんめ》、或《あるいは》、五分五厘ばかりなりき。】。庭の梅の若枝は、大かた、打落《うちおと》されたり。

 松前家下屋敷、千束・下谷坂本邊、幷に、根岸中通り・藤寺前邊は、雹の大《おおき》さ、手鞠の如し。地上に落《おつ》るとき、三つ、四つに、碎けざるは、なし。

 松前家の近臣某《なにがし》、

「その碎けたる雹を拾ひて、茶碗へ入れ置《おき》しに、茶碗内に、みちたり。夕ぐれまで、猶、解《とけ》ざりし。」

と、いへり。

 かゝれば、瓦は、大かた、打碎《うちくだか》れざるは、なし。

 婦幼は、怕《おそれ》れて、頭を擡《もたげ》るもの、なかりし、とぞ。

 西丸御番所人、中西氏の居宅は、根岸三島門前にあり。こゝらは、雹の大さ、普通の茶碗の如し。此中西氏の所親、

「谷中《やなか》に居《をる》某が門の板屋根は、この雹に打拔《うちぬか》れし。」

といふ。其大さ、しるべし。

 吉原・淺草邊は、木欒子の大さなるが、降《ふり》たり。

 纔《わづか》に隔りたる所にて、大小あること、かくの如し【中西氏云、「此大雹は、多く、土にまみれ、又、靑苔《あをごけ》の交《まぢ》りたる、多かり。思ふに、高山積雪、烈風に摧《くだ》れて、遠く、散亂せしにや。」と、いへり。此說、非なるべし。愚按あり。今こゝに贅《ぜい》せず。】。

 田畑・西ケ原邊は就ㇾ中《なかんづく》、甚し。

「牛・馬・犬・鷄は、さらなり、人にも稀には怪我あり。」

と傳へ聞《きき》にき。

 江戶にては前代未聞の大雹なり。

「日本橋・四日市邊へふりしは、赤小豆《あかあづき》の大さなり。」

といふ。

 京橋より西南、芝・麻布邊へは、この雹、ふらず。

 北の方《かた》、栗橋邊を限りとして、下總《しもふさ》の中、十八、九ケ村、麥を、そこなはれたり。「苗代《なはしろ》には障《さは》りなし。」と、後に聞《きけ》り。

 此日、雹は、須臾(しゆゆ)にして、雷鳴あり。未《ひつじ》の後《ご》より、雨ふりて、大雷、數十聲【この雷雨、三ケ所へ限《かぎり》たりといふ。】、本所邊も、此雹、大きからず【小川町・飯田町邊は、いよいよ、ちいさく、四谷邊へは、ふらざりしなるべし。】。

[やぶちゃん注:「文政十三年庚寅閏三月小廿九日」馬琴にしては珍しく干支を誤っており、同年は庚辰である。グレゴリオ暦一八二〇年五月十一日。

「神田明神下、吾家の邊」現在の東京都千代田区外神田のここ(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)。サイド。パネルの画像には説明板が二種あるが、こちらの方がよい。

「一匁」三・七五グラム。

「五分五厘」「或」いは、と言っているが、分(ぶ)・厘(りん)は長さの単位である。従って、これは大まかな雹の直径を示したのであって、一センチ六ミリ相当である。

「松前家」松前藩下屋敷は現在の両国駅と国技館のある附近に南北に細長くあった。「江戸マップβ版」の「江戸切絵図」「本所絵図」の左下方に「松前伊豆守」とあるのが、それである。息子の興継宗伯が医員として勤め、馬琴とも親しくしていた、当時は前藩主であった老公松前道広は馬琴の愛読者で、本「兎園小説」にも頻繁に出てくる。

「千束」東京都台東区千束

「下谷坂本」富士講の富士塚で知られる「下谷坂本の富士塚」附近。

「根岸中通り」東京都台東区根岸の北西に走る通り辺りか。

「藤寺」同じく台東区根岸にある臨済宗妙心寺派寶鏡山円光寺。元禄一二(一六九九)年開山。江戸時代には藤の大樹があって、花の頃は『一奇視』を呈し、『俗閒これを藤寺と稱せり』と「江戸名所図会」(卷之六 開陽之部)の同寺の条に記されてある。

「根岸三島門前」「江戸マップβ版」の「江戸切絵図」の「浅草御蔵前辺図」の右中央やや下に「兵庫頭大岡」の屋敷があるが、その通りを隔てた右手の「明神」とあり(⛩マークが逆立ちしている)その上の一画に「三島門前」町がある。ここは根岸ではないのだが、「江戸町巡り」の「【浅草②】浅草三島門前町」を見ると、この「明神」は三島神社で、古くは金杉村根岸にあったが、宝永六(一七〇九)年又は宝永十年に収公されて当地に代地を給された、とあった。転地させられた場合、旧地を冠することはよく行われたから(但し、その場合は「元」をつけて区別することが多かった)、ここもそれか。確定は

出来ないが、現在の東京都台東区寿のここである。

「所親」親しい間柄の人、或いは、遠い血縁関係の親戚。

「谷中」ここ

「田畑」現在の田端であろう。

「西ケ原」東京都北区西ケ原

「四日市」中央区日本橋一丁目の古名。日本橋の南詰一帯。

「栗橋」不詳。埼玉県久喜市栗橋地区に旧栗橋宿が知られるが、北に飛び過ぎる気がする。但し、後から日光街道を下ってきた人から聴いた可能性はあるし、以下、「下總」(現在の千葉県北部と茨城県の南部)の様子を書いているところからは、距離が離れ過ぎとは言えないようにも思う。

「雹は須臾(しゆゆ)にして」降雹はごく短い間で。

「未の後《ご》」定時法で「後」(あと)ではなく一刻を三分割する「後刻」の意でとり、午後二時半から三時まで。

「本所」この附近

「小川町」千代田区神田小川町

「飯田町」は現在の飯田橋を含む広域附近

「四谷」東京都新宿区四谷附近。]

2022/11/10

曲亭馬琴「兎園小説拾遺」 第二 「イギリス船圖說」

 

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。昨年二〇二一年八月六日に「兎園小説」の電子化注を始めたが、遂にその最後の一冊に突入した。私としては、今年中にこの「兎園小説」電子化注プロジェクトを終らせたいと考えている。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちらから載る正字正仮名版を用いる。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。

 馬琴の語る本文部分の句読点は自由に変更・追加し、記号も挿入し、一部に《 》で推定で歴史的仮名遣の読みを附した。

 なお、図は底本のものをトリミング補正して使用したが、今回の図は、編者に拠る活字化されたものが含まれており、そこは、本書が『インターネット公開(裁定)』『著作権法第67条第1項により文化庁長官裁定を受けて公開』であることから、活字と判断した部分は、編集者の著作権を侵さないように(恐らくはそのままでも問題ないと私は思っているのだが)独自に、当該箇所に画像ソフトで文字を当該部に挿入を試みたのだが、小型の大砲(捕鯨用であろう)の図の上部や、銃・剣の上部のそれらは、縦書で長いため、非常に困難で、上手く挿入出来なかった。そこで、緊急避難として、そこは抹消し、[やぶちゃん注:解説が縦書行で入る。]というような注記に代え、図の後にそれを私が打って活字で示した。その外、一部、擦レで見えない手書きの「紺羅紗」「布」なども、それで入れ代えた。文字がゴシックであるので、底本そのままでない箇所ははっきり分かる。但し、手書き部分は時に判読し難いものがあるので、それらも、総て、後で一括電子化してある。本篇は、『曲亭馬琴「兎園小説拾遺」 第一 「浦賀屋六右衞門話記」』と合わせて読まれたい。そちらで注したものを繰り返すことはしない。]

 

兎園小說拾遣 第二

 

   〇イギリス船圖說

文政元戊寅年五月十三日、相州浦賀湊近邊え、漂着の異國船【即、イギリス也。】。

一、本船、長さ、十九間一尺。

[やぶちゃん注:三十四メートル八十五センチメートル弱。]

一、同幅、五尋《ひろ》三尺。

[やぶちゃん注:約九メートル九十一センチメートル。]

一、艫表《ともおもて》、幅三尋許《ばかり》。

[やぶちゃん注:「艫表」船尾の前寄りの幅であろう。約五メートル四十センチメートル。]

一、ミヨシ、長《ながさ》、三尋。

[やぶちゃん注:「ミヨシ」舳先(へさき)。]

一、深さ、四尋餘。

[やぶちゃん注:七・二メートル。]

一、へり、幅一尺、厚、三寸。

[やぶちゃん注:舷側板のことであろう。幅三十・三、厚さ九センチメートル。]

一、總《すべて》、船板、厚さ、九寸四分。

[やぶちゃん注:二十八・五センチメートル弱。]

一、帆數。十七。

一、乘組人數、卅七人。

一、船の腹、厚さ、凡《およそ》、五、六寸、巾《はば》一尺許の角木《すみぎ》を重ね、總《すべて》、厚さ、凡、二尺餘。

[やぶちゃん注:「五、六寸」十五~十八センチメートル。「角木」は本来は本邦の家屋で隅棟(すみむね:屋根の隅で斜め方向に降りている棟)の下にあって垂木(たるき)の上端を受けている斜めの材を指す。ここは竜骨(キール)から肋骨(船側フレーム)を組んだ後者を指すか。]

一、短筒臺《たんづつだい》、共に、長さ、一尺三寸三分。

[やぶちゃん注:四十センチメートル三ミリ弱。]

一、同筒、長さ、七寸六分、筒口五寸五分。

[やぶちゃん注:「七寸六分」二十三センチメートル。「五寸五分」十六センチメートル七ミリ弱。]

一、小筒臺《こづつだい》、共に四尺二寸三分、巢口《すぐち》、六分五厘也。

[やぶちゃん注:「四尺二寸三分」一メートル二十八センチメートル弱。「巢口」銃口。「六分五厘」約一センチメートル九ミリ。

 以下、図の前までは底本では全体が一字下げ。]

イギリスの浦賀着船せしは、文政元年五月と、同五年七月と兩度也。ある人、云《いはく》、「この船中に、させる物、なし。但、鯨のあぶら、許多《あまた》、樽あり。これは、彼《か》ともがら、渡海の間、鯨を漁獵して、そのあぶらを、しぼり、貯《たくはへ》て、交易の料《れう》とす。肉は、とらずして、皆、捨《すつ》る、といふ。又、鸚鵡《あうむ》の類《たぐひ》の異鳥を養へり。こは、船中の慰《なぐさみ》にかへる也。鯨をとる法術書あり。尤《もつとも》、精密のものなり。」とぞ【これは、文政五年七月に來つるときの事なるべし。】。

右、イギリス船の圖、左の加し【◎圖、省略。】

   ~~~~~~~~~~~~~~~~

 

Taiohu

 

[やぶちゃん注:キャプション「解説1」は、

   *

臺厚五寸

長三尺五

寸、橫巾一

尺四寸、

○つく鐵

玉徑四寸

八分、此

筒二挺あ

り、巢口

五寸厚七

分、

   *

で、整序(読みや送り仮名を自由に入れ、句読点を変更・追加した)すると、

   *

臺、厚さ。五寸。長さ、三尺五寸。橫巾、一尺四寸。

○つく鐵玉(てつだま)、徑(わたり)、四寸八分。此の筒、二挺あり。巢口(すぐち)、五寸、厚さ、七分。

   *

「五寸」は十五センチメートル。「三尺五寸」は四十五・四センチメートル。「一尺四寸」は四十二・四センチメートル。「つく」は「突く」で「撃つ」の意。「四寸八分」は十四・四センチメートル。「巢口」は銃口。「五寸」は十五センチメートル。「七分」は二センチメートル。

 以下、時計回りにキャプションを整序して示す。

「銘、ここにあり。」(次の図の頭その「銘」が出る)

「火皿(ほざら)。」

「差し渡し、八寸一分。」二十四センチメートル五ミリ。

「差し渡し、九寸六分。」二十九センチメートル。放物線を描いて打ち上げて飛距離を伸ばすために、台車の前輪の直径が有意に大きいのであろう。

「筒、長さ、四尺二寸二分」一メートル二十七・八センチメートル。]

 

Jyu

 

[やぶちゃん注:キャプションは、右上に、

   *

「砲 銘」

   *

とあるが、判読不能。その下方に、時計回りで、

   *

「火藥桶」

「木」

「タガハ竹ノ如シ」

「革」

   *

とある。竹はインドか東南アジアで調達したものか。

キャプション「解説2」は、

   *

巢口六分

五りん、

筒長二尺

二寸九分、

此筒八挺

あり、

   *

同前で整序すると、

   *

巢口、六分五りん。筒、長さ、二尺二寸九分。此の筒、八挺あり。

   *

「六分五りん」は一センチ九ミリ。「二尺二寸九分」は六十九センチ四ミリ弱。以下、周囲のキャプションは、

   *

「込矢鉄」(「こみやてつ」銃の筒先から銃座まで、キャプションは、初期の「先込め銃」に使う道具で、鉄(木の場合もあった)の細長い棒で、弾薬を筒の底まで、銃口から込み入れるのに用いたもの。「こめやてつ」とも読める)

「眞鍮」

「眞鍮」(孰れも銃本体の補強用)

「石」(薄くなっているが、後方の撃鉄の尖った先を指示している)

   *

キャプション「解説3」は、

   *

巢五分五

りん、長

七寸六分、

此筒二挺

あり、

   *

整序すると(脱字を補った)、

   *

巢口、五分五りん、長さ、七寸六分。此筒、二挺あり。

   *

「五分五りん」は二センチ六ミリ、「七寸六分」は二十三センチ。他のキャプションは撃鉄を含む右側の金属部を指示して、

   *

「金物、惣鉄。」(「金物で出来ており、惣(すべ)てが鉄製」という意か。

   *

而して、銃座の左に置かれて、

   *

「布」

   *

とキャプションするものが、判らぬ。布でがっちり覆ってあるのは、この手の銃で最も大切な火薬の小さな入れ物であろうか? 識者の御教授を乞う。]

 

Zatugu

 

[やぶちゃん注:キャプションは、右上の人物画では帽子を指示して、

   *

「皮」

   *

で動物の皮革製を意味し、服には、

   *

「紺羅紗」(こんらしや)

   *

とある。「羅紗」(らしゃ)はポルトガル語の「毛織物」の意の「raxa」が語源で、厚手の紡毛織物の一種。経緯(たてよこ)とも紡毛糸を用い、製織後に起毛し、縮絨(しゅくじゅう:毛織物に石鹸溶液やアルカリ溶液を含ませ、圧力や摩擦を加えて収縮させ、組織を緻密にすること)・剪毛(せんもう)した地の厚い毛織物。黒や紺色の無地物が多い。本邦では、古くは陣羽織、明治以降はオーバー地や軍隊用コート地などの防寒服地として使われた。

 その下のサーベルのキャプション「解説4」は、

   *

此劔數本

あり、其

形同き故

略ㇾ之、

   *

整序すると、

   *

此の劔(つるぎ)、數本、あり。其の形、同じき故、之れを略す。

   *

である。

人物の左手上に、

   *

「ジヤウゴ」(「じょうご」=「漏斗」(ろうと)のこと)

その下方に、

   *

「キセル」(煙管) 「同」

   *

とあって、上の煙管上方に、

「二寸餘」(或いは「余」)

   *

とある。「二寸」は六センチメートル。

   *

左手右上に、

   *

「水溜」(みづため:というより、飲料水用の樽)

   *

とあって、その上に、

   *

「入口」(いれぐち)

   *

を指示する。その左手に、

   *

「カンナ」

   *

左中央に、

   *

「ノコギリ」

   *

その下方に釘抜き三種(ハンマーのように見えるが、ハンマの先が薄くなっていれば、それは立派な釘抜である)と錐の絵を載せ、

   *

「クギヌキ」

「クギヌキ」(二箇所にある)

「キリ」

   *

とある。]

   ~~~~~~~~~~~~~~~~

右、異國船へ被ㇾ下物、

 一、水【異國船所持の樽え、二十樽。但し、一樽、二十荷《か》許《ばかり》づゝ入《いり》。】

[やぶちゃん注:「荷」は、この場合、酒樽の数詞であろう。則、一樽に二十斗(三百六十リットル)。ドラム缶は四百リットル容量以下の円筒形容器を指すので、結構、大きい。]

一、山土、右、同斷、二樽。

[やぶちゃん注:これは薬としてである。後文に以外な理由が書かれてある。]

一、生魚、二十。

一、大根、十把。

一、ふき、十二把。

一、雞《にはとり》十羽。

一、枇杷、二升。

一、梅、二升。

一、杏、一升。

一、薪、三艘【但、魚船《さかなぶね》。】。

[やぶちゃん注:「魚船」は活きた魚を市場へ運ぶ小型の船を指す。]

右之外に、水、三十荷、薪、三十把。是は、歇船《ケツセン/かかりぶね》の間、浦賀御役所より日々に遣《つかは》し候分也。

[やぶちゃん注:「歇船」船の停泊中・係留中の意。]

ある人、云《いはく》、「このイギリス船、水をつかひ失ひしかば、潮水を飮《のみ》たる者、蒼くふくだみて、病苦に堪《たへ》ざるあり。土を乞奉《こひたてまつ》りしは、それらを療治の爲也。件《くだん》の病人を、首ばかり出して、土中に埋め、一夜を歷《ふ》るときは、潮毒《しほのどく》、うせて、治する。」といふ。是、鹽藏の魚、鳥の鹽をぬく法と、おなじ【これも、ふたゝび來つる文政五年七月の事歟《か》。未ㇾ詳《いまだつまびらかにせず》。文政元年五月に來つるときの略記は、「浦賀六右衞門話記」一編あり、既に十七卷に錄したり[やぶちゃん注:冒頭にリンク済み。]。合せ見るべし。】。「この船、油賀湊を去ること、海上一里許《ばかり》、深夜中《しんやうち》に歇《かか》りしを、その次の早天《さうてん》に、浦賀御番所より、見出《みいだ》して、騷動、限りなかりし。」といふ。依ㇾ之、當時、江戶より、そのすぢなる役人、幷に、蠻學に、くはしき者、多く、浦賀へ、ゆきたり。はじめ、彼《かの》船に近づきて、「船中を展檢《てんけん》せよ。」といふに、誰《たれ》も怕《おそ》れて得《え》ゆかざりしに、「浦賀の使者《つかひもの》【或は「蠻徒《ばんと》也。」といふ。】、小船に乘り、その徒、四、五名と共に漕《こぎ》つけて、船中に乘《のり》うつりて、樣子を見屆たり。」といふ。件の船は、逗留數日《すじつ》の後、賜《たまひもの》を受《うけ》て、歸帆せり【この餘、雜說は、なほ、多かりしを、はゞかるよし、なきにあらねば、書《かき》もとゞめず、やみにき。】

[やぶちゃん注:「土中に埋め、……」は何だか怪しい知ったかぶりのように思われる。フグ中毒の解毒みたようで、日本人しか考えまいよ。土は食用野菜の栽培用ではなかろうか。

「得ゆかざりし」不可能の呼応の副詞「え」に当て字したもの。

「使者」所謂、下級の者で、主人や庶民の命を受けて、その日稼ぎをする、「なんでも屋」みたようなものであろう。

「蠻徒」ヤクザ者。]

2022/11/09

大和怪異記 卷之一 第十一 嵯峨天皇は上仙法師が後身なる事

 

[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の分はここから。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。【 】は二行割注。]

 

 第十一 嵯峨天皇は上仙法師(じやうせん《ほふし》)が後身なる事

 むかし、伊豫国神㙒郡(かみの《こほり》)に上仙といふ僧あり。つねに天子に生れんことを、いのる。

 死するに及《およん》で、いはく、

「我、もし、天子とならば、郡の名をもつて、名字とすべし。」

と。

 又、同郡橘里(たちばな《のさと》)に橘嫗(《たちばな》のうば)といふもの、あり。家產をかたぶけつくして、上仙を供養す。

 上仙、死するの後、嫗《うば》、なげきて、

「吾、和尚の旦越(だんをつ)たる事、久し。ねがはくは、來生《らいしやう》、一所《いつしよ》に、したしみ、ちかづかん。」

と、いひて、命、をはれり。

 其後、いくばくならずして、嵯峨帝(さがてい)、降誕(がうたん)まします。

 先朝(せんてう)よりの制(せい)に、皇子《わうじ》うまれ給ふごとに、乳母が姓を以て、名とする故、帝(みかど)の乳母(めのと)、姓(せい)、「神㙒」といひしかば、これをもつて、帝の諱(いみな)とす。

 上仙が後身なり。

 郡(こほり)の名、帝の諱に同じきによつて、改めて、「新居(にゐ)」と名づく。

 其後、橘淸友の女子、嘉智子を、夫人とし給ふ。「橘の夫人」といふ【世に「檀林皇后」と云《いふは》、是也。】。是《これ》、橘嬉が後身なり。【「日本後紀」・「文德實錄」】

[やぶちゃん注:原拠とする「日本後紀」は六国史の第三。本来は全四十巻。藤原緒嗣(おつぐ)ら七名の編になる。承和七(八四〇)年成立。「続(しょく)日本紀」を継ぐもので、延暦一一(七九二)年から天長一〇(八三三)年までの史実を、漢文・編年体で収録したものであったが、早く散逸してしまい、現存するのは十巻分だけである(小学館「日本国語大辞典」に拠った)。今一つの「文德實錄」「日本文德天皇實錄」(にほんもんとくてんのうじつろく)の略称。勅撰の歴史書で全十巻。六国史の一つ。嘉祥三(八五〇)年から天安二(八五八)年までの文徳天皇の在位の一代の歴史を編年体に記したもの。藤原基経らが、貞観一三(八七一)年に文徳の次代の清和天皇の勅により、撰集が開始されたものの、一時、中止された。後、元慶二(八七八)年に清和の次代の陽成天皇の勅によって再開され、翌年に完成した。本書は以前の史書に比べ、薨卒伝(こうしゅつでん:令制で「薨」は親王と三位以上、「卒」は四位・五位と諸王の逝去することを指す)が豊かで、これは、律令体制の解体期に、古代国家再編に努めた人物群の伝記によって、当代と将来の範としたものと考えられている(小学館「日本大百科全書」に拠った)。

 さて、後者「日本文徳天皇実録」の当該部は国立国会図書館デジタルコレクションで調べたところ、巻一のここである(出雲寺和泉掾の宝永六 (一七〇九)年出版になるもの)。右丁四行目。前者は国立国会図書館デジタルコレクションの写本活字本を見たが、どこに書かれているか、判らなかった。「日本文徳天皇実録」でご勘弁戴きたい。その代わり、同話を一節に載せる「日本霊異記」の下巻「智行(ちぎやう)並び具する禪師、重ねて人の身を得て、國皇(こくわう)の子に生まるる緣第三十九」(同書の掉尾)の話を、以下に全部、電子化する。所持する角川文庫の板橋倫行校注(昭和五二(一九七七)年十五版)を一応の底本としたが、読みの一部を送り仮名に出し、また、一部を所持する「新潮古典集成」版の読みに変えた(原本は漢文)。読点・記号を追加し、段落を成形した。一部で私の判断で歴史的仮名遣で読みを推定で入れてある。それは《 》を使った。

   *

   智行並び具する禪師、重ねて人の身を得て、

   國皇の子に生まるる緣第三十九

 釋の善珠禪師は、俗姓、「跡(あと)の連(むらじ)」なり。母の姓を負ひて、跡の氏と爲る。

 幼き時、母に隨ひて、大和の國山邊(やまべ)の郡《こほり》磯城嶋(しきしま)の村に居住《すまひ》せり。

 得度して精懃(ねんごろ)に修學し、智行、隻(なら)びたもつ。皇臣に敬せられ、道俗に貴《たふと》ばる。法を弘《ひろ》め、人を導きて、行業(ぎやうごふ)とす[やぶちゃん注:以上の内容を自身の成すべきことと決めて精進することを言う。]。ここをもちて、天皇《すめらみこと》、其の行徳を貴び、僧正に拜任す。

 かの禪師の頤(おとがひ)の右の方に、大きなる黶(ははくそ)[やぶちゃん注:黒子(ほくろ)。]有り。

 平城の宮に、天《あめ》の下、治めたまひし山部の天皇の御世、延曆十七年[やぶちゃん注:七九八年。]の比頃(ころほひ)、禪師善珠、命終(いのちをは)る時に臨みて、世俗(よのひと)の法に依りて、飯占(いひうら)を問ひし時、神靈(もの)、卜者(かみなぎ)に託(くる)ひて言はく、

「我、必ず、日本の國王の夫人(ぶにん)丹治比(たぢひ)の孃女(をむな)の胎(はら)に宿りて、王子に生まれむ。吾が面(おも)の黶、著きて、生まれむを以て、虚實《こじつ》を知らむのみ。」

といふ。

[やぶちゃん注:「飯占」諸本未詳とする。私は竹筒に穴を開けて米に入れて粥を作り、竹の中にどのように粥が入ったかを見てその年の稲の出来高を占うというある地方の習俗を、かなり昔、NHKのドキュメントで見た記憶がある。これもそれに類似したものではなかろうか? 「託(くる)ひて」霊が憑依して。]

 命終はりし後《のち》、延曆十八年の比頃に、丹治比の夫人、一(ひとり)の王子を誕生す。其の頤の右の方に、黶、著くこと、先の善珠禪師の面の黶の如くにして、失せずして、著きて生まるるが故に、名を「大德(だいとこ)の親王(みこ)」と號(なづ)く。

 然して、三年許りを經(へ)、世に存(ながら)へて、薨(まか)りぬ。向(むか)へ飯占を問ふ時に、「大徳の親王」の靈(みたま)、卜者に託ひて言はく、

「我は、是れ、善珠法師なり。暫くの間、國王の子に生まるるのみ。吾が爲に香を燒(た)きて供養せよ。」

といふ。

 是の故に、當に知るべし、善珠大德、重ねて人身を得て、人王(にわう)の子に生まれしことを。

 内敎《ないきやう》に言はく、『人、家々《いへいへ》なり。』といふは、其れ、斯れを謂ふなり。是れも亦、奇異《あや》しき事なり。

[やぶちゃん注:「内敎」釈迦の教え。仏典。但し、ここでは、以下の引用から「倶舎論」(くしゃろん)を指す。]

 また、伊與(いよ)の國、神野(かみの)の郡《こほり》の部内《ぶない》に、山、有り、名を「石鎚(いしづち)の山《やま》」と號く。是れ、卽ち、かの山に「石槌の神」ありての名なり。

[やぶちゃん注:「伊與(いよ)の國、神野(かみの)の郡の部内」「新潮古典集成」頭注に、『大同四年(八〇九)に新居(にいい)郡と改称する(『類聚国史』)。いま愛媛県西条市・新井浜市。』とある。この附近(グーグル・マップ・データ)。

「石鎚(いしづち)の山」ここ(グーグル・マップ・データ)。]

 其の山、高く崪(さが)しくして[やぶちゃん注:嶮(けわ)しくて。]、凡夫は登り到ることを得ず。ただし、淨行《じやうぎやう》の人のみ、登り到りて居住(ゐとどま)れり。

 昔、諾樂(なら)の宮に二十五年、天の下、治めたまひし、勝寶應眞(しようほうしようしん)聖武太上天皇(たいじやうてんわう)の御世、また、同じ宮に、九年、天の下治めたまひし帝姬(ていき)阿陪(あべ)の天皇(すめらみこと)[やぶちゃん注:孝謙天皇。]の御世に、かの山に、淨行の禪師、有りて、修行す。其の名を「寂仙菩薩」とす。其の時の世の人、道俗、かの淨行を貴ぶ。故に、「菩薩」と美-稱(たた)ふ。

 帝姬の天皇の御世、九年寶字二年の歲(ほし)の戊戌(つちのえいぬ)に次(やど)れる年に、寂仙禪師、命終はる日に臨みて、文《ふみ》に留(とど)め錄(しる)し、弟子に授け、告げて言はく、

「我が命終はりてより以後、二十八年の間を歷て、國王の子に生まれて、名を『神野』とす。ここをもちて、當に知るべし、我《われ》寂仙なることを云々」

といふ。

[やぶちゃん注:「寂仙菩薩」既にリンクでお判りの通り、底本の板橋先生の脚注に、『文德實錄の嘉祥三年五月の條には上仙とある。』とある。

「九年寶字二年」「新潮古典集成」頭注に、『天平宝字二年(七五八)。孝謙天皇在位十年目に当り、「九年」は「天平」の誤りか(虎尾俊哉説)』とある。]

 然して、二十八年を歷て、平安の宮に、天の下、治めたまひし山部の天皇[やぶちゃん注:桓武天皇。]の御世、延曆五年の歲の丙寅に次(やど)れる年に、則ち、山部の天皇の皇子に生まれ、其の名を「神野の親王」とす。今、平安の宮に十四年、天の下、治めたまふ賀美能(かみの)の天皇、是れなり[やぶちゃん注:後の嵯峨天皇。]。

 ここをもちて、定めて知る、此は聖君なることを。

 また、何をもちて、聖君なることを知るか、とならば、世俗(よのひと)の云はく、

「國皇(こくわう)の法は、人を殺す罪人は、必ず、法に隨ひて、殺す。しかるに、この天皇は、弘仁の年號を出《いだ》して、世に傳へ、殺すべき人を、流罪となし、その命を活かし、もちて、人を、治めたまふ。ここをもちて、あきらかに『聖君《せいくん》』なることを知るなり。」

といふ。

或る人は、

「聖君に非ず。」

と誹謗す。

「何を以ての故に、とならば、此の天皇の時に、天《あめ》の下《した》、旱厲(かんれい)[やぶちゃん注:旱魃や疫病。]有り。また、天《てん》の災《わざはひ》、地《くに》の妖《わざはひ》、飢饉の難、しげし。また、鷹と犬とを養ひ、鳥・猪・鹿を取る。是れ、慈悲の心に、非ず。」

といふ。

 是の儀、然らず。

 食(を)す國の内の物は、みな、國皇《こくわう》の物にして、針指すばかりの末《すゑ》だに、私《わたくし》の物、かつて、無し。國皇とは「隨自在(ずゐじざい)」の義たればなり。百姓たりといへども、敢へて誹(そし)らむめや。

 また、聖君尭・舜の世すら、なほ、旱厲ありき。故に、誹るべからざるなり。

   *

『國皇とは「隨自在(ずゐじざい)」の義たればなり。』は板橋先生の脚注に、『國皇とは何等拘束される所の無い者の意味だからだ。』とある。

   *

「旦越(だんをつ)」「檀越」に同じ。檀那。檀家。檀主。サンスクリット語「ダナ・パティ」(「施主」の意)の漢音写。僧のために金品などを施す信者。「だんおち」「だんえつ」「だんのつ」などとも読む。

「降誕(がうたん)」古くは、かく、「ごうたん」とも読んだ。 神仏・高僧・聖人・偉人・帝王・皇族などが生まれること。「降生」(こうしょう)とも言う。]

大和怪異記 卷之一 第九 豊後の国頭峯の事・第十 同国田㙒の事

 

[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の分はここ。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。

 挿絵があるが、これは「近世民間異聞怪談集成」にあるものが、状態が非常によいので、読み取ってトリミング補正し、適切と思われる箇所に挿入する。因みに、平面的に撮影されたパブリック・ドメインの画像には著作権は発生しないというのが、文化庁の公式見解である。

 ここでは、原拠が同じ「豊後国風土記」で、しかも直に続いていることから、「第十 同國田㙒の事」をカップリングした。

 なお、読みの私の添えた一部は、本書の目次及び武田祐吉編「風土記」(岩波文庫一九三七年刊)に拠った。]

 

     第九 豊後の国頭《くび》峯《みね》の事

 

Kubinomine

 

[やぶちゃん注:底本の画像はここ。]

 

 豊後国速見郡(はや《みのこほり》)に頭峯といふ所あり。此峰(みね)の下に水田あり。もとの名を宅(いへた)田と云。鹿、つねに來りて、此田の苗(なへ)をくらふ。田主(たのぬし)、これをとらへ得て、其くびをきらんとするに、しか、こふて、いはく、

「我、今、ちかひを、たつ。若(もし)、大惠(おゝいなるめぐみ[やぶちゃん注:ママ。])をたれて、死をゆるさば、我《わが》子孫にいたるまで、苗をくらはしむること、なからん。」

と。

 田主、此怪異におどろき、きらずしてこれをゆるす。

 それより、このかた、此田のなえ[やぶちゃん注:ママ。]を、鹿、くらはず。

 よつて、「頭田邑《くびたむら》」といふ。此みねを「頭(くび)の峰(みね)」と云。「豊後風土記」

[やぶちゃん注:原拠「豊後国風土記」の原文を国立国会図書館デジタルコレクションの写本の当該部を視認して示す。異体字で示せないものは、最も近い字に代えた。

   *

頚峯在柚富

此峯下有水田本名宅田此田苗子𢈘恒喫之田主造柵伺待𢈘到耒挙己𩒤容柵閒即喫苗子田主捕獲將斬其𩒤于時𢈘請云我今立盟免我死罪若埀大恩得更存者告我子孫勿喫苗子田主於茲大懐恠異殺免不斬因時以来此田苗子不被𢈘喫令獲其實因曰頚田兼爲峯名

   *

以下の訓読文は武田祐吉編「風土記」(岩波文庫一九三七年刊)を参考にオリジナルに訓読した。従って、前掲の原文とは文字だけでなく、異なる部分が、多々、ある(以上の写本は書写時の誤認が疑われる)。

   *

頸(くび)の峯(みね)柚富(ゆふ)の峯の西南に在り。

 此の峯の下に、水田(こなた)、有り。本(もと)の名は「宅田(いへた)」なり。此の田の苗子(なへ)を、鹿、恆(つね)に喫(くは)へり。

 田の主(ぬし)、柵(き)を造りて、伺ひ待ちしに、鹿、到-來(きた)りて、己(おの)が頸を擧げて、柵の閒(あひだ)に容(い)れ、卽ち、苗子を喫(くら)ひしかば、田の主、捕-獲(とら)へて、其の頸を斬らむとしき。

 時に、鹿、請(こ)ひて云へらく、

「我れ、今、盟(うけひ)を立てむ。我が死ぬる罪(つみ)を免(ゆる)し、若(も)し、大きなる恩(めぐみ)を埀れて、更(また)在(い)くることを得しめば、我が子孫に告げて、苗子を喫ふこと、勿(な)からしめむ。」

と。

 田の主、茲(ここ)に、大(いた)く、

『恠異(あや)し。』

と懷(おも)ひて、赦免(ゆる)して斬らざりき。

 時(それ)より以來(このかた)、此の田の苗子、鹿に喫(く)はえず、其の實(みのり)を獲(え)しむ。

 因りて、「頸田(くびた)」と曰ひ、兼ねて、峯の名と爲(な)せり。

   *

この「盟(うけひ)」は、この場合は「誓約」に同じ。

「豊後国速見郡」「頭の峯」現在の大分県の旧速見郡は別府市を中心とした広域(グーグル・マップ・データ)である。国立国会図書館デジタルコレクションの後藤蔵四郎著「肥前国豊後国風土記考証」(昭和八(一九三三)年大岡山書店刊)のこちらによれば、『柚富峯』(現在の由布岳)『の西南とあるから、今の野稻嶽に當であらう』とある。大分県由布市湯布院町川西の野稲岳(グーグル・マップ・データ)である。

 

「頸田」は見当たらなかったが、試みに、「Stanford Digital Repository」のこちらで戦前の地図をみたところ、この野稲岳を下った東北東の旧村名に「鹿出」とあるのを見つけた。]

 

 

 第十 同国田㙒《たの》の事

 同国同郡に「田㙒」といふ所あり。むかし、此㙒は、水田にして、地(つち)、肥(こゑ[やぶちゃん注:ママ。])たり。

 其比、豪冨(おゝいにとめる[やぶちゃん注:ママ。なお、この読みは意訓。])の土民あり。家を此所に作《つくり》て住《ぢゆう》す。

 驕奢(をごり[やぶちゃん注:ママ。])のあまりに、餅(もち)をつくつて的(まと)とす。

 此もち、忽(たちまち)、白鳥に化(け)して、南に飛《とぶ》。

 それより、かの土民、家、おとろへ、一族、ことごとく、斷絕し、水も、又、かはけり。

 このゆへに、

「水田に、ならざる。」

とて、「田㙒」と名づくといふ。

[やぶちゃん注:前と同じ電子化をする。割注は底本では二行。

   *

田野在郡西南

此野廣大土地沃腴畔開墾之便与比此土昔者郡内百姓居此野多開水田餘糧宿畝大木者已冨作餅為的于時餅化白鳥発而南飛當年之閒百姓死絕水田不造遂以荒廃自時次降不宜水田今謂田野斯其縁也

   *

訓読も同前。やはり、以上の原文は複数の書写の誤りが認められる。

   *

田野郡の西南に在り。

 此の野は廣く大きにして、土地(つち)、沃-腴(こ)えたり。開墾(あらき)の便(たよ)り)、この土(くに)に比(たぐ)ふものなし。

 昔、郡内(くぬち)の百姓、此の野に居(を)りて、多く、水田を開き、糧(かて)を餘(あま)して、畝(うね)に宿(とど)め、已(はなは)だ富みて、大(いた)く奢(おご)り、餅(もちひ)を作りて、的(まと)と爲(な)しき。

 時に、餅、白鳥と化(な)りて、發(た)ちて、南に飛びき。

 當年(そのとし)の閒(あひだ)に、百姓、死に絕えて、水田を造らず。

 遂に、荒れ、廢(う)てたりき。

 時より、以降(このかた)、水田に宜(よろ)しからず、今、「田野(たの)」と謂へるは、斯-其(そ)の緣(ことのもと)なり。

   *

「廢(う)て」「棄(う)つ」に同じ。「遺棄する」「捨てる」の意。しかし、「学研全訳古語辞典」には例を「古事記」の「神代」から、「次に、投げうつる御帯(みおび)に成りませる神」とした後に、附説し、『「うつ」の単独用例はなく、他の動詞と複合して用いられる。「投げうつ」「脱ぎうつ」「流しうつ」など』とある。とすると、ここは「荒らし廢(う)てたりき」と読まにゃならんとですかね? 武田先生?

「同國」(前の豊後国)「同郡」「田㙒」前掲の「肥前国豊後国風土記考証」のここに、次のページに続く恐ろしく詳しい考証が載る。本書は保護期間満了であるから、以下に総て電子化する。頭の注記号は外した。

   *

田野(タノ) 湯布嶽の西南に於いて、今の溫湯(ヌルユ)・石松・乙丸等の地方に當るであらう。此の地、今は村落も水田もあるが、豐後國志には、次の如くある。

[やぶちゃん注:以下の引用は底本では全体が一字下げ。]

嶽下池(ダケノシタイケ)は由布山の西趾(ニシノフモト)にあり。又、溫湯(ヌルユ)といふ。池舊(モト)廣漠(ヒロク)、湖の如し。慶長中、地震の時、由布嶽の西北、椿山崩壞し、溫湯、石松、乙女、數村の民屋、皆地下に湮滅す、人畜死亡すること、其數を知らず、池も併せ沒し、僅かに二百餘步(ブ)を殘す。

慶長二年より七百三十年前の貞觀九年正月二十二日には、由布嶽の東隣の鶴見山が爆發して、磐石飛び亂れ、沙泥雪の如く散り、數里に積るといふ。これ等に類することにより、往者[やぶちゃん注:「そのかみ」と当て訓したい。]、開墾せられた田畑が、火山の爆發によつて、荒廢に歸したものかと思はれる。それから、塵添壒囊抄(卷三)に次の如くある。

[やぶちゃん注:同前。]

昔、豐後國玖珠郡、廣キ野アル所ニ、大分郡ニ住ム人、其野ニ來リテ、家ツクリ、田ツクリテ、スミケリ。アリツキテ、家富ミ、樂シカリケリ。酒ノミアソビケルニ、トリアヘズ、弓ヲ射ケルニ、的ノナカリケルニヤ、餅ヲククリテ、的ニシテ、射ケルホドニ、其餅、白キ鳥ニナリテ、飛去リニケリ。其ヨリ後、次第ニ衰ヘテ、マドヒウセニケリ。アトハ、空キ[やぶちゃん注:「むなしき」]野ト、ナリタリケルヲ、天正年中ニ、速見郡ニ住ミケル、訓邇(クニ)ト云ケル人、サシモ能ク、ニギハヒタリシ所ノ、アセニケルヲ、アタラシヤト思ヒケン、此ニワタリテ、田ヲツクリタリケルホドニ、其苗皆失セケレバ、驚キオソレテ、又トツクラズ、ステニケリト云ヘル事有。云々。

箋釋には、壒嚢抄を參照して、この風土記の田野の條は、玖珠郡にあるべきが、誤つて速見郡に入つたのではあるまいかと疑つてある。玖珠郡の今の飯田村に、田野(タノ)といふ地があり、これは九重山(クヂユウサン)の裾野にあたり、その邊を千町蕪川(セオチヤウムダ)といふ。然し、この風土記の田野は、「在郡西南」とあるによれば、今の千町蕪田は、これに合はぬ。速見郡の郡家は、石垣莊にあつたとすれば、その西南にあたる地は、鶴見山の東の裾野か、由布嶽の西南か、又は山布獄の北、今の塚原を中心とする盆地かであらうが、本文記載の模樣によつて考へれば、由布嶽の西南の噸にあたる盆地と思はれる。そこより、少し下つて、野稻嶽の東南に、今、小田野池といふがある。壒囊抄に、玖珠郡とあるのが誤りではあるまいか。

   *

「今の溫湯(ヌルユ)・石松・乙丸等の地方」温湯はこの附近、石松はこの附近で、乙丸はここ(総てグーグル・マップ・データ)。]

大和怪異記 卷之一 第八 猪麿鰐魚をころす事

 

[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の分はここから。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。

 なお、表題の読み「いまろ」はママ。]

 

  第八 猪麿(いまろ)鰐魚(わに)をころす事

 天智天皇の御宇に、出雲の国に、猪麻呂といふものあり。

 かれが女子、同国意宇郡(いうのごほり)安來鄕(あき《のがう》)の北、賣崎(うり《さき》)といへる海邊(かいへん)にあそびて、鰐魚のために、くらはる。

 猪麻呂、かなしみにたえず[やぶちゃん注:ママ。]、此所にいたり、天神(あめつかみ)千五百万(ちいをよろづ)、地祇(くにつかみ)千五百万、ならびに、當國にしづまります、三百九十九(みつあまりもゝこゝのつの)社(やしろ)、及(をよび[やぶちゃん注:ママ。])、海若神(わたつかみ)を、いのりしかば、しばらくありて、沖のかたより、鰐魚、百餘(ももあまり)、ひとつの鰐魚を、とりかこみ、しづかに、よりて、すゝまず、又、しりぞかず。

 此とき、猪广呂[やぶちゃん注:ママ。]、鉾(ほこ)をもつて、かのひとつの鰐魚を、さしころす。

 百餘の鰐魚は、ことごとく、しりぞき、ちる。

 猪麻呂、鰐魚の腹をさくに、女子(むすめ)の、脛(はぎ)ひとつのみ、殘れり。

 ころせるわにをば、串(くし)にさして、路(みち)のかたはらにたてゝ、さらせり。「出雲風土記

[やぶちゃん注:本原拠は、既に南方熊楠 本邦に於ける動物崇拜(23:鮫)」の『懷橘談に、出雲國安來の北海にて、天武帝二年七月、一女鱷に脛を食はる、其父哀しみて神祇に祈りしに、須臾にして百餘の鱷、一の鱷を圍繞し來たる。父之を突殺すに諸鱷去る。殺せし鱷を剖くに女の脛出しと見ゆ』の私の注で、原拠の「出雲風土記」の当該部の原文と訓読文(孰れも私的に表記に手を加えてある)を示してあるので、そちらをまずは参照されたい。

「鰐魚」所謂、本邦沿岸に棲息するサメ類である。前のリンク先の私の注の冒頭を示す。冒頭軟骨魚綱板鰓亜綱 Elasmobranchii のうち、一般にはエイ上目 Batoidea に含まれるエイ類を除くサメ類の内、中・小型のものを指す総称とされるが、大型の種群や個体との厳密な境界はなく、「鱶(フカ)」と混淆して用いられているのが現状である。形態学的に概ね真正の「サメ」を規定しようとするなら、一般的には――鰓裂が体の側面に開く種群の総称――としてもよかろう(鰓裂が下面に開くエイと区別される。但し、中間型の種がいるので絶対的な属性とは言えないので注意が必要である)。一方の「フカ(鱶)」を補足すると、これは、サメ類の内、大型のものの総称である。但し、中小型でも「ふか」と呼ぶケースもあるので、個体の大きさでの区別は無効に近い。但し、超巨大なものを「フカ」と呼ぶのには違和感はないので、そうした限定用法として流通名とは別に「フカ」は生き残るであろうと思われる。ただ、寧ろ、広義の「サメ(鮫)」の関西以西での呼び名が「ふか」であるとした方が判りがいいし、誤解の問題性(サメ種の他にフカ種がいるといった誤認)も少ないと思う。なお、出雲を中心にサメを「わに」と呼ぶ習慣は普通に残っており、特に備北地域(広島県北東部の内陸山間部。三次市・庄原市附近)では、「わに」(=サメ)を用いた古くからの郷土料理もあって、それは「わに料理」と呼ばれている。なお、リンク先の注の最後にも示したが、神田典城(のりしろ)氏の論文『「ワニ」小考』(学習院女子短期大学国語国文学会発行『国語国文論集』(第二十二号・平成五(一九九三)年三月)。こちらでPDFダウン・ロード可能)が、上代の「わに」をすっきりと解き明かしていて、まことによい。お薦めである。

「天智天皇の御宇」在位は天智天皇七(六六八)年から天智天皇一〇(六七二)年。但し、原本では、娘が和爾(わに:鮫)に襲われた時日を、『飛鳥の淨御原(きよはら)の宮(みや)の御宇の天皇(すめらみこと)の御代(みよ)』としており、飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや)はさらに「天智天皇の御宇」という記載はないことから、「天智天皇」は同母弟の次代の天武天皇(在位:天武天皇二(六七三)年~朱鳥(しゅちょう)元(六八六)年)の誤りということになる。「甲戌(きのえいぬ)」は天武天皇三(六七四)年である。因みに、同年「七月十三日」はユリウス暦八月十九日、グレゴリオ暦換算では八月二十二日になる。夏の終りの「鮫」か……今時なら、夏の終りの海辺の太陽族のグレン隊の餌食となったでもいうべきか。個人的には、この話、大和朝廷に従わなかった当地の先住民集団の征服のニュアンスを感ずる。

「猪麻呂」語臣猪麻呂(からりべのゐまろ)。出雲国意宇郡地方の語部(かたりべ)の氏族の長。彼については、本篇原拠の訓読等の諸説を含め、吉野政治氏の論文「語臣猪麻呂(出雲国風土記)の言葉と表記」(『同志社国文学』同志社大学国文学会一九九四年十一月発行・PDF)が詳細を極める。以下、それ以外についてのみの注に留める。

「意宇郡安來鄕」意宇郡(おうのこおり)安來鄕(やすきのがう)が正しいかと思う。

「賣崎(うり《さき》)」原本の『毘賣埼(ひめさき)』のトンデモ誤認。この娘の墓と伝承される毘売塚古墳(前方後円墳)が島根県安来(やすぎ)市黒井田町(くろいだちょう)にある(グーグル・マップ・データ。以下同じ)が、その北直近の中海に岬があり、そのピークを「十神山」という。ここがロケーションの候補となろう。]

2022/11/08

大和怪異記 卷之一 第七 河邊の臣雷神をやきころす事

 

[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の分はここから。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。]

 

 第七 河邊(かはべ)の臣《おみ》、雷神をやきころす事

 推古天皇二十六年八月、河邊の臣を、安藝国につかはして、舶(ふね)をつくらしめらる。

 河邊の臣、好材(よきき)を得て、きらしめむとするに、人、ありて、

「これ、霹靂(かんとき)の木なり。」

と云。

 河邊の臣、

「雷神といふとも、皇命(すへらきのみことのり)を、つかはんや。」

と、いひて、きらしむるに、大雨(《だい》う)、雷電(らいでん)す。

 河邊臣、劔(けん)をとりて、いはく、

「雷神、人夫(《にん》ぶ)を、おかす事、なかれ。まさに、我身を、やぶるべし。」

と、いひて、待(まつ)に、雷神、おかす事、あたはず。

 小魚となりて、樹の枝に、はさまれり。

 則《すなはち》、魚(いを)を取《とり》て、やきころし、つゐに[やぶちゃん注:ママ。]其木をもつて、船をつくる、と云。

[やぶちゃん注:最後の「同」は、前話の「同」で、原拠を「日本書紀」とすることを意味する。原文は推古天皇二十六年以下。

   *

廿六年[やぶちゃん注:中略。]、是年、遣河邊臣闕名於安藝國令造舶。至山覓舶材、便得好材、以將伐。時有人曰「霹靂木也、不可伐。」河邊臣曰「其雖雷神、豈逆皇命耶。」多祭幣帛、遣人夫令伐。則大雨雷電之。爰、河邊臣案劒曰「雷神無犯人夫、當傷我身」而仰待之、雖十餘霹靂不得犯河邊臣。卽化少魚、以挾樹枝。卽取魚焚之。遂脩理其舶。

   *

細かいことを言うと、この言説の頭部分は、あくまで「是年」である。この前の叙述は推古天皇「廿六年秋八月癸酉朔」で高麗が遣わした貢献の品物に係わる記載であるが、この前の話で見た通り、ある事件の凶兆を、事件があった後にやおら出すような書物が「日本書紀」である。されば、この出来事を「八月」と規定するのは、とんでもハップンである。

国立国会図書館デジタルコレクションの昭和六(一九三一)年岩波書店刊黒板勝美編「日本書紀 訓讀」下巻で示すと、ここの左ページ二行目から。

「推古天皇二十六年」六一八年。

「河邊の臣」『國學院大學「古典文化学」事業』の「氏族データベース」の「川辺臣」でも、この記事の人物を『名不詳の河辺臣が安芸国に派遣され、造船のことを管掌している』と記すだけである。但し、次注参照。

「安藝国」この場所はどこだろうかと調べてみると、まさに、現在の広島県三原市本郷町(ほんごうちょう)船木(ふなき:グーグル・マップ・データ)に、文字通り、菅霹靂(すがへきれき)神社という神社が現在もあることを発見した。この三拍子揃ったそれは、本話とは偶然とは思われない。さらに、調べるに、個人サイト「神社の世紀」の「かむとけの木から(1)【河辺臣と霹靂の木】」、及び、その続編(2)の考証が見つかった((2)(2)では、先に私がこちらの注で電子化した「日本靈異記」の「雷(いかづち)を捉ふる緣第一」にも言及がある。このシリーズは以降も(6)までは続く)。その(1)に、この菅霹靂神社の縁起はまさに、「日本書紀」に由来するものとされており、『由緒を刻んだ石碑には』、「日本書紀」の本『記事の後を次のようにつづけている』。『「霹靂(かんとけ)の木は周囲十周、高さ百二十丈もある大木で、高天原より神が降臨される神木として崇められ、雷は雷鳴と共に雨をもたらし、耕作の豊穣と結びつけ農業の神として信仰があった」。『雷神のたたりを畏れた村人が』、『神々を勧請し、社号を船材敏(ふなきと)神社とし、船木郷の産土神としてまつられたといわれている』。『船木郷で造られた船は遣唐使船として活躍し、唐(中国)の文化を導入し、我が国、文化の水準を高め、国内改革の促進に貢献したと言われている』とあるのである。さらに、『河辺臣の出身氏族、河辺氏の本拠地は河内国石川郡川辺野(大阪市平野区長吉町ふきん)である。そこは住吉大社から東に』八キロメートル『程度しか離れておらず、こうした地縁関係から河辺臣と船木氏に関係があったとしてもおかしくないのだ』とされ、『また、由緒書きでは河辺臣が切り倒した霹靂の木は遣唐(随)使船の材料としてつかわれたことになっているが、実際のところどうだったのか。河辺臣は闕名だが、たぶん』、『推古天皇三十一年』(六二三年)『条で新羅征討に加わった副将軍の河辺臣禰受と同一人物だろう。してみると、霹靂の木は』、『この時の軍船に使用された可能性が高い。総じて、神功皇后の伝承に登場するエピソードをはじめとして、航海神である住吉神は古くから新羅出兵との関係が深かった。したが』って、『ここにも住吉神が管轄する杣山の管理をしていた船木氏と、推古天皇二十六年の記事のつながりが感じられる』。『こうしたことから』、『河辺臣と霹靂の木の記事の舞台となったことを主張する菅霹靂神社の由緒には、それなりの信憑性が感じられる。その場合、霹靂の木を伐ろうとした河辺臣を止めようとした人物は船木氏の者であったと考えられる』とされる。因みに、最後の写真のキャプションのように、『平凡社の「広島県の地名」によれば、当社には河辺臣を祀る河辺神社という境内末社があるとあったが』、『見つからなかった』とあった。ここに出る河辺禰受(かわべのねず 生没年未詳)は飛鳥時代の武人で、引用者も記すように、「日本書紀」によれば、征新羅副将軍となり、大将軍境部雄摩侶(さかいべのおまろ)や中臣国(なかとみのくに)らとともに、数万の軍を率いて新羅を攻めたとする先の『國學院大學「古典文化学」事業』の「氏族データベース」の「川辺臣」でも、彼は小徳(冠位十二階の第二位)の『地位にあり、国内においても有力な氏族であった』とあるのである。

「霹靂の木」「雷神の宿る神木」の意であろうが、そう名ざされ、しかも河辺が造船の良材と考えたからには、落雷を受けた木で、しかも、その痕を残しつつ、枯れることなく、すっくと聳えてたっている雷神の聖痕(スティグマ:stigma)を持つ聖樹という謂いであろう。

「人夫」黒板版で「おほむたから」と訓じているので判る通り、「人民・庶民一般」を指す。「にんぶ」は、古い読み方で、「にんぷ」より遙かに正しい。

「我身」言わずもがなだが、川辺の臣自身を指す。

「小魚となりて、樹の枝に、はさまれり。則、魚(いを)を取て、やきころし」という箇所には、何らかの重要なメタファーが潜んでいる。雷神がしょぼい「小魚」になるというのは、いかにも面白い。]

大和怪異記 卷之一 第六 猿うたをよむ事

 

[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の分はここ。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。【 】は二行割注。歌の読みの表記はママ。]

 

 第六 猿うたをよむ事

 皇極天皇三年夏六月、大和國志紀郡(しきのこほり)より、まうさく、

「ある人、三輸山にをゐて[やぶちゃん注:ママ。]、猿のねぶれるを見、ひそかに、其ひぢをとらふるに、さる、寄《より》て、いはく、

武鮒都烏尒(むかつをに)【向峯(むかひのみね)なり。】陀底屡(たてゐ)【「立《たて》る」也。】制羅我伱古弥挙(せらがにこねこ)【能寢《よくねる》なり。】倭我底鳴(わがてを)【「我手」なり。】騰羅毎(とらめ)【「取」也。】拖我佐基泥(たがさきて)【「誰前來(たがさきき)」也。】基佐泥曾母㙒(きさぢそもや)【「不ㇾ來《きたらず》」也。】倭我手(わがてを)【「我手」也。】騰羅須謀也(とらずもや)【「取」也。】

其人、おどろき、猿の哥《うた》を、あやしみ、すてゝ、さる。」

と云。同・「釈日本紀」

[やぶちゃん注:「同」は、今までの話と同じく原拠は「日本書紀」の意。ここでは、今一冊、「釈日本紀」をともに参考したことを示す。「釈日本紀」は日本書紀]全三十巻に亙る纏まった注釈書としては、現存最古のもので、目録と合わせて全二十九巻。卜部兼方(うらべかねかた 生没年未詳:鎌倉時代の神道家。弘安から嘉元(一二七八年~一三〇六年)頃の人で、神祇権大副(じんぎのごんのたいふ)兼(けん)山城守(やましろのかみ)。名は懐賢とも書く)の著になる。内容は「開題」・「注音」・「乱脱」・「帝皇(ていおう)系図」・「述義」・「秘訓」・「和歌」の七部立で、詳しく注釈している。その父兼文(けんふみ)が文永十一年から建治元年(一二七四年~一二七五年)頃に前関白一条実経に進講した講義案をもとに、これに平安初期以降、宮廷で行われた講書の私記やその他の旧説を参照して、正安二(一三〇〇)年頃、纏め上げたと推定されている。他にみえない各種古典を豊富に引用するなど、その価値は大きい(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。

 「日本書紀」の原文は皇極天皇三年の条の一節。

   *

夏六月[やぶちゃん注:中略。]乙巳、志紀上郡言、有人於三輪山、見猿晝睡、竊執其臂、不害其身。猿猶合眼歌曰、

 武舸都烏爾、陀底屢制囉我、儞古泥舉曾、倭我底烏騰羅毎、拕我佐基泥、佐基泥曾母野、倭我底騰羅須謀野。

其人驚怪猿歌、放捨而去。此是、經歷數年、上宮王等、爲蘇我鞍作、圍於膽駒山之兆也。[やぶちゃん注:以下略。]

   *

国立国会図書館デジタルコレクションの昭和六(一九三一)年岩波書店刊黒板勝美編「日本書紀 訓讀」下巻で示すと、ここの左ページ最終行から、次のコマ。「日本書紀」では既に起こってしまった事件の、それよりも前に起こっていた事件の凶兆であったとする。事件とは、「蘇我鞍作」(くらつくり)=蘇我入鹿の山背大兄王襲撃を指す。ウィキの「蘇我入鹿」に、皇極天皇二年十一月一日(六四三年十二月二十日)、入鹿は百名の『兵に、斑鳩宮の山背大兄王を襲撃させた。山背大兄王が皇位継承を望まれなかったのは、山背大兄王が用明天皇の』二『世王に過ぎず、既に天皇位から離れて久しい王統であったからであり、加えて、このような王族が、斑鳩と言う交通の要衝に』、『多数』、『盤踞して、独自の政治力と巨大な経済力を擁しているというのは、天皇や蘇我氏といった支配者層全体にとっても望ましいことではなかったからであ』った。『山背大兄王』『斑鳩宮から脱出し、生駒山に逃亡した』が、『結局、山背大兄王は生駒山を下り』、『斑鳩寺に入』って、十一月十一日(十二月三十日)、『山背大兄王と妃妾など一族はもろともに首をくくって自害し、上宮王家はここに絶え』たとある事件である。事件を既定にして必然のものとし、後出しで凶兆とするえげつない記載方法が透けて見えるわけである。

 「釈日本紀」のそれは、早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらの版本(巻一括版PDF)の40から41コマ目にある。なお、ここを見ると、実は「日本書紀」の先立つ皇極天皇二年冬十月の条に、やはり、曽我臣入鹿が、上宮(聖徳太子)の皇子らを廃して、舒明天皇の皇子古人大兄(ふるひとのおおえ)を立て、天皇にしようとした際、巷間の童謡(わざうた)として、異様に類似した、

   *

伊波能杯儞(いはのへに)古佐屢渠梅野俱(こさるこめやく)渠梅多儞母(こめだにも)多礙底騰衰囉栖(たきてとほらせ)歌麻之々能烏膩(かましのをぢ)

   *

があることが判る(黑板版訓読ではここの右ページ末)。確信犯の操作も、ここまでくれば、なかなか大したもんだ。この歌については、サイト「日本神話・神社まとめ」の「皇極天皇(日本書紀)」の「皇極天皇(十四)蝦夷は紫冠を入鹿に・祖母が物部弓削大連の妹・古人大兄を天皇に画策」に、

   《引用開始》

岩の上(ヘ)に 小猿(コサル)米(コメ)焼く 米だにも 食(タ)げて通(トオ)らせ 山羊(カマシシ)の老翁(オジ)

 

歌の訳 岩の上で小猿がコメを焼いている。その焼いた米だけでも食べて行きなさいよ。山羊(=カモシカ)のように白い髭を生やしたおじいさんよ

 

蘇我臣入鹿は上宮(=聖徳太子)の王(=子供)たちの名声があり、天下に広がっていることを忌み憎み、一人、臣の職権を越えて行こうと計画していました。

   《引用終了》

とある。序でなので、本篇の歌も同サイトのこちらから、引用させて貰う。

   《引用開始》

向(ムカ)つ嶺(オ)に 立てる夫(セ)らが 柔手(ニコデ)こそ 我が手を取らめ 誰(タ)が裂手(サキデ) 裂手そもや 我が手取らすもや

 

歌の訳 向かいの山に立ってる男の柔らかな手で、私の手を取るのはいいのだけど、誰か分からない、この裂けたゴワゴワした手! こんなゴワゴワした手が、私の手を取るのでしょうかね!

   《引用終了》

「大和國志紀郡」この附近(グーグル・マップ・データ)。]

大和怪異記 卷之一 第五 文石小麿狗に化る事

 

[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の分はここ(標題は前のコマ)。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。]

 

 第五 文石小麿(あやしの《おまろ》)狗(いぬ)に化(ばけ)る事

 

 雄略天皇十三年秋八月、播磨国の御井隈(みゐぐま)の人、文石小麻呂といふもの、力、つよく、心、肆(ほしいまゝ)にして、暴虐(あらくしへたたくる)の所爲(しよゐ)あるにより、天皇、春日小野臣大樹(かすがをのゝ《おほ》き)に、百人の兵を添(そへ)て、せめしめ給ふ。

 大樹、文石が宅をかこんで、燒(やく)ときに、火炎(ほのほ)の中より、白狗(しろいぬ)出《いで》て、大樹臣を逐(をふ[やぶちゃん注:ママ。])。

 其大《おほき》さ、むまのごとし。

 大樹臣、刀をぬいて、かの狗を、きりころせしかば、文石の小麻呂となりぬ。

[やぶちゃん注:最後の「同」は前の話と「同」で、「日本書紀」が原拠であるが、文石小麻呂の悪虐の具体な内容が省略されてある。原文は以下。

   *

秋八月、播磨國御井隈人、文石小麻呂、有力强心肆行暴虐、路中抄劫不使通行、又斷商客艖䑧悉以奪取、兼違國法不輸租賦。於是天皇、遣春日小野臣大樹、領敢死士一百並持火炬、圍宅而燒。時、自火炎中、白狗暴出、逐大樹臣、其大如馬。大樹臣、神色不變、拔刀斬之、卽化爲文石小麻呂。

   *

国立国会図書館デジタルコレクションの昭和六(一九三一)年岩波書店刊黒板勝美編「日本書紀 訓讀」中巻で示すと、ここの左ページ最終行の途中から次のコマにかけてである。それを参考にカット部分を訓読すると、

   *

路(みち)の中(なか)に抄劫(ちゐ)しつつ、通(かよ)ひ行かしめず、又、商客(あきびと)の艖䑧(ふね)を斷(た)へて、悉くに、以つて、奪ひ取れり。兼ねて、國法に違(たが)ひて、租賦(たちから)を輸(すす)めず。

   *

「抄劫」は音「シヤウコウ」で、「掠奪」の意、「租賦」(ソフ)は、役所が人々に割り当てる租税や年貢。「租」は「田畑や土地にかかる年貢」を指し、「賦」は「労役や物品による貢(みつぎ)」の意である。

 それにしても、狼男のような人狼伝説というのは、あまり本邦では例を見ないのではないか? そそられる話柄ではある。

「御井隈」一説に現在の兵庫県姫路市青山のこの中央附近(グーグル・マップ・データ)に比定されているようである。

「文石小麻呂」ここに出る以外に事績不詳。

「小野臣大樹」同前。]

大和怪異記 卷之一 第四 螺蠃大蛇を捉事

 

[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の分はここ。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。【 】は二行割注。]

 

 第四 螺蠃(すがる)、大蛇(おろち)を捉(とらふ)事

 雄略天皇七年七月、天皇、少子部連螺蠃(すくなこべのむらじすがる)に詔(みことのり)して、のたまはく、

「朕(われ)、三諸岳(みもろだけ)の神のかたちをみむことを思ふ。汝、膂-力(ちから)、人に過(すぎ)たり。みづから行(ゆき)て捉え[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]、來(きた)るべし。」

 螺蠃、すなはち、三諸岳にのぼりて、大《おほい》なる蛇(おろち)を捉えて、天皇に奉る【一本に、「大蛇、七丈余」。】。

 其雷(かみ)、虺虺(ひかり ひろめき)、目精(まなこ)、赫々(かゝやく)。

 天皇、をそれて[やぶちゃん注:ママ。]、目(め)を蔽(おゝひ[やぶちゃん注:ママ。])て、見たまはず、殿中(でん《ちゆう》)にかくれ入《いり》給ひ、其神をば、岳(おか[やぶちゃん注:ママ。])にはなたしめ給ひ、改めて、名をたまはりて、「いかづち」とす。

[やぶちゃん注:最後の「同」は前の話と「同」で、「日本書紀」が原拠。「螺蠃」の「蠃」の字は、一貫して、中央の横長の「口」が「罒」で、下部の中央の「虫」が「果」になったものだが、「グリフウィキ」の「蠃」の異体字画像にも、この字は似ているものさえ、ない。正字で示した。また、「少子部」の「部」も、「グリフウィキ」の「部」の異体字である、(つくり)の「おおざと」だけの表字であるが、これも表示不能なので、一般的な「部」に直した。

「少子部螺蠃」小学館「日本大百科全書」を主文として示す。「小子部連」は、雷神招迎などの豊饒祭祀を行い、また、職能集団である小子部(少年によって組織され、宮門の護衛や宮中での雑務或いは雷神制圧を任務としたと思われる)を率いて、天皇側近の雑役・護衛に当たり、軍事的側面をも持つに至った氏族。藤原宮跡出土の木簡に「小子部門」(ちいさこべのもん)と記述するものがあり、門号氏族でもあったことが判っている。また、この「螺蠃(すがる)」は、雄略朝にかけて、この氏族の祖と語られる伝承的人物で、「雄略紀」の本篇の記載の直前には、天皇から養蚕のために蚕(こ)を集めることを命ぜられたが、誤って嬰児(わかご)を集めて大笑いされ、その養育を申しつけられ、「小子部連」という姓(かばね)を賜ったとあり、先の少年職能集団起源の神話的変形が見出せる。また、ここにある通り、天皇のために三諸岳(みもろのおか)の雷神を捕らえ、これを放ったことから、「雷」(いかずち)の名を賜ったとされる。この「雷」は「新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)」の「秦忌寸(はたのいみき)」の条に、隼人(はやと)を率いて、諸国に離散した秦(しん)の民を集めた人とも語られている。雷神捕捉の話は「日本霊異記」の第一話にもあり、そこでは、螺蠃が、死後も、その墓柱で雷神を押さえ捕らえていることになっている。これら雷神捕捉の話は、本来は小子部連の雷神招迎の祭祀に基づいて成立したものと考えるべきである、とある。

 なお、この「螺蠃(すがる)」という古語は、現在の狩り蜂として知られる細腰(ハチ)亜目アナバチ科ジガバチ亜科ジガバチ族Ammophilini のジガバチ類を指す(博物誌は私の「和漢三才圖會卷第五十二 蟲部 蠮螉」を参照)。では、何故、ジガバチなのか? これは、加藤良平氏の「古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集) ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ」の『雄略紀「少子部連蜾蠃」の物語について─「仍改賜名為雷」の解釈を中心に─』が面白い音による洒落説を挙げておられる(注12はリンク先で確認されたい)。

   《引用開始》

 この一連の話がどうして蜾蠃(すがる)という人物に託されて語られているのか。大系本日本書紀には、「蜾蠃は万葉一七三八に「腰細の須軽娘子」とあり、腰の細いジガバチの類の称。捕えた虫を地中の巣にくわえこんで子を養う習性が目立つため、「巣借る」と呼んだものか。少子部(小子部)は明らかでないが、恐らく子部(児部)と同様に天皇の側近に奉仕する童子・女孺らの資養費を担当する品部で、その管理者たる連の祖としてスガルの名を思いついたのであろう。」(354頁補注)、新編全集本日本書紀には、「『爾雅』釈虫に「蜾蠃、郭注曰、即細腰、𧔧也、俗呼為二蠮螉一」。腰の細いジガバチという虫。捕えた虫をくわえて巣に運び、子を養う習性をもつ。少子部蜾蠃のスガルも、この虫の習性から考えついた説話上の名であろう。子部(児部)は、天皇側近の童子・女嬬らを資養する品部。その管理者が少子部(小子部)連。他に、『姓氏録』や『霊異記』上・一話などにもスガル伝承説話を載せる。」(167頁頭注)とある。佐佐木1995.では、「人名のスガルが土蜂の呼称の「蜾蠃」から離れて動詞のスガル・ツガルを想起させ……、その名を持つ人物が天皇の言った「蠶」を「兒」と混同したという筋立てを持つ[第1話]……の伝説が成立した可能性を想定することもできる」(238頁)し、また、「この伝説の成立を、動詞スガル・ツガルが持っていたと推定される「からむ」「まつわり付く」あるいは「いつわる」「ことばを誤る」などの意への連想が働いたということで説明せずに、これらの動詞が持っていた「つながる」「くっつく」あるいはそれと連続する「あつまる」意への連想が働いたということで説明することも、一方では可能である。」(240頁)など、動詞からのトートロジー的定義を含めた解釈の可能性を示唆している(注1)。

 第1話について諸氏の解釈はほぼ同様である。話は単純で、「蚕(こ)」と「児(こ)」とを取り違えたことのために、少子部連という姓としたとするものである(注2)。管見にして指摘されているか不明な点として、後述のとおり蜾蠃(すがる)と呼ばれるのはジガバチのことで、それはジガジガ(似我似我)と鳴いていると観念されていたらしいこととの関連である。蜾蠃(すがる)という人物に対して天皇は、「蚕(こ)」を聚めてくるように命じている。命じられた蜾蠃(すがる)という人物にしてみれば、いくら何でも「蚕(こ)」にジガジガ(似我似我)と鳴いて我に似るように迫ったところで、蚕が人間に似るはずはなかろうと思っている。だから、天皇の意図は、「児(こ)」を聚めてくることを求めているに違いないと考えて行動したのであろうとわかる。ジガバチが似我蜂の意であると想定されていると認められるとすると、雄略朝と措定される記述に中国語の洒落が通底していることになる。ヤマトコトバの歴史において、漢音の漢語を採り入れた最初期のものが、なんと洒落であったと指摘できる。しかし実は洒落のような言い回しにこそ、外国語が流入して汎用される契機はあったのであろう。時は無文字時代である。無文字の人にとっての他言語との交わりとはどのようなものであるか、本質を鋭く突く事象として特筆されるべきであろう。

   《引用終了》

とあって、甚だ、首肯出来る考証である。

 では、まず、原典の「日本書紀」を、以上の解説との絡みから、直前の話柄から引く。

   *

三月辛巳朔丁亥、天皇、欲使后妃親桑以勸蠶事。爰命蜾蠃【蜾蠃、人名也。此云須我屢。】、聚國內蠶。於是蜾蠃、誤聚嬰兒奉獻天皇、天皇大咲、賜嬰兒於蜾蠃曰、「汝宜自養。」。蜾蠃卽養嬰兒於宮墻下。仍賜姓爲少子部連。夏四月、吳國遣使貢獻也。

七年秋七月甲戌朔丙子、天皇詔少子部連蜾蠃曰、「朕、欲見三諸岳神之形。」【或云、「此山之神爲大物主神也。」。或云、「菟田墨坂神也。」。】。汝、膂力過人、自行捉來。」。蜾蠃答曰、「試往捉之。」。乃登三諸岳、捉取大蛇、奉示天皇。天皇不齋戒。其雷、虺々、目精、赫々。天皇畏、蔽目不見、却入殿中、使放於岳。仍改賜名爲雷。

   *

国立国会図書館デジタルコレクションの昭和六(一九三一)年岩波書店刊黒板勝美編「日本書紀 訓讀」中巻で示すと、ここの右ページ一行目下方から。

 次に、「日本霊異記」の第一話も引こう。所持する角川文庫板橋倫行(ともゆき)氏の校注本(昭和五二(一九七七)年(第十八版)角川文庫刊。この本は正字で頗るお気に入りの文庫である)で示す。段落を成形した。

   *

   雷(いかづち)を捉ふる緣第一

 小子部栖輕(すがる)は、泊瀨(はつせ)の朝倉の宮に、二十三年、天の下、治めたまひし雄略天皇【大泊瀨稚武(おほはつせわかたけ)の天皇と謂ふ。】の隨身、肺脯(はいふ)の侍者なり[やぶちゃん注:底本注に『肺脯は肺腑。腰ぎんちやくの從者の意』とある。]。

 天皇、磐余(いはれ)の宮に住みたまひし時、天皇、后と、大安殿に寐て、婚合(くなか)へる時、栖輕、知らずして、參入(まゐ)る。天皇、恥ぢ、輟(や)みぬ。時に當りて、空に、雷(いかづち)、鳴る。

 卽ち天皇、栖輕に勅して詔(の)りたまはく、

「汝、鳴る雷(かみ)を請(う)け奉らむや。」

と、のたまふ。

 答へて曰(まを)さく、

「請けむ。」

と、まをす。

 天皇、詔りして、言はく、

「爾(しか)らば、汝、請け奉れ。」

と、のたまふ。

 栖輕、勅を奉り、宮より罷り出づ。

 緋(あけ)の蘰(かづら)を額(ぬか)に著け、赤き幡桙(はたほこ)を擎(ささ)げ、馬に乘り、阿部の山田の前(さき)の道と、豐浦寺(とよらでら)の前の路とより、走(は)せ往く。

 「輕(かる)の諸越(もろこし)」の衢(ちまた)に至り、さけび、請けて、言はく、

「天の鳴る雷-神(かみ)、天皇、請け呼び奉る、云々」

といふ。

 然して、此より、馬を還して、走りて言はく、

「雷神と雖も、何の故にか、天皇の請けを聞かざらむ。」

といふ。

 走り罷る時に、豐浦寺と飯岡との間に、鳴る雷(かみ)、落ちて在り。

 栖輕、見て、卽ち、神司(かむづかさ)を呼び、輿籠(こし)に入れて、大宮に持ち向かひ、天皇に奏して言はく、

「雷神を請け奉れり。」

と、まをす。

 時に、雷光を放ち明(あか)く炫(かがや)けり。

 天皇、見て恐(おそ)り、偉(たたは)しく幣帛(みてぐら)を進(たてまつ)り[やぶちゃん注:同前で『どつさり神を祭る品物を獻つて』とある。]、落ちし處に還(かへ)さしむ。その落ちし處、今、「雷(いかづち)の岡」と呼ぶ【古京の「小治田(をはりだ)の宮」の北に在り。】。

 然るに、後-時(のち)に、栖輕、卒(みまか)る。

 天皇、勅して、留むること、七日七夜[やぶちゃん注:蘇生のための「もがり」である。]、その忠信を詠(しの)び、雷の落ちし同じ處にかれが墓を作り、碑文の柱を立てて言はく、「雷を取りし栖輕が墓」といふ。

 この雷、惡(にく)み、怨(きら)ひて、鳴り落ち、碑文の柱を踊(く)え踐(ふ)む。

 かの柱の、析(さ)けし間に、雷、はさまりて捕(と)らる。

 天皇、聞きて、雷を放つ。死なずして、雷-慌(とほ)れて[やぶちゃん注:正気を失って。]、七日七夜、留まれり。

 天皇、勅して、碑文の柱を樹(た)てしめ、標(しる)して言はく、「生(いき)も死(しに)も雷を捕れる栖輕が墓」といふ。

 いはゆる、古京の時に名づけて「雷(いかづち)の岡」となす語(こと)の本(もと)、これなり。

   *

 先のリンク先で加藤良平氏は、この話についても、諸注を掲げられた上で、『筆者は、「雷(いかづち)」という名を賜うて改めさせた対象となる元の名は、「三諸(岳)」でも「(少子部連)蜾蠃」でもなくて、第三の対象、「雷(なるかみ(かみなり))」を改めて「雷(いかづち)」とした、という意に解する』とされた上で(注は同前)、

   《引用開始》

 では、第2話において、蜾蠃は天皇の言葉の何を取り違えたのか。詔をきちんと聞いてみる必要がある。[やぶちゃん注:中略。]

 そんな雷は天空の高いところで鳴る。山岳で言えば、高いところは峰(を)である。神と言っているのだから霊力のあるはずのものである。その力に負けない「膂力人(ちからひと)」である自分を天皇は選んでいる。となると、三諸岳の山中に分け入って、ヲ(峰)+ロ(助詞)+チ(霊)を捕まえてくればいいらしい。頑張ってみようということで、三諸岳に登って大蛇を捕らえて天皇に見せている。 

 天皇は、蜾蠃に「示」されて、大蛇の姿を一瞥するに及んだかもしれない。それが神の姿であるなら、神をも恐れぬ不敵な行いになる。だから、本当は神の姿を見なかったことにするか、あるいは、自らがその神の憑代となる準備をする必要があった。その準備こそ、「斎戒」である。しかし、天皇は斎戒しなかった。目の前に持ってこられて弱っている。事もあろうに三諸岳の神である。不吉極まりない。三諸岳の神とは、三輪山の神のことである。祟り神として知られていた(注5)。算段として、自分の方は「天皇畏、蔽レ目不レ見、却二-入殿中一。」し、大蛇の方は「使レ放二於岳一。」した。距離をとろうとしている。さらに奥の手をくり出して、名前を改名することにした。「神之形(かみのなり)」について、少子部連蜾蠃のような誤解を与える「神の鳴り」、「鳴神(なるかみ)」=「雷(なるかみ)」という名前を改めることにし、「雷(いかづち)」とした。天皇自身の目の前にあったのは、三諸の神の形(なり)ではなくて、イカヅチにすぎないのだ、という言い分である。[やぶちゃん注:中略。]

 雄略紀において、「三諸岳(みもろのをか)」が話題とされている。「岳(をか)」と断っているのは、ヲ(峰)+カ(処)の意を示したいからで、同根のヲ(峰)、つまり、山の尾根のことに少子部連蜾蠃の関心は向っている。三諸岳とは三輪山[やぶちゃん注:ここ(グーグル・マップ・データ)。]のことである。大系本日本書紀に、「崇神十年条でも御諸山の大物主神は「願無レ驚二吾形一」といって蛇になる。蛇は三諸岳の神の憑代。」(45頁)とあるとおり、三諸岳の神の形(なり)は大物主神の形(なり)で、それは蛇である。それも、とぐろを巻いた形であろう。三輪山は独立峰になっていて、蛇がとぐろを巻いたような紡錘形を保っている。だから、少子部連蜾蠃はヲ(峰)+ロ(助詞)+チ(霊)=大蛇を捕らえてきた。三諸岳の神の形(なり)であるというのである。[やぶちゃん注:以下略。]

   《引用終了》

と譚の深層の真相を明らかにされておられる。非常に説得力のある論で、是非、全文を読まれたい。

「雄略天皇」考古学的に、実在が、ほぼ確定している最初の天皇とされる。

「七丈余」二十一メートル超え。]

2022/11/07

曲亭馬琴「兎園小説拾遺」 第一 「風聞」 / 第一~了

 

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。昨年二〇二一年八月六日に「兎園小説」の電子化注を始めたが、遂にその最後の一冊に突入した。私としては、今年中にこの「兎園小説」電子化注プロジェクトを終らせたいと考えている。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちら(左ページ上段後ろから五行目から)から載る正字正仮名版を用いる。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。

 馬琴の語る本文部分の句読点は自由に変更・追加し、記号も挿入し、一部に《 》で推定で歴史的仮名遣の読みを附した。]

 

   ○風 聞

寄合伊東主膳、罪、あり。天保二年辛卯秋七月十八日、裁許、落着【舊冬十二月より御詮議と云。】。如ㇾ左。

高五千石、居屋敷、本所に在り。被召上事。

一、寄合伊東主膳は、本家伊東修理大夫へ御預け。

 此外、

 中追放   同人次男   伊東造酒允《みきのじよう》

 改易    同人惣領   伊東 采女《うねめ》

 差控    神道方地借  吉川四方之進

 追放    伊東主膳家來 湊  爲 輔

 江戶拂、主膳家來、四人、壹岐《いき》十右衞門、垣屋住平、湯地内藏助、喜多村友馬《いうま》。

 武家奉公、構《かまひ》、二人、菊池南右衞門、垣屋藏助。

 押込《おしこめ》 二人、大江榮左衞門、中間彌助。

右、於評定所仰渡の内、伊東氏本家より受取の同勢、その出立《いでたち》、尤《もつとも》美しかりき、と、いへり。かの罪の趣は、憚あれば、こゝにもらしつ。

[やぶちゃん注:隠しても、判るものは判る。「国立公文書館デジタルアーカイブ」のこちらに、藤川整斎の「天保雑記」の写本があり(七画像)、「寄合伊東主膳、庭内ニ而、鉄炮を以、鳥打留候御咎書」とあった。

「中追放」(ちゆうついはう)は追放刑の一つ。寛保二(一七四二)年の公事方御定書の規定では、田畑・家屋敷を取り上げ、武蔵・山城・摂津・和泉・大和・肥前・東海道筋・木曾路筋・下野・日光道中・甲斐・駿河、及び犯罪を犯した国と住んでいた国が「御構場所」(おかまいばしょ)とされ、その地域に入ることを禁じたもの。延享二(一七四五)年以後は、庶民については、江戸十里四方と犯行を犯した国と住んでいた国の出入を禁じるに止めている。

「差控」(さしひかへ)は江戸時代、武士や公家などに科せられた制裁。勤仕(ごんし)より離れ、自家に引き籠って謹慎することを指す。門を閉ざすが、潜門(くぐりもん)から目だたないように出入りすることは許容された。比較的軽い刑罰、乃至、懲戒処分として,職務上の失策を咎めたり、或いは、親族・家臣の犯罪に縁坐・連坐せしめる場合などに用いた。自発的にも行われ、親族中の一定範囲の者又は家臣が処罰を受けると、その刑種によっては、差控伺(うかがい)を上司に提出し、慎んで指示を待った。

「地借」「ぢがり」で、江戸時代の江戸その他の大都市の借地人のこと。借地に家を建てて住む者で、「店借(たながり)」と同じく、人別帳に記載されるものの、一人前扱いされず,町政への発言権もなかった。ここは「神道方」とあるので、神職でも地位の低い「神人(じにん)」クラスの者であったか。

「吉川四方之進」「きつかはよものしん」と読んでおく。

「追放」「輕追放(けいついはう)」。追放刑の中では最も軽いもので、居住地及び犯罪地の外、江戸十里四方、及び、京都・大坂・東海道筋・日光・日光道中への立入りを禁じられ、田畑・家屋敷は没収された。

「構」やはり刑罰の一種。罪状によって範囲を定め、その居住地から追放するもの。また、特定の職業に就くことを禁ずること。ここは後者で武家への奉公を禁じたもの。

「押込」刑罰の一種。門を閉じて蟄居させ、外出を禁ずるもの。]

ブログ・アクセス185,000超するも記念テクストは作らず

ブログは、一昨日が1,990アクセス、昨日が2,350アクセス、今日がついさっきまでで1,226アクセス――閲覧している形跡がないので、ボットが来て、周回していった可能性が高いから、キリ番記念テクストは作らない。悪しからず。

大和怪異記 卷之一 第三 吉備縣守虬をきる事

 

[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の分はここ(標題は前のコマの最後)。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。]

 

 第三 吉備縣守(きびのあがたもり)虬(みつち)をきる事

 仁德天皇六十七年十月、備中の國川鳴(かはなり)河の派(みなまた)に、大《おほき》なる虬(みつち)ありて、人を、くるしましむ。路人(みちゆき《びと》)、其所を行(ゆけ)ば、かならず、毒におかされて、をほく[やぶちゃん注:ママ。]、死す。

 爰(こゝ)に笠臣(かさの《おみ》)の祖(そ)、縣守と云もの、あり。勇捍(ゆうかん)にして、强力なり。

 あるとき、かの河の渕に望み、三つの瓢(ひさご)を、水になげて、いはく、

「汝(なんぢ)、毒を吐(はい[やぶちゃん注:ママ。])て、路人を、くるしましむ。余(われ)、汝を、ころさんとす。たゞし、汝、此ひさごをしづめば、余(われ)、爰を去(さる)べし。しづむる事、あたはずは、汝を、きらん。」

といふ。

 時に、虬、たちまち、鹿(しか)となりて、ひさごを、引(ひき)入れども、しづまず。

 此とき、縣守、つるぎをぬき、水に入(いり)、虬を、きり、其類(たぐゐ)を尋《たづね》もとむるに、もろもろの虬、渕底(ふちのそこ)の岫穴(くきあな)に滿(みち)たるを、ことごとく、きるに、河の水、血に変ず。

 故に、其水を、なづけて、「縣守渕(《あがたもり》ぶち)」といふ。

 此ときに及《およん》で、妖氣(ようき[やぶちゃん注:ママ。])、とゞまる。

[やぶちゃん注:最後の「同」は前の話と「同」で、「日本書紀」が原拠。国立国会図書館デジタルコレクションの昭和六(一九三一)年岩波書店刊黒板勝美編「日本書紀 訓讀」中巻で示すと、ここの左ページ一行目半ばから。原文は以下。

    *

是歲、於吉備中國川嶋河派、有大虬、令苦人。時路人、觸其處而行、必被其毒、以多死亡。於是、笠臣祖縣守、爲人勇捍而强力、臨派淵、以三全瓠投水曰、「汝屢吐毒令苦路人、余殺汝虬。汝沈是瓠則余避之、不能沈者、仍斬汝身。」時、水虬化鹿、以引入瓠、瓠不沈、卽舉劒入水斬虬。更求虬之黨類、乃諸虬族、滿淵底之岫穴。悉斬之、河水變血、故號其水曰縣守淵也。

   *

以上から、本篇の「川鳴河」(かはなりかは)は「川嶋河」(かはしまかは)の誤りであることが判る。

「虬(みつち)」私の寺島良安「和漢三才圖會 卷第四十五 龍蛇部 龍類 蛇類」から「虬龍」画像も私の注も纏めて以下に示す。本篇の内容と同じものが、含まれており、語注も現代語訳も完備しているからである。ユニコード以前の十四年前のものなので、示すに際して、漢字の正字不全や、読みその他を大幅に補正した。〔→ 〕は原本の不全を私が訂したもの。

   *

 

Kyuu

 

きうりう    虯【同】

虬龍【音球】

本綱虬乃蛟屬有角者也文字集畧云虬乃龍之有角青

色也

日本紀云仁德帝六十七年備中川島河泒〔→派〕有大虬觸其

處者必被毒多死亡於是縣守爲人勇捍而強力以三全

瓠投水曰余殺汝汝沈是瓠則避之不能沈者斬汝身時

其虬化鹿以引入瓠瓠不沈卽擧劔入水斬虬更求虬之

屬滿淵底之岫穴悉斬之河水變血故號其水曰縣守淵

きうりう    虯(きう)【同。】

虬龍【音、「球」。】

「本綱」に、『虬は、乃(すなは)ち、蛟の屬、角(つの)有る者なり。』と。「文字集畧」に云ふ、『虬は、乃ち、龍の、角、有りて、青色〔なるもの〕なり。』と。

「日本紀」に云はく、『仁德帝六十七年に、備中の川島河の派(かはまた)に、大きなる虬(みつち)、有り。其處(そこ)に觸るる者、必ず、毒を被(かふむ)りて、多く、死亡す。是(ここ)に於いて、縣守(あがたもり)あり、人と爲(な)り、勇-捍(たけ)く、強力なり。三つの全き瓠(ひさこ)を以つて、水に投じて曰はく、「余、汝を殺さん。汝、是の瓠を沈めらるれば、則ち、之れを避くなり。沈むる者(こと)、能はずんば、汝が身を斬らん。」と。時に、其の虬、鹿に化して、以つて、瓠を引き入れども、瓠、沈まず。卽ち、劔(つるぎ)を擧げ、水に入り、虬を斬る。更に虬の屬を求むるに、淵底の岫穴(しうけつ)に滿つ。悉く、之れを斬る。河水、血に變ず。故に、其の水を號して「縣守の淵」と曰ふなり。』と。

[やぶちゃん注:龍属の一種であるが、本文のように「角があるもの」と記す一方、「角がないものを言う」とも記す。こういう相反した謂いが並存してしまうのって何? 結局、ファンタジストは、それぞれの謂いを持ちたいのだろうなぁ。「虬」は「虯」の俗字とする。なお、「日本書紀」のエピソード部分の語釈は、原文引用の注でカバーした。

「文字集略」は梁の阮孝緒(げんこうしょ)撰になる字書。

『「日本紀」に云く』以下の記載は、「日本書紀」の巻第十一の末尾に現れる記事である。「仁德帝六十七年」は西暦三七九年。以下に原文・書き下し文・現代語訳を示す(原文及び書き下し文には複数の伝本を参考にしたが、特に訓読では御用達の「跡見群芳譜」の「ユウガオ」の「誌」に載るものに多くを従った)。

   *

是歲、於吉備中國川嶋河派、有大虬令苦人。時路人觸其處而行、必被其毒、以多死亡。於是、笠臣祖縣守、爲人勇捍而强力。臨派淵、以三全瓠投水曰、「汝屢吐毒、令苦路人。余殺汝虬。汝沈是瓠、則餘避之。不能沈者仍斬汝身。」。時水虬化鹿以引入瓠。瓠不沈。卽擧劍入水斬虬。更求虬之黨類。乃諸虬族滿淵底之岫穴。悉斬之。河水變血。故號其水曰縣守淵也。

○やぶちゃんの書き下し文

 是の歳(とし)、吉備中國(きびのみちのなかつくに)、川嶋河が派(かはまた)に、大(おほきなる)虬(みづち)有りて、人をして、苦しびせしむ。時に路人(みちのゆくひと)、其の處に觸れて行けば、必ず、其の毒(あしきいき)を被(かうぶ)りて、以つて、多(さは)に死-亡(しし)ぬ。

 是(ここ)に於いて、笠臣(かさのおみ)の祖(おや)なる縣守(あがたもり)、人と爲(なり)、勇-捍(いさを)しくして、強-力(つよ)し。派(かはまた)の淵に臨み、以つて三つの全(おふ)し瓠(ひさご)を、水に投(なげい)れて、曰はく、

「汝、屢、毒を吐きて、路人に苦しびせしむ。余(われ)、汝(な)、虬(みつち)を殺さむ。汝、是の瓠を沈めば、余、避(さ)らむ。沈むること、能(あた)はずは、仍(すなは)ち、汝が身を斬(き)らむ。」

と。

 時に水-虬(みづち)、鹿(しか)に化(な)りて、瓠を、引き入れんとす。

 瓠、沈まず。

 卽ち、劍(つるぎ)を擧げて、水に入りて、虬を斬る。

 更に虬の党-類(ともがら)を求め、乃ち、諸(もろもろ)の虬の族(うから)、淵の底の岫穴(かふや)に滿(いは)めり。

 悉く、之れを斬り、河水、血に變(かへ)りぬ。

 故(かれ)、其の水を號して、「縣守の淵」と曰ふなり。

   *

○やぶちゃんの語釈

・吉備中國:備中。現在の岡山県西部。

・川嶋河:現在の高梁(たかはし)川。鳥取県との県境の明智峠に近い花見山を源流として、高梁市・総社市・倉敷市を経て水島灘に注ぐ。

・派:川の分岐するところ。ウィキの「高梁川」の、『古代には総社市井尻野で分流し、現在の総社市街地を分断するような形で東へ流れ、現在の前川・足守川の辺り(前川も足守川も昔は今と少し違う位置を流れていたが)を流れ、岡山市撫川・倉敷市上東付近が河口だった。昔はこれが本流という見方だったらしい』という記載から、この分岐は総社市井尻野であった可能性が高いか。

・笠臣:「吉備縣守」で「笠臣(かさの《おみ》)の祖」となると、鴨別(かもわけ:鴨別命)又は吉備鴨別となる。但し、「日本書紀」には錯雑があり、「神功皇后紀」では鴨別を「吉備臣」の祖とし、「応神天皇紀」では「笠臣」の祖とし、この「仁徳天皇」でも、かく、する。

・縣守:「祖縣守」で「あがたもり」と読ませているものもある。これは大化の改新以前に県を統治した首長のことを指す「県主」(あがたぬし)と同義と考えてよいだろう。ここに示されるような一種の宗教的な祭祀をも統轄した。

・勇捍しくして:「捍」は「激しい・猛々しい・荒い」の意で、「勇敢」「勇猛」に同じ。

・全し:読みは上記「跡見群芳譜」から。「おふし」と訓読して完全なを表わす語のようである。従って「おふしひさこ」で、割っていない丸のままの瓢箪の意。しかし、この「おふし」という語は聞き慣れない。ネット上には散見するが、通常の古語辞典には表われない上代語であるようだ。

・瓠:ひさご。スミレ目ウリ科ユウガオ属ヒョウタンLagenaria siceraria var. gourda 。ヒョウタンは夕顔の変種である。標準種であるユウガオLagenaria siceraria var. hispida 及び特異的に実が丸いフクベLagenaria siceraria var. depressa を挙げておけば、この三種のうちのどれかであることは間違いない。「全き」という語を「完全に丸い」という意味でとるならば、フクベの可能性が浮上する。これは所謂、「ヒョウタン鯰」である。自らの本性が、元来、ニョロニョロヌラヌラの「みづち」が、ツルツルスベスベのまん丸い「ふすべ」を水中に沈めること自体が、彼(吉備の県守)は不可能だと知っていたのである。

・岫穴:「岫」自体が「くき」と訓じて「山の中の洞穴」を言う。読みは、上記「跡見群芳譜」から。しかし、この「かふや」と言う語は聞き慣れない。通常の古語辞典にも表われない。これも上代語か。淵の底にある、水の満ちた岩の洞(ほら)のこと。

・縣守淵:所在不詳であるが、「井原備中神楽保存会小中学生伝承教室後援会」の以下のページに(このリンクは生きているが、以下の引用は消えている。但し、「縣主神社」の記載と龍の話は載る)「みずち退治の場所」として、『高梁川が総社市から倉敷市へとはいったあたりの、現在の倉敷市酒津(さかづ)』(ここ)『の三ツ子岩付近であるとする説が有力とされていますが、一方で、平野が始まる総社市井尻野(いじりの)』(グーグル・マップ・データ航空写真のここ)『あたりではないかとする説もあります』とある。瓢箪の数と同じ神聖数の三がつく「三ツ子岩」も、確かに魅力的ではある。

   *

○やぶちゃんの現代語訳

 同年、吉備中国の川嶋川の分岐点に、昔から大きな虬(みずち)がいて人々を苦しませていた。その頃、そこを通る旅人の多くがその虬の毒を受けて死んだ。

 そこで、笠臣(かさのおみ)の祖先であった当時の県守(あがたもり)――その人となりは、勇敢で剛勇であった――が、その淵に向かって、三つの欠けたところのない、見事に丸い瓢箪を投げ入れて言った。

「虬よ、お前は、たびたび、毒を吐いて、多くの旅行く人を苦しませてきた。私はお前、虬を、殺そうと思う。しかし、虬よ、お前がこの三つの瓢箪を同時に、見事に水に沈めたならば、それは、私の負けであるから、私は、この場を去ろう。しかし、沈められなかったならば、即座に、私は、お前の身を斬ってやる!」

と。

 すると、虬は、即座に鹿に化けて、瓢箪を、水中に引き入れようとした。

 しかし、つるんとした欠けるところのない空気の入った瓢箪は、全く以って、沈まぬ。

 間髪を入れず、県守は、水に飛び込むと、剣を振り上げ、あっという間に、虬を斬り殺してしまった。

 さらに、県守は、以前からの状況に鑑み、虬の眷属が、他にもいると睨んで、探し回った。

 すると、まさに有象無象の虬の輩(やから)が、深い淵の底に空いた水を湛えた洞穴(ほらあな)の中に満ち満ちていたのであった。

 県守は、それらも、悉く、切り殺した。

 川の水はすっかり血に変わっていた。――故に、その川の淵を今に――「県守の淵」――というのである。

   *]

大和怪異記 卷之一 第二 小竹宮怪異の事

 

[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。この回はここ。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを加工データとする。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。

 挿絵があるが、これは「近世民間異聞怪談集成」にあるものが、状態が非常によいので、読み取ってトリミング補正し、適切と思われる箇所に挿入する。因みに、平面的に撮影されたパブリック・ドメインの画像には著作権は発生しないというのが、文化庁の公式見解である。]

 

  第二 小竹(しのゝ)竹宮怪異の事

 神功皇后(じんぐうこうごう)、紀伊國日高にいたりまして、忍熊王(をしぐまわう)を、せめんがために、小竹宮にうつり給ふ。此とき、晝、くらき事、夜のごとくにして、おほくの日を、經たり。

 

Sinonomiyakaii

 

[やぶちゃん注:底本(カラー。但し、挿絵は単色)の挿絵部分はここ。御覧の通り、三箇所に台詞のようなものが記されているが、版の色とその文字が微妙に異なり、特に老父夫の右上のそれは、明かに薄く、私は総て、当時のもとの本書の持ち主、或いはその家内の者が、書き込んだものと断じ、特に判読しない。

 

 皇后、紀直(きのあたい)の祖(そ)、豊耳(とよみゝ)に、とふて、のたまはく、

「このあやしみ、何のゆへ[やぶちゃん注:ママ。以下も同じ。]ぞや。」

 時に、ひとりの老夫(をきな[やぶちゃん注:ママ。])ありて、いはく、

「傳聞(つたへきく)、かくのごときあやしみをば、『阿豆那比(あつなひ)の罪と、まうす。」

 問(とは)く、

「何(なに)の謂(いひ)ぞ。」

 こたへて、いはく、

「二社の祝者(はうり[やぶちゃん注:ママ。])を合葬(あはせはうふ)れるか。」

 よつて、とはしむるに、

「巷里(むら)に、小竹祝、天㙒(あまの)祝といふもの、ありき。ともに、うるはしき友なり。小竹祝、逢-病(やまひ)して死しぬ。天㙒祝、血-泣(なき)て、いはく、

『我、いけゝるとき、交友(よろしきとも)たりき。なんぞ、死《しぬ》るに、穴(あな)を同《おなじ》ふせざらんや。』

と、いひて、屍(かばね)のかたはらに、ふして、自(みづから)死す。よつて、合葬(あはせはふる)る。このゆへ、ならんか。」

と。

 則(すなはち)、墓をひらきみれば、まことなり。

 これによつて、又、棺槨(ひつぎ)をあらため、所(ところ)を異(こと)にして、埋(うづみ)しかば、日暉(ひのひかり)、炳燀(あきらかにし/かゝやき[やぶちゃん注:右/左の読み。])て、日夜(ひる と よる)、別(わいだめ)あり。「日本紀」

[やぶちゃん注:以下は、底本では、最後まで全体が一字下げ。]

 「紀州志」には、『小竹宮は那賀(なか)郡に有しと云《いふ》。今、尋(たづぬ)るに、なし。志㙒村の中に社あり、「あづまやの御前」と云《いふ》小社なり。側(かたはら)に寺あり、「神宮寺」と号す。此所、山伏の行所(きやう《しよ》)たるよし。これ、むかしの『小竹宮』歟(か)。』とあり。

[やぶちゃん注:この「日本書紀」の記事は、先日、電子化注した、私の決定版の『「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 奇異の神罰』の中に出てきたため、電子化してある。これに先立って、その原文(訓読版)と現代語訳の後に、先ほど、追記注も施した。その追記、及び、そこに示した難波美緒氏の論文『「阿豆那比の罪」に関する一考察』(『早稲田大学大学院文学研究科紀要』第四分冊・二〇一三年発行。「学術機関リポジトリデータベース(IRDB)」のこちらからダウン・ロード可能)を、是非、読まれたい。

「神功皇后(じんぐうこうごう)」「こうごう」の読みはママ。「くわうごう」が正しい。小学館「日本大百科全書」から引く。「記紀」や「風土記」『などにみえる伝承上の人物』で、「日本書紀」によると、第十四代仲哀天皇の『皇后で、名を気長足姫尊(息長足姫命)(おきながたらしひめのみこと)という。父は』第九代開化『天皇の曽孫』『気長宿禰王(おきながのすくねのおおきみ)、母は葛城高顙媛(かずらきのたかぬかひめ)。『古事記』では、父は開化天皇の玄孫で、母は新羅(しらぎ)国の王子天之日矛(あめのひぼこ)の)五『世の孫にあたると』する。『仲哀天皇が熊襲(くまそ)を討つため』、『筑紫』『の橿日宮(かしひのみや)(香椎宮(かしいぐう)。福岡市東区香椎町に』現存する。ここ。グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)『にきたとき、天照大神』『と住吉』『三神が皇后にのりうつって託宣を下したが、仲哀はこれを信じなかったために急死した。そこで神功は、臨月であったにもかかわらず』、『新羅を討ち、帰国後、筑紫の宇美(うみ)』(福岡県糟屋(かすや)郡宇美町(うみまち)。ここ)『で後の』第十五代応神『天皇を出産。さらに大和』『に帰還して麛坂(かごさか)・忍熊(おしくま)』の二人の『王の反乱を鎮定し、応神が即位するまで』六十九『年間も政治をとっていたと』される。「日本書紀」には、『さらに多くの日朝関係記事が記され、なかには干支(かんし)二運』(百二十年)『を下げれば』、『史実と考えられるものもある。また』、四『か所にわたって』「魏志」や「晋書起居注」が『引用され、編者が神功を倭』『の女王(卑弥呼(ひみこ))に比定していたことは疑いない』。『この伝説は、古くから朝廷に伝えられていた朝鮮半島侵略の物語に、各地で語られていた』母子神(ぼしじん)信仰(汎世界的に見られる、母と子の母子像に宿る聖なる呪力を信じ、また、子育ての力を信じて、それを祭祀の対象とする信仰)に『基づく民間伝承的なオホタラシヒメの伝承や、京都府綴喜(つづき)郡』(ここ)『に居住した古代豪族』息長氏(おきながうじ:近江国坂田郡(現在の滋賀県米原市)を本拠としていた古代豪族。意富富杼(おほほど)王の後裔と伝えられ、姓(かばね)は「公(きみ:君)。天武天皇一三(六八四)年の「八色(やくさ)の姓」では、同族の三国公、「坂田公」・「酒人(さかひと)公」らとともに筆頭の「真人(まひと)」の姓を賜った。継体天皇の即位に当たっては、その背後にあって、重きをなし、天皇家とも、しばしば姻戚関係を結んだが、社会的地位が高いわりには、有力者を出さなかった。奈良・平安時代には坂田郡司を歴任した他、この綴喜郡附近にも居住していた。その祖先伝承には、この神功皇后伝説をはじめ、天皇家との関係を語る説話が多い)『の伝承などが加わり、さらに』七~八『世紀に』、『古代天皇制の思想によって潤色を受け、最終的に記紀に定着したと考えられ』ている、とある。

「忍熊王(をしぐまわう)」講談社「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」によれば、『記・紀にみえる仲哀』『天皇の皇子』で、『母は大中姫(おおなかつひめ)。仲哀天皇没後の神功』『皇后摂政元年』、『兄の麛坂(かごさかの)皇子とともに』挙兵し、『神功皇后を討とうとした。武内宿禰』・『武振熊(たけふるくま)らと逢坂(おうさか)でたたかっ』たが、『敗走』、のちに『近江』『の瀬田川(または琵琶湖)に入水した。「古事記」では忍熊王』、「日本書紀」では「忍熊皇子」や「忍熊王」と表記する。

「小竹宮」サイト「神奈備」のこちらによれば、『宇治に陣取った忍熊王を攻めようとして、神功皇后は紀の国の日高から小竹宮(しののみや)に遷』ったとし、『この小竹宮については』、『今の所』、『四箇所の候補地が』挙げられているとあって、以下が記されてある。引用文中のリンクは同サイト内で、地図も完備している。

   《引用開始》

●小竹八幡神社(和歌山県御坊市薗[やぶちゃん注:「ごぼうしその」。])

 小竹宮に比定するのは、社名からの推定ですが、天野祝とともに葬られて暗い世にしたとする小竹祝をこの神社の神人とし、ここには祝塚と言われるものもあるとか。

志野神社(和歌山県那賀郡粉河町北志野[やぶちゃん注:現在は紀の川市北志野。])

 天正の時代に兵火に焼かれていた神社があり、再建されています。地名・社名からの推測。ただ、天野祝を丹生都比売神社[やぶちゃん注:「にふつひめじんじゃ」或いは「にうつひめじんじゃ」で、現在は和歌山県伊都郡かつらぎ町上天野。ここ。]の祝とするならば、両祝が仲がよいとする距離感にはあいそう。

波宝神社[やぶちゃん注:「はほうじんじゃ」。](奈良県吉野郡西吉野村夜中[やぶちゃん注:現在は五條市西吉野町(よしのちょう)夜中(よなか)。])

 小竹宮と呼ばれていたことがあります。大山源吾著『天河への招待』には、「神功皇后は紀伊日高に上陸、紀和国境を越えて、吉野丹生の里、銀峯山小竹宮(シヌ)に入ったと、この地の伝承は伝える。」と記している。吉野とは「よ」+「小竹:しぬ」であると言う。ここにも神功皇后にまつわる伝承が多い。地名の「夜中」も暗くなった名残と言う。

●舊府神社、小竹宮(大阪府和泉市信太[やぶちゃん注:「しのだ」。旧広域地名。ここ。])

 『大阪府全志』には神功皇后縁の小竹宮跡とする。一時、阿部晴明生誕伝説の信太森神社(葛ノ葉稲荷神社)[やぶちゃん注:現在位置は大阪府和泉市葛の葉町(くずのはちょう)。]に合祀されていましたが、境外摂社として元の社殿に祀られています。

 また尾井の西の雨降塚(信太雨降社)として信太森神社の[やぶちゃん注:ママ。]合祀されたようです。

 他には近くに伯太神社[やぶちゃん注:「はかたじんじゃ」。]が鎮座、伯太神社の祭神の中に小竹祝丸、天野祝丸の名が見えるのです。小竹祝、天野祝を祭神とした神社は伯太神社以外には見つかっていません。

 また泉井上神社[やぶちゃん注:「いずみいのうえじんじゃ」。]に小竹神社と呼ばれる末社があるそうです。

   《引用終了》

この内、旧日高郡に属するのは、頭に挙げられてある小竹八幡神社(ここ)と次の志野神社(ここ)である。『祭神の中に小竹祝丸、天野祝丸の名が見え』、『小竹祝、天野祝を祭神とした神社は伯太神社以外には見つかってい』ないとされる伯太神社は、ここであるが、地理的にここを古代の日高に含まれるとするのは、無理がある。しかし、祭神のそれは、明かに本説話に基づくものと考えられよう。また、先に掲げた、難波美緒氏の論文『「阿豆那比の罪」に関する一考察』では、「2、地誌と考古学研究史」の「2―1 比定地について」で、「紀伊続風土記」の記載を引かれた後、

   《引用開始》

 小竹には志野神社が現存しているが、志野神社は、江戸時代に再興されたものが現在に伝わるようで、『紀伊続風土記』にも、一度廃絶されたものとして扱われている。また、小竹については和歌山県御坊市薗に小竹八幡神社があり、ここを宮跡と比定する説がある。字は小竹で同じであるが、『紀伊続風土記』に記載はなく、天野に当たる地名が近くにない。漢字についても、「しの」を「芝努」や「斯奴」という記載が『日本書紀』内に見られる。このため、志野神社が小竹祝の神社の比定地とする方が順当であろう。

 天野は現在の和歌山県伊都郡かつらぎ町大字上天野に比定されている。上天野は平安初期の施行細則をまとめた『延喜式』にも載り、現存する丹生都比売神社が鎮座する場所である。前述した鎌倉時代末期成立の『釈日本紀』でも天野祝の神社を丹生都比売神社に比定している。天野は、著名な丹生都比売神社が存続していることもあり、『紀伊続風土記』巻四八に数十頁にわたり、祭神や祝詞、縁起や代々の祝について記載がある。丹生都比売神社は四神を祀るが、その第二番目の神についての記載にこの神功皇后摂政元年二月条についての言及があり、小竹の項に詳述した旨が記される。『日本書紀』に、神功皇后に質問を受ける立場で登場する紀直祖豊耳[やぶちゃん注:「きのあたいのそとよみみ」。]は、その後天野社の祝となったようで、『紀伊続風土記』巻四八天野社の内、総神主系図第九、及び、丹生都比売神社の神主の系図である『丹生祝氏本系帳』の神主系図にても説明される。豊耳はまた、『紀伊国造系図』に、国造の家系として出現し、その子孫が丹生都比売神社の神主と国造をそれぞれついだという系譜が残る。

   《引用終了》

とされた上で、一五一ページの末に『小竹と天野と薗の位置関係』を示した地図を掲げられ、

   《引用開始》

 小竹と天野の二地点は直線距離で一二〜一三キロメートル、道を考えれば一五キロメートルほどの距離があり、川を挟んで位置する。舟で川下りをすれば一日で移動可能な距離である。また、双方とも神社の前に小さな川が流れており、どちらも最終的には紀ノ川に注ぐ。現在の町村名も異なっており、川を挟んでいることから、小竹と天野は別の共同体にあるそれぞれの神社であった可能性が高いと考えられる。また、『紀伊続風土記』は、地誌という史料の性格上、特に『日本書紀』内の記載事項を考察している訳ではないが、『日本書紀』の小竹と天野が紀伊国のこの地名に比定できる事は採用できるだろう。

   《引用終了》

と述べておられる。この『小竹と天野は別の共同体にあるそれぞれの神社であった可能性が高い』というのは、私が『「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 奇異の神罰』で、この話を初読した際の印象と完全に合致するのである。熊楠先生、異変の原因は、男色じゃあ、ないよ!

「晝、くらき事、夜のごとくにして、おほくの日を、經たり」日食現象、及び、大きな火山噴火の噴煙による太陽遮蔽の体験が元とした作話であろう。

「紀直(きのあたい)の祖(そ)、豊耳(とよみゝ)」「あたい」はママ。歴史的仮名遣は「あたひ」が正しい。「紀直」の「直」(あたひ(あたい))は小学館「日本国語大辞典」に、『大化前代、県主(あがたぬし)などの地方豪族に与えられた姓(かばね)の一種。あたえ。あたいえ。』とし、「語誌」で、『⑴五~六世紀と見られる和歌山県隅田八幡宮蔵人物画像鏡銘に「開中費直」とあり、「書紀‐欽明二年七月」に河内直の中に「百済本記」を引用して「加不至費直(内閣本訓あたひ)」が見えるところから、この語は遅くとも六世紀の初めまで遡ることができる。』とし、『⑵「書紀」では普通「直」が用いられるが、法隆寺金堂の四天王像の銘文には「費」ともあり、「続日本紀―神護景雲元年三月乙丑」には「追注凡費。情所ㇾ不ㇾ安。於ㇾ是改為栗凡直」と「費」の字を「直」に改めてほしいとの記述が見える。』とあり、さらに『⑶「書紀」では前田本、北野本など院政期の古訓に「あたひ」「あたひえ」が見られるが、「あたえ(へ)」の確例は時代がずっと下る。最近まで「あたえ」が主に用いられていたのは、あるいは本居宣長「古事記伝」によるものか。』とある。而して、「紀直」は、則ち、「紀伊国造(きいのくにのみやつこ)家」のことである。小学館「日本大百科全書」によれば、「国造本紀」(こくぞうほんぎ)によれば、『神皇産霊尊(かんむすひのみこと)』の五『世孫天道根命(あめのみちねのみこと)に始まる神別氏で、代々日前(ひのくま)・国懸(くにかかす)神社の神主と、名草郡領(なぐさぐんりょう)を世襲した。直(あたい)姓』は、後に『宿禰(すくね)姓』となり、『平安中期』、『紀朝臣(きのあそん)行義が入婿して皇別氏となり、江戸末期』、『飛鳥井三冬(あすかいみふゆ)が養子となって藤原氏となった。明治に至り』、『男爵を授けられた』とある。「豊耳」の名は、ここが最古の初出であり、事績は未詳。

「阿豆那比(あつなひ)の罪」小学館「日本国語大辞典」には、「あずない」で載り、歴史的仮名遣を「あづなひ」とする。名詞で、『語義未詳。同性愛、男色のこととも、氏族の違う二人をいっしょに葬ることともいうとし、本篇の原典「日本書紀」の当該部を引く。さらに、「語源説」の項に、『⑴アヒウヅナヒ(相諾)の意〔仮字拾要〕。⑵ウヅナヒの転〔大言海〕。⑶二人を相合わせて葬った罪で、アツナ(相着行)ヒの義か〔目本語源日賀茂百樹〕。⑷アツは集、ナヒは活用語尾。集まり寄る意で、集合すべきでないものが一所にある穢(けが)れということ。この語はアツラワの形で、「共に」の意としてアイヌ語に残っている〔日本古語大辞典=松岡静雄〕』とする。しかし、難波美緒氏の論文では、この記載に批判的で、『1、「阿豆那比の罪」の語義的研究史』の中で、『『日本国語大辞典』が、『大日本国語辞典』[やぶちゃん注:難波氏の注に、『上田万年・松井簡治『大日本国語辞典』(富山房・金港堂書籍、一九一五)』とある。]の流れをくむことを考えると、合葬説に男色説が付加されるも、一九七〇年代以後に』、『研究成果によって双方共が否定されたため、語義未詳とするしかない状態といえるのではないか』と述べておられる。この研究史の論考部は、特に圧巻の箇所なので、是非、原論文を読まれたい。未だに、ネット上には、本話を男色禁忌の最古の例などとする記載があるが、私は甚だ不適切な誤った認識としか考えない。なお、「近世民間異聞怪談集成」では、「あづなひ」とルビするが、私の底本は明らかに濁点はない(右丁後ろから三行目上方)。古く本邦では濁音(少なくとも表記で)が好まれなかったことを考え、本書が江戸時代のものであっても、内容が神話時代のものである以上、清音で表記すべきだと考える。これは、正本文(評言の前)最後の読み「かゝやき」(同左丁六行目)も同様で、「近世民間異聞怪談集成」は『かゞやき』とするが、私の底本は清音で問題ない。この語は、結構、後の平安時代まで、「かかやく」が普通であったから、なおのことである。

「合葬(あはせはふる)る」ママ。「はふる」は四段動詞であるから、「はふるる」という活用はしない。古文では、しばしば、読み仮名と送り仮名がダブることがあるが、ここの読みの方の「る」は、それと断ずる。なお、国立国会図書館デジタルコレクションの昭和六(一九三一)年岩波書店刊黒板勝美編「日本書紀 訓讀」中巻の、ここの右ページ七行目では『葬む』(をさむ)と訓読している。

「棺槨(ひつぎ)」「槨」は音「クワク(カク)」で、墓室内部の棺を保護する物・構造物或いは区画を指す。木槨・石槨・粘土槨・礫槨 ・木炭槨などがある。

「あらため」「改め」。

「所(ところ)を異(こと)にして、埋(うづみ)しかば」万が一、これが男色の禁忌であったり、神意に従わない、神以外の人間或いは人間同士が勝手に決めたいまわしいアンタッチャブルな行為として神罰が下されたととるならば、私はここで、別に分けて新たにそれぞれ別に改葬すること自体が、不審だと思う人間である。神の許さざる行為である以上、それは、滅せられなくてはならない忌まわしい対象であるからである。則ち、少なくとも、それを実行に移してしまった天野の祝の遺体は破棄されるのが、民俗社会の定法と考えるからである。「しかし、時間が経ってしまって、どっちがどっちの遺体かは判らないんじゃないか?」と反論するとなら、それならば、神罰を鎮めるためには、小竹の祝の遺体を含めて、山野に遺棄すべきものであろう。しかし、分けて改葬した結果、天変が治まったからには、これはやはり、異なった産土神に仕える神職を同じ穴(熊楠先生、決して肛門ではありませんぞ!)に葬ったことが禁忌であるというシンプルな真相であり、それ以上、それ以下では、決してない、と私は信ずるものである。

「炳燀(あきらかにし/かゝやき)て」「炳」は音「ヘイ」で、「明らかなさま」或いは「光り輝くさま」を言い、「燀」は、ここでは、音「セン」で、「燃える・火のおこるさま」或いは「盛ん・盛んである」の意で、合わせて、太陽の燃え輝くそれを表わしている。

「別(わいだめ)」「辨別(わいだめ)」。「区別・判別・けじめ」の意。

「紀州志」「南紀名勝志」或いは「紀州名勝志」・「南紀名勝略志」という名で伝わる紀州藩地誌の写本の中の一冊であろう。底本と同じ「新日本古典籍総合データベース」の「南紀名勝志」を参看したところ、同書の「那賀郡」のここにあった。本篇の内容と同様のものがあって、本篇が引くのは、その最後の部分だけであることが判明した。訓点附きの日本漢文であるので、この際、訓読して電子化する。読みの「/」は本編本文と同じく左右の読み。約物「乄」「ヿ」は正字化し、句読点・記号・濁点や、一部の送り仮名や読みを推定で打った。一度、読みを振った箇所、普通の読みの箇所は、一部を除いて省略した。

   *

   小竹(しぬの/しのゝ)宮

「日本記」巻九に曰はく、神功皇后、南して、詣(いたりま)して紀伊國に、太子と日高に會して、議(はかりこと)を、以つて、群臣に及(およぼし)て、遂に、忍熊王を(をしぐまわう)を攻めんと欲して更に小竹(しぬの/しのゝ)宮に遷(うつ)る【「小竹」、此(ここ)には、之れを妨(さまたげ)ると云ふ。】。是の時、適(おもむ)きてや、晝、暗きこと、夜のごとし。已に多くの日を經(ふ)。時の人、「常夜(とこやみ)、行く。」と云へり。之れや、皇后、紀の直の祖、豊耳に問ひて曰はく、「是れ、恠(しるまし)[やぶちゃん注:「奇怪な前兆・不吉な前触れ」の意の上代語。]、何の由(ゆゑ)ぞ。」と。時に

一(ひとり)の老父(おきな)有りて、曰はく、「傳聞(つて に きく/つたへきく)、是々のごとき恠をば、『阿豆那比の罪』と謂ふなり。」と。問ふ、「何(なに)の謂ひぞや。」と。對(こた)へて曰はく、「二社の祝(ほふり)、共に合葬か。」と。因りて、以つて、推(と)はしむ。問ふに、巷里(むら)に、一人、有り、曰はく、「小竹(しぬの/しのゝ)祝、天野の祝と共に善友(うるはしきとも)たり。小竹の祝、逢病(やまひ)して、死す。之れ、天野の祝、血泣(いさ)ちて、曰はく、「吾や、生きし時に、交友たりき。何の死して、穴を同じくすること、無(な)けんや。」と云ひて、屍(かばね)の側(そば)に伏して、自死す。仍(よ)りて、合葬す。蓋し、之れか。」と。乃(すなは)ち、墓を開き、之を視れば、實(まこと)なり。故に、更(また)、棺櫬[やぶちゃん注:「櫬」は「柩(ひつぎ)」の意。読みは振られていないので、二字で「ひつぎ」と読んでおく。]を改めて、處を異にして、以、之れを埋む。則ち、日暉(ひのひかり)、炳爃(てり)て、日夜、別(わきだめ)、有り云〻。

小竹の宮、今、尋(たづ)ぬるに、なし。志野村の中(うち)に社あり、「あつまやの御前」と云ふ。小社なり。側(かたは)らに、寺、あり、「神宮寺」と号す。此所、山伏の行所(ぎやうしよ)たるよし。是れ、昔しの「小竹宮」か。詳からならず。

   *

これを見るに、本書の著者は、「日本書紀」の原文に当たらず、以上を表記を変えて写しただけのように思われる。なお、同じ「新日本古典籍総合データベース」の「紀州名勝志」では、同書の「附録」のここに、やや似た条があった。朱点の内、読点のみ採用した。

   *

  小竹(しのゝ)宮 那賀郡

日本紀載神功皇后行幸此、按志野庄志野村中有小祠、其傍有寺、名神宮寺或其地也歟、

   *

「那賀(なか)郡」旧称は「なが」(「奈我」)で、ここは現行では漢字表記からも、「なが」と読むべきであろう。紀伊国及び和歌山県にあった郡。郡域は当該ウィキを参照されたい。旧地名はこの附近の施設に散見される。難波氏が小竹宮があったとする位置に極めて近い。

「あづまやの御前」東屋御前弁財天の宮として現存する。

「神宮寺」現存しない模様。神宮寺は大方、廃仏毀釈で廃されてしまった。

「むかしの『小竹宮』歟(か)」位置的に、この近くであることは疑いようがない。]

2022/11/06

大和怪異記 電子化注始動 / 序・卷之一 第一 日本武尊山神を殺し給ふ事

 

[やぶちゃん注:「大和怪異記」電子化注を始動する。本書は作者不詳(無記名)で、七巻七冊。宝永五 (一七〇八)年の序(署名は「無名氏」)がある。但し、以下に示す「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の解題によれば、作者を『興雲子(荻原政親か)』とされる。但し、この荻原政親なる人物もネット上では事績が判らない。底本の版元は京都の「柳枝軒」である。

 底本は「国文学研究資料館」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用とする。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。

 挿絵があるが、これは「近世民間異聞怪談集成」にあるものが、状態が非常によいので、読み取ってトリミング補正し、適切と思われる箇所に挿入する。因みに、平面的に撮影されたパブリック・ドメインの画像には著作権は発生しないというのが、文化庁の公式見解である。底本(カラー。但し、挿絵は単色)の挿絵部分もリンクを張っておく。]

 

 所            ■■

出  大和怪異記  

 付            繪入

 

[やぶちゃん注:表紙。左䇳。「出所付」は底本では、大きな○印の中に正三角形状の頂点位置に配されてある。「■■」は大方が欠損していて判読不能。

 以下、序(ここから)。句点が打たれているが、従わない。読みはカタカナで、ここのみ、その総てを附した。]

 

屋滿登怪(クワイ)異記叙

 そのかみ、「遼東(レウトウ)に白豕(ハクシ)を異(コト)なり。」とする者ありて、そしりを萬世(バンセイ)に胎(ノコ)すといへども、河東(カトウ)の群豕(グンシ)を見て、おのが陋識(ロウシキ)をしれり。今(イマ)、やつがれが此書を記(キ)せる。漏(モレ)たるを拾(ヒロ)ひ、竒(メヅラカ)なるを輯(アツ)むと思へど、邊鄙(ヘンヒ)に居(ヰ)て、書籍(シヨセキ)に乏(トボ)しき故、其所ㇾ載(ノスル)事の事、既(スデ)に世におこなはれたるもしらねば、彼(カノ)遼東(レウトウ)の人の陋識(ロウシキ)をさとれるも、予(ヨ)にをゐては、こひねがふべきのみ。然れ共、知(シラ)ざるを知(シラ)ざるとせよ、となれば、耻(ハヅ)べきにあらずと、みだりに梓(シ)にちりばめて、臭(クサキ)を逐(ヲフ)人の為(タメ)にす。旹寶永戊子の冬

                無名氏序

                 [落款][落款]

[やぶちゃん注:「をゐて」はママ。落款二種(底本のここ)は私には読めない。

「遼東の白豕」故事成句「遼東の豕」。「後漢書」の「朱浮伝」の中で、遼東で珍しいとされた白頭の豚が、河東では珍しくなかったという故事から、「世間知らずであったために、つまらないことを誇りに思って自惚れること。」の喩えとする。

「旹」「ときに」と読む。「時に」に同じ。底本では、「旹」は上から「山」+「上」+「日」であるが、表記出来ず、「グリフウィキ」の「旹」にもない、いわば、変造字である。

「寶永戊子冬」宝永五年戊子(つちのえね/ボシ)。一七〇八年。「冬」とあるから、初版はやはり宝暦六年と考えてよかろう。

 以下、巻之一の目録。「十一」以下の頭の数字は底本では半角。ここも読みは総て附した。]

 

 

やまと怪異記一

一 日本武尊(やまとだけのみこと)山神(やまのかみ)を殺(ころ)し給ふ事

[やぶちゃん注:「やまとだけのみこと」はママ。]

二 小竹宮(しのゝみや)怪異(けい)の事

三 吉備縣主(きびのあがたもり)虬(みつち)をきる事

四 螺蠃(すがる)大蛇(おろち)を捉(とる)事

五 文石小麿(あやしのこまろ)狗(いぬ)に化(ばけ)る事

六 猿(さる)哥(うた)をよむ事

七 河邊臣(かはべのしん)雷(いかづち)神をやきころす事

八 猪麿(いまろ)鰐魚(わに)をころす事

[やぶちゃん注:「いまろ」はママ。]

九 豊後國(ぶんごのくに)頭峯(くびのみね)の事

十 同国(どうこく)田野(たの)の事

十一 嵯峨天皇(さがのてんわう)は上仙法師(じやうせんほうし)が後身(こうしん)たる事

十二 雲中(うんちう)ににはとりたゝかふ怪異(けゐ)の事

[やぶちゃん注:「けゐ」はママ。]

十三 金峯山上人(きんぶせんのしやうにん)鬼(をに)となつて染殿后(そめどののきさき)をなやます事

[やぶちゃん注:「をに」はママ。]

十四 阿部晴明(あべのせいめい)花山院(くはさんのいん)の前生(ぜんじやう)をうらなふ事

[やぶちゃん注:「いん」はママ。]

十五 赤染衞門(あかぞめゑもん)が妹(いもと)魔魅(まみ)にあふ事

十六 宇治中納言在原業平(うぢのちうなごんありはらなりひら)の幽㚑(ゆうれい)にあふ事

[やぶちゃん注:「ゆうれい」はママ。「㚑」は「靈」の異体字。]

十七 大江匡房(をほゑのまさふさ)は蛍惑星(けいこくせい)の化身(けしん)たる事

十八 壬生(みぶ)の尼(あま)死(し)して腹(はら)より火(ひ)出(いづ)る事

 

 

やまと怪異記一

 第一 日本武尊(やまとだけのみこと)山神(やまのかみ)をころし給ふ事

 景行天皇二十八年、日本武尊、信濃におもむきたまふに、此國は、山、たかく、谷、ふかく、嶺(みね)、かさなり、いはほ、さかしふして、馬、なづみて、ゆかず。

 しかれども、尊、けふりを、披(ひら)き、霧を、しのぎ、大山(たいさん)を、わたり、みねに、いたりて、山中に食し給ふに、山の神、みことを、なやまさんがため、白き鹿(しか)になりて、尊の前に、たてり。みこと、あやしみて、蒜(にら)をとりて、彈(はじき)たまひしかば、鹿の、まなこに、あたりて死しぬ。

 此とき、尊、たちまち、道にまどひて、いづる所を、しり給はざりしに、白き狗(いぬ)、來りて、みちびくのかたちあり。狗にしたがひて、美濃に出《いづ》ることを得たまふ。「日本紀」

[やぶちゃん注:底本はここから。原拠は、国立国会図書館デジタルコレクションの昭和六(一九三一)年岩波書店刊黒板勝美編「日本書紀 訓讀」中巻で示すと、ここの左ページ一行目半ばから。原文は以下。関連する後続部分も示しておく。

    *

則日本武尊、進入信濃。是國也、山高谷幽、翠嶺萬重、人倚杖難升、巖嶮磴紆、長峯數千、馬頓轡而不進。然日本武尊、披烟凌霧、遙俓大山。既逮于峯而飢之、食於山中。山神、令苦王、以化白鹿、立於王前。王異之、以一箇蒜彈白鹿、則中眼而殺之。爰王忽失道、不知所出。時白狗自來、有導王之狀、隨狗而行之、得出美濃。吉備武彥、自越出而遇之。先是、度信濃坂者、多得神氣、以瘼臥。但從殺白鹿之後、踰是山者、嚼蒜塗人及牛馬、自不中神氣也。

   *

後の「吉備武彥、……」以下がちょっと判り難い向きには、サイト「日本神話・神社まとめ」の「景行天皇(三十七)信濃の白い鹿を蒜で殺す」が現代語訳も載っており、解説も親切でお薦めである。その訳中の「信濃坂」について、『信濃坂(シナノノサカ=現在の長野県下伊那郡那智村と木曽郡山口村の境の富士見台)』を一説として挙げておられるが、前者は長野県下伊那郡阿智村の誤りであろう。後者は旧長野県木曽郡山口村で、現在の岐阜県中津川市山口で、南の馬籠宿を含む旧村名である。県を越えた合併は非常に珍しい。さて、その馬籠の南東に接するのが、まさに、岐阜県中津川市神坂で、ここは南西で長野県下伊那郡阿智村に接しており、その境に神坂峠はあるのである(孰れもグーグル・マップ・データ)。実際、ウィキの「神坂峠」の「古典文学に登場する神坂峠」はこの話を筆頭に置いている。また、言うまでもなく、その北方の馬籠―馬籠峠―妻籠(グーグル・マップ・データ航空写真)は中山道の要衝であった。]

隠遁夢

今朝見た夢である。隠遁を考える経緯が面白いので、記すことにした。因みに、この半年ほどは、夢を見ない日はなく、必ず、午前三時過ぎ頃に目覚めると、暫くそれらの夢を脳内で再現し、細部を記憶するのを常としている。

――鎌倉駅の改札構内に私は元同僚の教員たちと待ち合わせている。どこかの史跡を訪ねて、久々に旧交を暖めようという趣向であるが、一部の仲間が遅れていて、五、六人で待っているのである。痺れを切らした一人が、予定地に「先に行こう。」と提案する。私は、遅れている者の中に特に親しかった者がいるので、「僕はここで待っているよ。」と言うと、私を除いて総てが、改札を出て行った。

 暫く待っていると、突然、「先生!」と声を掛けられた。

 振り仰ぐと、昔の教え子の男性の笑顔があった。もう、とっくに三十代で、顔つきも少し変わっていたが、すぐに✕✕(注:実在する教え子の名を私は呼んだ。以下の伏字も実際には正しい姓を呼んでいた。)君だと判った。彼は何故か、学生服を着ていた(注:この後に登場する教え子の男女も、皆、何故か、総て、学生服を着ていた。)。

「やあ! ✕✕君!」

「ちょっと前ですが、沢登りでお顔を拝見したんですよ!」

それを「はっ」と思い出した(注:実は、この二日前に、丹沢の沢登りをしている夢を見、かなり上の方から、私を不思議そうに見ている男性と女性が、やおら、私に向ってしきりに手を振っている夢を実際に見ていた。その時は、距離が有意にあって、二人が誰かは判らなかったのを覚えていたのである。流れる沢の音だけが聴こえる夢であった)。

 彼の横には女性がおり、やはり、

「あなたは生徒会長だった✕✕さん! お久し振り!」

と応じ、少し、二人と話をしていると、後から、別な高校の教え子らが、孰れも、小集団で、続々とやって来て、「やぶちゃんだ!」と声を挙げて、集まってくるのであった。

 何故かは判らないが、そのそれぞれのグループは段ボールを小脇に抱えている。といって、それらの集団ごとは、全く偶然に、ここを通っているらしく、相互の者が語り合うこともなく、来た目的も全く異なったもののようであった。(注:学生と段ボールといえば、文化祭からの連想で、夢の中の私には違和感がなかった。)

 彼らは、急いでいるらしい。しかし、私と逢って、何か嬉しそうで、銘々が、それぞれが持っている段ボールに、

「先生の「こころ」の授業は忘れられません!」(注:実は最近、私が長く務めた高校の卒業生で医師となった教え子が、その母校で先輩として講演をし、そうしたことを語ったと、人伝てに聴いていた事実がある。)

「「猫の話」の朗読、最高!」[やぶちゃん注:梅崎春生の小説。私が朗読し、ある女生徒が感極まって泣いていたのが忘れられない。嘗つては教科書によく所収されていたが、作品の展開上、惨酷な描写があり、恐らくは、もう、教科書に載ることはないであろう。]

「李徴、今も、ここにあり!」[やぶちゃん注:中島敦の「山月記」の主人公。私は朗読七割授業三割を標榜し、中でも「山月記」の朗読は、誰にも譲れない定番であった。幾つかの転勤した高校で、初っ端に「山月記」を全朗読したが、即座に「李徴」という綽名を頂戴したものだった。なお、以上の作品は、総て、私の注附きで(というか、当時のモロ、オリジナル授業案そのものである)サイトのこちらにある。]

などと、太字の油性の黒インクで書いて、私に渡すと、黙礼し、足早に改札を出て行くのであった。

 ふと、気がつくと、構内は森閑として、清掃する老人だけが、いた。

 私は、教え子たちが呉れた十数枚の段ボールを胸に抱いて、呆(ほお)けていた。

 すると、その老人が、

「今日は段ボールはゴミに出せんよ。」

と囁いて、ホームへ向かう階段に姿を消した。(注:覚醒した瞬間に思ったのは、私の好きなマルセル・カミュ監督の一九五九年の「黒いオルフェ」のワン・シーンだった。ユリディスの亡骸を探すオルフェのシークエンスの中の一つである。)

 私はそこで考えている――(注:ここは、夢の中の映像が、段ボールをしっかと抱えた私を正面から写して、それがフレーム・アップするという見事に映画的な夢の映像だったことに驚愕した。)

 そこに突っ立ったまま、微塵も動かず、心の内で、

『私は、これから、鎌倉の山中へと入(い)り、人跡なき尾根を抜け、あの誰も知らない崩れかけた懐かしい「やぐら」の中に座り、彼らの言葉が記されたこれを、姥捨ての老婆の蓑笠のように周囲に立て掛けて――隠棲しよう……』

と決心するのであった。

   *

 因みに、鎌倉(と言うより、より広域な旧幕府御府内)の周囲の山の中には、今でも、人の知らない「やぐら」が存在する。場所は言えないが、大学生の時、そうした一つを、一時間ほどヤブ漕ぎして、探し出したことがある。

 

2022/11/05

曲亭馬琴「兎園小説拾遺」 第一 「天保二年辛卯春正月三子出生の事」

 

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。昨年二〇二一年八月六日に「兎園小説」の電子化注を始めたが、遂にその最後の一冊に突入した。私としては、今年中にこの「兎園小説」電子化注プロジェクトを終らせたいと考えている。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちら(左ページ上段七行目から)から載る正字正仮名版を用いる。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。

 馬琴の語る本文部分の句読点は自由に変更・追加し、記号も挿入し、一部に《 》で推定で歴史的仮名遣の読みを附した。]

 

   ○天保二年辛卯春正月三子出生の事

火消役近藤彥九郞組同心、時谷般五郞【卯三十六歲。】、同人妻まし【卯三十四歲。】、右、出生男子、鎭之助・鋒之助・鎔之助、三子一產也。男子の三生、天下の吉事也。しかれども成長すべくや否《いなや》、難ㇾ計《はかりがたき》よしにて、頭《かしら》おさへて、未ㇾ及御屆間、般五郞、貧にて、殆《ほとんど》、難儀といふ。そののちのことを不ㇾ聞。近藤氏、御役屋敷は、飯田町《いひだまち》上《うへ》の火消やしきなり。

[やぶちゃん注:「天保二年辛卯」一八三一年。

「御役屋敷」「飯田町上の火消やしき」「江戸マップβ版」の「江戸切絵図」の「飯田町 駿河臺 小川町絵圖」の右上中央附近にあるのがそれか。]

曲亭馬琴「兎園小説拾遺」 第一 「浦賀屋六右衞門話記」

 

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。昨年二〇二一年八月六日に「兎園小説」の電子化注を始めたが、遂にその最後の一冊に突入した。私としては、今年中にこの「兎園小説」電子化注プロジェクトを終らせたいと考えている。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちら(右ページ上段終りから六行目から)から載る正字正仮名版を用いる。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。

 馬琴の語る本文部分の句読点は自由に変更・追加し、記号も挿入し、一部に《 》で推定で歴史的仮名遣の読みを附した。]

 

   ○浦賀屋六右衞門話記【靈巖島、住居。】

去る十三日【文政元年五月十三日也。】亥刻、相州浦賀へ、異國船一艘、着す。右船、遠州沖にて、伊勢白子《しろこ》の船乘共、見掛候に付、遠く避《さけ》て乘行候得共、兎角、跡を追來候樣子に相見え候間、「多分、海賊の船哉《かな》。」と恐怖仕《つままつり》、猶、以、船を早め候處、彼船に被追越候故、又々、遲めに船をやり候得ば、又復《またまた》、彼船、相從ひ、遲めに相成候を見候に付、愈《いよいよ》、船の者共、驚天仕、彼是《かれこれ》と致候内、伊豆沖に相成候へば、「此分にては、入津《にふしん》仕《し》がたし。」と存《ぞんじ》、伊豆相摸の間に【此處の名、忘却。】、」碇を卸し、日暮を相待《あひまち》、彼船を出し拔き、浦賀へ入津可ㇾ仕旨、船中相談致し、夜に入《いり》、四時《よつどき》頃に帆を揚《あげ》、浦賀へ着船致し、右之趣、委敷《くはしく》御番所へ申上候。

[やぶちゃん注:「浦賀屋六右衞門」江戸初期から東浦賀を代表していた干鰯問屋(ほしかどいや)の宮原屋与右衛門の既に隠居して霊岸島に住んでいた旧店主か。

「文政元年五月十三日」グレゴリオ暦一八一八年六月十六日。この年は文化十五年四月二十二日に仁孝天皇即位のため、改元している。この浦賀に来た船は、先に述べてしまうと、イギリス船である。「国立公文書館」の「デジタルアーカイブ」の「4.視聴草(みききぐさ)」を見られたい。当該書の始末書写しの資料が画像で見られる。解説には、『番所の役人が事情を尋ねたが』、『言葉が通じない。江戸から天文方の足立左内(あだちさない 信頭(のぶあきら))・馬場佐十郎(ばばさじゅうろう 貞由)が派遣され、来航の経緯を聴取したということです。異国船現る!の報が達すると、この地で海岸防備に当たっていた会津藩兵が抜き身の槍を持って出動し、兵船で取り囲むなど緊張が高まりましたが、イギリス船はインドからロシアヘ向かう途中の商船で、交易は不可、即刻退去するように勧告すると、静かに姿を消したと書かれています。通訳を務めた足立左内と馬場佐十郎は、オランダ語を解したうえ、共にゴロウニンの一件』(ウィキの「ゴローニン事件」を参照されたい)『で松前に出張してロシア語を学んでおり、当時最も外国語に通じた幕臣でしたが、英語の理解力は不十分だったようです』とある。

「伊勢白子」現在の三重県鈴鹿市白子(グーグル・マップ・データ。以下、指示のないものは同じ)。

「四時」午後十時前後。]

一、此異國船、松平肥後守樣御固め場、三崎浦を過《すぎ》候節は、未の下刻、白子船、碇を卸候は、申の刻に候。此處【地名、忘却。】、獵船、多く候故、皆々、「唐人船。」と申、逃候も有し。又、おそるおそる、船に近寄候處、さしてかまひ候體《てい》も見え不ㇾ申候に付、彼船へ、乘移り、見候人も、有しよし。乍ㇾ去《さりながら》、此處の浦人は、猥《みだ》りに見候事は話し不ㇾ申候故、御固め御番所の御方は、一向、御存無ㇾ之由に御座候。此船、白子船と同時に、浦賀へ着船仕候。右の船、此邦、五、六百石積《づみ》の船程に相見え申候。帆三ケ所、檣《ほばしら》二本、四人、乘《のり》、何れも六尺位に見え候。中に、一人、六尺三、四寸位、尤《もつとも》衣服、筒袖に候故、大きく見え申候。乍ㇾ去、此方、御役人と並びし處、差《さし》て違ひも無ㇾ之に付、只、見《みて》、大きく見え候歟《か》と存候。船は、總《すべて》、黑塗にて、中程に、一筋、白き所、御座候。波付の處は、銅にて張つめ有ㇾ之、不ㇾ殘、チヤン塗也。

[やぶちゃん注:「松平肥後守」当時の相州三浦の三崎は陸奥国会津藩の領分で、藩主は第七代松平容衆(かたひろ)。但し、未だ数え十六であった。因みに、この四年後に二十歳で亡くなっており、彼の死によって徳川秀忠の男系直系は断絶している。

「未の下刻」午後二時半から三時頃。

「申の刻」午後四時前後。

「此處【地名、忘却。】」先のリンク先の始末書写しを見るに、久里浜沖である。

「四人、乘」檣(マスト)に上っている人員数。

「六尺」一メートル八十二センチメートル弱。

「六尺三、四寸」一・九一~一・九四メートル弱。

「波付」舷側。ふなばた。

「チヤン」通常は「瀝青炭」を指すが、この頃は同様な充填・塗装材として用いる「松脂」もこのように言った(日本人がそうとった)ものと思われる。瀝青は「chian turpentine」の略とされ、タールを蒸留して得る残滓、又は、油田地帯などに天然に流出固化する黒色、乃至、濃褐色の粘質物質、又は、固体の有機物質で、道路舗装や塗料などに用いる「ピッチ」を指す(「広辞苑」に拠った)。]

一、船のトモに土藏體《てい》の物、有ㇾ之。是も圖【◎圖、省略。】の如く、總體、白きに、黑き筋、有ㇾ之候。此處は、錠《ぢやう》、おり候間、何故とも相分り不ㇾ申候。又、此錠、有ㇾ之前に、長者、一人、是は頭分《かしらぶん》の者と相見え、小事に一向、かまい不ㇾ申、只、終日、日本[やぶちゃん注:この右手にママ注記有り。]物計《ばかり》、讀居《よみをり》申候。中に一人、此頭の弟かと申者、有ㇾ之、是は、服も、外のよりは美敷《うつくしく》御座候て、顏も野《や》ならず、髯《ひげ》なども、そり候故、格別、目立申候。

[やぶちゃん注:「トモ」艫。船尾。

「土藏體」不詳。私は当初、固定された巨大な大砲を収納してあったものかとも思い、次では献上品と推測しているが、一日に異常な回数で何度も出入りしているから、孰れも違うか。よく判らぬ。後で大筒は出る。]

一、十四日の朝、浦賀船乘《ひなのり》共、右、船、見物に參り申候者の中に、一人、彼船に乘移り候處、異人共、皆々、顏に風呂敷程の物を覆ひ、熟睡仕候故、試《こころみ》に取はづし見候へば、面體《めんてい》、白く、眼中、赤く、髮・髯・眉毛、赤く、鼻筋通り、此邦の人とは相違候故、驚き、船より飛おり、逃申候。是より、浦々のもの共、小船にて見物に參り候處、彼《かの》船中へ招き入れ、悉く、見物爲ㇾ致候《いたさせ》へ共、船底は、何程《いかほど》有ㇾ之候哉《や》分り不ㇾ申候。只、家猪《ぶた》[やぶちゃん注:二字への読み。]・雞(にはとり)の類、多《おほく》畜《たくはへ》候故、臭氣、堪がたく候。又、所々見せ候中《うち》、錠おろし有ㇾ之所を、見せ候樣、手まねいたし候所、異人共、指二本をさし出し見せ、又、首のあたりを、手にて、たゝき申、錠、をさへ[やぶちゃん注:「押(お)さへ」か。]候眞似、仕候。是は、彼、國王よりの献上物を入れ候故、首を刎《はね》らるゝ共、聞き不ㇾ申との事哉《なり》と推察仕候。

一、日々、兩人づゝ手をこまぬき、右土藏の物の前へ、百度參りやうなる事を仕、終日、五百遍計りもいたし申候。相濟候へば、頭分のもの、書を讀立候《よみたてさふらふ》と、外、八人の者、前へ並び、禮を盡し候樣子に相見申候。

一、江戶より、御通辭、御兩人、御出被ㇾ成、船の元にて、何々と被ㇾ仰候と、異人共、大喜《おほよろこび》の體《てい》にて、彼《かの》船へ御招き申、毛氈を敷《しき》、菓子など、とりそろへ、もてなし候樣子にて、能《よく》、言語も相通《あひつうじ》候よし。

一、十四日、會津樣御役人中《ちゆう》樣、異國船御見分に御出被ㇾ成候節、異人共、皆、笠をとり、御役人方の前へ差出《さしいだし》、其御役人方、御冠り被ㇾ成《なられ》候笠を、とり替《かへ》、おのれが臂《ひぢ》にて、寸尺をとり、戾し候よし。何の故とも相分り不ㇾ申候。

[やぶちゃん注:これは単に相手が帽子をとって挨拶したのを、役人たちが帽子を贈り物と勘違いしたに過ぎないのではなかろうか。]

一、大筒、其外の武器、幷に所持の種ケ島、佩劔、帆・楫等、御取上げに相成候よし。【但、帶劔、鞘、無ㇾ之、創之幅二寸ほどと申事に候。】

一、右、品々御取上の後、又々、帆を拵へ掛申候。楫も拵候よし。

一、右、揖を拵候節、カンナを取出候處、此邦のより、よほど大きくて、向ふへ、向ふへと、けづり申候。

一、武器、多く、船へ仕入來候事、如何《いかん》の儀と御尋有ㇾ之候處、海賊の防《ふせぎ》の爲に候よし、申上候とぞ。

一、右、大筒御取上の節、異人一人にて差出候、鐵砲、二人かゞりにて、堪がたき、よし。

一、異人共、只、「江戶、江戶、」と申計《ばかり》相分り候て、外、言語、一向、相通じ不ㇾ申。「江戶」と申も、此邦へは、「イド」と計、聞え申候。

一、願書、漢字・國字、其外、和蘭國王の添狀、持參候得共、和蘭王の印、無ㇾ之よし、風聞申候。併《ならびに》、願書の儀なども、下說《げせつ》にては、色々、申候間、しかと致し候事、一向、分り不ㇾ申候。

[やぶちゃん注:「下說」下々の者の勝手な噂。]

一、御通辭方、御出被ㇾ成候て、渡海の料《れう》に米を被ㇾ下べきよし、御尋有ㇾ之候處、米は、五百俵、積來《つみきたり》候に付、水計《ばかり》被ㇾ下候。外に、枇杷《びは》被ㇾ下候處、誠に大喜の樣子のよし。

一、十四日の朝、沖に、大船、相見え候得ども、何艘と申事、分り兼申候。或は三艘とも申、或は二艘とも申候。又、十五日の夕方にも相見え申候。

一、檣の上に、二人、乘《のる》程に、拵候物、御座候て、是へ、繩梯子かけ、有ㇾ之、何か相談有ㇾ之節、此處にて致し申候よし。

一、異人共、天眼鏡の樣なる物を所持仕候。是は水の淺深を計り申候器《き》のよし。

[やぶちゃん注:どんな形の器械なのか、私には判らない。何方か御教授をお願いする。]

一、大行燈《だいあんどん》有ㇾ之、是は硝子にて、張詰《はりつめ》有ㇾ之候に付、大船中、是一つにて明《あかるく》なるよし。

一、碇、此邦とは相違仕り、

 

Ikari

 

如ㇾ此、二股なる木の兩端に、鐵をはめ候ものなり。その木計《ばか》りにても、石よりも、おもきよし、右、碇、二本にて、此大船をとゞめ申候。右、碇、シヤチにて上下仕候。其シヤチの中ほどに、穴、有り。その穴の中へ、木を入れ、卷申候。卷《まく》こと、一廻り仕時候《じこう》、シヤチの兩方に釣り御座候て、自然と落《おち》候へば、碇繩、跡へは、もどり不ㇾ申候故、手もなく、數百貫目の碇を、容易に二人にて上下仕候。一人は碇の綱を預り候て、世話いたし候由。

[やぶちゃん注:画像は吉川弘文館随筆大成版のものをトリミング補正した。

「シヤチ」「車地」或いは「車知」と書き、重い物を引っ張ったり、持ち上げたりするために、綱をかけて巻き上げる大きな轆轤(ろくろ)のこと。「絞車」(こうしゃ)や「車盤」(しゃばん)とも言う。]

一、衣服、皆、羅紗、着用仕居申候。

一、此船、イギリス國の令にて、榜葛羅(べんから)國より出帆いたし候由。

[やぶちゃん注:「榜葛羅(べんから)國」ベンガル地方。現在のインドの西ベンガル州とバングラデシュに相当。]

一、廿一日、願の儀、一切御聞屆無ㇾ之旨、被仰渡、卽日、早々、出帆被仰付候由。

一、出帆の節、九人の者共、名殘惜《なごりをし》き體《てい》にて、船の霞《かすみ》候まで、遠眼鏡にて見申候。

一、此日、又復、沖に船見え候由にて、浦賀騷ぎ候得ども、出船いたし候船の、沖に漂ひ候也《なり》とも申候。

[やぶちゃん注:以下の二段落は底本では全体が一字下げ。]

右浦、六話、記畢《しるしをはんぬ》。船の圖は左にあり。

此後、文政五年七月、又、來る。次の卷に載たる船の圖には、檣、三本ありて、大同小異なり。おもふに、次の卷の圖は、五年の七月に來つる船の圖なるべし。これ彼、合せ考べし【圖、省略。】。

[やぶちゃん注:「文政五年七月、又、來る」先の「国立公文書館」の「デジタルアーカイブ」の「4.視聴草(みききぐさ)」の解説に、『『視聴草』続二集の六には』、文政五年四月二十九日(グレゴリオ暦一八二二年六月十八日)、『再びイギリスの船が浦賀に来航したときのことが記されています。またしても足立・馬場の両名が派遣され、オランダ語を解する乗務員から、同船が』二『年前に本国を出航した捕鯨船で、水、食料、薪を補給するために立ち寄ったことを聴き取ります。幕府の警戒は厳しく、白河、小田原、川越各藩に出動を命じ、多数の船で捕鯨船を囲みましたが、船内には鯨油のほか荷物はなく、薪水と食料そして「敗血病」治療用の「山土」(病んだ足を土中に漬けると快方に向かうというのです)など希望の品が手に入ると、捕鯨船は』五月八日(グレゴリオ暦六月二十六日)『に浦賀を去りました。『視聴草』には、船内の捕鯨道具や乗組員の食器等の図のほか、「諳厄利亜人言語之大概(あんげりあじんげんごのたいがい)」と題してさまざまな英単語が紹介されています』とある。]

曲亭馬琴「兎園小説拾遺」 第一 「雷砲同德辨」

 

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。昨年二〇二一年八月六日に「兎園小説」の電子化注を始めたが、遂にその最後の一冊に突入した。私としては、今年中にこの「兎園小説」電子化注プロジェクトを終らせたいと考えている。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちら(左ページ下段五行目から)から載る正字正仮名版を用いる。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。

 本篇は全部が返り点のみ附した漢文体で、以下の本文のみが、与えられてあるだけで、他に参考に出来るものも見当たらなかったため、訓読は勝手自然流である。誤読があれば、御指摘・御教授戴ければ、幸いである。

 

   ○雷砲同德辨

雷之與鐵砲【鐵砲名目、非俗稱。出「會典」。】。其德之等。其用亦同。葢雷霆者聚散闔闢之師也。是故、仲春月雷有ㇾ聲。則螫蟲出焉。又彼火銃之發也。轟然有ㇾ聲有ㇾ光。聲則屬ㇾ陽。光亦屬ㇾ陽。光發而聲隨ㇾ之。其理如雷霆一般。人々欝氣散焉。聞鐵砲響者。亦與ㇾ此同。此以理所ㇾ同其用不ㇾ異也。近有ㇾ辨雷霆。以爲造化鐵砲者。其言與愚意暗合、亦可ㇾ喜也。若夫聞雷聲與銃響、忽膽怯戰慄者、必在虛陰之症。其病蓡附所ㇾ主也。何則雷霆者。陽氣將ㇾ升而爲陰氣所ㇾ壓。於ㇾ是乎。陽氣欝而怒。怒則奮擊終焉。鐵砲者。以燄硝火藥。硝石陰類也。傳ㇾ之以ㇾ火。則其火欝而怒。怒則不ㇾ得ㇾ不奮擊也。由ㇾ此觀ㇾ之。非獨雷霆爲造化鐵砲。鐵砲亦可ㇾ謂人作雷霆矣。是故獵戶於深山中魑魅一。則發空丸以禳ㇾ之。此發陽之氣。其德與ㇾ雷同。人之好憎不ㇾ一。虛症者心憎ㇾ雷。聞銃響心怯。是則病所ㇾ致。實症者不ㇾ然也。吾老侯嘗好騎馬銃。頃年使本藩牧士等習ㇾ之。至於今人馬相熟。而其術大進。於ㇾ是觀者駭嘆爲至妙。老侯以ㇾ此爲ㇾ樂。其意居ㇾ治不ㇾ忘ㇾ亂。亦是演武之一端云。天下靖治二百十數年矣。騎銃之術無ㇾ所ㇾ用。能ㇾ之者幾稀矣。而是事出於老侯臆度。其用心可ㇾ知也。一日於老侯。老侯曰。寡人每ㇾ聞銃響、胸隔豁然。爽然覺欝氣解散。盍爲ㇾ予誌火銃有是德固陋。雖ㇾ云ㇾ辱貴命、然未ㇾ知ㇾ所ㇾ述。赧然摩ㇾ頂。逡巡固辭。而不ㇾ見ㇾ許。便是所以有是辨也。昔者孔聖稱驥德。今也。老侯好銃擊孔子所ㇾ稱。非奔蹄千里之謂也。老侯所ㇾ欲。豈能擊殺人之謂耶。吁長者嗜好。雖ㇾ兵矣必有ㇾ趣焉。併誌是言。使人知其勝於殘之深意

 文政九年丙戌夏六月  琴嶺瀧澤宗伯敬識

[やぶちゃん注:以下、私の妄想的訓読を示す。読み易くするために、段落と記号を加えた。

   *

   ○雷(かみなり)と砲(はう)と同じき德あるの辨(べん)

 雷(かみなり)と鐵砲(てつぱう)とは【「鐵砲」の名目は、俗稱に非ず。「會典(かいてん)」に出でたり。】、其の德、之れ、等しく、其の用も亦、同じ。

 葢(けだ)し、雷霆は、聚散闔闢(しゆうさんこうへき)の師なり。是れ故、仲春の月の雷、聲(せい)、有り。則ち、螫(さ)す蟲、出づるなり。又、彼(か)火銃(くわじゆう)の發(おこ)りなり。

 轟然として、聲、有り、光り、有り。聲、則ち、陽(やう)に屬し、光も亦、陽に屬す。光り、發(はつ)して、聲、之れに隨ふ。

 其の理(ことわり)は雷霆一般のごとし。

 人々、欝氣を散ずるに、鐵砲の響きを聞かば、亦、此れと同じ。

 此れ、理(ことわり)は、同じくせるものにして、其の用(よう)も異(こと)ならざるものを以つてするなり。

 近きに、「雷霆の辨」、有り。以つて、「造化の鐵砲」と爲(な)すは、其の言、愚かなる意を與ふるも、暗に合ひて、亦、喜ぶべきなり。

 若(も)し、夫(それ)、雷聲(らいせい)を銃の響きと聞かば、忽ち、膽(きも)、怯(おび)え、戰慄する者は、必ず、虛陰の症、在り。其の病ひ、蓡(しん:朝鮮人参)を附(そ)へて主(つかさど)らせるものなり。

 何(なん)とならば、則ち、雷霆は、陽氣、將(まさ)に升(のぼ)らんとして、陰氣を壓する所を爲(な)すものなればなり。是(これ)に於いてや、陽氣、欝して怒る。怒り、則ち、奮擊して終(をは)る。

 鐵砲は、燄硝(えんしやう)を以つて、火藥と爲す。硝石は陰類なり。之れを傳ふるに、火を以つてす。則ち、其の火、欝にして怒り、怒り、則ち、奮擊せざるを得ざるなり。

 此れに由つて、之れを觀るに、獨り、雷霆のみ、「造化の鐵砲」と爲(な)して已(や)むに非ず。

 鐵砲も亦、「人作(じんさく)の雷霆」と謂ふべし。

 是れ故、獵戶(れふこ)[やぶちゃん注:猟師。]深山の中(なか)に於いて魑魅(ちみ)に遭へば、則ち、空丸(からだま)を發(はつ)して、以つて、之れを禳(はら)ふ。

 此の發陽の氣、其の德、雷と同じ。

 人之の好憎(かうざう)、一(いつ)ならず、虛症の者は、心(こころうち)、雷を憎み、銃の響きを聞かば、心、怯(おび)ゆ。

 是れ、則ち、病ひの致す所なり。實(まこと)の症には、然らざるなり。

 吾が老侯[やぶちゃん注:松前藩前藩主(隠居)松前道広(宝暦四(一七五四)年~天保三(一八三二)年)。]、嘗つて、騎馬銃を好む。頃年(けいねん)、使本藩の牧士等(ら)に之れを習はしむ。

 今に至りて、人馬、相ひ熟し、而して其の術、大きに進めり。是(ここ)に於いて、觀る者、駭嘆し、「至妙たり。」と爲(な)す。

 老侯、此れを以つて、樂しみと爲す。

 其の意、

「治まり居(を)りても、亂(らん)を忘れず。」

と。亦、

「是れ、演武の一端。」

と。云はく、

「天下、靖(やす)んじて治(をさ)まること、二百十數年。騎銃の術、用とする所、無し。之れ、能(よ)くする者、幾(ほとん)ど、稀れなり。」

と。

 而して是の事、老侯の臆(おもひ)、度(たびたび)出でたり。

 其の用心、知るべし。

 一日(あるひ)、某(それがし)[やぶちゃん注:最後の署名では、表向きは松前藩医員であった瀧澤宗伯(そうはく:医名)興継琴嶺(きんれい:号)をとっているが、事実はその父馬琴である。]、老侯に侍(じ)す。

 老侯、曰はく、

「寡人(かじん)[やぶちゃん注:「徳の寡(すく)ない者」の意で、一人称の人代名詞。但し、王や諸侯が自分自身を謙遜して言う語である。]、銃の響きを聞く每(ごと)に、胸隔、豁然(かつぜん)とし、爽然(さうぜん)して、欝氣、解散するを覺ゆ。盍(なん)ぞ、予が爲(ため)に、火銃に是の德の有るを誌(しる)さざる。」

と。

 某、固陋(ころう)なれば、貴命を辱(かたじけな)きと云ふと雖も、然(しか)るに、未だ、述ぶる所を知らず、赧然(たんぜん)として、頂(ちやう)を摩(ま)すのみ、逡巡して固辭せしも、而れども、許されず、便(すなは)ち、是れを以つて、是の辨の有る所なり。

 昔は、孔聖、「驥德(きとく)」と稱せり。今や、老侯、「銃響(じゆうきやう)」を好みて、孔子の稱する所たり。

 「奔蹄(ほんてい)するに、千里。」の謂ひには非ざるなり。

 老侯が欲せらるるは、「豈に能く殺せる人を擊つ。」の謂ひか。

 吁(ああ)、長者の嗜好たり。

 兵(つはもの)と雖も、必ず、趣き、有り。

 併(あはせ)て、是の言(げん)を誌(しる)せり。人をして、其の殘りの勝れるところの深意を知らしむ。

 文政九年丙戌(ひのえいぬ)夏六月  琴嶺瀧澤宗伯敬識

   *

「會典」(くわいてん(かいてん))は政治書群の中の一種を指す語で書名ではない。特に法令や典章を記録したものを指す。現存している会典で最も古いものは「唐六典」である。但し、ここは「鐵砲」或いはそれと同義の語を挙げている、「会典」の意である。因みに、小学館「日本国語大辞典」の「銃」の項に用例として『清会典―兵部・武庫清吏司』を挙げているから、清代の「大清会典」(初版は一六九〇年)には既に「銃」は確認されていることになる。但し、ウィキの「銃」によれば、『一二七〇年から一二八〇年頃に』、南宋の一二五九年頃に発明された筒状の木や竹の中に火薬と石の弾丸を入れて前方に飛ばす「突火槍」に代わって、『青銅などの金属を筒状に鋳造した「手銃」』(ハンド・キャノン)『が製造され、これは筒の後方に木の柄を取り付けて使用した』。十四『世紀に入ると』、『中国各地に手銃が伝わり、同世紀末頃に中国各地で製造が始まっている』。『中国の主張によれば、中国で発明された火薬や火薬を使用する武器はシルク・ロードを通ってインドやアラビアに伝わったのだという』とあるから、もっと前の「会典」に載るのであろう。そうなると「明会典」かと思ったが、考えてみると、元寇は、そのような装置を持って日本を攻めていることは誰でもご存知であろう。而して、上記リンク先をよく読むと、『初め火薬は、梱包されて』、『導火線をつけ、投擲して建物などを焼く、焼夷弾の火毬に利用された。火毬は火薬を陶器の容器に装填し、破裂すると』、『破片が飛び散る原始的な手榴弾となった。この手榴弾は』「鉄炮」『と名づけられ』、十三『世紀にモンゴル帝国が武器として各戦場で使用した』()。一二七四(文永一一)年『年の日本襲来(元寇)の際にもモンゴル軍によって使用された』とあるから、これは元の「会典」である「大元聖政国朝典章」(略称「元典章」。一三二二年までの情報が記されてある。現存するものは、元代の福建で作られたものであり、台北の国立故宮博物院にある。しかし、奥付等が無いため、正確な刊行年は不明である。ここは当該ウィキに拠った)が実際に近代的鉄砲の原形が掲載されている当該書ではないかと私には思われる。

「闔闢」閉じることと開くこと。

「仲春の月の雷、聲、有り」「一年の始まりと生きとし生けるものの活発に開き始める二月の春雷には、厳かな聖なる響きがあるのである。」という意でとった。

「雷霆の辨」不詳。識者の御教授を乞う。馬琴の別な論ではないようである。

『吾が老侯、嘗つて、騎馬銃を好む。頃年(けいねん)、使本藩の牧士等(ら)に之れを習はしむ。今に至りて、人馬、相ひ熟し、而して其の術、大きに進めり。是(ここ)に於いて、觀る者、駭嘆し、「至妙たり。」と爲(な)す。』先行する『曲亭馬琴「兎園小説別集」上巻 松前家走馬の記 騎馬筒考(騎馬筒)』を参照されたい。

「赧然」恥ずかしさのあまり、顔を真っ赤にするさま。

「驥德」孔子が好んだ「駿馬がその内に持つ稀有なる徳のこと」。

「文政九年」一八二六年。]

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「話俗隨筆」パート 蟻を旗印とせし話

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここと、ここ。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。

 なお、標題下の「同前」は前の「梔子花の兒戯 / 爪切る事 / 感冒」と同じで、大正二(一九一三)年五月『民俗』第一年第一報所収であることを言う。]

 

      蟻を旗印とせし話 (同前)

 

 『常山紀談』卷三、十八章に、「北條丹後、一尺四方の白練《しろねり》に、黑き蟻を繪に書《かき》て指物《さしもの》にしけるを、謙信、見て、「汝が指物、餘りに小《ちひさ》きは、いかなる仔細ぞ。」と問はるゝに、丹後、「誠に、味方よりは、見え難く候べし、左《さ》はあれども、進むに先蒐《さきがけ》し、退くに、いつも後殿《しんがり》せんには、他人の大なる指物も、此小四半《こしはん》と、敵の見る所は同じからんと、存ずる也。」と申すをば、謙信、「理《ことわり》也。」と云はれしとぞ。」。「北條」は「北城」を正《ただし》とす。『關八州古戰錄』(享保丙午成る)卷六には、「北城丹後守長國、未だ彌五郞と申せし時、幅一尺五寸許の白き練貫の四半に、五、六寸(分か)の馬蟻を墨にて𤲿《ゑが》き、捺物《おしもの》としたりける。「先へ進み、敵の面前へ、矢庭に乘着《のりつ》け、手詰《てづめ》の勝負を仕る分別なれば、『憖(なまじひ)に、走り廻りの妨《さまたげ》に罷成る大捺物、一向、無益の事也。』と地盤《じばん》し、隨分、働きの邪魔無き樣に、小《ちひ》く支度仕り候。」と申しければ、輝虎、事の外、悅び褒む。」と有り。

[やぶちゃん注:「『常山紀談』卷三、十八章」「選集」も同じ巻数であるが、私の所持する岩波文庫版では、この話は「卷之三」にある。本書は小学館「日本大百科全書」他によれば、江戸中期の随筆・歴史書で、正編二十五巻・拾遺四巻・付録「雨夜灯(あまよのともしび)」一巻で、全三十冊。湯浅常山(宝永五(一七〇八)年~安永一〇(一七八一)年)著。元文四(一七三九)年の自序があり、原型は其頃に出来たものと思われるが、刊行は著者没後、三十年()ほど後の、文化・文政年間(一八〇四年~一八三〇年)のことであった。戦国時代から江戸時代初頭の武士の逸話や言行七百余を、諸書から任意に抄出、集大成したものといってよい。著者自らが「ここに収めた逸話は大いに教訓に資する故に、事実のみを記す」というように、内容はきわめて興味深いエピソードに富み、それが著者の人柄を反映した謹厳実直な執筆態度や、平明簡潔な文章と相まって多くの読者を集めた、とある。なお、当該ウィキによれば、『著者は備前岡山藩主池田氏に仕えた徂徠学派の儒学者』で、『いわゆる勧善懲悪ではなく、複数の有名な逸話を短く編集して主題ごとに一つの条にまとめて、評論を加えずに淡々としるしている』とし、『草稿(自序)の完成は比較的早期に行われた』が、湯浅の『師匠である太宰春台の意見を入れて』、『徹底的な再改稿を行い』三十『年かけて満足のいく形に完成させたといわれ』、『本書の版本での初刊は死後』二十『年後のことであった』()とあって、刊期に異同があるから、或いは、岩波版の刊本以前の縮約或いは異本に熊楠は拠ったものとも思われなくはない。一応、注意を喚起しておく。一応、熊楠の表記をまずは尊重しつつ、一部の表記及び読みは岩波版を採用して校合した。

「黑き蟻を繪に書て指物にしける」実際のその画像をネット上に探してみたが、残念ながら、見当たらなかった。

「小四半」正方形ではなく、長方形に近い旗指物を「四半」と呼び、それの小さなものの意。

『「北條」は「北城」を正とす』後注に回す

「『關八州古戰錄』(享保丙午成る)卷六には、……」当該ウィキによれば、『軍記物』で、享保一一(一七二六)年に成立。全二十巻。『著者は槙島昭武』(生没年未詳)江戸前・中期の国学者で軍記作家。名は別に郁。通称は彦八。号は駒谷散人。江戸出身。有職故実や古典に詳しく、著作は、他に「北越軍談」など)。「関東古戦録」『とも呼ばれる』。『戦国時代の関東地方における合戦や外交情勢について記されており』、天文一五(一五四六)年)の『河越夜戦から天正』十八『年の後北条氏滅亡までの関東における大小の合戦を詳細に扱っている』。『関東各地に埋もれている戦記類を』丹念に『集めたもので、その他の軍記物に比すると、語りものの調子を避け』、『歴史をそのままに伝えようとしている姿勢が強い。それゆえか』、『歴史的あやまりは少ないとされている』。『しかし近年の研究では』「河越夜戦」や「小田井原の戦い」『などについて、一次史料にない誇張や創作が多く見られると指摘されるようになっている』。『同書は実証的戦国時代史研究において』、『原資料に基づいた良質な内容も認められるが、その他』の『軍記物類の影響も見られるので、近世・近代に比べ』、『古文書・日記などの同時代史料の少ない戦国時代の研究において、史料批判を行なった上で使用される』とある。探すのに手間がかかったが、国立国会図書館デジタルコレクションの「史籍集覧」第五冊(近藤瓶城編・大正一四(一九二五)年近藤出版部刊)に「關東古戰錄」の方の書名で発見、当該部はここである。「卷之六」の中の「長尾謙忠伏誅北城丹後守長國事」の条で、右ページの後ろから四行目から確かに「北城丹後守長國」の表記名で登場し、熊楠の引用は左ページ一行目からだが、途中を数ヶ所、省略している。視認されたい。

「北城丹後守長國」ネット上の情報を総合すると、これは、北条高広(永正一四(一五一七)年?~天正一五(一五八七)年?)である。戦国時代の総合サイト内の「地方別武将家一覧」の「北条氏」「一文字に三つ星」「(大江姓毛利氏族)」のページの「厩橋城将として活躍」の文中に、『北条氏の家督となった景広は、永禄二年の関東出陣。同四年の川中島合戦に出陣するなど父とともに謙信麾下の勇将として活躍していた。以後、景広が厩橋城将として関東経略の中心人物となった。景広は「上杉二十五将」の一人に数えられ、二十五将のうち北条丹後守長国とあるのが景広である』とあるので間違いない。彼は異様に多い名乗りや通称を持っているものの、熊楠が正しいとする「北城」姓は見当たらなかった。要は、彼は、鎌倉時代の北条氏でも、後北条氏でもなく、以上のサイトの冒頭にある通り、元は『大江姓毛利氏の一族』で、『鎌倉幕府初代公文所別当大江広元の四男季光が相模毛利庄を領して毛利氏を名乗った』流れを汲む『越後毛利氏』の末裔であり、ページ最後の系図の最後を見られれば判る通り、彼のさらに後裔が毛利元就なのである。北条高広の詳しい事績は当該ウィキに譲るが、彼は、仕えた主君が目まぐるしく変わっており、『長尾為景→晴景→長尾景虎→北条氏康→上杉謙信→上杉景虎→武田勝頼→滝川一益→北条氏政→上杉景勝?』とあり、この間、方丈に仕えた時期に、主君の姓と同じなのは畏れ多いはずだから、滅多に見ない「北城」と変えたか、それ以外の主君であった折には、或いは、後北条氏の一族と疑わられる誤解を避けるために、「北城」としたともとれなくはない。

「一尺五寸」四十六センチメートル弱。

「五、六寸(分か)」「寸」ならば十五~十八センチメートル、「分」なら、一・五~一・八センチメートル。

「輝虎」上杉謙信の出家法号前の本名。]

 『一話一言』卷四十四、山中源左衞門、大御番旗本で、知行五百石、賜り、隱れなき任俠、常に人を困《くるし》むるを好む。或時、白小袖を着て、登城しけるを、目付、咎めければ、目に見えぬほどの蚤を、縫紋に附置《つけお》き、「是は、白ならず。」と言《いひ》、通《とほ》せし事、有り。正保中、切腹を命ぜらる、と見ゆ。其目的は、長國と異なれど、趣向は似たり。

[やぶちゃん注:「一話一言」大田南畝の随筆で、安永八(一七七九)年から文政三(一八二〇)年頃の執筆。全五十六巻であるが、内、六巻は欠。歴史・風俗・自他の文事についての、自己の見聞と、他書からの抄録を記したもの。所持せず、ネットで当該巻を視認出来ない。

「山中源左衞門」(生没年不詳)は江戸前期の旗本奴。寛永・正保年間(一六二四年~一六四八年)の人。経歴不詳で、大田南畝の「俠者姓名」(「一話一言」)に、「五百石大御番也。正保年中、麹町眞法寺にて切腹被仰付也。」(別な辞書では、正保二(一六四五)年十一月八日、罪をえて、切腹とある)とあるだけだが、「べらんめえ」調による以下の辞世で知られる。「わんざくれ 踏(ふ)んぞるべいか 今日(けふ)ばかり 翌日(あす)は烏(からす)が搔(か)ッ咬(か)じるべい」。]

 英國にも似たる話、‘Merry Tales and Quick Answeres, 1567, ed. Hazlitt, p.122  に云く、戰場に趣く一壯男、楯に、自然大の蠅を𤲿《ゑがき》しを、或人、笑うて、「斯く小《ちひ》き目標《めじるし》は、人の目に立つまじ。」と云ひけるに、其男、答へて、「予、敵が明かに、此標を見分け得る程、進まば、標、如何に小さくとも、敵、皆、予の勇武を稱揚せん。」と云へり、と。

[やぶちゃん注:「‘Merry Tales and Quick Answeres’, 1567, ed. Hazlitt, p.122」イギリスの弁護士・書誌学者・作家ウィリアム・カルー・ハズリット(William Carew Hazlitt 一八三四年~一九一三年)著の「笑譚捷答」(ロンドン刊)。]

 以上、二年前、倫敦發行『ノーツ・エンド・キーリス』十一輯、一の二六六頁に、予、‘Fly painted on a Shield : Japanese Variant’と題し出せるを見て、南濠州「アデレード」大學、古文學敎授「ベンスリ」の敎示に、件《くだん》の蠅を楯に𤲿きし話は、Apophthegmata Laconicaap. Plutarch, Moralia’、既に之を載す、と也。然らば、千八百年斗り前、既に南歐に行はれたる話にこそ。

[やぶちゃん注:「二年前」「選集」は一九一〇年と割注する。実時間で二年前の意であろう。熊楠の当該原雑誌の原文は「Internet archive」のここで視認出来る(左ページ下方)。

『「ベンスリ」の敎示』同じく上記「Internet archive」の377ページ右下方で「EDWARD  BENSLY」の署名記事がそれ。エドワード・フォン・ブルームバーグ・ベンスリー(Edward von Blomberg Bensly 一八六三年~一九三九年)は英文学者。

「Apophthegmata Laconica、ap. Plutarch, ‘Moralia’」こちらのデータ(PDF)によれば、帝政ローマのギリシア人著述家プルタルコス(四六年頃~一一九年以降)の「倫理論集」の中の「スパルタ警句集」がそれである。]

2022/11/04

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「話俗隨筆」パート 梔子花の兒戯 / 爪切る事 / 感冒

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここと、ここ。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。

 なお、以下三篇は孰れも短いので、セットで示す。]

 

     梔子花の兒戯 (同 前)

 

 紀州田邊で、小兒、梔子(くちなし)の花を、蕚《がく》、及び、心《しん》と、引放《ひきはな》ち、花の中孔《なかあな》に、細き箸を串(つらぬ)き、口にて吹けば、快く廻るを、見て樂しむ。因《より》て、此花を「水車」と呼ぶ。花瓣《はなびら》の排列、捻旋《ねんせん》して、恰《あたか》も人造風車の如く、風に逢へば、忽ち、廻る。

[やぶちゃん注:「梔子花の兒戯」リンドウ目アカネ科サンタンカ(山丹花)亜科クチナシ連クチナシ属クチナシGardenia jasminoides 。花期は六 ~七月で、葉腋から、短い柄を出して、一つずつ、強く印象的な芳香のある花を咲かせる。

「同前」は前の記事の正本文部と同じく大正二(一九一三)年五月『民俗』第一年第一報所収であることを言う。以下の二篇も同じ。]

 

     爪 切 る 事 (同 前)

 

 同地の俗傳に、夜、爪を切れば、父母の死に逢ひ得ず。之を免れんとならば、七草の日、爪切るべし。然る後、夜切るも、此難なし、と。予、幼時、和歌山の俗傳に、爪切て燒けば、本人、發狂す、と云へり。三十餘年前の事也。

[やぶちゃん注:この前段は既に、『「南方隨筆」底本正規表現版「紀州俗傳」パート 「二」』に出ており、注もしてある(後段の内容にも言及して注を附した)。このパート「二」の初出は大正二(一九一三)年五月『郷土研究』第一巻第三号だから、掟破りの同時の二重投稿である。

 

     感   冒 (同 前)

 

 又、田邊の俗傳に、子より親に傳はれる感冒、重く、親より子に移れるは輕し、と。

[やぶちゃん注:同前で『「南方隨筆」底本正規表現版「紀州俗傳」パート 「二」』に出ており、注もしてある。全くの二重投稿。

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「話俗隨筆」パート 一休他人の手を假て惡童を懲せし話

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここ。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文脈の長い部分は直後に、「選集」を参考にしつつ、〔 〕で推定で訓読文を附した。

 標題は「一休、他人の手を假《かり》て惡童を懲《こら》せし話」と読む。]

 

     一休他人の手を假て惡童を懲せし話

               (大正二年九月『民俗』一年二報)   

 『烈公間語』に、其著者、幼少の時、光政の母公へ、「光政樣、御越被成時分、我等に、何にても御物語仕候樣。」と、福照院樣(母公)、被仰に付、「童の時に人の語《ものがたり》聞《きか》せし跡先も、無之、物語、爲御慰、一、二、申上る。」迚《とて》、「一休和尙、行路の節、道の傍の木の梢に、童、登居《のぼりゐ》て、一休に小便を仕懸《しかけ》て、自《みづか》ら、大きに笑ふ。一休、腰より、錢を取出《とりいだ》し、彼(かの)童に遣《や》り、「能社ケ樣之(よくこそかやうなる)仕形《しかた》仕候。」迚、打過候。彼童、『能事仕《よきことし》たり。』と思ひ、「重《かさね》て、人、通るならば、亦、右の仕形に仕《つかまつり》て、錢を乞取《こひとら》ん。」と、待ち候ところへ、士《さむらひ》通り候時、如最前、小便、仕懸て笑ふ。忿《おこり》て打擲《ちやうちやく》仕る。是、一休の作意、利口故、人を以て、意趣を返すと承る。」と申上る。光政樣、被仰付、「此物語の趣意、然るべからず。一休、まことの志ならば、最前、小便仕懸けられ候時、强く詈《ののし》り、叱《しかり》て、「我は、是、出家なれば、不ㇾ及打擲、他人にかやうの仕形仕るならば、命を可失。」と、申し敎へ可通《とほるべき》に、何ぞや、錢を遣りて、人を以て、讐《むくい》をす。奸心、淺からず、ケ樣之(かやうの)事にて、若輩の者心附べき事也《や》。幼童に語り聞す物語にも、尤(いと)心得可有也《あるべきことなり》。」と仰也《おほせなり》云々。

[やぶちゃん注:「一休」臨済宗大徳寺派の僧で、とんち話で知られる一休宗純(明徳五(一三九四)年~文明一三(一四八一)年)。詳しくは当該ウィキをどうぞ。

「大正二年」一九一三年。

「烈公間語」は、さる論文で漸く見つけたが、池田政倫著で元禄二(二八八九)年刊のもの。この作者不詳(旗本に同姓同名の池田政倫(享保二(一七一七)年~安永四(一七七五)年)がいるが、刊記が余りにも後であり、本文の冒頭から考えても、この旗本は別人であ)。この「烈公」は播磨姫路藩第三代藩主・因幡鳥取藩主・備前岡山藩主(池田宗家)の池田光政(慶長一四(一六〇九)年~天和二(一六八二)年)の諡号「芳烈公」によるもの。

「光政の母公」「福照院樣(母公)」「福正院」が正しい。鶴姫(文禄三(一五九四)年~寛文一二(一六七二)年)で、姫路第二代藩主で光政の父池田利隆の正室。徳川四天王や徳川三傑に数えられ、家康覇業の功臣として知られる榊原康政の次女。]

 『塵添壒囊抄《ぢんてんあいなうせう》』一に、孔子の腹黑と云事ありとて、孔子、山中を行くに、童子、木の上より尿《いばり》をしかけた。孔子、「大剛の者也《なり》。よくしたり。」と、ほめて過去《すぎさつ》た。其後ち、令尹《れいいん》、通るに、童子、また、小便をしかけた。「天下の大害を爲《なさ》ん者。」とて、引きおろし、頭を刎《はね》た云々に作れり。

[やぶちゃん注:「塵添壒囊抄」先行する原「壒囊抄」は室町時代の僧行誉の作になる類書(百科事典)。全七巻。文安二(一四四五)年に、巻一から四の「素問」(一般な命題)の部が、翌年に巻五から七の「緇問(しもん)」(仏教に関わる命題)の部が成った。初学者のために事物の起源・語源・語義などを、問答形式で五百三十六条に亙って説明したもので、「壒」は「塵(ちり)」の意で、同じ性格を持った先行書「塵袋(ちりぶくろ)」(編者不詳で鎌倉中期の成立。全十一巻)に内容も書名も範を採っている。これに「塵袋」から二百一条を抜粋し、オリジナルの「囊鈔」と合わせて、七百三十七条としたのが、「塵添壒囊抄」(じんてんあいのうしょう)全二十巻である。編者は不詳で、享禄五・天文元(一五三二)年成立で、近世に於いて、ただ「壒囊鈔」と言った場合は、後者(本書)を指す。中世風俗や当時の言語を知る上で有益とされる(以上は概ね「日本大百科全書」に拠った)。南方熊楠御用達の書である。当該部が「日本古典籍ビューア」のこちらで視認出来る。]

 較《やや》似たる話、西晉の竺法護譯『佛說生經』卷四に、給孤獨園《ぎつこどくおん》にて、佛告諸比丘、乃昔去世、有異曠野閑居、彼時有水牛王、頓止其中、遊行食草、而飮泉水、時水牛王、與衆眷屬、有所至湊、獨在其前、顏貌姝好、威神巍巍、名德超異、忍辱和雅、行止安詳、有一獼猴、住在道邊、彼見水牛之王與眷屬俱、心生忿怒。興于嫉妬、便卽揚塵瓦石、以坌擲之、輕慢毀辱、水牛默然、受之不報、過去未久、更有一部水牛之王、尋從後而來、獼猴見之、亦復罵詈、揚塵瓦石打擲、後一部衆。見前牛王默然不報、効之忍辱、其心和悅、安詳雅步、受其毀辱、不以爲恨、是等眷屬過去、未久有一水牛犢、尋從後來、隨逐群牛、於是獼猴、逐之罵詈、毀辱輕易、見水牛犢、懷恨不喜、見前等類、忍辱不恨、亦復學効、忍辱和柔、去道不遠、大叢樹間、時有樹神、遊居其中、見諸水牛、雖被毀辱、忍而不瞋、問水牛王、卿等何故、覩此獼猴、猥見罵詈、揚塵瓦石、而反忍辱、默聲不應、此義何趣、有何等意、云々、水牛報曰、以說偈言、以輕毀辱、我必當加施人、彼當加報之 爾乃得疾患、諸水牛過去、未久有諸梵志大衆群輩仙人之等、順道而來、時彼獼猴、亦復罵詈、毀辱輕易、揚塵瓦石、以坌擲之、諸梵志等、即時捕捉、以脚蹋殺、則便命過云々。〔佛、諸比丘に告ぐ。乃-昔(むかし)、去(とほ)き世に、異(い)なる曠野に閑居する有り。彼(か)の時、水牛王、有り。其の中に頓-止(とど)まり、遊行(ゆぎやう)して草を食らひ、泉水を飮む。時に水牛王、衆(おほ)くの眷屬と與(とも)に、至る所有りて、湊(あつ)まる。獨り、其の前に在りて、顏貌、姝-好(みめよ)く、威神、巍々(ぎぎ)たり。名德は超-異(ぬきんで)て、忍辱(にんにく)して、和雅《わげ》にして、行-止(ふるまひ)は安-詳(ものしづ)かなり。一(いつ)の獼-猴(さる)有り。住みて、道邊(みちのべ)に在り。彼、水牛の王の、眷屬と俱(とも)にあるを見て、心に刎-怒(いかり)を生じ、嫉妬(ねたみ)を興(おこ)す。便-卽(すなは)ち、瓦石を揚塵(やうぢん)し、坌(ちり)を以つて、之れに擲(なげう)ち、輕んじ、慢(あなど)りて、毀(そし)り辱しむ。水牛は默然として、之れを受くるも、報《もち》ひず。過ぎ去って未だ久しからざるに、更に一部(ひとむれ)の水牛王有り、尋(つ)いで、後ろより來たる。獼猴、之れを見、亦-復(また)も罵-詈(ののし)り、瓦石を揚塵して打擲つ。後との一部の衆は、前(さき)の牛王の默然として報ひざるを見、これに効(なら)ひて、忍辱し、其の心、和-悅(なご)み、安詳に雅步し、その毀り辱しめを受くるも、以つて恨みと爲(な)さず。是等の春屬の過ぎ去りて、未だ久しからざるに、一(ひとつ)の水牛の犢(こうし)有り、尋(つ)いで後ろより來たり、群牛に隨ひて逐(お)ふ。是に於いて、獼猴、之れを遂ひて、罵詈り、毀り辱しめて、輕-易(あなど)る。見て、この水牛の犢、恨みを懷きて喜ばざるも、前の等類(なかま)の忍辱して恨まざるを見、亦、學-効(なら)ひて、忍辱し、和柔(にこや)かなり。道を去ること、遠からず、大叢樹の間に、時に樹神、有り。其の中に遊居す。諸水牛の毀り辱しめらると雖も、忍んで、瞋らざるを見、水牛王に問ふ。「卿(きやう)ら、何故に、此の獼猴の猥(みだ)りに罵詈るを見、瓦石を揚塵するを覩(み)て、反(かへ)つて忍辱し、聲を默(もだ)して應ぜざるや。此の義は何(いか)なる趣(わけ)、何なる意(おもひ)有りてか、」云々、水牛、報(こた)へて曰はく、「もって偈を說きて言はん、『輕んじて 我を毀り辱しむるを以つて 必ずや 當(まさ)に人にも加へ施すべし 彼は當に之れに報ひを加ふべく 爾(なんぢ) 乃(すなは)ち疾-患(わざはひ)を得ん』と。諸水牛、過ぎ去りて、未だ久しからざるに、諸梵志・大衆輩・仙人等、有り、道に順(したが)ひて來たる。時に、かの獼猴、亦、罵詈り、毀り、辱しめて、輕易(あなど)り、瓦石を揚塵し、坌(ちり)を以つて、之れに擲つ。諸梵志ら、卽時に捕-捉(とら)へ、脚を以つて蹋(ふ)み殺すに、則-便(たちまち)、命、過(をは)りぬ云々」。〕。

 水牛は佛、眷屬は諸比丘、犢は諸梵志、仙人は淸信士居家學者、猴衆は外異道の前身、とあり。

[やぶちゃん注:「西晉の竺法護譯『佛說生經』」西晋時代(二六五年~三一六年)に活躍した西域僧で、鳩摩羅什以前に多くの漢訳経典に携わった代表的な訳経僧の一人である竺法護(じくほうご 二三九年~三一六年:敦煌の月氏(中央アジアの民族)の家系に生まれ、熱心な仏教徒であった)の訳になる「生經(しやうきやう)」。正式には「佛說」は入らない。それを入れて「大蔵経データベース」では表示されないので注意。おかしいことに気づき、同サイトで「生經」で検索したら、目出度くヒットした。それで本文を校合した。「云々」で判る通り、途中が省略されており、一部に誤りもあった。

「梵志」バラモン僧。

「淸信士居家學者」仏教の真の理解には至っていない僧・在家信者及び仏教学者。

「外異道」仏教徒は全く異なる起源の淫祠邪教。]

追 加 (大正二年九月『民俗』第一年第二報)

 唐義淨譯『根本說一切有部毘奈耶雜事』十六、舍衞の婆羅門、阿難を打ち、次に鄔波難陀《うばなんだ》を打《うち》て求刑され、遂に王命に依つて、兩手を截《き》らる。佛、鄔波難陀を罸し、因緣を說く。昔し、花果浴池、滿足せる一園中に、隱士、住み、樹下に靜座思惟する。其上から猴が果《このみ》を落して、其頭を打破《うちわ》つた。隱士、騷がず、頌(しよう)を說く、我終不ㇾ起ㇾ念、令汝苦身亡、由汝自作ㇾ愆、當ㇾ招斷ㇾ命報。〔「我れ 終(つひ)に念(おもひ)を起こさず 汝をして苦しみて身を亡(うしな)はしむ 汝自(みづか)ら愆(とが)を作(な)せしに由(よ)りて 命を斷つの報ひを招くべし」[やぶちゃん注:この部分は「頌」(仏の徳をほめたたえる歌)の部分であるから、恣意的に句読点を排した。]〕と。此隱士の知れる獵師、隱士不在中へ來り、俟《まつ》て居《を》ると、猴、又、大《おほい》なる果を、其禿頭へ落し、血、流る。獵師、大に腹を立《たて》て、毒矢で、猴を射殺《いころ》した。隱士と猴と獵師は、今の阿難と婆羅門と鄔波難陀だ、と。

[やぶちゃん注:何度も出ている「唐義淨譯『根本說一切有部毘奈耶雜事』」は今までと同じく「大蔵経データベース」で校合した。

「阿難」「鄔波難」孰れも釈迦の十大弟子の一人。]

曲亭馬琴「兎園小説拾遺」 第一 「文政十一年戊子の秋、西國大風洪水幷に越後大地震の風說」

 

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。昨年二〇二一年八月六日に「兎園小説」の電子化注を始めたが、遂にその最後の一冊に突入した。私としては、今年中にこの「兎園小説」電子化注プロジェクトを終らせたいと考えている。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちら(右ページ下段六行目から)から載る正字正仮名版を用いる。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。

 馬琴の語る本文部分の句読点は自由に変更・追加し、記号も挿入し、一部に《 》で推定で歴史的仮名遣の読みを附した。]

 

   ○文政十一年戊子の秋、西國大風
    洪水幷に越後大地震の風說

文政十一年秋八月、西國筋、大風・洪水にて廬舍、轉倒、人、多く、死せりといふ。就中《なかんづく》、肥前長崎・豐前小倉・筑後柳川など、尤《もつとも》甚し。柳川の大風・洪水は、八月四日、十六日、廿四日、三度也とぞ。關東は七月廿九日なりき。柳川候の家臣西原一輔老人、その愛婿關子亮【潢南《くわうなん》の子、號、「東陽」。】に消息して、これらの事を巨細《こさい》に告《つげ》たり。この天災にて、柳川領分に、士庶、死たるもの、五百許《ばかり》人《にん》とか、聞《きき》にき。この條も、「千里面談」【書名。】にあり。異日、閑を得ば、借抄すべし。只、これのみにあらずして、東海道、遠州濱松領見附邊《へん》、甚しく、上野は高崎在、坂東太郞の河筋、人家の家根まで、水の浸《ひた》せしといふ【杉浦氏、當時、高崎近鄕に在勤して目擊する所。予が爲に、いへり。】又、陸奧は、仙臺領・岩城領・下野宇津宮領は洪水によりて、六萬五千石許、損毛のよし、公儀へ、御屆あり。江戶近鄕は、葛西・二合半なども枚擧に遑あらず。戶田・岩城、すべて、領分、大損毛の諸侯は、十一月に至《いたり》て、諸役御免なり。今茲《こんじ》、夏より、秋、冬に至て、米穀、高直《かうじき》、金一兩に、六、七斗を挽《ひき》たり【小賣は百文に八合に至り。】。鹽・蠟燭・燈油・紙【就中、半紙、高直なり。】・薪炭・五穀・野菜・魚肉類の價《あたひ》、みな、とし來《きたる》に、倍したり。今茲、風水に傷《きずつけ》られたる處々多かれども、予が見聞の及ばざるをもて、つばらにせず。よく知れるものは記しおきて、子弟の驕《おご》れるを、いましめ、荒年の備《そなへ》あらせたき事なりかし。又、文政十一年戊子冬十一月十二日、越後州《えちごのくに》、大地震の風聞あり。その事を、板して、巷を賣りあるきたり。長岡は城も、聊《いささか》、破損して、死せしもの、疵をかうむりし士庶、凡《およそ》、九百九十餘人なりしとぞ【この事、公儀へ御屆の人數也と云。】。この他、三條・村松・新津・燕・今町・與板邊《へん》、凡、十里四方、この地震によりて、廬舍、倒れ、人、死すること、三千餘といふ。三條に本願寺の掛り所あり。この邊、殊に甚しく、本堂【十二間に八間。】・庫裏、轉倒し、剩《あまつさへ》、失火してければ、一宇も殘らず、とぞ。予が相識《さうしき》なる鈴木牧之は、越後魚沼郡鹽澤の里長《さとをさ》也。聞くに、鹽澤邊は、恙なし。當時、地震も、甚しき事、なかりしと、いへり。

[やぶちゃん注:「文政十一年秋八月」文政十一年八月一日はグレゴリオ暦一八二八年九月九日。この陰暦八月には、百三十三年後の昭和三六(一九六一)年になって「シーボルト台風」と命名された台風が襲来(当時、発覚した「シーボルト事件」、及び、当時、出島にいたシーボルトがこの未曾有の台風の気圧を観測していたことによる)。九州地方北部を中心に死者は一万九千人以上とされる。詳しくは、当該ウィキを読まれたいが、『過去』三百『年間に日本を襲った台風の中では最大級のものとされている』とし、さらに『日本史上』、『最大級の被害をもたらした台風といえ』、最後に『北陸の加賀藩や東北の仙台藩にも被害の記録が見受けられることから、全国で』二『万人以上の死者を出したことは確実である』とある。

「柳川候の家臣西原一輔老人」「兎園会」の初期に会員として「松蘿舘」の号で参加している筑後国柳河藩士西原好和こと、西原一甫(にしはらいっぽ 宝暦一〇(一七六〇)年~天保一五(一八四四)年)。「耽奇会」会員でもあり、「図説立花家記」では、「耽奇会」の主催者ともなっている。通称は半三郎・六弥太・新右衛門。公和は本名。号に一甫・南野・一輔・梭江(さこう)。家号は松羅館。当該ウィキによれば、『幼少より江戸で生活し、定府藩士として留守居や小姓頭格用人などを勤め』た。文政七(一八二四)年五月から「耽奇会」に参加、「兎園会」にも『参加していたものの』、文政八(一八二五)年四月に藩命(実際には幕府からの譴責。後述する)により、『江戸から柳川に下向したので、結局』、『両会に』は『最後まで』は『参加できなかった』。『天保年間は柳河藩領南野(現在の柳川市大和町)に隠棲』とあるのだが、『曲亭馬琴「兎園小説」(正編・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」・「兎園小説余録」・「兎園小説拾遺」/全十二巻)正字正仮名電子化始動 / 大槻修二解説・「兎園小説」正編目録・第一集「文政六年夏の末、沼津駅和田氏女児の消息」』の大槻修二氏の解説に以下のようにある通り(「蘿」はママ)で、

   *

松蘿舘  西原好和、通稱は新右衞門、立花侯の留守居なり。是年三月、其藩柳河に赴きしかば、四月以後は此會に出でず。元來、好事家にて、且、當時、留守居役の風習として、驕奢遊蕩を競ひしが、文化十二年四月、幕府より風聞不宜國元蟄居の譴責を受けて歸國し、天保のはじめ歿せりといふ。

   *

というのが真相である。謂わば、幕府からの譴責が伝えられ、当時の筑後国柳河藩第九代藩主立花鑑賢(たちばなあきかた)が幕命を受けて、強制的に藩に下向させ、帰国後は恐らく速やかに藩内の僻地に蟄居させられ、不遇のうちに亡くなったようである。

「その愛婿關子亮【潢南の子、號、「東陽」。】」既にこれ以前の「兎園小説」で「海棠庵」の号でお馴染みの「兎園会」会員の一人である、三代に亙って書家であった関思亮(せき しりょう 寛政八(一七九六)年~文政一三(一八三〇)年)。本書に先立つ天保元(一八三〇)年九月に三十六の若さで亡くなっている。「潢南」は、その思亮の父親である、書家で儒者の関克明(こくめい 明和五(一七六八)年~天保六(一八三五)年)。書家関其寧(きねい)の養子で、常陸土浦藩藩儒で、書を其寧に学び、天保四年には子の思亮とともに、名家の法帖から行書体を集め、「行書類纂」を編集した。本姓は荻生。その事実は判らないが、こう言っているところを見ると、西原好和一甫の娘が関思亮の妻となっていたということになる。恐らくは謹慎蟄居で、書簡なども自由にならなかったところが、思亮が娘婿であったことから、娘からの手紙という体裁で、馬琴と間接的に、時に、接触することが出来たのであろう。

「巨細」「委細」に同じ。

「千里面談」不詳。

「遠州濱松領見附」東海道の旧見附宿(グーグル・マップ・データ。以下指示の無いものは同じ)。現在の静岡県磐田(いわた)市中心部。

「坂東太郞」利根川の古くからの異名。

「杉浦氏」不詳。

「二合半」これは正確には「二鄕半領」が正しい。Enpediaの「二郷半領」(にごうはんりょう)によれば、『現在の埼玉県吉川市から三郷市にかけての地域』(この附近)『のことを江戸時代で称していた地名である。ここは早場米の産地として知られていた。なお、史料によっては二合半領とも書かれている』。『二郷半の由来は、江戸時代の初期にこのあたりを「吉川・彦成の二郷、彦成郷以南は下半郷」として、合わせて二郷半領と呼んだといわれている。この付近は江戸川、中川に挟まれた低湿地で洪水が多かったことから、一郷にすら値しない半領と言われていたが、江戸時代には水害対策により』、『早場米を出荷し』、『「葛飾早稲」として知られていたという。なお、異説として徳川家康の家臣で関東郡代を務めた伊奈忠次が、この地方を一生涯にわたって支配せよと家康から命じられたため、「一生にわたって支配(四配)するのだから二合半領」と忠次が言ったといわれているが、これについては信憑性が疑問視されている』とある。ウィキの「二郷半領用水」の解説より、肝を摑んでいて、しかも短く認知出来る。

「戶田」埼玉県戸田市。荒川左岸。

「岩城」前の戸田との並置から、江戸近郊であると踏めば、現在の埼玉県さいたま市岩槻区附近ではなかろうか。東端を綾瀬川が流れ、元荒川が貫流する。

「夏より、秋、冬に至て、米穀、高直《かうじき》、金一兩に、六、七斗を挽《ひき》たり【小賣は百文に八合に至り。】」八年前の文政三年で米一石は幕府張紙値段で〇・九両、江戸小売値で米一升は百二十文。天保元(一八三〇)年で、同順で一・一四両、小売は百五十文。

「文政十一年戊子冬十一月十二日、越後州、大地震の風聞あり」「三条地震」或いは「越後三条地震」「文政三条地震」とも呼ぶ。文政十一年十一月十二日(一八二八年十二月十八日)、現在の新潟県三条市芹山附近を震央とし、マグニチュードは六・九と推定されている。朝五ツ時上刻(午前九時前頃)に発生したとされる。現在の新潟県三条市・燕市・見附市などで、震度七相当の揺れがあったと推定され、死者一千人以上、家屋全壊約一万棟、焼失家屋一千棟以上の被害が発生した(当該ウィキに拠った)。

「村松」新潟県五泉市村松。震源の東北東約二十七キロメートル。

「新津」新潟県新潟市秋葉区新津(にいつ)。村松の北西。

「燕」新潟県燕市。震源地の三条市に東北で接する。

「今町」新潟県見附市今町(いままち)。 震源の直近で真南約五キロメートル。

「與板」新潟県長岡市与板町(よいたまち)与板。今町の西方直近(信濃川の対岸)。震源からは南西十一キロメートル圏内。

「三條に本願寺の掛り所あり」真宗大谷派三条別院のこと。震源から東北約六キロのごく直近。「掛り所」は「掛(か)け所(しよ)」が正しい。浄土真宗の寺院で、地方に設けられた別院。後には別院の資格のない支院をも呼ぶようになった。本願寺派では区別して「休泊所」と称した。

「十二間に八間」約二十一・八二✕約十四・五四メートル。

「庫裏」「庫裡(くり)」に同じ。

「一宇も殘らず、とぞ」同別院公式サイトの「歴史・沿革」の「文政十一年」の条に『三条大地震三条掛所建物全壊そのうえ類焼し残るものなし』とある。

「鈴木牧之」(ぼくし 明和七(一七七〇)年~天保一三(一八四二)年)現在の新潟県南魚沼市塩沢で縮仲買商・質屋を営んだ町人で随筆家にして、塩沢の村長(むらおさ/りちょう)。越後魚沼の生活を詳細に綴った博物誌的民俗誌「北越雪譜」(天保八(一八三七)年秋頃に初編各巻が江戸で発行され、天保十二年十一月に二編四巻が出た)はコスタ・デ・ソルの海浜のホテルのプール脇で、ぢりぢり焼かれながら読んだのが、いっとう、忘れ難い、私の愛読書である。塩沢は震源から六十三キロメートルも真南に当たる。]

この十一月十二日の地震は、江戶も【朝辰中刻。[やぶちゃん注:午前七時四十分から八時二十分相当。]】頗《すこぶる》震へり。婦幼等が、驚き立《たつ》程に、鎭《しづま》りにき。越後は本日、朝、辰の比《ころ》より、未牌まで、震ひし、といふ。しかのみならで、十一月初旬より、折々、地震あり。終《つひ》に十二日に至て、甚しかりけるとぞ。

[やぶちゃん注:「辰の比」午前七時から九時。

「未牌」意味不明。「牌」はお手上げ。時刻を示す意味はない。前の「未」は「ひつじ」でとるなら、午後二時前後まで余震が続いたという意で附には落ちるのだが、「牌」の字を誤字として、正字が思い浮かばぬ。

 以下は鈴木牧之の馬琴宛書簡。板垣俊一氏の『資料「文政十一年三条地震の記録」』(PDF)で活字化されてあり、その他の記録資料もあるので、是非、読まれたい。]

 文政十一年戊子冬十一月十二日朝五時、

 越後長岡領地雲之記。

一、長岡町、潰れ家十八軒、半潰廿三軒、橫死四人、土藏壁落三百八十宇。

一、長岡北組村々(三十三ケ村)、潰れ家千八十五軒、半潰四百十五軒、怪我人百四十五人、橫死百八十六人、寺院十一ケ寺、馬五疋、長屋廿四軒、深山御藏。

【長岡栃尾組村々。】

一、椿澤《つばきざは》、家數百三十軒有ㇾ之處、建家、纔に六軒殘り、橫死二十四人。

[やぶちゃん注:「椿澤」新潟県見附市椿澤町(つばきざわまち)。震源の南南東十三キロメートル。]

【同。】

一、田井村、同二十軒有ㇾ之處、建家三軒殘り、橫死十七人。

[やぶちゃん注:「田井村」新潟県見附市田井町。「椿沢町」に直に北で接する同じく小さな地区である。]

【同。】

一、棚野村、同百三十軒有ㇾ之處、不ㇾ殘潰れ、橫死三十七人。

[やぶちゃん注:「棚野村」不詳。]

【同。】

一、太田村、同六十軒有ㇾ之處、建宗三軒殘り、橫死十七人。

[やぶちゃん注:新潟県長岡市山古志虫亀(むしがめ)のこの附近と思われる。]

【同。】

一、栃尾町、此栃尾町は、潰家《くわいけ》も有ㇾ之候へ共、格別の事無ㇾ之候。乍ㇾ去、城山、大疵《おほきず》入候間、「抜落候はゞ、可ㇾ及大變。」とて、栃尾、總町《さうちやう》、小家共、轉宅、大騷動之由。

[やぶちゃん注:新潟県長岡市栃尾町(とちおまち)。

「城山」栃尾城跡であろう。

「總町」「町をあげて」の意。]

一、見附町、總《すべて》、潰家の上、失火にて燒亡いたし、やうやく、五、六軒殘り、橫死人、怪我人、甚、多、未その數を知らず。

[やぶちゃん注:「見附町」現在の新潟県見附市市街地か。震源から南南東九キロ圏内。]

一、今町、建家、不ㇾ殘潰れ、殘り候家、五、六軒に不ㇾ過候。是も半潰れ也。

一、三條町、潰家二千九百十八軒、右、潰れ候上、失火にて、大抵、燒亡、殘る所、二、三の町、少し殘り候へ共、是も半潰也。但、三、四十軒、殘り候よし。橫死八百六十人、怪我人は數を知らず。本願寺掛所、四坊、皆、潰れ、且、燒亡畢《をはんぬ》。

一、脇野町、潰家五十七軒、橫死人は無ㇾ之よし、此處は輕し。

[やぶちゃん注:「脇野町」新潟県長岡市脇野町(わきのまち)。]

一、與板町、潰家三百五十軒、半潰九十軒、橫死三十五人。

右與板より長岡迄、在々《ざいざい》、潰家、無ㇾ之は稀也。枚擧に遑あらず候。

加茂、芝田、新津、水原等は無難の由、乍ㇾ然《さりながら》、土藏の壁は、大かた、搖落《やうらく》し、庇等は、いたみ候へ共、他處よりは輕く御座候。

[やぶちゃん注:「加茂」新潟県加茂市市街。

「芝田」新潟県新発田(しばた)市があるが、急に北に有意に移るのが不審ではある。

「水原」新潟県阿賀野市水原。]

一、拙家の入魂《じつこん》、三條の小道具屋小高屋宅右衞門と申者の忰《せがれ》、商ひに參居候處、右地震にて、早速、下船仕候。然所、同人の家も潰れ、且、燒亡、土藏も壁落候に付、直《ぢき》に、火、かゝり、鍋一つ出し不ㇾ得、仕合《しあはせ》に御座候。此小高屋は、北越第一の小道具屋にて、珍敷《めづらしき》茶器・刀劔・掛物等、致所持候處、不ㇾ殘燒失。其上、地震後、雨、雪に成候故、立《たち》ばも、無ㇾ之罷在候に付、御堂の潰れかゝる大門先に、一夜、あかし、寒さに不ㇾ堪候得ども、翌日に至り、一飯を贈るものもなく、只、失火の處へ近付候て、火にあたり、命からがら凌《すごし》候よし。三條は越後の中央にて、金銀、融通よく、富家、多く候處、一時に灰燼となり、良家の女房、娘、平生、定《さだめて》、綺羅に候へば、その絹布の上へ、雨・雪を受、無是非、菰俵《こもだわら》を身に覆ひ、兩三日、路頭にさまよひ候事、古今未曾有の珍事に御座候。家の潰れ候下《した》では、「やれ、助けてくれ、助けてくれ、」と叫び、或は、泣《なき》さけび候有樣、あはれなりし事のよし、種々承り候事も有ㇾ之候へども、筆紙に盡しがたく候。父子夫婦の間、眼前に橫死の有樣を見候得ども、いたし方もなく、貴賤となく、家每に、五人、三人、燒死し候へども、葬を助《たすく》るものも、あらず、銘々、燒跡の畑などを穿《うがち》て、そのまゝ埋め候もあり、或は、その死骸、知れず、辛《からう》じて、骨を拾ひ候も、多し。家は潰れ候へども、手傳ふて片付るものも、なし。土中は、大かた、われ候て、泥をふき出し候間、往來も自由ならず。その混雜、愁嘆、可ㇾ被ㇾ成御察候《おさつしなさらるべくさふらふ》。鹽澤邊は、當時、何事も無ㇾ之、無難に候へ共、度々《たびたび》小地震に困り入申候。今朝《けさ》も、一度、晝後《ひるののち》も、一度、地震にて、火難も氣づかはしく、家内のもの一統に、おそれ申候。亂書、御判じ御高覽可ㇾ被成下候。

 十二月三日         鈴木牧之拜

[やぶちゃん注:「下船」越後は海浜に近い並置では水利がよいため、往来には、極めてよく船を用いた。

「土中は、大かた、われ候て、泥をふき出し候」液状化現象である。ウィキの「三条地震」によれば、昭和三九(一九六四)年の『新潟地震で注目された「液状化現象」が、三条地震でも発生していたことが最近の調査でわかってきた(三条城址遺跡:三条市元町、石塚遺跡:三条市茅原)。当時の文献に砂・水の噴出した記録が残っており、地質調査でもそのことが裏付けられている。液状化現象はかつて河道であった箇所で多く発生している』とある。いやいや、とっくに牧之先生が、かく、書いておられたのだ!

 以下、底本では「追加」を除き、全体が最後まで一字下げ。頭の干支後の月の数字が抜けているのはママ。干支は翌文政十二年であるから、牧之の書簡のクレジットから、一月と思われる。]

此狀、己丑月廿八日、江戶新大坂町足袋商人二見屋忠兵衞、持參、被ㇾ屆ㇾ之。依ㇾ之、その詳《つまびらか》なることを得たり。則、こゝに追書す。牧之は、予が舊友、越後鹽澤の里長なる事、前にいへるが如し。典物鋪《てんぶつみせ》にして、且、半農なるものなり。

  文政十二年端月《たんげつ》念九   著作堂主人錄

[やぶちゃん注:「典物鋪」質屋のこと。

「端月念九」「端」は「最初」の意で一月の異名、「念九」の「念」は「廿」の代字であるから(中国語で「廿」の俗音が「念」に近いことから、宋代よりよく代用さられるようになった)、一月二十九日。]

迫加、

越後魚沼郡市の越といふ村の持山《もちやま》に、船山といふ山あり。いかなる故に、この名あるや、知るものなかりしに、右の地震の比、この船山の澗間、崩れて、長さ丈許《ばかり》、橫四尺、船石《ふないし》、出現、出《いだ》しけり。これ、自然石にて、凹《へこみ》て、船の如し。宛《あたか》も、石工の手に成れるに異ならず。この儀、神子《みこ》の口よせにて、同村なる鎭守の社頭へ曳着《ひきつけ》たりと云【壬辰の夏、鈴木牧之が狀中に、これを告《つげ》らる。卽-便《すなはち》、誌于此。】

[やぶちゃん注:「越後魚沼郡市の越といふ村の持山に、船山といふ山あり」「船石」これは既に『曲亭馬琴「兎園小説別集」下巻 越後船石』で、かなり、てこずったけれど、かなり綿密に考証しておいたので、そちらを見られたい。結論だけいうと、この「船石」は現存する。最後まで見てね、所在地候補をストリートビューで遠くから見たものもリンクさせているからね!

2022/11/03

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「話俗隨筆」パート 盜人灰を食ひし話

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「話俗隨筆」パート 盜人灰を食ひし話

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここ。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。

 なお、ここから暫くは比較的短い「話俗隨筆」パートとなる。

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文脈部分は直後に、「選集」を参考にしつつ、〔 〕で推定で訓読文を附した。

 標題は「盜人(ぬすびと)、灰(はひ)を食(く)ひし話」。] 

 

    話 俗 隨 筆

 

     盜人灰を食ひし話 (大正二年九月『民俗』第一年第二報)

 

 鴨の長明の「發心集」卷八に云く、『或人、語りて曰く、「唐土に御門《みかど》坐《おは》しけり。夜更《よふけ》て、燈火《ともしび》、壁に背《そむ》けつゝ、寢所に入りて座《ま》しますほどに、火の影に、かげろふ物あり。怪《あやし》くて、寢入りたるさまにて、よく見給へば、盜人なるべし。此處彼處《ここかしこ》に步《あり》きて、御寶物《おんたからもの》、御衣《ぎよい》など取りて、大《おほき》なる袋に入《いれ》てけり。尤《いと》むくつけなく思《おぼ》されて、いとど息音《いきおと》も仕玉《したま》はず。斯《かか》る間、此盜人、御側《おんかたはら》に、藥、合《あは》せんとて、灰を燒置《やきおか》れたりけるを見て、左右《さう》なく摑み食《くら》ふ。『糸怪し。』と見給ふ程に、と計《ばか》り有《あり》て、打案《うちあん》じて、此袋なる物共、取出《とりいで》て、皆、元の如く置《おき》て、頓《やが》て出《いで》なむとす。其時、御門、尤《いと》心得がたく思して、「汝は何者ぞ。いかにも、人の物を取《とり》ぬ。然るを、又、いかなる心にて返し置くぞ。」と、のたまふ。申《まをし》て曰く、「我は某《なにがし》と申《まをし》候ひし大臣が子也。幼くて、父に罷り後《おく》れて後、絕えて世に在るべきたつきも侍らず、去迚《さりとて》も、今更に人の奴《やつこ》と成《なら》ん事も、親の爲《ため》、心憂く思ひ、構へて、念じ過《すご》し侍りしかど、今は、命、生《い》くべき謀《はかりごと》も侍らねば、『盜人をこそ仕《つかまつ》らめ、』と覺えて侍るに、取《とり》て、並々の人の物は、主《ぬし》の歎き深く、取得《とりえ》て侍るに付《つけ》て、物淸《ものぎよ》くも覺え侍らねば、忝《かたじけな》くも、斯《かく》參りて、先《まづ》、物の欲《ほし》く侍りつる儘に、灰を置れて侍りけるを、『去《さる》べき物に社(こそ)。』と思ひて、之をたべつる程に、物の欲《ほし》さ、直《なほ》りて後、灰にて侍りける事を、始《はじめ》て了《さと》り侍れば、責《せめ》ては、かようのものをも、食し侍りぬべ可《か》りけり。『由なき心を起《おこ》し侍りける物哉。』と、悔しく思ひ構へて。」となん、申す。帝、具《つぶ》さに此事を聞給ひて、御淚を流され、感じさせ給ふ。「汝は、盜人なれども、賢者也。心の底、潔し、我、王位に在れど共、愚者と云可《いふ》べし、空しく忠臣の跡を失へり。早く罷歸候へ。明日、召出《めしいだ》し、父の跡を興《おこ》さしめん。」と仰《おほせ》られければ、盜人、泣々《なくなく》、出《いで》にけり。其後、本意の如く仕え奉りて、卽ち、父の跡をなん、傳へたりける」云々』。

[やぶちゃん注:鴨長明(久寿二(一一五五)年~建保四(一二一六)年)の仏教説話集「發心集」は晩年の編著で、亡くなる前年の成立かとされる。熊楠が引用したのは、第八の「三 仁和寺西尾の上人、我執に依つて身を燒く事」の中の長明の終りの評言に置かれた挿入話である。テクストは所持する『新潮日本古典集成』で校合した(脱字があった)。本篇の最後で熊楠も述べているが、新潮三木紀人氏の注によれば、この話は後の伊賀守橘成季によって編纂された世俗説話集「古今著聞集」(原形は建長六(一二五四)年頃の成立か)の巻十二の「偸盗第十九」の中にある「偸盗、空腹に堪へず、灰を喰ひて惡心を翻へす事」と類似するとあり、その後に熊楠の本篇の説を挙げて、『『大荘厳論経』六の説話を典拠とするかという』とある。当該話は、「やたがらすナビ」の宮内庁書陵部本「古今著聞集」のこれである(新字体電子化)。そこでは本邦の話としているようで、主人も盗人も匿名で、地位其の他も示されていない。灰も薬剤調合用(漢方では生薬を熱した灰の上で転ばすことがある)ではなく、また、盗人は空腹のあまり、鉢に入れ置いた灰を「麥の粉(こ)」(これは以下に見る原話に同じ)と誤認して食うという展開となっている。但し、明かに酷似する譚で、同源であることは疑いようがない。

「奴」人の使用人。

「並々の人」世間一般の庶民。]

 馬鳴《めみやう》菩薩の『大莊嚴經論』(鳩摩羅什譯)卷六に、諸欲求利者、或得或不得、有眞善心者、不求自得利、實無眞善心者、爲得貪利故、應作眞善心、我昔曾聞、有一國王、時輔相子、其父早喪、其子幼稚、未任紹繼、錢財已盡、無人通致可得見王、窮苦自活、遂漸長大、有輔相才、理民斷事、一切善知、年向成立、盛壯之時、形體姝大、勇猛大力、才藝備具、作是思惟、我今貧窮、當何所作、又復不能作諸賤業、今我無福、何所有、才藝不得施行、復不生於下賤之家、又聞他說是偈言、

   業來變化我 窮困乃如是

   父母之家業 今無施用處

   下賤所作業 非我所宜作

   若我無福業 應生下賤家

   生處雖復貴 困苦乃如是

   賤業極易知 然我所不能

   當作私竊業 使人都不知

   正有作賊業 覆隱人不覺

   腰繫二箭筒 幷持鋼利劍

   縛𨄔手秉弓 種種自莊嚴

   喩如師子兒 都無有所畏 (以上、泥棒の讃也)

說是偈已、作是思惟、設劫餘處、或令他貧、我當劫王(俗書『眞書太閤記』に石川五右衞門の立志を說くに似たり)、作是念已、至王宮中、詣王臥處、王覺有賊、怖不敢語、持王衣服幷諸瓔珞、取安一處、時王頭邊、有一器水、邊復有灰、飢渴所逼、謂灰是麨、和水而飮、飮已飽滿、乃知是灰、卽自思惟、灰猶可食、况其餘物、我寧食草、何用作賊、先父以來不爲此業、卽棄諸物、還來歸家、王見空出、歎言善哉、卽喚其人、而語之言、汝今何故、既取此物、還置於地而便空去、白言、大王聽我所說。〔諸々(もろもろ)の利を求めんと欲する者、或る者は得、或る者は得ず。眞の善心有る者は、求めずして、自づから利を得。實(じつ)に眞の善心無き者は、利を貪るを得んが爲めの故に、應(まさ)に眞の善心を作(おこ)すべし。我、昔、曾つて聞く、「一(ひとり)の國王有り。時に輔相(ほしやう)の子、其の父を早く喪ふ。其の子、幼稚(をさな)くして、未だ紹繼(あとをつ)ぐに任(た)へず。錢財、已に盡き、王に見(まみ)ゆるを得べき通致(とりも)つ人も、無し。窮苦して自活し、遂に漸(やうや)く長大す。輔相の才有りて、民を理(をさ)め、事を斷じ、一切を善(よ)く知れり。年(よはひ)、成立(せいじん)に向かひ、盛壯の時、形體も姝(みめよ)く大きく、勇猛大力にして、才藝、備-具(そな)はれり。是れ、思惟をなすらく、『我、今、貧窮にして、當(はた)、何の作す所ぞ。又、諸々の賤業をも作(な)す能はず。我、今、福、無くして、有る所の才藝を施行するを得ず。復(また)、下賤の家にも生まれず。』と。又、他(かれ)の是の偈(げ)を說きて言ふを聞くに、

 業(ごふ) 來つて 我を變化(へんげ)し

 窮困すること 乃(すなは)ち 是(か)くのごとし

 父母(ぶも)の家業は

 今 施用(せよう)せん處(すべ)なく

 下賤の所作(なすところ)の業(わざ)は

 我れ 宜(よろ)しく作(な)すべき所に非ず

 若(も)し 我に福業無ければ

 應(まさ)に 下賤の家に生まるべし

 生まれし處は 貴(とふと)しと雖も

 困苦すること 乃ち 是くのごとし

 賤業は 極めて知り易きも

 然(いか)も 我れ 能(よ)くせざる所たり

 當(まさ)に 私(ひそ)かなる竊業(ぬすみ)を作(な)し

 人をして 都(みな) 知らざらしむべし

 正(まさ)に 賊業(ぞくぎやう)を作す有るのみ

 覆ひ陰(かく)さば 人は 覺(さと)らざらん

 腰に 二つの箭筒(やづつ)を繋げ

 幷(あは)せて 鋼(はがね)の利劍を持(じ)し

 𨄔(はぎ)を縛(ばく)して 手に弓を秉(と)り

 種種(しゆじゆ) 自(おのづか)ら莊嚴(よそほ)へば

 喩へば 師子(しし)の兒(こ)のごとく

 都(すべ)て 畏るる所 有る無し(以上、泥棒の讃なり)

是(こ)の偈を說き已(をは)て、是の思惟を作(な)すらく、『設(も)し、餘處(よそ)を劫(おびや)かさんには、或いは他(かれ)をして貧ならしめん。我は當(まさ)に王を劫かすべし(俗書『眞書太閤記』に石川五右衞門の立志を說くに似たり)。是の念をなし已(をは)り、王宮の中に至り、王の臥(ふ)せる處に詣(まゐ)る。王、賊の有るを覺(さと)るも、怖れて、敢へて語(ものい)はず。王の衣服幷びに諸々の瓔珞(やうらく)を持ち、取りて、一處に安(お)く。時に、王の頭(かうべ)の邊りに一器の水有り、邊(かたへ)に、復(また)、灰、有り。飢渴の逼(せま)る所、灰を、『是れ、麨《はつたいこ》なり。』と謂(おも)ひ、水に和して、飮む。飮み已りて、飽滿し、乃(すなは)ち、是れ、灰なることを知れり。卽ち、自づから思惟すらく、『灰すら、猶ほ、食らふべし、况(いはん)や、その餘(よ)の物をや。我は、寧ろ、草を食らはん。何を用(も)つて賊を作(な)さんや。先父以來、此の業を爲(な)さず。』と。卽(ただ)ちに、諸物を棄て、還り來たりて、家に歸らんとす。王、空(むな)しくして出づるを見て、歎じて言ふ。「善(よ)きかな。」と。卽(ただ)ちに、其の人を喚(よ)んで、之れに語りて言はく、「汝、今、何故に、既に此の物を取るも、還(ま)た、地に置き、而して便(すなは)ち、空しくして去るや。」と。白(まを)して言はく、「大王、我が言ふ所の說を聽け。」と。〕とて、如上《によじやう》の次第を、偈(げ)で說きしに、王、感じ、用ひて、輔相とせり、と載《のせ》たり。

[やぶちゃん注:以上の漢文は中文サイト「CBETA 漢文大藏經」の「大莊嚴論經」「第六卷」の電子化されたそれと校合した(誤字・脱字があった)。「偈」の部分は底本では六段組みであるが、ブラウザの不具合を考え、二段組みとし、訓読では一段とした。なお、リンク先を見て戴くと判る通り、最後の王に直接に読み上げた「偈」は、また、別にあり、さらにそれを聴いた王が感銘して、偈を述べ、その中で彼を輔相(王の補佐役)となすという詞章が出るのである。]

 此の印度話を唐土の事と心得て、或人が長明に語れる也。

 『古今著聞集』には、或所に盜人《ぬすびと》入りて、鉢に入たる灰を食ひて後、袋に竊《ぬす》み納《い》れたる物を、本の如く、置て歸る所を、主人待設《まちまう》けて搦《から》めたり。其擧動を怪しみ、尋ねければ、盜人、仔細を述べ、『灰を食ひても餓《うゑ》を治《いや》すべし。』と思ひ、取る所の物を本に復《かへ》せしといふ。主人、哀れに思ひ、物取らせて、返し、『「後々も、詮盡《せんつき》ん時は、憚らず、來て、言へ。」とて、常にとぶらいけり。』と、日本、其頃の事の樣に書けり。

 

追 加 (大正二年九月『民俗』第一年第二報)

 前回、『大莊嚴經論』や『發心集』・『著聞集』から引《ひい》た、盜人が麨(はつたい)と謂ふて、灰を食ひ、灰食ふてさへ、饑を治すべしと反省して、盜んだ物を復した話に似て、趣向が別な奴が、趙宋の初め、智覺禪師、集に係る『宗鏡錄《すぎやうろく》』七三に出づ。云く、又律中四食章、古師義門手鈔云、思ㇾ食者、如饑饉之歳、小兒從ㇾ母求ㇾ食、啼而不ㇾ止、母遂懸砂囊誑云、此是飯、兒七日諦視其囊、將爲是食、其母七日後解下視ㇾ之、其兒見是砂絕望、因此命終。〔又、「律」中の「四食(しじき)」の章、古師の『義門手鈔』に云はく、「食を思ふ者は、饑饉の歲(とし)のごとし。小兒、母に從ひて、食を求め、啼きて止まず。母、遂に、砂の囊(ふくろ)を懸け、誑(あざむ)きて、「これは、飯(めし)なり。」と云ふ。兒(こ)、七日、其の囊を諦視(ていし)し、『是れ、飯なり。』と將-爲(おもへ)り。その母、七日の後に、解き、下ろして、之れを視(しめ)す。其の兒、是れ、砂なるを見、絕望し、此れに因りて、命、終はれり。」と〕。饑《うゑ》た兒が、砂を飯と心得、食ふのを樂しんで、七日、生き延びたが、砂と分つて、忽ち、絕望の極《きはみ》、死んだのぢや。同錄卅三に、暗中で寶玉に觸れ、蛇に螫《ささ》れたと思ふと、毒で身が脹《ふく》れ、種々、苦《くるし》む。智者、燈を持ち來り、「是れは、寶だ。」と示すと、忽ち、毒、去り、痛《いたみ》、癒《いえ》る、と有ると同規だ。世親《せしん》菩薩の『阿毘達磨倶舍論《あびだつまきしやろん》』卷十に、世傳有ㇾ言、昔有一父、時遭飢饉、欲ㇾ造他方、自既飢羸、二子嬰稚、意欲携去力ㇾ所ㇾ不ㇾ任、以ㇾ囊盛ㇾ灰、挂於壁上、慰喩二子云是麨囊、二子希望、多時延ㇾ命、後有ㇾ人至、取ㇾ囊爲開。子見是灰、望絕便死。〔世に傳へて言ふ有り。『昔、一(ひとり)の父有り。時に饑饉に遭ひ、他方に造(いた)らんと欲す。自(みづか)ら既に飢え羸《やつ》れ、二子、嬰稚(いとけな)し。意(おもふ)には、携へ去(ゆ)かんと欲(ほつ)するも、力、任(た)へざる所なれば、囊(ふくろ)を以つて、灰を盛り、壁の上に挂(か)け、二子を慰め喩して、「是れ、麨(はつたい)の囊なり。」と云ふ。二子、希ひ、望みて、多くの時、命(いのち)を延ぶ。後、人の至る有り、囊を取りて爲(た)めに開く。子、是れ、灰なるを見、望み、絕えて便(すなは)ち、死す。』と。〕。『宗鏡錄』に引《ひい》た『義門手鈔』の文は、是から出たんだろ。又、『倶舍論』右の文の次に、大海で難船、絕食した諸商人が、遙か距《へだて》て、大きな沫《あは》の積つたのを、陸地と誤認し、著岸を望んで、長時《ながく》、生延《いきのび》たと載せて居《を》る。『今昔物語』十六の四章、丹後の國の貧僧、寒に飢《うゑ》て、觀音像の木《き》を、猪肉《ししにく》と心得、食《くふ》た話も、似た例だ。

[やぶちゃん注:「宗鏡錄」は「大蔵経データベース」で校合した。なお、二番目に熊楠の梗概で出る暗闇の中の宝玉を蛇と誤認する話は、「同錄卅三」ではなく、三十五巻の誤りであることが判明した。「選集」も誤ったままである。参考までに、本文を「大蔵経データベース」から示しておく。一部の漢字を正字化し。私の判断で句読点を打った。

   *

譬如、暗家寶人不知故、無燈明故、於彼觸誤謂爲蛇所毒。由誤故、毒氣入身、其身膖脹、受種種苦。智者見已。卽將燈明示以利寶。其所螫人即見此寶、身内毒氣卽能除愈。

   *

「趙宋の初め、智覺禪師、集に係る『宗鏡錄』」(すぎょうろく)は五代十国時代の呉越から北宋初めの僧、永明延寿(九〇四年~九七六年:「智覺禪師」は尊称)が撰した仏教論書。全百巻。九六一年成立。ウィキの「宗鏡録」によれば、『撰者の永明延寿は、雪峰義存の弟子である翠巌令参のもとで出家し、天台徳韶』(とくしょう)『の嗣法となった禅僧である。永明延寿の主著が、本書であり、禅をはじめとして、唯識宗・華厳宗・天台宗の各宗派の主体となる著作より、その要文を抜粋しながら、各宗の学僧によって相互に質疑応答を展開させ、最終的には「心宗」によってその統合をはかるという構成になっている』。『この総合化の姿勢は、その』「万善同帰集」『にも見られるものであり、後世になって、「禅浄双修」「教禅一致」が提唱された時、永明延寿の著書が注目されることとなった』とある。北宋は趙匡胤(きょういん)が五代最後の後周から禅譲を受けて建てた。国号は「宋」であるが、後に金に開封を追われて南遷した後の南宋と区別する際に、「北宋」以外に王の姓氏を附して「趙宋」とも呼ぶのである。

「四食(しじき)」サイト「WikiArc」のこちらによれば、『衆生』『を養い育てる四種の食物』で、第一に『段食(だんじき)』で、これが物理的な『肉体を養う飲食物など』の『有形の食物』を指し、第二に、『触食(そくじき)』で、これは感情的な『よろこびのこころをおこす感触によって身を養うこと』を言う。第三は、精神的な『思食(しじき)』で『意思作用や願望などによって身を支えること』を指し、第四に高度な感官の齎す『識食(しきじき)』であって、これは『心(識別作用)によって身を支えるもの』を言うとあった。

「古師の『義門手鈔』」不詳。永明延寿は天台徳韶の法嗣を受けているが、ここでは「古師」とあり、彼は初め、雪峰義存門下の翠巌令参の下で出家している。雪峰は五代時代に於いて最大の仏教教団を形成した知られた僧であり、永明の関係者で「義」を名に持つ師は彼だけのようであるから(但し、永明が四歳の時に雪峰は示寂しているから、直接の師ではない)、雪峰義存の伝された自筆手記の抄録を指すものかも知れない。

「世親菩薩の『阿毘達磨倶舍論』」こちらも「大蔵経データベース」で校合した。熊楠は最初に出る子の数を「三」と誤っているのは致命的である。こちらの方は、「選集」では正しく「二」となっている。世親は紀元四世紀頃の古代インド仏教の瑜伽行唯識学派の僧。「世親」はサンスクリット名である「ヴァスバンドゥ」の漢音写で、玄奘訳以降、定着し、広く知られる。この書は、部派仏教の教義体系を整理・発展させた論書で、永く玄奘訳で伝えられてきた。

「大海で難船、絕食した諸商人が、遙か距て、大きな沫の積つたのを、陸地と誤認し、著岸を望んで、長時、生延た」本当に先の引用に続いて出る。以下に「大蔵経データベース」のものを、一部、漢字を正字化して示す。

   *

又於大海有諸商人。遭難敗船飮食倶失。遙瞻積沫疑爲海岸。意望速至命得延時。至觸知非望絕便死。

   *

「『今昔物語』十六の四章、丹後の國の貧僧、寒に飢《うゑ》て、觀音像の木《き》を、猪肉《ししにく》と心得、食《くふ》た話」「今昔物語集」巻第十六の「丹後國成合觀音靈驗語第四」(丹後國(たんごのくに)成合觀音(なりあひくわんおむ)靈驗(れいげむの)語(こと)第四(し))。以下に所持する小学館『日本古典文学全集』の同集の第二巻を参考に、漢字を概ね正字化して示す。

   *

 

   丹後國成合觀音靈驗の語第四

 

 今は昔、丹後國に「成合」と云ふ山寺有り。觀音の驗(げん)じ給ふ所なり。

 其の寺を「成合」と云ふ故を尋ぬれば、昔し、佛道を修行する貧き僧有りて、其の寺に籠りて行ける間に、其の寺、高き山にして、其の國の中(うち)にも、雪、高く、降り、風、嶮(けは)しく、吹く。

 而るに、冬の間にて、雪、高く降りて、人、通(かよ)はず。

 而る間、此の僧、粮(かて)絕えて、日來(ひごろ)を經(ふ)るに、物を食はずして、死ぬべし。

 雪、高くして、里に出でて乞食(こつじき)するにも、能はず、亦、草木の食ふべきも、無し。

 暫くこそ、念じても居(ゐ)たれ、既に十日許りにも成りぬれば、力無(ちからな)くして、起き上がるべき心地(ここち)せず。

 然(しか)れば、堂の辰巳(たつみ)の角(すみ)に、䒾(みの)の破れたる敷きて臥したり。力無ければ、木を拾ひて火をも燒かず。寺、破損して、風も留(とど)まらず、雪風、嶮(けは)しくして、極めて、怖ろし。力無くして、經をも讀まず、佛をも念ぜず、『只今、過ぎなば、遂に、食物、出來(いでく)べし。』と思はねば、心細き事、限り無し。

 今は、死なむ事を期(ご)して、

「此の寺の觀音を助け給へ。」

と念じて、申さく、

「只一度(ただひとたび)、觀音の御名(みな)を唱ふるそら[やぶちゃん注:「すら」の訛り。]、諸(もろもろ)の願(ねがひ)を滿て給ひしなり。我れ、年來(としごろ)、觀音を憑(たの)み奉りて、佛前にして餓ゑ死なむ事こそ、悲しけれ。高き官位を求め、重き財寶を願はばこそ、難(かた)からめ、只、今日(けふ)、食(じき)して、命(いのち)を生(い)く許(ばかり)の物を、施し給へ。」

と念ずる間に、寺の戌亥(いぬゐ)の角(すみ)の破れたるより見出(みいだ)せば、狼に噉(くら)はれたる猪(ゐのしし)、有り。

『此れは。觀音の與へ給ふなめり。食(じき)してむ。』

と思へども、

「年來、佛を憑み奉りて、今更に、何(いか)でか、此れを食(じき)せむ。聞けば、『生(しやう)有る者は、皆、前生(ぜんしやう)の父母(ぶも)なり。』と。我れ、食に飢へて死なむと□□□□□□□□[やぶちゃん注:破損による欠字。参考本の頭注に『古本説話「我ものほしといひながらおやのししむらほぶりてくらはん」。』とある。]肉村(ししむら)、屠(ほ)ふり食(く)はむ。況(いはむ)や、生類(しやうるゐ)の肉を食(じき)する人は、佛の種(しゆ)を斷ちて、惡道に墮つる道なり。然(さ)れば、諸(もろもろ)の獸(けだもの)は、人を見ては、逃げ去る。此れを食する人をば、佛も菩薩も、遠く去り給ふ事なれば。」

[やぶちゃん注:ここに「と」が欲しい。]返々(かへすがへ)す、思ひ返せども、人の心の拙(つたな)き事は、後世(ごせ)の苦しびを思はずして、今日(けふ)の飢への苦しびに堪へずして、釼(つるぎ)を拔きて、猪の左右(さう)の腂(もも)の肉を屠り取りて、鍋に入れて、煮て、食(じき)しつ。

 其の味、甘き事、並び無し。飢の心、皆、止(とどま)りて、樂しき事、限り無し。

 然(しか)れども、重き罪を犯しつる事を、泣き悲しむで居(ゐ)たる程に、雪も、漸(やうや)く消えぬれば、里の人、多く來(きた)る音を聞く。

 其の人の云はく、

「此の寺に籠たりし僧は何(いか)が成りにけむ。雪、高くして、人、通ひたる跡も、無し。日來(ひごろ)に成りぬれば[やぶちゃん注:「人跡絶えてより、随分、日数が経ってしまっているので」。]、今は食物(じきもつ)も失せにけむ。人氣(ひとけ)も無きは、死にけるか。」

と、口々に云ふを、僧、聞て、先づ、

『此の、猪を、煮噉(にちら)したるを、何で、取り隱さむ。』

と思ふと云へども、程無くして、爲(す)べき方(かた)、無し。

 未だ、食ひ殘したるも、鍋に、有り。

 此れを、思ふに、極めて、恥ぢ、悲び、思ふ。

 而る間、人々、皆、入り來たりぬ。

 人々、

「何(いか)にしてか、日來(ひごろ)、過ごしつる。」

など云ひて、寺を廻(めぐ)りて見るに、鍋に檜(ひ)の木(き)を切り入れて、煮て食ひ散したり。

 人々、此れを見て云はく、

「聖(ひじり)、食(じき)に飢ゑたりと云ひ乍ら、何(いか)なる人か、木(き)をば煮食(にく)ふ。」

と云ひて哀れがる程に、此の人々、佛を見奉れば、佛の左右(さう)の御腂(おほむもも)を、新たに、切り取りたり。

『此れは。僧の切り食ひたるなりけり。』

と奇異(あさま)しく思ひて云はく、

「聖、同じ木を食(じきす)るならば、寺の柱をも、切り食はむ。何ぞ、佛の御身(おほむみ)を、壞(やぶ)り奉る。」

と云ふに、僧、驚きて、佛を見奉るに、人々の云ふが如く、左右の御腂(おほむもも)を切り取りたり。

 其の時に思はく、

『然(さ)らば、彼(か)の煮て食(じき)しつる猪は、觀音の、我を助けむが爲めに、猪に成り給ひけるにこそ有けれ。』

と思ふに、貴(たふと)く悲しくて、人々に向ひて、事の有樣を語れば、此れを聞く者、皆、淚を流して、悲しび、貴ぶ事、限り無し。

 其の時に、佛前にして、觀音に向ひ奉りて、白(まう)して言(まう)さく、

「若(も)し、此の事、觀音の示し給ふ所ならば、本(もと)の如くに、□□□□□。」

□[やぶちゃん注:先と同じく頭注で『古本説話「もとの様にならせ給ねと、返々申ければ」』とある。]申す時に、皆人、見る前へに、其の左右の腂(もも)、本の如く成□□□□□□□□□□[やぶちゃん注:同前で『古本説話「もとの様になりみちにけりされば、この寺をなりあひと申侍なり」』とある。]。

 人皆(ひとみな)、淚(なむだ)を流して□泣悲(なきかなしま)ずと云ふ□□□□□□。□□□□此の寺を「成合」と云ふ也けり。[やぶちゃん注:同じく頭注に最初の一字欠損は破損による旨の記載があり、『「不」が擬せられる』とある。則ち、原本は漢文式訓点附きであるから、後の「ず」に当たる漢字表記の元ということになる。最後のそれは破損によるもので、『「事無カリケリ。然レバ」が擬せられる』とある。]

 其の觀音、今(いま)に在(ましま)す。

「心有らむ人は、必ず、詣でて禮(れい)奉るべきなり。」

となむ、語り傳へたるとや。

   *

この成相寺は現在の京都府宮津市にある天橋立を一望する真言宗成相山成相寺(なりあいじ)。本尊は聖観世音菩薩。当該ウィキによれば、『寺伝によれば慶雲元年』(七〇四年)、『真応上人の開山で文武天皇の勅願寺となったというが、中世以前の寺史は判然としない』とある。]

2022/11/02

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 奇異の神罰

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここ。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。

 なお、本篇は十三年前、未だ現役高校教師であった二〇〇九年三月十七日にサイト版で、底本は一九九一年河出書房新社刊の『河出文庫』中沢新一編《南方熊楠コレクションⅢ》「浄のセクソロジー」所収のもの(底本の親本は平凡社版「南方熊楠全集」第二巻四五七~四六〇頁とある。上記「選集」も同底本である)を底本として「南方熊楠 奇異の神罰 附やぶちゃん注」を公開している。今見ても、当時の私の仕儀としては、かなり強力な注を附しているとは思う。今回は原表記版で、本文自体は零から視認し、注に関しては、その私の旧注を参考にしつつ、よりブラシュ・アップしたものになるよう、努力したつもりである。従って、本テクスト及び私の注を以って本篇の決定版とする

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文脈部分は直後に、「選集」を参考にしつつ、〔 〕で推定で訓読文を附した。]

 

     奇 異 の 神 罰 (明治四十五年七月『此花』凋落號)

 

 「猥褻風俗史」十二張裏(うら)に、寶永七年板『御入部伽羅女(ごにふぶきやらをんな)』、又、『寶永千載記』等を引き、伊勢詣りの男女、途中で交接して、離れざるものを見世物にしたる由、見ゆ。樽屋お仙(『好色五人女』卷二)、お半長右衞門(『桂川連理柵(かつらがはれんりのしがらみ)』上)など、參宮に便りて淫奔《いんぽん》せし例、少なからねば、自然、斯《かか》る見世物も信受(まにうけ)られし也。

[やぶちゃん注:「明治四十五年」(一九一二年)「七月『此花』凋落號」既出既注

「猥褻風俗史」宮武外骨著。明治四四(一九一九)年雅俗文庫(出版社名で『此花』もここから発行されていた)刊。宮武外骨(慶応三(一八六七)年~昭和三〇(一九五五)年)は反権力に徹したジャーナリストで風俗研究家。「十二張裏」は「二十二」ページ(裏)の誤りで、「▲觀物(みせもの)」の章の内。原本当該部が国立国会図書館デジタルコレクションの画像で視認出来る

「御入部伽羅女」浮世草子。湯漬翫水(ゆづけがんすい)作。宝永七(一七一〇)年刊。「猥褻風俗史」の引用箇所は、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の原本の同巻一括PDF版8コマ目の十八章の「開帳(かいちやう)は本(ほん)の拔參(ぬけまいり)」の左丁五行目以下で確認出来る。

「寶永千載記」正式には「日本繁昌寶永千歲記」で、宝永二(一七〇五)年刊)の浮世草子。作者は田村栄秀。「猥褻風俗史」の引用箇所は、国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認したところ、巻之三のここの上段の右丁七行目から見出せた

「交接して、離れざるもの」激しい膣痙攣。

「便りて」普通に「便(たよ)りて」と読むが、ここはフラットな「~に依る・~を用いて」の意よりも、批判的な「~をよいことに・~にかこつけて」の意であろう。

「好色五人女」井原西鶴浮世草子で「好色物」第三作。貞享三(一六八六)年刊。全五話からなり、当時著名な巷説に取材し、「お夏清十郎」・「樽屋おせん」・「おさん茂右衛門」・「八百屋お七」・「おまん源五兵衛」の五組の恋愛・姦通事件を扱う。後世の歌舞伎・浄瑠璃にも数多くとりあげられることになる主人公たちを最初に描いた作品(小学館「日本国語大辞典」に拠った)。巻二の「情(なさけ)を入し樽屋物かたり」は「国立国会図書館デジタルコレクションの活字本のここから読める(一部伏字)。

「桂川連理柵」浄瑠璃。世話物。全二段。菅専助作。安永五(一七七六)年大坂北堀江市の側の芝居が初演。宝暦一一(一七六一)年、京都の桂川に十四、五の娘と五十男の死体が流れついた巷説を脚色したもの。信濃屋の娘お半と隣家の四十男の帯屋長右衛門とが伊勢参りの石部(いしべ)の宿での契りから、お半は懐妊、二人は桂川で心中するという筋立て(小学館「日本国語大辞典」に拠った)。私も二度ほど見た。活字本は国立国会図書館デジタルコレクションの「解説附 稽古本 義太夫名曲全集 桂川連理柵 おはん長右衞門 帶屋の段」がよい。]

 伊勢道中に限らず、諸所の聖地に、今も、間《ま》ま、實際斯《かか》る事有るは、四年前、七月二十日の『大阪每日』紙上、三面先生の「別府繁昌記」に、溫泉の由來を說明する「坊さん、猶、續けて云ふ、不思議な事には、中で不淨なことがあると、屹度、湯が冷《ひえ》切りますぢや。愚僧の時代にも、三度ほど、ありました。十年許り前になりますがの、男女の不埒者がありましてな、合《あふ》た所が、離れません。其時も、湯が、悉く冷切りまして、三日三夜(《みつか》みよさ)、大祈禱を行ひましたぢや。此頃は滅多に有りません。何(なん)し、信仰が强い因《よつ》て、其樣(そん)な馬鹿者は、十年に一人とも、まあ、出ませんわい」云々。紀州田邊に藤原拔高(《ふぢはら》のぬけたか)と綽名立《たち》し人、ありし。三十年程前、近町の寡婦と、高野の女人堂《によにんだう》で淫行して、離れ得ず、僧の加持を賴み、纔《わづか》に脫して還れるを、當時、流行唄《はやりうた》で、持囃《もてはや》され、今も記憶する人、多し。『續群書類從』所ㇾ收「八幡愚童訓」卷下に、御許山(おもとやま)の舍利會(しやりゑ)に、一僧、女房を賺(すか)して、人なき谷底にて犯しける程に、二人、抱き合ふて、離れず、命、失せに鳧《けり》と載す。文の前後を推すに、鎌倉時代の事の如し。

[やぶちゃん注:「三面先生」三面記事に引っ掛けた記者(後述)のペンネーム。サイト「別府大学地域連携プログラム」のこちらに、分割された当該記事の書誌データがあり、「別府温泉繁昌記(四)」として、『明治四十一年六月(大阪毎日新聞)』とあり、一九九三年十一月に発行された『別府史談』(第七号)の『目次には著者は「菊池幽芳」とあり』とある。菊池幽芳(ゆうほう 明治三(一八七〇)年~昭和二二(一九四七)年)は、当時の大阪毎日新聞社同社の文芸部主任で小説家でもあった人物で、本名は菊池清。後に社会部長・学芸部長・副主幹・同社取締役・相談役を歴任した(当該ウィキに拠った)。

「三夜(みよさ):「よさ」は「夜去る」(古語で「夜が来る」の意)の名詞化した「夜去り」の語尾が脱落したものである。懐かしい響きである。私が青春時代を過ごした富山では、「よさり」=「夜」という語が今も生きているからである。

「高野の女人堂」高野山は明治五(一八七二)年に女人禁制が解かれるまで、女性は入山出来なかった(女人結界)。高野山への参道は「高野七口」と呼ばれ、以前は、それぞれの入口に女性のための籠り堂として女人堂が建てられていた。女性信者はこの女人堂を巡りつつ、八葉蓮華の峰々を辿って御廟を遥拝したのであった。この巡礼道を「女人道(にょにんみち)」と呼ぶ。最も知られ、現在も唯一、堂がある京大坂道(きょうおおさかみち)女人堂が知られる(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)。

「八幡愚童訓」「はちまんぐどうくん」又は「はちまんぐどうきん」と読む。鎌倉時代中・後期の成立とされる縁起。作者不詳。「愚童訓」とは八幡神の神徳を「童子や無知蒙昧の徒にも分かるように読み説いたもの」という意味で、「三韓征伐」から「文永・弘安の役」までの歴史的事実を素材としつつ、八幡神の霊験を説いている。石清水八幡宮社僧の作と推定されている。「八幡大菩薩愚童訓」「八幡愚童記」とも言う。

「御許山」宇佐神宮(大分県宇佐市大字南宇佐)の背後にある山。宇佐神宮の神比売大神(ひめのかみ)が降臨した山として崇拝され、現在もその頂上は神域として立入禁止となっている霊山である。

「舍利會」寺に於いて仏の遺骨(その実態は概ね水晶である)を供養する法事のこと。舎利講会・舎利講とも言う。

「賺して」「騙(だま)して誘(いざな)い」の意。]

 外國の例は、元の周達觀の『眞臘(今の柬埔塞(かんぼぢあ)風土記《しんらふふどき》』に「異事」と題して、東門之裏、有蠻人淫其妹、皮肉相粘不開、歷三日不ㇾ食而俱死、余鄕人薛氏、居ㇾ番三十五年矣、渠謂兩見此事、蓋其聖用佛之靈、如此。〔東門の裏(うち)に、蠻人の、其の妹を淫する者、有り。皮肉、相ひ粘(ひつつ)きて開かず、三日を歷(へ)て、食(くら)はずして、俱(とも)に死す。余の鄕の人、薛(せつ)氏は、番(ばん)に居(を)ること、三十五年たり。渠(かれ)の謂ふに、「兩(ふた)たび、此の事を見たり。」と。蓋し、其れ、聖佛(しやうぶつ)の靈(くしび)[やぶちゃん注:霊妙。不可思議。]を用(もち)ひて、所以(ゆゑん)、此くのごときなり。〕。一八七七年龍動(ろんどん)板、ゴルトチッヘルの『ヘブリウ鬼神誌』一八二頁に、回敎徒が巡禮するカバ廟で、語らいした罰に、化石した男女の事を記せり。又、『嬉遊笑覽』所引、明の祝允明(しゆくいんめい)の『語恠(ごくわい)』に、兗《えん》州、人家の贅婿(いりむこ)其妻の妹と通じ、事、露《あらはれ》しが、抗辯して、岱山頂《たいざんいただき》に上《のぼ》り、二人、「果して、私《わたくし》あらば、神誅を受けん。」と祝し、山腹の薄闇き所で、忽ち、行淫して、久しく還らず。人々、尋ね見出《みいだ》せしに、二根、粘着(ひつつ)き、解《とけ》ずして、死し居《をり》たり、と有り。唐の段成式の『酉陽雜俎(いうやうざつそ)』續集六に、長安靜域寺之金剛舊有ㇾ靈、天寶初、駙馬獨孤明宅與ㇾ寺相近、獨孤有ㇾ婢名懷香、稚齒俊俏、常悅西隣一士人、因宵期於寺門、有巨蛇束ㇾ之俱卒。〔長安靜域寺の金剛は、舊(ふる)く靈(くしび)有り。大寶の初め、駙馬《ふば》の獨孤明の宅、寺と相ひ近し。獨孤に婢有り、懷春と名づく。稚齒(としわか)くして、俊俏(みめよ)し。常に西隣りの一士人と悅(たのし)む。因りて、宵(よひ)に、寺門に於いて期(あ)へり。巨蛇(うはばみ)、有りて、之れらを束(つか)ね、俱(とも)に卒(し)せり。〕。實《まこと》は、例の離れずに死に居(をり)たるを、「蛇に束ね殺されし」と僞言せしならん。

[やぶちゃん注:「眞臘風土記」元の周達観撰になる見聞録。成宗(テムル)の時代の中国人外交官であった周達観(一二〇七年頃~?)は成宗元貞元年(一二九五)年七月から翌年六月にかけて、クメール王朝(アンコール王朝)の真臘(現在のカンボジア)への使節団に随行して、約一年、滞在したが、その間に見聞きした現地の風俗や異聞を記録したもの。実際の執筆は一三〇〇年頃と考えられるが、アンコール時代の見聞録は他に例がなく、極めて重要な風俗資料とされる。引用部は「中國哲學書電子化計劃」の影印本の当該部で校合した。

「番」「蕃」の通用字であろう。「南蠻」と同義で、南方の異民族の地を卑称する語。

「ゴルトチッヘルの『ヘブリウ鬼神誌』」今回も作者・著者ともに私には未詳である。先のサイト版で『本書及び著者について、識者の御教授を乞う』と記したが、十三年間、誰からも報知はなかった。なお、そこで『ただ、これは南方の「十二支考」の一つ「田原藤太竜宮入りの譚」の「竜の起原と発達」の条に現れる「一八七六年版ゴルトチッヘルの『希伯拉鬼神誌(デル・ミスト・バイ・デン・ヘブレアーン)』に……」と、出版年に一年の齟齬はあるが、同じ書物かと思われる。「希伯拉」が「ヘブリウ」で、ヘブライである』と記したが、今回、さらに調べたところ、加工データとして使用させて頂いている「私設万葉文庫」「南方熊楠全集5(雑誌論考Ⅲ)」の電子データの中の、『日本及日本人』の大正四(一九一五)年一月一日発行に掲載された熊楠の「石蒜(せきさん)の話」(石蒜はヒガンバナの漢名)の中に、『ハンガリーのユダヤ人で博言学の大家たるゴルトチッヘルの『希伯拉《ヘブライ》鬼神誌』』という簡単な人物紹介が出ているのも確認出来た。再度、識者の御教授を俟つものである。

「カバ廟」カーバ。イスラム教の最高の聖地メッカのマスジド・ハラームの中心部にある建造物のこと。最高の聖地の最高の聖殿で、「カーバ神殿」とも呼称される。本来はアラビア語で「立方体」を意味する。宮殿の形状が立方体に近いことから名づけられた。グーグル・マップ・データ航空写真。サイド・パネルのこの画像なども参照されたい。

「嬉遊笑覽」国学者喜多村信節(のぶよ 天明三(一七八三)年~安政三(一八五六)年)の代表作。諸書から江戸の風俗習慣や歌舞音曲などを中心に社会全般の記事を集めて二十八項目に分類叙述した十二巻付録一巻からなる随筆で、文政一三(一八三〇)年の成立。私は岩波文庫版で所持するが、それらしいものが載る箇所を中心に、二度、目を通したが、見当たらない。見出し項目か、せめても巻数を示して欲しかったな、南方先生。発見し次第、追記する。

「祝允明」(一四六〇年~一五二六年)は明代中期の文人・書家。著名な書に「楷書出師表巻」がある。「語恠」は彼の志怪小説。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の元末明初の陶宗儀の手になる漢籍叢書「説郛」の巻第四十六(四十五とのカップリングPDF一括版)に「語怪」があり、「祝允明」撰として、110111コマ目に原文(標題は「神譴男女」)が出る。

「兗《えん》州」底本では、「兗(こん)州」であるが、上記「説郛」を見たところ、「袞」であることが判ったので、訂した。「選集」も河出文庫版の本篇も孰れも「兗(えん)州」とルビを振っており、以下のグーグル・マップ・データ表示名でも「エン州市」である。狭義には現在の山東省西南部にある済寧市兖州区の県級市である兗州市周辺を指すが、兗州の名は古代中国の天下九州の一である「兗州」に由来するので、当該ウィキによれば、唐代には『兗州は河南道に属し、瑕丘・曲阜・乾封・泗水・龔丘・鄒・任城・金郷・魚台・萊蕪の』十一『県を管轄した』とあり、寧ろ、以下の泰山を中心とした広域に相当する。

「岱山」山東省泰安市にある霊山とされる泰山。標高千五百四十五メートル。「封禅(ほうぜん)の儀」(中国の皇帝が直接に行った秘儀的祭祀の一つ。天命を受けた皇帝がこの泰山 の頂きに天を祭り(「封」)、麓の小さな丘である梁父(りょうほ)で地を祭って(「禅」)、王朝国家の成立と永続を祝福するもの。「史記」にその起源を伝えるが、確実に行ったのは秦の始皇帝が最初で、以降、前漢の武帝、後漢の光武帝、唐の玄宗などが実施した)が行われた霊山として知られ、道教の聖地五岳(東岳泰山・南岳衡山・中岳嵩山・西岳華山・北岳恒山)の筆頭であり、この山には、人の生死を司る神である「泰山府君」が住むと考えられていた。

「『酉陽雜俎』續集六に、「長安靜域寺の金剛は……」この部分、「維基文庫」の「酉陽雜俎/續集」の「巻六 寺塔記下」の電子化本文と校合した。この話は、平凡社一九八一年刊の『東洋文庫』の今村与志雄訳注「酉陽雑姐」第三巻の二十六ページの通し番号「宜陽坊静城寺(じょうじょうじ)」(通し番号「一〇五四」条)に続く形で、三十ページの「一〇五六」の条に現れる(以下は当該訳書を参照・引用した)。既に「一〇五四」で、門の東の内側には、夜叉や鬼神の画が描かれ、特に『鬼の頭上にとぐろをまいている蛇は汗烟(かんえん)』(この語、見かけないが、「冷汗が出て、それが煙のように立ち上るほど、慄(ぞっ)とする」という意か)「汗をかき、煙を吐くようにリアルで」の意か)『でおそろしい』とあり、東の廊の庭にある樹木や岩石も険阻にして奇怪であると記す。而して、「一〇五六」には『三門外の絵画も、やはり、皇甫軫の筆蹟である。金剛(こんごう)は、かねてから霊験があった』とし、『天宝〔七四二―七五五年〕のはじめ、附馬(ふば)の独孤明の邸宅は、寺と近かった。独孤には、懐春という名の女奴隷がいた。うら若く、きりょうがよかった。あるとき、西隣にすむ一士人が好きになって、そこで、夕方寺の門であいびきを約束した。ところが大きな蛇が、まきついてしめ、二人とも死んでしまった。』とある。独孤明は、今村先生の注によれば、玄宗の皇女信成公主が嫁いだ実在の人物である。皇甫軫(こうほしん)なる画家については未詳。]

 東晋の代に天竺三藏覺賢(ぶだぶはとら)が譯せる『觀佛三昧海經』卷七に云く、波羅奈(はらな)國の婬女、名は妙意、世尊、「此女を化度せん。」とて、三童子を化成《かせい》す。年、皆、十五、面貌端正、一切の人に勝れり。此女、之を見て、大《おほい》に歡喜し、語るらく、丈夫、我今此舍如功德天、富力自在衆寶莊嚴、我今以身及與奴婢上丈夫、可ㇾ備灑掃、若能顧納、隨我所願、一切供給、無ㇾ所愛惜。〔丈夫(をのこ)よ、我れ、今、此の舍(いへ)、功德、天のごとく、富力自在にして、衆寶もて、莊嚴(しやうごん)なせり。我れ、今、身(わがみ)及び奴婢(ぬひ)とを以つて、丈夫に奉(ささ)げ上(たてまつ)り、灑掃(さいさう)に備ふべし。若(も)し、能く顧みて、納(いて)れ、我が願ふ所に隨はば、一切を供給し、愛惜する所、無し。〕とて、招き入れ、卽附近已、一日一夜、心不疲厭、至二日時、愛心漸息、至三日時白言、丈夫可起飲食、化人卽起、纏綿不ㇾ已、女生厭悔、白言、丈夫異人乃爾、化人告言、我先世法、凡與ㇾ女通、經十二日、爾乃休息、女聞此語、如人食噎既不ㇾ得ㇾ吐、又不ㇾ得ㇾ咽、身體苦痛、如ㇾ被杵搗。至四日時、如ㇾ被車轢、至五日時、如鐵丸入一ㇾ體、至六日時、支節悉痛、如箭入一ㇾ心。〔卽ち、付(したが)ひ近づき已(をは)る。一日一夜、心、疲れ、厭(や)まず。二日に至りし時、愛の心、漸(やうや)く息(や)む。三日に至りし時、白(まを)して言はく、「丈夫、起きて、飮食すべし。」と。化人(かじん)、卽ち、起きるも、纏綿(てんめん)として、已(や)めず。女、厭悔を生じ、白して言はく、「丈夫は、異人なれば、乃(すなは)ち、爾(しか)り。」と。化人、告げて言はく、「我が先きの世の法は、凡そ、女子と通ずるに、十二日を經て、爾(しかるの)ちに休息す。」と。女、此の語(ことば)を聞き、人の、食らひて噎(おくび)するも、既に吐くを得ずして、又、咽(の)むを得ざるがごとし。身體の苦痛なること、杵(きね)にて擣-搗(つ)かるるがごとし。四日に至りし時は、車にて轢かるるがごとし。五日に至りし時は、鐵丸(てつぐわん)を體に入るるがごとし。六日に至りし時は、支節(しせつ)悉く、痛み、箭(や)の心(むね)に入るるがごとし。〕。婬女、大《おほき》に懲《こ》り果《はて》て、「我れ、今より、一生、色を貪らじ。寧ろ、虎狼と一穴に同處するも、色を貪《むさぼり》て、此苦を受けじ。」と念《ねが》ふ。化人亦嗔。咄弊惡女、汝廢我事業、我今共ㇾ汝合體處、不ㇾ如早死、父母宗親、若來覓、我於ㇾ何自藏、我寧經死、不ㇾ堪ㇾ受ㇾ恥、女言、弊物、我不ㇾ用ㇾ爾、欲ㇾ死隨意、是時化人、取ㇾ刀刺ㇾ頸、血流滂沱、塗汚女身、萎沱在ㇾ地、女不ㇾ能ㇾ勝、亦不得免、死經二日靑瘀臭熏、三日膖脹、四日爛潰。大小便利及諸惡蟲。迸血諸膿涂漫女身。女極惡厭而不得離。至五日時皮肉漸爛。至六日時肉落都盡。至七日時唯有臭骨。如膠如漆粘著女身。女發誓願。若諸天神及與仙人。淨飯王子能免我苦、我持此舍一切珍寶以用給施。〔化人、亦、瞋(いか)るらく、「咄(とつ)、弊惡女(あばずれめ)、汝は、我が事業を廢せり。我れ、今、汝と共に合體して一處なれば、早く死するに如(し)くはなし。父母(ぶも)・宗親(そうしん)、若(も)し、來りて覓(もと)むれば、我れ、何(いづ)くに於いて自(みづか)ら藏(かく)れんや。我れ、寧ろ、經(くび)れて死せん。恥を受くるに堪へず。」と。女、言はく、「弊物(ろくでなし)。我れは、爾(なんぢ)に用なし、死を欲するも、隨意なり。」と。此の時、化人、刀を取りて頸を刺す。血、流るること、滂沱(ばうだ)として、女身を塗-汚(けが)し、萎-沱(くづを)れて地に在り。女は勝《た》ふる能はざるも、亦、免るるを得ず。死して二日を經(へ)て、靑き瘀(うみ)、臭-熏(にほ)ふ。三日にして膖脹(ぼうちやう)し、四日にして爛(ただ)れ漬(つぶ)れ、大小便利及び諸惡蟲、迸(ほとば)しりし血と諸(もろもろ)の膿(うみ)、女身に塗-漫(へばりつ)く。女、極めて惡厭(おえん)するも離るるを得ず。五日に至りし時、皮肉、漸(しだい)に爛れ、六日の時、肉、落ち、都(すべ)て盡く。七日の時に至り、唯(ただ)、臭き骨、有るのみ。膠(にかは)のごとく、漆のごとく、女身に粘著(ねんちやく)す。女、誓願を發(ほつ)すらく、「若(も)し、諸天神及び仙人・淨飯王子(じやうぼんわうじ)、能く我が苦しみを免れしめば、割れ、此の舍の一切の珍寶を持(も)ちて、以つて、給へ施しに用ひん。」と。〕。斯く念ずる所え[やぶちゃん注:ママ。]、佛、阿難を伴ひ來《きた》る。女、之を見て、男の屍《しかばね》を離さんとするに、離れず。白氈《はくせん》もて覆ふに、臭き故、覆ひ得ず。大《おほい》に慚愧して救ひを乞ひければ、佛の神力で、臭屍、消失《きえう》せ、婬女、佛に歸依し、卽ち、道を得たり、と。是れ餘りに大層な話なれど、宗敎心厚かりし印度人中には、二根、離れざるを、愧じて死し、熱地の事故、忽ち、屍《しかばね》が腐り出《いだ》せし例も有りしに依《よつ》て、作り出したる訓戒なるべし。

[やぶちゃん注:以上の「觀佛三昧海經」の引用部は、「大蔵経データベース」のものでは、同じ訳者のものが見当たらないので、同訳者「東晉天竺三藏佛陀跋陀羅譯」の「維基文庫」の「觀佛三味海經」で校合した。熊楠の引用は省略があり、例えば、死体変相の初めの箇所を飛ばすなど、私には許し難いカットがあるため、そこは、勝手に補った。返り点もおかしく、これも勝手に変えた。この「観仏三昧海経」(かんぶつざんまいかいきょ)は十巻からなる仏典で、東晋のインド僧仏駄跋陀羅(ぶっだばだら 三五九年~四二九年)の漢訳になる。十二品(ほん)に分けて、仏を観想する際の方法と、その功徳について詳述したもの。仏駄跋陀羅は漢訳略称を覚賢・仏賢・覚見とも称し、北インド出身であったが、当時の東晋に渡り、仏典の漢訳に携わった訳経僧であった。「大般涅槃経」「華厳経」「摩訶僧祇律」等、禅関連の経典漢訳で知られる。南方の引用するエピソードについては、森雅秀氏の論文「『観仏三昧海経』「観馬王蔵品」における性と死」(『北陸宗教文化』第二十一 号二〇〇八 年刊所収・PDF)に詳しい。一読をお薦めする。

「波羅奈國」サンスクリット語「ヴァラナシ」の漢音写。ガンジス川中流の聖都カーシ(現在のヴァーラーナシー)を中心とした古代インドの王国。その郊外に釈迦に纏わる「鹿野苑」(ろくやおん)がある。古くからの王国であったが、釈迦の時代にはコーサラ国と併合されている。

「灑掃:「洒掃」とも。「洒」や「灑」はどちらも水を注ぎかけるの意で、水をかけ、塵を払って清掃すること。

「噎(おくび)して」「むせぶ・食物が喉に閊(つか)える」の意。

「宗親」広義には同姓の人々を指し、同じ先祖から別れた同姓の親族・血族を言うが。特に近親者を言うと考えてよい。

「淨飯王子」サンスクリット語「スッドーダナ」の漢音写。中インドのヒマラヤ山麓にあったカピラバストウ(迦毘羅衛城(かびらえじょう))という小都市を首都とする国(迦毘羅国(かぴらこく))の長で、シャカ族の王。彼の皇太子が釈迦で、妃は摩耶夫人(まやぶにん)。当時、シャカ族は共和制をしいていたと考えられている。一説では、この浄飯王の弟の息子が釈迦の弟子となった阿難であるともされる。

「白氈」白い毛氈のこと。毛氈は、獣の毛に湿気や熱・圧力を加えて、繊維を密着させ、織物のようにしたものを指す。]

 本朝の佛書には、弘仁中、僧景戒の著『日本靈異記』卷下に、寶龜二年夏六月、河内の人丹治比經師(たじひのきやうじ)、他人の爲に、野中堂《のなかのだう》にて、「法華經」を寫す際、雨を避けて、女衆《をんなしゆ》、狹き堂内に込合《こみあ》ひしに、經師婬心熾發、踞於孃脊擧ㇾ裳而婚、隨𨳯入※[やぶちゃん注:「※」=「門」+(「門」の中下に)「也」。]、携ㇾ手俱死、唯女口漚嚙出而死。〔經師(きやうじ)、婬(みだりがは)しき心、熾(さか)んに發り、孃(をんな)の脊(せなか)に踞(うづくま)り、裳(もすそ)を擧げて婚(くなが)ふ。𨳯(まら)の※(しなたりくぼ)に入るるまにまに、手を携へて俱に死す。唯(ただ)、女の口より漚(あわ)を嚙み出だして死にき。〕。又、卷之中に、聖武帝の時、紀伊の人上田三郞、妻が寺に詣《まゐり》しを憤り、往《ゆき》て、導師を、「汝、我が妻を婚《くながひ》せり。」と罵り、妻を喚《よん》で家に歸り、卽犯其妻、卒爾𨳯著ㇾ蟻嚼、痛死、〔卽ち、其の妻を犯す。卒爾(にはか)に𨳯(まら)に、蟻、著きて、嚙み、痛み死(じに)き。〕と出《いで》たり。又、『常陸風土記』香島郡の那賀寒田郞子(なかさむたのいらつこ)、海上安是孃子(うなかみあぜのいらつこ)と相愛し、嬥歌(かがひ)の會で出會ひ、松下に蔭《かく》れ、携ㇾ手促ㇾ膝陳ㇾ懷吐ㇾ憤、既釋故戀之積疹、還起新歡之頻咲中略俄而鷄鳴狗吠、天曉日明、爰僮子等不ㇾ知ㇾ所ㇾ爲、遂愧人見、化成松樹、郞子謂奈美松、孃子稱二古津松一、自ㇾ古著名、至ㇾ今不ㇾ改。〔手を携へ、膝を促ね、懷ひを陳(つら)ね、憤りを吐く。既に故(ふる)き戀の積もれる疹(やまい)を釋(と)き、還(また)、新しき歡びの頻りなる咲(えみ)を起こす。(中略)俄かにして、鷄(とり)、鳴き、狗、吠え、天(そら)、曉(あ)け、日、明らなり。爰(ここ)に僮子等(わらはら)、爲(な)す所(すべ)を知らず、遂に人に見らゆるを愧(は)ぢ、化(け)して、松の樹と成れり。郞子(いらつこ)を「奈美松(なみまつ)」と謂ひ、孃子(いらつめ)を「古津松(こつまつ)」と稱(い)ふ。古へより名を著(つ)けて、今に至るまで改めず。〕。是れも露(あら)はに言《いひ》たらねど、交會の儘、脫するを得ず、人の見るを羞《はぢ》て、二松、相連《あひつらな》れるものと化したり、と謂ふに非ざる歟。「相生《あひおひ》の松」、「連理の松」など、諸所に、間《ま》ま、有り。隨《したがつ》て、紀海音作『今宮心中丸腰連理松《いまみやしんぢゆうまるごしれんりのまつ》』てふ戯曲(じやうるり)抔あり。和歌浦《わかのうら》近く、「鶴龜松」とて、二本の松の根、連なれる有りしが、先年、倒れ失《うせ》たり。

[やぶちゃん注:「弘仁」八一〇年から八二三年まで。皇位は嵯峨及び淳和天皇。日本史上の事件としては弘仁元(八一〇)年の「薬子の変」が知られる。

「景戒」(生没年不詳)は「きょうかい」又は「けいかい」(現代仮名遣)と読む。奈良期の薬師寺の僧。延暦一四(七九五)年に伝灯住位を受けているが、専ら、本邦初の仏教説話集「日本國現報善惡靈異記(にほんこくげんぽうぜんあくりやういき)」の著者として知られる。この略称「日本靈異記」は延暦六(七八七)年頃に初稿を書き上げた後、増補改訂しながら、弘仁一三(八二二)年に完成させたものと推定されている。以下の話は、下巻第十八。以下に昭和三二(一九五七)年角川書店刊の板橋倫行校註版(正字正仮名)を参考に全文を引用し、板橋先生の注を参考に私の注を附す。それを以って本文の一部の注に代えることとする。なお、「※」は本文に注した漢字と同じ。因みに、本話は後の「今昔物語集」巻第十四の「丹治比經師不信寫法花死語第二十六」(丹治比の經師、不信にして「法花」を寫して死にたる語(こと)第二十六)で再話されている。新字であるが、「やたがらすナビ」の当該話をリンクさせておく。

   * 

   法花經を寫し奉る經師(きやうじ)、
   邪婬をなし、もちて、現に惡死の報
   を得る緣第十八 

丹治比(たじひ)の經師は、河内の國、丹治比(たじひ)の郡(こほり)の人なり。姓は丹治比なるが故に、もちて、字(あざな)とす。その郡の部内に、一つの道場あり。號(なづ)けて、「野中(のなか)の堂」と曰ふ。願を發(おこ)す人ありて、寶龜二年辛亥(かのとゐ)の夏六月、もちて、その經師を、その堂に請(う)け、「法花經」を寫し奉らしむ。女衆、參(ま)ゐ集(つど)ひて、淨水(じやうすい)をもちて、經の御墨(みすみ)に加ふ。時に未申(ひつじさる)の間に、段雲(たなぐも)り、雨、降る。雨を避けて、堂に入るに、堂の裏(うら)、狹-少(せま)きが故に、經師と女衆と、同じ處に居(を)り。ここに經師、婬(みだりがは)しき心、熾(さかり)に發(おこ)り、孃(をみな)の背(せなか)に踞(うづくま)り、裳(もすそ)を擧げて、婚(くがな)ふ。𨳯(まら)の※(しなたりくぼ)に入るるまにまに、手を携へて、俱に死ぬ。ただ、女の口より漚(あわ)を嚙み出して、死にき。あきらかに知る、護法(ごほふ)の形罰なることを。愛欲の火、身心を燋(や)くといへども、婬しきの心に由りて、穢(きたな)き行(わざ)を爲さざれ。愚人の貪(ふけ)る所は、蛾(ひひる)の火に投(い)るが如し。所以(このゆゑ)に律(りち)に云はく、「弱脊(じやくはい)、みづから、面門(めんもん)に婬(いん)す。」と、いへり。また、「涅槃經」に云はく、「五欲の法を知らば、歡樂、有ること無し。しばらくも停(とどま)ることを、得じ。犬の枯れたる骨を齧(かぶ)るに、飽-厭(あ)く期(とき)、無きが如し。」といふは、それ、これを謂ふなり。

   *

・「丹治比(たじひ)」:現在の大阪府松原市上田の柴籬神社を中心とした一帯を指すか。

・「經師(きやうじ)」:写経を生業(なりわい)とする職人。

・「野中(のなか)の堂(だう)」:底本脚注に『南河内郡埴生村』(はにうむあ)『野々上』(ののうえ)『に舊伽藍趾がある』と記す。これは、この寺の後身の大阪府羽曳野市野々上にある高野山真言宗青龍山野中寺(やちゅうじ)の境内内を指している。この寺の原形は聖徳太子建立三太子の一つであって、叡福寺(太子町)の「上の太子」、大聖勝軍寺(八尾市)の「下の太子」に対して、「中の太子」と呼ばれている。中世までの沿革はあまり明らかでなく、一時期は廃寺に近い状況だったと見られるが、寛文元(一六六一)年に再興され、江戸時代には律宗の勧学院として栄え、明治中期に現在の宗派に改宗されている(寺史は当該ウィキに拠った)。

・「寶龜二年辛亥(かのとゐ)の夏六月」ユリウス暦七七一年七月中旬から八月上旬。

・「𨳯(まら)」陰茎。「閉」の俗字。この場合、以下と合わせて考えれば、「ひらいたもの」を「ふさぐもの」という、一種の隠語であろう。

・「※(しなたりくぼ)」会陰部。「開」の俗字らしい。

・「護法」護法童子。仏法を守護するために働く童子姿の鬼神。護法天童とも呼ぶ。

・「律」:仏法に於いて僧侶の守るべき規則。

・「弱脊(じやうはい)みづから面門(めんもん)に婬す」:「面門」は口のことで、「若さ故に背の柔らかな若者は、情欲にとらわれれば、自分の口でもってさえ自慰行為をする」という謂いである。

・「五欲」色・声・香・味・触の五境への執着から生ずる五種の情欲。

・「法(ほふ)」サンスクリット語「ダルマ」の漢訳語。三宝(仏教における三つの宝物。仏・法・僧(僧伽:僧宗団))の一つ。本来は「保持するもの」「支持するもの」の意で、それらが信仰の中に於いて働く様態を意味する。仏教教義の法則のこと。「法」の通常の歴史的仮名遣は「はふ」であるが、仏教用語の場合は「ほふ」である。

・「齧(かぶ)る」喰らいしゃぶる。

「卷之中に、聖武帝の時、紀伊の人上田三郞、……」同前で電子化する。【 】は原文では二行割注。

   *

    僧を罵ると邪婬とにより惡病を得て
    死ぬる緣第十一 

聖武天皇の御世、紀伊の國伊刀(いと)の郡(こほり)、桑原の狹屋寺(さやでら)の尼等、願を發(おこ)し、かの寺に法事を修(しゆ)す。奈良の右京の藥師寺の僧題惠禪師(だいゑぜんじ)【字(あざな)を依網(よさみ)の禪師と曰ふ。俗姓、依網(よさみ)の連(むらじ)の故に、以て、字とす。】を請(う)け、十一面觀音の悔過(けくわ)を仕(つか)へ奉(つかまつ)る。時に、彼の里に、一(ひとり)の凶人(きようじん)あり。姓は文(ふみ)の忌寸(いみき)なり【字を上田三郞と云ふ。】。天骨(ひととなり)、邪見にして、三寶を信(う)けず。凶人の妻は、上毛野(かみつけ)の公(きみ)大椅(おほはし)が女(むすめ)なり。一日一夜に八齋戒(はちさいかい)を受け、參(ま)ゐりて悔過(けくわ)を行ひて、衆の中に居り。夫、外より、家に歸りて見るに、妻、無し。家人に問ふに、答へて曰はく、「參ゐりて悔過を行ふ。」といふ。聞きて瞋-怒(いか)り、卽ち、往きて、妻を喚(よ)ぶ。導師、見て、義を宣べて、敎化(きやうげ)す。信-受(う)けずして、曰はく、「無用(いたづら)の語(こと)たり。汝、吾が妻に婚(くなが)はば、頭(かしら)、罰(う)ち破らるべし。斯下(しげ)の法師。」といふ。惡口多言(あくくたごん)、具(つぶさ)に述ぶること、得ず。妻を喚びて、家に歸り、すなはち、その妻を犯す。卒爾(にはか)に、𨳯(まら)に、蟻、著きて、嚼(か)み、痛み死(じ)にき。刑を加へずといへども、惡心を發(おこ)し、濫(みだりがは)しく罵(の)りて、恥づかしめ、邪婬を恐れざるが故に、現報を得たり。口に百舌を生(しやう)じ、萬言白(まを)すといへども、ゆめ、僧を誹(そし)ること、莫かれ。たちまちに災(わざはひ)を蒙(かがふ)らむが故なり。

   *

・「邪婬」妻が八斎戒(在家信者が六斎日に守るべき八種の禁戒。不殺生・不偸盗・不淫・不妄語・不飲酒(ふおんじゅ)の五戒に、不歌舞観聴戒(ふかぶかんちょうかい:歌舞音曲について、その行為及び鑑賞の禁止)・不高広大床戒(ふこうこうだいしょうかい:高く広い豪華な寝台の使用禁止)。不非時食戒(ふひじじきかい:昼以後の飲食(おんじき)である非時(本来の仏教では僧衆は午前中に一度だけ食事をすることが出来るが、それではもたないので、午後などに摂ることをかく呼ぶ)禁止)の三種を加えたもの(後者の不歌舞観聴戒には不香油塗身戒(ふこうゆずしんかい:身体に贅沢な香油を塗ったり化粧をしたりすることの禁止)を含む)を修している最中に強引に交合をしたことを、かく言っているのである。

・「紀伊の國伊刀の郡桑原」底本脚注に『和歌山県伊都郡』とし、「桑原」は『所在不明。きの川の右岸の笠田村・大谷村のあたりだらうといふ。』とある。岩波の新日本古典文学大系三十八の「日本霊異記」の出雲路修氏による頭注では、同郡『かつらぎ町』(ちょう)『佐野(さや)に所在。佐野廃寺跡がその地とされる。』とする。ここ

・「題惠禪師」未詳。

・「悔過」懺悔(さんげ)。キリスト教が明治になって解禁される以前、日本では「ざんげ」とは読まなかった。

・「凶人」性質が粗暴で凶悪な人。

・「三寶を信けず」「三寶」は通常は既注のそれを指すが、ここでは成句として、「仏道への信仰心を全く持たないこと」を言っている。

・「上毛野の公大椅」不詳。「上毛野」は現在の群馬県で、「公」は国守のこと。

・「無用の語」馬鹿げたこと。題恵禅師が妻の無実を証明し、文忌寸の非道を諭した言葉に対しての傲岸不遜な罵詈雑言である。

・「斯下の法師」「このッツ! 糞坊主がッツ!」という罵倒である。

・「蟻」同じく新日本古典文学大系三十八の「日本霊異記」の出雲路修氏による頭注には、十一面観音を祈念する際の尊称として、『聖者の意の「阿利耶」「阿利也」が冠せられた語形が用いられる。アリヤ、と唱えたので蟻が救いに現れた、という説話か。』とある。いやいや! 魔羅から蟻、基! 目から鱗である。

・「萬言白すといへども」「どれほど、べらべらと、言いたい放題のことを言って、他人を罵る場合でも、」の意。

「『常陸風土記』香島郡の那賀寒田郞子、……」以下に一九三七年岩波書店刊の武田祐吉篇「風土記」の「香島の郡(こほり)」から該当箇所を参考に電子化し、私の注を附した(注では岩波の日本古典文学大系二の秋本吉郎校注「風土記」(一九五八年刊)の頭注に多くを依らせて頂いた)。底本の割注は【 】で示した。

   *

南に「童--女(をとめ)の松原」あり。古(いにしへ)、年少(としわか)き童子(わらは)ありき。【俗に、「かみのをとこ」、「かみのをとめ」といふ。】那賀(なか)の寒田(さむだ)の郞子(をとこ)と稱(い)ひ、女を「海上(うなかみ)の安是(あぜ)の孃子(をとめ)」と號(なづ)く。並(ならび)に形容(かたち)端正(きよら)にして、鄕-里(さと)に光(て)り華(にほ)へり。名-聲(な)を相聞(あひき)きて、同(とも)に望念(おもひ)を存(おこ)し、自(おの)づから愛(め)づる心、熾(さかり)き。月を經(へ)、日を累ねて、「嬥歌(かがひ)の會(ゑ)」に、【俗に「うたがき」といひ、又、「かがひ」といふ。】邂逅(わくらば)に相遇(あひあ)へり。時に、郞子(をとこ)、歌ひて曰(い)ひけらく、

  いやぜるの 阿是(あぜ)の小松(こまつ)に

  木綿(ゆふ)垂(し)でて 吾(わ)を振(ふ)り見(み)ゆも

  安是小島(あぜこじま)はも

孃子(をとめ)、報(こた)へ曰ひけらく、

  潮(うしほ)には 立(た)たむといへど

  汝夫(なせ)の子が

  八十島(やそしま)隱(かく)り 吾(わ)を見(み)さば 著(し)りし

すなはち、相-語(かた)らまく欲(ほ)りして、人の知らむことを恐(おそ)り、遊(あそび)の場(には)より、避けて、松の下に蔭(かく)り、手攜(たづさ)へ、膝を促(ちかづ)け、懷(おもひ)を陳(つら)ね、憤(いきどほり)を吐く。既に故(ふる)き戀の積れる疹(やまひ)を釋(と)き、還(また)、新しき歡びの頻(しきり)なる咲(ゑみ)を起こす。時に、玉のごとき露、杪(こぬれ)に候(うかが)ひ、金風(あきかぜ)の節(とき)なり。皎々(けうけう)たる桂月の照らす處、西の洲に唳(な)ける鶴(たづ)あり。颯々たる松風(まつかぜ)の吟(うた)ふ處、東の路に度(わた)る雁あり。山は寂寞として、巖(いはほ)の泉、舊(ふ)り、夜は蕭條として、烟(けふ)れる霜、新(あらた)なり。近き山には、おのづから、黄葉(もみじば)の林に散る色を覽(み)、遙けき海には、唯(ただ)、蒼波の磧(いそ)に、激(たぎ)つ聲を聽く。玆(ここ)に玆(こ)の宵(ゆふべ)あり。樂しみ、これより、樂しきは、なし。偏(ひと)へに、語らひの甘味に耽(ふけ)り、夜の闌(た)けなむとすることを、忘る。俄(にはか)にして、鷄(とり)、鳴き、狗(いぬ)、吠え、天(そら)、曉(あ)け、日、明(あきら)かなり。爰(ここ)に童子等(わらはら)、爲(せ)むすべを知らに、遂に、人に見らゆることを愧(は)ぢて、松の樹(き)と化-成(な)れり。郞子(をとこ)を「奈美松(なみまつ)」と謂ひ、孃子(をんな)を「古津松(こつまつ)」といふ。古(いにしへ)より、名を著けて、今に至るまで、改めず。

   *

・「童子女の松原」:「童子女」は「うなゐ」とも読む。岩波の日本古典文学大系二の秋本吉郎校注「風土記」の頭注に、ここを同定して茨城県波崎町(はさきまち)波崎の手子崎(てごさき)神社の『北方の旧若松村の海辺か。』とする。現行は手子后神社。古い地誌では上記の名で出るので問題ない。茨城県神栖(かみす)市波崎のここ。犬吠埼の北西直近で、利根川河口近くの左岸にある。

・「童子」複数を示しているので、髫(うないがみ)をしている男女の意。髫(うないがみ)とは、七、八歳の童児の髪を項(うなじ)の辺りで結んで垂らした髪型。また、女児の髪を襟首の辺りで切り下げた髪型をも言う。この場合は、次注から前者。

・「かみのをとこ、かみのをとめ」神男・神女であるから、彼らが下級神官の「祝(ほうり)」であったことが分かる。また、この時代、祝は、年齢に関わらず、垂髪(うない髪)でなくてはならなかった。

・「那賀の寒田」秋本吉郎氏頭注によれば、神栖村。現在の茨城県の最東南端にある神栖市内。現在、ここに「童子女(おとめ)の松原公園」がある。

・「海上の安是」秋本吉郎氏頭注によれば、利根川河口付近の地名とする。

・「嬥歌(かがひ)」古代の習俗である「歌垣」(うたがき)のこと。男女が山野・海浜に集まって歌舞飲食などをしつつ、豊作祈願や、その成就を祝った。多くは春と秋に行われたが、その場は相互の意思疎通による自由な性交渉も許される「ハレ」の場でもあって、古代における求婚形式としてはごく普通なものでもあった。

・「邂逅」偶然に出逢って。

・「いやぜるの……」「いやぜる」は秋本吉郎氏頭注によれば、地名の「安是」の冠称とする。意義は不詳。「小島」は「可憐な少女」を言うのであろう。オリジナルに自在に通釈する。

   *

 手折(たを)った安是(あぜ)の小松の枝に

 羽衣のごと木綿(ゆう)を懸け 垂らして舞うは乙女子よ

 その天つ女(おとめ)の羽衣は ああ 吾の方(かた)へと振ると見ゆ

 安是は可愛いや 小(ち)さき島――

   *

・「潮には……」同前で訳す。

   *

 潮(うしお)寄せくる浜の辺(べ)に 人に知られずあらばよし

 ああ そう思うたに 少年の眼(まなこ)確かに

 真砂なす 島の中にぞ隠れおる 我をつらまえ 走るは走る――

・「杪(こぬれ)」梢(こずえ)。

・「玆に玆の」強調形。

・「奈美松」秋本吉郎氏頭注によれば、『見るなの松。禁忌の樹で見触れることを避ける名か。』とする。

・「古津松」秋本吉郎氏頭注によれば、前注と同様に『屑松。同じく禁忌の樹で利用しない故の卑称か。コツは木屑の意。』とある。最後に。私はこの恋愛譚、何か哀しくとても美しいものに見える。これを、このような話の傍証にした南方が、珍しく、生理的嫌悪感を感じたことを告白しておく。

「紀海音」(きのかいおん 寛文三(一六六三)年~寛保二(一七四二)年)江戸中期の大阪の浄瑠璃作家・狂歌師・俳諧師。

「今宮心中丸腰連理松」浄瑠璃外題。正徳二(一七一二)年豊竹座初演。

「和歌浦」和歌山県北部の和歌山市南西部にある海岸。古来から景勝の地として知られ、「万葉集」にも詠まれた歌枕である。和歌浦の松と言うと、「布引の松」の方が有名(豊臣秀吉が「打ち出て玉津島よりながむればみどり立そふ布引の松」と詠んだ巨大松。但し、こちらも現存しない)。]

 宋の康王、韓朋を殺し、その美妻を奪ひしに、妻、自殺し、二人の墓より、樹、生じ、枝體、相交りしを、王、伐らんとせしに、鴛鴦に化し、飛び去れり、という。『長恨歌』に、地にあっては連理の枝とならんと、明皇(めいくわう)が貴妃と契りしも、詰まるところは、雙身、離れざるを望みたる也。支那には、男色の連理樹さへ有り。董斯張《とうしちやう》の『廣博物志』卷廿に云く、吳潘章少有美容儀、時人競慕ㇾ之。楚國王仲先、聞其名、來求爲ㇾ友、章許ㇾ之、章許之因願同學、一見相愛、情若夫婦、便同衾共枕、交好無ㇾ已、後同死、而家人哀ㇾ之、因合葬于羅浮山、塚上忽生一樹、柯條枝葉、無ㇾ不相抱、時人異ㇾ之、號爲共枕樹。〔吳の潘章(はんしやう)は、少(わか)くして、美なる容儀有り。時の人、競ひて之れを慕ふ。楚の國の王仲先(わうちゆうせん)、その美名を聞き、故(ため)に、來たり求めて、友と爲(な)さんとし、章、之れを許す。因りて、同(とも)に學ばんことを願ひ、一見して相愛すること、情、夫婦のごとく、便(すなは)ち、同衾共枕(どうきんきようちん)す。交好、已むこと無し。後(のち)、同(とも)に死す。而して、家人、之れを哀れみ、因りて羅浮山に合葬するに、塚の上に、忽ち、一樹を生じ、柯條枝葉(かじやうしえふ)、相抱(あひいだ)かざる無し。時の人、之れを異とし、號(なづ)けて「共枕樹(きようちんじゆ)」と爲(な)す。〕と。『日本紀』にも、神功皇后、紀伊に到り玉ひし時、兩男子、相愛し、死して一穴に葬られし事有り。但し、樹を生ぜし事なし。

[やぶちゃん注:「宋の康王、韓朋を殺し、……」これは私の愛読書である晋の干宝の撰になる「捜神記」巻十一に現れる話。但し、南方は「韓憑」を「韓朋」と誤っている。以下に「中國哲學書電子化計劃」の影印本の該当話を参考に漢字の一部を正字化し、句点・記号を追加・変更し、改行・段落を成形した。その後に、私の訓読文と現代語訳を、さらに改行・段落を成形して試みた(現代語訳には昭和三九(一九六四)年平凡社刊の竹田晃氏の訳を一部参考にしたが、比較して戴ければ分かるが、あくまで訳に困った部分だけの披見参考に抑えてある。また、私のは一部に自由な憶測を交えた自在勝手訳でもある)。

   *

 宋康王舍人韓憑娶妻何氏、美、康王奪之。憑怨、王囚之、論爲城旦。妻密遺憑書、繆其辭曰、

「其雨滛滛、河大水深、日出當心。」

 既而王得其書、以示左右、左右莫解其意。臣蘇賀對曰、

「其雨淫淫、言愁且思也。河大水深、不得徃來也。日出當心、心有死志也。」

俄而憑乃自殺。其妻乃陰腐其衣、王與之登臺、妻遂自投臺、左右攬之、衣不中手而死。遺書於帶曰、

「王利其生、妾利其死、願以屍骨賜憑合葬。」

 王怒、弗聽、使里人埋之、冢相望也。王曰、

「爾夫婦相愛不已、若能使冢合、則吾弗阻也。」

 宿昔之間、便有大梓木、生於二冢之端、旬日而大盈抱、屈體相就、根交于下、枝錯于上。又有鴛鴦、雌雄各一、恆棲樹上、晨夕不去、交頸悲鳴、音聲感人。宋人哀之、遂號其木曰、「相思樹」。「相思」之名、起于此也。南人謂、

「此禽卽韓憑夫婦之精魂。」

 今睢陽有韓憑城、其歌謠至今猶存。

    *

●やぶちゃんの訓読文

 宋の康王の舍人(とねり)、韓憑(かんぴやう)、妻として、何(か)氏を娶(めと)るも、美なれば、康王、之れを奪ふ。

 憑、怨めば、王、之れを囚(とら)へ、論(あげつら)ひて、城旦(じやうたん)と爲(せ)り。

 妻、密かに書を憑に遺(おく)るに、繆(びう)して、其の辭に曰はく、

「其れ、雨、滛滛(いんいん)として、河、大きくして、水、深し。日、出でて、心に當たれり。」

と。

 既に、王、其の書を得、以つて、左右に示すに、左右、其の意を解(と)く莫(な)し。

 臣の蘇賀(そが)、對(こた)へて曰はく、

「『其れ、雨、滛滛として。』とは、『愁へ、且つ、思ふ。』の言(い)ひなり。『河、大きにして、水、深し。』とは、『往來するを得ざる。』をいふなり。『日、出でて、心に當たれり。』とは、『心に死の志し有る。』をいふなり。」

 と。

 俄かにして、憑、乃(すなは)ち、自殺す。

 其の妻、乃ち、陰(ひそか)に其の衣(ころも)を腐らす。

 王、之れと臺に登るに、妻、遂に、自(みづか)らを、臺より投(なげう)つ。左右、之れを攬(とら)へんとするも、衣、手に中(のこ)らずして、死す。

 遺書、帶にありて、曰はく、

「王、其の生(せい)を利するも、妾(わらは)、其の死を利せんとす。願はくは、屍骨(しこつ)を以つて、憑と合葬せんことを賜はらんことを。」

と。

 王、怒りて、聽かず、里人(さとびと)をして、之れを埋めしむるに、冢(つか)、相ひ望ましむ。

 王、曰はく、

「爾(なんぢ)ら夫婦、相愛、已(や)まざるに、若(も)し、能く冢をして合はしめば、則ち、吾、阻(はば)まざるなり。」

と。

 宿昔(しゆくせき)の間(かん)、便(たちま)ち、大きなる梓(あづさ)の木、有りて、二つの冢の端に生(しやう)ず。

 旬日(じゆんじつ)にして、大きなること、抱ふるに、盈(み)ち、體(たい)を屈して、相ひ就き、根、下に交はり、枝、上に錯(まじ)はる。

 又、鴛鴦(をしどり)有り、雌雄、各各一つ、恆(つね)に樹上に棲み、晨夕(しんゆふ)、去らず、頸を交(かは)して、悲鳴し、音聲(おんじやう)、人をして、感ぜしむ。

 宋人(そうひと)、之れを哀れみ、遂に、其の木を號(なづ)けて曰はく、「相思樹」と。

 「相思」の名、此れに起くるなり。

 南人(なんじん)、謂ふに、

「此の禽(とり)、卽ち、韓憑夫婦の精魂なり。」

と。

 今、睢陽(すいやう)に韓憑城、有り、其の歌謠、今に至るまで、猶ほ、存す。

   *

●やぶちゃんの語注

・「城旦」四年又は五年の間、築城の労役に従わせる懲役刑。漢代には既にあった。

・「繆」現代仮名遣の音は「ビュウ」。「纏う」・「合せる」・「偽(いつわ)る」・「深く思う」の意だが、ここはそこから派生できる「意図的に別な言葉に纏わせて隠語を用いる」の意。

・「滛滛」長く雨が降り続くさま。

・「宿昔」この場合は「宿夕」に同じで、「たった一晩・束の間」の意。

・「旬日」十日ほど。

・「睢陽」春秋時代の宋の国都で、秦代には現在の河南省東部の商丘市の南に置かれた県。七五七年の唐の「安祿山の乱」に、張巡・許遠が城を死守し、反乱軍の進出を妨げた場所として知られるが、その城こそ韓憑が築いたそれなのである。

   *

●やぶちゃんの現代語訳

 宋の康王の侍従であった韓憑(かんぴょう)は、妻として何氏を迎えた。

 しかし、彼女がたいそう美しかったため、康王は、理不尽にも、彼女を韓憑から奪いとってしまった。

 憑は深く康王を怨んだが、それを聞き知った王は、突然、彼を無実の罪で捕縛するや、即座に、城壁修理の人夫とするという不当な懲役刑の判決を下してしまった。

 妻は、王や取り巻きの目を盗んで、夫の憑に密かに手紙を送ったが、その際、人が読んでも、まるで意味の判らない表現をもので、

「其れ 雨 滛滛として 河 大きくして 水 深し 日 出でて 心に當たれり」

(雨は、しとしとと、降りしきって、河は大きくして、水は深いのです。日は、さし出でて、心を射当(いあ)てます。)

とあった。

 ところが、そのうち、このことが露見してしまった。

 王が、その手紙を押収したところが、近習の者は、その文面を示してみても、誰(たれ)一人、その意を解せなかった。

 最後に、しばらく眺めていた家臣の蘇賀が、答えて、次のように言った。

「『其れ 雨 淫淫として』とは、『私は、愁えつつも、確かに、あなたのことだけを思っています。』という意味で御座います。また、『河 大きくして 水 深し』とは、『あなたのもとへ行きたいのですが、王や監視の者の眼が厳しく、私たち二人の間を非情にも隔てているのです。』という意味で御座います。そして、最後の『日 出でて 心に 當たれり』とは、これ、『ともに死ぬ誓いを心にしっかりと持っています。』という意味で御座います。」

と。

 間もなく、憑は、失意のうちに、自害してしまった。

 それを知った妻は、秘かに、自身の着衣に、さまざまな処理を施し、急激に繊維を痛ませたり、脆弱になるようにした。

 そうした、ある日、王が、彼女とともに高楼の物見台に登った時、彼女は、自(みずか)ら、

「ざっ」

と、台上から、身を投げたのであった。

 近習の者どもが、慌てて、これを捉(とら)えようとしたが、腐った衣(ころも)故に、手は、空しく、虚空を摑むばかりなのであった。

 彼女の帶には、遺書が挟まれており、そこに書かれてあった言葉は、

「王さま、私の身体(からだ)は生きている間は、あなたさまのお役にたちましたね。ですから、私は、死んだ後の私の身体くらい、私のために、私の思い通りに役立てとう存じます。願はくは、私の骸(むくろ)を、夫の憑とともに合葬して下されますように。」

であった。

 しかし、凶悪な王は、却って怒りを募らせ、遺言を聞き入れることなく、村人に命じ、埋葬させるに、その塚を、わざと韓憑の塚から離して、意地悪く、向かい合わせにさせたのであった。

 そうしておいて、王は、

「お前たち夫婦は、互いに深く、深ぁく、愛し合っておるようじゃなぁ。どうじゃ、もし、その離れた二つの土饅頭を、一つに合わすことが出来たとなら、儂(わし)はもう、お前らを、邪魔立ては、せんがのぅ。」

と、如何にも憎々しげな言葉を吐いたのであった。

 ところが、かく言い放って後、わずか一夜にして、双方の塚の端から、

「するする」

と、大振りの梓(あづさ)の木が生えて来た。

 そうして、これまた、十日も経つと、人が、やっと一抱え出来るか、出来ないかという太さにまで成長した。

 更に、不思議なことに、互いに、幹を曲げては、近づき合い、地面をよく見てみると、これ、地下でも、みるみる、根が絡み合ってゆくのが、土の蠢くさまで、くっきりと目に見え、頭上では枝が、ざわざわと、互いに交錯する、その音が、はっきりと聴きとることが出来るのであった。

 そうして、また、雌雄一つがいの鴛鴦(おしどり)が、常に、その連理の樹上に塒(ねぐら)を作り、朝から晩まで、その連理の枝の上にとまっては、互いの首を、絡(から)め絡めしては、悲しげに、鳴くのであった。

 その哀切の声に、心うたれぬ者は、一人としてなかった。

 宋の人は、これを哀れみ、遂に、その木を名づけて、「相思樹(そうしじゅ)」と呼んだ。

 そう、則ち、麗(うるわ)しくも深い男女の恋を名指すところの「相思」という言葉は、ここに始まったのである。

 南方の人の物語るところによれば、「この鴛鴦という鳥は韓憑夫婦の魂なのだ。」そうである。

 今も、睢陽(すいよう)には、失意の中で、人夫韓憑が築いたという堅牢な韓憑城があり、その二人の悲恋を歌った民謡もまた、今に至るまで、なお伝えられているのである。

   *

――さて、この恋愛譚も、如何にも哀しく切ないぞ! 南方先生よぅ! ちょいと、おふざけの度が過ぎやしませんか?! ってえんだ

「明皇(めいくわう)」唐の玄宗皇帝を指す。但し、白居易の「長恨歌」は中唐の詩篇であるから、憚って冒頭で主人公を「漢皇」と時代をずらしている。

「董斯張の『廣博物志』」董斯張は明代の文人。「広博物志」は彼の撰した博物書。五十巻。

「吳の潘章は……」この話は元代の「誠斎雑記」に既に所収するらしい(ネット上の情報で未確認)。今回、「中國哲學書電子化計劃」の「太平廣記」の「塚墓一」の「潘章」を発見したので、それと旧来のサイト版のそれとで、熊楠の引用を校合した。

「羅浮山」香港の北方、広州市の東・東莞市の北東にある現在の恵州市博羅にある山。道教十大名山の一つとして名高い。ここ

 「『日本紀』にも、神功皇后、紀伊に到り玉ひし時、……」「日本紀」は「日本書紀」のこと。この話は巻第九の鹿坂(かごさか)王・忍熊(おしくま)王の内乱のエピソードに現れる。神功皇后が反乱を起こした忍熊王を攻めるために小竹(しの:旧那賀郡志野村とも御坊市とも言われる)に入った神功皇后摂政元(二〇一)年二月の条である。以下、あるサイトに嘗つて存在した、朝日新聞社版「日本書紀」の電子化物を参考に、漢字を恣意的に正字化して電子化し、さらに私の訓読文と現代語訳を試みてみた(不表示字「櫬」は岩波版日本古典文学大系五の坂本他校注「日本書紀 上」(一九六七年版)で補填し、訓読文の不明な漢字の読みも、一部、そちらを参考にした)。

   *

適是時也。晝暗如夜。已經多日。時人曰。常夜行之也。皇后問紀直祖豐耳曰。是怪何由矣。時有一老父曰。傳聞。如是怪謂阿豆那比之罪也。問。何謂也。對曰。二者祝者、共合葬歟。因以令推問。巷里、有一人曰。小竹祝與天野祝、共爲善友。小竹祝逢病而死之。天野祝血泣曰。吾也生爲交友。何死之無同穴乎。則伏屍側而自死。仍合葬焉。蓋是之乎。乃開墓視之實也。故更改棺櫬。各異処以埋之。則日暉炳。日夜有別。

    *

●やぶちゃんの訓読文

 是の時に適(あた)りて、晝の暗きこと夜の如くにして、已に多くの日を經ぬ。時の人の曰はく、

「常夜(とこやみ)、行く。」

と、いふなり。

 皇后、紀直(きのあたひ)の祖(おや)豐耳(とよみみ)に問ひて曰はく、

「是の怪(しるまし)は何の由(ゆゑ)ぞ。」[やぶちゃん注:「怪(しるまし)」上代語。奇怪な前兆。不吉な前触れ。]

と問ひたまふ。時に、一老父有りて、曰(まを)さく、

「傳(つて)に聞く、是(こ)のごとき怪をば、阿豆那比(あづなひ)の罪と謂ふ。」

と。

「何の謂ひや。」

と。

 對(こた)へて曰さく、

「二つの社の祝(ほふり)をば、共に合はせ葬むるか。」

と。

 因りて、以つて、推し問はしむ。

 巷里(かうり)にて、一人有りて、曰さく、

「小竹(しの)の祝者(はふり)と天野(あまの)の祝と、共に善(うるは)しき友たりき。小竹の祝、病ひに逢ひて、之(ここ)に死す。天野の祝、血-泣(いさ)ちて曰はく、

『吾や、生きて交(うるは)しき友たり。何ぞ死して穴を同じくすること、無けんや。』

と。則ち、屍(かばね)の側(ほとり)に伏して、自(みづか)ら死す。仍(よ)りて、合はせ葬らふ。蓋し、是(これ)か。」

と。

 乃(すなは)ち、墓を開き、之れを視れば、實(まこと)なり。故(かれ)、更に棺-櫬(ひつぎ)を改め、各々、異れる處に、之れを埋(うづ)む。則ち、日の暉(ひかり)、炳(て)りて、日と、夜と、別(わきだめ)有り。

    *

●やぶちゃんの現代語訳

 丁度、この時(神功皇后が小竹(しの)に行宮(あんぐう)を置いた、その日)、一転、俄かに搔き曇って、昼なのに、真っ暗になって、夜のようであった。

 しかも、そんな日が何日も続いた。

 当時の人は、

「年中、夜(よる)みたようで、すっかり、お先真っ暗じゃ。」

と言い合ったそうである。

 皇后は紀直(きのあたい)の祖先であった豊耳(とよみみ)に、

「この怪異は、一体、何が原因なのか。」

と尋ねた。

 すると、そこに居た一人の老人が答えて、

「伝え聞いておりますことには、かほどに怪しい異変は、謂うところの『阿豆那比(あずない)の罪』なるものの、所為(せい)で御座いましょう。」

と申し上げた。

 皇后は問うた。

「それはどのような罪じゃ?」。

 老人が応じる。

「……さて、よくは存じませぬのじゃが、二つのお社(やしろ)に属する祝(ほうり:下級神官)を、一緒に合葬致しました咎(とが)を言うかとも……」

と、しどろもどろに答えた。

 そこで、人々に問い質(ただ)し、詳しく調べさせてみると、一人の村人が、

「嘗つて、『小竹(しの)のお社』の祝と、『天野のお社』の祝とは、非常に仲が良く、共に『無二の友』と誓い合うほどの間柄で御座いました。ところが、小竹の祝が、ふと、病いとなって、亡くなってしまったので御座います。天野の祝は、血の涙を流して号泣しつつ、

『私は彼と一緒に生きてきたのだ! どうして同じ穴で死ねないなどということがあろうか!』

と叫ぶやいなや、屍(かばね)の傍らに添い伏したかと思うと、あっという間に自害してしまったので御座います。そこで、哀れに思うた村人どもは、彼ら二人を、ともに葬ったので御座いますが……もしや……これが災いとなっているのでは御座いませんでしょうか?」

と告白した。

 そこで、皇后が、その墓を掘らせて見たところが、まさにそれらの詞通りなのであった。

 されば、新たに柩(ひつぎ)を用意し、それぞれ、別の地に、これを埋葬し直した。

 すると、すぐに、雲が晴れて、陽(ひ)の光りが輝き出し、漸(ようや)く、昼と夜との区別が出来るようになったのであった。

   *

【二〇二二年十一月六日追記】「阿豆那比(あづなひ)の罪」について注を附さなかったことがちょっと気になっていた。私は書かれた内容を等身大で理解していた。則ち、①二人の「祝」(ほうり)の遺体を、②合わせて葬ってしまったことが禁忌に触れるというダブルの禁忌が、この異常気象を引き起こしたという認識である(ただ、にしても、その直後ではなく、かなりの村人が忘れた頃になってから、おもむろに変事が起こること自体は不可解である。その因果関係を認識し得、しかも、それに対して適切な処置を施して呉れるような神がかった人間、則ち、神宮皇后が、展開上、必要だったということか)。「ダブル」の意は、この二人の「祝」は、別々な狭義の共同体(但し、近くてよい。親しかったというのだから、隣村でも問題ない)に属する者だったと推定することが、その①の理由なのである。よほど、大規模な神社でない限り、この時代、ここのような田舎の(失礼)同一の社(摂社を含む)に、同等の位の「祝」が複数いる必要はないと考えるからである。実際、以上の話でも、社名が違うことでそれは明白である。異なる産土神に仕える「祝」が、一緒に埋葬されてしまうのは、これ、タブーであること、明白である。続く②は、二人の、縁者でも何でもない他人同士の死者を、並べた状態(物理上の二重体)で埋葬するというのは、民俗社会おいて強く忌避されるべき行為だからである。それは本来、別々であるはずの魂が、ハイブリッドの状態で死後に二重なって存在するということになり、シャーマニズムの中では極めて異常なことだからである。それは、汎世界的に妊娠状態(出産まで)の女性が、普通の状態でない、邪悪な存在にとり憑かれやすい危険な異常な存在として古くは思われていたのと相同である(「血の穢れ」とは全く別物である)。それは、まさに妊婦に言える。一つの肉体に、二つの魂が同時にあるという点に於いて、その存在は「普通でない」のである。それは、母と子であり、縁者であるから、まだ、いい。しかし、ここは、赤の他人の成人男性二人が、一方の男の一方的な判断によって相死(あいじ)にし、しかも合葬されたという点に於いて、異常極まりなく、それに輪をかけて、というより、火に油を注ぐ如く、別々な産土神に奉仕する神職であることが加わって、致命的に太陽を翳らす凶変が起きたと考えるのである。親族や夫婦の合葬、或いは、殉死とは異なり、明かに運命共同体としての民俗社会では、この①も②も、許容の範囲を超えてしまった誤った行為であり、それは神罰が下されて、誰が考えても当然、と私は当たり前に考えたのである。だから、注をしなかったのである。

 因みに、南方熊楠は、この「續南方隨筆」の本篇と、その前のある諸篇から、私は、熊楠は、この二人の「祝」を同性愛者であると考えている節があるように思う。而して、この異変も同性愛者を合葬した結果、生じた、と理解しているのではないか? と、実は、疑っている。私は、当初、この話について、微塵も、同性愛者の合葬だからタブー、という考え方は持たなかった。それは、本邦に於いて、同性愛、特に男色が、民俗社会の禁忌であったことは、近代まで殆んど皆無であったと考えているからである。しかし、読者の中には、同性愛禁忌の方を原因としてとる方もあろうかと思う。「それに、ちゃんと反論するべきかなぁ。」、と考えている内に、今日、偶然、別なテクストで、この話を、再度、扱うことになったのであった。

 而して、この「阿豆那比(あづなひ)の罪」を、再度、考証せざるを得なくなった。ところが、これ、幸いにも、この問題を扱った論文があることを、今日の午後に発見したのである。難波美緒氏の論文『「阿豆那比の罪」に関する一考察』(『早稲田大学大学院文学研究科紀要』第四分冊・二〇一三年発行)である。「学術機関リポジトリデータベース(IRDB)」のこちらからダウン・ロード出来る。

 先ほど、全文を読んだが、近来、こんなに興味深く論文を読んだのは、久々であった。是非、一読をお薦めするが、この話については、「阿豆那比(あづなひ)の罪」を男色の罰とする説は、江戸後期になって、初めて登場していることが判明した。以下、私が感じたように、二つの社の祝であり、共同体の異なる社のそれであることを理由とする説が強く支持されており、さらに、合葬の十分条件が、この二人の男の場合、満たし得ないとする説も提示されており、難波氏は、はっきりと『男色が罪とされたとするのは誤りと言える』と述べておられるのである。

 神佛の罰に依《より》て、兩根、相離れざる諸話、全く據《よりどこ》ろ無きに非ず。本人、既に、自《みづか》ら、その非行を知るが故に、恐怖大慚《たいざん》して、陰膣痙攣(ヴアギニスムス)を起《おこ》し、雙體《さうたい》、忽ち、解くるを得ざる也(予が知れる一醫師、先年、東京に在りし日、華族の娘、書生と密會して、この症、頓《とみに》發し、離れ能はざる所へ招かれ、灌腸して、之を解《とか》し、翌日、五十圓を餽(おく)られし由、聞けり。)。場合に依り、故《ことさ》らに不可解を覓(もと)め樂しむ人もあるは、萬曆中の輯纂に係ると覺しき、『增補萬寶全書』卷六十、「春閨要妙」の篇中、相思鎖方(さうしさのはう)・金鎖玉連環方(きんさぎよくれんくわんのはう》等の奇法を載せたるにて明か也。

[やぶちゃん注:「大慚」おおいに恥じ入ること。

「陰膣痙攣(ヴァギニスムス)」現在の医学用語では「腟痙」(英語:vaginism/ドイツ語:vaginismus)が正しい。以下、信頼できる学術的な記載として、嘗つて万有製薬株式会社の提供していた「メルクマニュアル 第17版」「女性の性機能不全」より、「腟けいれん」部分をコピー・ペーストしたものを掲げる。

   《引用開始》

腟けいれん

腟の下部の筋肉の条件反射的な不随意性収縮(けいれん)で、挿入を阻みたいという女性の無意識的欲求が原因である。

 腟けいれんの痛みは挿入を阻むため、しばしば未完の結婚をもたらす。腟けいれんのある女性の一部は、クリトリスによるオルガスムを楽しんでいる。

病因

 腟けいれんは、しばしば性交疼痛症を原因とする後天的な反応で、性交を試みると痛みを引き起こす。性交疼痛の原因が取り除かれた後であっても、痛みの記憶が腟けいれんを永続させうる。その他の原因としては、妊娠への恐れ、男性に支配されることへの恐れ、自制を失うことへの恐れ、または性交時に傷つけられることへの恐れ(性交は必ず暴力的だという誤解)がある。女性がこのような恐れを抱いている場合、腟けいれんは通常原発性(生涯続く)である。

診断と治療

 患者の回避反応は、しばしば診察者が近づいた時に観察される。骨盤の診察時に不随意的腟けいれんが観察されれば、診断は確実である。病歴と身体診察により、身体的または心理的原因が確定できる。最もおだやかな骨盤診察によってさえ引き起こされるけいれんを除くために、局所または全身麻酔が必要な場合がある。

 有痛性の身体疾患は治療されるべきである(前述「性交疼痛症」参照[やぶちゃん注:「女性の性機能不全」内。])。腟けいれんが持続する場合には、段階的拡張などの、腟の筋肉けいれんを軽減する技法が有効である。切石位をとらせた患者に、十分に潤滑油を塗った段階的なサイズのゴムまたはプラスチックの拡張器を、最も細いものから始めて腟の中へ差し込み、そのままの位置に10分間置いておく。代わりにヤングの直腸拡張器が用いられることがあるが、理由はそれが比較的短く、不快感がより少ないからである。患者自身に拡張器を腟内に入れさせることが望ましい。拡張器を中に入れている時にケーゲル練習法を行うことは、患者が自身の腟筋肉のコントロールを発達させるのに役立つ。患者は腟周囲の筋肉をできるだけ長時間収縮させてから腟筋肉を緩めるが、この際同時に、緩めた時の感覚に注意を払う。患者に大腿の内側に片手を置かせてから、それらの筋肉を収縮させ、緩めるよう要求することが役に立つが、これは患者が一般的に、大腿、そしてこの処置の間は腟周囲の筋肉を、両方ともリラックスさせているからである。段階的拡張は、自宅で行ったり、または医師の監督のもとに1週間に3回行われるべきである。患者は1日に2回、自分の指で似たような処置を行うべきである。

 患者が、より大きい拡張器の挿入に不快感なく耐えられるようになったら、性交が試みられる。この処置には教育的カウンセリングが必要である。段階的拡張を始める前の性科学的診察は、しばしば有用である;患者のパートナーを同席させ、手鏡を使って患者に自分の身体を診察させながら、医師は諸器官の構造を同定する。このような処置は、しばしばパートナー双方の不安を軽減し、性的事柄についてのコミュニケーションを促す。

   《引用終了》

 以上の記載からも想像出来る通り、南方が頻繁に起こり得るように叙述している、性行為結合のままで離脱不能になるケースは、皆無でないものの、極めて稀であることは、ネット上に散見される信頼できる(と判断される)真摯な記事からも、また、実際にそのような事態を私自身、実際に見たことも聞いたこともなく(勿論、経験もない)、これが所謂、都市伝説(アーバン・レジェンド)の性格を持って、市井に流布されていることは明白なことと思われる。なお、万が一、私がそのような事態を経験した場合は、必ずや隠すことなくここで実例として掲げることをお約束する(約束して十三年、経験なし)。

「增補萬寶全書」明代の張溥撰になる医学書。未見につき、「春閨要妙」の内容(題名からはハウ・トゥ・セックス風の指南書と思しい)は未詳。

「相思鎖方」異常な持続性を示す房中秘法と思われるが、現代の中文サイト「健康排行榜」に「相思鎖」として以下の処方が嘗つて示されていた(コピー・ペースト。漢字の一部を正字化した)。

   《引用開始》

相思鎖藥方:辰砂三錢、肉蓯蓉酒浸培幹三錢、麝香五分、地龍七條瓦上烤幹。 制法、用法:碾爲細末、用龜血調爲丸、如綠豆大、房事前取一丸置龜頭馬口内。 功用:使陰莖粗長、脹滿陰戶。

   《引用終了》

「金鎖玉連環方」嘗つてあったサイト「四目屋漢方覚え書き」に「金鎖玉連環」として以下の処方が示されている(コピー・ペーストしたが、二箇所の「?」部分は、中文漢方サイトを渉猟し、それぞれ「匀」及び「蓯」であることを認めたため、補填した)。なお、「四目薬」というのは、同サイトで『四目屋媚薬は恋慕の情(性欲)を催す薬ですが、男性性器を大きくする薬、女性性器を小さくする薬、も媚薬と呼んでいます。性交部のきつさで性感が高まると信じられるからです。私達江戸庶民はこれら全てを四目薬と呼んでいます。』と説明されている。

   《引用開始》

◇金鎖玉連環〔四目薬〕

制法・用法:碾為細末、加入膽汁、攪匀、線紮於通風処四十九天陰乾

      毎用一分、津調塗於玉茎上

功用   :行事交鎖不脱

   雄狗膽…………………1個

   肉蓯蓉…………………3錢(酒浸、瓦上焙乾)

   川椒……………………5分

   紫稍花…………………1銭

   硫黄……………………5分

   韭子……………………10

   《引用終了》

 以下の「附言」は、底本にあるが、「選集」にはない。底本では全体が一字下げである。]

 附言 第二十一枝に拙文「婦女を妓童(わかしゆ)に代用せし事」に出でゝ後、『源平盛衰記』巻卅「榛澤成淸(はんざはなるきよ)巴(ともえ)女の事」を、其主人重忠に話す内、義仲の、「乳母子(めのとご)乍ら、妾(おもひもの)にぞ、内には童(わらは)仕ふ樣にもてなし、軍《いくさ》には一方の大將軍して、更に不覺の名を取らず。」と有るを見出しつ。然らば、巴も妓童風態(わかしゆぶり)して、木曾に隨身せるにて、先《まづ》は、若衆女郎體《てい》の者たりしならん。又、『覺後禪』第十七回に依れば、支那に『奴要嫁傳(どえうかでん)』なる書あり。一个《いつこ》の書生が、隣りの室女(きむすめ)を非路行犯する事を述たる物の由也。

[やぶちゃん注:『「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 婦女を姣童に代用せし事』の注の最後で、「選集」にある正字化されたそれを電子化し、注も附しておいた。

 因みに、私は巴御前が大好きだが、ここに書かれている内容は、頗る腑に落ちるものである。]

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