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2022/11/30

大和怪異記 卷之五 目録・一 山路勘介化物をころす事

 

[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の本文部分はここから。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。なお、底本のルビは歴史的仮名遣の誤りが激しく、ママ注記を入れると、連続してワサワサになるため、歴史的仮名遣を誤ったものの一部では、( )で入れずに、私が正しい歴史的仮名遣で《 》で入れた部分も含まれてくることをお断りしておく。

 目録は総て読みを附した。歴史的仮名遣の誤りはママ。底本では数字の「十一」以下は半角。

 本篇部の最後の参考引用は、読みを除いて訓点をそのままに打ち、後に〔 〕で補正した訓読文を示した。

 挿絵があるが、これは「近世民間異聞怪談集成」にあるものが、状態が非常によいので、読み取ってトリミング補正し、適切と思われる箇所に挿入した。因みに、平面的に撮影されたパブリック・ドメインの画像には著作権は発生しないというのが、文化庁の公式見解である。]

 

やまと怪異記五

一 山路勘介(やまぢかんすけ)化物(ばけもの)をころす事

二 盲目觀音(もうもくくわんをん)をいのりて眼(まなこ)ひらく事

三 へび人(ひと)の恩(をん)をしる事

四 女(おんな)病中(びやうちう)に鬼(をに)につかまるゝ事

五 猿(さる)人(ひと)の子(こ)をかりて己(をの)が子(こ)のかたきをとる事

六 ばけもの人(ひと)のたましゐをぬく事

七 ゆめに山伏(やまぶし)來(きた)りて病人(びやうにん)をつれ行(ゆく)事

八 蓮入(れんにう)雷(いはづち)にうたるゝ事

九 大石※明(おほあはび)の事

[やぶちゃん注:「※」は「近世民間異聞怪談集成」では、『斐』としているが、恐らくは、「決」の異体字「𦐍」の左右が上下になった「グリフウィキ」のこれの崩しである。]

十 かいる蛇(へび)をふせぐ事

十一 猿(さる)身(み)をなぐる事

十二 小西(こにし)なにがしばけものをきる事

 

 

やまと述異記五

 第一 山路勘介化物をころす事

 するがの国、阿部山といふ所あり。

 同国に山路勘介とかやいふ侍、住居(すまゐ)しけるが、ふすゐのとこに心かげ、土屋(とや)を、きり、てつぱうを、たづさえ[やぶちゃん注:ママ。]、心をしづめてきけば、あらしにそよぐならしばも、

『いまや、わたる。』

と、おもはれ、夜ふくるにしたがひ、遠山の鹿のね、松のひゞきに、かよひ、木ずゑにやどる、ましらの聲、物さびしき折ふし、みねのかたより、おざゝ、ふみしくおとして、「もの」こそ、まさしく來りけれ。

 山路は、待(まち)まうけたる事なれば、鉄砲を取《とり》て、向(むかひ)たれど、いまだ、いづかたとも、わかたず。

 しかる所に、うしろのかたに、おと、すれば、ふりかへりみるに、いかなるものとはしらず、まなこのひかり、あたりを射(ゐ)、時々、つき出《いだ》す息は、火(くは)ゑんのごとく、そのひかりに、みれば、くれなゐの舌を、まきかへし、くちは、みゝのねまで、きれたり。其《その》すさまじき事、いはむかたなし。

 

Yamaotoko

 

[やぶちゃん注:底本画像はここ。そこでは勘介と山男の台詞の書き込みがあるが、墨の色に濃淡があり、明かに旧蔵者の家中の誰彼が悪戯書きしたものと思われるので、活字化しない。]

 

 自余(じよ)のもの、是を見《み》ば、たちまち、きえもうすべきか。

 山路は、もとより不敵成(《ふ》てきなる)おとこ[やぶちゃん注:ママ。]なれば、少《すこし》もさはがず、かたなに、手をかけ、待(まつ)所に、やがて、とやの上に、とびかゝり、をしくづすを[やぶちゃん注:ママ。]、

「心得たり。」

と、わきざしをぬき、うへさまに、

「はた」

と、つく。

 つかれて、手ごたへしけるを、つゞけて、三かたな、さし通し、はねたをし[やぶちゃん注:ママ。]、ひなはの火をつけ、たけにて、たいまつにとぼし、見れば、かほは、うしのごとく、身は人に似て、六尺あまりの、くせものなり。

 世にいふ「山男」なるべし。

 慶長年中の事といふ。「異事記」

○「羅山文集」にも「山男」の事、見えたり。左に記して參考に備ふ。

『駿州阿部山中ㇾ物。號ケテ山男ト一。非ㇾ人非ㇾ獸。形似タリ巨木。有四肢。以手足。木ルヲ兩穴两眼甲折鼻口。左曲木一レ藤以為弓絃。右細枝一以為ㇾ矢。一且[やぶちゃん注:ママ。「旦」であろう。]猟師相逢射ㇾ之倒ㇾ之。大クニㇾ之。觸レテㇾ岩ㇾ血。又牽クニㇾ之甚不ㇾ動。驚走歸ㇾ家。与ㇾ衆共ルニㇾ之不ㇾ見。唯見血ノ灑クヲ岩石ニ一耳。』〔駿州(すんしう)阿部山中(さんちゆう)に、物、有り。號(なづ)けて「山男」と曰ふ。人に非ず、獸(けだもの)に非ず、形、巨木の斷(き)れに似たり。四肢、有りて、以つて手足と為(な)し、木の皮に兩穴(ふたつのあな)有るを、以つて、两眼(りやうがん)と為(し)、甲折(かぶとをれ)の處を以つて、鼻・口と為(な)す。左の肢(て)に曲木(まがりぎ)と藤(ふぢ)とを懸けて、以つて、弓絃(きゆうげん)と為(し)、右の肢(て)に細枝(ほそえだ)を懸けて、以つて矢と為(す)。一旦、猟師、相ひ逢ひ、之れを射て、之れを倒(たふ)す。大(おほ)いに恠(おそ)れて、之れを牽(ひ)くに、岩に觸れて、血を流す。又、之れを牽くに、甚だ重くして、動かず。驚き走り、家に歸る。衆(しゆ)と共に、徃(ゆ)きて、之れを尋(たづ)ぬるに、見えず。唯(ただ)、血の、岩石に灑(そゝ)ぐを見るのみ。〕とあり。

[やぶちゃん注:原拠とする「異事記」は不詳。「近世民間異聞怪談集成」の解題で土屋氏も、本書を『該当する資料名が不明なもの』の一つに入れておられる。

「山路勘介」不詳。

「するがの国、阿部山」「阿部」は「阿倍」ではあるまいか。現在の静岡県阿部川の山間部を「阿倍奥」と通称し、その最奥に「阿倍峠」がある。この附近、グーグル・マップ・データ航空写真を見ても、かなりの深山溪谷である。

「ふすゐのとこに心かげ」「臥す居の床に心掛け」であろう。「深山幽谷であるからして、獣や物の怪が多ければ、住まいの寝所や、猟に出て仮泊する際の寝場所にも、十全に用心して」の意と思う。

「土屋を、きり」「土屋倉」(つちやぐら)のことか。壁を土や漆喰で塗った土蔵で、危急の際の退避・応戦の場所となる。「きり」は、外部や通常の部屋とは、厳重に「遮断をして作る」の意か。但し、これは、挿絵で勘介が大層な屋敷から応戦していることに引かれた私の認識で、本文を虚心に読むなら、これは、山猟の山中にて、「山男」に遭遇したというシチュエーションであろうから、この場合の「土屋」とは、野営するための崖などの「岩窟・洞穴」或いは「仮に設けた掘っ立て小屋」を「穿ち鑿(き)り作る」或いは「草木を伐って作る」の意が正しいように思われる。

「ならしば」楢(なら)の木の枝。

「ましら」「猿」。

「おざゝ」「小笹」。

「自余(じよ)のもの」「その外の者」で、自分以外の普通の人。

「たけ」「竹」。枯れたそれか。

「六尺」一メートル八十二センチ弱。

「慶長年中」一五九六年から一六一五年まで。安土桃山時代と江戸時代を跨ぐ。

「羅山文集」儒者で幕府儒官林家の祖林羅山(天正一一(一五八三)年~明暦三(一六五七)年:名は忠・信勝。法号は道春。朱子学を藤原惺窩に学び、徳川家康から家綱まで四代の将軍に侍講として仕えた。上野忍岡の家塾は、後の昌平坂学問所の起源となった)の詩文集。当該部は発見出来ず。

「巨木の斷(き)れ」大木の枯れて断ち切れたもの。以下を見ても、これって、怪しげな心霊写真でよくある、シミュラクラでねえかい?]

曲亭馬琴「兎園小説拾遺」 第二 「寅七月二日申上刻京師大地震聞書」

曲亭馬琴「兎園小説拾遺」 第二 「西本願寺觸狀寫」

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。昨年二〇二一年八月六日に「兎園小説」の電子化注を始めたが、遂にその最後の一冊に突入した。私としては、今年中にこの「兎園小説」電子化注プロジェクトを終らせたいと考えている。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちら(右ページ下段終りの方から左ページ終りまで)から載る正字正仮名版を用いる。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。

 馬琴の語る本文部分の句読点は自由に変更・追加し、記号も挿入し、一部に《 》で推定で歴史的仮名遣の読みを附した。今回は短いので、そのままとした。

 本篇は「京都地震」関連記事の第四弾。第一篇以降で注した内容は、原則、繰り返さないので、必ず、そちらを先に読まれたい。

 なお、各条の解説部は、底本では全体が三字下げ。]

 

    ○寅七月二日申上刻京師大地震聞書

一、怪我人、凡千六十人。

  【右之内、卽死、幷に、養生不相叶分、凡三百餘人。】

一、御所、幷、堂上方御殿、幷、兩御門跡等。

   右何れも破損、別儀無ㇾ之分は稀にも無ㇾ之。

一、二條御城中、大損事。

   但、外曲輪北之方四十間餘、石垣、相崩、高塀、御堀之中へ落込、其外、所々、大破。

一、神社佛閣。

   右、大小は有ㇾ之候得共、何れも破損、別《べつし》て愛宕山宿坊、大破にて、谷底へ崩込候分も有ㇾ之、漸、一軒、破損にて相濟、其餘は、悉《ことごとく》、つぶれ、最《もつとも》、此度の地震中にて、御城と愛宕山の破損を、「東西の大關《おほぜき》」抔と風評いたし候。

一、市中建家《たてや》。

   右、何れも破損、中には潰家《くわいか》も數多《あまた》有ㇾ之、是が爲に、人、多《おほく》痛候。

一、洛中洛外之土藏、凡二萬。

   大破中には、壁、左右へ開き、或は鉢卷、落《おち》、又は、潰候方も數多有ㇾ之、依ㇾ之、卽死・怪我人等、多、有ㇾ之。

一、當二日より、同廿四日迄、地震、數《しばしば》、右[やぶちゃん注:上の余震のこと。]、大小は有ㇾ之候得共、晝夜にて、凡百二、三十遍のよし。去《さり》ながら、二日の大地震の様なるは、右以來、無ㇾ之、常は「餘程の地震」と申位の分は、日々、二、三度づゝも有ㇾ之候へ共、格別、家つぶれ倒《たふれ》候程の儀も無ㇾ之。今、以、相止《あひやみ》不ㇾ申事に候。

一、去る十一日、東山淸水寺廻廊の邊、欠崩《かけくずれ》、大破、同日、音羽川、出水《でみづ》、伏見街道五條下る處抔は、床の上、水、上り、急流にて、溺死も、四、五人、有ㇾ之よし。

右、荒增《あらまし》、御心得迄、申上候。右、卽死之内、家内、不ㇾ殘、潰れ、親子、四、五人も一時に死果《しにはて》、或は、夫婦・兄弟抔も卽死御座候て、哀成《あはれなる》方も、數多、有ㇾ之、氣の毒致候。于ㇾ今《いまに》、日々、地震は相止不ㇾ申候得共、日々の事故、一統、馴《なれ》候故、大體の地震は、さのみ、驚不ㇾ申候。【以下、文、略。】

[やぶちゃん注:以下は馬琴の附言で、底本では全体が一字下げ。]

京師には予が相識《あひしき》、多かりしに、こゝは、大かた、鬼籍に入れり。然《しかれ》ども、なほ、一條通り千本左へ入《いる》處に、角鹿淸藏あり。眞葛ケ原近邊に、三藏櫻田鶴丸あり。大佛門前に、松井舍人《とねり》【土御門殿家臣。】あり。七月に至《いたり》て、地震見[やぶちゃん注:ママ。吉川弘文館随筆大成版では「舞」の脱字かとする傍注有り。]の書狀を郵附して遣したれども、今に回報なし。角鹿生の居宅は、嵯峨にも二條へも程遠からねば、いかにありけん、心元《こころもと》なし。さばれ、千本通りは、空地多かる閑處《かんしよ》なれば、大かたは恙なかるべし。異日、囘報、聞えなば、別に謄寫すべくなん。

[やぶちゃん注:「角鹿淸藏」『曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 花』の本文中で馬琴が解説しているので、参照されたい。

「三藏櫻田鶴丸」戯作者仲間と思われる。

「松井舍人【土御門殿家臣】」これ以上の事績不詳。]

バーナード・リーチが愛読していたとする小泉八雲の著作の書名をご存知の方は御教授願いたい

ツイッターで相互フォローしている小泉八雲の玄孫の「あゆこ」(アイルランド在住)さんのツイートで、
陶芸家バーナードリーチがラフカディオ ハーン作品を読んでいたとの記述がWikipediaにありました。

>陶芸家バーナードリーチがラフカディオ ハーン作品を読んでいたとの記述がWikipediaにありました。
>本当なら何を読んでいたのかしら?と、気になりますがWiki 以外の情報が見つからず…💔
>ご存知でしたら教えてくださいませ。

とあったので、昨夜、取り敢えず、本文記事の検索をしてみたが、どうもどの記事も書名・小説名を出しておらず、ウィキを無批判に援用しているだけの感じが濃厚だった。
ただ、一つ、原拠を明らかにしていないが、仏教者の方の記事と思われるが、ここに、

『明治に日本にやってきた小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は、日本人の庶民があまりにも善良で無欲で純真であることに感動した経験を作品として残している。
陶芸家のバーナード・リーチは小泉八雲の作品を読んで、日本に強い憧れを持ち、留学先で友人となった彫刻家で詩人の高村光太郎に日本行きを相談している。
高村光太郎は、小泉八雲が見た日本はすでにないから、日本行きはよした方がよいと言っている。
明治の30年、40年の間にも急激に日本は日本らしさを失ったということのようである。』

とあるのを見て、『高村光太郎! やるじゃん!』と会心の笑みを浮かべた。光太郎には、私は、その後の第二次世界大戦中の戦意高揚のおぞましい詩篇「琉球決戰」などで複雑な思いがあるが、これは、正直、凄い! 彼は、それ以前に、『日本は日本でなくなった。』と誰よりも確かに感じていたのだ――

2022/11/29

ブログ1,870,000アクセス突破記念 梅崎春生 日時計(殺生石) (未完作)

 

[やぶちゃん注:本篇は『群像』の昭和二五(一九五〇)年四月号・九月号・十二月号に連載された。但し、底本(後述)の古林尚氏の解題によれば、『群像』では、以下の本文の、

「一」に相当する部分の標題は「日時計」

「二」に相当する部分の標題は「殺生石(Ⅰ)」

「三」に相当する部分の標題は「殺生石(Ⅱ)」

「四」に相当する部分の標題は 「殺生石(Ⅲ)」

であったとあり、さらに、「殺生石(Ⅲ)」の末尾には、『〈第一部了〉と記されているので、作者に書き継ぐ意志のあったことは明瞭だが、その後』、『未完のまま放置された』とあることから、本作は長篇小説を企図したものの打ち捨てた未完作であることを理解された上で読まれたい。「一」の末尾に表題変更の編者注として、『(以上「日時計」として発表、以下は「殺生石」と改題して連載された。)』と入るが、ここに示して、そちらでは省略した。

 底本は「梅崎春生全集」第六巻(昭和六〇(一九八五)年二月沖積舎刊)に拠った。なお、梅崎春生の短編小説は、最早、上記底本全集のものは、「青空文庫」ここで私よりも先行電子化された分の十一篇を除き、これで、総て、電子化を終わることになる(全リストは私のサイトのこちらの「■梅崎春生」、及び、ブログ・カテゴリ「梅崎春生」を参照)。残るのは、長編「つむじ風」と文芸批評八篇のみである。彼の著作権満了の翌日である二〇一六年一月一日から始めた、私のマニアックに五月蠅い注附きの梅崎春生の電子化も、七年目にして、もう遂に終わりに近づいた。本篇の注は、全くの偶然だが、謂わば――梅崎春生電子化マニアック注の私の最後の作――という気さえしている。但し、注では、その位置までの本文で推定される注に、基本、留めてある。若干、必要上、後文を示唆したものはあるが、ネタバレになるような読者の意欲を削ぐような注は、一切、していない。

 なお、本テクストは2006518日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが、本日、一分ほど前に、1,870,000アクセスを突破した記念として公開する。なお、この前のキリ番二つを作成しなかったのは、こちらの記事で示した通り、botの襲来によって、数日の内に二万アクセスを超えたからである。その後、通常の四百から九百アクセスの間に戻ったので、キリ番を再開することとした。【二〇二二年十一月二十九日 藪野直史】]

 

   日時計(殺生石)

 

      

 

 その猿は、始めの頃は、しばらく小野六郎に親しまなかった。馴れ近づく気配すら、なかなか示そうとしなかった。灰白色の毛におおわれたこの小動物は、つまり外界に妥協することから、意地になって自らを拒んでいる風(ふう)であった。猿の身でないから、その本心は判らないが、すくなくとも六郎にはそう思えた。餌を与えにゆく彼にたいしても、時としてはいきなり威嚇する姿勢をとったり、誇大な恐怖の表情を示して騒いだり、また冷たく黙殺するそぶりに出たりして、素直に食餌(しょくじ)を受取ることはほとんど稀れであった。そういう反撥の風情(ふぜい)は、彼の手に属する以前から、この猿に具わっていたに違いないが、檻(おり)がこの庭に運ばれて以来も、ひとつのしきたりとして、しばらく続けられていた。

 しかし、この猿を飼い馴らそうという気持は、始めから六郎にあった訳ではなかった。

 猿がこの庭に来たのも、六郎がそれを求めたり、欲したりしたからではなかった。もともとこの猿は、六郎のものではない。所有主は別にあった。鍋島という彼の昔の友達である。その鍋島に頼まれて、六郎はこれを預っているに過ぎなかった。

 あの日鍋島から、これを当分預ってくれと頼まれたとき、六郎は少しためらった。

「当分って、何時頃までだね。いろいろ手がかかるんだろうな。食物やなにかに」

「いや、それは簡単だ。君の食事の残りをやるだけで大丈夫だ。手はかからない」

 冬の日であったから、鍋島はしゃれた形のスキー帽をかぶり、ふかふかした新しい外套を着て、六郎の庭先に立っていた。そして六郎の方は見ず、冬枯れの荒れた庭全体を、眼で計るように見廻していた。昔からそうだったが、この男はこんな動作をするとき、身体いっぱいに動物的な精悍(せいかん)さを漲(みなぎ)らしているように見えた。自分の意を通すために、相手の言い分を無視するような、なにか強靭(きょうじん)なそぶりであった。時折現われるこのそぶりが、鍋島という男に生得(しょうとく)のものか、それとも意識的なものか、かなり長いつき合いであったけれども、六郎は未だにはかりかねていた。やがて鍋島は手をあげて、庭のすみを指さした。

「猿小屋をつくるなら、先ずさしあたり、あそこだな」

 そこは家の側面と板塀が直角になった、陽のあたる庭の一隅であった。そこには一本の瘦(や)せた南天(なんてん)の木が、小さな赤い実をいくつか点じていた。しかし六郎は、鍋島の指さした方は見ずに、鍋島の外套の柔らかそうな毛に踊る、冬の日射しの微妙な色合いをぼんやり眺めていた。その色は眼にとらえられないほど淡く、はかなく、幽(かす)かにちりちりと乱れ動いていた。人と話している時や仕事をしている時などでも、それと関係のない、何でもない別の事象に、ふと心を奪われる性癖が、六郎にはあった。鍋島の外套が動くと、日射しは翳(かげ)をふくんで、小さく七色に揺れた。ほのぬくい毛織物の匂いも、それにつれてかすかにただよった。

「猿小屋の費用は、もちろんこちらで持つ。日々の保管料も出すよ」

「まだ引受けるとは言わないよ」と六郎はふと気持を元に戻されて、すこし笑みをふくみながら答えた。「飼って面白い動物かね、それは」

「面白いさ。あんな面白い動物はない。ただし卵ごときを産まないから、実用的じゃないけれどな」

「乳なども出さないのか」

「出さないね。雄だからな。しかし無邪気なものだよ。しかもよく馴らしてあるしよ。極くおとなしい猿だ。君などには丁度(ちょうど)手頃だろう」

「君の家じゃ、飼えないのかね」

 少し経って、なにか考え込む顔付きになりながら、六郎は訊(たず)ねた。

「おれのうちでは駄目だ。町なかだから、音が多過ぎるんだ。あれじゃ猿は瘦せてしまう」

 猿を飼うには、ある程度しずかな環境が必要なのだと、鍋島は鼻を鳴らしながら説明した。その説明も、六郎はあまり聞いていなかった。声は耳を素通りするだけで、六郎は別のことをかんがえていた。庭のすみの南天(なんてん)の方を、すこしまぶしそうに眺めながら、やがて六郎はしずかに口を開いた。

「猿って、あの地方のやつだな。きっとそうだろう。あの山には、猿が沢山いたからな。そいつは奥さんの方の――」

「あ。鈴子のだ」

 鍋島はかるくさえぎった。それから一寸しんとした沈黙が来た。鍋島はだまって庭先に立ったまま、縁側の彼を見おろしていた。この家に、それまでに鍋島は何度か訪ねてきていたが、一度も上にあがったことはない。いつも庭先で用を済ませていた。その日もそうであった。冬にしては、割にあたたかい好天気が続いていたので、ぼろぼろに乾いた庭土を、鍋島の赤靴が踏んでいた。へんに平たい感じのするその靴の形に、その時六郎は視線をおとしていた。猿を預ることはいいけれども、それによって、また鍋島とのつながりが一つ殖える。そんなことを六郎は頭の遠くでぼんやり考えていた。鍋島のいらいらしたような声が、そこに落ちてきた。

「預け放しにする訳じゃないよ。いずれまた引取るんだ。それまでにも、月に二三度は見に来るよ」

 彼を見おろしているらしい鍋島の視線を、よく判らないが何かの意味をもつ圧力として、六郎は額に感じていた。別段の根拠はなく、ただ六郎がそう感じるだけであった。正体の知れない敵に、ただひたすら体を丸めて防禦(ぼうぎょ)しようとする昆虫の姿勢を、六郎は瞬間自分自身に感じた。そしていま限界にあるぼろぼろの庭土、平たい形の赤靴、そして鍋島の声音、(あ、鈴子のだ)とさえぎった軽い響きなど。これらが一緒になって、ある一つの感じとして、何時までもなんとなくおれの記憶にとどまるだろう。故もなくそんな想念が、その時ちらと六郎の脳裡(のうり)をはしり抜けた。その予感は、なにかふしぎな倦怠感を、漠然とともなっていた。次の瞬間、身体のあちこちの筋肉から、急に力が抜けてゆくような感じの中で、猿を預ることも断ることも、どちらにしても同じことだ、と考えながら、六郎はゆるゆると顔を上げて行った。鍋島はその六郎の顰(ひそ)めたような鼻の辺をまっすぐに眺めていた。そして押しつけるように言った。

「じゃ、いいね」

 何時までもなんとなく自分の記憶にとどまるだろう。そう考えたことで、その日の状況は、かなり長い間六郎の記憶にとどまっていた。その記憶も、後のほうでは、あちこちがぼやけて、色の濃淡や匂いのようなものだけになってしまったが。

 それから一週間ほどして、猿は六郎の庭に住むようになった。

 それはごく平凡な形の猿であった。顔と臀(しり)と四肢の先をのぞく全身に、灰白色の短い毛が一面に密生していた。体軀にくらべて、顔がすこし小さく狭い感じがした。そしてそのしなびた顔には、額にあたる部分がほとんど無かった。頭蓋の毛の下端から、すぐ眼のくぼみが始まって居た。そのくぼみの一番奥に、象嵌(ぞうがん)されたような小さな瞳があった。瞳の色は、時によっては黒く見えたり、灰色に淀んで居たり、また時には青く光ったりする。それに時々かぶさる瞼の皮は、薄黝(ぐろ)くしなやかで、なにか精巧な皮細工の一部分のように、柔軟な艶を含んで伸縮した。臀の皮膚はいくぶん暗みを帯びた赤色で、そのつるつるした表面は、なおりかけた傷口に張る薄皮のようななめらかさを、いつも六郎に感じさせた。見ることだけで、その感触が実感できた。その赤剝(む)けの皮膚の部分は、さほど広くなかったけれども、周囲の灰色の毛の部分に対応して、かなり鮮かに目立った。鍋島が言ったように、あの頃あの基地隊のうしろの山で、六郎が時々見かけた猿たちと、同じ種類の猿であることには間違いないようであった。それは毛の色や軀の形などで、おおむね判った。ただ違うのは、あの山の猿たちは、敏捷に樹から樹へ飛び動いていたのに、この猿はその自由をうばわれて、この檻(おり)小屋のなかに踞(うずくま)っている。その違いだけであった。しかしそうした環境の差異が、筋肉や器官などの眼に見えた退化をもたらすことも、あるいはあり得るだろう。この猿にも既に、その退化が始まっているかも知れない。そう思うと六郎には、これがあの山の猿と違った、別の形の生き物のようにも感じられた。[やぶちゃん注:「あの基地隊」ここで六郎の戦時体験がちらりと示されるのだが、以下、今一度、それらしいフラッシュ・バックが出現する。そちらの私の注を、そこで参照されたい。

 しかし軀の形や動作だけでなく、この猿の感情や心理の動きも、野放しの頃とは全く変化しているに相違ない。同じである筈がない、と六郎は時に考えたりした。この考えは、動物心理学的な推論からではなく、眼前の猿を眺めることで、自然に浮んできた。この猿は、鍋島が言ったような、無邪気なおとなしい猿では決してないようであった。よく馴らしてあると彼は言ったが、どう見てもそうだとは思えなかった。馴らすという言葉の意味が、鍋島とおれとでは食違っているのかも知れない。同一の言葉を、おれたち二人は別々の意昧に使っているのだろう。そんなことも六郎は思った。

 猿小屋は、鍋島が指定した通り、庭の東南隅につくった。いろいろ考えてはみたが、庭の形からしても、やはりそこ以外に適当な場所はなかった。建築は近所の釜吉という若い大工に頼んだ。

 猿を一目見た時、釜吉は言った。

「あまりいい柄の猿じゃありませんね、これは。やはりお買いになったんで?」

「預ったんだよ」と六郎は答えた。

 鍋島から運ばれてきた猿は、小さな箱檻(おり)[やぶちゃん注:「檻」にのみルビ。]に入れられたまま、縁側に置かれていた。枠にはまった細い鉄棒を両掌で握って、猿は上目使いに釜吉の様子をうかがっていた。

「猿にも柄があるのかね。それじゃまるで反物(たんもの)みたいだな」

「そりゃありますよ。毛並とか顔かたちによってね。こいつはそれほど上柄じゃないや」

「よく馴らしてあるというんだけれどね」

 釜吉は背を曲げ、掌を膝に支えて、檻の中をしげしげとのぞきこんだ。檻の中はうす暗いので、自然と釜吉の顔も上目使いになっていた。同じ眼付きになったまま、猿と人間はしばらく、お互いの様子をうかがい合っていた。そして急に猿は両掌を鉄棒から離して、狭い箱檻のなかで、ごそごそと後向きになった。軀をすこし低めるような姿勢になり、しかし頭をうしろに廻して、顔だけは釜吉の方をきっと振り向いていた。その小さな顔はくしゃくしゃと皺(しわ)を寄せ、口はすこし開かれて、黄色い歯がむき出しになっていた。両方の口角が後の方にぎゅっと引かれていた。そのままの表情で、鉄棒の方に向けた赤い肛門から、猿は突然少量の便を排泄した。

 つられたように釜吉の顔も、口角を後に引いて、猿と同じ表情になっているのを、六郎はちらと見た。と思ったとき、釜吉は掌を膝から離して、ゆっくりと上半身を元に立てた。顔に皺をよせ、並びの悪い歯を露わしたまま、咽喉(のど)の奥で音を立てるような笑い方をして、釜吉は猿の檻から視線を外(そ)らした。惨めになったようにも、また得意そうな表情にもとれる、へんな笑いであった。

「あの猿も、笑っているのかね」

 そっぽ向いてわらっている釜吉に、少し経って六郎は訊ねた。しかし直ぐあとで、あの猿も、ではなくて、あの猿は、と言わなくちゃいけなかったんだなと、六郎は気がついた。釜吉の頰から、急に笑いの皺が消えたようであった。

「こわがってるんでさ」

 そう言い捨てると、大きく眼を見開いて、ぶよぶよした頰から顎を、釜吉はしきりに搔き始めた。こちらに見せた

横顔のそこらに、吹出物のような赤い粒々が、たくさん出

ていた。

「猿小屋は、そこらが適当だと思うんだがね」

 南天の生えた一隅を、六郎は煙管(きせる)で指した。頰を搔きながら、釜吉は遠近のない視線でしばらくそこらの地形を眺めていた。やがて低い声で言った。

「さて、どんな具合につくるかな。つくるとしても、こいつは材料によるんでね」

「そりゃ立派なやつの方がいいな」と六郎は答えた。「材料費とか日当は、この猿の持主が払う予定なんだ。だから前もって請求して呉れたらいい」

「あ、それはあとでもいいですよ。どうせ同じことだから」

 そう言って釜吉は、ちらとはにかんだような笑いを、その横顔に走らせた。

 猿小屋の建造は、それから十日余りもかかった。それは六郎が想像していたより、はるかに立派な、豪華な檻であった。釜吉は毎日ひとりできて、材木を切ったり、穴をあけたり、組立てたりした。どんな檻が出来ようと、釜吉にそれを任せた以上は、六郎は口を出すこともなかった。六郎は一週間のうち四日仕事にでてゆく。あとの三日は家にいて、本を読んだり、釜吉の仕事ぶりを縁側から眺めたりしていた。

 釜吉は朝九時頃やってきて、ひとしきり仕事にかかり、昼になると、縁側にきて弁当を開く。日当りのいい暖かい日なら、六郎もテツに頼んで、自分の食膳を縁側にはこばせ、釜吉と向い合って昼餉(ひるげ)をとった。釜吉の弁当箱は、すばらしく大きかった。深さも三寸余りあった。その中には、真白な御飯と、いろんなお菜がぎっしりと詰まっていた。それを釜吉は、いちどきに食べた。こんな小柄な男のどこに、あれだけの分量の飯やお菜が入るのか、六郎にはふしぎでならなかった。釜吉は肥っているように見えたが、背丈は五尺ぐらいしかなかった。その肥り方も、どこか不均衡で、たとえば腹は大きいのに、手足は細かった。身体の中に、肥っている部分とそうでない部分とがあって、それらが皮膚によって、雑然と継ぎ合わされている風(ふう)な印象をあたえた。[やぶちゃん注:「テツ」突然に出てきて説明がないが、六郎の妻である。梅崎春生の妻は「恵津」(えつ)である。]

 釜吉は二十三四なのに、もう女房をもっていた。その女房は、釜吉より五つ六つ年長のようであった。駅近くの火の見櫓(やぐら)の下に、小さな細長い家をつくって、釜吉夫妻は住んでいた。なぜ六郎がそれを知っているかと言うと、釜吉の女房は闇の主食などをこっそり取扱っていて、彼も時々それを買ったりするからであった。女房はここら界隈(かいわい)のほとんどを、そのお得意にしていて、なかなか手広くやっていた。その方の収入があるせいか、当の釜吉はぶらぶらしていることが多くて、自分の本業に精出す気持もないふうに見えた。頼まれれば引受けるが、自分から進んで仕事を求めることはせず、あとは働き者の女房によりかかっていた。だから頼まれる仕事も、造作のつくろいや板塀の修繕程度で、ちゃんとした大きな仕事は委せられないらしかった。もっとも若いから仕方がないが、腕も確かでないという評判であった。そういう男に仕事を頼む気になったのも、釜吉の蛙に似た顔や動作に、六郎はもとから微かな関心を寄せていたからであった。この男からもやもや発散するものに、なにか変な異質的なものを、六郎は以前から感じていた。こんな感じの男の生態を知りたい。それほどの強い気持ではなかったけれども、釜吉を身近に眺めたり、また話し合ったりすることで、その何かを確めて見たい。その程度の気持の動きは、釜吉に仕事を頼むときの六郎の胸に、うすうすとあった。

 釜吉の仕事ぶりは、噂のように確かに下手であったが、決して雑ではなかった。むしろ妙なところでひどく丹念であったりした。たとえば材木に穴をあけるにしても、組み上がれば穴は見えなくなるにも拘らず、その穴の内側や底面まで、なめらかに削らねば承知しない、と言った風(ふう)なところがあった。たかが猿小屋に十日余りかかったのも、ひとつはその為(ため)でもあった。また別には、材料をよく吟味して、六郎の予想をはるかに超えた立派な小屋を、彼が作ろうとしているせいでもあったけれども。そしてその仕事ぶりは、なにか楽しそうであった。あるいは楽しもうとする気配が、ありありと見えた。今までは造作や板塀の修繕ばかり几ふるいにこの猿小屋が、釜吉が手がける最初の建築物なのかも知れない、と六郎はひそかに推定した。この仕事への身の入れ方も、そのせいだと思えたし、使用する材料や道具へ釜吉が示す偏愛も、六郎はそんな風(ふう)に一方的に解釈していた。

 しかし仕事以外のことにたいしては、へんにつめたい無関心な傾きが、釜吉の態度にはどことなく漂っていた。たとえば猿小屋をつくっているにも拘らず、その中に住むべき猿については、釜吉はほとんど関心を持たないふうであった。あの最初の日をのぞけば、縁側の箱檻にいる猿を、彼は眺めることもしなかった。少くとも六郎が見ている前では、猿に一瞥すら与えようとはしなかった。また小屋を建てようとする時も、そこに生えた南天の樹を、まるで牛蒡(ごぼう)を引くように、無造作に引き抜いて、庭の真中に投げすてた。道端の小石をかるく蹴飛ばすような無造作なやり方であった。南天を大事にしている訳ではなかったが、その夕方釜吉が帰ったあとで、六郎はそれを庭の西南隅に植え直した。南天を借しむ気待でもなく、また釜吉にあてつけるという気持でも、勿論なかった。ただそうしてみただけである。あまり強くない植物だと見えて、一日で南天はかなり弱っていた。米のとぎ汁などを、六郎はテツに頼んで、その根にかけさせたりした。南天を植え直したことも、翌日釜吉は見て知った筈だが、別段それを口にも出さないし、気にとめた様子も見せなかった。そんなことはどうでもいいと言った態度で、ちろちろと眼を動かしながら、鉋(かんな)を使ったり、丹念に墨縄を打ったりした。釜吉の眼は大きく見開くと、黒瞳(くろめ)が宙に浮くほど巨きく、翳(かげ)りがなく、動物的な感じであったが、すこし伏眼になると、瞳が瞼にかくれて安心するせいか、なにか狡智に満ちた、油断のならない動き方をした。しかし幅広くふくらんだその瞼の皮は、黒瞳の動きが透けて見えるほど薄い。薄い上質のゴムみたいな皮膚であった。それはこの男の中のある冷情さを、六郎に何時もつよく感じさせた。しかし両棲類のそれに似たこの眼は、ふたりで向き合って会話を交えている時でも、六郎の顔を絶対に見ようとしない。視線を相手の顔からすこしずらして、釜吉はいつも対話をする。まっすぐに相手を見ることを、極度に警戒し怖れる風(ふう)であった。しかし六郎がぼんやりと眼を外にあずけている時などに、ふと釜吉のするどい視線を、顔に感じることがある。はっとして瞳を戻しても、もうその時は釜吉はよその方を眺めている。早瀬をよぎる魚の影のような、すばやい盗視であった。

「あの眼付きや身体付きは、どうも変だな。女みたいな、いや、男でも女でもないような妙なところが、あいつにはあるようだ。あんた、そう思わないか」

 ある時六郎はテツに、そんな具合に訊ねてみた。テツは考え考えしながら、そうは思わない、と低声で答えた。

「じゃ、僕だけの感じかな。どうもあの男は、雨蛙みたいな感じがする」

 十何日目かに、猿小屋は完成した。二方は鉄柵(てつさく)になっていて、あとの二面は板張りであった。小屋の高さは、四米近くもあった。内部には、自然木の止り木や、天井から吊したブランコや、小さな椅子などがつくってあった。床が土間でなかったら、人間でも楽に住めそうであった。この出来上りには、誰よりも先ず、釜吉が深く満足したようであった。しかしテツの側からすれば、この猿小屋が出来たために、六郎の母屋(おもや)はいっそう古ぼけて、貧寒にすら見えた。廂(ひさし)を貸して母屋をとられたような感じがないでもなかった。仕事終いの日に、六郎は釜吉に言った。

「猿よりも、むしろ僕の方が住みたいな、こんなに立派な檻になら」

「ほんとですよ。全くですよ」

 釜吉は真顔になって、口をとがらせながら言った。そして鉄柵を掌で押したり引いたりして、そのはまり具合を満足げに確めて見たりした。大工のくせに、釜吉は右手の中指に、いつも金指輪をはめていた。

「どこか具合が悪いところでもあったら、何時でも直しに参りますよ」

 小屋代の支払いは、直接の方がいいとかんがえて、彼は釜吉に鍋島の住所を教え、そこに受取りに行くように言った。だから今にいたるまで、この小屋の建築費がいくら位であったのか、六郎は知らない。釜吉にも鍋島にもつい聞かなかった。その後も釜吉は、仕事のために、しばしば六郎の家に出入りしていた。猿小屋のそれではなく、もっぱら母屋の方の修繕である。母屋も急速に古びて、あちこちが次々にいたんだ。時に彼は頼みもしないのにやってきて、そうした箇所の修理をしたりすることもあった。やはり商売柄だけあって、いたみのくる時期をはかり、うまく目星をつけて修繕にくるのだろうと、六郎はかんたんに考えていたが、あるいは自分がつくった猿小屋を見たいために、釜吉はしばしばやって来るのかも知れなかった。そう言えば時折釜吉は庭に立って、猿小屋に長いこと見入っていたりしていた。そのまなざしからしても、猿を眺めているのではなさそうであった。そうした釜吉の姿から、イソップの絵本などに出てくる後肢で立った蛙の姿などを、六郎はなんとなく聯想(れんそう)したりした。そしてそんな時、釜吉に向けた自分の視線が、ただの好奇心みたいなものだけで支えられていることを、六郎は何時もはっきり自覚していた。網膜にうつすことだけで、そこで何かが完了してしまう一つの装置を、ちかごろ彼は自分の内部に、ありありと知覚していた。しかし相手が釜吉と限らず、そんな装置だけで自分が対象と繫(つなが)っていること、自分にとって他とはそういうものであるということ、その意識は、時として急にしめつけるような切なさを、六郎の胸の奥に伝えてくることがあった。そこに眠ったものを、突然呼びさましに来るかのように。――しかしその切なさも、切なさだけの感覚で、胸の奥の襞(ひだ)を僅かの時間にひりひりと擦過(さっか)し、あとにかるい虚脱を残すのみで、やがて直ぐ消え去ってゆくのが常であったけれども。

 

 猿が小野六郎に馴れてくるまでには、一年以上の月日が流れた。

 猿の日々の世話は一切、六郎の役目になっていた。六郎がやらなければ、誰もやるものがなかった。テツは始めから、はっきりした態度で猿の世話を拒(こば)んでいた。

「あたしはお断りですよ」

 この家の住人は六郎とテツだけだから、テツが拒めば、六郎が一切をやるよりほかはなかった。テツがなぜお断りなのか、猿という生物を嫌いなのか、世話が面倒くさいからなのか、六郎はつい聞きそびれた。もっともテツに世話する意思があるかどうかが、六郎には問題だったので、そんな気持がないと判れば、その理由は聞きただす程のこともなかった。六郎の方から訊ねない限り、自分から気持を説明するような女ではテツはなかった。テツにはもともと、そんな気質があった。そのようなテツを、六郎はある意味で愛していた。たとえば物質にたいするような愛情で。

 猿の飼育は、鍋島が言った通り、そう面倒なことではなかった。毎日食餌をあたえることと、五日に一度檻の中の清掃だけである。猿はほとんど何でも食べた。餌箱に食物を入れてやると、たとえその時はそっぽ向いていたとしても、後で見るとちゃんと食べてしまっていた。植物性の食餌だけでなく、煮干やスルメも食べたし、キャラメルなども食べた。南天の実を与えれば、それも食べた。始めは貪慾な生き物だという感じがしたが、いつかその感じも六郎には無くなっていた。食べるために食べているに過ぎないことが、やがて六郎には感じられてきた。

 馴れ親しんでくるまでの一年ほどの間は、六郎はほとんど無言でこの猿の生態に接していた。積極的に観察するというほどの意図はなかったが、やはり毎日接していることで、彼はかなり微細に、この猿の生態に通じてきていた。それはあるいは彼なりの通じ方にすぎないかも知れなかったが。

 飼い始めて当分の間、その反撥的な気配から、ずいぶん偏屈な動物だという印象は、なかなか彼の頭から抜けなかった。しかしこの印象は、類推として猿一般にひろがりはしなかった。眼の前にいるこの猿に関してだけであった。始めのうちこの猿は、檻の端に据(す)えられた小さな椅子に、陰欝な風貌で、一日中じっと腰掛けていた。折角しつらえたのに、ブランコなどには振りむきもしなかった。食餌(しょくじ)を与えても、素直に受領することはめったになかった。それはひねくれた猜疑(さいぎ)心を、六郎に感じさせた。猜疑心が強く、吝嗇(りんしょく)で、意地がきたなく、その癖ひどく傲慢で、見栄坊なところもあった。そして不親切で、残忍な感じさえあった。猿のいろいろな動作や表情から、六郎はその都度(つど)そんな性質を感受し、抽出していた。しかしたとえば傲慢という言葉にしても、吝嗇という言葉にしても、それらの言葉は、人間の性質の偏(かたよ)りを表示するための符号で、猿の属性にまで適用され得るかという疑念は、いつもその時々に六郎の心の底にかすかに動いていた。そしてその疑念がその度に彼の胸に反復され、やがてはっきりした疑問の形をとるようになった頃から、この猿は当初の印象から、微妙にその感じを変えてくるらしかった。それは飼い始めて、一年近くも経ったあたりからであった。何時の間にかすこしずつ、何かが変ってくる気配があった。それは猿自体が変化してゆくのか、自分の視角が変化してゆくのか、あるいはその両方なのか、その頃の六郎にははっきり判断できなかった。判断できないままに、彼は自分なりの理解が、ごく徐々になだらかに、この猿の生き方に近づいてゆく気配を感知した。同時に猿の方からも。たとえば妨げ隔てているものが、歳月の風化作用によって細い裂目や隙間を生じ、そこから何かが吹き通ってくるように、この猿が生きている隠微な気息が、属科を異にする条件を超えて、ひそかにほのかに伝わりはじまることを六郎はおぼろげに自覚した。

「これはたしかにおれの猿だ」

 ある日突然、六郎はそんなことを考えた。それは言葉としてでなく、ある実感として彼に落ちてきた。もしそれが言葉としてだったなら、その言葉は無意味な筈であった。猿の保管料や食餌費はまだ鍋島の手から出ていたし、その鍋島も月に二三度は、この猿の成長を見廻りにきていたのだから、自分の猿だと言い切る根拠は、現実にはどこにもなかった。だからそれは、六郎の漠然たる気持――だけなのであった。しかし彼のその気持の中には、嘘や錯覚の感じは全然なかった。それはぴったりと彼に粘着していた。

「とにかくこいつは、おれの猿なんだ」

 この猿に、カマドという名をつけたのは、近所に住む二瓶(にへい)という男である。二瓶は六郎より少し上の、三十をいくつか出た年頃で、神田かどこかにある学校の、講師か教師かをやっていた。小柄な身体にきちんと服をつけ、晴天の日でも洋傘をもって出てゆくような男であった。端正な、こぢんまりした顔に、鼈甲縁(べっこうぶち)の眼鏡をかけていて、なにかものを言い出そうとする時には、かならず眼を少し細めて、眼尻に笑みを含んだような皺をよせる癖があった。脂肪をふくんだその襞(ひだ)の形のなかに、かすかに宿るへんに暗い邪悪な翳(かげ)りのようなものを、この男と知合った最初から、六郎はぼんやり感じとっていた。そういう笑いに似た表情をこしらえない限りは、普通の話題にすら口を開かないということは、この男がどこかで韜晦(とうかい)した生き方をしている為(ため)だろうと、六郎はかねがね推定していた。そして二瓶の身のこなしや口の利き方には、自分と他を完全に意識したような、そしてそれがぴったり身についた、疑似の典雅さや柔軟さがあった。身体や顔が全体に小柄で、しかもそれなりに均衡がとれていたから、打ち見たところ、なにか精緻な雛形かカタログを眺めるような感じがした。この精巧なカタログは、しかしどうかしたはずみに、何気ない世間話の合間などに、ふとこちらの気持にひりひりと触れてくるような、はっきりしたものの言い方をすることがあった。そういう時でもこの二瓶の眼尻は、老獪(ろうかい)な笑みの翳をいつも絶やさずたたえているのであったが。[やぶちゃん注:「二瓶は六郎より少し上の、三十をいくつか出た年頃」発表時の梅崎春生は満三十五歳であった。]

 二瓶は学校の講義を受持っている他に、変名で子供雑誌に童話をしきりに書いていた。彼の童話は相当に金になるらしく、二瓶は割に裕福な生活をしていた。二瓶と知合うようになってから、この男の慫慂(しょうよう)で、六郎もいくつかの童話を書いて、その中の二篇ほど金に換えて貰ったことがあった。しかしこの二つの童話も、二瓶の口ききだから金になったので、雑誌社側で歓迎するほどの作品でもないようであった。むしろお情けで載せてもらったような具合であった。もともと六郎には自信もなかったし、情熱もあまりなかった。金にしてやるという二瓶のすすめで、暇々に書いたに過ぎなかった。二瓶にはそういう世話やきの一面があって、言わば六郎はそれに無抵抗で応じただけである。しかし書くことは別に苦痛ではなかった。と言って喜びも別段なかった。だからその作品も、とても二瓶のそれのように、うまく行く筈もなかったのだが。

「君のこの童話は、うまいことはうまいんだけれどもねえ――」

 ある日の夕方、庭の入口に立って、二瓶は原稿を六郎に手渡しながら、いつもの物柔らかな調子で言った。その原稿も、ずい分前に二瓶を通じて、ある少年雑誌に行っていた筈の童話であった。それをやっと六郎は思い出していた。

「ちかごろの子供には、ああしたものはぴったりしないと、雑誌社じゃ言うんだよ。戦争前の感じとは、子供たちだって、ちょっとはずれてきているんだよ」

「そうかな。そんなものだろうな」

 受取った原稿をかるく巻きながら、六郎は気のない受け答えをした。別に何の感情もなかった。この原稿のことはすっかり忘れていたのだし、実は自分で書いたものでありながら、その内容も彼はまだ思い出せないでいたのだから。しかしこちらを見詰めている二瓶の視線を感じると、六郎は義務のようにして言葉を継いだ。[やぶちゃん注:「童話」梅崎春生は実際に童話を幾つか書いている。本篇以前のものは確かには確認出来ないが、私の電子化したものでは、初出誌未詳の昭和三二(一九五七)年一月現代社刊の単行本「馬のあくび」に所収された「ヒョウタン」とか、「クマゼミとタマゴ」がそれである。確実に本篇よりも前のもので、童話風のものとしては、昭和二九(一九五四)年三月号『文芸』に発表され、後にやはり単行本「馬のあくび」収録された、大人向けのブラック・ジョーク風のコント「大王猫の病気」PDF)がある。童話ではないし、八年も後のものであるが、学研が発行していた高校生向け雑誌『高校コース』の昭和三三(一九五八)年一月号に発表された、学園を舞台とした推理物風の「狸の夢」なども青少年向けの特異点の作品である。また、本篇より二年前の昭和二三(一九四八)年九月号『文芸』に発表された「いなびかり」 「猫の話」 「午砲」(どん)の三篇から構成されたアンソロジー「輪唱」PDF)も、後の二篇は、永らく、中学校や高等学校の国語・現代国語の教科書に載せられたので、やはり、かなり若い年齢の対象者を想定して書かれたものであると言える。因みに、「猫の話」は高校教師時代の私の授業の定番小説であった。]

「そう言えば、近頃の子供というのは、よく判らないなあ。もっとも大人たちのことだって、僕にはてんで判りゃしないけれどね」

「そうでもないだろう」

「いや。どうもそうなんだよ。僕の中には、どこかしら足りないものがあるんだ。童話など書けるような柄じゃないんだね、つまり僕は」

「そうでもないよ。うまいよ、君は」

「そんな言い方はないよ」と六郎はちょっとわらった。

「でも大変なことだなあ。金になるならないは、別としてもね。あんたはよくそこをやって行くね」

 眼尻にれいの笑みをたたえたまま、かすかに顎(あご)でうなずいたりしながら、二瓶は洋傘の尖端で庭土にいたずらをしていた。その二瓶の姿を、見るだけの意味しか持たぬ視線で六郎はちらちらと眺めていた。それから暫(しばら)く、そんな風(ふう)な雑談をした。二瓶は庭土に眼をおとしたり、猿の檻を眺めたりしながら、何時ものようになめらかなしゃべり方をした。そしてふと語調を変えて、こんなことを言った。ぼんやり受け答えをしていたので、それまでの会話とどう繫(つなが)りがあるのか、六郎はちょっと戸惑った。

「君はねえ、とにかく安定してるよ。確かなんだよ。いろんなものがね」

「そんなものかねえ」と六郎はあやふやに相槌(あいづち)を打った。しかし二瓶のその言葉は、繫りが知れないままに、突然心に妙にからまってくるのを、六郎は感じた。

「ちょっと脇へ寄ればいいんだけれどねえ。そこで少し違うんだよ」

 その言い方もよく判らなかった。そこでどう違うのか。何と違うのか。しかしその問いはちらと頭の遠くを走っただけで、言葉にする程の気力も、けだるく六郎の胸からずり落ちて行った。猿を眺めている二瓶の眼尻の笑みから、六郎はなんとなく視線を外らした。そしてしばらく黙っていた。するとそのけだるさの底から、内臓の一部を収縮させるようなへんな笑いが、沼の底から浮いてくる気泡のように、ぽつぽつと不規則に六郎の頰にものぼってきた。二人はそれぞれに頰の筋肉をゆるめ、それぞれの顔形に応じて声なき笑みを含みながら、檻(おり)の中の猿の動きをしばらく眺めていた。やがて二瓶は手をあげて、檻の中を指さした。

「ねえ。やはりカマドにちょっと似てるだろう。あの形がさ」

 猿はその時椅子に腰かけ、大仰に肢をひらいて、しきりに蚤を探していた。その猿の姿勢は、強いて眺めれば、竃(かまど)の形に似ていないことはなかった。しかしそれよりも六郎はその二瓶の言葉の外らし方に、ある常套的な韜晦(とうかい)を瞬間に感じていた。六郎は黙った。彼が黙ったのを見ると、二瓶はふいに照れたような、なにか弁解がましい口調になって、すこしあわてた風(ふう)に言葉を継いだ。

「実はこの猿を始めて見たとき、こいつは丁度(ちょうど)今と同じ恰好(かっこう)をしてたんだよ。その印象が僕にはつよく残ってるんだ。つまりそのせいなんだな。僕はそれで、お猿のカマドという話を書いたりしたんだがね」

「ああ、それは読んだよ」自然と皮肉な調子になるのを自分でも意識しながら六郎は答えた。「お説の通り、カマドに似てるよ。だから僕もこいつを、カマドと呼んでいるんだ。ちかごろは、テツまでもね」

 六郎の家の竃(かまど)と二瓶の家の竃とは、同じ土質で同じ形をしていた。大きさも全く同じであった。それは偶然でも不思議なことでもない。六郎の家と二瓶の家は、同じ家主が設計し同じ大工や左官(さかん)がこしらえたものだったから。ちょっと変った形の、使いにくい竃であった。火つきが悪く、ともすればくすぶりたがる性質があった。二瓶が似ているというのは、この竃のことである。

「でも、もうすっかり、人間に馴れたようだな、こいつも」二瓶のその言い方は、急に六郎のその答えから遠ざかったが、独白めいた調子に変った。「早いようなもんだな。まだ君にも馴れてなかったのにね、あの頃はさ」

「ああ、そんな具合だったね」蚤をとらえて口に持ってゆく猿の手付きに、六郎はふと視線をうばわれていた。「しかし、そう早くもないさ。一年半、いや二年にもなるのかな。ずいぶん天塩にかけたんだよ。だってあんたと知合う前からだからね」

「いや、僕の方が、ちょっと先だ。まだこの檻がなかったんだから」

「そうだったかな」

「そうさ。これを造ったのは、あの若い大工だろう。火の見の下に住んでる。そら、柄(がら)の小さい、どこかぶよぶよした感じのさ」

「釜吉だろう」

「ああ、そうだったね。そんな名前だった。あいつはね、君、曲者(くせもの)だよ。身体つきからして、ただ者じゃないね。あんなのは、ちょっと変形すれば、童話のモデルには持ってこいの型だな。あれをモデルにして、ひとつ書いて見ないか。きっと面白いのが出来るよ」

「蛙の、釜吉か」頭に浮んだままを、六郎はふと口にすべらせた。「でも、もう童話に書くのも、少し億劫(おっくう)だな。見てるだけの方が、よほど面白いよ」

 そう言いながらも、屈折した笑いがあたらしく頰にのぼってくるのを、六郎は制し切れないでいた。いつか鍋島が二瓶を評した言葉を思い出したからである。それは二瓶が釜吉を評した言葉とそっくり同じであった。この二人がこの庭先で、始めて顔を合わせた、その直後のことであった。

「今の男はただ者じゃないな」その時、二瓶がいなくなると、鍋島は待ちかまえたようにそう言った。「どんな商売やってるんだね、あれは」

「学校の先生だよ」

「そうか。そう言えば、そういう感じだな。とにかく一筋縄でゆく男じゃない」

 鍋島にしても二瓶にしても、誰でも皆、どこかで力んでいる。皆それぞれのやり方で、無意識に力んでいる。力むことだけで、力んでいる。ちょっと人形芝居みたいだ。――六郎に笑いをいざなったのは、先ずその感じであった。しかしその折れ曲った笑いの中からも、遠くからくる風の音に似た低いささやきを、彼は次のようにとらえていた。――力むということは、そこに力点があるということだ。ところがお前は、お前の中のどこに、そんな力点を持っているのか。どこに。あるいはお前はそいつを、何時、どこ

で、見失ったのか。どこで?

 やがて二瓶は話をすますと、靴音をたてないような歩き方で戻って行った。それを見送ったあとも、六郎はしばらく庭先に佇‘たたず)んで、何となく檻の中に眼を放していた。さっきも二瓶が言ったように、この頃ではこの猿も、すっかり六郎に馴れてしまっていた。いや、馴れるというよりは、もっと別な感じの、もはや歩み寄りをもたぬ静止した関係が、猿と彼の間に生れ始めていた。猿は先ほどと同じく椅子にもたれ、こんどは右脚を曲げて蹠(あしうら)を膝の上にのせ、両掌を代る代る使って、足指を割ってその内をしらべたり、土ふまずのところをしきりに搔いたり、踵(かかと)の肉を不審そうにつまみ上げて見たりしていた。外界に気もとられず、背を曲げて、ゆっくりその動作をくり返している。六郎は黙ってそれを見ていた。やがて猿は右脚をおろして、左脚ととり換えた。同じ動作が始まった。

(この感じは何だろう)

 と六郎はふと思う。なにかがそこにある。たとえば自由とか平安とか幸福とか、そんなものすら感じさせるある雰囲気が、この閉じこめられた生き物のどこかに、ぼんやりと漂っている。いつからこの猿に、こんな雰囲気が具わってきたのか、六郎にははっきり判らない。ついこの頃からのような気もするし、ずっと前からだったようにも感じられる。その揺曳(ようえい)するものは、透明な屍衣のように、猿の全身をうすうすと包んでいる。その中でこの猿は、おだやかに自分の蹠とたわむれている。黒い蹠の形は、べたっと細長く、皺(しわ)をたたんでよく撓(しな)う。そこだけ独立した奇妙な生き物のようだ。――猿はその上半身に、小さな袖無しをまとっている。それはふしぎにこの猿に似合う。(袖無しが似合う猿とは何だろう)その赤い花模様も、前に結んだ白い紐も、まだそれほど汚れていない。この冬に入る前に、鍋島の妻の鈴子がつくって、わざわざ持ってきて呉れたものだ、その時鈴子は、紺のスカートに、緑の毛糸のセーターを着けていた。そして自分で檻に入り、この袖無しを猿に着せた。その姿を六郎は檻の外から眺めていた。猿は別段抗(あら)がいもしなかった。猿のそばにしゃがんで、それを着せることに没頭しているので、緑色のセーターから、鈴子の襟足が不用意にのぞかれた。それは牛乳のように白かった。なにか不幸を感じさせるほど、その皮膚はなめらかに白かった。その部分に視線を食い込ませながら、六郎は胸の底にかすかなカラニタチを感じた。(カラニタチという言葉は、六郎はテツから教わった)そのカラニタチも、自然に起ってきたのか、彼自身で無理にかき立てたのか、しかし六郎にもよく判らなかったのだが。……[やぶちゃん注:「カラニタチ」の意味は後で明かされる。]

「カマド、カマド」

 二三歩檻へ近づいて、六郎は低声で呼びかけた。猿は手を休め、脚を床におろしながら、ゆるゆると面をあげた。おだやかな翳(かげ)をふくんだその顔が、ぼんやりと六郎の方を向いた。六郎を見ているのではなく、六郎を透して遠くを眺めているような眼付きである。くぼんだ眼窩(がんか)の奥には、放射能を失ったある種の鉱石のような瞳が、黒くつめたく固定している。ただそれだけであった。しかしそれにも拘らず、その動きのない眼の中に、じっと見詰められている自分自身の姿を、六郎ははっきり感じていた。それと同時に、なぜか憎しみに似た感情が、六郎の胸の遠くで、かすかに揺れ動いた。何にたいする憎しみとも知れぬ、ゆたゆたと低迷する感情が。六郎は口の中でつぶやいた。

「そうだ。やはり二年経ったんだ」

 猿が始めてここに来たのも、今頃みたいな寒い日であった。そのことを今、六郎は思い出していた。するとそれからの二年の歳月が、捩(よじ)れたフィルムを一気にたぐり上げるように、触感を伴って突然六郎によみがえってきた。背筋に忍び入る夕昏(ゆうぐれ)の寒気をかんじながら、彼はなぜともなく手を伸ばし、丸めた原稿の端で、鉄柵(てつさく)をぐりぐりつついてみた。その六郎の動作を、猿は前と同じ眼付きでちょっとの間眺めていた。そしてゆっくりと腰を浮かしながら、いきなり口角の筋肉をゆるめ、白い歯を出して、瞬間にある表情をつくった。歯のうしろに、濡れた赤い舌が、ちろちろと動いていた。猿はそのまま椅子からずり落ちて後向きになり、三本肢で止り木の根元に、ひょいひょいとうつって行った。

 (あの表情だな)

 六郎はふと身慄いしながら、寒い檻の前をはなれた。あの変な表情を、この猿の顔に見るのも、つい近頃からのことである。以前には、この猿にはなかった。表情、というよりも、なにかが脱落したような、顔面筋肉の弛緩(しかん)に近かった。しかしその中に、六郎は何時からか、ある奇妙な笑いの翳を嗅ぎあてていた。奇妙な、強いて言えば、Xの笑い、といったような感じを。笑いに似かよったこの弛緩は、しかし他の驚愕とか恐怖とか憎悪などの表情と違って、外界に反応することで、この猿面に生起するのではないらしかった。そこと没交渉に生れ、没交渉に消えて行くもののようであった。それ故にこそ、笑い、という感じに、これは酷似していたのであったが。――

「二ヵ月。六十日、か。ふん」

 縁に上り、火の気のない部屋の真中につっ立ち、しばらくして六郎は呟いた。今日二瓶が持ってきた用件のことを、彼は考えていたのである。向う二カ月の間に、長篇童話を一篇書くこと。完成したその童話を、二瓶が手を入れて、ある児童出版社から上梓すること。二瓶の申し出はこうであった。二瓶はこの用件を、先刻の庭先の雑談の終りに、普通の語調で切り出していた。その何気ない調子が、かえって効果を計算した言い方を感じさせた。

「ねえ。やってみないかねえ」二瓶はすこしふくみ声になって、うながすようにそう言った。「もっとも代作だから、厭だろうけれどね」

「いや、それは、何でもないんだが――」

「材料は僕が提供してもいいんだよ。家に帰れば、いろいろあるんだから」

 六郎はただ曖昧に笑っていた。しかし二瓶はそれを、承諾と取ったに違いなかった。いつも二瓶の依頼や慫慂(しょうよう)を、六郎は今までそうした態度で果していたのだから。――二瓶が提出した条件は、割によかった。六郎が金に困っているのは事実だったし、それを知り抜いたような二瓶の条件の出し方であった。しかしそのことはどうでもよかった。また、どちらでもよかった。引受ければ金になるし、断れば金にならない。そのことが頭の表面を、そんな形で擦過(さっか)しただけであったが、ただその申し出の中で、向う二ヵ月という時日の限定の仕方が、へんな焮衝(きんしょう)みたいな感じとなって、じかに胸に貼りついてくるのを彼は意識した。なにか脅やかすような響きをもつ低音部を、その感じは伴っていた。シリーズ物になっているから、時日は絶対に延ばせないという、二瓶の説明であった。[やぶちゃん注:「焮衝」体の一局部が赤く腫れ、熱をもって痛むこと。炎症。]

「ギリギリ。ギリギリなんだよ。〆切りがね」

「ギリギリ、ね」

 分裂病患者の反響症状のように、六郎は唇だけ動かして、そう復唱した。この二瓶にも今までに、相当借金がかさんでいることを、その時ちらと六郎は思い出していた。前に心に貼りついてきたものと、もちろんこれはすこしも関連ないことではあったが。――[やぶちゃん注:「分裂病」統合失調症の旧名。]

(引受けてやってもいいな)火の気のない部屋に立ちすくんで、六郎はふと真面目にそう考えた。そう考えたことで、無抵抗におちた自分の姿勢を、六郎は同時にありありと感知した。彼は急に身体を動かして、やや乱暴に障子を引きあけ、足を踏み入れた。そこは台所になっていた。(――しかし先刻あいつは、おれのことについて、とにかく安定していると言ったが、あれはどういうつもりで言ったのだろう。何が暗手しているのだろう。それとも、おれのことではなかったったのかな)

 台所では、テツが炊事をしていた。しゃがんだまま、無感動な顔をちらと振りむけた。

「何をわらっていらっしゃるの」

「何もわらってやしないよ」

 六郎の眼はなんとなく、猿の食餌(しょくじ)になりそうな残滓(ざんし)を求めて、そこらを動いた。台所に入るたびに、その動作が彼の習慣になっていた。狭い台所には、味噌の匂いがただよっている。そして竃(かまど)の鍋がしきりに鳴っていた。しかし湯気は出ていない。カラニタチをやってるな、と六郎は思う。味噌のかたまりは、水に溶いて火にかけると、まだ煮え立たないうちから、ゴウゴウと沸騰するような音を立てる。それを味噌の「空煮立ち」と呼ぶのだと、六郎はテツからこの間教わった。その発音の仕方には、ある感じがあった。煮えてもいないのに、煮えたような音をたてるとは、何ごとだろう。

 この味噌汁という飲物を、六郎はそう嫌いではなかったが、またあまり好きでもなかった。しかしこのカラニタチという言葉は、軽噪(けいそう)な舌ざわりを伴って、それ以来ときどき、ひとりごとの場合などに、ふと彼の口にのぼってくることがあった。丸めた童話原稿をそのまま、竃の脇のたきつけ籠に放りこみながら、六郎はテツの後姿に訊ねた。

「鍋島は金を持ってきたかしら。前月分の」

「ええ。おととい」

「何か言ってはしなかった?」

「いえ。別段」[やぶちゃん注:「軽噪」軽薄に燥(はしゃ)ぐこと。]

 竃の鍋がその時、湯気をかすかに立て始めた。鍋の下の、竃のなかでは、薪火がしずかに燃えていた。焰はちろちろと分裂しながら、透明に上昇していた。すすけて狭い台所の、そこだけに揺れ動く火影は、この世の重量感をもたぬ、あざやかな非現実的な明るさをそこにひととき点じていた。六郎はその火の色をまっすぐに見ていた。そこに燃え上るものの色どりは、なぜかその時、旅への誘いをつよく彼に感じさせた。澄明な感動をともなって、それは突然彼に来た。その誘いかけは、しかし磅礴(ほうはく)としたひろがりでなく、鮮烈な色や音や匂いをそなえた実体として、いきなり彼にぶっつかってきた。あの磯の特有な匂い、泡立つ波の音、島や雲の形、その海面や砂丘や崖などの色。そこらを強く照りつける、ぎらぎらと灼熱(しゃくねつ)した太陽。そしてその風物の間に、動いたり走ったりする人々の姿なども。それらが一瞬間、確かな手ごたえを持つマスとして、はげしく胸をこすり上げてくるのを、六郎は感じた。それは彼の記憶の堆積(たいせき)のそこに沈んでいた、かつての夏日のあらあらしい風景であった。そしてそこでは、吹いてくる風すらも、ひりひりするような切ない感覚を、彼の皮膚に伝えていたのだが。――しかし六郎は急に我にかえったように首をふって、火の色からそっと視線をそらした。台所の揚板のつめたさが、足袋(たび)の破れを通して、じかに足裏にしみ入ってきた。むこう向きにしゃがんだテツの姿に、六郎はぼんやりと眼をおとした。テツは薪に手を伸ばすために、軀をななめに捩(よじ)りながら、思い出したように言った。[やぶちゃん注:「あの磯の特有な匂い、泡立つ波の音、島や雲の形、その海面や砂丘や崖などの色。そこらを強く照りつける、ぎらぎらと灼熱(しゃくねつ)した太陽。そしてその風物の間に、動いたり走ったりする人々の姿なども」ここが最初に指摘した「基地隊」の追想と直関連する戦時中の記憶のフラッシュ・バックである。梅崎春生が終戦を迎えた桜島での実体験(「桜島」及び「幻化」参照。リンク先は孰れも私のPDF縦書版オリジナル注附き。個別のブログ版は「桜島」はこちらで、「幻化」はこちら)がオーバー・ラップするものの、これは未完の本篇の最後まで、具体には示されない。本篇の続篇が書かれなかったことは、まことに残念で、或いは、「幻化」とは全く別の、彼の書きたかった特異な大作となった可能性も強く感じられるからである。

「そう言えば、鍋島さんも風邪のようだった。大きなマスクなどかけて」

「わるい風邪がはやってるようだね、近頃」

「カマドの餌はとってありますよ。流し板の下に」[やぶちゃん注:「磅礴」交じり合って一つになって広がっていること。「マス」mass。塊り。集合体。]

 テツは黒っぽい袷(あわせ)に、臙脂(えんじ)色の半幅帯を無造作にしめていた。帯の端がすこし垂れて、軀の捩りに応じてゆるく揺れていた。テツは冬でも、そう厚着はしなかった。寒さの感じには鈍いふうであった。元の姿勢にもどると、竃をのぞくように背を曲げながら、テツは薪をあたらしく押しこんだ。その動きとともに、ひとつの質量としてのテツの肉体が、黒っぽい袷のなかに妙にはっきり感じられた。薪がすこしいぶって、白い煙をはき出してきた。

「今来てたのは、二瓶さん?」

 火色にそまったテツの手の動きを、六郎は見るだけの視線で眺めていた。薪をつき動かすテツの手首は、微妙にしなやかに屈折していた。その手首の動きは、ほとんど骨というものを感じさせなかった。

「そう」

 手首にだけでなく、テツの肉体のすべてに、どことなくその感じはあった。骨格が年齢と共に硬化しないで、子供の頃の細さと柔らかさをそのまま保っている。そういう印象であった。肥ってはいなかったが、肉づきは決して貧しくなかった。部分的には豊かでさえあった。そしてどんなに粗食しても、あるいは絶食をしても、瘦せたり衰えたりしないものが、この身体にはあった。寒さや暑さに平気な感覚も、ひとつはこの生理に通じているようであった。水仕事しても、さほど手も荒れない。皮膚はいくらか浅黒く、またいくらか常人より体温が低い。その皮膚の下をはしる、人造バターみたいな無機質なうすい脂肪層を、それは時々六郎に想像させた。テツはたしか二十五歳になっていたが、ふつうその年齢よりはずっと若く見られていた。

「二瓶さんって、ちかごろ金廻りがよさそうね」

「そうらしいね。なぜ」

 腰を浮かせ、半ばふき立った鍋の蓋をとりながら、テツはちらとこちらを見た。

「ときどき、酔っぱらって帰る、という話を聞いたもの。配給所で」

「ああ。――それは昔からだろう」

「――部屋を建増しする、そんな話も出ていた。よく聞かなかったけれど」[やぶちゃん注:「配給所」戦後復興期には、戦前の配給制度が、米穀などの一部で、一時期まで残っていた。本篇の発表は昭和二五(一九五〇)年であるが、ウィキの「配給(物資)」によれば、酒はこの前年の昭和二十四年まで、衣料は昭和二十五年まで、『切符による配給が続けられた』とあり、また、検索したところ、「東京都中央区役所」公式サイト内の「平成20年度 戦中・戦後の食糧事情と配給制度」の「テーマ1:配給制度・切符制度一覧・配給切符」に『主要食糧選択購入切符(昭和26年発行)』という画像(拡大出来ないのが残念)がある。]

 テツの表情には、動きがすくない。表情を殺しているのではなく、もともとそんな感じの顔立ちである。薄い眉毛。大きな黒瞳(くろめ)。眼と眼の距離がぐっとひらいている。なにか未熟な童女的な稚さが、眼鼻の配置やその口元に、どことなく残っている。それは体付きの印象にも共通している。テツを年齢よりも若く見せるのは、先ずその感じであった。また逆に言えば、稚い形のまま成熟したという印象が、テツの全体にひとつのアクセントを与えていた。だから他の女には欠点となるようなところが、テツにとってはむしろ妙な特長になっていた。黒い袷に包まれたその背部を見おろしながら、それに話しかけるともなく、六郎は低く呟(つぶや)いた。

「建増しと言えば、鍋島の家もまだまだらしいな。大変だな、あの男も」

 やがて鍋が煮え立って、それを竃(かまど)からとりおろすために、テツの手や軀が急に生き生きと動いた。焰を前にしているので、その身体の動きのうすい影が、台所いっぱいに淡く揺れた。味噌(みそ)の匂いがつよくただよった。

 その匂いのなかで、テツの肩や腰の線の動きに、ふと六郎の眼は吸われていた。それは一瞬、探るような視線となった。

 ――それはどんなきっかけだったかも覚えはない。いつの時期からかの記憶もない。テツのこの撓(しな)やかな肉体に、なにか異質のものが投げてくる陰影を、いつか六郎はうすうすと感じ始めていた。ほとんどとらえ難いような、へんに茫漠とした翳りが、何時ごろからか、テツの身体のどこかに、ぼんやりとただよってきている。それは儚(はか)ないひらめきや幽(かす)かなたゆたいとして、どうかしたはずみに、ふと彼の触覚や嗅覚などに訴えてきた。しかしその異質なものの実体は、彼の知覚がとどく彼方のうす暗がりにじっとひそみ、未だその姿をあらわさない。輪廓すらもはっきり見せない。しかしそこにひそむものが、どこの誰かは判らないにしても、たしかに自分とは違う別の「男」であることを、生物の本能みたいなもので、やがて六郎は漠然と感知していた。どんな「男」かが、何時頃からか、このテツの肉体を訪れている。それがテツの肉体のどこかに、ふしぎな翳を射しかけている。――六郎にうすうすと触れてくるのは、ただその感じであった。そしてそれはまだ不確かな感じだけに止まっていた。その「男」がどんな相貌をもち、どんな肉体を持っているのか、それを推定する現実の根拠は、まだ彼のどこにもなかった。しかし彼は何時となく、意識のどこかでぼんやりと、知っている男の一人一人を、次々にその「男」の像にあてはめて眺めていた。そしてそこに生じる実感の濃淡から、自然といくつかの幻影が、六郎に迫くかすかに揺れ動いていた。そして意識のかなたに懸るその薄れた幻燈画のなかから、時折どうかした調子で、テツの像だけがふいに鮮明に浮きあがり、急速度に拡大し接近してくるのを、六郎は感じることがあった。それは閃(ひらめ)きはしる矢のように、瞬間に彼に近接し、そして遠ざかって行った。そんな時のテツの像は、なにかひりひりするようなものを、そのどこかに湛えていた。そしてまた、汚れれば汚れる程それだけ新しくなるような何かが、その何かの匂いのようなものが、同時にそこに感じられた。そしてこの感じは、現実のテツのいくぶん奇妙な生理と、部分的にはひどく食い違いながら、また別の部分ではぴったりと重なっていた。

 

      

 

 さむい日が、永いこと続いた。

 荒れた庭のいたるところに、はがねのような霜柱が、毎朝おびただしく立った。そして午近くまで、赤い表土を持ちあげて、その陰で白くつめたく光っていた。猿の檻(おり)の周辺にも、それらは地面に粗(あら)い亀裂をつくり、背丈をそろえた短い刃となって、ぎっしりと押し並んでいた。毎朝ほぼ同じ時刻に、猿に餌をやるために、小野六郎は庭をよこぎって、肩をすくめながら檻の方にあるいてゆく。下駄の歯のしたで、不規則な霜柱の群落は、その度にしろく砕け散って、Crash Crashと音をたてた。毎朝の庭のゆききに、乱れ砕けるその音を、ことあたらしく確めるように、六郎はいつもゆっくり歩を運んだ。昨日も一昨日もこうだった、と六郎は思う。その期待で踏みおろす、膝や足首の感じ。下駄が凍土に触れたとたん、足指や蹠(あしうら)につたわる霜柱の刃の堅くかすかな抵抗。ぐっと踏みこむ。ひとつのものが、たちまち数十数百に分散する、そのふしぎに錯雑した感触。意味もない、ただそれだけの短い潰音。そして折れ砕け、凍土に散乱した氷片の、つめたい色や形や光など。――記憶にあとを引かない、その瞬間に了(おわ)る、そのゆえに澄明な、閃光的な快感が、そこにはある。台所から庭へ廻り、檻の前に立つ。餌箱に投げ入れて、また庭を横切ってゆっくり戻ってくる。早朝の庭の一往復に、一歩一歩のはかない悦びを、こんな感じで六郎はひそかに愉(たのし)んでいた。使用する下駄は、穿(は)き古して歯もすり減った、杉の庭下駄である。霜柱を踏みしだく毎に、赤土をふくんだ氷片が飛びついて、それがそのまま乾くので、木目の浮き出た下駄の台は、常にざらざらと赤黒くよごれていた。そこに毎朝つめたく素足を載せるとき、いつも奇妙に不協和な哀感が、足裏からじわじわと六郎の腰のへんに這いのぼった。[やぶちゃん注:「潰音」ルビ無しなので、「かいおん」と読んでおく。「澄明」「ちょうめい」。]

 カマドの餌箱には、大根の葉や芋の皮がひからびたまま、むなしく積み重なっていた。ここ暫くつづいた寒気のせいか、冬眠に似た鈍麻の状態が、カマドの心身におちているようであった。赤い袖無しの下で、灰白色の背をまるく曲げ、手脚をちいさく縮めて、ペンキの剝げた椅子の上や止り木の枝などに、一日中じっとうずくまっている。うすぐろい瞼の皮は、おおむね閉じられたまま、六郎が檻に近づいても、反射的に薄眼をあけるだけで、自分から軀を動かそうとする気配はほとんどなかった。前日に投げ入れた餌が、そっくりそのまま残っている。手をつけた様子もない。そのままの量と形で、干からびたり、凍ったりしている。それにも拘らず、台所の残滓(ざんし)を手にして、毎朝ほぼ同じ時刻に、同じ表情で、六郎は檻の前に立つ。餌箱の内の堆積に、あたらしく今日の分を投げ入れながら、ちぢこまったカマドの軀幹に、しずかに執拗に視線を止めている。

(まるで剝製みたいだな)

(胎児の恰好(かっこう)にも似ているな)

 そんなことを六郎は思う。そしてまた霜柱を踏みながら、ゆっくりと母屋へ戻ってくる。ひとつのことを完了した、そんな安心の表情が、彼の顔をぼんやりと弛(ゆる)ませている。――

 餌箱にたまる葉や皮は、五六日目毎にすっかり掃除して、空にしてしまう。また翌朝から、一定量ずつ投げ入れてゆく。カマドがそれを食べない限り、これは無益な繰り返しであった。しかしこの繰り返しは、今はカマドの食慾と関係なく、しきたりじみた行事として、こうして六郎の毎朝にあった。その時刻がくると、なにか片付かないような気分になって、六郎は台所の残滓をあつめ始める。眼に見えない掌に背を押されて、霜の庭に出る。習慣化したこの日課は、つまり当初のものと一端を接したまま、他端は漠として遊離し、しかもそれ自身で、ヒドラのように単純に生き始めていた。いつの間にかその腔内に包まれ、そのなかで。オートマティックに動いている自分の姿を、時に六郎はありありと想った。そしてその自分を包む腔壁の、ぶわぶわした、手ごたえのない、ぶきみな分厚さをも。――盲虫のように、その内で生きている自分自身にたいして、しばしば六郎は、物憂(う)いような安堵感と同時に、ある種の笑いが頰の筋肉にはしり過ぎるのを感じた。Xの笑い、とでも言う他ない、原形とのつながりを失って、そのまま散大したような、不安定なたわけた笑いを。そしてそれは、檻の中のカマドの顔に泛(うか)ぶあの笑いと、どこかで類似しているようであった。[やぶちゃん注:「ヒドラ」刺胞動物門ヒドロ虫綱花クラゲ目ヒドラ科 Hydridae に属するヒドラ属 Hydra 及びエヒドラ属 Pelmatohydra に属する生物群の総称。注意されたいのは、狭義のヒドラであるこの二属は総てが淡水産で、海産は存在しないことである。古いが、私の「生物學講話 丘淺次郎 四 寄生と共棲 五 共棲~(1)」、及び、図の出る「生物學講話 丘淺次郎 第九章 生殖の方法 四 芽生 ヒドラ」を参照されたい。「盲虫」ルビがないが、「めくらむし」と訓じておく。「盲腸」と「虫垂」の混淆した造語であるとすれば、「もうちゅう」でもおかしくはない。前者の場合、クモの一グループで、フラフラ歩く私の甚だ生理的嫌いな、節足動物門鋏角亜門蛛形(クモガタ)綱ザトウムシ目 Opilionesの和名は「座頭虫」で、別名「メクラグモ(盲蜘蛛)」(これは差別異名として研究者は殆んど使わない)とも言うが、以上の叙述は本種を指しているとは思われない。寧ろ、前に言った――盲腸のように、人体の中で無益な存在として盲目の虫のようにあるそれ――を指しているという方が極めて腑には落ちる。]

「鍋島が引取って呉れないなら――」それを意識するたびに、六郎は本気でかんがえたりした。「この猿公も、檻から放してやろうかな」

 発作的にそう考えてみるだけで、手を下してやるまでには、もちろん気持が動かなかった。扉をあけ放せば、それで済む。そうと知ってはいても、それを実行するまでには、ある踏切りみたいなものを越えねばならない。どんな形の踏切りだろう。それすらはっきり判らないのに、その予感の重さだけで、彼の内側のものは、みるみるうちに萎(しな)び縮んでしまうのだ。寒さに触れてきゅっとちぢこまる虫の体のように。――その姿勢のまま、待っていること。何かがお前の肩をたたきに来るまで、じっとしていること。と、六郎は自分に言い聞かせ、胸の襞(ひだ)に切なく擦過(さっか)してくるものを、しきりになだめにかかる。しかしこの言いくるめに対しても、れいのXの笑いが、六郎の頰をうっかり弛(ゆる)ませてしまうのだが。――かすかな便意を怺(こら)えているような、そんな感じさえなければ、今のこの状態は、爽快だとは言えないだろうが、なにも居心地悪くはないじゃないか。どこかが痳(しび)れたような感じも、それはそれで、気にとめなければいい。そうすれば、むしろ確かな平安の風情さえ、この日常にはあるじゃないか。たとえそれが、色褪(あ)せた剝製の平安であるとしても。……

 来る日も来る日も、こうして寒さがつづいた。三月に入っても、気候はほとんど動かなかった。檻の檐(のき)から、いくつも氷柱(つらら)が垂れたりした。そのような張りつめた強情な寒気も、三月も半ば過ぎてからついに保ち切れなくなったように、ゆるみ立つ気配を見せ始めた。へんに湿気の多い、曖昧(あいまい)な天候が四五日つづいた。ある夜半から、にわかに大風が吹き起って、翌日いっぱい、母屋の軒のこわれかけた樋(とい)の端を、ひっきりなしに鳴らし続けていた。風が止むと、灰を吹き散らしたような雨が、しずかに地面におちてきた。二日あまり音なく降りつづいて、やっとその雨があがったあと、こんどは空気が急速に乾き始めた。火災警報が出た。

 そして突然、春がきた。

 庭の感じが妙に平らだと思ったら、気がついて見ると、あの霜柱の群がいつの間にか、すっかり地表から姿を消していた。しめり気を含んだ庭土のあちこちに、もう草の下萠(も)えが始まっていた。そして乏しい庭樹のたたずまいにも、やがて生色のよみがえる気配がうごき始めた。先ず他の樹にさきがけて、冬中は枯色にくすんでいたサルスペリの木が、その彎曲(わんきょく)した幹の背に、絹靴下をはいた小娘の膝頭のような、妙にいやらしい艶をのせてきた。と思うと、その枝々も一斉に、いつか脂をうっすらと皮肌に滲ませ、ぬめぬめと光りながら、それぞれの方向にくねり伸びていた。縁側から、庭先から、ふとその色合いを眼にする時、なにか嘔きたくなるような感覚が、ふいに六郎の咽喉(のど)の奥をはしったりした。不毛の色情、そんなものをその肌理(きめ)は感じさせた。そのサルスベリにだけでなく、庭中に音無くざわめき立つすべてにたいしても、時に六郎は、じわじわと肌な逆撫でされるような、かすかに不快ないらだちを感じた。理由もなにもない。しらじらとしたこの抵抗感は、その時の気持の上からではなく、もっと肉体的な、生理の奥から発するように思われた。それはやがて節々の疲労をともなって、けだるく六郎の毎日にかぶさってきた。

 身体の底にしゃがんでいる、なにか根元的な生理の破調を、そして六郎はぼんやりと自覚した。それはまだ、どの筋肉、どの器官にも、症状としては出てこないが、そこらのどこかにじっと潜んでいるのは確かであった。自分の経験から、六郎はそれをよく知っていた。気侯のかわり目を、季節の四つの関節とすれば、その第一関節にあたる今の気侯は、例年かならず六郎の身体に、なにかのわるい影響をあたえていた。ずっと少年の頃から。――その影響も、年によって大小があって、はっきり病気となって出てくることもあるし、どこか具合がわるいという程度の、ほのかな病感だけで通り過ぎることもあった。季節にまける、たとえば夏まけみたいに、六郎はこの季節にまけるのかも知れなかった。だからこの季節の大気に触れると、かならず六郎は自分の肉体の奥底に、感じまいとしても、得体の知れぬ不快なかたまりを感じてくる。かたまりと言っても、始めはまだ形を成さぬ、ただ鈍く押しつけてくる感じだけなのだが。――しかしその感じのなかに、漠とした病気の予覚が、今年もすでに彼にあった。

 (いずれどこかに、出てくるだろう)

 朝の寝覚めなどに、身体のあちこちの部分を、確めて見るように、掌や指先で押しながら、六郎はそう思う。昨年は妙な熱病だったし、一昨年はたしか黄疸(おうだん)だった。今年はどこに来るだろう。そう考えると、見知らぬ人を駅に待つような、かすかないらだちと、ほのかな期待が、六郎の胸を揺ってくる。来るなら、早く来い。病気を待ち望む、そんな倒錯した気持にも、彼はおちていた。[やぶちゃん注:ここで主人公小野六郎の近過去に示される病気は、発表の昭和二五(一九五〇)年当時の梅崎春生の病歴とは一致はしないと思うが、本篇の冒頭からずっと続く異様な対象の凝視と、それに対する拘った連想と観念的連合(異常な執着)は、既に読者はちょっと普通でない印象を持つであろう。これはある意味、ノイローゼや双極性障害(躁鬱病)、及び、統合失調症(但し、梅崎春生の場合はこの疾患の罹患可能性は中年期から没年にかけて以後では全く認められないと考える)の初期に見られる関係妄想にかなり近い。しかも、梅崎春生の小説には、こうした異様な感じを与える関係妄想的雰囲気や認識が、主人公等の中にも、頻繁に現れるのである。既に小説「その夜のこと」と、その続編「冬の虹」PDF『梅崎春生「その夜のこと」+続編「冬の虹」合冊縦書ルビ版(オリジナル注附)』も作った)など、幾つかの作品で語られているが、春生は東京帝大国文科に入学した翌年昭和一一(一九三六)年(満二十二歳前後)に、下宿の雇われていた老婆を椅子で暴行を加えて負傷させ、一週間ほど留置場に拘留された経験があるが、現在、これは『幻聴による被害妄想』(底本全集別巻の年譜)とし、加えて、入学以来、『多少』、『鬱病気味』(昭和六一(一九八六)年沖積舎刊中山正義「梅崎春生――「桜島」から「幻化」への道程」末尾年譜)とも推定されている。この事件の事実内容は詳しく知ることが出来ないが、私は双極性障害というよりも、かなり強い病的な関係妄想によるもので、強迫神経症の重度の様態に近いと私は考えている。なお、本篇以後では、晩年の昭和三三(一九五八)年、顔面痙攣を伴うような高血圧の発症が始まり、『いつ発作が起きるかという不安と緊張で(このことが血圧に悪い)だんだん外出するのがいやになり、ことに独りで歩くのがこわくなって来た。他人に会うのもいやで、厭人感がつのって来る。一日の中一時間ほど仕事をして、あとはベッドに横になり、うつらうつらとしている。考えていることは「死」であった』(梅崎春生「私のノイローゼ闘病記」)とあり、精神科の医師からも『鬱状態(不安神経症状)』(前掲中山氏著)と告げられ、翌昭和三十四年の五月に精神病院に入院し、持続睡眠療法を受けている(エッセイ「神経科病室にて」参照)。それから四年後の昭和三十八年八月、蓼科の別荘で吐血し、同年十二月に入院、翌昭和三十九年一月に肝臓癌の疑いで東大病院に入院し、昭和四〇(一九六五)年七月十九日に急逝した。満五十歳で、死因は肝硬変であった。]

 季節のそんな推移につれて、カマドの食慾もみるみる回復してくるらしかった。投入れた餌の減りに比例して、排泄物の量が、眼にみえて増えてきた。それらは堅い床のあちこちに、黒くころころと散乱していた。冬の間はうすれていた、猿特有のなまぐさくむれた臭気が、やがて磅礴(ほうはく)と檻に立ちかえってきた。その臭気のなかに、何よりも六郎は、今の季節の表情をつよく感じた。そしてそれに繫(つなが)る彼自身のなかの、ぼんやりした生理の不調をも。――その感じの芯(しん)を嗅ぎあてるように、六郎は檻の前に佇(たたず)んで、長いこと鼻を鳴らしていたりした。

「――この匂いだったかな。こうだったなあ」

 沈丁花(じんちょうげ)が道にかおり、コブシが白い花をつける頃から、やがて春の花々は一斉にひらき、それらの花粉が風にのってただようらしく、大気がしっとりと重さを加えてきた。すると六郎は急に、右の奥歯が痛み出した。

 一昼夜たつと、それはもう我慢できない程、ずきずきと疼(うず)きわたってきた。そしてその部分の頰の肉が腫脹(しゅちょう)して、一寸位の厚さになった。

「第一臼歯。下側の第一臼歯ですな、これは。人間の歯の中隊長です」

 痛む歯の名を訊ねたとき、顔の四角な実直そうな歯科医は、真面目な顔でそう答えた。そしてピンセットの先で、その歯をこつこつと叩いた。音がにぶく歯の根にひびいた。椅子に顔をあおむけて見上げているので、歯科医の肩がことのほか高く感じられる。ピンセットをはさむ指はフォルマリンの匂いがした。

「――そして、これが第二臼歯。奥にあるのが、親しらず――」

 次々の歯の孔に、ピンセットの先が撓(しな)うのが判った。口を大きく開いたまま、顔を固定しているから、動かせるのは眼球だけであった。六郎はしぜんと自分の眼が、しばられた犬の眼のようになるのを感じた。落着かぬまなざしで、六郎は医師の顔を見上げたり、窓外の柿の若葉に視線をうつしたり、医師の手がっぎつぎ取上げる道具類を、ちらと盗み見たりした。医師の姿勢がかわる度に、ガリガリと歯をけずる器械や、妙な匂いで噴出する空気や、ピンセットや先のとがった金属棒が、代る代る口の中に出入して、痛む歯のへんを縦横にかき廻した。そしてやっとのことで、一応の治療がすんだ。あまり長いこと口をあけていたので、閉じようとすると、顎骨がそのつけ根のところで、ごくりと不気味な音を立てた。

「いずれこいつは、抜かねばなりませんでしょうな」手を洗いながら、職業的な平気さで歯科医は言った。「しかし痛みはこれで、一応おさまる筈です」

「ほっとくと、どうなるんです?」

「多分また、痛みがくるでしょう。根が駄目になっているんですから。直ぐ抜いてあげてもよろしいが、しかし抜くのはいつでも抜けるんだから、その前に、上側の虫歯の治療をやったがいいでしょう。そして様子を見て、今の歯を抜くことにします」

「――抜くのは、痛いですか」頰を押えて椅子から立ちながら、ふくみ声で六郎は訊(たづ)ねた。

「いや。カンタンです」歯科医は四角な顎を動かして、いやにはっきりと答えた。

 しかし、その痛さがカンタンなのか、ひっこ抜くのがカンタンなのか、その口ぶりでは判然しなかった。六郎はだまった。曖昧な顔つきになりながら、しぶしぶ金入れを取出して、治療代を支払った。そして心の中でかんがえた。

(――引抜くとしても、それで今年の分が済むなら、まあ大したことだ)

 二日か三日に一度、この歯科医にかよって、脱ぎ捨てられた古靴のように無感動に口をあけて、その何分間かを辛抱すればいい。六郎は自分にそう言い聞かせ、すこしは安心した気分にもなった。漠としてかぶさっていたものが、とにかく形をなして、一応片付いた感じであった。しかし歯科医の説明では、第一臼歯という歯は、その歯自身の傷みだけでなく、内臓や器官の弱まりに関係あることが多い、という話であった。その言葉は、ちょっとした不安の根となって、六郎の胸にわだかまっていた。彼はときどき指を口に入れて、病んだその歯の形を探ってみた。その度に奇妙な感触が、指の腹につたわる。病歯は琺瑯(ほうろう)質の周辺がぎざぎざにとがって、まんなかに孔をふかく陥没させていた。痛みは一応おさまっていたけれども、小指でその孔を押えてみると、痛みの前兆みたいなものが、歯根のあたりにためらい動くようであった。歯齦(はぐき)にも、にぶい重さがあった。そしてこの歯だけでなく、他の歯も全体的に浮いている感じであった。どの歯かがまた、痛み出すかも知れない。歯齦の不確かな手ごたえが、そんな予感を彼に持たせた。[やぶちゃん注:「歯齦」は正しくは「しぎん」と読む。歯肉・歯茎(はぐき)の旧称。]

 三月末のある日、六郎はとつぜん三十三歳になった。

 年齢のあたらしい算え方で、そうなるのであったが、その日まで六郎は、そのことをすっかり忘れていた。その夕方、鍋島鈴子がやってきた。縁側に鏡を据(す)えて、六郎は鬚(ひげ)をそっていたが、鏡面のどこかに緑がひらめくと思った瞬間、痛みの伝わるような速さで、鍋島鈴子の全身を彼は感知した。手を休めてふりむいた時、長者門をくぐって、鈴子の姿が庭に入ってくるところであった。鈴子は紺のスカートに、いつもの緑色のセーターを着けていた。そしてその腕に、重そうに一升瓶をかかえていた。黄昏(たそがれ)の色がふかいので、白い顔が花のように、そこだけが非現実的に近づいてきた。故もなく、畏(おそ)れに似た感情が、神経的に彼のなかにはしった。[やぶちゃん注:「三月末のある日、六郎はとつぜん三十三歳になった」これは年齢の計算方法を定める戦後日本の法務省所管の法律「年齢のとなえ方に関する法律」が施行をされたことを指す。これは年齢の数え方について、それまでの数え年から満年齢に変更するために制定されたもので、昭和二四(一九四九)年五月二十四日公布で、翌昭和二五(一九五〇)年一月一日施行である。

「長者門」通常、古い屋敷の豪勢な長屋門を指すが、ここは単に正面玄関の門柱を指している。所謂、台所や風呂の側の勝手口や、庭などにある木戸などの裏口に対して言っているに過ぎないが、梅崎春生は、この見栄を張った大層な言い方が好みであり、他作品でも見られる。]

「鍋島が、持ってけと言ったの、これ」

 あいさつを済ますと、鈴子は持っていた酒瓶を、そっと縁側に押しやった。ふたたびカミソリをあてながら、六郎は横眼でそれをちらちらながめていた。戸惑ったような顔になるのが、自分でも判った。それを押えるように、カミソリの刃が頰の皮に、じゃりじゃりと粗い音をたてた。

「ありがとう」少し経って彼は言った。あとはひとり言のように「――でも、鍋島は、どんな趣向なのかな。こんなものを、僕によこすなんて」

「あなたの、誕生日なんでしょう、今日は」

 カミソリを持つ手が、ふと止った。そう言えばおれの誕生日だった、と彼は気付いていた。三十三歳。自分でも忘れていた今日の日を、鍋島がちゃんと憶えている。そのことが妙にからみつくような感じとなって、六郎の語調を急に曖昧にさせた。[やぶちゃん注:年齢が突然、一つ若くなるという、あり得ない椿事を上手く扱ったシークエンスである。なお、梅崎春生の誕生日は大正四(一九一五)年二月十五日生まれ(従って、既に述べた通り、当時の梅崎春生は満三十五歳である)であるが、本篇の初回の公開が昭和二五(一九五〇)年四月号であったことから、アップ・トゥ・デイトにそれに合わせた(「二」相当の原稿はある程度、初回の時に草稿が出来ていたのであろう)ものであろうかと思われる。]

「――ヘえ。よく、覚えてるんだなあ」

 放心したような視線を鏡面にもどして、六郎はそう呟(つぶや)いた。そしてなぜとなく注意ぶかい手付きになって、ゆっくりカミソリを動かし始めた。鏡にうつる彼の顔は、ただ剃られるだけの表情をつくって、彼をじっと見守っていた。――鈴子はしずかに縁側から離れると、檻の前にしゃがんで、カマドの姿に眺め入るらしかった。視野の端にぼんやりそれを収めながら、だまって六郎は周到に刃をうごかしていた。やがて顎の裏まで克明に剃り終えると、石鹸ですこし硬(こわ)ばった顔のまま、六郎も庭へ降りで行った。むこうむきにしゃがんだ鈴子の姿は、薄明のなかで、何故かひどく疲れたものの感じをただよわせていた。ふと息苦しい気持におちながら、その後姿に、六郎は低声で話しかけた。[やぶちゃん注:「なぜとなく」ママ。と言っても、おかしくはないが、今はこうした言い方は使わないだろう。「低声」「ひきごえ」。]

「――鍋島も、元気なようですか」

「ええ」のろのろと立ち上りながら、鈴子はちらと白い顔をふりむけた。「あまり元気でもないようだわ」

「仕事がうまく行かないのかしら」

「ええ。何もかも」

 そして鈴子は投げ出すような短い笑い声をたてた。なめらかな頰にうかんだ笑くぼを、ある惨酷な感じで六郎はぬすみ見た。

「元気になりますよ。あの男のことだから」

「どうかしら。――あの人も、ずいぶん変ったわ。この一二年で」

「変ったように見えるだけですよ」ふいに鈴子から眼をそらしながら、六郎はすこし乱れた声で呟いた。「もとと同じですよ」

「そうかしら。――そう言えば、貴方はすこしも変らないようね」無心な皮肉がそこにつよく響いた。六郎はすこしたじろいだ。「いつお会いしても同じ感じだわ。ふしぎね」

 ――やがで鈴子が帰った後、妙にけだるい気分におちながら、六郎は縁側に腰をおろしていた。病歯の対称の位置にある左の大臼歯に、かすかな疼(うず)きが感じられた。

 鈴子が置いて行った瓶には、芋焼酎がなみなみと入っていた。栓をぬくと、特有のあまい匂いが、ほのぼのと立ちのぼった。それは束の間の郷愁を、六郎の胸にかき立ててきた。田舎からわざわざ取寄せたものに違いなかった。

(それにしても――)瓶口に鼻をつけて、執拗(しつよう)にその香を嗅ぎながら、六郎は思った。(他人の誕生日を、よくあいつは知っているな)

 あの人もずいぶん変った、と先刻鈴子が言った時、六郎は現実の鍋島と会ったよりも、もっと歴然と、鍋島両介という男を実感した。鍋島両介という男の、容姿や挙動だけでなく、その内部にひそみ動く、ふしぎに暗い翳(かげ)のようなものまでも。――その瞬間を、今六郎は思い出していた。――その時の鈴子の声は、ひくく乾いていた。しかしそのすべすべした頰には、笑くぼがそのまま、白っぽく残っていたのだ。望遠レンズをのぞくように、その一瞬、六郎は自分の内のものが、一挙にそこに近まってゆくのを感じたのだが。――[やぶちゃん注:「今六郎」はママ。「今、六郎」とすべきところ。]

「両介は狩装束にて、か」

 思わずそんな呟きが出た。両介にたいしてか、鈴子にたいしてか、そんな疑似の接近を彼にうながしたものは、何だろう。そこにかかる不幸の形式を、六郎は今ありありと感知していた。

「……〽数万騎(すまんぎ)那須野を取りこめて草を分って狩りけるに。身を何と那須野の原に。顕れ出でしを狩人の。……」[やぶちゃん注:最後のそれは、謡曲「殺生石」のエンディングの地謡の章詞。この「狩人」の読みは、原拠では「かりびと」である。「殺生石」は五番目物の複式夢幻能で、五流で現行曲にある。作者不明であるが、日吉佐阿弥(さあみ)ともされる。玄翁和尚(げんのうおしょう:ワキ)が、供人(アイ狂言)を連れて那須野を通りかかると、飛ぶ鳥が大石の上に落ちるのを見る。呼びかけて出た女(前シテ)は、それは殺生石といって狐の執心だから近寄るなと警告し、美女となってインド・中国・日本の帝を悩ました昔話をして消える。和尚の授戒で大石は二つに割れ、中から本体を現した妖狐(後シテ)は、玉藻前(たまものまえ)に化けていたのを見破られ、逃げてきたこの原で退治されて執心の石となったことを演じるが、やがて和尚の法力に解脱して消え失せる。後シテを九尾の狐の冠を頂く官女の扮装とする演出もある。以上は小学館「日本大百科全書」に拠ったが、概ねの章詞はサイト「名古屋春栄会」のこちら、及び、小原隆夫氏のサイト内のこちらが読み易い。六郎の内面にある現実世界のあらゆる対象に対する執拗な拘り(特に自ら違和感を持ちながらの半肉感的・半性的な妄想的でフェェイシュなニュアンスを持つそれで、先のテツへの眼差しや、以下の「三」の冒頭にそれが強く感じられる)と、漠然とした死のカタストロフの予感がオーバー・ラップされてあるものと私には思われる。因みに、六郎がその前に呟く「両介は狩装束にて、か」という六郎の台詞の内の「両介は狩装束にて」は、正しく「殺生石」の章詞で、以上の「〽数万騎」の前にあり、さらにその前にシテの台詞で同じ「両介(リヨオスケ)は狩装束(カリシヨオゾク)にて」(所持する『新潮日本古典集成』の「謡曲集 中」(昭和六一(一九八六)年刊)に拠った)とある。ネット上の本謡曲の電子化では、中入のワキとアイの問答が、どのサイトのものも省略されているが、そこで過去の話がかなり具体に長く語られているのである。但し、それは本文の後半でもコンパクトに出てはいる。手っ取り早く言うと、小原隆夫氏の「殺生石」の冒頭の「玉藻前伝説」の項にあるように、美女「玉藻前」に耽溺した鳥羽院は、俄かに病いとなり、陰陽頭安部泰成を召し出して占わせたところ、「玉藻の前」が実は「九尾の狐」と判明し、彼女は消え失せるのだが、鳥羽院はそれを信じようとしなかったものの、自体の深刻さから、『妖孤が那須野に逃れたことを知った朝廷は、東国の武将上総介』(かずさのすけ)『と三浦介』(みうらのすけ)『に妖孤退治の勅を下し、八方の軍勢を遣わす』のである(「殺生石」本文の章詞にも結果して『その後』(のち)『勅使立つて』『綸旨なされ』と出る)。その後、紆余曲折があるが、二人の武将が鍛錬を尽くし、而して、再度、『妖孤退治に臨』み、遂に『両人は』『九尾の狐を射止めることに成功する』という過去の事実が示されるのである。さて、この台詞の「両介」とは、以上の通り、原謡曲本文では、その退治した名武将上総介と三浦介の「両介」の意なのである。それを六郎は、鍋島両介の名に洒落を掛けて、ぽつりと口に出したのである。梅崎春生の小説作法としては、「能」の予備知識なしには、到底、判りに得ないものであって、彼としては、かなり珍しい仕儀であるとは言える。但し、例えば、「猫の話」(単独PDF版)に唐突に出て、何の解説もない「詩経」の「国風」の一篇「蟋蟀」(しっしゅ)の二句「蟋蟀在堂 歳聿其莫」の超難解なケースもあることはある。なお、当該句については、私の『梅崎春生「猫の話」語注及び授業案』PDF)を参照されたい。

 

      

 

 沓(くつ)脱ぎから縁側にあがり、そのまま燈もともさず、小野六郎はしずかに片膝をたてて坐った。座蒲団をしかないので、冷えた板敷にふれて、脚の骨がごりごりと鳴った。そして六郎はしばらく、さっき鈴子が小走りに帰って行った長者門の方角を、ぼんやりと眺めていた。門のあたりから外にかけて、暮色が濃くただよい始めている。

 風がかすかに立って、南天の葉をひらひらと動かしてくる。

 やがて六郎は臂(ひじ)を伸ばし、鍋島両介から贈られた酒瓶を、膝もと近く引きよせた。透明な液体が瓶のなかで、ゆたゆた揺れるのが判る。手酌で湯呑茶碗になみなみとみたすと、彼は鼻の前でその匂いを確め、ゆっくりと一口含んでみた。芋焼酎特有の味と匂いが、口腔いっぱいにひろがってくる。なまぐさい後味をのこして、それは咽喉(のど)をすべりおちて行った。

「さっきは、妙な具合だったな」

 湯呑みを下に置きながら、六郎は思う。鍋島鈴子の頰の触感が、まだ六郎の唇の皮に、まざまざとのこっている。

 ――あの時鈴子は、短い驚きの叫びをたてて、顔を横にそむけたのだ。だから六郎の唇は、鈴子の唇にかぶさらずに、いきなりなめらかな頰につき当ってしまった。あの大きな笑くぼがうかぶ、頰のその部分に。六郎の両手に抱きすくめられて、鈴子の胸や胴が、緑の毛糸のセーターの下で、はげしくねじれ動いた。かなり長い時間だったような気がする。鈴子の頰の皮膚は、軟かくつめたかった。なめし皮にも似たその感触を、六郎はその間、自分の唇だけでなく、前歯の表面ででも確めていた、と思う。

「唇が割れて、歯が露われていた、とすれば」六郎はまた湯呑みをとり上げながら呟(つぶや)いた。「――おれはその時、わらっていたのかな?」

 その感じを顔の筋肉に呼びもどそうとして、六郎はうす暗がりの中で、ひとつの妙な表情を拵(こしら)えていた。そしてそのまま、湯呑みを唇にあてて、一息にかたむけた。密度のある液体が、また舌や咽喉(のど)に抵抗しながら、食道に流れおちて行く。しばらくして腸の部分部分に、熱感が追っかけるように走ってきた。

(おれはどう言うつもりだったのだろう?)

 猿の檻の前で、あの時六郎は、鈴子とむき合っていた。鍋島両介のことなどを、話し合っていたのだ。鈴子は片脚に重心をもたせ、ひどく疲れた感じで、そこに佇(た)っていた。そして何気ない会話にはさんで、投げやりな短い笑い声を立てたりした。その度に頰にうかぶ笑くぼの翳を、ある惨酷な感じで、六郎はぬすみ見たりしていたのだが。――そしてぽつんと会話がとぎれた。しばらく斜めにうつむいて、檻の猿を見ていた鈴子が、なにか言おうとして、ふいに顔を上げた。白い顔が眼の前で、花のように揺れた。ある衝動とともに、六郎は二三歩踏み出して、予行演習のようにぎごちなく、鈴子の体軀を抱きすくめようとした。短い叫びと一緒に、鈴子の上半身が六郎の腕の環のなかで、いきなりくねくねとよじれた。女の匂いがつよく。――その瞬間六郎は、自分を駆りたてた衝動と思ったものが、じつはどこかで計算され組み立てられた疑似の衝動であるらしいことを、はっきり感じてしまっていた。しかし彼は腕をとかず、鈴子のそむけた頰に、そのまま唇を押しつけて行った。そこにあるものを、とにかく確めよう、とするかのように。――

「条件は、そろっていた、と思ったんだがなあ」

 六郎はゆっくり立ち上って、電燈の位置をさがした。酔いがだるく下肢にきている。スイッチをひねると、四周にぼうと黄色い光がにじんでくる。近頃ひどく電圧が低下しているのだ。しかし六郎はわざとらしく、まぶしそうに目を細め、うす笑いの顔になりながら障子をあけて台所に入って行った。台所には、誰もいない。テツは昼頃から外出して、まだ戻ってこないのだ。どこに行ったのか、六郎も知らない。行先を知らせ合う習慣も、もとから二人の間にはなかったのだが。――暗い台所のすみで、六郎の手探る指にふれて、小鍋の蓋や戸棚の引手が、カタカタと音たてて鳴った。そこらでかすかに韮(にら)の匂いがした。

「条件もなにも、始めからなかったんだ」

 やがてまた縁側に戻ってきて、足をだるく投げ出しながら、六郎はそう考えた。条件と言っても、日が昏(く)れかかっていたとか、テツが不在であることとか、そんなことではなかった。急流で筏師(いかだし)が、材木から材木へ飛び移る、その瞬間の気息のようなもの。その類似のものがたしかに、あの時の自分にあった、と思う。しかしそれも、そんな気がした、というだけの話ではないのか。どうもそうらしい。たとえば味噌のカラニタチみたいな。――

(しかし、あの女の肩胛(けんこう)骨は、へんに大きかったな)

 なにかにがにがしい気がして、六郎はふたたび湯呑みに手を伸ばした。そしていま台所から探し出してきたビスケットの袋を、ざらざらと膝の上にあけた。見ると小さなビスケットはそれぞれ、象や鳥や猿の形につくってあった。片側に色砂糖をのせているやつもいる。そのひとつをつまんで、彼は口のなかに入れてみた。芋焼酎に溶けて、それは妙な感触を舌につたえてきた。歯科医が用いるセメントの味にも似ていた。薬品的な甘さが、いつまでも舌の根にのこる。六郎は無感動な顔付きで、丹念にひとつずつ口にほうりこみながら、その合い間に思い出したように、湯呑茶碗を唇にもって行った。旨さも不味(まず)さもない、ただ摂取(せっしゅ)するという感じだけで。――

 しばらく経った。そして酔いがすこしずつ、身内から四肢へ発してくるらしかった。あちこちの筋肉が、ゆるゆるとほぐれてゆくのが判る。六郎はちいさく貧乏揺ぎをしながら、不安定な瞳をしきりにあちこち動かしていた。さっき鬚剃(ひげそ)りに使用した手鏡が、三尺ほど隔てた縁側のすみに、こちら向きにひっそり立っている。六郎の眼はたまたまそこに落ちた。ぼんやりと自分の顔が、そこに映っている。黄黒い感じのその顔は、何かを懸命に思い出そうとする表情で、不確かな鏡面の奥から、じっと六郎を見据(す)えている。かるい戦慄が、六郎の背筋を走りぬけた。[やぶちゃん注:「貧乏揺ぎ」「びんぼうゆるぎ」。貧乏揺すり。]

 やがてかるく舌を鳴らし、六郎は猿臂(えんぴ)を伸ばして、手鏡を横にカタリと伏せた。そして赤らんだ瞼をしばたたきながら、焦点の定まらぬ視線を、どんより暗い庭の方にねじむけた。――先刻から酔いとともに、頭のなかを執拗に、謡曲のひと節がしきりに高まっては消えてゆく。

「――両介は狩装束にて。両介は狩装束にて数万騎那須野を取りこめて草を分って狩りけるに。――」

 ――酔った意識の入口に、ぼんやりと鍋島両介が立っている。六郎はいま漠然とそれを感じた。そこから見詰めてくる、うながすような、いどんでくるような、架空のつめたい眼を。――六郎は庭の暗さから顔をそむけ、湯呑茶碗に意思のない視線を戻した。黄色い電球の倒影が、焼酎の表面に小さく映っている。逆さに凝縮して、かすかに揺れている。六郎はそれを見た。現実のものでないその美しさが、火花のように彼をとらえた。弛緩(しかん)した笑いを頰にはしらせながら、彼は足裏をつかって、湯呑みをむこうに押しやり、そのまま脚を引きよせて片膝たてた。食べ残したビスケットが五つ六つ、膝から板敷きへ、ころころと転がり落ちた。

「――さて。さて」

[やぶちゃん注:これも六郎自身の呟きでは、ない。「殺生石」の一本で、中入前の自らを玉藻の前と名乗るコーダの直前に出るものである。サイト「名古屋春栄会」のそれを引く。

   *

ワキ「さてさてかように語りたもう。おん身はいかなる人やらん。

シテ「今は何をかつつむべき。そのいにしえは玉藻の前。今は那須野の殺生石。その石魂にて候うなり。

ワキ「げにやあまりの悪念は。かえって善心となるべし。さあらば衣鉢を授くべし。同じくは本体を。二度現わしたもうべし。

シテ「あら恥ずかしやわが姿。昼は浅間の.夕煙の。

地謡「立ちかえり夜になりて。立ちかえり夜になりて。懺悔の姿現わさんと。夕闇の夜の空なれど。この夜はあかし灯火の。わが影なりとおぼしめし。恐れたまわで待ちたまえと.石に隠れ失せにけりや。石に隠れ、失せにけり。

   *]

 耳朶(じだ)のうしろの血管が、じんじんと鼓動を打っている。その単純なリズムが、記憶のなかから、あるひとつの抑揚を誘いだしてくる。すこしずつ調子がはっきりしてくる。永いこと謡い忘れていたその抑揚は、若い日の鍋島両介の像を、おどろくほど鮮明に、六郎の胸によみがえらせてくるようであった。(もう十五年にもなるかしら)酔いにたすけられて、束の間の感傷が、六郎のなかでかすかにうごき揺れた。夜風がつめたく頰にふれる。テツはまだ戻ってこない。膝をかき抱くようにして、六郎は眼をつむり、しばらく気息をととのえていた。なんだか少しやり切れない。へんに熱っぽく、重苦しい。その気分をごまかすように、六郎は意識的に口をとがらせ、頭にひらめく抑揚に合わせて、しずかに声を押し出そうとした。しかしその意図に反して、彼の口から洩(も)れ出たのは、低くしゃがれた咽喉(のど)の響きにすぎなかった。瞼をかたく閉じたまま、しかし彼は強引に、その不確かな調子を押し進めようとした。

「――草を分って狩りけるに。身を何と那須野の原に。顕(あらは)れ出でしを狩人の。追っつまくっつさくりにつけて。矢の下に。射ふせられて。即時に命を徒に」

[やぶちゃん注:「分って」は「わかって」。「追っつまくっつさくりにつけて」は『新潮日本古典集成』の「謡曲集 中」の本文では、『追ふつくつつさくりにつけて』で、注によれば、『「追ひつまくりつ」の音便で、オッツマクッツ。「まくると云は、犬と馬との間遠き時、犬に近くあはんとて、手綱をつかひて馬を寄する事を云也」(『犬追物付紙日記』)』とある。「徒に」「いたずらに」。]

 ……ああ高等学校の裏手の、だだっぴろい素人下宿。そこの隠居の老いたる能楽師、古ぼけた鼓の音。枸橘(からたち)の垣根にかこまれたうす暗い部屋。母屋から流れてくる漢方薬の匂い。朽ちかけた竹の濡れ縁。そこに下宿している文科生徒の自分の姿。同じく鍋島両介のこと、など。一昔前のそれら風物や雰囲気が、今あやふやな声の抑揚にのって、六郎の酔った意識の面に、きれぎれに浮んできた。

「那須野の原の。露と消えてもなお執心は。この野に残って。殺生石(せっしょうせき)となって、人をとる事多年なれども――」[やぶちゃん注:同じく「殺生石」の前の引用に続く全体のコーダの一節。]

 あるもどかしさが、とつぜん六郎を駆りたててきた。ふいに声がとぎれた。そのまま彼はうながされたように、ゆらゆらと立ち上った。そして腰をすこし引いて、不器用に身構える姿勢をつくった。

「こんな型だったかな」

 うろ覚えの記憶をたどって、舞うつもりである。このひとくさりの仕舞の型を、彼は一昔前、あの下宿の能楽師から教わったことがあった。その記憶を手足の動きに確めながら、六郎はいきなり二三歩部屋のなかに踏み入った。脚がふらふらする。酔いに乱れた頭のなかで、まさに演技に入ろうとする自分自身の姿勢を、六郎はその瞬間はっきりと自覚した。その自覚が、彼の動作をやや活潑にした。舞いの記憶もあやふやなので、低声で文句を口吟(くちずさ)みながら、彼はわざと畳を鳴らし、徒手体操のように乱暴に手足を動かした。トンと足踏みする。両手を蟹のように構えて、すり足で前へ進む。くるりと廻る。なにかを抱くように、双手を内側によせる。

(あれはまずい演技だったな)

 鈴子を抱きしめた時の感じが、ふとした動作の聯想で、強くよみがえってくる。ちりちりした髪の感触、肌の色とほのかな匂い、はげしく揺れ動く胸の厚み、双の肩胛骨(けんこうこつ)のぐりぐりした動きなど。それらが突然なまなましく、皮膚の表面に戻ってくる。前後を切り離した、それのみの感覚として。――そしてその感覚が、なぜか急に混乱したように、二重にずれてぼやけるのを、六郎は瞬間に感知した。意識の人口に立つ鍋島の幻像が、その時ひとつの焦点のなかに、急速につかつかと歩み寄ってくるのを彼はかんじた。

(鍋島が鈴子を抱く。あるいはその感じを知らず知らず、おれは探っていたんだな)

 六郎の身体は弓を射る形となって、なにかを追っかけ廻すように、部屋をななめに勢いよく動いた。ふと立ち止って、はずみをつけてクルクル廻る。瞬時にしてこんどは射られる側となり、両手を大きく振り廻し、片足を上げて、すばやく体を一回転する。いきなり高く飛び上り、中空で脚を組んで安坐の姿勢となり、そのまま物体のように落下する。かたい畳が、ぐんと尻を衝(つ)き上げてくる。たけだけしい快感が、そこにあった。たちまち六郎ははね起きて、当初の姿勢にもどり、また同じコースを動き始める。その演技の中だけの充足感が、やがて彼のすべてを領してきた。着物の下で、彼の肌はしっとりと汗ばんできた。矢の下に射伏せられ、石となる瞬間の感じは、あの故知れぬ韜晦(とうかい)の快感に酷似していた。同じ動作を、執拗に彼はくりかえした。

[やぶちゃん注:この最後の段落で六郎が演ずるそれは、「殺生石」の終盤の演舞のいかにも痛そうな、それである。YouTube の『いしかわの伝統芸能WEBシアター「能」』の「殺生石」(宝生流)の2700以降で見ることが出来る。なお、以上の部分を読むと、鍋島両介と小野六郎は旧制高校時代以来の友人であることが、判ってくる。これは「一」の初めの方でも匂わせられてあり、さらに言えば、両介の妻鈴子をも、六郎は彼女が結婚する以前から両介の紹介で知っていた雰囲気が濃厚である。「一」の最初の方の六郎の台詞「猿って、あの地方のやつだな。きっとそうだろう。あの山には、猿が沢山いたからな。そいつは奥さんの方の――」を、「あ。鈴子のだ」と、鍋島が『かるくさえぎった』という部分が、それを強く示唆しているのである。而して、現在時制の主人公が、精神的にどこか病んでおり、戦中を回想し、さらにその戦前の旧制高校時代を想起するという構成は、まさしく「幻化」のそれと酷似していることに気づく。「幻化」では、名を伏せた旧制高校が、ロケーションから、梅崎春生の履歴と合致する熊本五高であることが判然とするし、そもそも、そちらでは、作者梅崎春生自身、主人公久住五郎が自身の分身であることを、全く隠そうとする雰囲気は皆無であるが、本篇にしても、小野六郎の異様な注視による観念的関係妄想は、精神医学書からの借り物ではなく、まさに作者自身が体験している事実実感を的確に叙述しているという印象を与える点で、二作は、全体の構成や叙述法にあっては、全く距離がない双生児に近いと言ってよいのである。されば、本作は、ある意味では、「幻化」へと発展することになる、準備稿的なものであったのではなかろうか? そう仮定する時、先の「基地隊」というのは、梅崎春生が配属された佐世保相ノ浦海兵団本部、或いは、その後に転々とした九州の海軍基地の通信隊、又は、終戦を迎えた桜島の「回天」特攻秘密基地であると、比定し得ることになるのであり、また、「あ。鈴子のだ」すぐ後に「あの頃あの基地隊のうしろの山」以下が六郎の内心として語られることからは、この鈴子の郷里も九州であることが同じく確定すると言える。

 

      

 

 小野六郎は、病気になった。

 はじめ腰から大腿部へかけて、筋肉の感じが、すこしずつ変であった。と思ううち、しだいにそれは、にぶい痛みとかわってきた。なにか重いものを、そこらに押し込まれたような、不快な圧痛である。起きていると少しつらいので、朝から床をとって、六郎はじっと横になっていた。そして、布団を頤までかぶせ、眼をうすく開いて、庭の景色をぼんやり眺めていた。痛みが気になって、食慾はほとんどなかった。熱もいくらかあるようだ。ものの形がうるんで見える。不快な状態のまま、午後になった。布団のなかに背をまるめて、いつか六郎はうとうとと眠りに入っていた。

 そうして眠っている間に、痛みは急速に強まってきたらしい。二三時間経って、おびただしい盗汗に目覚めながら六郎はすぐそれと気付いた。なにげなく身体をうごかすと、ギクリと腰に響いてくるものがある。じっとしているぶんには、さほどでもないが、不用意に姿勢を変えようとすると、痛みがそこから猛然と発してくる。思わず呼吸をつめるほどの、はげしい痛みだ。骨かその付近の、とにかく身体の深部に、その痛みはうずくまっているようであった。[やぶちゃん注:「盗汗」漢方医学で「とうかん」と読むが、私は素直にそれとイコールの「ねあせ」(寝汗)と読みたい。]

「あれが、悪かったのかな。あの飛上り安坐が」

 厠(かわや)に立とうと思って、ぎくしゃくと柱につかまり、やっとのことで中途半端な姿勢になった。そしてその途中で、悲鳴をあげた、と六郎は思う。そのまま立ち上ることも、元のように坐ることも、出来なくなってしまった。今の姿勢では、どうにか痛くないが、どちらへちょっと動いても、激烈な痛みが予想される。痛さと痛さの谷にはさまれて、六郎はひよわなカマキリのように、柱にしがみついて硬直していた。不自然な中腰なので、手やふくら脛などが、その形を保つ無理な努力で、すこしずつ痙攣(けいれん)してくる。台所からテツが出てくるまで、顔に汗をにじませながら、六郎はその恰好でいた。テツの無感動な声が、直ぐうしろでした。

「どうしたの」

「こんな恰好(かっこう)に、なってしまった」

 柱を見詰めながら、六郎は低く笞えた。笑おうとしても、うまく笑えなかった。その笑えないことが六郎に、つよく敗北をかんじさせた。姿勢はそのまま、片手を用心深く、柱から離しながら、

「ちょっと、肩を貸して呉れ」

 テツの肩や腕にたすけられて、そこにしゃがみこむまで、まる二分間かかった。ひどく骨の折れる作業である。体をそろそろ倒して、布団に平たくなりながら、六郎はうめくようにして言った。

「医者を、たのむ」

「どこを、どうしたの」

「筋を違えたらしいんだ」

「どこ?」

 テツの掌がそこに辷(すべ)って、その部分をかるく揉(も)むように動いた。六郎はいらいらしながら、身体を伏せたまま、じっとしていた。テツは掌をはなして、しずかに立ち上った。そこらをすこし歩き廻る音がして、やがて庭からひっそりと出てゆく気配がした。

 医者を呼びに行くには、長すぎるほどの時間が経った。テツはなかなか帰ってこなかった。[やぶちゃん注:或いは、梅崎春生の年譜を見たことがある方は、彼が、晩年に、かなりの骨折をしているを覚えておられるかも知れないが、あれは本篇公開から十二年も後の昭和三七(一九六二)年十月のことであるので、違う。底本別巻の年譜によれば、同年十月、『子供とふざけて転倒、第十二胸椎圧迫骨折、さらにギックリ腰ともなり難渋する』とあるのが、それである。]

 しかしその間に、彼はしだいに、先ほどのいらだちから解放され、ふしぎに平静になってゆく自分をかんじた。それはおおむね、いまの自分の姿勢からきている。その自覚も、同時に彼にあった。彼は胴体や足をうつ伏せにして、頭だけを横にむけていた。右の耳たぶが折れたまま、固い枕に押しつけられている。そこの血管の蠕動(せんどう)につれて、時間がのろのろと動いてゆくのが判る。縁さきにやぶ鶯(うぐいす)の声が聞えるが、この位置から姿は見えない。見えるのは障子に区切られた、縦細い庭の一部だけだ。猿の檻の檐(のき)に、サルスベリのぬめぬめした梢が、何本もくねって伸びている。彼の眼にはその風景も、うるんだ膜を冠っているように見えるのだが。そして彼はしずかに考えた。

(ここには誰もいないな。誰も――)

 鋏をもがれ、脚をくくられたドブ蟹。ただ待つだけで、自分から動いたり働いたりする機会を、すべて失った状況。それを六郎は自分に感じた。それを自分に課して感じることで、彼は今ひとつの平衡をとらえていた。ひらたく布団に腹這(ば)ったまま、彼はやがてその平衡を、あぶなくたのしみ始めていた。身体の平衡だけでなく、精神のそれをも。これがいつもの自分のシステムだ。いつもここに安坐してしまう。しばらく虚脱したように、全身の筋肉をゆるめながら、六郎は物憂(う)くそう考えていた。自らを尿器に擬することで満足を得る、ある種の性的変質者のやり方に、それはどこか似ている。そう思うと、ある弱い笑いが彼の咽喉(のど)に、泡のようにこみ上げてきた。

 そのままで、また長い時間がすぎた。台所の方で下駄を脱ぐ音がする。上げ板がカタリと鳴った。

 やがてそこから、畳を踏む跫音(あしおと)が、やわらかく近づいてくる。耳をぴったり枕につけているので、その撓(しな)やかな跫音は、骨のないようなテツの素足の感じを、じかに六郎の神経に伝えてくる。

「加減はどう?」

 黒っぽい袷(あわせ)をきたテツの身体が、視野の端にあらわれて、ゆるゆると近寄ってきた。臙脂(えんじ)色の半幅帯が、結び目がすこしゆるみ、垂れた端がかすかに揺れている。六郎の眼はそれを見ていた。そしてテツのなじるような声で、

「何をわらっていらっしゃるの」

「何もわらってやしない」

 顔を動かさず六郎はこたえた。

「じゃ、もうおさまったの」

 すこし経って、そこにしずかに坐りながら、テツが訊ねた。六郎は瞳だけを動かして、テツの顔を見上げていた。薄い眉毛。距離のひらいた双の大きな黒瞳(くろめ)。いつもは童女的なその顔の輪廓が、下から見上げるせいか、妙に成熟した色と匂いをたたえている。六郎は痛みを誘い出すように、わざと眉をしかめながら、しゃがれた声で言った。

「やはり、痛い」

「そうでしょう。あんな真似をするんだもの」

 それからテツは、一昨夜の六郎の「飛上り安坐」について、ちょっと非難めいた口振りをした。

「あんな乱暴なことをするから、筋を違えたりするのよ。あれはなに?」

「乱暴じゃないさ」

「乱暴よ。あそこの根太が、すこしゆるんでるわ。あるくと、ゆらゆらする」

 あの夜、テツはいつ頃、帰ってきたのだろう。それまでどこに行っていたのかも、六郎は知らないのだが。――焼酎の酔いに乗り、座敷いっぱい殺生石(せっしょうせき)を舞っていて、ふと気がつくと、縁さきの暗がりにテツが立って、こちらを見ていたのだ。通りすがりに立ち止って、なにげなく眺めている、そんな感じであった。それだのに、それまで自分の動作を演技だと、はっきり自覚していたくせに、その無造作な視線にあっただけで、なぜか動作の根源にあるものが、みるみる萎縮してしまうのを六郎は感じていた。へんな抵抗を覚えながら、六郎は舞いやめた。そう言えば、あの時舞っていた時も、強く足ぶみすると、畳がぐらぐらしていたような気がする。酔っているせいとばかり、六郎は思っていたのだが。

「あれはああいう、仕舞の型なんだ」

「上から落ちてくるのも、それ?」

「そう。あれで尾骶骨(びていこつ)でも、打ったかも知れない」

「そうでしょ。根太がとっても、ぐらついてる」[やぶちゃん注:「根太」「ねだ」。床下に渡し、床板をのせて直接支える角材。]

 表情のすくないテツの顔に、かすかに笑いがうかんでいる。根太がゆるんだことと、六郎が筋を違えたこと、その明快な因果関係を、こんどは単純にたのしんでいるように見える。袷が黒っぽいので、皮膚の色が白く浮き、光線のあたる半顔に、コノシロの腹の肌のような艶とあぶらをのせている。六郎はそれを上目使いに、ぼんやり眺めた。そして近頃テツの顔を、正面から眺める習慣をうしなっていたことに、彼はやがて気付いていた。六郎の視線を無視するように、テツは手をしなやかに曲げて、耳にかぶさった髪毛を、意味なくかき上げている。その動作のなかに、ある異質のものの投影をふと感じると、六郎はひるんだように顔を外らして、庭の方に視線をうつしていた。しばらくして、テツは身じろぎしながら、ふくんだ感じの声を出した。

「お医者さまより、揉療治の方が、よくはないの」

「うん」

「揉療治の方が、きっと利くわ。もうせん派出会にいた頃、あたしよく見たわ。その方がずっと、利くんですって」[やぶちゃん注:「派出会」恐らくは、一般家庭からの多様な求めに応じて出向いて、家事その他をする派出婦を派遣する組織であろう。]

「しかしまだ、病名も判らないんだから。とにかく医者に見せなけりゃ」

「あら。揉療治さんでも、診断できるのよ。それが専門なんですもの」

 鶯が一羽、サルスベリの梢にとまっている。短く啼きながら、梢を小刻みに移動している。ふしぎなものを眺めるように、六郎の眼はそれを見ていた。鶯の黒っぽい尾は、啼声といっしょに、意味なくよく動く。

「お医者さん、呼んだのかね。おテツさん」

 しばらくして、下半身は動かさないようにして、枕の上で顔の向きだけをかえながら、六郎は低い声で訊ねた。膀胱(ぼうこう)の辺が張っている感じだが欝然たる痛みに押されて、さきほどの尿意はすでに消えている。腰の容積が二三倍になったような、不安な膨脹感だけが、そこにあった。

「呼びましたよ、もちろん。もうじき来る筈だわ。揉療治さんも」

「へえ。それも頼んだのか。どこの?」

「そら、新しく看板が出てるでしょ。火の見櫓(やぐら)の下の――」

「ああ、釜吉さんの家ね。あれは、お内儀(かみ)さんのしごと?」

「いいえ。釜吉」

 いやにはっきりした調子で、テツは言葉を切った。そしてゆっくりと庭の方を振り返りながら、あとはつけ足すように、

「根太のことも、頼んできたわ。ついでだから」

 釜吉の家の小さな玄関に、白木の新しい看板がかけてある。それに六郎が気がついたのは、半月ほども前であった。それには勘亭流みたいな書体で、大東京指圧学校分校治療部、と大きく記してある。その文句の横に、いつでも治療依頼に応じることや、弟子を募(つの)るという意味のことが、細字でつけ加えてあったようである。通りすがりに始めてそれを見たとき、釜吉のお内儀の内職かと、ふと六郎は考えてみたが、それをその看板では、たしかめずに終っていた。釜吉の女房は釜吉よりも五つ六つ年上で、闇の主食などをこっそり取扱っている。頰がひらたく蒼白で、不自然なほど髪の多い女だ。頸のうしろでそれを束ねているが、豊穣な毛髪は、切り立った耳朶(じだ)を覆うて[やぶちゃん注:ママ。]、なお左右にふわふわと張出している。疲れたふうにそこだけ赤らんだ眼縁から、なにか無表情な固い瞳が、まっすぐにこちらをのぞいているのだ。背が低いのに、つねに真新しいわら草履(ぞうり)をはいて、街をあるいている。巫女(みこ)か霊媒みたいな印象を、いつも六郎は受けていたのだが、その看板を見たとき、すぐ聯想(れんそう)がお内儀に結びついたのも、おそらくその感じからだったのだろう。指圧という字面の、どこかものものしい、押しつけてくる感じ。釜吉は大工なのだから、六郎のなかで無意識裡(り)に、その結びつきから除外されていた。――しかし今テツからそうと聞けば、あの勘亭流じみた書体は、まさしく釜吉の感じにも、つながっているようだ。指圧師釜吉の風態が、そっくり浮び上ってくる。そう思うと、あちこちの筋肉がひとりでに小刻みに動き出すような、妙な感覚におそわれて、六郎は思わず枕に頭を立てた。痛みがぐきりと、腰の蝶番(ちょうつが)いにひびく。彼は鼻翼にうすく汗をにじませ、ゆるゆると顔を横に伏せながら、ひとりごとのように言った。[やぶちゃん注:「眼縁」ルビがないが、「まぶた」と当て訓しておく。「目の縁(ふち)」の意で「まなぶち」「まなぶた」「まぶち」などとも読む。]

「――大工じゃ、食えないのかな。そうだろうな。しかし、いつ指圧などを、あいつは覚えたんだろう」

「軍隊ででしょ」

 庭の方に顔をねじむけたまま、テツが返事をした。長者門の方角で、自転車がとまったらしく、鍵をかける音がカチャカチャと聞えてきた。そして跫音が庭に入ってくる。

「そう言えば、材木だって、人間の身体だって、まあ同じようなもんだからな」

 妙なところで丹念な釜吉の仕事ぶりを、六郎は今思い出していた。たとえば材木に穴をあけるにしても、組み上がれば穴は見えなくなるのに、その穴の内側や底まで、なめらかに削らねば承知しない。鉋(かんあ)を磨くとなれば、半目も費やして、剃刀みたいにとぎ上げる。浣熊(あらいぐま)のやり方みたいな、そんな神経質な丹念さを、釜吉は一面に持っている。雨蛙みたいなあの風貌や、不細工にふくらんだ胴体。関節がないような感じの、短い筒に似た指。あの指先が、と六郎はぼんやり考えた。あれがどんなふうに動いて、他人の肉体のあちこちを押えるのだろう。そこまで考えたとたんに、不随意な戦慄が背筋をちらと走りぬけて、あわててそれを断ち切るように、向うむきのテツの白いうなじに、彼は自分のでないような声で問いかけていた。

「さっきは、釜吉の家に――お内儀(かみ)さん、いなかった?」

「いいえ。――あら、お医者さまよ」

 縁側でいそがしそうに靴を脱いで、せかせかと小さな老人が、部屋に上ってきた。外套のまま枕許に坐ると、懐中時計をとり出してキチンと膝の上に置き、革鞄をがちゃりとあけて、もう気早く聴診器を引きずり出している。そしてそのゴムの部分を、掌にくにゃくにゃ巻きつかせながら、どんな雰囲気にもぬっと闖入(ちんにゅう)して意に介しないような、れいの職業的な口調で、

「如何ですな、具合は」

 六郎はかんたんに病状を説明した。しかしその説明も、老医師はほとんど耳に入れていない風である。形式的にうなずくふりはしているが、身体はしきりに働いて、脈を取ったり、鞄から検温器を出したり、いきなり手を伸ばして、説明中の六郎の眼瞼をひっくりかえして見たり、とにかく寸時も恂き止まなかった。その忙がしい動きのおかげで、あらかたの診察は、それから五分ぐらいで済んだ。[やぶちゃん注:「闖入」突然、無断で入り込むこと。]

「こりゃ、坐骨神経痛だね」

 検温器や聴診器をひとまとめにして、ごちゃごちゃと鞄に押しこみながら、医者は早口に言った。

「よくある病気ですよ。注射でもしときますかな」

 診察中はすこし乱暴に、下半身を押したり突かれたりしたので、やっと苦患(くげん)に離れた思いで、六郎は眼を開いた。医者は注射器をとり出して、筒の辷(すべ)り具合をしらべている。赤ん坊の腕ほどもある、太い注射筒だ。その先についた鈍色(にびいろ)の針の形を、決着しない気持で六郎は眺めた。針の長さは、二寸位もある。

「それから患部は、あっためたがよろしい。懐炉でいいでしょう」

 アンプルを切る医師の姿にかさなって、その背後に、白っぽいものが動くと思ったら、いつの間にか縁側に、釜吉がちゃんと坐っていた。身幅の狭い白い上っ張りを、引詰めるように着て、両掌をきちんと膝にのせている。律義な侍従のように、取り澄ました顔をやや傾け、眼をちろちろと動かしている。いつやって来たのか判らない。何時間も前から待っていると言ったふうに、しごく沈着な態度で、いかにも神妙に控えている。と見たとき、その神妙さがとたんに崩れ、首がのり出すようにゆらゆら伸びて、医師の肩越しに、六郎の裸の腕をのぞいてきた。その翳(かげ)りのない巨きな黒瞳に、動物的な好奇の色がはっきり浮んでいる。その瞬間前肘部(ぜんちゅうぶ)の一点に、六郎はチクリとするどい痛みをかんじた。

[やぶちゃん注:「引詰める」「ひっつめる」。「巨きな」「おほきな」。]

 上膊をゴム紐(ひも)できつく緊縛(きんばく)され、青くくっきり浮いた正中静脈に、針が半分ほども突きささっていた。そこから薬液がすこしずつ、用心深く体内に入ってゆく。しばらくすると咽喉(のど)の奥の奥から、湿った灰みたいな妙な匂いが、不快な温感をともなって、口腔いっぱいにひろがってきた。

「やはりこんな病気は、ころんだり蹴られたりして、起るものですか?」

 注射が三分の二ほど済んだ頃、聞いておかねばならないつもりになって、六郎は訊ねてみた。六つの眼が自分の肉体の一点にぞそがれていることが、なにか面白くない気持である。

「ほとんどそうじゃないね。そういう場合は、ごく稀れですよ」

 ポンプを押す手をひと休めして、医者は額の汗を拭った。小量の血が、紅い煙のように、注射筒に逆流するのが見える。医者のうしろで釜吉が、詰めていた息をはき出す鼻音を立てた。それは変に肉体的な、色情的と言っていいようなものを、六郎に感じさせた。その感じは、せんだって鍋島が釜吉について語ったことと、つよく関連していた。その時テツが側から口を出した。[やぶちゃん注:「せんだって鍋島が釜吉について語ったことと、つよく関連していた」れに相当する記載は、これ以前には、ない。私は当初、この「鍋島」は「一」の後半で、《二瓶》が釜吉を評した「あいつはね、君、曲者(くせもの)だよ。」と言ったのを、梅崎春生が《鍋島》に勘違いしてしまっているのではなかろうか? と疑った。それは戻って読めば判るように、この二瓶の釜吉への批評は、それ以前に『鍋島が二瓶を評した言葉』『とそっくり同じであ』って、鍋島は以前に二瓶と初めて小野の家で逢い、二瓶が帰った後に、「今の男はただ者じゃないな」「とにかく一筋縄でゆく男じゃない」と二瓶を批判した、とあるように輻輳構造になっているからであった。だが、「せんだって」と言う言い方では、如何にもそのシークエンスは離れ過ぎているようにも見える。結論を言うと、これは梅崎春生の錯誤ではない。以下、読み進められれば、判る。則ち、ここは所謂、「倒叙法」をとっているのである。]

「でも先生、二三日前すこし酔って、ひどく飛んだり跳ねたりしましたのよ」

「それとは別でしょう。おそらく」

 残りの薬液が注入される短い間、ふと白けてからっぽになった頭の中に、ある図式のようなものを、六郎はちらと感じていた。人間や人間関係から、いろんなものを捨象した、かんたんな線の組合せみたいなものを。しかしそれら交叉(こうさ)のなかに、彼は入ってはいなかった。彼自身はいつかその図式を離脱して、こちらの岸に立っている。――六郎は注射器から眼をそむけた。しばらく医者の顔からテツヘ、テツから釜吉へ、釜吉の顔から医者へ、ただ見るだけの視線を、ゆるゆると這わせていた。そしてやっと注射が済んだ。自分が妙な笑い顔になっているのを、そのとき彼はぼんやりと自覚した。頰の肉の感じとしては、それは作り笑いに似ていた。

「さ。これでよし、と」

 道具を手早くかたづけながら、老医者はもう中腰になって言った。

「これで、明日まで、様子を見ましょう」

「いそがしい先生ね」

 医者が靴をつっかけて自転車で帰ってゆくと、テツが待ちかねたように口を開いた。

「今の注射、利(き)いたかしら。痛みは、どう?」

「さあ。医者ってどれも、あんなものだろう」

 縁側では釜吉が、首を元のように戻して、ふたたび神妙な形に坐っている。両掌を膝にそろえたまま、ちろちろと上目使いして、こちらをうかがっている様子である。そしてしずかな声で、相槌(あいづち)を打った。

「医者ってみんな、あんなものでさ」

 横臥して揉(も)んで貰う姿勢になったとき、痛むのは腰だけだと言うのに、全身を揉まねば効果がないのだと、釜吉は頑強に主張した。痛みはその部分に発するのではなく、他の筋から来るのが多いというのが、その言い分である。身体のことなら何もかも判っているぞ、といった風な口ぶりであった。それならば、それでもいいので、六郎は材木のように口をつぐんだ。釜吉のつめたい指が、まず六郎の首筋にかかる。

 釜吉の指の力は、案外につよく、しなしなと粘着力があった。しかしその割には、深部に響いてこないようである。筋の押し方にも、初心らしい稚拙さがあった。テツは側に坐って、黙ってそれを見ている。六郎の身体にかぶさるようにして、首から肩、肩から背中と、丹念に押して行きながら、釜吉は怒ったような声で、しきりに医者の悪口をしゃべった。いまどきの医者は対症療法だけで、病理の根源を知らないというのである。その言い方も、言葉を重ねれば重ねるほど、どこか受売りじみてくるようであった。近頃どこかで速成的に、教わってきたらしい口跡である。またひっきりなしにしゃべることで、技の稚拙さをごまかしているようにも見えた。

「注射なんて、ありゃあほんとに、インチキなもんですよ」

「インチキかねえ」

「インチキですよ。瓦が飛んだところに、ベニヤ板貼りつけるみたいでさ」

 押す手がしだいに腰部に移ってくると、さすがにそこらはひしひしと痛み響いて、六郎がうめいたりするので、釜吉の指の動きも、おのずと慎重になる風であった。慎重というより、あやふやという感じに近い、心もとない手付きになりながら、それの弁解のつもりか、釜吉は唐突に話題を変えて、身体の不完全さについて説明し始めた。人間の身体というものは、ふつう考えられているような巧緻なものでなく、ごく出来が悪い、不完全なものだというのである。

「てんでガタピシですよ。こんな人間を造った神様の気持が、あたしには、どうにも判らないや」

 六郎は顔をしかめて、それを聞いていた。人間の身体はまるで、素人(しろうと)が設計した十五坪建築みたいだ、というのである。一つでいい器官が二つもあったり、役にも立たない器官があちこちに、飾りみたいに取りつけられていたりする。また生殖器と排泄器を兼用するような(ここらで釜吉は語調に力を入れた)、そんな節約した設計がしてあるかと思うと、その反面、背中みたいな広闊(こうかつ)な部位を、のっぺらぼうのまま放置してあったりする。内臓の配置にしても、立って歩くようには出来ていず、這って歩くのに適したように仕組んである。脛(すね)のあたりを圧しながら、そんなことを釜吉は言い聞かせるように呟(つぶや)いた。

「やはりまだ、立って歩くのは、無理なんだね。木組みもヤワだし、あちこち手が抜いてあるし、ね」

 圧す指がずっと下ってきて、最後に蹠(あしうら)がくねくねと揉み立てられた時、六郎は衝動じみた笑いとともに、ある神経的な不安が全身を駆り立てるのを感じた。皆が知っていることを、自分ひとりが知らないでいる、そういう感じの不安に、それは似ていた。足指が一本一本引っぱられ、そして治療は終った。

「さ。これでいくらか、お楽(らく)になりましたでしょ」

 釜吉は三尺ほど後すざりして、畏(かしこ)まった姿勢に戻り、しずかに莨(たばこ)をとり出している。テツが茶を入れに立ち上った。いつか痛みもどんよりと薄れ、事実いくらかラクになったようである。用心しいしい身体をおこし、やがて六郎はあぶなく床の上に正坐していた。痛みはラクになったけれども、すこしばかり忌々(いまいま)しい感じがないでもない。

「ありがとう。よほどいいようだ」

 六郎も横をむいて莨を吸いつけながら、感じを殺してそう答えた。釜吉は鼻のわきに小皺(こじわ)を寄せて、うっすらと笑っている。足裏を揉(も)まれたときの、あの奇妙な不安定感が、ふたたび六郎の身体を茫漠(ぼうばく)とはしり抜けた。彼はわざとゆっくり手を動かしながら、声の調子をすこし落して、何気ない感じのつもりで問いかけていた。

「鍋島の家は、もうすっかり、出来上ったのかね?」

 それはさっきから訊ねてみようと思っていた質問であった。しかし口に出したとたんに、無計算な悪意とでも言ったようなものが、かすかに胸に揺れ動くのをかんじて、六郎は言葉を切った。自分がそんな姿勢になっているということ、それが次の瞬間、ある不快な抵抗を彼にもたらしてきた。

「ええ。ええ。もう九分通りはね。建具さえ入れれば、結構あれでも住めますよ」

「広さは、どのくらい」

「建坪で、三十坪もあるかね。なにせ惜しいもんですよ。あと一息というところだからね」

「じゃ、何故あんたは、仕事を止めたの?」

「だって鍋島の且那は、手間賃も呉れねえんですよ。指図だけは、さんざんする癖にね」

「そんなことかな」

 少し腑におちた感じにもなって、六郎は独り言のように言った。

「そんなことかも知れないな」

「そんなことですよ」口をとがら廿るようにして、釜吉は復唱した。「金がない訳はねえんですよ。出し渋ってんですよ。いつもあの且那は、パリッとしたなりをしてるしさ」[やぶちゃん注:太字「なり」は底本では傍点「﹅」。]

「そうかな。パリッとしたなりをねえ」

「しかしあの且那の眼はへんだね。ありゃあただ者の眼じゃないね。妙にぎらぎらして、追いつめられたイタチみたいでさ」

 そう言いながら釜吉の視線が、こちらをうかがうように、ちろちろと動いている。六郎は急にあいまいな笑い顔になって、ぼんやりと庭の方に注意を外(そ)らしていた。釜吉のその言葉から、鍋島の精悍な風貌や食い入るような眼付きなどが、まざまざと瞼の裡に浮んでくるようであった。なぜ自分のこの眼で眺めるより、第三者の眼を通じる方が、そのものの形がおれに髣髴(ほうふつ)としてくるのだろう。その思いもちらとひらめいただけで、すぐに六郎の胸から消えた。吸い捨てた莨の煙が、ちりちりと眼に沁みてくる。ぎごちなく膝をくずしながら、彼は気の抜けたような声でこたえた。

「あいつには、金がないんだよ、きっと」

「そうですかねえ」

「それですこしは、イライラしているんだろう。それとも、そんなふりをしてるのかな」

 鍋島の事業がうまく行かず、その新築中の家も、二重三重の抵当に入っている。そのことを六郎は知っていた。ついこの間、はっきり知ったばかりである。しかし彼の事業の経営が、よほど前から下り坂になっていることは、いつか六郎もうすうすと察知していた。預った猿の月々の飼育料が、しだいに遅滞する傾向があったし、時折訪ねる鍋島の事務所の、どこか荒廃したような空気にも、そのことは感じられた。またそれよりも、彼にたいする鍋島の態度の変化に、それは微妙にあらわれてくるようであった。その微妙な推移は、もちろん他人には判らないことだし、あるいは鍋島自身もはっきりとは、自覚していないことかも知れなかった。しかし六郎は本能のように、鍋島の内部にひそむものの翳(かげ)を、いつも敏感にとらえていた。その暗いものの動きは、六郎の心の中ではっきりと、ひとつの危機の予感につながっていた。その翳のうごめきも、会うごとに少しずつ、その濃さを加えてくる気配があった。ことに酔った時の鍋島の眼は、その感じをかくすことなく、露骨にあらわしてきた。追いつめられたイタチのそれのように、おびえたような、うながすような、またいどんでくるような色をたたえて、ぎらぎらと光っている。あの夜もそうであった。猿の預り代を請求に、鍋島の事務所を訪ねた日のことである。それは十日ほど前になる。釜吉の話もその時出たし、家が抵当に入っていると知ったのもその夜のことであった。飼育料の請求に行ったのに、その金は呉れようとはせず、彼はだまって六郎を、近所の小料理屋に連れて行った。奥まった小部屋で酒を飲みながら、話のついでのように、鍋島がこう言った。

「あの猿はね、もう君にやるよ。売るなり捨てるなり、君の自由にしてくれ」

 あまり何気ない言い方だったので、六郎はとっさに受け答えが出来ず、しばらく黙っていた。すると鍋島は咽喉(のど)の奥で、かすかに笑いながら、かぶせるように言葉をついだ。

「もうあいつも、君の方に、情がうつっているだろう。おれのところに引取る手はないようだな」

「家はまだ出来上らないのかい」

 少し経って六郎はそんなことを訊ねた。

「釜吉が入っているという話だったが」

「あの男は、もう止めたよ。こちらから断ったんだ」

「なぜ?」

「おれの留守中に、あいつは鈴子に言い寄ったんだ」

 鍋島の眼の奥に、暗く深い穴のようなものを、六郎は瞬時にして見た。その言い方も何気ない低い声であった。そして鍋島はうつむいて、グラスにかるく唇を触れている。そのうつむけた頭の地肌から、数多(あまた)の粗い毛根が、そこだけレンズで拡大したように、なまなましく六郎の眼に映じた。強い当惑に似た感じが、彼の胸をかすめた。釜吉が鈴子に言い寄る架空の状況が、六郎の脳裡に、へんにまざまざと浮んできたからである。次の瞬間、記憶の中の一片の形が、突然はっきりと彼の意識をとらえていた。いつか釜吉が庭で放尿していて、その時ちらと見た、その部分の原形であった。それは不自然なほど黒く、濡れたような艶をもって、今六郎の想像の視野の中空に、重々しく揺れ下っている。頭を振ってそこから逃れようとしながら、彼もまた手をグラスに伸ばして、同じ質問をくり返した。

「じゃ、家はまだ、出来上らないのかね」

 釜吉を鍋島に引き合わせたのは、もともと六郎である。猿小屋の建築費を、直接の方がいいと考えて、釜吉を鍋島のところへ行かせたことがある。端緒はそこに始まったに違いなかった。

「おあ」

 鍋島は顔を上げ、しばらくしてうなずいた。うす赤く血走ったが、いどむような光をはなって、じっと彼を見詰めている。こんな感じの鍋島の眼を、六郎はこの十五年ほどの間に、何度か見たことがあった。

「あれはほとんど出来上っているんだ。畳とか建具を入れさえすればね。あれはあれでいいんだ」

「じゃ直ぐ引越せばいいじゃないか」

「まあ、そんなことになるかな」

 グラスに唇をつけながら、鍋島はそのままじっとして、なにかを思いめぐらしている表情になった。そして低く押しつけたような声で言った。

「そのことで、君にひとつ、頼みがあるんだ。きいて呉れるだろうな」

「頼み?」

「頼みというほどのことじゃない。何でもないことなんだ。つまり君が、おれの債権者になって呉れればいいんだ。カンタンな仕事だよ」

「債権者って、僕には金なんかないよ」

「そりゃ知ってるさ。貸して呉れと言ってるんじゃない。ただそういう恰好(かっこう)さえして呉れればいいんだ」

「恰好だけで、いいのかい」

「うん。そして執達吏を使ってね、あの家をさ、モロに差押えして貰いたいんだ」

 それから鍋島はそのやり方について、簡単な説明をした。その説明では、六郎を仮装債権者に仕立てることによって、差押え物の売得金を、鍋島はほとんど自分の手に還元しようというのらしかった。鍋島もすこし酔っていて、舌がもつれたり、説明が前後したりしていたし、六郎もその方の知識が乏しいので、その要点がうまく摑(つか)めないでいた。説明が終ったところで、六郎は訊ねてみた。

「つまりね、あの家はもう、担保(たんぽ)に入っているという訳だね」

「そういうことになるね」

「じゃ君のそのやり方は、法律にも触れるわけだね」

 鍋島はぎらぎらする眼をあげながら、とつぜん、つめたい笑いを頰に刻んだ。そして掌をたたいて、酒の追加を注文した。酒を運んできて、小女が去ってしまうと、六郎はも一度たしかめるように口を開いた。

「そのことを、君は今思いついたのかね」

「仮装債権者をつくるということをか?」

「いや。僕にその役割をふりあてる、ということをさ」

 濁った太い声で、鍋島は笑い出した。そして瓶に手を伸ばして、六郎のグラスに充たしてやりながら、冗談めいた口調で言った。

「君は昔から、いつもおれの債権者だったよ。おれは何度も君から、いろんなものを差押えされたりしたよ。な。そうだろ」

 その言い方は、よく判らないまま、妙に六郎の胸にからまってきた。六郎はグラスの胴を両掌にはさんで、酔った頭のすみで、しばらくその言葉の意味を考えていた。不自然な沈黙がきた。その沈黙のなかに、すべてがはっきりしないまま、なにかするどく脅やかしてくるものの気配を、六郎はありありと感知した。グラスを一息にあおると、自分が無抵抗な姿勢になるのを感じながら、それを立て直すように彼は口を開いていた。

「もひとつ聞くけれどね、それは僕じゃなくてはいけないのかね。他の人ではいけないのか?」

「君じゃなくては、駄目なんだ」

 断乎とした口調であった。

 なぜ、と問い返そうとして、六郎は口をつぐんだ。その気配を察したように、鍋島は彼を見据(す)えながら、声だけは急にやさしい調子になって、口早にささやいた。

「あ。そのことでね、近いうち、君のとこに行くよ。いつも家にいるんだろう」

 おれを共犯に仕立てることで、犯罪に引きずりこみ、その上で鍋島は、すべてを暴露してしまうかも知れない。今もそのつもりかも知れない。ふとそう思いながら、六郎の眼はおのずから探るような色を帯びて、鍋島の手の指におちていた。鍋島はしゃれたシガレットケースから、莨(たばこ)を一本とり出して、いま卓上のマッチをすろうとしている。ふだんでも酒焼けのした大きな顔が、いっそう赫くなって、油を塗ったように精悍な艶をたたえている。マッチがぼっと音を立てたと思うと、粗悪な製品だったと見えて、箱の薬紙に火がつき、しだいに側面からめらめらと燃え始めた。鍋島は指でその端をつまんだまま、青白い火の色にじっと視線をおとしている。そしてひとり言のように言った。

Though we weepか。こんなの、覚えてるかい。Though we weep and pawn our watchesさ。Two and two are four

 箱中の軸木に火がつき、シュッと小さい焔が四方にほとばしった。その瞬間にそれは鍋島の指から離れて、灰皿におちた。箱は灰皿の中で、青い焰をあげ、身もだえするようにくねりながら、しだいに黒くなってゆく。硫黄のにおいが鼻を剌してきた。

Though we weep ?」

「そう。and pawn our watchesさ。Two and two are four

「パロディかね」

「忘れたのかい。高等学校のとき、習っただろう。なにかのエッセイの中にあった文句さ。そら、川島教授のさ」

「どうも思い出せないね。しかし君は、よく覚えてるんだな。十何年前のことを」

「そりゃ覚えてるさ。おれはあれで落第して、その挙句、学校を追ん出されたんだからな」

 火もつけない新しい莨を、そのまま灰皿につっこみながら、鍋島は頭をゆるゆると上げた。表情が沈欝にゆがんで、じっと六郎を見詰めている。彼と知合って十五年の歳月を、その十五年間の二人の感情のからまりを、ごく短い時間に、六郎はその鍋島の顔に見た。そして次の瞬間、Xの笑いとでも言ったようなものが、胸の底からほのぼのと湧き上るのを、六郎はかんじた。何かが、どこかで、破滅するだろう。しかし、破滅するようなものが、ここらのどこに残っているのだろう? しかしその予感は、その時確実に、六郎の心を摑んできた。彼は笑いのかげで、かすかに戦慄した。

[やぶちゃん注:「Though we weepか。こんなの、覚えてるかい。Though we weep and pawn our watchesさ。Two and two are four」はイギリスの作家で詩人のギルバート・キース・チェスタトン(Gilbert Keith Chesterton 一八七四年~一九三六年)のコント「歌わない小鳥」(‘The Little Birds Who Won't Sing’)の一節であることまでは、つきとめた。英文サイト‘Literature Network’のこちらで全文が読める。当該部は以下。

   *

   If reapers sing while reaping, why should not auditors sing while auditing and bankers while banking? If there are songs for all the separate things that have to be done in a boat, why are there not songs for all the separate things that have to be done in a bank?

   As the train from Dover flew through the Kentish gardens, I tried to write a few songs suitable for commercial gentlemen.

   Thus, the work of bank clerks when casting up columns might begin with a thundering chorus in praise of Simple Addition.

"Up my lads and lift the ledgers, sleep and ease are o'er.

Hear the Stars of Morning shouting: 'Two and Two are four.'

Though the creeds and realms are reeling, though the sophists roar,

Though we weep and pawn our watches, Two and Two are Four."

"There's a run upon the Bank--Stand away! For the Manager's

a crank and the Secretary drank,

and the Upper Tooting Bank

Turns to bay!

Stand close: there is a run On the Bank. Of our ship, our royal one,

let the ringing legend run,

that she fired with every gun

Ere she sank."

   *

私の英語力では、上手く訳せない。当該箇所は、

   *

私たちが啜り泣いても

私たちが啜り泣きながら腕時計を質屋に入れても

「二」たす「二」は「四」なのだ

   *

一般に最後のフレーズは「当たり前のこと」で「事実から判断された当然の結論だ」という意を指すらしい。以上の原文は銀行員の殺伐とした現実の仕事のシビアさを指しているようだが、ここでの鍋島両介の謂いは、「お前は俺(と妻の鈴子)とはあの高校時代の忌まわしい思い出で腐れ縁なのであって、どう踏もうが、『同じ穴の貉(むじな)』なのさ」と言いたいのか? となんとなくは、思ったが、よりよい注がお出来になる方は、是非とも御教授下さると幸いである。]

2022/11/28

曲亭馬琴「兎園小説拾遺」 第二 「西本願寺觸狀寫」

 

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。昨年二〇二一年八月六日に「兎園小説」の電子化注を始めたが、遂にその最後の一冊に突入した。私としては、今年中にこの「兎園小説」電子化注プロジェクトを終らせたいと考えている。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちら(右ページ上段終りの方から下段にかけて)から載る正字正仮名版を用いる。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。

 馬琴の語る本文部分の句読点は自由に変更・追加し、記号も挿入し、一部に《 》で推定で歴史的仮名遣の読みを附した。今回は短いので、そのままとした。

 本篇は「京都地震」関連記事の第三弾。第一篇以降で注した内容は、原則、繰り返さないので、必ず、そちらを先に読まれたい。

 

   ○西本願寺觸狀寫

一筆致啓達候。先以、御門跡樣、益、御機嫌能被ㇾ爲ㇾ成御座候間、可ㇾ爲御大慶候。然《しかれ》ば、二日申刻より、大地震にて、御眞影樣、庭上へ御動座《ごどうざ》、御門跡樣、親敷《したしく》御守護被ㇾ遊候。且、亦、京地、幷、諸國詰合之官中《しよこくつめあひのくわんちゆう》始《はじめ》、一同、守護被成上候。最《もつとも》、御殿向《ごてんむき》、所々、御破損、誠に以、古來未曾有之大變、今、四日に至候ても、鳴動、不相止、依ㇾ之、未御復座不ㇾ被ㇾ爲ㇾ在候得共、御眞影樣、無御恙被ㇾ爲ㇾ成御座候間、恐悅可ㇾ被ㇾ成候。右、格別之大變に付、態々《わざわざ》、此段、不取敢《とりあへず》申達《まをしたつし》候間、夫々《それぞれ》通達可ㇾ有ㇾ之候。恐惶謹言。

  七月四日      池 永 主 稅《ちから》

            島 田 帶 刀《たてはき》

            下間《しもつま》刑部卿法橋

            下間少進《せうしん》 法眼

   關東十三ケ國

     總御末寺所中

     總門徒所中

 猶、以、大谷御廟本、幷《ならびに》、山科御坊所、殊之外、御破損被ㇾ爲在候御事、夫《それ》、是《これ》、可ㇾ被恐入候、以上。

[やぶちゃん注:京都市下京区本願寺門前町にある浄土真宗本願寺派本山龍谷山西本願寺(グーグル・マップ・データ)が京都大地震の直後に出した宗門末寺及び信徒への触書(ふれがき)。

「御眞影樣」同寺の御影堂(ごえいどう)にある宗祖親鸞聖人の木像を指す。

「大谷御廟本」「本」は「もと」で、「御前」と同じく一種の敬語か。西本願寺が所有する親鸞の墓所。ここ

「池永主稅」以下四人は西本願寺坊官。孰れも諸文書に署名がある。]

曲亭馬琴「兎園小説拾遺」 第二 「二條御番内藤豐後守組寄騎伏屋吉十郞より或人え郵書 七月四日出 同十二日到着 書面之寫」

 

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。昨年二〇二一年八月六日に「兎園小説」の電子化注を始めたが、遂にその最後の一冊に突入した。私としては、今年中にこの「兎園小説」電子化注プロジェクトを終らせたいと考えている。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちら(右ページ下段)から載る正字正仮名版を用いる。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。

 馬琴の語る本文部分の句読点は自由に変更・追加し、記号も挿入し、一部に《 》で推定で歴史的仮名遣の読みを附した。今回は短いので、そのままとした。

 本篇は「京都地震」関連記事の第二弾。第一篇で注した内容は、原則、繰り返さないので、必ず、そちらを先に読まれたい。また、以下の二条城内の施設の様態や名称などは、調べるに、労多くして、私自身への益が殆んどないので、何となく勘で読み、読点を打ったが、多く誤りがあると思われる。重大な誤認部については御教授戴ければ、修正する。注は中に入れ込んだ。標題の「寄騎」は「與力」(与力)の当て字と判断した。

 

   ○二條御番内藤豐後守組
    寄騎《よりき》伏屋吉
    十郞より、或人へ、郵
    書、七月四日、出、同
    十二日到着、書面之寫。

文政十三寅年、京都大地震、御城内外、騷動、荒增《あらまし》記《しる》し申候。七月二日、夕七ツ時[やぶちゃん注:午前四時前後。以下総て定時法で換算した。]、打《うち》候て、程なく、地震、最初は、少し、ゆり初め、直《ぢき》に烈敷《はげしく》ゆり出《いだ》し、中之御小屋に居兼《をりかね》、庭へ、はだしにて駈出《かけいだ》し候處、益《ますます》募り、御小屋、御藏前、又は、廣き場所へ走出し候處、御米藏前、家根瓦、瀧の如く落《おち》、西小屋引出《ひきいだ》しは、小屋々々、住居《ぢゆうきよ》、幷《ならびに》、下陣《しものぢん》、暫時に、ゆりつぶし、逃出《にげいだ》し候も、間に合《あひ》かね候ものは、押《おす》に打《うた》れ申候。損所《そんずところ》は高麗御門《かうらいごもん》と申《まをす》、御本丸へ入候《いりさふらふ》總銅《さうどう》の御門、左手へ、たふれかゝり續き、御土塀、御天守臺、處々、損じ、御堀端通り、不ㇾ殘、三寸づゝ、さけ、其外、御城内、幷、御小屋、一めん、蜘《くも》の巢のごとく、ゑみわれ申候[やぶちゃん注:「ゑみ」は「笑み」で「口を開いて笑うが如く、ぱっくりと割れてしまった」ことを言う。]。西御門脇御小屋裏、高御土居の上、巾一尺程、ゑみわれ、二十間程[やぶちゃん注:三十六メートル強。]の御土居に候得ども、外御堀の方え、今にも崩れ落候樣に、「ふらふら」いたし候樣に御座候。其外、御太鼓櫓、昭[やぶちゃん注:底本にママ注記有り。]、石壇、鴈木《がんぎ》、なだれ落《おち》、上の御土塀も倒れかゝり、中仕切御門《なかじきりごもん》、臺續き石垣、二間[やぶちゃん注:三・六メートル。]程、拔落《ぬけおち》、二、三尺の石、落《おちて》有ㇾ之。西御門の御燒失迹《ごしやうしつのあと》、御門、臺石垣、處々、崩れ、御門、ねぢれ、西御門御橋も、ねぢれ、往來、危く候故、一人立《ひとりだち》にて、急ぎ通り、米ばかり、少々づゝ運び候よし。西御門續き、小門續き、御土居上、土塀、倒れ、御城外、見通《みとほ》し申候。御廊下橋入口御門、幷、土塀、十間[やぶちゃん注:約十八メートル。]、二十間程づゝ崩れ、御厩曲輪通《おうまやぐるわとほ》り御筋、塀、不ㇾ殘、ひゞわれ、拔倒《ぬけたふ》れ、東御門大番所うしろ、御土塀、大槪、倒れ、御破損。定小屋《ぢやうごや》、一ケ所、つぶれ、東御門、臺石、所々、はら、み渡出《わたしいで》し。塀等、損所、多く、御入物《いりもの》御道具外、箱等、不ㇾ殘、こわれ、辰巳《しんみ》・未申御櫓《びしんおやぐら》、其外、白土《しろつち》、鉢卷《はちまき》等、咸《みな》、落《おち》、御熖硝藏《ごえんしやうぐら》家根瓦、不ㇾ殘、落、稻荷、石鳥居、同燈籠、大抵、たふれ、但《ただ》、鳥居、三本、柱燈籠、十六、七本。稻荷曲輪《いなりくるわ》、入江御門棟通《いりえごもんどほ》り、落《おち》、石垣、破れ落、往來も、甚《はなはだ》氣遣敷體《きづかはしきてい》。稻荷曲輪同心は、不ㇾ殘、小屋、つぶれ、同心三人程、逃出し候に間に合兼《あひかね》、押に打れ、漸《やうやう》助出《たすけいだ》し候よし。先づ、一命には拘《かかは》り申間敷《まをすまじき》かと申候。七半時《ななつはんどき》[やぶちゃん注:午後五時頃。]より、地震は間遠に相成候得共、時々、地ひゞきいたし、其度々、壁、瓦、落、つぶれ候程には無ㇾ之候得ども、住居成兼《すみゐなりかね》候御小屋も餘程有ㇾ之。上下、身の置《おき》處なく、各《おのおの》、色を失ひ、十方《とはう》にくれ候次第にて、御小屋、押に打れ候者、助け出し候へども、步行不ㇾ叶《ほかうかなはざる》者、兩三人、有ㇾ之、是も一命に拘り不ㇾ申、戶板に乘せ、舁運《かきはこ》び候體《てい》、火事場よりも物凄く、『此上、いか程强き地震可ㇾ有ㇾ之哉《や》。」と、心中不ㇾ平《たひらかならず》、此上もなく覺申候。不ㇾ殘、御小屋内空地《おこやうちあきち》へ寄集《よりあつま》り、高張箱挑燈《たかばりはこぢやうちん》抔をつけ、寄《より》こぞり申候。六時《むつどき》[やぶちゃん注:暮六ツ。午後六時頃。]頃、俄に、所司代、御見分有ㇾ之。御破損奉行《ぶぎやうせらる》。其外、在役之者は、持場々々、見廻り、東西に駈走《かけはし》り候。兩御番頭《おばんがしら》、御出《おいで》にて、御殿、御金藏、其外、御門臺、御櫓等、不ㇾ殘、損所、御見分有ㇾ之候に付、御城入《ごじやういり》有ㇾ之候。六ツの御太鼓、打延《うちのべ》候間、所司代御城入は、五時過《いつつどきすぎ》[やぶちゃん注:午後八時過ぎ。]に相成申候。西御小屋内、御通りぬけ有ㇾ之候。最《もつとも》、所司代御城入に付、地役も、不ㇾ殘、組之者、召連《めしつれ》、御城入。御門番も御門に相詰《あひつめ》候。夜中も、度々《たびたび》、地ひゞきいたし、上下、安き心、無ㇾ之、皆々、外にて夜を明《あか》し、三日に至り、夜中とても、今に、時々、震動いたし、御小屋に相休み兼《かね》、寄集り居《をり》申候。御殿向《こてんむき》、御天井、幷、御襖繪、多く、さけ、損じ候。御襖、御欄間《らんま》、彫物《ほりもの》等も落ち損じ候。御金藏、御車屋も、瓦等、落申候。最《もつとも》、此《この》六、七日は、炎暑、甚敷《はなはだしく》、夜中も蒸暑《むさつ》く、堪《たへ》かね申候。大坂御城中抔は、是迄、覺《おぼえ》なき大暑にて、晝の内は、隣小屋へも參り兼《かね》候程の、大暑、上下、堪兼候よし。地震の樣子、いまだ大坂の左右《さう》は承り不ㇾ申候。御城外市中は、別《べつし》て、土藏、多く損じ、怪我人も、餘程有ㇾ之候よし、噂、有ㇾ之候。堀川通り其外、御城下御栅内馬場へ、女子共《をんな・こども》、敷物、出し、三日、終日、外にて暮し申候樣子、此上、靜《しづか》にいたし度《たく》、夫《それ》のみ、申くらし候。土御門陰陽師より、所司代へ、「いまだ此上、强き地震、可ㇾ有ㇾ之候間、用心可ㇾ有ㇾ之。」と申候由にて、上下、膽《きも》を冷し居申候。御番所は、東西とも、少しも怪我《けが》無御座候。

  七月四日

 [やぶちゃん注:「鉢卷」土蔵造りで、防火用に粘土と、漆喰(しっくい)を厚く塗り込めた軒下部分を指す。

大和怪異記 卷之四 第十四 狐をおどして一家貧人となる事 / 卷之四~了

 

[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の本文部分はここから。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。なお、底本のルビは歴史的仮名遣の誤りが激しく、ママ注記を入れると、連続してワサワサになるため、歴史的仮名遣を誤ったものの一部では、( )で入れずに、私が正しい歴史的仮名遣で《 》で入れた部分も含まれてくることをお断りしておく。]

 

 第十四 狐をおどして一家(《いつ》け)貧人(ひんじん)となる事

 肥前の土民(どみん)甚六といふもの、五月なかば、子供二人、つれ、朝、とく出《いで》て、田をうゑ、ひるつかた、馬に草かひ、ものなど、くひ、やすみいたる所に、ひだりのかたの、そわに、きつね、よく、いねて、死(しに)たるごとくに、みゆ。

 子ども、見付《みつけ》、

「あれや。」

と、いふほどこそあれ、親子三人、地をたきて、おめき、さけべば、きつね、めをさまし、

「つ」

と、をきて、にげゆく。

 二人の子ども、ひろきのばらを、いちあし出して、追《おひ》かくれば、其邊(《その》あたり)に居(ゐ)けるわかきものは、

『おもしろき事。』

にして、聲をあげ、手をうちて、あとにつゞく。

 かくれがも、なければ、のちは、いばらのしげれるなかに、おひこまれ、足、なへて、うごかず。

「ころさん。」

といふものも、あり。

「不便なり、ころすな。」

といふも、あり。いづれも、わらひて、歸りぬ。

[やぶちゃん注:「そわ」には、「近世民間異聞怪談集成」ではママ注記があるが、誤りではない。これは「岨」で通常は「そば」「稜(そば)」と同語源で、「山の切り立った険しい所・崖・絶壁」の意であるが、古くは「そわ」と表記したからである。

「のばら」「野原」。

「いちあし」「逸足」。急いで走ること。]

 かくて、二、三日過(すぎ)、甚六、ゆめ、見しは、いかなる人とも、しらず、よに、たつときすがたにて、枕上にたち、

「汝、つねに正直にして、道をまもるゆへ、福をさづくべし。汝が、豆、うゑたる畑の中、五尺下に、「ぜにがめ」、あり。掘(ほり)て取《とる》べし。」

と見て、ゆめ、さめぬ。

[やぶちゃん注:「よに」助動詞「やうなり」の近世口語形「ようなり」の連用形「ように」の変化したもので、副詞的に「いかにも~のようで」の意。]

 又、あくる夜(よ)の夢も、おなじごとく、見つ。

 三夜めには、甚六が妻子共゙も、おなじやうに、ゆめ、見ければ、あさ、とく、おきて、「かく。」

と、かたりあひ、

「我(われ)、年ごろ、福神(ふくじん)に、つくれる初穗(はつ《ほ》)を奉るゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、幸《さひはひ》をさづけ給ふにこそ。かならず、沙汰、なせそ。」と、さけなど、いはゐ、すき・くわを持《もち》て、うへ置《おき》たる豆を、ほりすて、おやこ、汗になりて、五尺ほど、ほりけれども、なにも、なし。

「爰(こゝ)にては、あらぬか。」

と、別の所を、ほれども、かはりたる事もなく、打腹立(うちはらたて)て、やどにかへり、つくれるものは、ほりかへして、物わらひになりぬ。

「沙汰、なせそ。」

といひて寢(ね)し。

 其夜、又、ゆめみるやう、

「汝、心、みじかし。祝ふ所に、福、來《きた》る。所の者どもにも、しらせ、よく、いわゐて[やぶちゃん注:ママ。]、地(ぢ)の底(そこ)、三間《さんげん》、ほりて見よ。かならず、有《ある》べし。」[やぶちゃん注:「三間」五メートル四十五センチ。]

と、みて、

「此上は。」

とて、近所の人を、よびあつめ、さけのませ、うたひ、たはふれ、十人ばかりにて、ほりけるに、はや、三間もほりたると、思ふとき、

「ぜにこそ、出《いづ》れ。」

といふ程こそあれ、土にまじりたるを、

「爰にもあり、かしこにもあれ、」

とて、十錢ばかり、ほり出《いだ》し、よろこび、いさみ、

「なを[やぶちゃん注:]、ひろく、ほれよ。」

とて、ひたほりに、ほる程に、

「かく。」

と、さたして、見に來《きた》る者ども、手に手に、十間[やぶちゃん注:十八メートル。]ばかり、ほりければ、暫く、ほりては、五錢、三錢、ほり出しける程に、其日、ぜに、五、六十、ほり出しぬ。

 さて、くれかたに歸り、人々、いへるは、

「げにも、土の内、二、三間下《した》に錢あること、ふしぎなり。つげのごとく、ぜにがめ、有べし。あけなば、人をやとひ、ほるべし。」

と云(いひ)て、あくる日は、二、三十人、やとひ、あさ、とく、あさ酒、したゝめさせ、又、終日(しうじつ)ほるに、五錢、三錢づゝ出ける程に、

「何(なに)さま、かめに、ほりつけん。」

と、日ごとに、家をすて、田うへ・草とる事を、やめ、夏のかてもの、たねあるかぎり、くらひ、もはや、食(しよく)すべき物、なければ、ほる事も、ならず。さらば、田うへつくりする事も、ならず。[やぶちゃん注:「かてもの」「糧物」。日々の糧食(りょうしょく)。]

 其年、家をうり、妻子、ちりぢりになり、後(のち)には、乞食(こつじき)となりにける。

「是は、かのきつねを追《おひ》、からき目、見せけるゆへ、かゝる「つげ」をなし、家を、ほろぼしけん。」

と沙汰し、あへりける。肥前土人物語

 

 

やまと怪異記巻之四終

[やぶちゃん注:今までの例から、原拠のそれは書名ではなく、「肥前の土人(どじん)の物語り」になる、との意と、とる。今回は注は、読み易さを考慮して、総て文中に配した。]

2022/11/27

大和怪異記 卷之四 第十三 愛執によつて女のくびぬくる事

 

[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の本文部分はここから次のページにかけてである。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。なお、底本のルビは歴史的仮名遣の誤りが激しく、ママ注記を入れると、連続してワサワサになるため、歴史的仮名遣を誤ったものの一部では、( )で入れずに、私が正しい歴史的仮名遣で《 》で入れた部分も含まれてくることをお断りしておく。

 挿絵があるが、これは「近世民間異聞怪談集成」にあるものが、状態が非常によいので、読み取ってトリミング補正し、適切と思われる箇所に挿入する。因みに、平面的に撮影されたパブリック・ドメインの画像には著作権は発生しないというのが、文化庁の公式見解である。底本の画像はここ。]

 

 第十三 愛執(あい《しふ》)によつて女《をんな》のくびぬくる事

 越中国に有德(うとく)なる人あり。男子(なんし)一人、女子(によし)一人を、もてり。

 かのむすめは、かたち人にこえ、すでに十四になりぬ。

 また、となりに十五になる美少人(びしやうじん)あり。

 かのむすめ、此男子に、れんぼして、度々《たびたび》、玉づさをおくりしかども、男子、返事をもせず。

 此事、いかゞして聞えけん、むすめが父母(ちゝはゝ)、かたく、たんせいして、むすめをほかに出さず。

 むすめ、かなしみ、うらみて、くひものを、たち、すでに死《しぬ》べく見えければ、うば、歎(なけき[やぶちゃん注:ママ。])て、いかにもして、男子にあはせんことをはかりしに、その事とても、かなふべくもあらねば、ひとしほ、なげきのいろ、まさりけり。

 

Kubinuke

 

 あるとき、男子、ゑん[やぶちゃん注:ママ。「緣」。縁側。]に出て、にはを、ながめけるに、むすめ、『いかにもして、あひたき』と思ふ心にや、くび、をのれと[やぶちゃん注:ママ。]、ぬけいで、へいのうへに居て、少人を、まもれり。

 これなん、世にいふ「轆轤首(ろくろくび)」とかや、いふものなるべし。

 かゝる所に、女子が兄(あに)、これをみるに、むすめがからだは、せうじ[やぶちゃん注:ママ。「しやうじ」で「障子」。]のうちに有《あり》ながら、くびは、かべの上にあり。

 ほそき糸、引《ひき》、はへたり。

 兄、おどろき、をそれ[やぶちゃん注:ママ。]、刀(かたな)をぬきて、いとを、切《きり》ければ、くびは、むなしく、へいより、ころびおちぬ。

 それより、となりの男子も、風のこゝちといひしが、四、五日、煩(わづら)て、つゐに[やぶちゃん注:ママ。]むなしくなれりとかや。

 轆轤首は「本草」・「五雜祖」などに記(しる)せる「飛頭蛮(ひとうばん)」の事なり。「叢談」

[やぶちゃん注:本文内の「轆轤首」の「轆」の字は、底本では「車」+「𢈘」(「鹿」の異体字)であるが、表字出来ないので、通常のそれを当てた。典拠とする「叢談」は私は不詳。

 さて、この話は、以下に見る通り、私は結構な数の「轆轤首」譚を電子化注してきているが、このシチュエーション――娘が隣家の美少年に恋をして、遂にその思いのために轆轤首に突発的に変じて、それを見てしまった実兄が驚き、迂闊にも糸を斬ってしまい死に(「死んだ」とは本文には書かれていないが、これは間違いなく死んでいる。「にょろにょろ」型の本邦の轆轤首ではなく、首だけが外れて飛び出して夜間に飛び回って、しかも、一本の糸で首と胴体が繋がっているというのは、実は唐(から)渡りの由緒ある「飛頭蠻」の古式の知られた属性なのである。私の『「和漢三才圖會」巻第十四「外夷人物」より「飛頭蠻」』を参照されたい)、ほどなく、その魅入られた少年も亡くなってしまう――という悲しい展開は他にあまり例を見ないものと思う。但し、若主人と腰元という設定で、挿絵がかなり似ているものに、私の

「太平百物語卷四 卅六 百々茂左衞門ろくろ首に逢し事」

がある(腰元は轆轤首に変じたことを恥ずかしく思い、致仕し、出家して尼になるという展開である)。

 轆轤首譚は、何よりも、小泉八雲の‘ ROKURO-KUBI ’にトドめを刺す。私の小学校三年生以来の永遠の遺愛の名品、

「小泉八雲 ろくろ首  (田部隆次訳) 附・ちょいと負けない強力(!)注」

を参照されたい。この注は、二〇一九年の公開当時の私の注としては、これ以上のものはないと思うリキを入れた「轆轤首」注であり、今も、その自信は基本、変わっていない。八雲のものでは、英文で「轆轤首」を訳すのに苦労したという語りで始まる、彼の、

『小泉八雲 化け物の歌 「五 ロクロクビ」  (大谷正信訳)』

は、面白い割に、あまり読まれていないと思うので、特に掲げておく。

 他に、総合的な意味では、公開の二〇一七年の私のブログの状況下では、頑張った注を附してある(ユニコード使用の前で正字化に不全があるのが恨みであるが)、

「柴田宵曲 妖異博物館 轆轤首」

が、一記事で手っ取り早く、本邦での「轆轤首」変遷を掻い摘んで読める便宜はある。以下、単発独立電子化注では、

「古今百物語評判卷之一 第二 絕岸和尚肥後にて轆轤首見給ひし事」

「諸國百物語卷之二 三 越前の國府中ろくろくびの事」

が、比較的読み応えがあり、また、ちょっと触れているだけであるが、

「宗祇諸國物語 附やぶちゃん注   千變萬化」

も参考になる。また、番外編としてお勧めなのは、噂で「ろくろ首」と差別された娘の珍しいハッピィー・エンドの快作、

「耳嚢 巻之五 怪病の沙汰にて果福を得し事」

と、小泉八雲がそうした噂を立てられた、自宅に出入りする髪結「オコトサン」の一件(やはりはハッピィー・エンド)を記した、

『小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第十八章 女の髮について (五)』

も、是非、読まれたい。

「玉づさ」「玉梓」「玉章」で「手紙」(時に「使者・使い」の意もある)。「たまあずさ」の転。昔、使者が梓(あずさ)の木の枝に結びつけて便りを運んだことによる。

「本草」明の李時珍撰で江戸時代まで本邦の本草学のバイブル的存在であった「本草綱目」のこと。「小泉八雲 ろくろ首  (田部隆次訳)」の注で原文の一部を引いたが、同書の巻五十二の「人之一」の掉尾(「本草綱目」本文の部の終りである)に配された「人傀」(じんくわい(じんかい):「人の怪異なる者」の意)のまさに最後の最後に、

   *

人具四肢七竅常理也而荒裔之外有三首比肩飛頭埀尾之民此雖邉徼餘氣所生同于鳥獸不可與吾同胞之民例論然亦異矣【山海經云三首國一身三首在崑崙東○爾雅云北方有比肩民半體相合迭食而迭望○南方異物志云嶺南溪峒中有飛頭蠻項有赤痕至夜以耳爲翼飛去食蟲物將曉復還如故也搜神記載吳將軍朱桓一婢頭能夜飛卽此種也欲○永昌志云西南徼外有濮人生尾如龜長三四寸坐則先穿地作孔若誤折之便死也】是故天地之造化無窮人物之變化亦無窮賈誼賦所謂天地爲爐兮造化爲工隂陽爲炭兮萬物爲銅合散消息兮安有常則千變萬化兮未始有極忽然爲人兮何足控摶化爲異物兮又何足患此亦言變化皆由于一氣也膚學之士豈可恃一隅之見而㮣指古今六合無窮變化之事物爲迂怪耶

   *

とある。今回は以上を国立国会図書館デジタルコレクションの風月莊左衞門寛文九(一六六九)板行の画像(ここから次の掉尾まで)を参考にしつつ、私の訓読を示しておく。

   *

人、四肢・七竅を具ふは、常の理(ことわり)なり。而しれども、荒裔の外(そと)[やぶちゃん注:辺境のさらにその外側。]に、三首・比肩・飛頭・埀尾の民、有り。此れ、邉徼(へんけう[やぶちゃん注:辺境。])、餘氣の生ずる所と雖も、鳥獸と同じくして、吾が同胞の民として例(くら)べて論ずべからず。然(しか)も亦、異なり。【「山海經」に云はく、『三首國、一身に三首たり。崑崙の東に在り。』と。○「爾雅」に云はく、『北方に比肩の民、有り。半體、相ひ合(がつ)し、迭(たが)ひに食しては、迭(たが)ひに望(なが)む。』と。○「南方異物志」に云はく、『嶺南の溪峒(けいどう)の中、飛頭蠻、有り。項(うなじ)に赤き痕(あと)有り。夜に至りて、耳を以つて翼(つばさ)と爲(な)し、飛び去りて、蟲や物を食らふ。將に曉(あかつき)に復(ま)や還(かへ)りて、故(かく)のごときなり。』と。「搜神記」に、『吳の將軍朱桓の一婢(いちひ)、頭、能く、夜、飛ぶ。卽ち、此の種なり。』と。』と。○「永昌志」に云はく、『西南徼外(けうがい)に濮人(ぼくじん)有り。尾(を)を生ずること、龜のごとく、長さ、三、四寸。坐せんと欲するときは、則ち、先づ、地を穿ちて、孔(あな)を作(な)す。若(も)し誤りて之れを折れば、便(すなは)ち、死す。』と。】是の故に、天地の造化、窮(きはま)り無く、人物の變化も亦、窮り無し。賈誼(かぎ)が賦(ふ)に、所謂(いは)ゆる、「天地を爐と爲(な)し、造化を工と爲し、隂陽を炭(たん)と爲し、萬物を銅と爲して、合散(がふさん)消息して、常(つね)有ることを安(やす)んずるときは、則ち、千變萬化、未だ始めより極(きはま)り有らず、忽然として、人と爲(な)る。何ぞ控摶(こうたん)する[やぶちゃん注:保持する。]に足(た)りてん。化して、異物と爲る。又、何ぞ患(わづら)ふに足らん。此れを亦、言はく、變化、皆、一氣に由(よ)るなり。」と。膚學(ふがく)の士[やぶちゃん注:浅学の徒。]、豈に一隅の見(けん)を恃(たの)んで、㮣(おほむ)ね古今六合・無窮の變化の事物を指(さ)して、「迂怪(うくわい)なり。」[やぶちゃん注:怪しく邪(よこし)まである。]と爲すべけんや。

   *

「五雜組」調べたが、同書には「飛頭蠻」或いは「飛頭」の文字列は存在しない。当初から気になっていたが、これは本書の作者の添書であろうからして、しばしば、私もふと勘違いする「酉陽雜組(俎)」の誤りではないかと踏んで、調べたところ、図に当たった。「酉陽雜俎」には「巻四」の「堺異」の中に、整理すると、五種の飛頭人(但し、「飛頭蠻」ではなく、「飛頭者」及び、一部の通称で「飛頭獠子」(ひとうりょうし)とする)の記載が並んであった。「中國哲學書電子化計劃」の影印本の当該部で起こす。句読点は同サイトの振ったものと、所持する東洋文庫の今村与志雄先生の訳を参考にした。訓読は今村先生のものをもとに自然流で行った。

   *

嶺南溪洞中往往有飛頭者。故有飛頭獠子之號。頭將飛一日前、頸有痕匝、項如紅縷。妻子遂看守之。其人及夜狀如病、頭忽生翼、脫身而去。乃於岸泥尋蟹蚓之類食、將曉飛還。如夢覺、其腹實矣。

梵僧菩薩勝又言、闍婆國中有飛頭者。其人目無瞳子、聚落時有一人。據于氏「志怪」、『南方落民、其頭能飛。其俗所祠、名曰蟲落。因號落民。』。

晉朱桓有一婢。其頭夜飛。

「王子年拾遺」言、『漢武時、因墀國使南方、有解形之民、能先使頭飛南海、左手飛東海、右手飛西澤。至暮、頭還肩上、兩手遇疾風、飄於海水外。

   *

①嶺南の溪洞の中(なか)に、往往にして、頭を飛ばす者、有り。故に「飛頭獠子」(ひとうりやうし)の號(な)有り。頭、將に飛ばんとする一日前、頸に、痕匝(こんそう)[やぶちゃん注:ぐるっと首を回った筋のような痕(あと)。]有りて、項(うなじ)の、紅縷(こうる)のごときものなり。妻子、遂(そのまま)に之れを看守(みまも)れり。其の人、夜に及び、狀(じやう)、病ひのごとくなりて、頭、忽ちに翼(つばさ)を生やし、身(からだ)から脫して去る。乃(すなは)ち、岸(かはぎし)に於いて、泥より、蟹・蚓(みみず)の類(たぐゐ)を尋(さが)し食(くら)ひ、將に曉(あかつき)にならんとするに、飛び還る。夢の覺めたるがごとく、其の腹、實(みて)り。

②梵僧[やぶちゃん注:インド出身の僧。]の菩薩勝(ぼさつしやう)、又、言はく、『闍婆國(じやばこく)[やぶちゃん注:ジャワ。]の中に、頭を飛ばす者、有り。其の人は目に瞳子(ひとみ)が無く、聚落には、時に一人は有り。』と。

③于氏(うし)が「志怪」に據(よ)れば、『南方の落民は、其の頭、能く飛ぶ。其の俗、祠(まつ)れる所のものを、名づけて「蟲落(ちゆうらく)」と曰ふ。因りて「落民」と號(なづ)く。』と。

④晉の朱桓(しゆかん)、一婢(いつぴ)有り。其の頭、夜、飛べり。[やぶちゃん注:今村先生の注によれば、この原拠は知られた晋の宝(かんぽう)の「搜神記」かとされ、それに従うなら、朱桓は呉の将軍である。]

⑤「王子年(わうしねん)拾遺」[やぶちゃん注:東晋の頃の志怪小説集。]に言はく、『漢の武の時、因墀國(いんちこく)の使(つかひ)いはく、『南方に、形を解(わ)くるの民、有り、能く、先づ、頭をして南海に飛ばしめ、左手は東海に飛ばしめ、右手は西の澤(さは)に飛ばしむ。暮れに至りて、頭、肩の上に還るも、兩手、遇(たまた)ま、疾風ありて、海の水外に飄(ただよ)へり。』と。

   *]

大和怪異記 卷之四 第十二 女鬼となる事

 

[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の本文部分はここ。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。なお、底本のルビは歴史的仮名遣の誤りが激しく、ママ注記を入れると、連続してワサワサになるため、歴史的仮名遣を誤ったものの一部では、( )で入れずに、私が正しい歴史的仮名遣で《 》で入れた部分も含まれてくることをお断りしておく。]

 

 第十二 女鬼となる事

 江戶、中橋《なかはし》に、庄右衞門といふ者あり。

 其妻、をつとを、ねたむ事、つもり、いつとなく、わづらひ、日かずふるまゝに、をとろへはて[やぶちゃん注:ママ。]、死すべきほども、ちかく見えしかば、をつとも、そばをはなれず、まもり居けるが、ある夜、

「がは」

と、おきあがり、

「あら、腹立(はらたち)や。」

と、いひて、双(さう)のゆびを、おのが口にいれ、引《ひき》ければ、みゝのねまで、さけ、かみ、さかさまにたちて、しゆろの葉のごとくなるを、みだし、をつとに、とびかゝるを、前なるふとんを取(とつ)て、なげかけ、

「むず」

と、くみ、

「よれや、ものども。」

と、聲をたてければ、下人も、となりのものも、かけつけ、よぎ・ふとん、うちかけ、六、七人、をりかさなり、

「ゑいや。」

声を出《いだ》し、をしころしける[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。]。

 されども、よぎ・ふとん、とりのくる事、おそろしく、そのまゝふるきながびつに、をし入《いれ》、寺にをくりしを[やぶちゃん注:ママ。]、法師ども、

「かみ、そらん。」

とて、取出《とりいだ》し、みるに、眼(まなこ)を見ひらき、口は、みゝのねまで、きれ、かみは、ゑりける[やぶちゃん注:「彫(ゑ)りける」で「像として彫刻された」の意。]羅刹のごとくなりしかば、をそれ、わなゝき、ふたをし、燒塲(やきば)につかはし、火葬としける。

 是より、をつとも、わづらひつきて、百日ばかり後に、身まかりけり。

[やぶちゃん注:「犬著聞集」原拠。これは、幸いにして、後代の再編集版である神谷養勇軒編の「新著聞集」に所収する。「第十一 執心篇」にある「妬女(ねたみをんな)鬼(をに[やぶちゃん注:ママ。])となる」である。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の寛延二(一七四九)年刊の後刷版をリンクさせておく。ここと、ここ。そこでは夫の名を姓も添えて『高野庄(こうのせふ[やぶちゃん注:ママ。])左ヱ門』となっている。

「江戶、中橋」中橋は京橋の東西にあった橋で、江戸歌舞伎の始祖中村勘三郎が江戸で初めて芝居小屋を掛けた(寛永元(一六二四)年。但し、当時、彼は猿若勘三郎と名乗っていた)場所に近い。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「しゆろの葉のごとくなるを、みだし」この「みだし」を「近世民間異聞怪談集成」では「見だし」と翻刻しているが、ここは「見だし」では意味が通らない。これは「見」を崩した平仮名の「み」であって、「亂し」として、初めて意味が通る。 ]

大和怪異記 卷之四 第十一 孕女死して子を產育する事

 

[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の本文部分はここと、ここ。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。なお、底本のルビは歴史的仮名遣の誤りが激しく、ママ注記を入れると、連続してワサワサになるため、歴史的仮名遣を誤ったものの一部では、( )で入れずに、私が正しい歴史的仮名遣で《 》で入れた部分も含まれてくることをお断りしておく。]

 

 第十一 孕女(はらみ《をんな》)死して子を產育する事

 土佐国、浦邊にあるもの、懷姙《くわいにん》にて、身まかりぬ。

 しかるを、染(そめ)かたびらを、きせて、葬れり。

 其のち、近邊に「もちや」ありしに、夜(よ)ごとに、錢壱匁づゝもちて、もちを、かい[やぶちゃん注:ママ。]に來《きた》る女、あり。

 六日、來《きたり》て、七日めには、「かたびら」をもち來り、

「これに、あたるほど、たまはれ。」

とて、もちにかへて、歸りぬ。

 翌日、かたびらを見れば、あまりによごれし程に、あらいて、ほしけるとき、かの女のをつと、通りあはせ、これをみ、

『もし、塚をほりて取(とり)たるか。』

と、うたがひ、ゆへをとひければ、

「しかしか。」

と、かたりしかば、ふしぎの事におもひ、其夜、「もちや」がかたに、女、來るを、うかゞひみるに、をのが[やぶちゃん注:ママ。]妻なりしかば、あとを、したゐ[やぶちゃん注:ママ。]ゆくに、はか所《しよ》に入《いり》けるを、心しづかに、耳をよせて、きけば、あか子のなく聲、しけるほどに、いよいよ、あやしみ、つかを、ほりかへし見れば、子をうみて、ひざのうへに、すへたり[やぶちゃん注:ママ。]。

 その子を、つれかへり、はごくみしに、成人して、寬文元年の比(ころ)、十八、九歲にて、船頭と成(なり)、大坂に來りしを、見たり。

 死しても、子をおもふみちに、まよふ。

 おやのこゝろほど、あはれなる事は、あらじ。「犬著聞」

[やぶちゃん注:「犬著聞集」の後代の再編集版である神谷養勇軒編の「新著聞集」にも採られていないようであるが、これは「子育て幽霊」として頓に知られる話柄であり、私の記事でも枚挙に遑がないほど、甚だ多い。個人的には好きな類譚である(「餅」の代わりに「飴」であるものも本邦では多い)。蘊蓄物で個人的には好かぬが、原拠の一つなどを注で探っておいた「古今百物語評判卷之二 第五 うぶめの事附幽靈の事」や、「伽婢子卷之十三 幽鬼嬰兒に乳す」、また、民俗学からの「うぶめ」の考証物では、『柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 橋姫(3) 産女(うぶめ)など』を挙げておこう。また、当該ウィキの「子育て幽霊」もあり、その「餅を買う女」の項を見て戴くと、本譚の濫觴が南宋の洪邁の撰になる怪奇談集「夷堅志」(一一九八年成立)に載せるものと酷似することが紹介されてある。これは同書の「夷堅丁志」の「宣城死婦」である。「中國哲學書電子化計劃」の影印本の当該部で起こす。暴虎馮河の自然流で訓読する

   *

宣城經戚方之亂、郡守劉龍圖被害、郡人爲立祠。城中蹀血之餘、往往多丘墟。民家婦任娠、未產而死。瘞廟後、廟旁人家、或夜見草間燈火、及聞兒啼。久之。近街餅店、常有婦人抱嬰兒來買餅。無日不然。不知何人也。頗疑焉。嘗伺其去、躡以行、至廟左而沒。他日再至、留與語、密施紅線綴其裙、復隨而往、婦覺有追者、遺其子而隱。獨紅線在草間塚上。因收此兒歸。訪得其夫家、告之故、共發塚驗視、婦人容體如生、孕已空矣。舉而火化之。自育其子、聞至今猶存。荊山編亦有一事小異。

   *

 宣城、「戚方の亂」を經て、郡守劉龍圖、害せられ、郡人、祠(ほこら)を立てんと爲(す)るも、城中、蹀血(てうけつ)の餘り[やぶちゃん注:血の海となって。]、往往、丘墟[やぶちゃん注:荒れ果てた野。]、多し。

 民家の婦(をんな)、任娠して、未だ產せずして、死す。

 瘞廟(えいびやう)[やぶちゃん注:廟を設けて埋葬すること。]の後(のち)、廟の旁らの人家、或る夜、草の間(あひだ)に燈火を見、兒の啼くを聞くに及ぶ。

 之れ、久し。

 近街の餅(もちう)る店に、常に婦人の嬰兒を抱きて來たりて餅を買へる有り。然らざる日、無し。何人(なんぴと)なるか知らざるなり。

 頗(すこぶ)る、疑へり。

 嘗(こころ)みに、其の去れるを伺ひ、以つて、躡(あとお)ひ行くに、廟の左に至りて、沒(うしな)へり。

 他日、再び至れば、留めて與(とも)に語り、密(ひそ)かに紅き線-綴(いと)を、其の裙(すそ)に施し、復た、隨ひて往(ゆ)きたるに、婦、追へる者、有るを覺え、其の子を遺(のこ)して隱れたり。

 獨(ただ)、紅線のみ、草の間の塚の上に、在り。

 因りて、此の兒を收(いだ)きて歸る。

 其の夫(をつと)の家を訪ね得て、之れを告げし故、共に塚を發(あば)き、驗(こころ)み視るに、婦人の容體(やうたい)、生けるがごとく、孕(はら)は、已に空(くう)たり。

 舉(とりあ)げて、火にて、之れを化(おく)れり。

 自(みづか)ら、其の子を育み、聞くに、今に至りて、猶ほ、存すと。

 「荊山編」に『亦、一事の小異、有り。」と。

   *

「寬文元年」一六六一年。徳川家綱の治世。

「死しても、子をおもふみちに、まよふ」と一見、辛口に批評しつつ(仏教では父母の子を思う心を最大の妄執の一つとして戒めている)、糞「徒然草」の辛気臭いそれに終らず。「おやのこゝろほど、あはれなる事は、あらじ」と思いやって感じは、いい。]

大和怪異記 卷之四 第十 蜘蛛石の事

 

[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の本文部分はここ。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。なお、底本のルビは歴史的仮名遣の誤りが激しく、ママ注記を入れると、連続してワサワサになるため、歴史的仮名遣を誤ったものの一部では、( )で入れずに、私が正しい歴史的仮名遣で《 》で入れた部分も含まれてくることをお断りしておく。]

 

 第十 蜘蛛石(くもいし)の事

 紀伊国那賀郡貴志庄《きいのくになかのこほりきしのしやう》北山村の西北山の半腹に、「蜘蛛石」とて、大小、數十(す《とう》)、皆、白色(しろいろ)なり。

『むかし、此所に「大くも」ありて、徃來(わうらい)の人を、なやますとき、貴志正平といふ者、かの「くも」を、退治す。蜘蛛がほね、石となれり。』と云傳(《いひ》つた)ふ。「紀州志」

[やぶちゃん注:「紀州志」既出既注であるが、再掲すると、「南紀名勝志」或いは「紀州名勝志」・「南紀名勝略志」という名で伝わる紀州藩地誌の写本の中の一冊であろう。底本と同じ「新日本古典籍総合データベース」の「南紀名勝志」を参看したところ、同書の「那賀郡」のここにあった。本篇の内容とほぼ同様であるが、一点、原拠では、退治した貴志正平を『社司』としている。

「紀伊国那賀郡貴志庄北山村の西北山」現在の地名としては、和歌山県紀の川市貴志川町北山となるのだが、「ひなたGPS」で戦前の地図を見てみると、「北山」は大字名であることが判り、この時には、「那賀郡中貴志村」に統合されていたことが判る。さらに、その西部分には「口北」・「西出」・「西山」の地名が確認されることから、私は、この蜘蛛石の比定地を現在の北山の西方の、この辺りではないかと、一旦は考えた。ところが、それを再検証しようと、調べてみたところ、サイト「ニュース和歌山」の「妖怪大図鑑」の「其の百弐拾〜蜘蛛血石(くもちいし)」に酷似する怪石が、この同じ貴志川町にあるとする記事があるのを見つけた。そこには、『紀の川市貴志川町、高畑山にある白岩には、白い肌に点々と血で染めたような斑がついていて、地元で「蜘蛛血石」と呼ばれている。かつて高畑山に棲んでいた大蜘蛛を坂上田村麻呂が退治した時、大蜘蛛が流した血の痕だという。現在なお、この山には「蜘蛛血石」がごろごろあるというが、ある男がこの石を持ち帰ったところ、石から夜な夜な「高畑山へ帰してくれ」と声が聞こえてきた。他にも、夜中に泣き出すとか、色が変わるとか、奇妙な現象が絶えなかった。』とあるのである。これは退治者が高名な人物であるが、間違いなく、本篇の石であると考えてよいだろう。そこで「高畑山」がポイントになる。調べた結果、山の名は見出せなかったものの、「紀の川市役所」の「農林整備課」の作成になる詳細を極めた「紀の川市ため池マップ」PDF)の「3」の「302085197」番の溜め池の名に貴志川町「高畑池」が載っていた。しかも、これをグーグル・マップ・データで見ると、貴志川町北山に辛うじて含まれてある、北の山間の池(中央の種型の小さなもので東の貴志川町丸栖に突き出ている。これはこの池の水が北山地区の水利用であることを示すものである)であることが判明した。さればこそ、やはり、この比定地は和歌山県紀の川市貴志川町北山でよかったのであった。而して、北山地区の産土神の『社司』であると仮定すれば、一つ、北山地区にあって、高畑池の南麓にある北山妙見宮(グーグル・マップ・データ)が候補となるか。ゆきまる氏のブログ「ゆきまるのブログ」の「北山妙見宮(紀の川市貴志川町北山)」を見ると、『旧那賀郡貴志荘北山村に鎮座とあるが、『紀伊続風土記』に記載なし。明治時代以降の造営と思われるが、境内に昭和53年(1978年)4月に改築した記念碑があり、これ以前にはすでに存在していたと思われる』とあったので、候補たり得るものと私は考える。先の「ひなたGPS」で見ると、山の名が「御茶屋御殿山」とあるのだが、その南の山腹に実に「白岩」とあるのを発見した。ますますここの可能性が、いや高である。私は高校時代地理Bまで、三年間、地理を習った地理フリークで、旅行は好まないものの、地図を調べるのは、頗る好きで、こうした検証は、只管、面白いのである。]

2022/11/26

大和怪異記 卷之四 第九 蜂蜘にあだをむくふ事

 

[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の本文部分はここから。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。なお、底本のルビは歴史的仮名遣の誤りが激しく、ママ注記を入れると、連続してワサワサになるため、歴史的仮名遣を誤ったものの一部では、( )で入れずに、私が正しい歴史的仮名遣で《 》で入れた部分も含まれてくることをお断りしておく。]

 

 第九 蜂(はち)蜘(くも)にあだをむくふ事

 相刕小田原の蓮池に、ふねを入《いれ》て、

「盆前(ぼんぜん)に葉花(ははな)を切(きり)する。」

とて、舟に乘居(のりゐ)ける者ども、船ばたに、手うちかけ。しばらく休(やすら)ひけるに、蜂、一つ、來て、花をすひけるが、蜘のゐにかゝりけるを、葉の下より、蜘、出《いで》て、ゐにて、まきけるに、蜂も、しばしは、ゐをやぶりかねしが、とかくして、やうやう、にげさりける。

 其後《そののち》、此くも、蓮花(はすの《はな》)の、半《はん》びらきたるにのぼり、ゐをもつて、まきよせ、はなのうへを、とぢあはせ、其内に、かくる。

「いかに、かくは、するぞ。」

と心をつけ、見ける所に、しばらくありて、蜂一つ、來《きた》ると思へば、あとより、百ばかり、

「どつ」

と、來て、蜘のかくれ居(ゐ)たる花のあたりを尋《たづぬ》ると見へけるが、蛛のかくれたる花にとりつき、みるうちに、花を、あみのごとくに、さしやぶり、

「ばつ」

と、立《たち》て、さりぬ。

 人々、舟をよせて、此花のうちをみるに、かくれたる蛛、

「ずだずだ」

になりて、死《しし》けり。

 前に、ゐにかゝりたる蛛、出《いで》て、ゐにてまかれし意趣を思ひ、ともを、もよほし、あだをむくゐける、と見えたり。相刕圡人物語

[やぶちゃん注:これも原拠は書名とは見做さない。「相刕(さうしう)の圡人(どじん)の物語り」である。

「相刕小田原の蓮池」これはまず、候補としては、小田原城南堀の別名「蓮池」(グーグル・マップ・データ)ととっておくべきか。城の北直近に明日池弁財天社もある。

「ゐ」「圍」(囲)で蜘蛛の網のこと。]

大和怪異記 卷之四 第八 蛇塚の事

 

[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の本文部分はここ。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。なお、底本のルビは歴史的仮名遣の誤りが激しく、ママ注記を入れると、連続してワサワサになるため、歴史的仮名遣を誤ったものの一部では、( )で入れずに、私が正しい歴史的仮名遣で《 》で入れた部分も含まれてくることをお断りしておく。]

 

 第八 蛇塚の事

 奧刕二本松領塩田郡(しほたごほり)宮本といふ所の明神の前にて、ある人、三、四尺ばかりの蛇をころしければ、それより、蛇、むらがり來り、われと、はらを、くひやぶりて、一万ばかり、いやがうへに、かさなり、死す。

「これ、たゞことに、あらず。」

とて、つきこめ、「蛇塚」とて、今にあり。

 かの蛇ころしける者は、程なく、一家(いつけ)、滅亡せり。いかなるゆへか有《あり》けん。

[やぶちゃん注:「犬著聞集」原拠。これは、幸いにして、後代の再編集版である神谷養勇軒編の「新著聞集」に所収する。「第六 勝蹟篇」にある「奥州蛇塚(じゃづか)」である。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の寛延二(一七四九)年刊の後刷版をリンクさせておく。同合巻「二」PDF)の64コマ目から。

「奧刕二本松領塩田郡(しほたごほり)宮本」福島県二本松市宮本

「明神」現在は見当たらない。]

大和怪異記 卷之四 第七 異形の二子をうむ事

 

[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の本文部分はここから。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。なお、底本のルビは歴史的仮名遣の誤りが激しく、ママ注記を入れると、連続してワサワサになるため、歴史的仮名遣を誤ったものの一部では、( )で入れずに、私が正しい歴史的仮名遣で《 》で入れた部分も含まれてくることをお断りしておく。]

 

 第七 異形(い《ぎやう》)の二子(ふたご)をうむ事

 奧州南部盛岡の妙泉寺門前の百性が女房、延宝八年夏のころ、二子をうみしに、一人(ひとり)は、片手、ながく、片手、短く、足、かゞまり、身に、毛、生《おひ》ければ、さながら猿猴(《えん》こう)に、ことならず。

 いまひとりは、目・鼻、なくして、手、七つ、足、四十三本あり。

「かゝることやうなる者は、はぢをさらさずれば、あとのため、よし。」

とて、捨《すて》たりしを、ある人、

「やしなひみん。」

とて、乳(ち)をのませけるに、五、六日へて、死しけり。

[やぶちゃん注:「犬著聞集」原拠。これは、幸いにして、後代の再編集版である神谷養勇軒編の「新著聞集」に所収する。「第十 奇怪篇」にある「異形(いぎやう)の二子(ふたご)を同產(どふさん[やぶちゃん注:ママ。])す」である。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の寛延二(一七四九)年刊の後刷版をリンクさせておく。ここ。にしても、二人目の奇形は甚だしい。これをも育てようとしたというのは、奇特の極みである。

「妙泉寺」現在の岩手県盛岡市加賀野にある寺(グーグル・マップ・データ)。

「延宝八年」一六八〇年。は徳川家綱(延宝八年五月八日(一六八〇年六月四日)没)・徳川綱吉の治世。

「猿猴」猿。]

大和怪異記 卷之四 第六 女の尸蝶となる事

 

[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の本文部分はここ。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。なお、底本のルビは歴史的仮名遣の誤りが激しく、ママ注記を入れると、連続してワサワサになるため、歴史的仮名遣を誤ったものの一部では、( )で入れずに、私が正しい歴史的仮名遣で《 》で入れた部分も含まれてくることをお断りしておく。]

 

 第六 女の尸(かばね)蝶《てふ》となる事

 ちかき比《ころ》にや、會津に何がしとかやいふものゝ婢女(げじよ)、朝(あさ)け[やぶちゃん注:ママ。]の米をかしくとて、ふと、わらひ出《いで》、聲のかぎり、どよみ、たをれて[やぶちゃん注:ママ。]、いき絕《たえ》たりしを、火葬になせるに、火も、漸く、めぐる、と見えしとき、鐵砲のごとく、鳴出(なり《いだし》)、たちまちに、火(ひ)消《きえ》、ちいさき蝶、いく千万となく、飛出(とび《いで》)、四方にちりしを、ふしんに思ひ、よりてみれば、はねも、のこらず。

『さては。しがゐ[やぶちゃん注:ママ。]、蝶になりし。』

と、おのおの、きゐ[やぶちゃん注:ママ。]の思ひをなす。

 其蝶、二つ、ほしからびたるを、信州高遠、月岡宗二といふ人のもとに、緣有人《えんあるひと》、をくり[やぶちゃん注:ママ。]侍《はべり》ぬ。「犬著聞」

[やぶちゃん注:原拠は「犬著聞集」。本書は本書最大のネタ元で既に注済み。「犬著聞集」自体は所持せず、ネット上にもない。また、前話の最後で示した同書の後代の再編集版である神谷養勇軒編の「新著聞集」にも採られていないようである。同様の場合は、以下ではこの前振りは略すこととする。さて、本篇、甚だ短いが、その中に、複数の怪異要素があるため、逆に一読、かなり印象に残る怪奇談である。まず、

①「笑い死にの不思議」。この下女、或いはマジック・マッシュルームの一種である担子菌門真正担子菌綱ハラタケ目オキナタケ科ヒカゲタケ属ワライタケ Panaeolus papilionaceus をこっそり食べて、幻覚性のかなりあるサイロシビン(Psilocybin)中毒になったものか? しかし、本邦産では死亡例はないようである(当該ウィキを参照)。或いは、基礎疾患があったか? 不思議。

②「鉄砲のように爆(は)ぜる火葬体の不思議」。現代のように高温で短時間で焼かれる場合には、しばしば遺体は爆ぜる。しかし、ここは古い野焼きのそれで、およそ鉄砲のように鳴りだすというのは、怪異(けい)に他ならない。極めて考え難いが、遺体とともに火葬に附した彼女の帷子或いは副葬で燃やしたものの中に、火薬様(よう)の物が含まれていたものか? 山猟の若者が恋人で、お守り代わりにそんなものを渡していたというのは、現在の弾丸ならまだしも、ポンポンと鳴りだすことなどは、ない。今の医療の場合なら、死の直前に特殊な薬剤を注入していたなどという原因可能性も考え得るかも知れないが。不思議。

③「火葬後の遺体から幾千万となく翔び立っていった蝶の不思議」。たまたま御棺に用いていた木板が古い安物で、白アリに喰われていたとかぐらいしか思い浮かばぬ。或いは、焼く場所の下に古木に根が残っており、彼らが熱とともにワーンと飛び立ったものか? 不思議。

④「後日にその蝶の二羽の干乾びた標本が会津から高遠まで送られた事実とその受領者の姓名が月岡宗二と明記されているリアリズム」。怪奇談の御約束事の超リアル(に見える)附帯後日談のこれは、実にニクいじゃないの!

「高遠」長野県伊那市高遠(グーグル・マップ・データ。但し、指示されたそこは高遠町西高遠)附近。桜の名所として知られる。私は行ったことがないが、私がただ一編、読んで気に入った井上靖の小説「化石」で記憶に刻まれている。

「朝け」「朝餉(あさげ)」。

「かしく」「炊(かし)ぐ」。

「月岡宗二」不詳。]

大和怪異記 卷之四 第五 古井に入て死る事

 

[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の本文部分はここから。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。なお、底本のルビは歴史的仮名遣の誤りが激しく、ママ注記を入れると、連続してワサワサになるため、歴史的仮名遣を誤ったものの一部では、( )で入れずに、私が正しい歴史的仮名遣で《 》で入れた部分も含まれてくることをお断りしておく。]

 

 第五 古井(ふる《ゐ》)に入《いり》て死(しす)る事

 奧州の者、かたりけるは、我国に、あるもの、

「井の水を、かゆる。」

とて、奴僕(ぬぼく)をあつめ、かへさせけるに、下の、にごり、つきず。

 とかく、

「人をおろし、掃除させよ。」

とて、井底におろしけるに、ひかへたる繩、かろければ、

『定(さだめ)て、おりゐたるらん。』

と思ひ、まて共゙まて共゙、おと、なければ、不思議におもひ、又、人を、おろすに、なわ[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。]、かろくなりて、かの者は、いづちゆきけん、しらず。

 みなみな、奇異の思ひをなし、あきれ、まどへり。

 其中に、をごの者、ありて、

「いざ、我をおろし給へ。いかなる變化(へんげ)の所爲(しよ《ゐ》)にもあれ、我は左《さ》は、せられじ。正躰を見とゞけん。」

と望み、手縄、二すぢ、より合せ、つよく帶(おび)し、かまを、こしにさし、桶の内に、足をふみ入《いれ》、おろせる繩に、をのが[やぶちゃん注:ママ。]こしを、つよく、ゆひ付、

「もし、かはれることあらば、此なわを、うごかさん。」

と、いひて、井に入《いり》しに、

『そこに、つきぬ。』

と思ふ時、かすかに、なわ、うごきしを、皆人(みな《ひと》)、手に手をかさね、引《ひき》あぐるに、ことの外にかろし。

 急《いそぎ》て、縄をくり上《あげ》たれば、又、人は、なく、こしに付《つけ》たる、なは、むすびたるまゝにて、もぬけせしごとし。

「こは、いかに。」

と、あきれ、まどゐぬれども、せんかたなし。

 井、ふかければ、そこ、見ゆるまでほらせんには、隣家(りんか)までも、くづれなん。

 もはや、「入れ」といふ事もなく、「入《いら》ん」といふ人も、なし。

「あたら、人を、おほく、ころせしよ。」

と、悔(くやみ)ながら、此井を、うづめし、となむ。

 是、「酉陽雜俎」・「輟畊錄」等に、古井ありて、人をうしなふ、と記(しる)せるたぐゐ成《なる》べし。陸奥国人ノ物語

[やぶちゃん注:原拠は書名とは思われない。本怪異は最後の志願者が縄を厳重に二重巻きで強く締めたのに遺体が抜けてしまっている点が不審乍ら、所謂、酸欠或いは一酸化炭素か二酸化炭素中毒で説明がつくであろう。

「おごの者」「おこの者」「おこ」は当て字では「嗚呼」「烏滸」が一般的で、他に「癡」(痴)「尾籠」などとも書く。古代からあった「愚かなこと・馬鹿げたこと・思慮の足りないことを行なうこと」、また、「そのさまや、そうしたその人」を意味する。小学館「日本国語大辞典」によれば、「うこ」の母音交替形で、奈良時代から盛んに用いられるようになり、漢字を当てて、日本漢文の中でも多く使われた。多くの漢字表記が残っているが、それぞれの時代で使う漢字が定まっていたらしい。平安時代の漢字資料では「𢞬𢠇」「溩滸」など、「烏許」を基本にこれに色々な(へん)を附した漢字を用い、院政期には「嗚呼」が優勢となり、鎌倉時代には「尾籠」が現われ、これを音読した和製漢語「びろう(尾籠)」も生まれた、とある。

「酉陽雜俎」唐の段成式(八〇三年~八六三年)が撰した怪異記事を多く集録した書物。二十巻・続集十巻。八六〇年頃の成立。「中國哲學書電子化計劃」の影印本で示すと、十一巻の「廣知」の中の「隱訣」の引用中、まず、ここの終りから二行目下方から、「井戸の水で、沸騰しているのは、飲んではいけない」とあり、次の丁の頭に、「凡そ、冢(墓)や井戸の閉じられた気は夏・秋に中(あた)ると、人を殺す。予め、雞(にわとり)の毛を投げ入れ、その毛が真っ直ぐ落ちていったなら、無毒であるが、それがぐるぐると旋回して下りていったら、無理をして危険を犯してはならない。醋(酢)を数斗[やぶちゃん注:唐代の「一斗」は五・九リットル。]注いで初めて、方(まさ)に入れるようになる。」とある

「輟畊錄」「輟耕錄」に同じ。元末の一三六六年に書かれた学者で文人の陶宗儀の随筆。正式には「南村輟耕錄」(「南村」は宗儀の号)である。世俗風物の雑記であるが、志怪小説的要素もある。当該話は多分、第十一の「枯井有毒」である。ここでは、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の承応元(一六五二)年板行の本邦の板本(訓点附き)を元に電子化して示すここ(巻十から十二の合本一括版)PDF)の31コマ目からである。但し、私の以下の訓読は、必ずしも訓点に従ってはいない。表記は若干、疑問があったので、「中國哲學書電子化計劃」の影印本と校合して一部を変えた。

   *

  枯井有毒(こせいうどく)

 平江の在城、峨嵋橋(がびきやう)に、葉剃(えふてい)といふ者の門首(もんしゆ)の簷(ひさし)の下に、一つの枯れ井、有り。深さ、丈(じやう)許(ばか)りなるべし。

 偶(たまた)ま、畜(か)ふ所の猫(ねこ)、墮ち入る。

 隣家、井を浚(さら)ふに適(あた)れば、遂に、井夫に錢一緡(さし)を與へ、下(お)りて猫を取らしむ。

 夫(そ)の父子、諾(だく)す。

 子、既に井に入りて、久しく出でず。

 父、繼(つづ)いて入り、之れを視るも、亦、出でず。

 葉、惶-恐(きやうこう)して、索(なは)を腰に繫ぎて、家人をして、次第に索を放たしめ、將に井の底に及ばんとして、亟(きふ)に、

「命(いのち)を、救へ。」

と、呼ばふ。

 拽(ひ)き、比(なら)べて、起こすに、體の下、已に僵木(きやうぼく)となること、屍(かばね)のごとく、而(しか)も、氣息、奄奄(えんえん)たり。

 鄕里(がうり)、救ひて、之れを活(い)かしめんとして、官に白(まを)す。

 官、來たりて、驗視(けんし)す。

 火をして、下を燭(てら)さしむに、仿佛(ほうふつ)として、旁(かたは)らに空(あ)ける者、有るがごとく見ゆ。

 向(さき)の死人、一(ひと)りは、橫に地上に臥(ぐわ)し、一りは、斜めに倚(よ)りかかりて、倒れず。

 其の髮を、鉤(ひきか)けて提(あ)げ出だせり。

 遍身、恙無(つつがな)くして、止(ただ)、紫黑なるのみ。

 衆議して以(おもへ)らく、

「恐らくは、是れ、蛟蜃(かうしん)の屬(ぞく)ならん。之れ、土(ど)を實(じつ)とす。餘意、山崗(さんこう)の蠻瘴(ばんしやう)すら、尚ほ、能(よ)く人を殺す。何ぞ況んや、久しき年、乾涸(かんこ)して、陰の毒、凝結し、其の氣を納(い)れて、而して死すを、復(ま)た奚(なん)ぞ疑はんや。」

と。

 此の事、至正己亥(きがい)の秋八月初旬に在り。後に「酉陽雜俎」を讀むに、云へる有りて、

『凡そ、冢(はか)・井(ゐ)の間氣(かんき)、秋、夏、多く、人を殺す。先づ、雞(にはとり)の毛を以つて、之れに投じて、直ちに下れば、毒、無し。廻り舞ひして下る者は、犯すべからず、當(まさ)に泔(ゆする)[やぶちゃん注:米の研ぎ汁。]數斗を以つて、之れに澆(そそ)ぎ、方(まさ)に入るべし。』

と。此の一章を得て、餘意の誠(まこと)に是れなるを信ず。

   *

この「鄕里」は当該地方の現地の実務官吏であろう。「土(ど)を實(じつ)とす」は『五行の「土」を本性・本質とする』の意でとる。「蠻瘴」蛮地の自然の悪しき瘴気。「至正己亥」は元の至正十九年。ユリウス暦一三五九年。トゴン・テムルの治世。中和剤が異なるのは御愛嬌。ここで遺体が「紫黑」というのは、一酸化炭素中毒の遺体によく似ている。同中毒死の直後は遺体がピンク色を呈するのである。]

大和怪異記 卷之四 第四 繼母の怨㚑繼子をなやます事

 

[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の本文部分はここ(標題のみ)とここ。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。なお、底本のルビは歴史的仮名遣の誤りが激しく、ママ注記を入れると、連続してワサワサになるため、歴史的仮名遣を誤ったものの一部では、( )で入れずに、私が正しい歴史的仮名遣で《 》で入れた部分も含まれてくることをお断りしておく。]

 

 第四 繼母(けいぼ)の怨㚑《おんりやう》繼子(まゝこ)をなやます事

 下㙒国那須の下蛭田村に助八といふ者あり。

 父は死し、繼母ばかりなるを、常につらくあたりしかば、母(はゝ)、恨みかこち、

「汝、いま、かくのごとく、からき目にあはする共《とも》、物には、むくゐ、あり。やがて、思ひしらせんものを。」

と、にらみし眼(まなこ)、いと、おそろしかりき。

 其後、母わづらひつきて死(しに)けるが、其夜より、怨㚑、來りて、助八を、なやましければ、おそろしさ、やるかたなく、身の毛よだち覚ける故、妻子をすて、かみをそり、湯殿山行人(ゆどのさんぎやうにん)にさまをかへ、諸こく、しゆ行せしより後、怨㚑、又も見へずなりしとかや。「犬著聞」

[やぶちゃん注:これは、「犬著聞集」の後代の再編集版である神谷養勇軒編の「新著聞集」に所収する。「第十二 冤魂篇」にある「継子(けいし)母(はゝ)にさからひ恨霊(こんれい)子(こ)を惱(なやま)す」である。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の寛延二(一七四九)年刊の後刷版をリンクさせておく。ここ(単独画像)。しかし、それを見ると、ロケーションを『下野(しもつけ)那須野(なすの)の内(うち)下蛙田村(しもかはつたむら)』とある。但し、調べるに、これは「新著聞集」の写し間違いかとも思われる。現在、広義の旧那須野の東に、栃木県大田原(おおたわら)市蛭田(ひるた)がある。

「湯殿山」山形県鶴岡市及び同県西村山郡西川町にある、標高千五百メートルの山。ここ(グーグル・マップ・データ)。近くの月山・羽黒山とともに「出羽三山」の一つとして、修験道の霊場として知られる。]

《芥川龍之介未電子化掌品抄》(ブログ版) 寄席 附:草稿二種 オリジナル注附き

《芥川龍之介未電子化掌品抄》(ブログ版) 寄席 附:草稿二種

[やぶちゃん注:大正一三(一九二四)年六月一日発行『女性』に掲載され、後、作品集『百艸』『梅・馬・鶯』に収録された。芥川龍之介満三十二歳の折りの小品である。盟友小穴隆一によれば、この作品が書かれた凡そ一年足らずの四月十五日、龍之介は自決の覚悟を小穴に伝えている(私の『小穴隆一 「二つの繪」(5) 「自殺の決意」』、及び、『小穴隆一「鯨のお詣り」(13) 「二つの繪」(2)「自殺の決意」』を参照されたい)。

 底本は岩波旧全集「芥川龍之介全集」第七巻(一九七八年刊)を使用した(『梅・馬・鶯』版底本で校合)。

 後に岩波新全集「芥川龍之介全集」の「第二十一巻 初期文章・草稿」に載る本作の草稿を恣意的に概ね正字化して添えた。

 オリジナルな簡単な注を文中及び最後に附した。]

 

 寄  席

 

 或春の夜、僕は獨逸から歸つて來た高等學校以來の友だちと或寄席の二階へ上つた。寄席へは何年にもはひつたことはない。のみならず高座を眺めるのも古往今來七八遍目である。それを今夜はひつたのは――寄席に藝を賣る藝術家諸君には甚だ失禮には違ひない。が、實は生憎ふり出した雨の晴れ間を待つ爲にはひつたのである。

 この寄席の天井は合天井である。高座も昔見た高座のやうに塗り緣の杉戶のあるばかりではない。お神樂堂を數寄屋にしたらばかうなるに違ひないと思つた位、甚だ瀟洒に出來上つてゐる。僕は寄席の高座と雖も、一藝を天下に示す舞臺は莫迦に出來ないのを發見した。

 かう云ふ高座に上つてゐるのは何とか云ふ年少の落語家である。落語家?――實は落語家と云ふものかどうか、その邊は頗る判然しない。もし藝を以て判斷すれば正に物眞似の藝人である。彼はやつと二分ばかり、何か辯舌を弄したと思ふと、忽ち座蒲團を向うへはねのけ、操り人形の眞似をし出した。それも日本の操り人形ではない。活潑なる西洋の操り人形である。僕は再び如何なる藝術も勞働を伴ふのを藝見した。

 その次に現れたのは女琵琶師である。これは綠色の袴の上へ桃色の被布を一着してゐたから、田園の春のやうに美しかつた。琵琶も亦甚だ小さい。まづ臺所の龜の子笊よりも幾分か大きいぐらゐである。彼女は情緖纏綿と那須の與一の扇の的を語つた。昔天德寺了伯はこの琵琶の一曲に淚を落したと云ふことである。僕は幸ひに泣かなかつた。――と云ふよりも寧ろ那須の與一に名狀すべからざる可愛さを感じた。彼女の曲中の與一は鞦置いたる木馬に跨り、五六間離れたる扇の的へ握り細の楊弓を引絞つてゐる。[やぶちゃん読み注:「鞦」「しりがい」。「握り細の楊弓」「にぎりほそのやうきゆう」。]

 その次に現れたのは落語家である。これは落語家に違ひない。正に落語を一席辯じた。但し一席か半席か或は又四半席か、その點は保證出來ない。のみならず落語家には違ひないにしろ、頗る騷騷しい落語家である。ハイネは徒らなる饒舌を「舌の戰ぎ」と形容した。これは「舌の戰ぎ」所ではない。盛なる舌の鳴動である。僕は活力に充滿した彼の顏を眺めながら、纔かに七八遍足を入れた昔の寄席を思ひ出した。――[やぶちゃん読み注:「戰ぎ」「そよぎ」。]

 僕の最初に聞いたのは柳橋と云ふ落語家である。ぼんやりした記憶を正しいとすれば、柳橋は色の蒼白い才槌頭の落語家だつた。當時まだ小學校の生徒だつた僕が孝行鍛冶の名を覺えたのは柳橋を聞いたおかげである。その次に聞いた落語家は――必しもその次には聞かなかつたかも知れない。しかしその次に思ひ出すのは圓喬と云ふ落語家である。彼は人間と云ふよりも火喰鳥に近い顏の持ち主だつた。その上又話をはじめる時には高座の直前に坐つてゐたにもしろ、到底はつきりとは聞えない位、小聲を出す技巧の持ち主だつた。その次に記憶に殘つてゐるのは「彌太つぺい」と稱する落語家である。僕は後に「彌太つぺい」の馬樂なることを發見した。馬樂は吉井勇君の俳諧亭句樂に違ひない。彼は酒燒けのした胸をいつも懷に覗かせてゐる毬栗坊主の落語家だつた。その次には全然身動きもせずに滔滔としやべり立てる圓藏である。或は高座へ脫いだ羽織に赤い色の見える遊三である。或は又枯骨にも舌のあるかと思ふ芝居話の桂小文治である。彼等は今日の落語家よりも、悉く上品ではなかつたかも知れない。たとへば遊三は年少の僕をも辟易させたことは確かである。しかし彼等は悉く今日の落語家よりも上手だつた。少くとも西洋人の言葉を借りれば、彼等自身のビズネスをちやんとのみこんでゐたやうである。が、あの高座にゐる落語家は――いや、もう高座に上つてゐるのは盛なる舌の鳴動業者ではない、嬋娟たる男裝の女劍舞である。[やぶちゃん注:「嬋娟」「せんけん」は容姿が艶(あで)やかで美しいこと。品位があって艶(なま)めかしいさま。]

 女劍舞はその後ろに羽織袴を着用した八字髭の紳士を從へてゐる。彼は劍舞のはじまる前――讀者はこの一條を信じないかも知れない。少くとも僕の老父などは「莫迦を云へ」と一笑に付したものである。が、これは譃ではない。彼は劍舞のはじまる前に雲井龍雄の詩の講義をした! 事の民衆に關するものは一として莊嚴ならざるはない。俗惡も勿論莊嚴である。寄席は百年の洗練に成つた江戶の風流を失却した。しかし風流は滅んだにしろ、莊嚴なる俗惡の存する限りは、必しも絕望に及ばずとも好い。俗惡は僕の脣に多少の嘲笑を浮べさせるであらう。が、俗惡を憎むことは、天の成せる通人は知らず、少くとも僕には出來ないことである。けれども公然と高座の上に雲井龍雄の詩の講義をするのは俗惡どころの不料簡ではない。まづ贋物の天國の劍を田舍の成金へ賣りつけるのと類を同うした罪惡である。僕はこの講義を聞いてゐるうちに、いつかあの八字髭の紳士を射殺したい誘惑を感じ出した。

 この誘惑を實行に移さなかつたのは一つには平生ピストルをポケツトに入れて置かない爲である。しかしまだその外にも全然理由のなかつた譯ではない。女劍舞をする女史は詩の講義の終つた後、朗朗たる紳士の吟聲と共に勇ましい劍舞を演じ出した。僕は如何なる劍舞にも危險以外の感銘を受けたことのない臆病者である。が、この一場の女劍舞は忽ち僕に幸福なる少年時代を想起させた。何でも明治三十年頃の「牛の御前」のお祭などには屢かう云ふ女劍舞の見世物小屋がかかつてゐたものである。其處までは無事だつたのに違ひない。けれども劍舞を終つた女史は刀や襷をとつてしまふと、今度は雲井龍雄からお龍さんか何かになつたやうに娘手踊りを演じ出した。これはもう善惡の問題ではない。善惡を超越した悲劇である。我我の生活に共通した二重職業の悲劇である。僕はこの悲劇的感銘のもとにあらゆる意志を失却した。同時に又あの八字髭の紳士を射殺したい誘惑をも失却した。悲劇は美學者の敎へるやうにまことに人間を淨化するものである!

 「おい、出よう。」

 僕は匇匇立ち上つた。

 「出るか? まだ降つてゐるだらう?」

 友だちも雨だけ氣にしてゐるのはさすがにあきらめの好い江戶つ兒である。二人は廣い木戶を出た後、蕭蕭と降る春雨の中を軒下も傳はらずに步きつづけた。兎に角今日の寄席と云ふものは雨宿りの役にも立たないらしい。

 

 

   「寄席」草稿二種

[やぶちゃん注:以下、おぞましい新字体採用の岩波新全集に載る草稿を概ね恣意的に正字化したもの(『久保田万太郞』は久保田自身が「万」と表記し、芥川龍之介の諸作でも「萬」ではなく「万」であるので、「万」としてある)。同書解題に拠れば、二種あって最初の草稿(編者によって『Ⅰ― a』とされるもの)は『署名の入った四枚』で、後の草稿(編者によって『Ⅰ― b』とされるもの)は御覧の通り、『同じ書き出しの箇所で表題などの無い二枚連続のもの』とある。興味深いのは、冒頭が元はロケーション設定ではなかったということである。二種を見るに、その書きっぷりから見ても、初めは純粋な随筆として書き始め、決定稿の額縁となる物語風の実景ロケーションは、実際の実見ではあるものの、後から嵌め込んだ可能性が高いと思われる。]

 

     寄  席

 

 寄席、落語家、講釋師、――さう云ふものに通じてゐるのは日暮里の久保田万太郞君である。或は根岸の小島政二郞君である。僕は――僕の田舍者に異らぬことは斷る必要もないかも知れない。が、時たま該博なる兩君の見聞を聞かされると、同じ東京に生まれながら、かうも違ふかと感心するほど、卸何にも無學を極めてゐる。けれども昔をふり返つて見ると、――と云ふと老人のやうに聞えるかも知れない。が、二十何年か前は兎に角昔には違ひないから、その昔なるものをふり返つて見ると、不思議にもやはり二三人は落語家や講釋師を覺えてゐる。

 その一人(ひとり)は柳橋である。僕は芝の何とか云ふ寄席へ父と一しよに行つた時に、この人の話す牡丹燈籠を聞いた。が、唯聞いたと云ふ外には殆ど何も覺えてゐない。柳橋自身も漠然(ばくぜん)と妙に色の靑白い好男子だつたやうに思ふだけである。

 圓喬と云ふ落語家は柳橋よりもはつきりと覺えてゐる。これは人間と云ふよりも駝鳥に近い顏の持ち主だつた。その上話をはじめる時には高座の下に坐つてゐても、決して滿足には聞きとれないほど、小さい聲を出す技巧家だつた。僕は誰よりも彼の顏や彼の話しぶりを覺えてゐる。しかし聞いた話そのものは不幸にも全然覺えてゐない。

 馬樂と云ふ落語家は當時の僕にはまづ「彌太つぺい」と敎へられてゐた。これは後に吉井勇君の戲曲に仕組まれた落語家であらう。彼は毬栗坊主の上に、いつもはだけた懷の中に酒燒けの胸を曝らしてゐた。僕は   [やぶちゃん注:底本に編者注で『三字欠』とある]〕の橘亭に彼の話す「三人心中」を[やぶちゃん注:以下、なし。]

 

[やぶちゃん注:以下、草稿の二種目。]

 

 寄席、落語家、講釋師、――さう云ふものに關する僕の知識は田舍出の書生も同じことである。動坂の寄席の前を通る時に、看板の名前を讀んで見ても、知つてゐる名前などは滅多にない。たまに又知つてゐる名前でもあれば、それは大抵新聞か何かに出てゐたと云ふ記憶のあるばかりである。けれども昔をふり返つて見ると、――と云ふと老人のやうに聞えるかも知れない。が、二十何年か前は昔と稱しても好いと思ふから、兎に角昔をふり返つて見ると、東京に生まれた難有さにはやはり落語家や講釋師の顏の二人や三人は覺えてゐる。[やぶちゃん注:以下、なし。]

 

[やぶちゃん決定稿注:「龜の子笊」(かめのこざる)は底が円く、口が広いもので、伏せた形が亀の甲に似た笊。「どんがめ笊」「どうがめいかき」とも呼ぶ。所謂、上部の一部が箕(み)のように開放されているタイプのものが、その形状に最もマッチする。

「天德寺了伯はこの琵琶の一曲に淚を落したと云ふ」戦国・安土桃山時代の武将佐野房綱(永禄元(一五五八)年~慶長六(一六〇一)年)。剃髪して「天徳寺宝衍」或いは「了伯」と号した。兄昌綱と甥宗綱の二代に亙り、下野佐野家当主を補佐した。天正一三(一五八五)年に宗綱が戦死し、北条氏忠が養子として佐野氏の家督を継ぐに至り、佐野家を出た。その後、上洛して豊臣秀吉に仕え、北関東の佐竹・宇都宮や下総結城氏・会津蘆名氏に、秀吉の意向を取り次ぐ役割を果たした。天正十八年の「小田原攻め」で北条氏を滅ぼして関東を支配下に収めた秀吉から、佐野家当主の地位を認められ、佐野唐沢山城に戻った。文禄元(一五九二)年、秀吉の命で富田知信の子信吉を養子に迎えて隠居している。以上は朝日新聞出版「朝日日本歴史人物事典」に拠ったが、当該ウィキによれば、天正一五(一五八七)年には、『すでに秀吉に仕えており、京都で自らルイス・フロイスと面会、佐野領奪還とその際のキリスト教保護の意向を示している』として、フロイスの「日本史」には、『「天徳寺と称する坂東の一人の貴人が」三、四『度、司祭を訪ねて来た。彼は思慮分別のある人物で、今なお繁栄している坂東随一の大学、足利学校の第一人者であった。知識欲が旺盛なためにヨーロッパの諸事ならびに我らの教えについて質問し、」と描かれている』とある。而して、この「琵琶の一曲に淚を落したと云ふ」のは、備前岡山藩主池田氏に仕えた徂徠学派の儒者湯浅新兵衛常山(宝永五(一七〇八)年~安永一〇(一七八一)年)の書いた戦国武将の逸話四百七十条から成る江戸中期の逸話集「常山紀談」(明和七(一七七〇)年成立とされる)の巻一にある「輝虎平家を語らせて聞かれし事佐野天德寺の事」に載る。国立国会図書館デジタルコレクションの湯浅元禎(他)輯の有朋堂大正一五(一九二六)年刊の画像のここの右ページ後ろから六行目から視認出来る。それによれば、彼が落涙したのは、まず、「平家物語」の佐々木高綱の「宇治川先陣」で、さらに望んで、「屋島の戦い」の那須与一の扇の的を射る下りを語った時、滂沱と落涙したとあるのを指す。読点を増やし、段落を成形し、記号と推定の読みも添えて以下に電子化する。別に所持する岩波文庫版の同書も参考にした。

   *

 相州北條の幕下佐野城主天德寺、勇將なりしが、或時、琵琶法師に「平家」を語らせ聞きけるに、未だ語らぬ先に、

「我は唯、哀(あはれ)なる事を聞き度(た)こそあれ。其心得せよ。」

と言ひしに、法師、

「承り候。」

とて、佐々木髙綱が宇治川の先陣を語り出(いだし)たりしに、天德寺、雨雫(あめしづく)と淚をながして泣たりけり。さて、又、

「今、一曲、前のごとく、哀なる事を、聞きたし。」

と、いへば、那須與一が扇の的を語る。半(なかば)に及びて、天德寺、また、落淚數行(すかう)に及べり。

 後日に、側(そば)に仕へし者どもに、

「過ぎにし日の『平家』は、如何(いかが)聞きつる。」

といふに、皆、

「面白き事に覺え候。但し、一つ、心得ぬ事こそ候へ。二曲ともに、勇氣功名なる事にて、哀なるかた、少(すこし)も候はぬに、君には、御感淚に咽(むせ)ばせられ候。今に不審なる事と申し合ひ候。」

といへば、天祐寺、驚きて、

「只今迄は、各(おのおの)を賴母(たのも)しく思ひ候ひしが、今の一言にて、力を落したるぞ。」

とよ。

「先(まづ)、佐々木が事を、よく、心にうかべて見られ候へ。右大將、舍弟の蒲冠者(かばのくわんじや)[やぶちゃん注:頼朝の異母弟源範頼。]にも賜はらず、寵臣の梶原[やぶちゃん注:梶原景時の弟影季。]にも賜はらぬ生唼(いけずき)を、高綱に賜はるにあらずや。『其甲斐もなく、此馬にて、宇治川の先陣せずして、人に先をこされなば、必ず、討死して、ふたゝび歸るまじき』暇乞(いとまごひ)して出(いで)ける。其志、哀ならぬ事かは。」

とて、屢(しばしば)、淚を拭(のご)ひつ〻、暫しありて、言ひけるは、

「又、那須與一も、人多き中より撰ばれて、只一騎、陣頭に出(いで)しより、馬を海中に乘入(のりい)れて、的にむかふに至るまで、源平兩家、鳴(なり)を靜めて、是を見物す。『若(も)し、射損じなば、味方の名折(なをれ)たるべし。馬上にて、腹、搔切(かきき)つて海に入らん。』と思ひ定めたる志を察して見られよ。弓箭(ゆみや)取る道ほど、哀なるものは、あらじ。我は每(いつ)も戰場に臨みては、高綱・宗高[やぶちゃん注:その武勇から「丹波鬼」と呼ばれた丹波波多野氏の家臣波多野宗高(永正八(一五一一)年~天正元(一五七三)年)か。]が心にて、鎗を取り候ゆゑ、右の平家を聞時も、兩人の心を思ひ遣り、落淚に堪へざりし。然るに、各(おのおの)は、哀に無かりしとや。思ふに、『各の武邊は、只、一旦の勇氣にまかせて、眞實(しんじつ)より出(いづ)るにては、無きにや。』と思はれ候。夫(それ)にては、賴母しからず。」

と、歎きけるとぞ。

   *

「鞦」馬具の緒所(おどころ)。馬の頭・胸・尾に繋げる緒(帯)の部分の総称。

「五六間」約九~十一メートル。

「握り細」弓の弦(つる)張る本体部である弓柄(ゆづか=握(にぎり))がいかにも細いちゃちなもの。

「楊弓」(やうきゆう(ようきゅう))遊戯用の小さな弓。約八十五センチの弓に約二十七センチの矢を番(つが)え、座って射る。江戸時代から明治にかけて民間で流行した。もと、柳の枝で作られたため、この名がある。

「柳橋」春風亭の四代目麗々亭柳橋(万延元(千八百六十)~明治三三(一九〇〇)年)。「坐り踊り」高座にしゃがんだままで、膝と腰とで呼吸を巧みとって踊るもの)で人気を博した。落語は実父三代目譲りの人情噺が得意とした。

「才槌頭」(さいづちあたま)木槌の形に似て、額と後頭部が突き出ている頭。しばしば人を罵倒する際にも用いられる差別語である。

「孝行鍛冶」(かうかいかぢ)落語の演目であろうが、不詳。「孝行糖」(当該ウィキ参照)なら知っているが。

「圓喬」三遊亭の四代目橘家圓喬(慶応元(一八六五)年~大正元(一九一二)年)。江戸生れ。本名は柴田清五郎(元は「桑原」姓で養子になったものと思われる)。当該ウィキによれば、『叔父が三遊亭圓朝の贔屓客だった関係で』、『幼いころから寄席の楽屋に出入りするようになり』明治五(一八七二)年に七歳でかの『三遊亭圓朝門下に入門し』た高弟である。『「鰍沢」「三軒長屋」「牡丹灯籠」「柳の馬場」「真景累ヶ淵」』『などを得意と』し、『後世に大きな影響を与えた名人であ』るとある。

「彌太つぺい」「馬樂」三代目蝶花楼馬楽(ちょうかろうばらく 元治元(一八六四)年~大正三(1914)年)。本名は本間弥太郎。当該ウィキによれば、『俗に「弥太っぺ馬楽」「狂馬楽」「気違い馬楽」』と呼ばれた。『俳句も好くし』、「長屋の花見」の『マクラに好く使われている』「長屋中齒を食ひしばる花見かな」「古袷秋刀魚に合わす顏もなし」『などの佳句を残している』とある。

「吉井勇君の俳譜亭句樂に違ひない」所持する筑摩書房『全集類聚』版「芥川龍之介全集」(第五巻)の脚注に拠れば、歌人で劇作家でもあった『吉井勇作』の戯曲『「俳諧亭苦楽の死」(一九一四年初版)の主人公』とある。

「圓藏」四代目橘家圓蔵(文久三或いは四年或いは元治元(一八六四)年~大正一一(一九二二)年)。本名は松本栄吉。当該ウィキには、『立て板に水の能弁で、作家芥川龍之介は「この噺家は身体全体が舌だ。」と感嘆した。「嘘つき弥次郎」「首提灯」「蔵前駕籠」「お血脈」「反魂香」「釜どろ」「百川」「松山鏡」「廓の穴」「芝居の穴」「三人旅」などが得意』であったとあるのだが、この芥川龍之介の引用は出典が示されていない。旧全集で彼の名が出るのは、本篇だけである。不審。

「遊三」(いうざ(ゆうざ))は初代三遊亭遊三(天保一〇(一八三九)年~ 大正三(一九一四)年)。当該ウィキによれば、もとは『徳川家に仕えた御家人の生まれで』、本名を『小島弥三兵衛長重と言』ったが、『その頃の御家人の例に漏れず、武士の階級でありながら』、『芸人仲間に加わり好きな芸事に耽溺していた。幕末頃』、『病昂じて』二『代目五明楼玉輔門人となり』、『玉秀と名乗って寄席に出るようにな』っていた。慶応四(一八六八)年の「上野戦争」には『彰義隊の一員として参加した。倒幕後の維新後は司法省に入り』、『裁判官の書記を経て判事補となるなど』、『完全に寄席から離れ』た『が、函館に勤務中、関係を持った被告の女性に有利な判決をするという不祥事を引き起こし』、『官を辞』し、『女性をつれて東京へ戻』った。『帰京後、口入屋などをしていたが、旧友初代三遊亭圓遊を頼って寄席に復帰』し、六『代目司馬龍生門で登龍亭鱗好となるが』、『師が女性問題で駆落ちしてしまい、止む無く』、『三遊亭圓朝の進めで圓遊門人となり』、『三遊亭遊三となる。「三遊亭遊三」は回文形式の洒落た名前で』ある。『御家人生まれだけに「素人汁粉」など武士の演出が優れていたという。十八番は「よかちょろ」で「よかちょろの遊三」とまで呼ばれた。他に「転宅」「厩火事」「お見立て」「権助提灯」などの滑稽噺を得意とした』。五『代目古今亭志ん生が』、『若い頃、遊三の「火焔太鼓」を聞いて、後に自身の十八番とした逸話は有名である』。『晩年に義理の甥(妻の甥)にあたる』二『代目三遊亭遊三に譲り』、『隠居』した、とある。

「桂小文治」前掲の筑摩類聚版の脚注によれば、大阪出身の落語家で、上方の『七代目桂文治』(嘉永元(一八四八)年~昭和三(一九二八)年:本名は平野治郎兵衛)『の弟子。上方古典落語に巧み。本名稲田祐宏』とあり、生年は明治二六(一八九三)年とする。

「雲井龍雄」(天保一五(一八四四)年~明治三(一八七一)年)は佐幕系志士。米沢藩士中島惣右衛門の次男で、後に同藩士小島才助の養子となった。通称は龍三郎。雲井龍雄は変名。慶応元 (一八六五)年、江戸に遊学して安井息軒に師事し、朱子学・陽明学を修め、後に藩の依頼で、公武合体に奔走。慶応四(一八六八)年四月、新政府の貢士として議政官下局に名を連ね、徳川氏の立場を弁護した。官軍東征の動きを知ると、帰東して迎撃の態勢を整えるよう奔走し、「討薩の檄」を作成して、薩長間の離間を策した。「奥羽越列藩同盟」の結成に尽力して策謀を練り、敗戦とともに米沢に謹慎した。明治二(一八六九)年七月、東京に出て、再挙をはかり、長州・土佐系高官と通謀して、新政府の転覆を策したが、新政府側の察知するところとなり、捕えられ、斬首された。雲井の思想は佐幕・勤王・攘夷・封建で、つまりは「公武合体」のうえに立った「攘夷論」で、極めて特異なものであった(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。当該ウィキには、『壮志と悲調とロマンティシズムに溢れた詩人とも評されている』とあった。

「天國の劍」」前掲の筑摩類聚版の脚注によれば、『天国は飛鳥の時代の刀工、日本刀剣の祖といわれる。平家の重宝小烏丸』(こがらすまる)『はこの人の作という。歌舞伎にはこの刀をめぐる騒動が多く扱われる』とある。

「明治三十年」一八九七年。

「牛の御前」現在の東京都墨田区向島にある牛嶋神社(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。江戸本所総鎮守で、隅田公園内にある。当該ウィキによれば、貞観年間(八五九年~八七九年)の創建とされ、『慈覚大師円仁が当地に来た際に、須佐之男命の化身の老翁から託宣を受けて創建した。明治以前は「牛御前社」と呼ばれており、本所の総鎮守であった』。『鎌倉に進軍する源頼朝の軍勢が隅田川を渡河する際に、千葉常胤が当社で祈願したため、無事に渡ることができたという。以降、千葉氏の崇敬を集めるようになった』。『元々は』五百『メートル北の弘福寺』(ここ)『のそば(現在の桜橋付近)に位置していたが』、大正一二(一九二三)年の「関東大震災」で『罹災し、また』、『墨田堤の拡張工事に伴い』、昭和七(一九三二)年に『現在地に移転した』。『なお、神社には』弘化二(一八四五)年に『奉納された葛飾北斎の大絵馬「須佐之男命厄神退治之図」があったが、関東大震災で現物は焼失し、現在は原寸大の白黒写真が本殿内に掲げられている。なお、同作は』二〇一六年に『色彩の推定復元が行われ、すみだ北斎美術館にて展示』されている。『境内には「撫牛」と呼ばれる牛の像がある。自分の体の悪い所と同じ部分を撫でると病気が治ると言い伝えられている。また』、『本殿前の鳥居は三ツ鳥居と呼ばれる比較的珍しい形態の鳥居である』とある。本所は芥川龍之介の生地である。]

2022/11/25

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「話俗隨筆」パート 武邊手段の事

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから次のコマにかけて。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。

 なお、私は本篇を、二〇一〇年一月二十八日に、上記「選集」を底本としてサイト版として「武辺手段のこと」として電子化注しているが、今回は全くの零から始めており、これを決定版とする。

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。]

 

      武邊手段の事 (大正二年九月『民俗』第一年第二報)

 

 「武邊手段の事」と題して、根岸肥前守の「耳袋」二編に次の話が有る。寬延の末頃、巨盜日本左衞門の餘類の山伏、長《ながさ》三尺、周《めぐり》一寸餘の鐵棒を用るのが上手で、諸國で手に餘つた。所ろが、大阪町同心の内に武邊の者有《あり》て、手段もて、難無く捕へた。其法と謂《いは》ば、此同心、長五尺、廻り二寸近い鐵棒を作り、姿を變じて、彼《かの》山伏の宿に詣《いた》り、知人に成り、色々、物語の上、自分も鐵棒を使ふ由言《いひ》て、持參した棒を見せると、山伏、驚きて、同心の大力《だいりき》を讃《ほ》め、自分のと取更(とりかえ[やぶちゃん注:ママ。])に、同心の棒を手に取《とつ》て觀る。隙に乘じ、山伏の鐵棒で、山伏の眞甲を打つ。山伏、「心得たり。」と、同心の棒を取上《とりあげ》たが、力に餘つて、働き、十分ならず。彼是する内、組の者、入來《いりき》たりて捕へた。

[やぶちゃん注:『「武邊手段の事」と題して、根岸肥前守の「耳袋」二編に次の話が有る』「『耳袋』二編」とあるが、私が全電子化注(二〇一五年四月完遂)の底本した所持する三一書房『日本庶民生活史料集成』第十六巻「奇談・紀聞」中の「耳囊」(底本は本篇を含む巻一については東北大学図書館蔵狩野文庫本)では「卷之一」にあるし、別に所持する岩波文庫の、現在、唯一の十巻完備本であるカリフォルニア大学バークレー校本東アジア図書館蔵旧三井文庫本でも、同じく「巻之一」である。但し、「耳囊」の伝本は不完全なものが複数あり、そうしたものの一つ翻刻したものを熊楠は所持していた可能性があり、熊楠の誤記や、驚くべき記憶力で書くことの多い彼の誤記憶とは必ずしも断定出来ない。特に、この「武邊手段の事」は上記二本ともに第一巻の終りの方にあるため、錯本が第二巻に回した可能性はあると言えるのである。なお、ブログ単発では、「耳囊 武邊手段ある事」(当時、第一巻では標題では巻数を外していた)であり、そちらで十二年前の私が真摯に注を附しており、現代語訳もやっているから、ここでは、それに敬意を表してそこに注したものは繰り返さない(今回、当該記事のみの正字不全(ユニコード前のための不可抗力)だけは修正しておいた)。そもそもサイト版「武辺手段のこと」のここの部分への注は、直前(前日)に電子化した「耳囊」の注を援用したに過ぎないからである。閑話休題。「根岸肥前守」は根岸鎭衞(しづもり 元文二(一七三七)年~文化一二(一八一五)年)は旗本。下級旗本の安生(あんじょう)家の三男として生まれ、宝暦八(一七五八)年二十二歳の時、根岸家の養子となり、その家督を相続した。同年中に勘定所御勘定として出仕後、評定所留役(現在の最高裁判所予審判事相当)・勘定組頭・勘定吟味役を歴任した。また、彼は河川の改修・普請に才覚を揮い(「耳嚢」にはそうした実働での見聞を覗かせる話柄もある)、浅間大噴火後の天明三(一七八三)年、四十七歳の時には浅間復興の巡検役となった。その功績によって翌天明四(一七八四)年に佐渡奉行として現地に在任、天明七(一七八七)年には勘定奉行に抜擢されて帰参、同年十二月には従五位下肥後守に叙任、寛政一〇(一七九八)年に南町奉行となり、文化一二(一八一五)年まで、終身、在職した。

「長三尺」約九十一センチ。

「周一寸」直径三センチ。「周」は今なら円周だが、それでは九ミリほどの細いものでおかしい。「わたり」(径)に「周」を当てたものと判断する。後の「廻り」も同じ。

「五尺」一メートル五十一センチ。

「廻り二寸」直径六センチ。]

 是は事實譚らしいが、似た話が伊太利の文豪「ボカッチオ」[やぶちゃん注:ママ。]の「デカメロン」の第五日、第二譚に在る。此譚は、伊太利の「リパリ」島の富家の娘「ゴスタンツァ」と、貧士「マルツッチオ」が相惚《あひぼ》れと來たが、女の父、男の貧を蔑《さげす》みて、結婚を許さぬ。男、大《おほい》に奮發して、身、富貴とならずば、生きて再び、此島を見ぬと言放《いひはな》ち、同志を募り、海賊となり、繁盛したが、「チュニス」人と戰ふて、囚はれた切り、故鄕へ、消息が無い。娘、失望の餘り、潜かに家を出《いで》て海濱にゆき、空船を見出《みいだ》し、海中で死なうと、それに乘《のり》て宛も無く漕出《こぎいだ》し、哀《あはれ》んで、船中に臥すと、船は無難に「チュニス」近き「スサ」市につき、情有る漁婦に救はれ、富家の老婦に奉公し居《を》る。「マルツッチオ」は、長々、獄中に居る内、「チュニス」へ敵が大擧して攻入《せみら》うとすると聞《きき》て、獄吏に向ひ、「『チュニス』王、予の謀《はかりごと》を用ひたら、必勝だ。」と云ふ。獄吏から、此事を聞いた王は、大悅びで、「マルツッチオ」を延見《えんけん》して、奇計を尋ねる。「マルツッチオ」曰く、「王の軍勢が用《もちひ》る弓弦《ゆづる》を、敵に少しも知れぬ樣に、至《いたつ》て細うし、其に相應して、矢筈《やはず》をも、至て狹うしなさい。扨、戰場で雙方、存分、矢を射盡して、彌《いよい》よ拾ひ集めた敵の矢を用るとなると、此方《こなた》は弦が細いから、敵の廣い矢筈の矢を射る事が成るが、敵の弦は、此方から放つた矢の狹い矢筈には、ずつと太過《ふとすぎ》て、何の用をも成《なさ》ぬ。此方は、矢、多く、敵は、矢がなくなる道理で、勝つ事、疑い無し。」と。王、其策を用ひ大捷《たいせふ》し、便《すなは》ち「マルツッチオ」を牢から出し、寵遇、限りなく、大富貴と做《なつ》た。此事、國内へ知れ渡り、「ゴスタンツァ」女《ぢよ》、「マルツッチオ」を訪《おとな》ひ、戀故に辛苦した話をすると、大悅びで、王に請《こふ》て、盛んに婚式を擧げ、大立身して、夫婦が故鄕へ歸ったと云ふ事ぢや。「エー・コリングウッド・リー」氏の『「デカメロン」出所及び類話』(一九〇九年の板、一六〇頁)に據ると、「ジォヴニ・ヴラニ」(一三四八年歿せり)の「日記」卷八に、一二九九年、韃靼帝の子「カッサン」が、己れの軍兵の弦と筈を特に細くして、埃及王を酷《むご》く破った、と有る由。「ヴィラニ」は「ボカッチオ」と同時代の人だ。

[やぶちゃん注:『「ボカッチオ」の「デカメロン」の第五日、第二譚』中世イタリアのフィレンツェの詩人で作家のジョヴァンニ・ボッカッチオ(Giovanni Boccacio 一三一三年~一三七五年)、及び、彼の代表作で一三四九年から一三五一年にかけて執筆された(本邦では南北朝時代に相当)イタリア散文の濫觴にして世界文学に於ける近代小説の魁(さきがけ)として評価される作品「デカメロン」(DecameronDecamerone))については、サイト版「武辺手段のこと」の私の注を参照されたい。梗概が記されたそれは、国立国会図書館デジタルコレクションの戸川秋骨訳の同書の翻訳「十日物語」(大正五(一九一六)年国民文庫刊行会刊)のここから視認出来る。

『伊太利の「リパリ」島』イタリア語で“Isola di Lipari”。「リ―パリ」とも音写する。シチリア(Sicilia)島の北東沖に浮かぶエオリエ諸島最大の島。の紀元前四千年から人が住んでいたと言われており、城塞地区には住居跡も残り、居住の歴史は六千年前の新石器時代にまで遡るとされ、青銅器時代やギリシャ時代の遺跡が残る歴史の島である。ギリシャの詩人ホメロス(Homeros)の「オデュッセイア」(Odysseia)に登場する風の神アイオロスの住む島とされ、島の名もホメロスの娘婿リパロに由来するとされる。古くは黒曜石や軽石(エオリエ諸島は火山列島)の交易で栄えた。現在はエオリエ諸島観光の拠点である。

「ゴスタンツァ」原文(イタリア語の「Wikisource」のこちらに拠った。以下同じ)では‘Gostanza’。戸川は『コンスタンチア』と訳している。

「マルツッチオ」“Martuccio”。戸川訳は『マルツチオ』。

「空船」これを「うつろぶね」と読むなら、このシークエンスは一種の汎世界的な各種の創世神話の変形譚が意識されているパロディのようにも思われる。

『「チュニス」人』“Tunis”は現在のチュニジア共和国の首都で、その地の民。以下、ウィキの「チュニス」によると、古代フェニキア人によって建設されたカルタゴ近郊の町であったが、『ローマ共和国との間で戦争を繰り返し、紀元前』百四六『年の第三次ポエニ戦争で完全に破壊され』、『その後、ローマの属州アフリカとなり』、再建され、三七六『年のローマ帝国の分裂に伴い、東ローマ帝国の属州となった』。七『世紀にはウマイヤ朝(イスラム帝国)は、当時イフリーキヤと呼ばれたチュニジアの占領を目指していた』六七〇『年のオクバの遠征によって』、『イフリーキヤにはカイラワーンが建設され、ウマイヤ帝国のアフリカ支配の拠点として更なる拡大をもくろんだが、ベルベル人の激しい抵抗にあって苦戦した。その後、ハッサン・イブン・アル=ヌマン率いるウマイヤ朝軍が東ローマ帝国軍を破って』、『カルタゴを占領、さらに』七〇一『年にはベルベル人が支配するカヘナも攻略する。これ以降、この街はチュニスとしてアラブ人によって開発されること』となり、イスラーム化された。『一時期』、『シチリア王国を築いたキリスト教徒のノルマン人に占領され』たこともあったが、十二『世紀には西方から侵攻したモロッコのムワッヒド朝が支配することになった』とある。

「スサ」“Susa”。ウィキの「スース」によると、フランス語で“Sousse”(「スース」。又はアラビア語で“Sūsa”(スーサ)と言う。港湾都市で、『チュニスの南約』百四十キロメートルに『に位置するチュニジア第三の都市で』、現在の『人口は約』四十三『万人。町は美しく、「サヘルの真珠」といわれる。旧市街メディナはユネスコ世界遺産に登録され』た。『紀元前』九『世紀頃』、『フェニキア人によって「ハドルメントゥム(Hadrumentum)」と』いう名で『開かれた。古代ローマと同盟を結びんでいたため』、「ポエニ戦争」『中も含め』、『パックス・ロマーナの』七百『年の間』、『比較的』、『平和で、大きな被害を免れた』。『ローマ時代の後、ヴァンダル族、その後』、『東ローマ帝国がこの町を占拠し、町の名を「ユスティニアノポリス(Justinianopolis)」と改名』、七『世紀にはアラブ人のイスラム教軍が現在のチュニジアを征服し、「スーサ(Sūsa)」と改名。その後』、『すぐアグラブ朝の主要港となった』。八二七『年にアグラブ朝がシチリアに侵攻した際、スーサは主要基地となった』。『その後』、『ヨーロッパでは技術革新が進み』、『イスラム教に対して優勢に出始め』、十二『世紀にはノルマン人に征服された時期もあり、その後』、『スペインに征服された』。十八『世紀にはヴェネツィア共和国とフランスに征服され、町の名をフランス風に「スース(Sousse)」と改名した。その後もアラブ風の町並みは残り、現在ではアラブ人による典型的な海岸の城砦都市として観光客が多く訪れる』とある。

「延見」呼び寄せて面会すること。「引見」に同じ。この「延」は「引き寄せる・招く」の意。

「矢筈」矢の末端の弓の弦(つる)を受ける部分で、弓の弦に番(つが)えるための切り込みのある部分を指す。この時代のそれは、木製の矢柄を、直接、二股に削ったものであったと考えられる。

『「エー・コリングウッド・リー」氏の『「デカメロン」出所及び類話』(一九〇九年の板、一六〇頁)』A. Collingwood Lee(詳細事績不詳)の一九〇九年刊の‘The Decameron. : Its sources and analogues’。調べたが、原本に当たれなかった。

『「ジォヴワニ・ヴヰラニ」(一三四八年歿せり)』フィレンツェの銀行家にして歴史家でもあったジョヴァンニ・ヴィッラーニ((Giovanni Villani ? ~一三四八年)のこと。ヴィッラーニは「新年代記」の作者として知られ、南方の言う「日記」も、それを指すものと思われる。以下、ウィキの「ジョヴァンニ・ヴィッラーニ」より引用する。『父親のヴィッラーノ・ディ・ストルド・ヴィッラーニはフィレンツェの有力な商人の』一『人であり』、一三〇〇『年にはダンテ・アリギエーリとともに市の行政委員(プリオーネ)を務めた』(但し、『ほどなく辞任して翌年の政変で失脚した同僚ダンテと明暗を分けることとな』った)。この年、ジョヴァンニはペルッツィ銀行に入社して』一『人前の商人の』一『人としてのスタートを切っている。この年はローマ教皇ボニファティウス』Ⅷ『世が初めて聖年とした年であり、各地より』二十『万人がローマ巡礼に訪れた。ジョヴァンニもまた』、『これに参加してローマを訪問し』、『ローマの史跡や文献に触れる機会があった。そこで彼は古代ローマ以来の歴史家の伝統が途絶したことを嘆き、「ローマの娘」を自負するフィレンツェ市民である自分が』、『その伝統を復活さなければならないとする霊感に遭遇した(と、本人は主張した)ことによって、彼は「ローマの娘」フィレンツェを中心とする年代記編纂を決意したと伝えられている』。『だが、彼の決意とは裏腹に』、『実際には商人・銀行家としての道を着実に歩む彼には執筆の時間はほとんど無かったと考えられている。代表者の死去によって』、『当時の慣例に従って』、『ペルッツィ銀行は一旦清算されることなると、彼は再設立されたペルッツィ銀行ではなく、縁戚の経営するブオナッコルシ銀行に移り』一三二五『年には共同経営者となった。同時にフィレンツェ市の役職も歴任し』、一三一六年・一三一七年・一三二一年には『父と同じ行政委員に就任したほか、各種の委員を務め、この間に多くの行財政文書を閲覧する機会に恵まれた。ところが』一三三一『年に市の防壁建築委員を務めていたジョヴァンニは』、『突如』、『公金横領の容疑で告発を受けることとなる。これは間もなく無実と判断されたが、政治的な挫折を経験したジョヴァンニの年代記執筆がこの時期より本格化していったと考えられている』。『ところが、ジョヴァンニの引退後、フィレンツェの政治は混乱して信用問題にまで発展、更に百年戦争による経済混乱も加わって』、一三四〇『年代に入ると』、『フィレンツェは恐慌状態に陥った結果、同地の主要銀行・商社のほとんどが破産に追い込まれた』。一三四二『年にブオナッコルシ銀行が破綻に追い込まれると、ジョヴァンニは債権者との交渉にあたったが、続いてペルッツィ銀行・バルディ銀行など』、『他の会社も次々と倒産した混乱もあって混乱が収まらず』、一三四六年二月には、『ジョヴァンニが債権者の要求によって』、『一時』、『投獄される事件も起きている。そして』、一三四八『年にフィレンツェを襲った黒死病はジョヴァンニの命をも奪ってい』ったのであった。『その後、ジョヴァンニの後を引き継ぐ形で』、『三弟のマッテオ・ヴィッラーニ』(一三六三年没)と、『その子フィリッポ・ヴィッラーニも年代記を執筆している』とあり、以下、「新年代記」の内容を記載する。“Nuova Cronica”「新年代記」は全十二巻から『構成され、大きく』二『部に分けられる。前半』六『巻はバベルの塔からフリードリヒ』Ⅱ『世までを扱い、父祖以前の歴史に属するため先人の著書に依存する部分が多い。また、ジョヴァンニはラテン語をほとんど知らなかったとされる一方で、聖書や古典に関する知識が豊富であり、それが記述にも生かされている。後半の』六『巻は』一二六六『年のシャルル・ダンジューのシチリア王継承から始まり、父親』或いは『自己の生きた時代を描いて』一三四六『年で終了している。彼が銀行家・政治家として活躍した』一三一〇『年代を描いた第』八『巻以後については綿密な記載がされており、彼が優れた観察者であったことがうかがえる。特に第』十一『巻にある』千三百三十八『年頃のフィレンツェの風景と経済状況に関する記述の緻密さはヤーコプ・ブルクハルトにも注目された。また、彼も同時代の他の人々と同じく熱心なキリスト教徒であり、神の裁きや』、『占星術を信じた記述があるものの、一方で経済特に商業関係の記述においては合理的な記述を尽している』とある。南方は『日記』の『卷八』と記しており、このウィキの「新年代記」の記載内容と合致している。

『一二九九年、韃靼帝の子「カッサン」が、己れの軍兵の弦と筈を特に細くして、埃及王を酷く破った』「カッサン」はモンゴル帝国を構成したイル・カン国(イルハン国、又は「フレグ・ウルス」とも呼ぶ)の第七代皇帝であったガザン・ハン(Ghāzān khān  ロシア語表記:Газан-хан 一二七一年~一三〇四年)のことを指す。彼の曽祖父で初代のイル・カン国皇帝であったフレグは、チンギス・ハーンの孫に当たる。ガザン・ハンは、イスラム教に改宗し、イラン人との融和を図るなどして、内政を安定させ、政治的にも文化的にも、イル・カン国の黄金時代を築いた名君であったが、三十四歳の若さで亡くなっている。一二九九年当時のエジプトは、バフリー・マムルーク朝ナースィル・ムハンマドの統治時代であったが、熊楠の述べる通り、この年、イル・カン国のガザンが、シリア侵攻を開始し、ナースィルはシリア北部のマジュマア=アルムルージュでガザン・ハン軍で迎え撃ったが、実戦経験が乏しかったため、大敗を喫して敗走、イル・カン国はシリアを支配下に置き、ダマスクスを百日に渡って占領した(以上は嘗つて、高校教師時代、同僚の世界史の先生からの教授を受けて作文したものである)。]

大和怪異記 卷之四 第三 甘木備後鳳來寺藥師の利生を得る事

 

[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の本文部分はここから。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。なお、底本のルビは歴史的仮名遣の誤りが激しく、ママ注記を入れると、連続してワサワサになるため、歴史的仮名遣を誤ったものの一部では、( )で入れずに、私が正しい歴史的仮名遣で《 》で入れた部分も含まれてくることをお断りしておく。

 挿絵があるが(先般まで、本巻四の第一話の丁内にあったため、話柄と合致しない不審な挿絵と判断していた)、これは「近世民間異聞怪談集成」にあるものが、状態が非常によいので、読み取ってトリミング補正し、適切と思われる箇所に挿入した。因みに、平面的に撮影されたパブリック・ドメインの画像には著作権は発生しないというのが、文化庁の公式見解である。底本(カラー。但し、挿絵は単色)の挿絵部分のリンクも張っておく。]

 

 第三 甘木備後鳳來寺藥師の利生を得る事

 むかし、出羽国庄内に甘木備後(《あまき》びんご)と云(いひ)し人あり。

 三河國、鳳來寺の藥師如來を、ふかく信じ、

「いかにもして、一たび、如來に、まうでばや。」

と常にねがひしに、はからず、用の事有《あり》て、みやこにのぼりしつゐでに、

「年來(としごろ)のねがひ、此ときなり。」

とて、藥師の御堂にまうでて、宿願をはたし、すでに下向せむとせしとき、かたはらを見れば、ちいさき葛籠(つ《ゞ》ら)をおろし、中より、色よき小袖を取出《とりいだ》し、佛前に打(うち)ひろげ、肝膽(かんたん)をくだき、いのる者ありしかば、不審に思ひ、立《たち》よりて、みれば、まさしく我妻が小袖にて、慥(たしか)に、見おぼえたる、しるしなど、あり。

 弥(いよいよ)あやしく思ひ、其故を尋(た《づ》ね)しに、

「されば。それがしは、藥をうりて渡世仕《つかまつ》る者なり。いつも、關東にくだり侍るが、今度(こんど)も、奧《おく》にいたり、出羽の庄内にて、かゝる人の舘(たち)にゆきしに、家老と見へし人、奧にいざなひ、いまだ年若き女房と、局(つぼね)と見へしと、出《いで》あひ、三人、一所にて、

『毒(どく)を求(もとめ)む。』

と有《あり》しを、『なき』由を答(こたへ)て、いなみしかども、かたく『なるまじ』といはば、ころしつべき氣色(けしき)に見へし[やぶちゃん注:ママ。]程に、力なく、うり侍しに、あたゐ、おほく、あたえ、其上に、

『褒美。』

とて、此小袖を給りし。かゝるつたなき世のわざを、佛前にて懺悔(さんげ)し、罪をのがれんと、思ひ侍る」

と、淚をながし、語《かたり》ける。

 備後、つくづくと聞《きく》に、まがふ所もなく、

『我、身のうへ。』

と、おどろきしかど、さらぬ躰(てい)にもてなし、

「申さるゝ所、聞《きく》につけて、あはれに候。それにつきて、其小袖、古さとヘの土產には、なるまじ。我は、遠国の者なり。うられよ。」

とて、かひとり、餘りに、たうとく思ひ、其日は、とゞまり、御堂に通夜(つや)せしに、夢中に、老僧、枕上(まくらがみ)にたちて、

「汝、年比(としごろ)、我を念ずる心ざし、ふかく、今度《このたび》、參詣せし事、あさからず、思ふなり。国にかへりて、そこつに、さけをのむ事、なかれ。是、大毒なり。」

と、しめし給ふ、と、覺へて、夢、さめぬ。

「誠に有がたき御事なり。」

と、ふかく隨喜して、國にぞ、かへりける。

 妻女、出《いで》むかひ、行旅(かうりよ)の勞(らう)を問(とひ)、さまざまに饗應(もてなし)て、

「君の、常に好(このみ)給へる程に、待まうけに、仕置《しおき》たり。」

とて、醴(さけ)を出《いだ》しける。

 

Amakibungo

 

『さればこそ。夢の御告よ。』

と思ひ出し、少《すこし》猶豫(《いう》よ)する所に、手なれたる猫、來りしを、ひざもとにかきよせて、醴を口に入《いれ》しがば[やぶちゃん注:ママ。]、たちまちに、くつがへり、死しぬ。

 家老某《なにがし》を、よび出し、

「是を、のむべし。」

と、いへば、彼(かの)男、平伏して、

「此間、腹中(ふくちう)あしく候。御ゆるしあれ。」

と、いふを、

「腹中あしく共、某《それがし》が前にて、いなむべきなき。是非、くらへ。」

と、せめられて、

「つ」

と、たつて、にげけるを、やがて、追懸(《お》つかけ)、切殺(きりころ)し、局(つぼね)を、からめ置《おき》、妻女の親・兄㐧(《きやう》だい)をよび、

「かく。」

と、かたり、件(くだん)のねこを出《いだ》しみせ、

「女をつれて、歸られよ。」

と、いふとき、女は、あはてゝ乘物にのらんとする所を、女が弟某《なにがし》、はしりかゝつて、姊(あね)がもとどりを取《とつ》て引《ひき》ふせ、一刀(《ひと》かたな)に、さし殺し、備後にむかひ、

「姊が不義は、是非に及ず。去(さり)ながら、某《それがし》が妹(いもと)を妻にしてたべ。姊がごときの不義は、よも候《さふらは》じ。」

といふ眼(まなこ)さし、「いな」ともいはゞ、さしちがへんと思ふ氣色あらはれしに、備後も、さすがにて、

「よく、いはれたり。はやく、よびよせよ。」

とて、妹をむかへ取《とり》、其時、かの弟、己《おの》が妹に、姊が死骸をみせ、

「汝も、不義のふるまひをなさば、かくのごとくなるぞ。侍の名を、くたすな。」

と、かたく、いひふくめ、婚姻のよそほひを取つくろひ、姊がしがいを葬送せしめし躰(てい)、

「たゞものに、あらず。」

と、見《み》きくもの、感ぜぬは、なかりしとかや。

「是、ひとへに藥師如來の利生なり。」

とて、備後、やがて、鳳來寺の柱(はしら)を、ことごとく、金柱(きんはしら)にし侍りしとかや。「犬著聞」

[やぶちゃん注:原拠は「犬著聞集」。本書は本書最大のネタ元で既に注済み。「犬著聞集」自体は所持せず、ネット上にもない。また、前話の最後で示した同書の後代の再編集版である神谷養勇軒編の「新著聞集」にも採られていないようである。

「甘木備後」不詳。

「鳳來寺」愛知県新城市の鳳来寺山の山頂付近にある真言宗五智教団煙巌山鳳来寺。寺伝では大宝二(七〇二)年に利修仙人が開山したとされ、本尊はその利修作とされる薬師如来である。

「醴(さけ)」穀類を一晩だけ醸した濁り酒・甘酒。]

大和怪異記 卷之四 第二 下総国鵠巣の事

 

[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の本文部分はここから。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。なお、底本のルビは歴史的仮名遣の誤りが激しく、ママ注記を入れると、連続してワサワサになるため、歴史的仮名遣を誤ったものの一部では、( )で入れずに、私が正しい歴史的仮名遣で《 》で入れた部分も含まれてくることをお断りしておく。

 挿絵があるが(先般まで、本巻四の第一話の丁内にあったため、話柄と合致しない不審な挿絵と判断していた)、これは「近世民間異聞怪談集成」にあるものが、状態が非常によいので、読み取ってトリミング補正し、適切と思われる箇所に挿入する。因みに、平面的に撮影されたパブリック・ドメインの画像には著作権は発生しないというのが、文化庁の公式見解である。底本(カラー。但し、挿絵は単色)の挿絵部分のリンクも張っておく。

 なお、林羅山の前書附きの漢詩部分は、読み易さを考え、私の判断で前書に句読点を打ち、漢詩は句ごことに改行を施した。漢詩には一部に句末の跡があるが、私は好まないので省略した。]

 

 第二 下総国《しもふさのくに》鵠巣(かうのす)の事

 そのかみ、下総国に一社あり。

 其《その》社檀(しやだん)のうへに、さしおほひたる大木(たいぼく)あり。

 其樹(き)の上に、數年(すねん)、鵠(こうの)、巣をかけて、龜・蛇等(とう)の物をくらひ、骨をちらし、糞(ふん)を社に懸(かけ)、中々、むさき体(てい)なりし。

 あるとき。氏子共、此社に來りいふやうは、

「社に、神體は、ましまさずや。鵠に社をけがされ、罸(ばち)をも、くはへず、置《おき》給ふことの、口をしさよ。」

と、のゝしりて、各(おのおの)、歸宅しける。

 其夜(よ)、神巫(かんなぎ)につげて、のたまふは、

「氏子どもの申《まをす》所、ことはりなり[やぶちゃん注:ママ。]。來《きた》る、いく日に、此鳥を罸せむ間、いづれも、出《いで》て、みるべし。」

との告(つげ)なれば、近鄕はいふに及《およば》ず、遠境(ゑんきやう)までも聞傳(きゝつた)え[やぶちゃん注:ママ。]、

「末世の奇特(きどく)、これなり。」

と、其日になれば、此社に羣集(ぐんじゆ)して、

「今や、今や、」

と侍(まつ)所に、巳(み)の刻ばかりに、社檀の内より、八尺ばかりの白蛇(はくじや)、くれなゐの舌を、ひるがへし、大木にのぼりければ、見物の貴賤、渴仰(かつがう)のかうべを、かたふけて、礼拜(らいはい)す。

 

Kounosu

 

 かくて、此蛇、木のなかばまで、のぼるとき、雌雄(めを)二つの鵠、これをみて、よろこぶけしきにて、巣を、はなれ、飛《とび》かゝり、飛(とび)かゝり、白蛇のかしらを、さんざんに蹴(け)ひしぎ、くはえて、社檀の上(うへ)に下居(おりゐ)、ことごとく、くくらひ、殘るは、骨ばかりなり。

 あつまりたる貴賤、

「これは、これは、」

と、あきれ、まどふ。

 神体、かくのごとくななれば、此鵠を神(かみ)とあがめ、社をたて、所をも「鴻巣(かうのす)」とぞ、なづけたる【「異神記」に見へたり[やぶちゃん注:ママ。]。】。「羅山文集」、題詩あり。左に附す。

○鴻巣【或作ㇾ鵠】傳說ツノ大樹樹神。民以飮食レヲ。不レバ則害ㇾ人。一旦鵠來テ巣樹上。巨蛇、欲ㇾ呑ント其卵。鵠啄ㇾ之レヲ。自ㇾ是神不ㇾ害ㇾ人。於ㇾ是鵠之除ㇾ害一レ誉、故曰、「鵠巣」。遂名ㇾ社。又、為地號

 毒蛇屈曲シテ叢梢《一》

 尖觜穿錐爪ニシテ

 黃鵠千年來

 秋風檜雨不ㇾ飜ㇾ巢

 

[やぶちゃん注:原拠とする「異神記」は不詳。「近世民間異聞怪談集成」の解題で土屋氏自身が、本書を『該当する資料名が不明なもの』の一つに入れておられる。

「下総国鵠巣(かうのす)」埼玉県鴻巣市本宮町にある鴻神社(こうじんじゃ:グーグル・マップ・データ)が、その後身かと思われる。旧下総国には埼玉県東辺が含まれる。「鴻神社」公式サイトの「こうのとり伝説」を参照されたいが、そこには、ここにあった大木は公孫樹(いちょう)とされ、「鴻巣(こうのす)の地名の由来と鴻神社」に、

   《引用開始》

 「こうのす」という地名は、古代に武蔵国造(むさしのくにのみやつこ)である笠原直使主(かさはらのあたいおみ)が現在の鴻巣市笠原のあたりに居住したとされ、また、一時この近辺に国府関連の施設があり、荒川や元荒川などを利用した水運も盛んだったと推測されることから、「国府の洲 こくふのす」が「こうのす」となり、後に「こうのとり」の伝説から「鴻巣」の字をあてるようになったと思われます。

 国府のことを「こう」と呼ぶのは、他の地名(国府台[こうのだい]、国府津[こうづ]など)からも類推され、国府のお宮を国府宮(こうのみや)と呼ぶのは、愛知県稲沢市にある尾張大国霊神社、別名国府宮(こうのみや)など、全国でも例があります。

 このことからこうのとりのお宮「鴻の宮」は「国府の宮(こうのみや)」であったのではないでしょうか。

※笠原直使主(かさはらのあたいおみ)

 6世紀に活躍した豪族で行田市の埼玉古墳群の中の稲荷山古墳にまつられています。そこから出土した大和朝廷から拝領したとされる金象眼銘の鉄剣は国宝に指定されています。

 鴻神社は氷川社・雷電社・熊野社をはじめ、多くの神々をまつる鴻巣総鎮守で社殿の脇にそびえる大いちょうの下、四季折々に様々な祭りが行われます。

   《引用終了》

とある。

「鴻」はコウノトリ目コウノトリ科コウノトリ属コウノトリ Ciconia boyciana で、中国東北部(満州)地域やアムール・ウスリー地方で繁殖し、中国南部で越冬する。渡りの途中に少数が日本を通過することもある。博物誌は私の「和漢三才圖會第四十一 水禽類 鸛(こう)〔コウノトリ〕」を参照されたい。国土交通省関東地方整備局河川部河川環境課・制作/(公財)日本生態系協会・編集になるリーフレット「こんなところにも?! コウノトリにまつわる関東の歴史・地名等々」PDF)によれば、その⑮の『和田沼のコウノトリ(千葉県柏市・我孫子市)」の項に『和田沼にはかつて共同狩猟地があり、 明治で禁

猟がとけると鶴などの狩猟が行われていた。 鶴は明治 16 年頃までは上空に飛来したが沼に降りる事はなかったが、コウノトリは明治 35 年 (1902 年)頃までは渡来していたとの記述がある。(出典 : 「野田の自然誌」 新保國弘他著)』とあった。

「巳(み)の刻」午前十時前後。

「八尺」二メートル四十二センチ。

「羅山文集」儒者で幕府儒官林家の祖林羅山(天正一一(一五八三)年~明暦三(一六五七)年:名は忠・信勝。法号は道春。朱子学を藤原惺窩に学び、徳川家康から家綱まで四代の将軍に侍講として仕えた。上野忍岡の家塾は、後の昌平坂学問所の起源となった)の詩文集。複数のネットの版本を縦覧したが、発見出来なかった。

「題詩」「鴻の巣に題す」の詩。以下、訓読(句読点を打ち換え、一部の読み・送り仮名を補填した)して示す。

   *

   鴻巣【或いは「鵠」に作(な)す。】
   傳說に、昔し、一(ひと)つの大樹
   有り。「樹神(じゆしん)」と稱す。
   民、飮食を以つて、之れを祭る。せ
   ざれば、則ち、人を害す。一旦、鵠、
   來りて、樹上に巣くふ。巨蛇、其の
   卵を呑まんと欲す。鵠、啄(ついば)
   みて、之れを殺す。是れより、神、
   人を害せず。是(ここ)に於いて、
   以つて、鵠の、害を除きて誉れ有る
   を、故に號して曰はく、「鵠の巣」
   と。遂に社と名づけ、又、地號と為
   す。

毒蛇 屈曲して 叢梢(さうしやう)に棲む

尖觜(とがれるはし) 穿(うが)ち開きて 錐爪(きりのつめ)にして 搯(うがちいだ)す

黃鵠(かうこく) 千年 來り集(つど)ひて後(のち)

秋風 檜雨(ひう) 巢を飜(ひるが)へず

   *

結句の「檜雨」は意味不明。識者の御教授を乞う。]

2022/11/24

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「話俗隨筆」パート 蛇を引出す法

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから次のコマにかけて。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文部は全体が一字下げなので、それを再現するために、ブラウザの不具合を考えて、一行字数を少なくしておいた。今まで通り、後に〔 〕で推定訓読文を添えた。

 標題の「引出す」は「ひきいだす」と読んでおく。]

 

      蛇を引出す法 (大正二年九月『民俗』一年二報)

 

 「和漢三才圖會」卷四五に、凡て蛇が穴に入ると、力士が尾を捉《とら》て引《ひき》ても出《いで》ぬが、煙草脂《たばこのやに》を傅《つく》れば出《いづ》る、又、云く、其人、自分の耳を左手で捉へ、右の手で引けば出るが、其理が知れぬ、と見ゆ。是に似たる事、レオ・アフリカヌス(一四八五年頃、生れ、一五五二年、歿せり。)の「亞非利加記(デスクリプチヨネ・デル・アフリカ)」第九篇に云く、「ヅツブ」は沙漠に住み、蜥蜴に似て、大きく、人の臂《ひぢ》程長、く、指四つ程、厚し。水を飮まず。無理に水を口に注込《そそぎこみ》續けると、弱つて死す。「アラブ」人、之を捕へ、皮、剝ぎ、灸り食《くら》ふに、香味、蛙の如し。此物、蜥蜴同樣、疾《とく》走る。如《も》し、穴に隱れて尾丈《だ》け外に殘る時は、如何《いつか》な大力も、之を引出《ひきいだ》し得ず。獵師、鐵器もて、穴を掘り擴げて、之を捕ふ、と。物はやつて見物《みるもの》で、蛇と蜥蜴類は似た動物故、「ヅツブ」の住む沙漠へ行く人に、煙草脂と、耳捉んで努力の二法を試みるやう、忠告し置《おい》た。

[やぶちゃん注:『「和漢三才圖會」卷四五に、凡て蛇が穴に入ると、……』私の寺島良安「和漢三才圖會 卷第四十五 龍蛇部 龍類 蛇類」の掉尾の「蛇皮」に出る。引用する(前が訓点を排した原本に一致させた白文で、後は私が訓点に従いつつ、補正したもの。【 】は二行割注、〔 〕は私の補正。なお、古い電子化注なので、数ヶ所に補正を加えてある)。

   *

蛇皮 蛇衣  蛇脫

△按蛇秋蟄前脫皮光白色如薄紙首尾全不損也未雨

 濡者取【黑燒油煉】傅兀禿則生毛髪【蜘蛛脫皮褐色八足無筒恙空殼風吹散亦奇也】

凡蛇忌煙草脂汁入蛇口則困死如入穴蛇力士捉尾引

 不能出傅煙草脂則出【又云其人左手捉自身耳右手引蛇則出未知其理】有人

 擲馬古沓中蛇則甚恚追其人【白馬沓弥然抑惡之乎好之乎】

蝮咬足或螫牙針留膚痛急緊縛其疵上可傅煙草脂如

 緩則直上至肩背煩悶用眞綿撫其邊則牙針係綿以

 鑷抜取次傅煙草脂或膏藥愈〔=癒〕

   *

蛇皮(へびのきぬ) 蛇衣・蛇脫

△按ずるに、蛇、秋、蟄(すごも)る前、皮を脫(ぬ)ぐ。光、白色にして、薄紙のごとくにして、首尾、全く損せざるなり。未だ雨に濡(ぬ)れざる者〔を〕取りて【黑燒にして油煉〔(あぶらねり)〕す。】、兀-禿(はげ)に傅(つ)くれば、則ち、毛髪を生ず【蜘蛛も皮を脫ぐ。褐色、八足、恙無し。空殼、風に吹き散る、亦、奇なり。】。

凡(すべ)て、蛇、煙草(たばこ)の脂汁(やに〔じる〕)を忌む。蛇の口に入れば、則ち、困死す。如〔(も)〕し穴に入る蛇は、力士、尾を捉(とら)へて引くに能く出さず〔→出づる能はず〕。煙草の脂を傅くれば、則ち、出づ【又、云ふ、其れ、人の左の手にて自身の耳を捉へて、右手にて、蛇を引けば、則ち、出づると。未だ其の理〔(ことわり)〕を知らず。】。人、有りて、馬の古沓(〔ふる〕ぐつ)を擲(な)げて、蛇に中(あた)れば、則ち、甚だ恚(いか)りて、其の人を追ふ【白馬の沓、弥(いよいよ)、然り。抑〔(そもそも)〕之れを惡〔(にく)〕むか、之れを好むか。】。

蝮(まむし)、足を咬み、或は螫(さ)す〔に〕、牙・針、膚〔(はだへ)〕に留まり痛む〔時は〕、急に、緊(きび)しく、其の疵の上(か〔み〕)を縛(くゝ)り、煙草の脂を傅くべし。如し緩(ゆる)き時は[やぶちゃん字注:「時」は送り仮名にある。]、則ち〔牙・針〕、直ちに上りて、肩・背に至りて、煩悶す。眞綿を用ひて其の邊を撫〔(なづ)〕れば、則ち、牙・針、綿に係る。鑷(けぬき)を以て、抜き取り、次に、煙草の脂、或は、膏藥を傅けて、癒ゆ。

[やぶちゃん注:標題は蛇の抜け殻についての記載のように見えるが、それは第一段落で終り、「凡て、蛇」以下では蛇の忌避物質としての煙草のヤニ及び馬の草鞋(わらじ)の効用を述べ、「蝮、足を咬みる」以下では、マムシ咬傷の際の救急法を述べる。

「蛇、秋、蟄る前、皮を脫ぐ」とあるが、誤り。爬虫類の愛好家の方のブログ「Reptiles Cage」の「ヘビの脱皮」についての記載から引用させて頂く(但し、途中の改行を省略した)。『ヘビは年に数回脱皮する。成長期にはその回数が多い。脱皮は口から脱ぎ始め、ストッキングを脱ぐように裏返しに脱いでいく。うろこは11枚離れているように見えるけど、実はその間に薄い皮で繋がっていて、普通は鱗の間に畳み込まれている。大きいものを飲み込んで皮が伸びるのは、その畳まれたのが伸びるわけ。脱皮の1週間前くらいから目が白濁してくる。ヘビはまぶたを持たないので、眼の保護に透明な皮が目の上を覆っている。その皮も脱皮するので、脱ごうとする皮と新しい皮の間に体液が入って白濁して見えるのだ。このあいだは、ヘビは餌を食べたりせず、目が利かないので用心深くなる。』ホントにホントの文字通り、眼から鱗!!! なお、蛇の寿命は二~二十年程度(飼育下)で、シマヘビElaphe quadrivirgataで四年程度、アオダイショウElaphe climacophoraで十二~二十年(飼育下)。但し、外国産のペットの中には、ヘビ亜目ボア科ボア亜科ボア属のボア・コンストリクター Boa constrictor(通常我々が呼ぶ「ボア」のこと)等に飼育下で四十年以上の記録もある。

「黑燒」は漢方の製法の一つで、動植物を土器に入れて時間をかけて蒸し焼きにし、黒く炭化させたものを言う。

「油煉」恐らく少し炒って油を沁み込ませ、練って固めたものを言うのであろう。

「兀禿」「兀」は音「ゴツ」で「禿」(トク)と同じく、「はげ(あたま)」の意。

「蜘蛛も皮を脫ぐ」蜘蛛も節足動物であるから脱皮する。種によっては十五回の脱皮をするものもいるとのことである。

「恙無し」は「欠けたところがない」という意味であろう。「完全な八足の蜘蛛の形のままの抜け殻となる」の意。

「蛇、煙草の脂汁を忌む」蛇の愛好家の方の記載を見ると、実際に多くの蛇は煙草(煙やヤニ)を忌避するらしい。古き嫌煙家であったわけだ。

「困死」悶え苦しんで死ぬこと。

「馬の古沓」「馬の沓」とは馬の草鞋のことで、「馬沓」(まくつ)とも言う。蹄に付けた。因みに、よくある「沓掛」という地名は、馬を休ませて、この馬沓を木に掛けたところからついた地名という。

「蝮」ニホンマムシGloydius blomhoffii。本巻の「蝮」の項を参照。

「牙・針」中黒で分けた。ここは直前の「足を咬み、或は螫す」に着目して欲しいのである。「牙」が「咬」むのであり、「針」が「螫す」である。即ち、「牙」と「針」は別物なのである。これは前掲の「蝮」の項にある『其の鍼、尾に有りて、蜂の針のごとく、常には見えず。時に臨んで出だし、人を刺す。毒、最も烈し。然るに、鍼、鼻の上に有ると謂ふは、未審し。』が解となる。良安は蝮は口中の毒牙以外に、尾部に毒針を隠し持っていると考えているのである。また、この叙述から、良安は蜜蜂のように蝮の牙も針も人体に打ち込まれると脱落するもの、と考えていたことが分かる。

   *

「レオ・アフリカヌス」(Leo Africanus 一四八三年?~一五五五年?)の名前で知られる、本名をアル=ハッサン・ブン・ムハンマド・ル=ザイヤーティー・アル=ファースィー・アル=ワッザーンというムーア人で、アラブの旅行家にして地理学者。「レオ」はローマ教皇レオⅩ世から与えられた名で、「アフリカヌス」はニック・ネーム。

「亞非利加記(デスクリプチヨネ・デル・アフリカ)」‘La descrittione dell’Africa’で一五五〇年刊。ラテン語タイトルは‘Cosmographia de Affrica’。元は当然のこと乍ら、アラビア語で、次いでトスカーナ語で書かれ、ベネチアで、‘Description de l'Afrique vers 1530’というタイトルで出版された。

「ヅツブ」「選集」では、『ヅップ』。種不詳。識者の御教授を乞う。]

 序《ついで》に云ふ、「改定史籍集覽」第十六册に收めた「渡邊幸庵對話」に、『女の陰門へ蛇の入《いり》たるを、予、一代に、三度、見たり。一人は片羽道味《かたはだうみ》、療治す。是は、手洗《てあらひ》に水を溜め、蛙を放置《はなちおき》候處、蛇、頭を出《いだ》す。其時、足の末を、蛇の際《きは》へ寄《よす》る所に、『可喰《くらふべく》』と致し申すを、引取《ひきと》り、二、三度も左樣に致して後、蛇に喰《くらは》せ申し候。又、蛙の太き所を出し、右之通り、『可喰』と致し、頭を出し申すを、二、三度も引取り、外《ほか》の蛙の中へ、山椒を、二、三粒、入包《いれつつ》み、外《そと》へ不知樣《しれざるやう》に認《したた》めて、蛇、飛付《とびつき》申す刻(とき)、最初の蛙と取替《とりかへ》、山椒の入《いり》たる蛙を喰せ候へば、四半時の内に、蛇、外へ出《いで》申候。『内にては、膓《はらわた》を喰居《くらひを》り申す。』との了簡にて、蛙を以て、差引致し申す内、蛇も其所《そこ》へ心を移し、内卷《うちまき》、ほくれ申《まをす》考へにて、差引致し申候。「左も無く、理不盡に出し候へば、腹、痛み候半《さふらはん》。」と、右の通り、道味、考へ、致療治候。』(寶永七年筆記)。予、幼時、和歌山で、二、三度聞きしは、田舍で、蛇、時として、女陰に入る事、有り。直ちに其尾を割《さ》き、山椒の粉を割目《さきめ》に入《いる》れば、弱つて出來《いでく》るとなり。「和漢三才圖會」八九には、『蛇、山椒樹を好み、來り棲む。蝮、最も然り。』と有る。蛇が人の竅(あな)に入ること、實際、有るにや。

[やぶちゃん注:『「改定史籍集覽」第十六册に收めた「渡邊幸庵對話」に、『女の陰門へ蛇の入《いり》たるを、……』熊楠が底本とした原本を国立国会図書館デジタルコレクションの画像(ここ)で視認して校合した(漢字表記は概ね渡邊の原表記に代え、脱文部を復元した)。「渡邊幸庵」(生没年不詳)は江戸初期の武士。徳川家康・秀忠に仕え、上野国で知行三百石を賜り、「関ケ原の戦い」や「大坂の陣」には父と共に参加して軍功を挙げ、逐次、加増を受けたのち、寛永二(一六二五)年に徳川忠長に付属せられ、大番頭となって、五千石を知行したとする。忠長が改易となった後は、浪人となり、その後の経歴は不明であるが、彼の後年の回想記とされる本「渡辺幸庵対話」によれば、「島原の乱」の時には、細川忠利の部隊に陣借りして働き、その後は、中国大陸に、長年、滞在し、再び日本に戻ったという。老年には武蔵国大塚に住んだが、加賀藩主前田綱紀は宝永六(一七〇九)年、家臣を遣わして、幸庵の昔話を筆記させ、同八年に上記の回想記がまとめられた。一説に天正一〇(一五八二)年生まれで、正徳元(一七一一)年に百三十歳で没したとするが、凡そ信じ難い。謎の多い人物であるが、元幕臣ということからすると、「寛政重修諸家譜」に載る渡辺茂、或いは、その子の忠が、モデルの一部として比定はし得るであろうとはいう(朝日新聞出版「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。孰れにせよ、「対話」にあるような経歴を持った幕臣は実際にはいない。

「片羽道味」実在した医師・本草家のようである。

「内卷、ほくれ申考へにて」「内部で、蛇が体をぐにやぐにゃと内臓器と絡め巻いているのを、すんなりとほぐらし、直すという手法で」の意。底本では、この前後がごっそり抜けているので、完全に復元した。

『「和漢三才圖會」八九には、『蛇、山椒樹を好み、來り棲む。蝮、最も然り。』と有る』これは、巻八十九の「味果類」の三番目に出る、「朝倉椒(あさくらさんしやう)」の最後の作者寺島良安の添え(この項は和品であるため、全文が寺島の記載である)辞で、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の板本画像で示すと、ここ。なお、この「朝倉椒」とは双子葉植物綱ムクロジ目ミカン科サンショウ属サンショウ Zanthoxylum piperitum 突然変異で現れた棘の無い栽培品種で、江戸時代から珍重されてきたものである。実生では、雌雄不定で、且つ、棘が出てくるため、主に、雌株を接ぎ木で栽培した物を「朝倉山椒」として販売されている。学名はアサクラザンショウZanthoxylum piperitum forma inerme 。ここはウィキの「サンショウ」に拠った。以下、画像から訓読して示す(一部の送り仮名と読みは私が添えた)。

   *

凡そ、蛇(へび)山椒の樹を喜びて、來り棲む。反鼻蛇(くちはみへび)、最も然(しか)り。

   *

「反鼻蛇」ニホンマムシの異名。特にマムシの皮を取り去って乾燥させたものを「反鼻(はんぴ)」と呼び、漢方薬として滋養強壮などの目的で用いる。

「蛇が人の竅(あな)に入ること、實際、有るにや」私は、ない、と考える。男根のミミクリーの卑猥な妄想である。寧ろ、古代からあった夜這いを蛇に喩えて、神話・伝説・説話の類に変容させたものは、結構、多い。]

 東晋譯「摩訶僧祇律」卷四十に、佛住舍衞城。爾時比丘尼、初夜後夜、跏趺而坐、時有蛇來瘡門中。〔佛、舍衞城に住す。爾(そ)の時、比丘尼、初夜・後夜、跏趺〕かふ)して坐す。時に、蛇、有り、來たりて瘡門《さうもん》の中に入る。〕。比丘尼の總頭《さうがしら》で、佛の叔母なる大愛道《だいあいだう》が佛に白《まう》すと、佛、言《いは》く、應ㇾ與某甲藥、蛇不ㇾ死而還出、卽與ㇾ藥而出。〔應(まさ)に某甲(そのもの)に藥を與ふべし。蛇は、死せずして、還り出でん、」と。卽ち、藥を與へて出だせり。〕。以後、『比丘尼は、必ず、一脚を屈め、一脚、跟《くびす》もて瘡門を奄《おほ》ふべし。男僧同樣、跏趺して坐すれば、越毗罪たるべし。』と制戒せり、と有る。

[やぶちゃん注:『東晋譯「摩訶僧祇律」』の当該部は「大蔵経データベース」で校合した。

「瘡門」辞書などに見当たらないが、女性の会陰部の膣の出口を言っている。「瘡」には「切られた傷」の意があるので、そのミミクリーであろう。]

 一七六九年板、「バンクロフト」の「ギアナ博物論(アン・エツセイ・オン・ゼ・ナチユラル・ヒストリー・オブ・ギアナ)」二〇五頁に、「コムモード」は水陸兩棲の蛇で、長《たけ》十五呎《フィート》、周《めぐり》十八吋《インチ》、頭、濶《ひろ》く、扁《ひらた》く、尾、長く、細く、尖る。褐色で、脊と脇に栗色の點有り。毒蛇で無いが、頗る厄介な奴で、屢《しばし》ば、崖や池を襲ひ、鵞《がちやう》・鶩《あひる》等を殺す。印甸人《インジアン》言ふ、「此蛇、自分より大きな動物に會ふと、尖つた尾を其肛門に插入て之を殺す。故にギアナ住《ぢゆう》白人《はくじん》、これを男色蛇(ソドマイト・スネイク)と呼ぶ。」と。同書一九〇頁に「ペリ」てふ魚が、水に浴する女の乳房や男の陰莖を咬み切る、と有る。紀州田邊灣にも「ちんぼかぶり」とて、泳ぐ人の一物を咬む魚が有る。「大英類典」十一板廿卷七九四頁に、巴西國(ブラヂル)の「カンヂル」魚は、長《たけ》纔か日本の三厘三毛で、小便の臭を慕ひ、川に浴する人の尿道に登り入る。能く頰の刺を起こすから、引出す事成らぬ。故に「アマゾン」河邊の或る土民は、水に入る時、椰子殼《やしがら》に細孔を明け、陰莖に冐《かぶ》せ、其侵入を防ぐ、と出づ。焉《いづ》れも、本題に緣があまり近く無いが、中々、珍聞故、書て置く。

[やぶちゃん注:『一七六九年板、「バンクロフト」の「ギアナ博物論(アン・エツセイ・オン・ゼ・ナチユラル・ヒストリー・オブ・ギアナ)」二〇五頁』エドワード・バーソロミュー・バンクロフト(Edward Bartholomew Bancroft 一七四四 年又は一七四五年~一八二一年:ベンジャミン・フランクリンの手下のスパイとなり、後にはイギリスのスパイともなった政治上の人物として知られるが、本来は自然史が専門であった)の‘An Essay on the natural history of Guiana in South America(「南アメリカのギアナの自然史とエッセイ」。一七六九年刊)。原本当該部が「Internet archive」のここから視認出来る。

「コムモード」原本綴りは“Commodee”。これは爬虫綱有鱗目   有鱗目 Laterata 下目テユー上科 Teiioideaテユー科Tupinambinae亜科カイマントカゲ属ギアナカイマントカゲDracaena guianensis のこと。但し、ここに書かれているような習性が本当にあるかどうかは、不詳。欧文綴りから、有鱗目オオトカゲ科オオトカゲ属オニオオトカゲ亜属コモドオオトカゲVaranus komodoensis を想起されたあなた、彼らはインドネシアにしかいませんから、ご注意を。因みに、「コモド」の方の綴りは“Komodo”。

「男色蛇(ソドマイト・スネイク)」原本の綴りは“Sodomite Snakesodomiteは「男性とのアナル・セックスに魅了される男性」の意。

『同書一九〇頁に「ペリ」てふ魚が、水に浴する女の乳房や男の陰莖を咬み切る、と有る』これは一八九ページから書かれてある。綴りは“peri”。現在の同定種不詳。

『紀州田邊灣にも「ちんぼかぶり」とて、泳ぐ人の一物を咬む魚が有る』種不詳。識者の御教授を乞うものである。

『「大英類典」十一板廿卷七九四頁に、巴西國(ブラヂル)の「カンヂル」魚』「Internet archive」の原本のここの「PARASITISM」(「寄生」)の“List of Parasites”“A. — Animals. の八行目から、

   *

Vandellia cirrhosa, the candiru of Brazil, a minute fish 60 mm.in length, enters and ascends the urethra of people bathing, being attracted by the urine; it cannot be withdrawn, owing to the erectile spines on its gill-covers. The natives in some parts of the Amazon protect themselves whilst in the water by wearing a sheath of minutely perforated coco-nut shell.

   *

とある。これは、条鰭綱ナマズ目トリコミュクテルス科Trichomycteridaeヴァンデリア属の総称、或いはカンディルVandellia cirrhosa である。私は二十五年程前のTVの特集番組で初めて「カンジール」の名で知った。当該ウィキによれば、『カンディル(Candiru)は、ナマズの仲間で、アマゾン川など南アメリカの熱帯地方に生息する肉食淡水魚の種の総称である。セトプシス(ケトプシス)科およびトリコミュクテルス科がこれに属する。狭義のカンディルとしてトリコミュクテルス科のVandellia cirrhosa、もしくはVandellia亜科に属するナマズのみを指す場合もあるが、トリコミュクテルス科およびセトプシス科全体をカンディルと呼ぶのが一般的である。日本ではカンジェロ、カンジル、カンジルー、カンジール、カンビルとも表記される』。『銀色の』十センチメートル『ほどの小魚だが、生育すると』三十センチメートル『ほどに達する個体もいる』。『カンディルには、自身よりも大きな魚のエラなどから』、『細い体を潜り込ませて体の内側を捕食するものや、直接』、『他の生きた魚や死魚の体表を食い破り』、『肉を食すものが存在する。性質は獰猛で、獲物に集団で襲いかかる。カンディルのヒレには侵入した獲物から離れないように返し針のようなトゲがあり、無理に引き離そうとすると肉を切り裂いてしまうため、生息地の人々には毒針を持つ淡水エイと並び、ピラニア以上に恐れられている』。『その体型と習性から、女性の膣に侵入した事例が報告されている』。但し、『種類によっては、砂の中の微生物を食べて生きる比較的おとなしいものも存在する』。『トリコミュクテルス科バンデッド・カンディル』『Pseudostegophilus nemurus』は、『全長』十センチメートル『ほどで、黄土色の体に黒い縞模様が入るのが外見的な特徴である。エラに侵入するタイプの典型として、頭部が押しつぶしたように平たくなり、他の魚の体内へ入り込みやすくなっている』。『セトプシス科』『ブルー・カンディル』『Cetopsis coecutiens』は『全長』二十センチメートル『ほどの大型のカンディル。クジラを思わせる丸い頭部が特徴で、英語ではWhale Catfishとも呼ばれる。大型の魚や死骸の表皮を食い破り、肉を食う。人目をひく捕食形態から水族館やアクアリウムで飼育されることがあるが、エラや排泄孔から侵入するトリコミュクテルス科のカンディルと異なり、皮膚に噛み付いて』、『直接』、『穴を開けることがあるため、注意が必要である』。以下、『男性の尿道に侵入するという風聞』の項。十九『世紀の探検家が報告して以来』、『カンディルは、ほかの魚が排出したアンモニアに反応するため、時には人間も襲うことがあり、肛門や尿道から膀胱などの内臓にまで侵入された際には、切開による除去手術が必要となる』という『風聞がある』が、『実際には、カンディルが男性の尿道に侵入したところが目撃されたことはない』。『Stephen Spotteの研究によれば、カンディルはアンモニアなどの化学物質には反応せず、視覚で獲物を探す』。『カンディルに関する文献を調査したIrmgard Bauerは、カンディルの生息域とその地域の人口を考えれば、危険性はないと結論している』。一九九七『年にはマナウスでカンディルが尿道に侵入した男性患者を処置したという医学論文が』一『件あるが、その執筆者を訪れた』人物は『報告は疑わしいものとしている』。但し、最後にイギリスの『アニマルプラネットの番組『怪物魚を追え! S1 アマゾンの殺人魚』では、番組ホストのジェレミー・ウェイドが実際に尿道に侵入された男性との対面に成功し、病院において内視鏡で取り出され、ブラジル国立アマゾン研究所にてホルマリン漬けで保存された個体標本が登場する。またカンディルを取り出す時に撮影された内視鏡カメラの映像もポルトガル語題名のyoutube動画として存在する』とはある。]

 蛇が瘡門に入る事、本邦の古書に明記は見當らぬが、似た例を見出だす儘、少々、記さう。「日本靈異記」中卷に、天平寶字三年四月、河内の馬廿里《うまかひのさと》の富豪の女《むすめ》が、桑の樹に登ると、大蛇も隨《したがひ》て登り、女が人に示されて、驚き落《おち》ると、蛇も、亦副墮、纏ㇾ之以婚、慌迷而臥、父母見ㇾ之、請召藥師、孃與蛇倶載於同床、歸ㇾ家置ㇾ𨓍(音「廷」。「草逕」也。[やぶちゃん注:「庭の小径」で「庭」の意。])、燒稷藁三束、合湯取ㇾ汁三斗、煮之成二斗、猪毛十把剋末合ㇾ汁、然當孃頭足、打ㇾ橛懸鉤、開ㇾ口入ㇾ汁、汁入一斗、乃蛇放往、殺而棄、蛇子白凝如蝦蟆子、猪毛立蛇子身、從※出五升許[やぶちゃん注:「門」+(中下に)「也」。膣。]、口入二斗蛇子皆出、迷惑之孃、乃醒言語、二親問ㇾ之、答我意如ㇾ夢、今醒如ㇾ本、藥服如ㇾ是、何謹不ㇾ用、然經三年、彼孃復蛇所ㇾ婚而死。〔亦、副(そ)ひ墮ちて、之れに纏ひ、以つて、婚(くなが)ふ。慌(ほ)れ迷(まど)ひて[やぶちゃん注:正気を失って。]、臥す。父母、之れを見て、藥師(くすし)を請ひ召し、孃(をとめ)と蛇とともに同じ床に載せて、家に歸り、𨓍(には)に置く。稷(きび)の藁三束(みたばり)を燒き、湯に合はせ、汁を取ること、三斗、之れを煮-煎(につめ)て、二斗と成し、猪(しし)の毛十把(じつたばり)を、剋(きざ)み末(くだ)きて、汁に合はせ、然(しか)して、孃の頭・足に當たりて橛(くひ)を打ち、懸け鉤(つ)り、※(したなりくぼ)の口に、汁を入(い)る。汁、入ること、一斗、乃(すなは)ち、蛇、放れ往(ゆ)く。殺して棄てつ。蛇の子、白く凝(こご)り、蝦蟆(かへる)の子のごとし。猪の毛、蛇の子の身に立ち、※より出づること、五升ばかりなり。口に、二斗を入るれば、蛇の子、皆、出づ。迷-惑(まど)へる孃、乃(すなは)ち、醒めて、言語(かたら)ふ。二親(ふたおや)、之れに問ふに、答ふらく、「我が意(こころ)、夢のごとく、今、醒めて、本(もと)のごとし。」と。藥服、かくのごとし、何ぞ、謹しみて用ひざらめや。然(しか)れども、三年を經て、彼(か)の孃、復(ま)た、蛇の婚(くがな)はれて死す。〕

[やぶちゃん注:「日本靈異記」の原漢文は私の所持する二種の原本データ(伝本によって異同がある)から、最も納得出来ると判断したものを、熊楠の表記をメインとしつつ、校合した。]

 「今昔物語」二九卷に、小便する若き女の陰を、蛇が見て魅入《みい》れ、其女、二時《ふたとき》斗《ばか》り、其場を去《さり》得なんだ話有り。又、三井寺で、若い僧、晝寢の夢に、若い美女、來たりて、婬す、と見、覺《さめ》て、傍を見れば、五尺許《ばか》りの蛇が、口に、婬を受けて、死居《しにをつ》た、と出づ。是は「アウパリシュタカ」とて、口で受婬する事が、インドで、古來、大流行で、之を業とする閹人(ユーナツク)多く、其技《そのわざ》、亦、多端だ(一八九一年板「ラメーレツス」譯、「愛天經《カーマ・スートラ》」九一―九三頁。此書は基督と同じ頃、「ヴワチャナ」梵士作。)。隨《したがつ》て、佛律に、其制禁、少なからず。例せば、姚秦譯「四分律藏」五五卷に、佛在毗舍離城、有比丘、體軟弱、以男根口中云々、時有比丘、於狗口中行ㇾ婬。〔佛、毘舍離城に有り。[やぶちゃん注:以上は熊楠の作文と推定する。近いのは、ずっと前にある「爾時世尊在王舍城」で、「爾(こ)の時、世尊、王舍城に在り。」である。]、比丘、有り、體、軟弱にして、男根を以つて口中に内(い)れ、云々、比丘、有り、狗(いぬ)の口中に於いて婬を行なふ。〕。何《いづ》れも、自《みづか》ら受樂せし故、佛、之を波羅夷罪《はらいざい》と判ず。時有比丘、褰ㇾ衣小便、有ㇾ狗舐小便、復前含男根、彼受樂已還。出ㇾ疑佛問言、汝受樂不、答言受樂、佛言、汝波羅夷、時有比丘、褰ㇾ衣渡伊羅婆提河、有ㇾ魚含男根、彼不受樂。〔時に比丘有り、衣を褰(かか)げて小便す。狗(いぬ)有り、小便を舐(な)め、復(ま)た、前(すす)みて、男根を含む。彼、受樂し已(をは)りて還る。疑ひを出だして、佛、問ひて言はく、「汝、受樂せざるやいなや。」と。答へて言はく、「受樂せり。」と。佛、言はく、「汝、波羅夷たり。」と。時に比丘有り、衣を褰げて伊羅婆提河(いらばだいが)を渡る。魚、有り、男根を含む。彼は受樂せず。〕。不犯で無罪放免された。又佛在王舍城、〔又、佛、王舍城に在り。〕。萍沙王《ひやうさわう》の子無畏王子、其の男根を病む。令女人含之、後得差已云々、此女人憂愁不ㇾ樂、〔女人ををして、之れを含ましめ、後(のち)、差(い)ゆを得已(をは)んぬ云々、此の女人、憂愁(うれ)ひて樂しまず。〕。自《みづか》ら一計を出《いだ》し、王の前に全體を裸《ら》し、頭のみ、覆ふ。王、之を見て、「狂人か。」と問ふ。女、答て言く、不狂、是王子所ㇾ須故。我今覆護、何以故、王子常於我口中行ㇾ婬、是故覆護、〔「狂ならず。是れ、王子の須(もと)むる所を、我れ、今、覆ひて護(まも)る。何を以つての故か。王子、常に我が口中に於いて婬を行なふ。是の故に覆ひて護る。」と。〕。之を聞《きい》て、王、王子を詰《なじ》つたので、王子、大《おほい》に慙《は》ぢ、返報に、彼女に娼妓同樣、黑衣を著せ、安置城門邊、作如ㇾ是言、若有如是病者、當此婬女口中行ㇾ婬得ㇾ差。〔城門の邊りに安置し、是(かく)のごとき言を作(な)す。「若(も)し、是のごとき病ひの者、有れば、當に此の婬女の口中に於いて婬を行へば、差(い)ゆるを得べし。」と〕。蕭齊《せうせい》の衆賢譯「善見毘婆沙律」卷七には、蛤口極大、蛤口極大。若以男根蛤口。而不ㇾ足、如内瘡無異。得偸蘭遮罪。〔蛤の口、極めて、大なり。若(も)し、男根を以つて蛤の口に内(い)るるも、而(しか)も足らず。瘡(さう)に内るるがごとくにて異(かは)り無し。偸蘭遮罪(とうらんじやざい)を得。〕。前文に魚・龜・鼉・鼈・蛤と續け序(のべ)たれば、「はまぐり」で無《なく》て、蛙也。斯る異類の物の口婬さへ、印度に行われたのぢや。

[やぶちゃん注:『「今昔物語」二九卷に、小便する若き女の陰を、蛇が見て魅入《みい》れ、……』「今昔物語集」の巻第二十九の「蛇見女陰發欲出穴當刀死語第三十九」(蛇(へみ)、女陰(によいん)を見て欲を發(おこ)し穴を出でて刀(かたな)に當たりて死ぬる語(こと)第三十九)。かなり知られた話である。小学館『日本古典全集』版の第四巻を参考に、漢字を恣意的に正字化して示す。読点・送り仮名を追加し、段落を成形、鍵括弧改行も加えた。

   *

   蛇、女陰を見て欲を發し、穴を出でて、刀に當たりて死にたる語第三十九

 今は昔、若き女(をむな)の有りけるが、夏比(なつころほひ)、近衞(こんゑ)の大路を西樣(にしざま)に行きけるが、小一條と云ふは宗形(むなかた)なり、其の北面を行きける程に、小便の急なりけるにや、築垣(ついがき)に向ひて、南面に突居(ついゐ)て尿(ゆばり)をしければ、共に有りける女(め)の童(わらは)は、大路に立ちて、

『今や、爲畢(しは)てて、立(たつ)、立(たつ)、』

と思ひ立てけるに、辰の時[やぶちゃん注:午前八時。]許りにて有りけるに、漸く一時(ひととき)[やぶちゃん注:二時間。]許り立たざりければ、女の童は、

『何かに。』

と思ひて、

「やや。」

と云ひけれども、物も云はで、只、同じ樣にて、居たりけるが、漸く、二時許りにも成りにける。

 日も、既に午(むま)の時に成りにけり。

 女の童、物云へども、何(な)にも答へも爲(せ)ざりければ、幼き奴(やつ)にて、只、泣き立てたりけり。

[やぶちゃん注:当該ロケーション地は現在は京都御所内となっている。この中央附近相当

「宗形」宗像神社。清和天皇の産土神。現在は京都御所内のずっと南に移っている(前の地図でポイントしてある)。]

 其の時に、馬(むま)に乘りたる男(をとこ)の、從者、數(あまた)、具して、其こを過ぎけるに、女の童の泣き立てりけるを見て、

「彼(あ)れは、何(な)ど泣くぞ。」

と、從者を以つて問はせければ、

「然々の事の候へば。」

と云ひければ、男、見るに、實(まこと)に女の、中(なか)、結ひて、市女笠(いちめがさ)着(き)たる、築垣に向ひて蹲(うづくま)りて居(ゐ)たり。

「此(こ)は、何(いつ)より居たる人ぞ。」

と問ひければ、女の童、

「今朝より居させ給へるなり。此(か)くて、二時には成りぬ。」

と云ひて、泣きければ、男、怪がりて、馬より下りて、寄りて、女の顏を見れば、顏に、色もなくて、死にたる者の樣にて有りければ、

「此は何かに。病ひの付きたるか。例(れい)も此(か)かる事、有るや。」

と問ひければ、主(あるじ)は、物も、云はず。

[やぶちゃん注:「例(れい)も此(か)かる事、有るや。」「今までにも、こんな風になることが、あったのか?」。]

 女の童、

「前に此かる事、無し。」

と云へば、男の見るに、無下(むげ)の下衆(げす)には非(あら)ねば、糸惜(いとはし)くて、引き立てけれども、動かざりけり。

 然(さ)る程に、男、

「急(き)」

と、築垣の方(かた)を、意(おも)はず、見遣りたるに、築垣の穴の有りけるより、大(おほ)きなる蛇(へみ)の、頭(かしら)を、少し、引き入れて、此の女を守りて[やぶちゃん注:「見守りて」。凝っと見つめていたのである。]有りければ、

「然(さて)は。此の蛇の、女の尿(ゆばり)しける前(まへ)[やぶちゃん注:外陰部。]を見て、愛欲を發(おこ)して蕩(とらか)したれば、立たぬなりけり。」

と心得て、前に指(さ)したりける一(ひ)とびの劍の樣なるを拔きて、其の蛇の有る穴の口に、奧の方に齒をして、强く、立てけり。

[やぶちゃん注:「一(ひ)とびの劍」参考底本の別巻(第三巻)の六三三ページの注に、『「一佩」と同じものと推断する。短い腰刀の一種。一本差しの刀の意で、太刀をはかない時にも、それだけを腰に差したもの』とある。]

 然(さ)て、從者共を以つて、女を濟上(すくひあげ)て、其(そこ)を去りける時に、蛇、俄かに築垣の穴より、鉾(ほこ)を突く樣(やう)に出でける程に、二つに割(さ)けにけり。一尺許り割けにければ、え出でずして死にけり。早(はや)う[やぶちゃん注:何ということか。驚くべきことに。]、女を守りて蕩(とろか)して有りけるに、俄かに去りけるを見て、刀を立てたるをも知らで、出でにけるにこそは。

 然(しか)れば、蛇の心は、奇異(あさま)しく、怖しき者なりかし。

 諸(もろもろ)の行來(ゆきき)の人、集まりて見けるも理(ことわり)なり。

 男は、馬に打ち乘りて行きにけり。從者、刀をば、取りてけり。女をば、不審(おぼつかな)がりて、從者を付けてぞ、慥(たし)かに送りける。然(しか)れば、吉(よ)く病ひしたる者の樣(やう)に、手を捕らへられてぞ、漸(やうや)くづづ、行きける。

 男、哀れなりける者かな[やぶちゃん注:まっこと、情け深き人物ではあったなぁ。]。互ひに誰(たれ)とも知らねども、慈悲の有りけるにこそは。

 然(しか)れば、此れを聞かむ女、然樣(さやう)ならむ藪に向ひて、然樣の事は、爲(す)まじ。

 此れは、見ける者共の語りけるを聞き繼ぎて、此(か)く語り傳へたるとや。

   *

「三井寺で、若い僧、晝寢の夢に、若い美女、來たりて、婬す、と見、覺《さめ》て、傍を見れば、五尺許《ばか》りの蛇が、口に、婬を受けて、死居《しにをつ》た、と出づ」これは「今昔物語集」巻第二十九の「蛇見僧晝寢𨳯吞受媱死語第四十」(蛇(へみ)、僧の晝寢の𨳯(まら)を見、吞(の)み、媱(いむ)を受けて死にたる語(こと)第四十(しじふ))を指す(「媱」は「淫」に同じで、ここは「射精」を言う)。同前で他本も参考にしつつ、示す。

   *

   蛇、僧の晝寢の𨳯を見、吞み、媱を受けて死にたる語第四十

 今は昔、若き僧の有りけるが、止事無(やむごとな)き僧の許(もと)に宮仕へしける有りけり。妻子など、具したる僧なりけり。

 其れが、主(あるじ)の共に、三井寺に行きたりけるに、夏の比(ころほひ)、晝間に眠(ねぶ)たかりければ、廣き房(ばう)にて有りければ、人離(ひとはな)れたる所に寄りて、長押(なげし)を枕にして、寢(ね)にけり。

 吉(よ)く寢入りたりけるに、夢に、

『美き女(をむな)の若きが、傍らに來たると、臥(ふ)して、吉々(よくよ)く婚(とつ)ぎて媱(いむ)を行ひつ。』

と見て、

「急(き)」

と、驚き覺(さ)めたるに、傍らを見れば、五尺許りの蛇、有り。

 愕(おどろ)きて、

「かさ」[やぶちゃん注:オノマトペイア。「がばっ」。]

と、起きて見れば、蛇、死して、口を開きて有り。

 奇異(あさま)しく、恐しくて、我が前(まへ)を見れば、媱を行ひて、濕(ぬ)れたり。

『然(さて)は。我れは、寢たりつるに、美き女と婚ぐと見つるは、此の蛇と、婚ぎけるか。』

と思ふに、物も思(おぼ)えず、恐しくて、蛇の開きたる口を見れば、婬、口に有りて吐き出だしたる。

 此れを見るに、

『早(はや)う、我が吉く寢入りにける間(あひだ)、𨳯の發(おこ)たりけるを、蛇の、見て、寄りて吞みけるが、女を嫁(とつ)ぐとは思(おぼ)えけるなりけり。婬を行ひつる時に、蛇の、え堪へで、死にけるなりけり。』

と心得(こころう)るに、奇異(あさま)しく、恐しくて、其(そこ)を去りて、隱れにて[やぶちゃん注:人の見えない所で。]、𨳯を吉々(よくよ)く洗ひて、

『此の事、人にや語らまし。』[やぶちゃん注:「このこと、誰かに話してみようか?」。]

と思ひけれども、

『由無(よしな)き事、人に語りて聞えなば、「蛇に嫁(とつ)ぎたりける僧なり」ともぞ、云はるる。』

と思ひければ、語らざりけるに、尙、此の事、奇異く思(おぼ)えければ、遂に、吉(よ)く親(した)しかりける僧に語けるに、聞く僧も、極(いみ)じく、恐れけり。

 然(しか)れば、人離れたらむ處にて、獨り晝寢は爲(す)べからず。

 然(しか)れども、此の僧、其の後(のち)、別の事、無かりけり。

「畜生は、人の婬を受けつれば、え堪へで、死ぬ。」

と云ふは、實(まこと)なりけり。

 僧も、臆病に、暫くは病み付きたる樣(やう)にてぞ有りける。

 此の事は、其の語り聞せける僧の語りけるを聞きたる者の、此く語り傳へたるとや。

   *

「アウパリシュタカ」口淫。フェラチオ(Fellatio)。

「閹人(ユーナツク)」宦官に同じ。東洋諸国で宮廷や貴族の後宮に仕えた、去勢された男子。中国・オスマン帝国・ムガル帝国などに多かった。王や後宮に近接しているため、勢力を得やすく、政治に種々の影響を及ぼした。Eunuch(ギリシャ語由来の英語)。

『「ヴワチャナ」梵士』何度も出、注もした古代インドの「カーマ・シャーストラ」(性愛論書)の一つとして知られた「カーマ・スートラ」の著者ヴァーツヤーヤナのこと。

『姚秦譯「四分律藏」』以下は総て「大蔵経データベース」で校合した。熊楠は短縮するために、どれも一部を改変している。例えば、「佛在毗舍離城」「佛、毘舍離城に有り。」というのは熊楠の誤った作文と推定され、近いのは、ずっと前にある「爾時世尊在王舍城」で、「爾(こ)の時、世尊、王舍城に在り。」である。最もひどいのは、「復前含男根、」以下の部分のカットで、犬に口淫させた比丘を熊楠は「彼不受樂不犯」とするところで、意味が通らなくなってしまっているのである。これは実は熊楠が安易にカットしたために生じた大誤謬である。本文ではそこを復元してある。則ち、「時有比丘、褰ㇾ衣渡伊羅婆提河、」の前の部分である。私の復元と推定訓読を底本と比較されたい。それにしても、どうして誰もこのトンデモ引用の誤りを指摘しなかったのだろう? 所持する「選集」(一九八四年版)でも補正されて訓読しているものの、誤った当該部はそのまま訓読されてある。初出から実に五十八年以上に亙って誰にも検証されていないというのは、話柄の内容が性に係わるとはいえ、放置されてきたこの為体には、正直、呆れ果てたと言わざるを得ない。

「波羅夷罪」波羅夷(はらい)は仏教の戒律で最も重い罪を指す語。サンスクリット語「パーラージカ」(「他に勝(まさ)ること」の意)の漢音写で、「根本罪」「辺罪」とも言う。修行者がこの罪を犯すと、僧伽(そうぎゃ:出家教団)から永久に追放される大罪とされる。比丘戒の波羅夷は、①淫(性交)を犯す。②物を盗む。③殺人(堕胎を含む)。④大妄語(悟りを得ていないのに得たと嘘を言うこと)の四条からなるが、比丘尼戒の波羅夷には、さらに四条(「触」(欲心を持ちつつ、男性に首下から膝上までの領域を触られること)・「八事」(男性との八種の淫らな逢瀬)・「覆」(波羅夷を犯した他の比丘尼を告発せずに匿すこと)・「随」(僧伽に背く比丘に随っていることに対する、他の比丘尼からの注意に三度に亙って従わないこと)が加わり、全八条から成る(小学館「日本大百科全書」及びウィキの「波羅夷罪」に拠った)。

「伊羅婆提河」比定河川不詳。

『蕭齊の衆賢譯「善見毘婆沙律」』(ぜんけんりつびばしゃ:現代仮名遣)は上座部所伝の律蔵を注釈したもの。全十八巻。南北朝時代の斉の僧伽跋陀羅による漢訳であるが、四四〇年頃のインドのマガダの学僧ブッダゴーサがセイロン (現在のスリランカ)で撰述した律蔵の注釈の抄訳といわれている。第一から第三結集までを述べ、アショーカ王の子マヒンダがセイロンに渡って弘法に努めたこと、さらに比丘・比丘尼の戒律を詳しく記述している(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。例によって「大蔵経データベース」で校合した。最後の「罪」は原本にはないが、判り易いのでそのままとした。

『「はまぐり」で無て、蛙也』「蛤」の字はハマグリに限らず、海産斧足類(二枚貝)の総名であるが、同時に「蛙」の意も持つ。]

 又、畜生同士、口婬の例は、「摩訶僧祇律」卷六に、佛、迦蘭陀竹園《からんだちくえん》に在(おは)せし時、優陀夷《うだい》の方《かた》へ、知れる婆羅門、其婦を伴來《つれき》たり、諸房を示さん事を請《こひ》しに、優陀夷於一屛處、便捉婦人手把持抱、婦人念言、此優陀夷必欲ㇾ作ㇾ如ㇾ是如是事、弄已還放、語婆羅門云、我以已示竟云々、彼婦以優陀夷不共行欲故、便瞋言、用ㇾ看房舍、爲此是、薄福黃門出家、遍摩觸我身、而無好事、時婆羅門語優陀夷言、汝實於ㇾ我知識、而生非知識想耶、而於平地更生堆阜耶、而於水中更生火想耶。〔優陀夷、屏處(ものかげ)に於いて、便(すなは)ち、婦人の手を捉(と)り、把持(かか)えて、抱(いだ)かんと捉(とら)ふ。婦人、念言(おもふ)らく、『此の優陀夷、必ずや、是(か)くのごとく作(な)し、弄(たはふ)れ已(をは)れば、還(ま)た、放つならん。』と。婆羅門に語ひて、「我れは、以つて、示し竟(をは)れり。」と云々。彼(か)の婦は、優陀夷、以つて、共に欲を行はざるが故に、便(すなは)ち、瞋(いか)りて言はく、「房舍を看るを用ひて、此(か)くのごときことを爲(な)す。薄福(さちうす)き黃門(わうもん[やぶちゃん注:去勢。])せる出家、遍(あまね)く我が身を摩(な)で觸(さは)るも、而(しか)も好(よ)き事、無し。」と。時に、婆羅門、優陀夷に語って言はく、「汝は實(まこと)に我れに於いて、知識なり。而(しか)るに、非知識の想を生ずるや。而して、平地に於いて、更に堆阜(をか)を生ずるや。而して、水中に於いて、更に火を生ずるや。」。〕とて、優陀夷の頸を繫ぎ、牽去《ひきさ》りて、佛《ほとけの》所に之《ゆ》き、告ぐ。佛、優陀夷を罰し、其《その》因緣を說く。過去世時、香山中有仙人住處、去ㇾ山不ㇾ遠有一池水、時池水中有一鼈、出池水求食、食已向ㇾ日張ㇾ口而睡、時香山中有諸獼猴、入ㇾ池飮ㇾ水、已上ㇾ岸、見此鼈張ㇾ口而睡時、彼獼猴便欲ㇾ作婬法、卽以身生鼈口中、鼈覺合ㇾ口、藏六甲裏、如所ㇾ說偈言、愚癡人執ㇾ相、猶如鼈所一ㇾ咬、失修摩羅提、非ㇾ斧則不離。〔過去世の時、香山中(かうざんちゆう)に仙人の住む處、有り。山を去ること、遠からず、一つの池水、有り。時に、水中に一つの鼈(べつ[やぶちゃん注:スッポン。])有り。池水を出でて、求め食らひ、食らひ已(をは)りて、日に向かひ、口を張(あ)けて、睡(ねむ)る。時に、香山の上に諸(もろもろ)の獼猴(びこう)[やぶちゃん注:猿。]あり、池に入りて、水を飮む。已りて、岸に上がり、此の鼈の、口を張けて睡れるを見て、かの獼猴、便(すなは)ち、婬法(いんぱふ)を作(な)さんと欲す。卽ち、身生(しんしやう)[やぶちゃん注:ここは陰茎のこと。]を以つて、鼈の口中に内(い)れり。鼈、覺(めざ)め、口を合(がつ)し、六(りく)[やぶちゃん注:頸・四肢・尾。]を甲(かうら)の裏(うち)に藏(かく)す。說く所の偈(げ)のごときに言ふ、愚癡(ぐち)の人の相(さう)を執(と)るは、猶ほ、鼈に咬(か)まれて、摩羅提(まらだい)[やぶちゃん注:陰茎。]を失修(しつしゆ)し、斧に非(あら)ざれば、則ち、離れざるがごとし。」と。〕。鼈《すつぽん》は猴《さる》の陰《まら》を嚙《かん》だ儘、水に入れんと却行《あとずさり》し、猴は往《ゆ》かじと角力《あらそ》ふ内、鼈、仰《あほの》けに轉がり廻る。猴、鼈を抱き、仙人を訪《おとな》ひ、救ひを求め、仙人、猴の難を脫せしめた。仙人は、佛、鼈は、婆羅門、猴は優陀夷の前身ぢや、と有る。此樣《このやう》に口婬の話が佛典に多いから、上述、三井寺で僧が蛇の口を犯して美女と會ふと夢みたてふ「今昔物語」の譚抔も出來たのだろう[やぶちゃん注:ママ。]。

[やぶちゃん注:『「摩訶僧祇律」卷六』の引用は同じく「大蔵経データベース」で校合した。

「迦蘭陀竹園」「竹林精舍」(ちくりんしょうじゃ)とも呼ぶ。釈尊時代、中インドの最強国であったマガダ国の首都王舎城(ラージャグリハ。現在のビハール州ラージギル)の郊外に造られた僧園。サンスクリット名「ベーヌバナ・カランダカ・ニバーパ」と称した。迦蘭陀長者が寄進したものとも、「カランダカ」という栗鼠或いは鳥の住する竹で囲まれた園林をビンビサーラ王が奉献したものともされる。これは釈迦によって初めて受納された僧園で、成道(じょうどう)後の二、三、四年目の雨安居(うあんご)をここで過ごしたと伝えられる。玄奘によれば、この東に仏陀入滅に際して八分された舎利の一つを祀る、阿闍世王によって建てられた仏塔があったという(小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「優陀夷」は「ウダーイ」「ウダーイン」の漢音写で、釈迦の弟子の一人で「勧導第一」の弟子と称された。]

 序いでに言ふ。「五雜俎」九に、水碓《みづからうす》、番する壯士、虎に打《うた》れ、上に坐らる。其時、水車、飛《とぶ》が如く動くを、虎が見詰《みつ》め居《を》る内に、其人甦つたが、手足壓へられて、詮術《せんすべ》、無い。所ろが、虎の陰莖、翹然(によつきり)口に近きを見、極力、嚙付《かみつ》くと、虎、大《おほい》に吼《ほえ》て、逃去《にげさつ》た。又、昭武、鄕に、熊、多く、其勢《へのこ》[やぶちゃん注:陰茎。]、極《きはめ》て長く、坐する每《ごと》に、先づ、土に穴掘り、其勢を容《いれ》て後《のち》、坐る。山中の人、其穴を見付《みつけ》て、其上に桎梏《しつこく》[やぶちゃん注:挟ませて対象物を捕える枷罠(かせわな)。]を置き、機《ばね》を設《まう》く。熊、例の如く來て、其大事の物を穴に入れると、機、動き、兩木《りやうぼく》で莖《くき》を夾《はさ》まれ、號呼して、復《また》、起つ能はず、擊殺《うちころ》さると有るは、猴が鼈に一件を嚙まれたと、三幅對の珍談ぢや。又「根本說一切有部毘奈耶雜事《こんぽんせついつさいうぶびなやざつじ》」三一に、比丘尼共が園林中に默坐思惟すると、虫が來て、不便處《ふべんしよ》に入り、苦惱す。因《より》て、佛、半跏を命ぜしに、尙、細蟲、有り、身に入《いり》て惱ます。佛、命じて、故破衣(ぼろぎぬ)と輭葉《なんえふ》[やぶちゃん注:柔らかな葉。「輭」は「軟」の異体字。]で掩ふて寂定《じやくぢやう》を修《しゆ》せしめた、と有る。不便處とは大小便處を云《いふ》たらしい。

[やぶちゃん注:「五雜俎」「五雜組」とも表記する。明の謝肇淛(しゃちょうせい)が撰した歴史考証を含む随筆。全十六巻(天部二巻・地部二巻・人部四巻・物部四巻・事部四巻)。書名は元は古い楽府(がふ)題で、それに「各種の彩(いろどり)を以って布を織る」という自在な対象と考証の比喩の意を掛けた。主たる部分は筆者の読書の心得であるが、国事や歴史の考証も多く含む。一六一六年に刻本されたが、本文で、遼東の女真が、後日、明の災いになるであろう、という見解を記していたため、清代になって中国では閲覧が禁じられてしまい、中華民国になってやっと復刻されて一般に読まれるようになるという数奇な経緯を持つ。以上は巻九の「物部一」の一節(一つの話の中のある人物の台詞内の話)。今回は早稲田大学図書館「古典総合データベース」の寛政七(一七九五)年の訓点附き板本の当該部を元に電子化する。白文(句読点を打った)をまず示し、後に訓点を参考に書き下す。

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近歲、有壯士守水碓。爲虎攫而坐之。碓輪如飛、虎觀良久、士且甦、手足皆被壓不可動、適見虎勢、翹然近口、因極力嚙之。虎驚、大吼躍走、其人遂得脫。

   *

 近き歲(とし)、壯士の水碓(みづうす)を守る有り。虎の爲めに攫(つか)みて、之れに坐せらる。碓(うす)の輪(わ)、飛ぶがごとし。虎、觀ること、良(やや)久し。士、且つ、甦へる。手足、皆、壓(お)されて動くべからず。適(たまた)ま、虎の勢(へのこ)、翹然(げうぜん)として、口に近きを見て、因りて、力を極みに、之れを嚙む。虎、驚き、大いに吼(ほ)え、躍り走る。其の人、遂に脫(のが)るゝを得たり。

   *

熊の方も見つけた。同じ巻の前話の少し後のここ。同様に処理する。

   *

昭武謝伯元言、「其鄕、多熊。熊勢極長。毎坐必跑土爲窟、先容其勢、而後坐。山中人尋其窟穴、見地上有巨孔者,以木爲桎梏、施其上、而設機焉。熊坐、機發、兩木夾其莖。號呼不能復起、土人卽聚而擊之。至死不能動也。

   *

昭武の謝伯元の言はく、「其の鄕(がう)、熊、多し。熊の勢(へのこ)、極めて長し。毎(つね)に坐するときは、必ず、土を跑(あが)いて、窟(くつ)を爲(つく)り、先づ、其の勢を容れて、而して後(のち)、坐す。山中の人、其の窟穴を尋ね、地上に巨孔(きよこう)の有る者を見て、木を以つて、桎梏(しつこく)を爲(つく)り、其の上に施して、機(からくり)を設(まう)く。熊、坐はれば、機、發(はつ)して、兩木、其の莖を夾(はさ)む。號呼(がうこ)するも、復た、起くること能はず、土人、卽ち聚(よ)りて之れを擊つ。死に至るまで、動くこと能はざるなり。」と。

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「唐義淨譯『根本說一切有部毘奈耶雜事』」は何度も出てきている。今までと同じく「大蔵経データベース」で本文を確認した。特に大きな問題はない。

「不便處」熊楠は最後にかく言っているが、この漢語は、人間の両性の生殖器を指す語である。]

 

追 記 (大正三年四月『民俗』二年二報)

 前に引いた「和漢三才圖會」とレオ・アフリカヌスの記文を英譯して、八月二日の『ノーツ・エンド・キーリス』に出すと、同月三十日の分に次のような二文が出た。先づ、プリドー大佐言く、『往年、在インドの節、聞《きい》たは、土著《どちやく》の一英人、入浴中、壁に穿つた排水孔より、蛇、入り來《きた》るを見て、その人、恐れて詮術《せんすべ》を知らず。翌日、復《また》入り來り、排水孔より出去《いでさら》んとする時、尾を捉えて[やぶちゃん注:ママ。]引《ひい》たが、蛇、努力して、迯去《にげさつ》た。三日目にも來たが、今度は、去るに臨み、先づ、尾を孔に入れ、彼《かの》人を見詰め乍ら、身を逆《さかしま》にして迯去た。何と、蛇は、評判通り、慧(かしこ)い者ぢや。』と。次にフェヤブレイス氏曰く、『日本人は穴に入掛《いりかけ》た蛇の尾を捉へて引出す能はぬか知《しれ》ぬが、二十年斗り前、印度で、英人、獨りで、殆んど八呎[やぶちゃん注:二メートル四十四センチ弱。]、長き蛇を引出すを見た。』と。扨、田邊近き芳養(はや)村の人に聞くと、蛇の尾を捉へて、一人で引出すは六かしいが、今一人、其人を抱きて引くと、造作も無く、拔け出る由。

[やぶちゃん注:「八月二日の『ノーツ・エンド・キーリス』」の南方熊楠の当該投稿記事は、「Internet archive」の‘Notes and queries’のこちらの右ページで読め、以下の二氏の応答記事はここで読める。

「紀州芳養(はや)村」底本は「たや」と誤植。旧和歌山県西牟婁郡に上・中・下芳養村があった。だいたい、この中央の南北附近(グーグル・マップ・データ)。]

2022/11/23

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「話俗隨筆」パート 米糞上人の事

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから次のコマにかけて。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文部は全体が一字下げなので、それを再現するために、ブラウザの不具合を考えて、一行字数を少なくしておいた。今まで通り、後に〔 〕で推定訓読文を添えた。

 なお、底本では標題下に「同前」とあるが、これは冒頭の本文が前話と同じ大正二(一九一三)年五月『民俗』第一年第一報所収であることを言う。

 標題「米糞上人」は引用の「日本文徳天皇実録」の訓点から「べいふんしやうにん」と読んでおく。] 

 

      米糞上人の話 (大正二年五月『民俗』一年一報)

 

 明治四十一年六月の『早稻田文學』六三―四頁に、予此話に就き說く所有り。略記せんに云く、「文德實錄」に之を齊衡元年の事實として、

 六月乙巳、備前國貢一伊蒲塞、斷ㇾ穀不ㇾ
 食、有ㇾ勅安置神泉苑、男女雲會、觀者
 架ㇾ肩、市里爲ㇾ之空、數日之間、遍於天
 下、呼爲聖人、各々私願伊蒲塞、仍
 有許諾、婦人之類、莫ㇾ不眩惑奔咽
 後月餘日、或云、伊蒲塞、夜人定後、以ㇾ水
 飮送數升米、天曉如ㇾ廁、有ㇾ人窺ㇾ之、
 米糞如ㇾ積、由ㇾ是、聲價應ㇾ時減折、兒婦
 人猶謂之米糞聖人

〔六月乙巳(きのとみ)、備前の國より、一(ひとり)の伊蒲塞(いふそく)[やぶちゃん注:「優婆塞(うばそく)」に同じ。僧。]を貢(かう)す。「穀を斷ちて、食らはず。」と。勅、有り、神泉苑に安-置(おら)しむ。男女(なんいよ)、雲のごとく、會(あつ)まり、觀(み)る者、肩に架(の)る。市-里(まち)、之れが爲めに空(むな)し、數日(すじつ)の間に天下に遍(あまね)し。呼んで「聖人」と爲(な)す。各々、竊(ひそか)に伊蒲塞に願ひ、仍(よ)つて許諾する有り。婦人の類(たぐゐ)、眩惑し、奔咽(ほんいん)せざるなし。後(のち)、月の餘日(よじつ)、或(あるひと)云はく、「伊蒲塞は、夜(よる)、人(ひと)定(しづ)まりたる後、水を以つて、升の米(こめ)を飮み送(くだ)し、天(てん)の曉(あ)くるとき、厠(かやは)に如(ゆ)く。人、有りて、之れを窺(うかが)ひしに、米糞(へいふん)、積むがごとし。」と。是れに由りて、聲價(せいか)、時に應じて、減折(めつせつ)す。兒(こ)と婦人、猶ほ、之れを「米糞聖人」と謂へり。〕

と錄せり。イタリア人ヨサファ・バーバロの紀行(上記「無眠、一眼、二眼」に引けり)一一一頁に云く、『爰に囘敎の一聖人あり。野獸の如く裸行說法し、民の信仰厚く、庸衆、羣集追隨す。聖人、尙、以て足れりとせず、公言すらく、「一密室に入定し、四十日、斷食して、出《いづ》るに及び、よく、心身、異狀なからん。」と。仍《よつ》て此邊にて、石灰を作るに用ふる石を、林中に運ばせ、圓廬(ゑんろ)を構へて入定す。四十日後、出來《いできた》るを見るに、心身、安泰なれば、皆、驚嘆す。一人、細心にして、廬傍の一處、肉臭を放つを感知し、地を發掘して、積粮《せきらう》を見出す。事、官《くわん》に聞え、聖人、獄に繫《つなが》る。一弟子、又、囚《とら》へられ、拷問を重ねざるに、自白しけるは、「廬の壁を穿ちて、一管を通し、夜中、私《ひそ》かに滋養品を送り入れし也、と。是に於て、師弟併《あは》せ、誅せらる。賣僧、種々の方便もて、人を欺く事、古今諸國、例《ためし》多ければ、本邦と裏海《カスピかい》地方に、此《この》酷似せる二話有るは偶合ならん。「實錄」に日附をすら明記したれば、多少の事實は有りしなるべし。馬琴の「昔語質屋庫」末段に、見臺先生、次の夜の會合に演《の》べらるべき題號を拳ぐる中に、この聖人のことあれば、曲亭、多分、「實錄」と「宇治拾遺」の外にも、之に似たる東洋の古話を、若干、集置《あつめおき》たりつらめ、その續篇、版行無くて、其考、世に出でざりしは遺憾也。

[やぶちゃん注:「明治四十一年六月の『早稻田文學』六三―四頁に、予此話に就き說く所有り」前回と同じく「Googleブックス」のこちら以降で、原雑誌画像を視認して、以下に初出形そのままを示す。二重右傍線は太字とした。

   *

第一 米糞聖人の話、文德實錄に、之を齊衡元年の事實として、六月乙巳、備前より此伊蒲塞を貢せし由を記せり、伊太利人ヨサフアバーバロの、一四三六より十六年間に涉れるタナ紀行(Viaggio di M. Iosafa Barbaro alla Tana,’ in Ramusio, vol.ii. p. 111.)に曰く、「爰に回敎の一聖人あり、野獸の如く裸にして行き[やぶちゃん注:「ありき」。]ながら說法し、民の信仰厚ければ、庸衆羣集して追隨す、聖人尙以て足れりとせず、公言すらく、密室に入定し、斷食四十日して、出ずるに及び能く精神健かに、身體聊も恙無らんと、仍て此邊にて石灰を製するに用る石を林中に運ばせ、一圓盧を構へて入定す、四十日の後、出來るを見るに、心身安泰なりければ、僉な[やぶちゃん注:「みな」。]驚嘆す、一人細心にして、廬傍の一處、肉臭の氣を放つを齅[やぶちゃん注:「かぎ」。]知り、地を發掘して積粮を見る、事[やぶちゃん注:「こと」。]官に聞し、聖人獄に繋がる、一弟子又囚へられ、拷問を重ねざるに自白すらく、盧の壁を穿て一管を通じ、夜中竊に滋養品を送り入れし也と、是に於て師弟併せて誅せらる」と、諸國に賣僧[やぶちゃん注:「まいす」。]が種々の方法を以て人を欺くこと、古今例多ければ、本邦と裏海[やぶちゃん注:「カスピかい」。]地方に、此相似たる二話有るは偶合ならん、實錄に日附をすら明記したれば、多少所據とする事實は有しなるべし、但し、馬琴の質屋庫末段に、見臺先生明夜の會合に論ずべき題號を擧る中に、米糞聖人の事あれば、曲亭は多分實錄と宇治拾遺の外より、之に似たる、日本若くは支那印度の古話を若干集め置たりしならんが、質屋庫の續編版行無りし故、其考は世に出ずして已みたるにや。

   *

「文德實錄」「日本文德天皇實錄」(にほんもんとくてんのうじつろく)の略称。勅撰の歴史書で全十巻。六国史の一つ。嘉祥三(八五〇)年から天安二(八五八)年までの文徳天皇の在位の一代の歴史を編年体に記したもの。藤原基経らが、貞観一三(八七一)年に文徳の次代の清和天皇の勅により、撰集が開始されたものの、一時、中止された。後、元慶二(八七八)年に清和の次代の陽成天皇の勅によって再開され、翌年に完成した。本書は以前の史書に比べ、薨卒伝(こうしゅつでん:令制で「薨」は親王と三位以上、「卒」は四位・五位と諸王の逝去することを指す)が豊かで、これは、律令体制の解体期に、古代国家再編に努めた人物群の伝記によって、当代と将来の範としたものと考えられている(小学館「日本大百科全書」に拠った)。さて、後者「日本文徳天皇実録」の当該部は国立国会図書館デジタルコレクションで調べたところ、巻一のここである(出雲寺和泉掾の宝永六 (一七〇九)年出版になるもの)ので、それで本文を校合し、訓点附きなので、それも参考にして訓読文を作った。

「馬琴の質屋庫」「昔語質屋庫」(むかしがたりしちやのくら)は小説仕立ての考証随筆。その初編末尾の広告に(早稲田大学図書館「古典総合データベース」の文化七(一八一〇)年の後刷原本の画像)、確かに『○崇德院(しゆとくゐん)天狗(てんぐ)の爪取剪(つめとりはさみ) ○鎌倉時代(かまくらじだい)の上下(かみしも) ○米糞上人(べいふんしやうにん)の乞食袋(こじきふくろ)右初編總目録(しよへんそうもくろく)に載(の)せるといへども巻数(かんすう)既(すで)にかぎりあれば釐(さい)て次編(じへん)の首巻(しゆくわん)に入(い)れたり』とあるものの、後に並ぶ「中編五册」も「同後篇五册」も全く刊行されなかった。

「イタリア人ヨサファ・バーバロの紀行(上記「無眠、一眼、二眼」に引けり)」そちらで注済み。]

 此拙考、『早稻田文學』に載せられて後、印度、亦、此類話有るを知れり。龍樹大士の「大智度論」卷十六(鳩摩羅什譯)に、釋迦佛、前身、大國王の太子たり。父王の梵志師、五穀を食《くらは》ずと詐《いつは》り、一同、尊信す。太子、之を信ぜず。林間に至り、其住處を探り、林中の牧牛人より、「梵志師、夜中、少しく酥(ちゝ)を服して、活《いく》る。」と聞き知り、宮に還りて、種々の瀉下劑を以て、靑蓮花を薰じ置く。明旦、梵志、宮に入り、王の側に坐するを見、太子、此花を、自ら彼に奉りけるに、梵志、『是迄、此太子のみ、我を敬せざりしに、今こそ歸伏したれ。』とて、大《おほい》に喜び、花を嗅ぐに、藥氣、腹に入り、瀉下を催す事、頗る急なり。因て、厠に趨《おもむ》かんとするを、太子、「物食《くら》はぬ者、何の譯《わけ》有つて、厠に向ふぞ。」とて、捉へて放たず。梵志、耐《たふ》る能《あた》はず、王の邊りに嘔吐す。之を見るに、純(もつば)ら酥也。王と夫人と、乃《すなは》ち、其詐りを知る、と出でたる也。

[やぶちゃん注:以上の『「大智度論」卷十六(鳩摩羅什譯)』の当該部を「大蔵経データベース」から引く。一部の漢字を正字化した。

   *

宿世爲大國王太子。父王有梵志師不食五穀。衆人敬信以爲奇特。太子思惟人有四體必資五穀。而此人不食必是曲取人心非眞法也。父母告子此人精進不食五穀是世希有。汝何愚甚而不敬之。太子答言。願小留意。此人不久證驗自出。是時太子求其住處至林樹間。問林中牧牛人。此人何所食噉。牧牛者答言。此人夜中少多服酥以自全命。太子知已還宮欲出其證驗。卽以種種諸下藥草熏靑蓮華。淸旦梵志入宮坐王邊。太子手執此花來供養之拜已授與。梵志歡喜自念。王及夫人内外大小皆服事我。唯太子不見敬信。今日以好華供養甚善無量。得此好華敬所來處。擧以向鼻嗅之。華中藥氣入腹。須臾腹内藥作欲求下處。太子言。梵志不食何緣向厠。急捉之須臾便吐王邊。吐中純酥。證驗現已。王與夫人乃知其詐。

   *]

2022/11/22

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「話俗隨筆」パート 無眼、一眼、二眼

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから次のコマにかけて。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。本篇の正規部の漢文部は全体が一字下げなので、それを再現するために、ブラウザの不具合を考えて、一行字数を少なくしておいた。今まで通り、後に〔 〕で推定訓読文を添えた。

 なお、底本では標題下に「同前」とあるが、これは冒頭の本文が前話と同じ大正二(一九一三)年五月『民俗』第一年第一報所収であることを言う。]

 

     無眼、一眼、二眼 (同 前)

 

「蟻を旗印とせし話」に出たる「ベンスリ」敎授、三年前、二月二十七日の『ノーツ・エンド・キーリス』に說《とき》て曰く、「バートン」の「鬱憂の解剖(アナトミー・オヴ・メランコリー)」(一六五一―二年板、四十頁)に、『支那人の諺に、歐州人は一眼《ひとつめ》、支那人は二眼、其他の諸民、總て眼なしと云ふ』と言へり。是は「ジョセフ・ホール」の「新世界發見誌」(Joseph Hall, ‘Mundus alter et idem,’ 1605 ? and 1607)に、斯《かか》る詞有るに據れるならん。併乍《しかしなが》ら、支那書、又、外人が、實際、支那を旅行觀察して記せる者に、支那人間、果して、斯る諺《ことわざ》、行はれたる證左有りや。「エイテル」博士(「漢英佛敎語彙」の著者)等に問ひしも、答ふる能はざりき、と。

[やぶちゃん注:「蟻を旗印とせし話」先行するこれ

『「ベンスリ」敎授』エドワード・フォン・ブルームバーグ・ベンスリー(Edward von Blomberg Bensly 一八六三年~一九三九年)は英文学者。

「三年前、二月二十七日の『ノーツ・エンド・キーリス』に說て曰く、……」英文「WIKISOURCE」の‘Notes and Queries’ のここに発見した。電子化もされてある。

『「バートン」の「鬱憂の解剖(アナトミー・オヴ・メランコリー)」(一六五一―二年板、四十頁)』イギリスの作家でオックスフォード大学のフェローであったロバート・バートン(Robert Burton 一五七七年~一六四〇年)の‘The Anatomy of Melancholy’(「憂鬱の解剖学」:初版一六二一年刊)はメランコリーの医学的・科学的・哲学的・文学的百科事典として知られる。「Internet archive」のこちらにあるが、版が多過ぎ、五、六冊で、目がチラチラしてきて当該部を探すのは諦めた。

「ジョセフ・ホール」(Joseph Hall 一五七四 年~一六五六年)はイギリスの司教で風刺作家。以下の「新世界發見誌」「Mundus alter et idem」は彼のディストピア小説。ラテン語の標題は‘An Old World and a New, The Discovery of a New World’ (「古い世界と新しい世界の発見」)、他に‘Another World and Yet the Same’ (「別な世界とまだ同(おんな)じのそれ」)と訳されている。

『「エイテル」博士(「漢英佛敎語彙」の著者)』「火齊珠に就て (その二・「追加」の1)」で既出既注であるが、再掲しておくと、エルンスト・ヨハン・エイテル(Ernst Johann EitelErnest John Eitel 一八三八 年~一九〇八年)。ドイツのヴュルテンベルク生まれのドイツ人で、元々は「ヴュルテンベルク福音教会」の牧師であったが、「バーゼル伝道会」に入って、広東省に福音を広めるために渡った。一八六二年からは、香港で布教活動に従事するとともに、香港政庁下での教育行政官としても活躍した。後には「ロンドン伝道協会」に入会するとともに、イギリス国籍を取得している。中英辞典・広東語発音本・広東語辞典など。多くの言語学の著書を編纂している。「支那佛敎語彙」が彼のどの著作を指しているかは判らぬ。]

 十月二日の同誌に、予の答《こたへ》、出でたり。次の如し。一三〇七年筆、Haiton, Histoire orientale,ch. I, col. I, in P. Bergero, Voyages,à La Haye 1735 に、『支那人、聰慧明察なれば、外國諸民の學術巧技を蔑如し、謂《いは》く、支那人二眼、羅甸《ラテン》人一眼有り。其他は全く盲也、と。」と出で、一四三六年より十六年間、「タナ」と波斯《ペルシア》に旅行せる「ヨサファ・バーバロ」の紀行(Ramusio, Navigationi e Viaggi, in Venetia, 1588, I. 103c.)に、彼《かの》地方で逢いし[やぶちゃん注:ママ。]支那商客、自《みづか》ら、『吾等、二眼、佛郞機(フランキ)(當時、囘敎國人が歐州人を總稱せる名。之より、支那で大砲を、此稱で呼べり。)、一眼、韃靼人、無眼。』と誇れり、と云へり。又、「松屋筆記」卷八五に、明の崇禎中、徐昌治編纂「聖朝破邪集」に收めたる蘇及寓の「邪毒實據」に、

 艾儒略等、夷人也、自萬歷間、入我中國、有識
 者、窺其立心詭異、行事變詐、已疏其不軌而驅
 之矣、今也胡爲乎複來哉、其故可思矣、複來而
 天下不惟莫能詳察其奸、併且前驅諸疏、亦幾不
 得見、夷輩喜而相告曰、我西士有四眼、日本人
 有三眼(兩到日本開教、被其兩殺、故云。)中
 國人有兩眼、呂宋人無一眼。

〔艾儒略(がいじゆりやく)等(ら)は、夷人なり。萬曆(ばんれき)の間(かん)より、我が中國に入る。有識の者、其の立心[やぶちゃん注:決心。「選集」は「どうき」と振る。「動機」であろう。]の詭異(きい)にして、行事(おこなひ)の變詐(へんさ)なるを窺ひ、已(すで)に其の不軌なることを疏(そ)して、之れを驅(おひた)てたるに、今や、胡(なんす)れぞ、複(ま)た、來たれるや、其の故を思ふべし。複た、來たるも、天下、惟(ただ)、其の奸を能く詳察するもの莫(な)きのみならず、併(な)ほ且つ、前(さき)の驅てたる疏も、亦、幾(ほとん)ど見ることを得ざればなり。夷輩、喜びて相ひ告げて曰はく、「我が西土は四眼有り、日本人は三眼有り(兩(ふたた)ぴ、日本に到りて開敎し、兩び、殺さる。故に云へり。)、中國人は兩眼有り、呂宋(ルソン)人は一眼も無し。」と。〕。

 呂宋人、天主敎に化して、國、亡びしを指す也。

[やぶちゃん注:「十月二日の同誌に、予の答、出でたり」同じく、英文「WIKISOURCE」の‘Notes and Queriesここと、ここ。同前。

「一三〇七年筆、Haiton, Histoire orientale,ch. I, col. I, in P. Bergero, Voyages, à La Haye 1735 」南方熊楠の「『大日本時代史』に載する古話三則」(明治四一(一九〇八)年六月発行『早稲田文学』三十一号発表)の中の「毛利元就、箭を折りて子を誡めし話」の中に(以下はたまたま「Googleブックス」で視認出来た原雑誌の当該箇所を元に、そのままに電子化した。所持する「選集」とは異なる箇所が、複数、箇所ある)、

   *

 又千三百七年に、シリシアの小王ハイトンが筆せる東國史(Haiton, Histoire Orientale,en  P. Bergeron, Voyages faites principalementen Asie,à la Haye, 1735, ch. i. cols 31-32)には、成吉思汗を此話の主人公とせり。云く、是に於て汗其十二子を喚出し、常に相親和すべしと敎訓し、其例を示さんとて、每子一箭を持來らしめ、十二矢を集て、長子をして折しむるに能はず、二男三男、亦然り、然る後、成吉思、更に十二矢を散解して、箇々之を折れと末子に命ずるに、容易に折り盡し畢る。汗之を見て顧て諸子に問ふ、何の故に汝等折り得ざりしか、皆答ふ箭多くして束ねたればなり、又問ふ、何の故に季弟一人能く之を折り得たるか、答ふ、一一別て之を折れば也と、汗諸子の斯く答ふるを聴て言く、其汝等に於るも又然り、一和すれば長え[やぶちゃん注:「とこしへ」。ママ。]に栄え、相離るれば忽ち亡びんと。

   *

さて、「選集」では、整序されて「シリシア」は『シリア』としている。書かれた一三〇七年当時のシリアはモンゴルによるシリア侵攻が終焉した年であるので、この話は何やらん、意味深長である。但し、その後のシリアはエジプトのマムルーク朝の支配を受け、それが亡ぼされると、今度は、オスマン帝国の支配を受けることになるのだが。

「ヨサファ・バーバロ」十五世紀のヴェネチアの貴族で商人にして外交官でもあったヨサファト・バルバロ(Josaphat Barbaro(一四一三年~一四九四年:Josaphat は Giosafat 又は Giosaphat ととも記す) 。確かに紀行を残していることが、信頼出来る日本人の論文にあった。また、彼の英文ウィキも参照されたい。

「Ramusios,‘Navigation et Viaggi’」ベネチア共和国の官吏(元老院書記官など)を務めた人文主義者で歴史家・地理学者のジョヴァンニ・バティスタ・ラムージオ(Giovanni Battista Ramusio  一四八五年~一五五七年)が、先達や同時代の探検旅行記を集大成した、大航海時代に関する基本文献とされる「航海と旅行」(Delle navigationi et viaggi :全三巻。一五五〇年~一五五九年刊)のこと。

「佛郞機(フランキ)(當時、囘敎國人が歐州人を總稱せる名。之より、支那で大砲を、此稱で呼べり。)」‘Notes and Queries’ の原文では“Franks”。これは、世界史では、ローマ帝国後期から記録に登場するゲルマン人の部族名であるが、ウィキの「フランク人」によれば、西ヨーロッパ全域を支配するフランク『王国を建設したことから、東方の東ローマ帝国やイスラム諸国では、西ヨーロッパ人全般を指す言葉として用いられた事もある』とあった。

『「松屋筆記」卷八五』国学者小山田与清(ともきよ 天明三(一七八三)年~弘化四(一八四七)年)著になる膨大な考証随筆。文化の末年(一八一八年)頃から弘化二(一八四五)年頃までの約三十年間に、和漢古今の書から問題となる章節を抜き書きし、考証評論を加えたもの。元は百二十巻あったが、現在、知られているものは八十四巻。松屋は号。国立国会図書館デジタルコレクションの活字本画像ではここ(右ページ上段の(五十)日本人三眼幷自鳴鐘」の条。

「聖朝破邪集」(明の徐昌治編になる一六八三年成立の儒者や仏教僧のキリスト教に対する反対意見を纏めたもの)は「中國哲學書電子化計劃」の電子化されたここ334のガイド・ナンバーの本文と校合した。「併」はそちらでは「並」であったが、ここでは訓読の理解のし易さから、熊楠の「併」を採った。

「艾儒略」イタリア出身のイエズス会宣教師で、明末の中国で宣教活動を行ったジュリオ・アレーニ(Giulio Aleni 一五八二年~一六四九年)の中国名。帰国することなく、亡くなった。

「萬曆(ばんれき)の間(かん)より、我が中國に入る」「萬曆」は明代の元号で一五七三年から一六二〇年七月まで。当該ウィキの「ジュリオ・アレーニ」によれば、彼は『ゴア経由で』一六一〇『年にマカオに至り、そこで数学を教えながら』、『中国に潜入する機会をうかがった』一六一三『年に中国に入り、北京で徐光啓の知遇を得て』、『各地で布教活動を行った』とある。]

 惟ふに、此一眼、二眼、無眼の譬喩、其頃、支那と歐州、又、西亞細亞間に往復する輩が、專ら唱へし所にて、或は支那人に、或は外人に、適宜、充稱せしなるべし。中世紀に、支那人の西遊せる者、歐人の東遊せる者、交互、其遊べる地に、靈妙の幻師ありし、と記し、十七世紀に、支那で、日本の磁石を珍重せし(「サン・ルイ」の「支那誌」に出づ)と同時に、日本には唐物《からもの》の磁石を貴びし抔、似たる例也。古梵土《こぼんど》、亦、斯る諺有りしにや。北凉の曇無讖《どんむしん》譯「大般涅槃經」卷廿五に云く、

 世有三人、一者無目、二者一目、三者二目、言
 無目者、常不聞法、一目之人、雖暫聞法、其心
 不住、二目之人、專心聽受。如聞而行、以聽法
 故、得知世間、如是三人、以是義故、聽法因緣、
 則得近於大般涅槃。

〔世に、三人、有り。一(いつ)は、目(め)無く、二は一目(ひとつめ)、三は二目なり。目無き者と言ふは、常に法を聞かず。一目の人は、暫(しばら)く法を聞くと雖も、其の心、住(とどま)らず。二目の人は、專心、聽受し、聞きしがごとくに行なふ。法を聽きしを以つての故に、世間を知るを得(う)。是(か)くのごとき三(みたり)の人は、是の義を以つての故に、法を聽きし因緣もて、則ち、大般涅槃に近づくことを得。」と。〕

[やぶちゃん注:『「サン・ルイ」の「支那誌」』不詳。

「古梵土」古代インド。

「北凉の曇無讖」中インド出身の訳僧曇無讖(ダルマクシェーマ/漢名「法楽」 三八五年~四三三年)。当該ウィキによれば、彼は『謀られて誣告され』、『王の怒りを買った』『ため』、『殺されると思い、インドを出た。而して、『敦煌に到り、しばらく滞在した』が、『数年後には涼州姑臧に赴いた。一説にこの地へ赴いたのは、北涼の国王(河西王とも)沮渠蒙遜(そきょもうそん)が敦煌を平定した』(四一六年~四二三年)『後に、曇無讖と出遭い丁重に涼州に迎え入れたとも言われている。しかし涼州入国後の曇無讖の訳した経典の量が膨大だったこと、また後に涅槃経中分以下の巻を捜し訪ねて故郷に向かって旅する期間とを考慮すると、その数年後』の四一二年に『一介の遊方僧として涼州姑臧』(こぞう)『に到った説があり、これが事実で正しいと考えられている』とある。

「大般涅槃經」は「大蔵経データベース」の当該部と校合した。有意な異同はなかった。]

 

追 加 (大正二年九月『民俗』第一年第二報)

 法華經云、若有利根、智慧明了、多聞强識、乃可爲說、大凡參玄之士、須ㇾ具二眼、一己眼明ㇾ宗、二智眼辯惑、所以禪宗云、單明自己、不ㇾ了目前、如ㇾ此之人、只具一眼、理孤事寡、終不圓通。〔「法華經」に云はく、『若(も)し、利根有り、智慧、明了にして、多聞强識なれば、乃(すなは)ち、爲めに說くべし。大-凡(およ)そ、參玄の士は、須(すべか)らく二眼を具すべし。一(いつ)は己(おの)が眼もて、宗(しゆう)を明らかにし、二(に)は智眼もて、惑ひを辯ず。』と。所以(そゑ)に、禪宗にて云はく、『單(た)だ、自己を明らむるのみにて、目前を了(りやう)せずんば、此(か)くのごとき人は、只だ、一眼を具するのみ。理(ことわり)、孤にして、事(こと)、寡(すくな)く、終(つひ)に圓通せず。』と。〕と、「宗鏡錄《すぎやうろく》」卷四一に出づ。

[やぶちゃん注:「宗鏡錄」(中国五代十国時代の呉越から北宋初の僧永明延寿が撰した仏教論書。全百巻。九六一年成立)は「大蔵経データベース」で校合したが、底本には、幾つかの大きな誤字・脱字があり、特に最後を「終可圓通」とするのは、致命的な誤りである。

「參玄」「玄」は「幽玄・奥深い仏道」の意。仏道を修行すること。]

 

追 記 (大正十五年八月二十七日記)

 故杉浦重剛氏は、屢《しばし》ば、一眼・二眼等の字を、其詩に用ひたり。司馬江漢の「春波樓筆記」にも、海國乍ら、吾が國人の駕航柁術に詳《くは》しからざるを、西洋人、評して曰はく、『支那、以て、「盲のり」、日本、以て、「片目乘り」といふ。』と記せり。

[やぶちゃん注:「杉浦重剛」(じゅうこう 安政二(一八五五)年〜大正一三(一九二四)年)は滋賀県出身の思想家・教育家・ジャーナリスト。別称、杉浦梅窓(ばいそう)。膳所藩の貢進生として大学南校に入学したが、制度が変わったため、東京開成学校に学んだ。在学中、選抜され、明治九(一八七六)年にイギリスに留学。同十五年、東京大学予備門長。同十八年、辞職後に主に在野で多彩な言論・教育活動を行った。同二十一年には三宅雪嶺とともに『政教社』の設立に参加し、雑誌『日本人』を発刊、国粋主義を唱えた。また、東京英語学校の設立に関与し、『称好塾』を経営、青少年の教育に尽力した。後、東亜同文書院長等を経て、大正三(一九一四)年には東宮御学問所御用掛となり、倫理を進講した(以上は国立国会図書館の「近代日本人の肖像」のこちらに拠った)。

『司馬江漢の「春波樓筆記」』(しゅんぱろうひっき)は江戸後期の画家で蘭学者司馬江漢晩年六十五歳の時の随筆。文化八(一八一一)年四月から十月にかけて、稿が成った。江漢その人が、和漢洋の学に通暁した、当時、第一級の知識人であったために、その該博な知識が熟年の思考の中で見事に結実している。全体が長短二百十余の節からなり、江漢の自叙伝・人間観・人生観・社会観等をはじめ、「西洋創世紀」の抜書、「伊曽保(いそほ)物語」の引用など、幅広い西洋文化受容の初期的形態が見られ、興味を惹く。本書は、早く『百家説林』や『有朋堂文庫』に所収され、読者の注目を集めた(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。]

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「話俗隨筆」パート 糊の滓

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここ。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。

 なお、標題は「のりのかす」と読む。]

 

    糊の滓 (大正二年五月『民俗』第一年第一報)

 

 處女が、糊のすり滓を握り、灸り食らへば、嫁する時、犬に吠《ほえ》らる。此物、犬と老人のみ、正《まさ》に食らふべければ也。(紀州田邊)

[やぶちゃん注:「選集」で一部を増補改変した。女性としてはしたない行為だからであろう。]

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「話俗隨筆」パート 羊を女の腹に𤲿きし話

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから次のコマにかけて。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文部は後に〔 〕で推定訓読文を添えた。特に今回より、読者の便宜を考えて、底本中の表記の有無を無視し、基本、書名は「 」、雑誌名・引用部は『 』で統一することとした。

 なお、標題中の「𤲿きし」は「ゑがきし」と読んでおく。また、標題下の「同前」は前の「蟻を旗印とせし話」と同じで、大正二(一九一三)年五月『民俗』第一年第一報所収であることを言う。]

  

     羊を女の腹に𤲿きし話 (同 前)

 

 無住法師の「沙石集」七卷六章に、遠江池田の庄官の妻、嫉妬甚しく、磨粉(みがきこ)に、鹽を和し、夫の陰《かくしどころ》に塗り、夫が娼《よね》[やぶちゃん注:情人。]を置けるを驗證せる話を擧げ、次に、或男、他行《たかう》に臨み、『妻の貞操を試みん。』とて、陰所《かくしどころ》に牛を描きしに、姦夫、來たり、通じて後、實の男は臥牛を描けるに、姦夫は、立てる牛を描く。夫、還り來たり、檢《けん》して妻、を詰《なぢ》りしに、「哀れ、止《や》め給へ、臥せる牛は、一生臥せるか。」と云ひければ、「さもあらん。」とて、許しつ。男の心は淺く大樣《おほやう》なる習《ならひ》にや云々。「池田の女人には、ことのほかに似ざり鳧《けり》。」と見ゆ。紀州に行はるゝ此話の作替へには、夫、彼所に勒具(くつわぐ)したる馬を畫き、還り視れば、勒(くつわ)無(な)し。妻を責めしに答へて、「豆食ふ馬は、勒を脫するを知らずや。」と云へり、と。(「松屋筆記」卷九四、「室町殿日記」十九「德永法印咄のこと」の條に、『女陰《ぢよいん》を「豆」と云ふ。西行の歌に見ゆ。「豆泥棒」抔も云ふめり。「宇治拾遺」に陰莖を「まめやか物」と云へり。可考《かんがふべし》。』。)

[やぶちゃん注:「無住法師」(嘉禄二(一二二七)年~正和元(一三一二)年)は鎌倉時代後期の僧。当該ウィキによれば、『字は道暁、号は一円。宇都宮頼綱の妻の甥。臨済宗の僧侶と解されることが多いが、当時より「八宗兼学」として知られ、真言宗や律宗の僧侶と位置づける説もある他、天台宗・浄土宗・法相宗にも深く通じていた』。『梶原氏の出身と伝えられ』、十八『歳で常陸国法音寺で出家。以後』、『関東や大和国の諸寺で諸宗を学び、また』、臨済僧『円爾』(えんに)『に禅を学んだ。上野国の長楽寺を開き、武蔵国の慈光寺の梵鐘をつくり』、弘長二(一二六二)年に『尾張国長母寺(ちょうぼじ)を開創してそこに住し』、八十歳で『隠居している』。「和歌即陀羅尼論」の提唱者で、『「話芸の祖」ともされる』。『伝承によっては』、『長母寺ではなく、晩年、たびたび通っていた伊勢国蓮花寺で亡くなったともされる』。『様々な宗派を学びながらも、どの宗派にも属さなかった理由については、自分の宗派だけが正しいとか』、『貴いものと考えるのは間違いで、庶民は諸神諸仏を信仰していて、棲み分けており、場合や状況によって祀るものが異なり、そうした平和的共存を壊すのは間違った仏教の行き方だと考えていたためとされ、諸宗は平等に釈迦につながるため、どれも間違ってはいないという立場であったとする』。『また、説法の対象は読み書きのできない層だった』という。著書は、この知られた説話集「沙石集」(しゃせきしゅう)の他、「妻鏡」・「雑談集」(ぞうだんしゅう)などで「沙石集」は五十四歳の『時に執筆』にとりかかり、『数年かけて』五『巻を完成させたが、死ぬまで手を加え続けた結果、全』十『巻となり、書いている過程で、他の僧侶に貸したものもあり、どの段階の本が無住の考えた最終的な本かを判断するのは難しいとされる』。本書は私の愛読書でもあり、『無住は鎌倉の生まれで、梶原氏の子孫と考えてよい』とする判断に私は賛同している。

『「沙石集」七卷六章に、遠江池田の庄官の妻、……』「池田」は遠江国にあった古代末期から中世の宿駅で、現在の静岡県旧豊田(とよだ)町、今は磐田市池田(グーグル・マップ・データ)に比定されている。この二つの話は、「無嫉妬事」の条であるが、この話は複数の類話を重ねた、やや長いものの中の二つを抜粋・抄録(不全)したものである。以下に所持する筑土鈴寛校訂の一九四三年岩波文庫刊の「沙石集 下卷」他を参考底本に全文を示す。段落を成形し、読点や記号及び送り仮名を追加した。踊り字「〱」「〲」は正字化した。話柄の変わる部分に「*」を入れて読み易くした。

   ※

      六 嫉妬の心無き人の事

 或殿上人、田舍下りの次(つい)でに、遊女を相具して上洛せられけるが、使をさきだてて、

「人を具して上り候なり。むつかしくこそ思し食さんずらめ。出させ給へ。」

と、女房の許へ情なく申されけり。

 女房、すこしも恨みたる氣色なくして、

「殿の、人を具して上せ給ふなるに、御まうけせよ。」

とて、こまごまと下知して、見苦き物ばかりとりしたためて、よろづあるべかしく用意して、我身ばかり、いで給ひぬ。

 遊女、この事を見聞きて、おほきに恐れ驚きて、殿に申しけるは、

「御前の御ふるまひ、ありがたき御心ばえにておはしますよし、承りて、且つ、事の樣、モ見まゐらせ候ふに、いかがかかる御栖居(おすまゐ)の所には候ふべき。身の冥伽も、よも候はじ。ただ、御前をよびまゐらせて、本のごとくにて、此身は別の所に候ふて、時々めされんは、しかるべく侍りなむ。さらでは、一日も、爭(いかで)か、かくて侍べき。」

と、おびただしく誓狀しければ、殿も理りに折れて、北の方の情もわりなく覺えて、使者をやりて、北方をよびたてまつる。すべて、返事もなかりけれども、たびたび、とかく申されければ、歸り給ひぬ。

 遊女も心あるものにて、互に遊びたはぶれて、へだてなき事にてぞありける。

 ためしなき少なき心ばえにこそ。

   *

 遠江の國にも、或人の女房、さられて、すでに馬に乘りて出でけるを、

「人の妻のさらるる時は、家中の物、心にまかせて、とる習ひにて侍れば、何物もとり給へ。」

と、夫、申しける時、

「殿ほどの大事の人を、うちすててゆく身の、何物か、ほしかるべき。」

とて、うち咲うて、にくいげもなくいひける氣色、まめやかに、いとほしく覺へて、やがて、とどめて、死のわかれになりにけり[やぶちゃん注:「偕老同穴」の意。]。人に、にくまるるも、思はるるも、先世の事といひながら、只、心がらによるべし。

   *

 常陸の國、或所の地頭、京の名人、歌道、人にしられたる女房を、かたらひて、年ひさしく、あひすみけるが、鎌倉へ、おくりて後、年月へて、さすが、昔のなごりのありけるにや、衣・小袖など、色々に調へて、送りたりたりける返事、別の事はなくて、

  つらかりしなみだに袖は朽ちはてぬこのうれしさをなににつつまん

是を見て、さめざめとうち泣きて、

「あら、いとほし。その御前、とくとく、むかへよ。」

とて、よび下して、死のわかれになりにけり。更に近くは、まゝ、あるべし。

   *

同國に或人の女房、鎌倉の官女にてありけり。歌の道も心得て、やさしき女房なりけり。心ざしやうすかりけん、

『事の次でをもとめて、鎌倉へ送らばや。』

と思ひて、

「この前栽の鞠(まり)のかかりの四本の木を、一首によみ給へ。ならずば、おくりたてまつるべし。」

と、男にいはれて、

  櫻さくほどはのきばの梅の花もみぢまつこそひさしかりけれ

これを感じて、おくる事、思ひ留まりにけり。人の心は、やさしく、いろ、あるべし。

 當時、ある人なり。

   *

 或る人、妻を送りけるが、雨のふりければ、色代(しきだい)に[やぶちゃん注:挨拶の代わりに。]、

「けふは、雨ふれば、留まり給へ。」

と云ふを、既に出でたちて、出でつつ、かくこそ詠じける。

  ふらばふれふらずはふらずふらずとてぬれでゆくべき袖ならばこそ

餘りに、あはれに、いとほしく覺えて、やがて留めて、死のわかれになりにけり。

 「和歌の德は、人の心をやはらぐる。」と云へり。誠なるかな。「西施が江(え)を愛し、嫫母(ぼも)は鏡を嫌ふ。」[やぶちゃん注:「嫫母」は黄帝の妃の一人で、才徳を備えた賢い婦人だったが、顔は醜かったとされる。一方で石板鏡の発明者とされる。]と云ひて、わが形、よかりし西施は、江に影のうつるを見て、是を愛しき。我貌(かたち)、みにくかりし嫫母は、鏡にうつるかげ、見にくきまゝに、鏡をきらひき。是、江のよきにあらず、わが形のよきなり。鏡のわろきにあらず、わが顔の見にくきなり。然れば、人のよきは、我が心のよきなり。あたみ[やぶちゃん注:憎み、敵視し。]、恨めしきは、我が身のとがなり。縱ひ、今生にことなるとがなきに、人のにくみあたむも、先世の我がとがなり。おのづから人に愛せらるるも、先世の我がなさけなるべし。されば、人を恨むる事なくして、我が身の過去、今生の業因緣、心からと思ひて、いかり恨べからず。世間の習ひ、多くは、嫉妬の心ふかくして、いかり、はらたち、推し疑ひて、人をいましめ、うしなひ、色を損じ、目をいからかし、語をはげしくす。かかるにつけては、彌(いよいよ)うとましく覺えて、鬼神の心地こそすれ。爭(いかで)か、いとほおしく、なつかしからむ。或は龍(りやう)となり、或は蛇となる。返々も、よしなくこそ。されば、かの昔の人の心ある跡をまなばば、現生は敬愛(きやうあい)の德を施し、當來には毒蛇の苦をまぬかるべし。

   *

 ある人、本(もと)の婦(め)をも、家におきながら、又、婦を迎へて相住みけり。今の妻と一所に居て、かき一重へだてて、本の妻ありけるに、秋の夜、鹿の鳴く聲、聞えければ、夫、

「聞き給ふか。」

と、本の妻に云ひければ、返事に、

  我も鹿なきてぞ人に戀られし今こそよそに聲ばかりきけ

と云ければ、わりなく覺えて、今の妻を送りて、又、還りあひにけり。

 嫉妬の心ふかくして、情なくば、かくはあらじかし。ただ、嫉(そね)み妬(ねた)まず、あたをむすばずして、まめやかに色ふかくば、おのづからしも、あるべきにや。

   *

 信濃國に、或人の妻のもとに。まめ夫(をとこ)のかよふ由、夫、聞きて、天井の上にて伺ひけるに、例のまめ夫、來たりて、物語し、たはふれけるを、天井にてみるほどに、あやまちて、落ちぬ。

 腰打損じ、絶入しければ、まおとこ、是を、かへて看病し、兎角あつかひ、たすけてけり。心ざま、たがひに、おだしかり[やぶちゃん注:「穩しかり」。]ければ、ゆるしてけり。

   *

 洛陽にも天文博士(はかせ)が妻を、朝日の阿闍梨と云ふ僧、かよひて、すみけり。

 ある時、夫、他行の隙と思ひて、うちとけて居たる所に。夫、にはかに、來たる。逃ぐるべき方無くして、西の方の遣戶をあけて、にげくるをみつけて、かくぞ云ひける。

  あやしくも西に朝日の出るかな

阿闍梨、とりもあへず。

  天文博士いかが見るらん

さて、よびとどめて、さかもり・連歌などしてゆるしてける。

   *

 ある人の妻、まをとこと、ねたりける時、夫、俄に、ねやのうちへ、いらんとす。

『いかにしてか、にがさん。』

と思ひて、「衣の蚤(のみ)とる。」由にて、にがさんとて、まをとこの、はだかなるを、むしろに、かいまいて、

「衣の、のみ、とらしむ。」

とて、すびつを、とび越えけるほどに、すべらかして、すびつに。

「とう」

ど、おとしつ。

 男、是を見て、目、見のべ、口、おほひして、のどかなる氣色にて、

「あら、いしののみの、大きさや。」

と云ひて、なにともせざりければ。勢は大なれども。小(こ)のみの如くも、とばずして、はだかにて、はひにげにけり。

 あまりに、肝すぎてしてけるにこそ。夫の心、おだしかりけり。

   *[やぶちゃん注:以下が熊楠の引いた第一話。]

 遠江國、池田の邊(ほとり)に、庄官、ありけり。かの妻。きはめたる嫉妬心の者にて、男をとりつめて。あからさまにもさし出さず。

 所の地頭代、鎌倉より上りて、池田の宿にて、あそびけるに、見參のため、宿へゆかんとするを、例の、ゆるさず。

 地頭代、知音なりければ、

「いかが見参せざらん。ゆるせ。」

といふに、

「さらば、しるしを、つけん。」

とて、かくれたる所にすり粉をぬりてけり。

 さて、宿へゆきぬ。地頭みな子細しりて。いみしく女房にゆるされておはしたり。

「遊女よびて、あそび給へ。」

と云ふに。

「人にもにぬ物にて、むつかしく候。しかも符(しるし)をつけられて候。」

というて、

「しかじか。」

と、かたりければ。

「冠者原にみせて、本の如く、ぬるべし。」

とて、遊びて後、もとの樣に、たがへず、摺粉(すりこ)をぬりて、家へ歸りぬ。

 妻

「いで、いで、見ん。」

とて、すりこを、こそげて、なめてみて、

「さればこそ、してけり。我がすりこには、鹽をくはへたるに、是は、しほが、なき。」

とて、ひきふせて、しばりけり。

 心深さ、あまりに、うとましく覺えて、頓(やが)て、うちすてて、鎌倉へ下りけり。

 近き事なり。

   *[やぶちゃん注:以下が第二話。]

 舊き物語に、ある男、他行の時、まをとこもてる妻を、

「しるし、つけん。」

とて、かくれたる所に、牛を、かきてけり。

 さるほどに、まめ男の來たるに、

「かかる事、なん、あり。」

と語りければ、

「われも、繪はかけば、かくべし。」

とて、さらば、能々、みて、もとのごとくもかかで、實の男は、「ふせる牛」をかけるに、まをとこは、「たてる牛」を、かきてけり。

 さて、夫、歸りて見て、

「さればこそ。まをとこの所爲にこそ。我がかける牛は『ふせる牛』なるに、是は『たてる牛』なり。」

と、しかりければ、

「あはれ、やみ給へ。『ふせる牛』は、一生、ふせるか。」

と云ひければ、

「さも、あるらん。」

とて、ゆるしつ。

 男の心は、あさく、おほやうなるならひにや。おこがましきかたもあれども。情量のあさきかたは、つみも、あさくや。

 池田の女人には、事のほかに似ざりけり。

   *

 ある山の中に、山臥と、巫女(みこ)と、ゆきあひて、物語しけるが。人もなき山中にて、凡夫の習ひなれば、愛欲の心、起りて、このみこに、おちぬ。

 このみこ、山澤の水にて、垢離(こり)かきて、つづみ、

「とうとう」

と、うち、數珠(じゆず)をしすりて、

「熊野、白山、三十八所、猶も、かかるめにあはせ給へ。」

と祈りけり。

 山臥、又、垢離かきて、數珠をしすりて、

「魔界の所爲にや。かかる惡緣にあひて、不覺を仕りぬる。南無惡魔降伏、大聖不動明王。今は、さて、あれと、制せさせ給へ。」

と云ひて、二人、ゆきわかれにけり。

 是も男子は愛執のうすきならひなるべし。

   ※

『「松屋筆記」卷九四』国学者小山田与清(ともきよ 天明三(一七八三)年~弘化四(一八四七)年)著になる膨大な考証随筆。文化の末年(一八一八年)頃から弘化二(一八四五)年頃までの約三十年間に、和漢古今の書から問題となる章節を抜き書きし、考証評論を加えたもの。元は百二十巻あったが、現在、知られているものは八十四巻。松屋は号。当該箇所は、国立国会図書館デジタルコレクションの活字本画像ではここの「(六十七)女陰を豆といふ事」にある。

「室町殿日記」室町幕府将軍足利義晴・義輝・義昭、及び、織豊期の軍事・政事のほか、世相などの説話的な事柄を記した二百四十余章から成る軍記物。編者は楢村長教。当該ウィキによれば、『序によれば、前田玄以の要望により、京都検断職猶村市右衛門尉長高、脇屋惣左衛門尉貞親の日記、幕府料所沙汰人三好日向守義興の日記、将軍の祐筆鳥飼如雪斎の書簡・日記をもとに』、『編者により文禄年間』(一五九二年~一五九六年)『の風説を加え』て『編まれた』『前田玄以』『の指示であること、また足利義昭の臨終』(慶長二(一五九七)年『の記事があることから、慶長年間』(一五九六年~一六一五年)『頃の成立とされる』とある。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の写本を見たが、当該巻中には発見出来なかった。

「德永法印」徳永寿昌(ながまさ 天文一八(一五四九)年~慶長一七(一六一二)年か。彼は戦国時代から江戸前期にかけての武将で大名。美濃高須藩初代藩主。彼は別名を「式部卿法印」と称した。

『女陰を「豆」と云ふ』陰核(クリトリス)のメタファー。

「西行の歌に見ゆ」当該歌不詳。

「豆泥棒」不正確。「夜這い」の隠語である。

『「宇治拾遺」に陰莖を「まめやか物」と云へり』「宇治拾遺物語」巻一の「中納言師時、法師の玉莖(たまくき)檢知(けんち)の事」を指す。下ネタお笑い古文としてはかなり有名な一篇。サイト「日本古典文学摘集」のこちらで原文(但し、新字)が電子化されており、別ページに現代語訳もある。但し、これは陰茎の隠語とは言い難い。本文を見れば判る通り、隠語としては「松茸」ではっきりと判るように出してあり、最後に出る「まめやか物」とは、隠語とは言えず、「まめやか(なる)物」(本物である対象物)の意であるに過ぎない。]

 英國の「エー・コリングウッド・リー」氏、予の爲に此の種の諸話を調べられ、伊、佛、獨、英等に在れど、無住より三百年後、十六世紀より古き者、なし。例《たとへ》ば、十六世紀に刊行せる書に、畫工、旅するとて、若き艶妻の腹に、羊を畫き、己《おのれ》が歸り來る迄、消さぬ樣、注意せよ、と命じ、出行《いでゆき》し跡に、好色未娶《みしゆ》の若き商人、來《きたり》て、彼《かの》妻を姦し畢《をはり》て、前に無角の羊なりしが消え失せたる故、角有る羊を畫きしてふ譚、見ゆ。委細は、予の‘Man who painted the Lamb upon his Wife's Body, Vragen en Mededeelingen, Arnhem, I ser., i, 261-262, 1910. 又『東京人類學會雜誌』三〇〇號二一八―九頁に出《いだ》せり。

[やぶちゃん注:「‘Man who painted the Lamb upon his Wife's Body, Vragen en Mededeelingen, Arnhem,」これは、既に「南方熊楠 西曆九世紀の支那書に載せたるシンダレラ物語 (異れる民族間に存する類似古話の比較硏究) 3」に出るが、不詳。欧文名を検索すると、一番上に私の以上のページが出てしまう。標題は「妻の身体に子羊を描いた男」。“Arnhem”は出版地で「アーネム」「アルンヘム」で、オランダのヘルダーラント州の州都。“Vragen en Mededeelingen”はオランダ語で「質問と回答」であるから、オランダ版の‘Notes and Queries’とは思われる。

「エー・コリングウッド・リー」前のリンク先にも出ており、私は「南方熊楠 本邦に於ける動物崇拜(20:蟾蜍)」に「A. C. Lee, The Decameron its Sources and Analogues, 1909, p.139」(「デカメロンの原拠と類譚」か)と出た著者のアルフレッド・コーリングウッド・リー(Alfred Collingwood Lee)であろう(詳細事績未詳)、と注した。

「『東京人類學會雜誌』三〇〇號二一八―九頁」前掲「南方熊楠 西曆九世紀の支那書に載せたるシンダレラ物語」初出のこと。「J-STGE」のPDF版原本画像の45コマ目。]

 「沙石集」の話、佛經より出でたるならんと、精査すれども、今に見出でず。漸く近日、支那にも此類話有ると知れり。乃《すなは》ち「笑林廣記」卷一に云、(掘荷花)一師出外就舘、慮其妻與人私通、乃以妻之牝戶上、𤲿荷花一朵、以爲記號、年終解舘歸、驗之已落、無復有痕跡矣、因大怒、欲責治之、妻曰、汝自差了、是物可𤲿、爲何獨揀了荷花、豈不曉得荷花下靣有的是藕、那須來往的人、不管好歹、那個也來掘掘、這個也來掘掘、都被他們掘乾淨了、與我何干〔「荷(はす)の花を掘る」 一(ひとり)の師、外に出でて、舘(じゆく)に就(つと)めんとし、その妻、人と私通するを慮(おもんぱか)り、乃(すなは)ち、妻の牝戶(ほと)の上に荷の花一朶(いちだ)を號(しる)し、以つて、記號と爲(な)す。年、終はりて、舘を解かれ、歸りて、之れを驗(あらた)むるに、落ちて、復(ま)た、痕跡も無し。因りて大いに怒り、之れを責め治(こらし)めんと欲す。妻曰はく、「汝、自(みづか)ら差(たが)へ了(をはん)ぬ。是(いか)なる物にても畫(ゑが)くべきに、何-爲(なんす)れぞ、獨(ひと)り、荷の花を揀(えら)べるや。豈に曉(し)るを得ざらんや、荷の花の下(しも)の靣(むかひ)に有るは、是れ、藕(れんこん)なるを。那(なん)ぞ須(すべか)らく、來往せる人、好歹(こうたい)[やぶちゃん注:好むことと、悪く思うこと。]に管(かかは)らず、那個(それかれ)や、來たりて掘り、這個(これこれ)や、來たりて掘る。都(すべ)て、他們(かれら)に掘り乾-淨(つく)されたり。我れと、何ぞ干(かかは)らんや。」と。〕。

[やぶちゃん注:「笑林廣記」(清の遊戯主人編著になる笑話集。「古艶」(官職科名等)・「腐流」・「術業」・「形體」・「殊稟」(しゅひん:癡呆善忘等)・「閨風」・「世諱」(幫間娼優等)・「僧道」・「貪吝」(どんりん)・「貧窶」(ひんろう)・「譏刺」(きし)・「謬誤」(びようご)の十二部で構成されている)は、かなり画像が傷んでいるが、「中國哲學書電子化計劃」の「新鐫笑林廣記」のこちらから載る影印本当該部で校合した(底本は冒頭標題からして「拙荷花」と致命的に誤っている)。但し、この影印本、活字の一部が明らかに後代に補正されてあるので、推定で正字に直した箇所があるので、「選集」(近代漢文であるため、読みの一部は「選集」のそれにかなり頼った。これは以下の「追加」でも同じ)の訓読文の漢字表記も参考にした。]

追 加 (大正三年四月『民俗』第二年第二報)

 「笑林廣記」卷三に出づ。云く、(換班)一皂隸妻性多淫、夫晝夜防範、一日該班、將妻陰戶左傍畫一皂看守、並爲記認、妻復與人幹事、擦去前皂、姦夫倉卒仍畫一皂形于右邊而去、及夫落班歸家、驗之已非原筆、因怒曰、我前記在左邊的、緣何移在右邊了、妻曰虧你、做衙門多年、難道不要輪流換班的麼。〔「換班(くわんはん)」 一(ある)皂-隸(さいれい/こもの)[やぶちゃん注:身分の低い使用人。]の妻、性、多淫なり。夫は晝夜、防-範(みはり)をせり。一日(あるひ)、該(か)の班(をとこ)、將に妻の戶(ほと)の左の傍(わき)に一(ひとり)の皂隸を畫(ゑが)きて、看-守(みはら)せ、並(あは)せて記-認(しるし)とす。妻、復た、人と事を幹(おこな)ひ、前(さ)きの皂(こもの)を擦(す)り去る。姦夫(まをとこ)は倉-卒(あはただ)しくせば、仍(よ)りて一(ひとり)の皂の形を、右の邊(ほと)りに畫きて去る。夫、落-班(ことをは)りて、家へ歸るに及び、之れを驗(あらた)むるに、已(すで)に原(もと)の筆に非ず。因りて怒りて曰はく、「我、前(さき)に記せしは左の邊りに在り。何に緣(よ)りてか移りて右の邊りに在るや。」と。妻は虧你(いに/からか)ひて曰はく、「汝(なんぢ)、衙門(がもん/やくしよ)に做(つと)むること多年なるに、難-道(よも)や、輪-流(いれかは)り、換班(かんはん/こうたい)するを、要せずとせんや。」と。〕。

[やぶちゃん注:『「笑林廣記」卷三』のそれは、同じく「中國哲學書電子化計劃」のこちらから載る影印本当該部で校合した。前と合わせて訓読に自信がない。識者の御教授を乞うものである。

 以下の〔 〕は底本のものである。「增」は「增補」の意。]

〔(增)(大正十五年九月二十四日記) 和歌山市に古く行なわれし笑話に、行商する者、出立に臨み、彼《かの》所の右の方に鶯を描き置き、歸つて見れば、左に描けり。妻を詰《なじ》ると、「鶯は。『谷渡り』せり。」と答へし。次に他行の時、「玄米」と書《かき》て出で、歸つて見れば「白米」と書きあり。又、詰るに、「米屋に搗《つい》て貰つた。」と答へしと。蓋し、其妻は、米屋の番頭を情夫に持ちたるなり。(吉備慶三郞氏報)〕

[やぶちゃん注:この最後の和歌山の猥談は前の如何なる古話よりも出色の出来である!

2022/11/21

亭馬琴「兎園小説拾遺」 第二 「文政十三年庚寅秋七月二日京都地震之事」

 

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。昨年二〇二一年八月六日に「兎園小説」の電子化注を始めたが、遂にその最後の一冊に突入した。私としては、今年中にこの「兎園小説」電子化注プロジェクトを終らせたいと考えている。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちら(左ページ下段後ろから三行目以降)から載る正字正仮名版を用いる。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。

 馬琴の語る本文部分の句読点は自由に変更・追加し、記号も挿入し、一部に《 》で推定で歴史的仮名遣の読みを附した。今回は短いので、そのままとした。

 なお、これは京都地震の様子を語った書簡が主文であるが、以下、それの関連記事が、六つ、続く。]

 

   ○文政十三年庚寅秋七月二日京都地震之事

一、七月二日申の上刻、大地震ゆるぎ出し、尤《もつとも》、所々の地、さけ、京中の土藏、一ケ所も無難のもの無ㇾ之、大造《たいさう》に倒れ、又は不ㇾ殘、土、落《おち》候て、壁、したじ計《ばかり》に成候も有ㇾ之。處々、怪我人も多く、別《べつし》て上京西山邊、嵯峨・桂川つゞき、伏見邊、荒れ、强く、前代未聞の事にて、「何時《いつ》死命相成候哉《や》。」と、京中の人々、大道中へ、皆々、疊等、其外、丈夫成《なる》物を拵へ、子供・老人・病人・女共、野宿同樣にて、二日より四日朝迄、更に人心地付不ㇾ申、不快の由、處々騷敷《さはがしき》に付、大工等、呼《よび》に遣し候ても、御所方人足《ごしよがたにんそく》にとられ、つぶれのつくろひも出來不ㇾ申。其中に、火事をあんじ、大心配に御座候。上《うへの》禁裡御所・仙洞御所、御庭廣き處え、御立退《おたちのき》、御所司代、町御奉行、御附方《おつきかた》、其外、近國の大・小名、不ㇾ殘御所え、御詰《おんつめ》、大變、いふばかりなく、一時に、大ゆり、五、六度づゝ、ゆり返しもあり、諸人、面色、靑ざめ、食事もすゝみ不ㇾ申、誠に生《いき》たる心地、無ㇾ之と申《まをす》事に御座候。

  寅七月      手利組合飛脚所

               島屋佐右衞門

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が一字下げ。]

此一左右《このいちさう》[やぶちゃん注:「左右」は書簡の意。]を得て、尙、亦、島屋、三度、飛脚、當時、京都に逗留せし者に聞しに、其者の言《いはく》、所によりて、地の裂《さけ》たるも有ㇾ之。最初は卽死人、六百許《ばかり》、怪我人二千餘と風聞御座候へ共、實は其半分位の事のよし。

禁裡御所は煩《わづらはし》き候處も有ㇾ之、御築地《おんついぢ》等は、たふれざるよし。寺院・門跡をはじめ、倒れ候處は無ㇾ之、況《いはんや》、山などの崩れ候事は、決して無ㇾ之候。此節、ちまたを賣《うり》あるき候者は、多く相違の事に御座候。七月二日申の刻より、翌三日辰の刻迄、ゆりかへし、ありし、といふ【實は、酉の刻以來は、振動なり。】。

右、京師の大震は、豐太闇の時、伏見大地震の外、實に前代未聞也。

七月朔日、京四條鉄屋町、失火、半町四方、延燒、家數六十棟許《ばかり》類燒せり。其翌日、此土、地震あり。是、實說也。

[やぶちゃん注:以上は文政十三年七月二日(一八三〇年八月十九日)に発生した京都地震の記録。当該ウィキによれば、「京都大地震」「文政京都地震」とも『呼ばれる直下型地震で、京都市街を中心に大きな被害を出した』。震央は『京都府亀岡市付近と推定』され、『地震規模は』マグニチュード六・五前後とされる。『京都市街地を襲』った『内陸型の地震で』、『二条城や御所では石垣や塀が崩れ、町人街では土蔵に被害が集中した』。『被害は京都市内だけでなく、伏見、宇治、淀でも生じ』、研究者は、『天明大火以降』、『急速に普及した倒壊しやすい桟瓦葺屋根(波形の瓦葺き屋根)が被害を拡大したと分析している』。「甲子夜話」の『記述では、市中の二階建ての建物は』、『ことごとく倒壊し、土蔵や塀なども大きな被害を出したと伝えている』『が、御所や公家屋敷地区では壊滅的な被害ではなかった』。「文政雑記」の『記述によると、町方の人的な被害は怪我人』千三百『人、即死』二百八十『人であるが、御所内や武士の犠牲者数は不明である』。『著名な建築物や寺院も例外ではなく、二条城、興正寺、北野天満宮など多数の建築物が被災している』。『扇状地内の旧池沼地に造営された二条城は地盤が軟弱で』、『局所的に被害が集中し、石垣の崩壊、櫓・門・土塀の倒壊が記録されているが』、『二ノ丸御殿』等は『部分的な損壊であったとされている』とある。

「申の上刻」午後三時頃から午後三時四十分頃。

「手利組合飛脚所」飛脚業の「優れた」の意を冠した通称の固有名詞か。

「島屋佐右衞門」「島屋」「嶋屋」で江戸の定飛脚問屋の支配人で、元禄四年五月に江戸で飛脚会所を開いて、飛脚組合を始めたのが始まり。

「辰の刻」午前七時頃から午前九時頃まで。

「酉の刻以來は」地震発生の日の午後五時頃から午後七時頃まで。

「振動なり」軽い微振動。軽い余震。

「伏見大地震」「慶長伏見地震」。文禄五年閏七月十三日(一五九六年九月五日)子の刻(午前零時前後)に山城国伏見附近(現在の京都府京都市伏見区相当地域)で発生した大地震。推定マグニチュードは七・五前後で、畿内の広範囲で震度六相当の揺れであったと考えらえれている。京都では、伏見城天守・東寺・天龍寺・方広寺大仏等が倒壊し、死者は千人を超えたとされる。詳しくは参照した当該ウィキを見られたい。

「七月朔日」一八三〇年八月十八日。

「半町四方」五十四・五メートル四方。]

大和怪異記 卷之四 目録・第一 女の生㚑蛇となつて男をなやます事

 

[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の本文部分はここから。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。なお、底本のルビは歴史的仮名遣の誤りが激しく、ママ注記を入れると、連続してワサワサになるため、歴史的仮名遣を誤ったものの一部では、( )で入れずに、私が正しい歴史的仮名遣で《 》で入れた部分も含まれてくることをお断りしておく。

 目録部は総ての読みをそのまま振った。歴史的仮名遣の誤りはママである。条番号の「十一」以降のそれは底本では半角である。]

 

やまと怪異記四

一 女(をんな)のいきれう蛇(じや)となつて男(おとこ)をなやます事

二 下總国(しもふさのくに)鵠巢(かうのす)の事

三 甘木備後(ぴんご)鳳來寺(ほうらいじ)藥師(やくし)の利生(りしやう)を得(う)る事

四 継母(けいぼ)の怨㚑(をんれう)継子(けいし)をなやます事

五 古井(ふるい)に入(いり)て死(しす)る事

六 女(をんな)の尸(しかばね)蝶(てう)となる事

七 異形(いぎやう)の二子(ふたご)をうむ事

八 蛇塚(じやづか)の事

九 蜂(はち)蛛(くも)にあだをむくふ事

十 蜘蛛石(くもいし)の事

十一 はらみ女(をんな)死(し)して子(こ)を產育(さんいく)する事

十二 女(をんな)鬼(おに)となる事

十三 愛執(あいしう)によつて女(をんな)の首(くび)ぬくる事

十四 狐(きつね)をおどして一家(いつけ)貧人(ひんにん)となる事

 

 

やまと怪異記四

 第一 女の生㚑(いき《りやう》)蛇(へび)となつて男をなやます事

 阿波国の二宮氏(にのみやうぢ)といふもの、薩摩にくだるに、日向国にいたりて、行《ゆき》くれぬ。

 宿をかるに、

「所の法度(はつと)なり。」

とて、かさず。

 せむかたなくて、

「よしや、一夜(ひとよ)は㙒(の)にも、いぬべし。」

とて、出行《いでゆき》ければ、ある家より、よびかへし、

「所の法令(ほうれい[やぶちゃん注:ママ。])なれ共、あまりにいたはしければ、一夜(《いち》や)を、あかさせまいらせん。」

とて、請じいれ、人《ひと》して、いひけるは、

「あるじ出《いで》て見參(げんざん)に入申度《いれまをしたく》侍れども、病人にて候へば、ちから、なし。これへ入らせ給へ。逢(あひ)參らせて、都あたりの事など、きかまほしう侍る。」

といふに、心にまかせ、行《ゆき》てみるに、色(いろ)、靑ざめたる男、ふとん、たかくかさね、夜着(よぎ)、身にまとゐ、くるしげに、息、つぎ、

「今宵の御宿は、かつは、御ため、且は、身の爲を思ふにこそ侍れ。我やまひの程見せ參らせ、世にもかゝるたぐゐも有て、癒せし事もありや、承りたく侍る。」

とて、首すぢにまきたる絹をとれば、細き蛇、二すぢ、首をならべて、まとゐたる体(てい)、恐しなども、いふばかりなし。

 二宮氏、

「世に、かゝる病(やまひ)有事《あること》、聞(きゝ)も及び候はず。」

と答ふ。

 かの病人のそばに、二八に一つ二つあまれるかと見へし女二人、双六(すごろく)をうち居(ゐ)たり。

 病人がいはく、

「此蛇は、これなる女どもの、執心にて候。ひとり、いかれば、一筋、しめ、二人、腹たうれば、二すぢ、しむる。其時には、息もたえぬる心地す。こよひは、めづらかなる御《おん》やどし、幸《さひはひ》の緣に候。それなる鎗(やり)を。」

とて、取(とり)よせ、

「是は、人がましき申事゙《まをしごと》にて侍れ共、それがしが家(いへ)に、代々持(もち)つたへ、手柄をあらはせし道具に侍り。これを、かたみに奉りぬ。おぼし出《いで》らるゝ折節(をりふし)は、一扁(《いつ》へん)の御廻向(《ご》ゑかう)を、たのみ參らせ候。定めて明日(《みやう》にち)は立(たゝ)せ給はんにや。」

「左もあらば、やがてのぼり給ふときにこそ、逢參らせん。」

と、いとまごひして、わかる。

 それより薩摩にいたり、歸りに、彼《かの》所に立《たち》よりければ、家と覚《おぼ》しき所は、大きなる渕(ふち)なり。

 不審に思ひ、里人にとへば、

「されば、其御やどありし家は、それより、三日過(すぎ)て、地震、風、雨、はげしかりし夜(よ)、彼(かの)者が屋敷ばかり、殘る所なく、渕になり、家にありし男女、一人も生(いき)たるは、侍らず。」

とかたりける。「犬著聞」

[やぶちゃん注:「犬著聞集」原拠。これは、幸いにして、後代の再編集版である神谷養勇軒編の「新著聞集」に所収する。「第十 奇怪篇」にある「二蛇(にしや)頸(くひ)をまとひ人家(しんか)渕(ふち)に變(へん)ず」である。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の寛延二(一七四九)年刊の後刷版をリンクさせておく。十巻から十二巻の合巻となっているPDF一括版22コマ目から。

「阿波国の二宮氏(にのみやうぢ)」不詳。「新著聞集」には、薩摩への「使者」とあるから、時制設定が不明なので、阿波国の国司或いは守護或いは藩主の公的なそれである。

「所の法度(はつと)なり」日向国の宿駅以外の場所で他国者を宿泊させてはいけないという禁令であろう。これは、江戸時代にも普通にあった。知られたケースでは、「奥の細道」で芭蕉と曽良が仙台藩に入ってから、水を乞うてさえ、受け入れられなかった難渋が曽良の「随行日記」に記されているのが、有名。私の『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅25 あやめ草足にむすばん草鞋の緒』の私の注を参照。

「細き蛇、二すぢ、首をならべて、まとゐたる体(てい)、恐しなども、いふばかりなし」「新著聞集」では、

   *

細き蛇、二ツ、首をそろへて、まとひ、目を「ぼちぼち」せし。其いぶせさ、又、たぐひなし。

   *

で、遙かに映像的で優れている。

「二八に一つ二つあまれる」十七或いは十八歳。]

大和怪異記 卷之三 第十二 大蛇をころしたゝりにあふ事 / 卷之三~了

 

[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の本文部分はここから。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。なお、底本のルビは歴史的仮名遣の誤りが激しく、ママ注記を入れると、連続してワサワサになるため、歴史的仮名遣を誤ったものの一部では、( )で入れずに、私が正しい歴史的仮名遣で《 》で入れた部分も含まれてくることをお断りしておく。]

 

 第十二 大蛇をころしたゝりにあふ事

 伊與国宇間郡《うまのこほり》龍池(りやうのいけ)の庄屋龍池忠衞門といひしものゝ屋敷は、いにしへ、龍のすみし淵を、うづみて、家を作りしとかや。

 そこに、三、四尺四方に、水、少《すこし》、殘《のこり》て、常に、あり。

 寬永十五年七月十五日に、一在所(ひとざいしよ)の者共、

「嘉例なり。」

とて、忠衞門が庭にて、おどり[やぶちゃん注:ママ。]を催しけるに、いかなる事にか有けん、忠衞門夫婦、いさかひを仕出(しいだ)し、宵より、奧の座敷に入《いり》、八歲になる子を、いだきて、いねたりしに、かの子、

「わつ。」

と鳴出(なき《いだ》)しにおどろきをきて、みれば、何とはしらず、子が片うでを吞(のみ)しかば、咽(のど)とおぼしき所を、

「はた」

と、にぎりて、声を立(たて)しかど、おどり、最中なれば、しばしは聞えざりしが、とかくして聞付(きゝつけ)、踊子をはじめ、見物のものまで込入(こみ《いり》)、我も我もと、わきざしをぬきて、かのばけものを切(きれ)ば、見るうちに大《おほき》なる蛇(じや)となる。

 胴中(どう《なか》)は、臼(うす)程なりしを、人、あまたにて、とりすて、

「さもあれ、此蛇は、いづくより來りし。」

と、座敷の内を尋(たづね)見しに、蚯蚓(みゝず)の出入《いでいる》程の穴、座(ざ)のわきに有て、件(くだん)のたまり水の砂の上に、はひたる筋(すぢ)、ほそく見えし。

「これより出《いで》たる成《なる》べし。」

と諸人(しよにん)思へり。

 やがて、忠衞門、わづらひて死し、それより、兄弟・伯父・從弟にいたるまで、一族七十餘人、相《あひ》つゞきて死(しに)けるぞ、不思儀なれ。「犬著聞」

 

 

やまと述異記卷三終

[やぶちゃん注:原拠「犬著聞集」自体は所持せず、ネット上にもない。また、所持する同書の後代の再編集版である神谷養勇軒編の「新著聞集」にも採られていないようである。

「伊與国宇間郡龍池」「宇間郡」は「宇摩」で、現在の愛媛県の東部(グーグル・マップ・データ)で、四国のほぼ中央の地域名。当該ウィキによれば、『宇摩は、歴史的にも古くからあった名称で、古文書によると、和銅二(七〇九)年の『「河内国古市郡西林寺事」に「伊予国宇麻郡常里」とあるのが郡としての名の初見とされる。また』、「和名類聚抄」に『「宇摩郡」とあり』、五『郷が記されている。また』、「宇麻」とも『異記されている。このように古くは「宇麻」としていたようであるが』、「和名類聚抄」の『「宇摩」を今日まで継承している』とある。「龍池」は不詳。

「寬永十五年七月十五日」グレゴリオ暦一六三八年八月二十四日。

「奧の座敷に入」の「座敷」の「敷」の右手には「いた」という読みが振られているが、意味不明なので示さなかった。]

大和怪異記 卷之三 第十一 龍屋敷よりあがる事

 

[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の本文部分はここから。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。なお、底本のルビは歴史的仮名遣の誤りが激しく、ママ注記を入れると、連続してワサワサになるため、歴史的仮名遣を誤ったものの一部では、( )で入れずに、私が正しい歴史的仮名遣で《 》で入れた部分も含まれてくることをお断りしておく。]

 

     第十一 龍(りやう)屋敷よりあがる事

 寬永の比、豊前国小倉の侍、夏のいとあつきに、庭に水うたせ、緣に腰を懸(かけ)、すゞみ居(ゐ)ける。

 三間程むかふに、竹がきありしに、一尺ばかりの小蛇、

「するする」

とのぼり、中にも、少したかき竹のすえに[やぶちゃん注:ママ。]、『五、六寸もあがるよ。』と見れば、

「するり」

と落《おつ》。又、あがり、此たびは、蛇の尾、竹のすゑ、にはづるゝ程に、のぼりて、落《おち》、かくする事、四、五度に及ぶとき、東西、にはかに、くらくなり、風雨、しきりにして、かの蛇、終《つひ》に、竹のすえより[やぶちゃん注:ママ。]、一尺ばかり、

「ひらひら」

と、はなれ、のぼる、と、みえしより、黑雲、たちまち、おほひ、雨ふり、風はげしければ、みるべきやうもなくして、戸をたてて、内に、いる。

 しばらく有て、雨風やみしとき、近隣より、使《つかひ》をつかはして、

「足下(《そ》こ)の屋敷より、たゞいま、龍、あがりぬ。家内、別条なきや。」

と、とふ。

 其後、近所の者ども、申けるは、

「風雨しきりなるとき、足下の屋敷の上に、雲、おほひしかば、不思儀に思ひみる所に、一間余(よ)ほどの物、

『ひらひら』

とあがる、と、みへて、次第に大きになり、地より十間もあがれるときは、四、五間程なりしに、黑雲、くだりて、まきあげぬ。」

と、かたりぬ。

 『能(よく)あらはれ、よくかくる。』と、古人のいひけんやうに、いとちいさくなりてかくれ居《ゐ》、時をまちて、かたちをあらはし、天にのぼるとみへたり。「豊前國人物語」

[やぶちゃん注:典拠とする「豊前國人物語」は不詳。「近世民間異聞怪談集成」の解題で土屋氏も本書を『その書名を聞かないような未刊の写本』の一つに入れておられる。

「寬永」一六二四年から一六四四年まで。徳川家光の治世。

「三間」五メートル四十五センチ。

「一尺」約三十センチ。

「五、六寸」十五~十八センチ。

「一間余(よ)」一メートル八十一センチ超え。

「十間」十八メートル強。

「四、五間」約七・二七~九・一〇メートル。]

大和怪異記 卷之三 第十 出雲国松江村穴子の事

 

[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の本文部分はここから。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。なお、底本のルビは歴史的仮名遣の誤りが激しく、ママ注記を入れると、連続してワサワサになるため、歴史的仮名遣を誤ったものの一部では、( )で入れずに、私が正しい歴史的仮名遣で《 》で入れた部分も含まれてくることをお断りしておく。]

 

 第十 出雲国松江村穴子の事

 但馬土人(どじん)、かたりけるは、

「去(さる)子細ありて、一とせ、出雲にゆきけるに、松江といふ村に『穴子』と呼(よび)て、十歲ばかりなる童(わらんべ)あり。

『何故に、「穴子」といふ。』

と、所の者に問(とへ)ば、答《こたへ》ていはく、

『かの童が母、此子を懷姙しけるとき、卒(にはかの)病《やまひ》にて死しけるを、夫、かなしみにたへず、

「あまりに殘《なごり》おほければ、死骸を、二、三日もおきて、見るベし。』

と云。女房が父母、いかりて、

「死したる者を家内にひさしく置《おく》といふ事やある、いそぎ、葬るべし。』

とて、土葬したりしに、男、なをしも[やぶちゃん注:ママ。]なげきて、塚の上に、三日三夜、いねたりしかば、みる人、

『未練なる男かな。生死《しやうじ》は、さだまれる事なり。いかにかなしければとて、あまりなる事や。』

と、そしりあへり。

 かくて、三日夜半ばかりに、塚の内に、赤子のなく声、しきりなれば、おとこ[やぶちゃん注:ママ。]、

『さては。』

と思ひ、宿所にはしりかへり、鍬をもち來り、ほりかへし見けるに、女房、たちまちに蘇り、子も生れたり。男、悅びて、つれかへりしに、女房も、程なく日足(ひだし)、子も盛長して、すこやかなる男子なり。この故に「穴子」と名づけしとかや。』。「怪事考」

[やぶちゃん注:原拠とする「怪事考」は不詳。「近世民間異聞怪談集成」の解題で土屋氏も本書を『該当する資料名が不明なもの』の一つに入れておられる。

「日足(ひだし)」「脚足」などとも書き、「雲などの切れ目や物の間から差し込んでくる日光・陽射し」、或いは、「太陽が東から西へと移る動き・その速度・時間の経過」から、「その動きとともに移動していく光線」で、転じて、「昼間の時間」の意があるが、ここは「肥立ちし」で、「日が経つにつれて(元気に)成育し」の当て字であろう。]

大和怪異記 卷之三 第九 人の背より虱出る事

 

[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の本文部分はここから。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。なお、底本のルビは歴史的仮名遣の誤りが激しく、ママ注記を入れると、連続してワサワサになるため、歴史的仮名遣を誤ったものの一部では、( )で入れずに、私が正しい歴史的仮名遣で《 》で入れた部分も含まれてくることをお断りしておく。]

 

 第九 人の背(せ)より虱(しらみ)出《いづ》る事

 下總の者、かたりけるは、

「我國に、かはりたる病(やまひ)にて、死したる者、あり。『牧(まきの)』何がしといふ者の妻、三十あまりになりけるが、ある日、

『背の中ほど、ことの外に、かゆき。』

とて、婢女(げじよ)をよびて、かゝせけれども、こらえがたければ、夫がいはく、

『われ、かきてみむ。』

とて、つよく、かきて、皮、やぶれしに、やぶれたる所に、穴、あきて、虱、

『ばらばら』

と出《いで》たり。妻をどろきて、

『ふしぎの事なり。とてもの事に、剃刀(かみそり)にて、切《きり》さき、見給へ。』

と望む。夫、

『いかでか、さる事、有べき。』

とて、承引(《しよう》いん)せざれば、

『よしよし。聞《きき》いれ給はずは、我、うしろさまに、切やぶらん。』

と、いひて、剃刀を取出しける故、是非なく

『更(さら)ば、試(こゝろみ)に、やぶり、みん。』

とて、少し切けるに、下より、其切目《きりめ》を、はねやぶりて、虱、いか程といふばかりもなく、出たり。

 箒《はうき》にて、はらひ、あつむるに、およそ一升餘も有べし。

 かくて、虱、すきと、つきければ、女は、ねふれるがごとくに、死したり。

 いかなる病と知人《しるひと》なし。」。

[やぶちゃん注:原拠表記なし。

「虱」博物誌は私の「和漢三才圖會卷第五十二 蟲部 蝨」を見られたいが、このような状態でヒトに寄生することはあり得ないので、その点で怪異と言える。皮膚の角質層の内部に鋏脚でトンネルを掘って寄生するヒゼンダニによる疥癬が真っ先に想起され、その強烈な寄生(百万から二百万虫体)による重症型の過角化型疥癬(ノルウェー疥癬)もあるが、病態がそれらしくはない(背中の一ヶ所にのみ営巣している点)し、そもそもヒゼンダニは虫体が極めて小さく、肉眼では見えないから、こうしたシークエンスにはならず、箒で払って虫一升という表現はあり得ないだろう。私はこの話、先行する浅井了意の「伽婢子卷之十三 蝨瘤」の体のいい焼き直しに過ぎないと思う。そちらの注で、しかつめらしく真面目に、この虫の注を附してあるので見られたい。

「すきと」副詞で「残らず・完全に・すっかり」。

「つきければ」「盡きければ」。]

大和怪異記 卷之三 第八 殺生して我子にむくふ事

 

[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の本文部分はここ(単独画像)。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。なお、底本のルビは歴史的仮名遣の誤りが激しく、ママ注記を入れると、連続してワサワサになるため、歴史的仮名遣を誤ったものの一部では、( )で入れずに、私が正しい歴史的仮名遣で《 》で入れた部分も含まれてくることをお断りしておく。]

 

 第八 殺生して我子にむくふ事

 勢州日永《ひなが》村の六左衞門といふもの、狐をとらへしかど、

「明日(あす)は親の忌日(き《にち》)なり。たすけん。」

といふを、庄三郞といふ者、

「我に得させよ。」

とて、耳と口とを、打《うち》さきて殺せり。

 其後、妻女、產(さん)をせしに、女子の、耳、さけ、口、ゆがみたるを、うめり。

 寬文十二年の事なり。

 又、尾州あつた邊(へん)、山崎の者、鳫(がん)を、かごに入れ置《おき》しに、夫(おつと)他行(たぎやう)の跡にて、籠をぬけたるを、妻女、鳫をとらえ[やぶちゃん注:ママ。]、羽を、ことごとく、むしり、足をもぎ、ころせしに、此女、程なく產したりしとき、肩骨(かたほね)は有《あり》ながら、手のなき男子をうみしとなり。

[やぶちゃん注:原拠「同」は前々話・前話と同じで「犬著聞集」。「犬著聞集」自体は所持せず、ネット上にもない。また、所持する同書の後代の再編集版である神谷養勇軒編の「新著聞集」にも採られていないようである。

「勢州日永村」現在の三重県四日市市日永(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「寬文十二年」一六七二年。徳川家綱の治世。

「尾州あつた」「山崎」愛知県名古屋市熱田区附近であるが、「山崎」は不詳。

「鳫」「雁」に同じ。広義の「かり」=ガン(「雁」)は、広義のカモよりも大きく、ハクチョウ(カモ科Anserinae亜科Cygnus属の六種及びCoscoroba 属の一種の全七種。全長百四十~百六十五センチメートルで、翼開長は二百十八~二百四十三センチメートルあるだけでなく、飛翔する現生鳥類の中では最大級の重量を有する種群で、平均七・四~十四、最大で十五・五キログラムにも達する)より小さい種群の総称。より詳しくは、私の「和漢三才圖會第四十一 水禽類 鴈(かり・がん)〔ガン〕」を参照。]

2022/11/20

曲亭馬琴「兎園小説拾遺」 第一 「享保八癸卯年御蔭參抄錄」

 

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。昨年二〇二一年八月六日に「兎園小説」の電子化注を始めたが、遂にその最後の一冊に突入した。私としては、今年中にこの「兎園小説」電子化注プロジェクトを終らせたいと考えている。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちら(右ページ上段最終行から)から載る正字正仮名版を用いる。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。

 馬琴の語る本文部分の句読点は自由に変更・追加し、記号も挿入し、一部に《 》で推定で歴史的仮名遣の読みを附した。今回は短いので、そのままとした。

 前回の「松坂友人書中御陰參りの事」に続き、文政一三・天保元(一八三〇)年閏三月に発生した伊勢神宮への「お蔭参り」の正篇の続篇のキリとなる第五弾である。但し、内容は、以上の「お蔭参り」の比較対照附録としての先行する享保八(一七二三)年に発生した同じ爆発的集団参拝(当時は「お蔭参り」の言葉はなく、概ね「抜け参り」と呼ばれた)の参考資料の抄録である。

 なお、前回までに注したものは繰り返さないので、検索でこちらへ来られた方は、上記正篇第一話から順にブログ・カテゴリ「兎園小説」で読まれたい。

 

   ○享保八癸卯《みづのとう》年「御蔭參」抄錄

當三月初《はじめ》かたより、諸國、伊勢參《まゐり》、多く、京都も、下々《しもじも》、子供迄、ぬけ參仕候。大かた、「先年、寶永三年の參宮人《さんぐうびと》程も、可ㇾ有ㇾ之か。」と噂御座候。依ㇾ之、東石垣町の者共、申合《まをしあはせ》、男女《なんによ》廿人餘《あまり》、參宮仕《つかまつり》、下向《げかう》に、津に一宿仕候處、旅籠屋《はたごや》亭主と、石垣町の駕籠の者と、喧嘩仕、駕籠の者三人、薄手《うすで》負《おは》せ申候。津よりも、京都御町奉行へ申參、種々《しゆじゆ》御穿議之處、手負は、所にて養生被仰付候て、事、相濟候。旅龍屋は津の「桔梗屋」と申候由。是の者の所、御奉行、御《お》かばひ故、樣子、知れ不ㇾ申候。右は四月中旬之事也。右の喧嘩に打續《うちつづき》、祇園町之者、男女三十八人、此外、荷持《にもち》・駕籠之者共、大勢、召巡《めしつれ》參宮仕候。「のぼり千里安行參《せんりやすくゆきまゐる》」と書付、其次に三色染分《みいろそめわけ》の吹貫《ふきぬき》、太鼓・笛・鼓・三味線の類《たぐゐ》、爲ㇾ持《もちなし》、衣服、種々、異形《いぎやう》にて、宿々共《ども》、囃子立《はやしたて》、步行仕《ありきゆきつかまつり》候樣子、相知《あひし》れ、四月廿二日、御屋敷え[やぶちゃん注:ママ。]、被召寄、樣子、御聞被ㇾ遊。廿三日、又々、不ㇾ殘、銘々、口書《くちがき》御取可ㇾ被ㇾ成候由。參宮仕候男女・下々迄、御呼寄、御詮議之最中に、松屋理兵衞儀、年寄故、御屋敷へ相詰居《あひつめをり》候留守の内、忰《せがれ》佐兵衞、頓死仕候。「若《もし》は、自害にも可ㇾ有《あるべき》。」と御檢使被ㇾ遣候處、病死に極《きはま》り申候。のぼり・吹貫、銘々着仕候衣類、取寄御覽被ㇾ成候。扨、被仰渡候趣は、「旅の事故、伊達成《だてなる》物を着候儀は、尤《もつとも》に候得共《そうらえども》、總體《そうたい》の致方《いたしかた》、よろしからず。道中、傍若無人の樣子、不埒《ふらち》に候。依ㇾ之、すみ田屋才右衞門、翁屋伊左衞門、すみ田屋庄右衞門、弟・吉文字屋庄―郞、四條角屋五郞右衞門、うどんや・繩手の水茶屋、二人《ふたり》【二人は「かさや平七」、「平野屋」。】、国太夫、常太夫、合《あはせて》九人、御預け被ㇾ成候。祇園町、南北年寄、繩手新地、建仁寺町、宮川町、以上、拾町《じつつやう》の年寄共、遠慮被仰付候。石垣町、祇園町、南町共、濟候。いまだ得《とく》と樣子相知れ不ㇾ申候。以上【名付に、少々、相違《あいひたがひ》、有ㇾ之。過料の所に委《くは》し。】

一、五月廿六日、祇園町、參宮の出會料《しゆつくわいれう》上納にて、御赦免。

 鳥目十貫文【建仁寺北門前、上之町。】丸屋 五郞右衞門

 同 參貫文【同所。】        年 寄 勘  兵  衞

 同 五貫文【祇園町。】       吉文字屋 庄次郞

 同 五貫文              十文字屋次郞三郞

 同 六貫文              翁屋  伊左衞門

 同 三貫文              松代屋 理  兵  衞

 同 六貫文【同所。但、三文めづゝ。】年寄     理   兵   衞

                        同      五   兵   衞

 同 五貫文【祇園新地・淸水町。】  宮 こ 路國太夫

 同 三貫文【同所。】        年 寄 喜左衞門

 同 三貫文【同新地・富永町。】   同   吉  兵  衞

 鳥目五貫文【大賀路廿一新町。】   若狹屋 半右衞門

 同 五貫文              一文字屋   源 助

 同 三貫文【同所。】        年 寄 伊  兵  衞

 同 三貫文【建仁寺西門前上之町。】 大和井 常  太  夫

 同 三貫文【同所。】        年 寄 新  兵  衞

 同 三貫文【同北門前南町。】    同   治  兵  衞

 同 三貫文【大賀路常磐町。】    同   右  兵  衞

 同 三貫文【同辨才天町。】     同   十右衞門

 同 三貫文【四條河原。】      同   新  四  郞

 同 三貫文【宮川筋三町目。】    同   五郞右衞門

  合《あはせて》鳥目八拾二貫文

「すみ田や」才右衞門は、元より、御構《おかまひ》無ㇾ之、依ㇾ之、過料も出し不ㇾ申候。

 右、「月堂見聞集」卷之十五に出《いづ》。

按に、世人、只、寶永二年に「お蔭參り」の事を、のみ、知《しり》て、享保八年にも、又、かくの如くなりしを、いふもの、稀也。因《よつて》抄出、畢《をはんぬ》。

[やぶちゃん注:「寶永三年の參宮人」ウィキの「お蔭参り」によれば、宝永二(一七〇五)年の夏四月から五月にかけて、「抜け参り」の特異点があったことが記されてあり、発生地は京都で、参詣者は三百三十万から三百七十万人に及んだ(当時の日本総人口は元禄一三(一七〇〇)年で二千七百六十九万人であるから、当時の日本人の約七%相当)とし、以下の解説がある。『宝永のお蔭参りは、「お蔭参り」という呼称はまだ用いられていないものの、京都と大坂を中心に、畿内一円から四国、東は江戸まで及ぶものとなったことや、沿道で参宮者への施行が行われたこと、人々の社会観に新しい展開をもたらしたことから、本格的なお蔭参りの始まりであるとされる』。『本居宣長の』「玉勝間」の『記載によると』、四『月上旬から、京都の人々を中心に』一日に二、三千人が『松阪を通り』、四『月中旬には』一『日に』十『万人を超えた』。五『月に入ると』、『大坂にまで波及し、五『月中旬には最高値となる』一日二十三万人を『数えた』、『この間の平均値は』、一日七『万人程度であった』。『元禄期以降』、『盛んになっていた伊勢参りにおいては、その中心はあくまで成人男性であったが、この宝永のお蔭参りでは』、『女性や子供の割合が高くなっている』。『元禄期以降の経済成長によって、庶民経済が向上し』、『伊勢参り』が『盛んになる一方、格差が生じて』、『貧しい生活を強いられ、参宮が困難な階層も生じてきたが、女性や子供など、そのような日常において参宮の機会を得られない人々が、突発的に参詣に向かったことで生じたのが』、「お蔭参り」『であると考えられ』ている。『このため』、この『宝永の』「お蔭参り」では、『後のような享楽的現象は見受けられず、伊勢参りへの信仰心の強さが根底にある』とある。なお、ウィキによれば、その後で、この記事よりも五年前の享保三(一七一八)年にも、「抜け参り」の特異点があった(こちらは発生年だけで記事はない)。

「參宮の出會料」よく判らないが、「伊勢参り」の人々に施行するための寄付金を京都奉行所へ先に出していたということだろうか。

 なお、以下、京の旧町名など、知らぬものだらけだが、私には労多くして、益、全くない。やらない。悪しからず。

 それにしても、この全五篇の「お伊勢参り」の面影は、私には、現代の日本より、遙かに人心が暖かったのだなぁと強く感じたことを述べて終わりとする。

曲亭馬琴「兎園小説拾遺」 第二 「伊勢松坂人櫟亭琴魚【殿村精吉。】より來狀御蔭參りの事」

 

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。昨年二〇二一年八月六日に「兎園小説」の電子化注を始めたが、遂にその最後の一冊に突入した。私としては、今年中にこの「兎園小説」電子化注プロジェクトを終らせたいと考えている。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちら(右ページ上段)から載る正字正仮名版を用いる。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。

 馬琴の語る本文部分の句読点は自由に変更・追加し、記号も挿入し、一部に《 》で推定で歴史的仮名遣の読みを附した。今回は短いので、そのままとした。

 前回に続き、文政一三・天保元(一八三〇)年に発生した伊勢神宮への「お蔭参り」の正篇の続篇の第四弾(第一弾の筆者と私が推定する馬琴の親友で伊勢松阪の国学者殿村安守の、実弟にして戯作者であった殿村精吉(文化五(一八〇八)年に馬琴に入門。戯作名は櫟亭琴魚(れきていきんぎょ))の「お蔭参り」の様子を報知した書簡)である。以下、まだ、第五弾がある。

 なお、前回までに注したものは繰り返さないので、検索でこちらへ来られた方は、上記正篇第一話から順にブログ・カテゴリ「兎園小説」で読まれたい。

 

   ○伊勢松坂《まつざかの》人、櫟亭琴魚【殿村精吉。】より來狀、「御蔭參り」の事。

一、當春「御蔭參り」賑合《にぎあひ》の儀は、追々、御承知と奉推上候《おしあげたてまつりさふらふ》。未《いまだ》、五月、七月に至り、次第に、薄らぎ候處、七月盆前後より、又、そろそろ、群集いたし、此節にては、最初の十分二とも申《まをす》べき位《ぐらゐ》に御座候。是《この》「御陰」、九月にも至り候はば、又々、一盛《ひとさかり》いたし候半《さふらはん》か。此節は、駿・遠・參、幷に、信濃・美濃に及び申候。是亦、一奇事、神惠、難ㇾ量奉ㇾ存候。右、賑合候に付、小子《しやうし》共も申合せ、八郡より施行《せぎやう》等、取立《とりたて》、白粥《しろがゆ》を振舞申候に、每日、五俵、七俵に及申候。追々、俵增《ひやうまし》の樣子に候へば、猶、鬧《さはがし》かるべくと奉ㇾ存候。此節は、俄《にはか》に、朝夕、冷氣、病身者の小子抔は、綿入《わたいれ》ほしき位に御座候。され共、日中は單物《ひとえもの》にて、丁度、宜敷《よろしく》御座候。時候《じこう》、其地も、大樣《おほやう》に、おなじからんと奉ㇾ存候【下略。八月五日。】

[やぶちゃん注:今一度確認しておくと、時制は「文政十三庚寅年」(グレゴリオ暦一八三〇年だが、この文政十三年は十二月十日(一八三一年一月二十三日)に天保に改元している)である。

「此節」最後の割注のある八月五日。グレゴリオ暦九月二十一日。この年は閏三月があったため、通常よりズレが大きいので注意が必要。

「最初」これまでの三篇でも語られていた通り、この年の「お蔭参り」は、前兆は前年文政十二年にあったが、文政十三年三月に強い兆候が見られ、爆発的に発生したのが、閏三月(陰暦三月一日がグレゴリオ暦四月二十三日)終息は、この八月末(大の月で晦日三十日はグレゴリオ暦十月十六日)であった。

「小子」自分を遜って言った語。「小生」(しょうせい)。

「八郡」伊勢国は古く中古までは十三郡に別れ、その内、度会(わたらい)・多気(たけ)・飯野(いいの)の三郡は神郡(しんぐん)と呼ばれ、古くから伊勢神宮の支配下にあり、これを「神三郡」(じんさんぐん)と呼んだ。後に員弁(いなべ)・三重・安濃(あの)・朝明(あさけ)・飯高(いいだか)の五郡も神郡となり、合わせて「神八郡」(じんはちぐん)と総称された。その呼び方が残っているのである。

「其地」伊勢神宮の門前町である旧伊勢山田(グーグル・マップ・データ)。松阪からは十七キロメートル東南東に当たる。]

大和怪異記 卷之三 第七 紀州眞名古村に今も蛇身ある事

 

[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の本文部分はここと、ここ(単独画像)。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。なお、底本のルビは歴史的仮名遣の誤りが激しく、ママ注記を入れると、連続してワサワサになるため、歴史的仮名遣を誤ったものの一部では、( )で入れずに、私が正しい歴史的仮名遣で《 》で入れた部分も含まれてくることをお断りしておく。]

 

 第七 紀州眞名古(まなご)に今も蛇身(じやしん)ある事

 紀州日高郡眞名古村は、いにしへ、眞名古庄司(まなごのしやうじ)が住《すみ》し所なり。

 此村は、

「蛇(じや)の子孫なり。」

とて、隣鄕(りん《がう》)より、婚姻を、むすばざれば、伯父・姨(おば)・姊妹のわかちもなく、緣をむすび侍る。

 此村に、いにしへより、蛇身の女、一人づゝ、かならず、うまるゝ事、今にいたりて、たゆる事、なし。

 其女は、眉目(みめ)かたち、人にすぐれ、髮は、たけにあまり、地を、ひけり。

 五月、墜栗花(つゆ[やぶちゃん注:三字への読み。])に入《いる》ごとに、件(くだん)の女の髮、とりもちなどを塗(ぬり)たるやうに、もつれあひ、櫛(くし)も、いれがたし。

 梅雨侯(つゆのこう)、あけば、あたりの川にて、あらふに、さはやかに、

「はらはら」

と、とける、となり。

「此女は、在所にても、一生、つれあふ男、なし。」

と、いへり。同【○『紀州矢田庄《やたのしやう》、天音山《てんおんざん》道成寺は、文武帝、大寶年中、紀大臣道成《きいのおほおみみちなり》、奉行として草創なる故、「道成寺」と號す。』と、「紀州志」に見たり。世に云《いふ》怪說の事は、曽《かつ》て見えず。】

[やぶちゃん注:前話同様、「犬著聞集」原拠。調べてみたところ、底本と同じ「新日本古典籍総合データベース」のこちらで、当該原本の抜書と同一と思われる写本「犬著聞集 拔書 全」(高知県立高知城歴史博物館・山内文庫)があり、ここに「真砂村蛇身女叓」(まさごむらじやしんのこと)とあった。さらにこれは、幸いにして、後代の再編集版である神谷養勇軒編の「新著聞集」にも所収する。「第十 奇怪篇」にある「眞名古村(まなこむら)蛇孫(じやそん)髮(かみ)粘(ねば)る」である。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の寛延二(一七四九)年刊の後刷版をリンクさせておく。ここ、と、ここ(単独画像)。今までと同様、本書の作者がだいたい忠実に引用しているのであろう様子が窺える。

「紀州日高郡眞名古村は、いにしへ、眞名古庄司が住し所なり」筆者は敢えて何も言わないのであるが、これはもう、所謂「道成寺物」「安珍清姫」の物語として知られる場所と人物である。私はサイトに「――道 中―― Doujyou-ji Chronicl」という単独ページを作るほどには、「道成寺」フリークであり(私は若き日に教え子に招待されて金春流の「道成寺」を観賞し、激しい感動を受けたのが最初である。私は生涯で見た舞台では、真に感銘して文字通り、「息を止めて」見たのは、この時の「道成寺」と、アントニオ・ガデス舞踊団の「血の婚礼」、転形劇場の「水の駅」の三つだけである。道成寺を訪れた際には鬼となった彼女が本堂で踊り狂うという現場を見たほどであった(事実である。実は、たまたま、町内の秋に向けての観光キャンペーンのために能楽師のシテを呼んでポスター写真を撮っていたに過ぎなかったのだが、それを知らずに入ったら、鬼面の後シテが、御堂の柱に纏わってこちらを「きっ!」と見つめられた時には、正直、心臓がドキドキした))。同伝承の現存する最も古い記載は、十一世紀初頭平安中期の比叡山の僧鎮源(伝不詳)の記した上中下三巻から成る仏教説話集

「大日本國法華經驗記(げんき)」の下巻掉尾にある「第百廿九」の「紀伊國牟婁郡の惡しき女」

とされる。そこでは、女に名はなく、彼女が恋慕する僧にも名は、ない。二人の僧が熊野詣での途中、「牟婁郡(むろのこほり)」の「路の邊(ほとり)の宅(いへ)」に泊めて貰う。その家の「主(あるじ)」で独り身の女が若い方の僧に恋慕するという形をとっており、後半の道成寺に至るカタストロフと救済の枠組みは既にしてほぼ同じである。その後、この伝承が後に、

「今昔物語集 第卷十四」の「紀伊國道成寺僧寫法花救蛇語第三」(紀伊の國の道成寺の僧、法花を寫して蛇(じや)を救へる語(こと)第三)

となって人口に膾炙し始めるが(「今昔物語集」の成立は平安末期の一一二〇年代(元永三・保安元(一一二〇)年~大治四(一一二九)年)からあまり遠くない白河法皇・鳥羽法皇による院政期の頃に成立したものと考えられている)、そこでも、未だ、二人の男女に名は、ない。僧らの泊ったのは「牟婁の郡」の、やはり独り身の女の自宅であるが、従者が、二、三人いる相応の屋敷である。因みに、これ以前の設定では、この女、おぼこい娘という感じでは、実は私には全くしないのである。若くして父母の旧主人を失って、忠実な下人らに守られて、ここに住みなしているやや若い女(年増女とは思いたくはないが、それは完成されてしまった「道成寺」伝承に私が無意識的に惹かれているからに過ぎないのであって、虚心に読むなら、一屋の下男下女を持つ女主人は十代の娘よりも、二十代後半の方の印象の方が相応しいのではないだろうか?)であって、後の清姫のような、清純一筋、意地悪に言い換えると、現実を理解し得ないパラノイア的傾向を多分に持った娘には、とても読めないことも、言っておく。

鎌倉末期の元亨二(一三二二)年に、臨済僧で東福寺・南禅寺住持を務めた名僧虎関師錬によって書かれた本邦初の仏教通史

「元亨釋書」(げんこうしゃくしょ)の「卷第十九」の「願雜十之四 靈怪六 安珎」の「釋安珎」

に載った際、恐らく現存する道成寺伝説の中で初めて主人公が「鞍馬寺の」「釋安珎」と名指さられることとなる。泊るシークエンスは「今昔物語集」に相同(従者は「婢」)。而して、

道成寺所蔵の「道成寺縁起(絵巻)」(この絵巻自体は室町後期十六世紀に描かれたものである)

の私も面白く拝聴させて戴いた「安珍清姫の物語」の「絵解き」のそれでは(「道成寺」公式サイト内のこちらを参照されたい)。

時制が延長六(九二八)年の物語

として設定されており、

安珍奥州から熊野詣でに来た修行僧

とされ、

彼に恋慕する少女も真砂庄司の娘「淸姫」

となっている。則ち、この「元亨釋書」から「道成寺縁起」の絵巻の形成される間で、現在、我々が認識している伝説が、ほぼその基本的諸設定のデーティルが整えられたと考えてよい。そうして、満を持して登場するのが、

謡曲の先行して出る観世小次郎信光の作とされる「鐘卷」と、それを切り詰めて見事な乱拍子を中心に構成してインスパイアされた作者不明の名品「道成寺」

が生まれるということになる。そこでワキによって語られる謂われは、

   *

「昔この所にまなごの庄司と云ふ者あり 彼の者一人(いちにん)の息女を持つ またその頃奧より熊野へ參詣する山伏のありしが 庄司がもとを宿坊と定めいつも彼の所に來りぬ 庄司娘を寵愛の餘りに あの客僧こそ汝が妻よ夫よなんどと戲れしを をさな心にまことと思ひ年月(ねんげつ)を送る。またある時かの客僧庄司がもとに來りしに 彼の女夜更け人靜まつて後 客僧の閨に行き いつまでわらはをばかくて置き給ふぞ 急ぎ迎へ給へと申ししかば 客僧大きに騷ぎ さあらぬよしにもてなし 夜(よ)にまぎれ忍び出でこの寺に來たり ひらに賴むよし申ししかば 隱すべき所なければ 撞き鐘を下ろしその中(うち)にこの客僧を隱し置く さてかの女は山伏を逃(のが)すまじとて追つかくる 折節日高川(ひたかがは)の水もつてのほかに增さりしかば 川の上下かみしもをかなたこなたへ走り𢌞りしが 一念の毒蛇となつて 川を易々と泳ぎ越し この寺に來たりここかしこを尋ねしが 鐘の下(お)りたるを怪しめ 龍頭を銜(くは)へ七纏ひ纏ひ 炎(ほのほ)を出だし尾をもつて叩けば 鐘はすなはち湯となつて 終(つひ)に山伏を取り畢んぬ なんぼう恐ろしき物語にて候ふぞ。」

   *

と語るのである。ここでは俗臭を排するために二人の名は示されない。能の「道成寺」は滅多に見られぬし、現在、謡曲本が普通に読まれることは少ないが、まさにこのワキの語りの内容こそが、最もコンパクトに我々の知る「安珍清姫の物語」(厳密には最後の済度大団円のプレの悲劇部分)の濫觴であると言ってよいように思う。さて、最後になるが、

安珍の「奥州から熊野詣でに来た修行僧」という新設定の伝承はどうか

というと、これまた、ちゃんと事実として語られていることが証明されているのである藤川建治のサイト「いこいの広場」の「安珍堂、 安珍の墓 根田 白河市」を見られたい(写真あり)。そこに、「里帰りした」(!!!)安珍像の写真があって、『この安珍像は、和歌山川辺町の道成寺に所蔵されていましたが、昭和』六〇(一九八五)年三月、『道成寺及び地元有志の御好意により、東北新幹線上野駅乗入れを記念し、安珍の生誕の地、根田に里帰りしたものです。伝説によれば、修験僧安珍が延長』六(九二八)年十九『歳の時、修行のため熊野山に登った折』、『その途中で泊った紀州御坊の庄司の家の娘、清姫』十三『歳に恋慕されたが、安珍は、幼女の気まぐれと考えて、末の契りに答えてしまいました。後に、これが偽りと知った清姫は、激怒のあまり』、『蛇身と化して安珍を追い、道成寺の鐘の中に逃げ込んだ安珍を恨みの火焔で責め殺してしまったといわれております』。(☞)『この地に伝わる安珍念仏踊りは、彼の冥福を祈る為』、『根田の里人がはじめたものといわれ、歌舞伎などで知られる娘道成寺の物語を美しく歌い込んだ、念仏踊りとして知られ、毎年』三月二十七日の『安珍忌に供養として踊られています。なお』、『この安珍堂は、各種団体及び市民有志から寄せられた浄財により建立されたものです、』という最後に昭和六十一年十月のクレジットと『安珍像郷里安置対策委員会』の署名がある(これは以下のグーグル・マップ・データのサイド・パネルのこの解説板の電子化であることが判った)。而して、確かに福島県白河市萱根根田(かやねねだ)に「安珍堂」があるのである。ただごとではない。道成寺が「里帰り」を許すということは、安珍の出自をここと認定したものと認められるし、「白河市」公式サイトの文化のページの県指定重要無形民俗文化財として「奥州白河歌念仏踊」が挙げられており、『いつの頃から行われているか明らかではないが、白河市付近の村々に、盛大な歌念仏踊が伝承されている。口碑では、流布するに至ったのは、江戸時代の中頃からという。根田組、久田野組、釜の子組、柏野組、羽太組等がそれぞれの集落にある念仏踊りには、村内安全と五穀豊』饒『を祈ることに始まったと言われるが、長い間に舞踊化し、交情和親の娯楽ともなって各村に定着した』とあって、最後に、『なお、根田においては「道成寺物語」の安珍僧が、市内萱根の生れと伝えられ、これにちなんだ歌詞や踊りがあるので』、『安珍念仏踊りとして有名である。旧暦』二月二十七日『の「安珍忌」には歌と踊りで供養する』(後に括弧附きで、現在は毎年三月二十七日に行われているという注記がある)とあるのである。これを読むに、発生が江戸中期ならば、これは浄瑠璃・歌舞伎・日本舞踊等の種々の道成寺譚が盛んになり、口碑の変形が生じさせたもののようには思われるし、安珍像が、見た目、かなり新しいものであることから、或いは、江戸時代、この白河からの参詣者が奉納像なのかも知れぬ(もし、この念仏踊りが、中世、或いは、それ以前に遡れるとなら、私は安珍の白河出自を俄然、支持したいとは思う。「鞍馬寺の安珍」の方が遙かに噓臭くて厭だからである)。

「紀州日高郡眞名古村は、いにしへ、眞名古庄司(まなごのしやうじ)」さて、私が以上の経緯を長々と記した理由は、以上の「紀州日高郡眞名古村」の位置や、そこを支配した「眞名古庄司」なる人物を特定することが、本伝承の形成過程を見て戴ければ判る通り、伝承初期に於いては異なる以上、あたかも史実上の設定が存在してそれを同定する気には、実は、全くならないからである。その原拠から見て、日高川を蛇龍となって泳ぎ越えて道成寺へ至るというシーンから、素人考えでは、女の里の後身「日高郡眞名古村」は日高川以東でなくてはならないことだけが、揺るぎないたった一つの地理的事実のみのように見えるだけだからなのである。しかし、それは民俗学的には、現在の紀州に残る最終的に変成した伝承に従って、この「紀州日高郡眞名古村」の比定地と、「眞名古庄司」なる人物を考察せねばなるまい。ネットを調べてみると、サイト「わかやま歴史物語100」の「ストーリー053」の『妖しく、そして悲しき「道成寺物」  安珍・清姫の悲恋の物語』には、『奥州から熊野詣に訪れた修行僧・安珍は、現在の田辺市中辺路町にあったという真砂庄司清重』(☜)『の屋敷に一夜の宿を求めました。安珍に一目惚れをした女房の清姫は求婚しますが、困った安珍は「熊野詣の帰りに必ず立ち寄る」と言い残して熊野詣へ出立。約束を信じて帰りを待つ清姫でしたが、安珍は一向に戻らず、通りすがった旅人に尋ね、潮見峠を通る別の道で帰ったと知ります。怒り狂った清姫は、髪を振り乱して、その後を追い、ついには大蛇に姿を変えて日高川を渡り、道成寺の鐘の中に隠れた安珍を焼き殺してしまいました。田辺市には中辺路町を中心に、清姫の生家があったと言われる跡地や「清姫の墓」などの伝承地が多く点在。妖しく、悲しい「道成寺物」。その悲恋の地で』二『人に思いを重ねれば、新たな一面を知ることができるでしょう』とあり、写真入りで所在地を明記した上で、「清姫の墓」に始まり、『清姫一族の菩提寺でもあり、江戸中期のものと推測される安珍・清姫物語の絵巻(非公開)も収められてい』るという「一願寺(福巖寺)」、「(伝)真砂一族住居跡・(伝)清姫生誕屋敷」、『安珍を追う清姫』が『この杉に上って前方を逃げる安珍を見つけ、悔しさのあまり杉の枝を捻じ曲げたと』伝える「捻木の杉(潮見峠越)」、『安珍を追いかけてきた清姫が、この泉の水を飲んで』、『力をもらった』と伝える「清姫の井戸」が載るので、是非、見られたい。他に、サイト「日本伝承大鑑」の「清姫の墓」にも、『清姫が住んでいたとされる真砂の地には、清姫の墓と呼ばれるものがある。この地の伝説では、清姫は、真砂の庄司藤原左衛門之尉清重』(☜)『の娘であるが、その母親は清重に命を救われた白蛇であるとされる。そして安珍が清姫に言い寄るものの、障子に映った清姫の影が蛇であることに気付いて逃げ出す。これに世をはかなんだ清姫は』、『淵に身を投げて亡くなるが、その安珍を思う情念が蛇に化身して道場寺まで追い詰めたとされる』という異聞が記されてあり、『清姫の墓がある場所が庄司の館、そのそばにある淵が清姫が身を投げた場所(清姫渕)と言われる』とあって、さらに『真砂の庄司家』として、『清姫の実家である庄司家は熊野本宮の禰宜職』(☜ ☞)『にあり、父の清重が』三『代目にあたる。この清重の代の時に真砂の地の荘官として移ってきたとされる。その後、庄司家は小領主としてこの土地を治めていたが』、天正一三(一五八六)年の『豊臣秀吉の紀州攻めの際に一族ことごとく滅びたという』の補注がある(写真・地図あり)。これらを整理すると、「紀州日高郡眞名古村」は、

現在の田辺市中辺路町真砂まなご:グーグル・マップ・データ。以下無指示は同じ)

ということになる。而して、道成寺は、ずっと西の和歌山県日高郡日高川町鐘巻のここである。直線で計測しても、真砂から道成寺までは、三十四キロメートルあるしかもその間は起伏激しい山間である(グーグル・マップ・データ航空写真)。その真砂地区に「清姫生誕地 真砂一族住居跡」のポイント」が示されてあり、そのサイド・パネルの「(伝)真砂一族住居跡・(伝)清姫生誕屋敷」という解説版画像を見ると(読みは一部に留めた)、

   *

 この住居跡は、物部阿斗(もののべのあと)の姓から真砂姓に改名した2代目真砂清春(まさごきよはる)が西暦800余年[やぶちゃん注:西暦八〇〇年は延暦十九年。桓武天皇の御代。]の頃、本宮大社より荘園主として遣わされ当地の国造りと神仏の勧請、住民の統率等を行ってきた場所と伝えられている。

 しかし、長く続いた家系も、1585年頃に始まる豊臣秀吉の紀州攻略によって、本家の真砂一族(第31代目友家)並びに本陣に仕えていた家臣ら71名の討死により滅びたとの記録が残されている。

  その後、生き残った第32代目友定(ともさだ)は、徳川家に仕えた後に越前にて三千石を領すとの記録があり、本家は滅亡したものの、全国には枝分かれした分家が多くあり、真砂に由来する神社や地名も各地に存在している。

  清姫は、この家系の第3代目清重(きよしげ)の後妻との間に生まれた子で927年8月23日、13歳にして没したと伝えられている。

   *

と、驚くべきことに、清姫の没日と享年まで記されてあるのである(原拠不明)。ユリウス暦九二七年八月二十三日は延長五年七月二十四日(グレゴリオ暦換算八月二十八日)である。万一、月日が陰暦八月二十三日だとした場合のことを考えて換算すると、ユリウス暦九二七年九月二十一日(同前九月二十六日)である(実際、後の説明板によって月日は陰暦で後者が正しいことが判った)。

さらに、真砂地区のその南直近の富田川(とんだがわ)の右岸には、異聞の中の、清姫が身を投じて蛇体に変じた淵の側にあるとする「清姫の墓」のポイントがある。また、麻巳子氏のブログ「癒しの和歌山」の「清姫伝説」の記事に、ここは、福巖寺(通称・一願寺)の「境外地 薬師堂 清姫堂」であるとあり、飛地境内であることが判る(同寺は、ここから北西の谷の奥である和歌山県田辺市中辺路町西谷のここにある)。『「伝説 清姫生誕の地」の説明板』の写真と字起こし、同じく石碑「清姫之里の伝説」(画像はちょっと小さくて読みづらい)のそれが丁寧になされてある。後者の画像は「清姫の墓」のサイド・パネルのこれがよい。麻巳子氏の後者のデータを元にこの写真で起こしておく。字空けがあるが、句読点に自由に代え、それ以外にも記号を追加し、段落も成形した。段落の頭は一字下げにし、準直接話法は改行した。

   *

   清姫之里の伝説

 清姫の父、真砂の荘司藤原左衛之慰[やぶちゃん注:誤字ではない。「尉」の異体字。]清重は、妻に先立たれて、その子、清次と暮らしていた。ある朝、散歩の途中、黒蛇に呑まれている白蛇を見て、憐れに思い助けた。数日後、白装束の女遍路(白蛇の化身)が宿を迄[やぶちゃん注:ママ。「乞」の誤刻か。]い、そのまま清重と夫婦の契りを結び、清姫が誕生した。

 清姫が十三才の年、毎年、熊野三山へ参拝の途中、ここを宿としていた奥州(福島県)白河在萱根の里、安兵衛の子、安珍、十六才は、みめうるわしい清姫の、稚い頃より、気をとられて、

「行く末はわが妻にせん。」

とひそかに語られ、姫も真にうけて、安珍を慕った。

 ある夜、安珍は障子に映った蛇身の清姫を見て、その物凄い形相に恐れをなした。

 それとは知らぬ姫は、思いつめて、遂に、胸のうちを語り、

「いつまでも待たさずに、奥州へ連れていってほしい。」

と頼んだ。

 安珍は、突然の申し入れに大いに驚き、

『これは。なんとかして、避けよう。』

と思い、

「我は今、熊野参拝の途なれは[やぶちゃん注:ママ。]、必ず、下向には、連れ帰る。」

と、その場のがれの申しわけをされた。

 姫は、その真意を知らず、安珍の下向を、指おり数えて、待ちわびたが、あまりにも遅いので、旅人に尋ねると、

「あなたの申される僧は、先程、通られ、早、十二、三町[やぶちゃん注:一・三~一・四キロメートル。]も過ぎ去られた。」

と聞くや、

『さては、約束を破り、道を変えて、逃げられたのだ。』

と察し、あまりの悔しさに、道中に伏して、泣き叫んだ。

 やがて、気を取り直して、汐見峠まで、後を追い、杉の大木に、よじ登り(現在の捻木)、はるかに望めば、すでに田辺の会津橋を渡り、逃げ去る安珍を見て、瞋り[やぶちゃん注:「いかり」。]にくるい、

「生きてこの世でそえぬなら、死して、思いをとげん。」

と、立帰り、荘司ヶ淵に身を投げた。

 その一念が、怨霊となり、道成寺まで、蛇身となって後を追い、鐘にかくれた安珍を、七巻半して、大炎を出し、焼死させ、思いをとげたと云う。

 時、延長六年八月二十三日(今から約千八十年前、西暦二九八年。[やぶちゃん注:ママ。先の説明板とは一年ズレている。])。

 後、里人達は。この渕を「清姫渕」と呼び、霊を慰めるため、碑を建立、「清姫の墓」として、毎年四月二十三日、供養を続けている。

 平成二十年 四月吉日

  福巌寺第十二世 霊 岳 代 誌

         髙 岡 節 子

    寄贈者

         清 水 泰 弘

   *

なお、ここに出る「汐見峠」、先の「捻木の杉(潮見峠)」は、ここ思うに、この淵に身を投げて、大蛇に変じて安珍の後を追ったとなら、容易に山越えも出来ようか。しかし、さらに私がそうなったらと考えると、現行、蛇というよりも殆んど龍に造形されているから、富田川を下って、海に出、白浜・田辺・千里・風早と沿岸をゆうゆうと北西へ登り、日高川を遡った方が、遙かに容易いと思うたことを最後に記しておく。「眞名古庄司」については、以上の解説版電子化で十分であろう思う。

「蛇身の女」私はこの手の因果譚に出る代々の因果というのは、概ね、遺伝性魚鱗癬(ぎょりんせん)と見做していた。「MSDマニュアル家庭版」の「魚鱗癬」に、『重度の皮膚の乾燥の一種で、皮膚に鱗屑が大量に生じます。鱗屑とは、死んだ皮膚細胞が蓄積し、薄く剥がれ、乾燥し、ざらざらになった斑状の領域です』。『魚鱗癬は、ただの皮膚の乾燥である 乾皮症とは異なり、遺伝性の病気として、または他のいくつかの病気や薬によって、皮膚の乾燥が生じる病気です(前者は遺伝性魚鱗癬、後者は後天性魚鱗癬と呼ばれます)』。「遺伝性魚鱗癬」は本疾患の『最も多いタイプ』で、『遺伝子の変異により生じるもので、変異は通常は親から子へと伝わりますが、自然発生的に生じることもあります。遺伝性魚鱗癬は出生時にみられることもあれば、乳児期や小児期に発生することもあります。遺伝性魚鱗癬には様々な種類があります。皮膚にのみ生じるものもあれば、他の臓器に生じる遺伝性疾患の一部に過ぎない場合もあります』。『その種類により、鱗屑は細かいこともあれば、大きく厚く、いぼ状であることもあります。鱗屑が手のひらや足の裏にのみ生じることもあれば、体のほとんどの部分を覆うこともあります。水疱を引き起こすものもあり、その場合、細菌に感染しやすくなります』とある(リンク先には「小児の重度の魚鱗癬」のかなり激しい症状の画像があるので、クリックは注意されたい)。しかし、本篇の語る「蛇女」は、さわにある髪の毛が、梅雨時になると、ヌメり始め、次第に、縺れ合って、びっちりがっちりと鳥黐(とりもち:「耳嚢 巻之七 黐を落す奇法の事」の私の注を参照されたい)のように固まってしまい、櫛さえ入れ難くなるという、奇体な(しかし、忌まわしいとは私は感じない)状態を呈するという怪奇現象である。「ぬめぬめぬったりとなるんだから、蛇でっしょう!」と言う勿れ。私が、現代文の教科書に載り、好んでやった安倍公房の随想「ヘビについて――日常性の壁」を思い出し給え。蛇は「ぬるぬる」などしていないさ! 寧ろ、乾いて鱗の向きに沿って撫でてやれば、極めてさらっとしているぐらいである!

「紀州矢田庄」現在の道成寺のある鐘巻は、正確には和歌山県日高郡日高川町大字土生(はぶ)で、ここは旧川辺町の矢田地区の鐘巻である。

「文武帝、大寶年中」七〇一年から七〇四年まで。

「紀大臣道成」藤原姓。詳細不詳。ウィキの「道成寺」によれば、『大宝元年』(七〇一年)、『文武天皇の勅願により、義淵僧正を開山として、紀大臣道成なる者が建立したという。別の伝承では、文武天皇の夫人・聖武天皇の母にあたる藤原宮子の願いにより文武天皇が創建したともい』い、『この伝承では宮子は紀伊国の海女であったとする考証もある』。『これらの伝承をそのまま信じるわけにはいかないが、本寺境内の発掘調査の結果、古代の伽藍跡が検出されており、出土した瓦の年代から』、八『世紀初頭には寺院が存在したことは確実視されている。昭和六〇(一九八五)年に着手された、『本堂解体修理の際に発見された千手観音像も奈良時代にさかのぼる作品である』とある。

「紀州志」「紀州志」「南紀名勝志」或いは「紀州名勝志」・「南紀名勝略志」という名で伝わる紀州藩地誌の写本の中の一冊であろう。底本と同じ「新日本古典籍総合データベース」の「南紀名勝志」を参看したところ、同書の「日高郡」のここ以下の「天音山道成寺」の条。

「世に云怪說の事は、曽て見えず」則ち、「紀州志」には見えない、ということ。「怪說」とは「安珍清姫」の伝承のことではなく(いやいや! 「元亨釈書」の日本漢文の訓点附きでしっかりばっちり載っている。「鞍馬寺」の「安珍」として名も出ている)、この奇体な髪の時期的変成が生ずる「蛇女」の話のことである。]

2022/11/19

大和怪異記 卷之三 第六 不孝の女天罸をうくる事

 

[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の本文部分はここ(単独画像)。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。なお、底本のルビは歴史的仮名遣の誤りが激しく、ママ注記を入れると、連続してワサワサになるため、歴史的仮名遣を誤ったものの一部では、( )で入れずに、私が正しい歴史的仮名遣で《 》で入れた部分も含まれてくることをお断りしておく。]

 

 第六 不孝の女天罸をうくる事

 武藏国熊谷邊、戶田村に、嬬(やもめ)、女子《むすめ》二人をもてり。

 姊(あね)は、廿にあまりて、壻(むこ)をとり、妹(いもと)は、十八にて、母と一所に居(を)れり。

 あるとき、いもとむすめ、己《おの》が母を、さんざんに打擲(《ちやう》ちやく)し、

「くたびれたり。」

とて、紙帳(し《ちやう》)の内に昼寢したるに、にはかに、天、かきくもり、大雨(《たい》う)、しきりにふり、雷(いかづち)落かゝりて、かの女をつかみ、行《ゆき》かた知《しれ》ず成《なり》にけり。

 かゝる事にも、猶、おそれず、姊も不孝にて、食物も母にくはせず、つらくあたりしを、婿、かなしみにたえず、下男をば、㙒《の》に出《いだ》し、

「妻(さい)は、さけを、もとめよ。」

とて、つかはし、其ひまに、姑(しうと)に物をくはせしに、母も斜(なゝめ)ならず悅び食(くふ)を、彼(かの)女、かへり見て、

「にくき事にこそ。」

と、はしりかゝつて、食物をうばひ取(とり)、けちらしければ、母、なくなく、家を立出《たちいで》、井に身をなげけるを、壻、おどろきて、梯(はしご)をおろさんとする所に、女(むすめ)、

「何とせしぞ。」

とて、井の内をのぞき、あやまつて落《おち》しかば、母は、半身、蛇(じや)になれるが、むすめが腰に、まとゐつき[やぶちゃん注:ママ。]、終《つひ》に、しめ殺しけるとなん。

 正保年中の事とかや。「犬著聞」

[やぶちゃん注:典拠「犬著聞集」は既に先行するこちらで注済み。本書の最大のネタ元。「犬著聞集」自体は所持せず、ネット上にもない。また、前話の最後で示した同書の後代の再編集版である神谷養勇軒編の「新著聞集」にも採られていないようである。姉妹ともに、ここまで不孝であるのは、何か、理由があるのだろうが、それが書かれていないこととともに、母が、半身を蛇と変じて姉を絞め殺すという展開が、所謂、仏教説話からも限りなく距離があり、近世怪談の視点から見ても、凡そ救いが全くない。善意の婿は実は話柄を単にカタストロフへ導くための道化役でしかない。地平が意味不明という点で怪奇談の一つの「突(とつ)」である。

「武藏国熊谷邊、戶田村」不詳。現在の埼玉県熊谷市戸出(とで)の書写の誤記か。

「正保年中」一六四四年から一六四八年まで。徳川家光の治世。]

大和怪異記 卷之三 第五 猫人をなやます事

 

[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の本文部分は、ここと、ここ(単独画像で本文から。標題は前ページ)。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。なお、底本のルビは歴史的仮名遣の誤りが激しく、ママ注記を入れると、連続してワサワサになるため、歴史的仮名遣を誤ったものの一部では、( )で入れずに、私が正しい歴史的仮名遣で《 》で入れた部分も含まれてくることをお断りしておく。

 挿絵があるが、これは「近世民間異聞怪談集成」にあるものが、状態が非常によいので、読み取ってトリミング補正し、適切と思われる箇所に挿入する。因みに、平面的に撮影されたパブリック・ドメインの画像には著作権は発生しないというのが、文化庁の公式見解である。底本(カラー。但し、挿絵は単色)の挿絵部分もリンクを張っておく。]

 

 第五 猫(ねこ)人をなやます事

 筑後の国、ある侍(さふらひ)の家に、ふしぎの事、あり。

 夜になれば、手鞠の大(き)さなる火、たゝみより、上、三寸程に、通り、ひらめきしを、追《おひ》かくれば、それにしたがひて、飛(とび)まはり、あるいは、隣家(りんか)に有(ある)榎木(《え》のき)に、此火、あまたたび、のぼりあがる。

 此事、国中に沙汰しければ、老若(らうにやく)、薄暮(はくぼ)より、こぞり、あつまりて、これを、みる。

 又、あるときは、婢女(しも《をんな》)どもの寢ゐたるを、おびやかし、中にも、「常《つね》」とかやいふ女の、糸よる車、人もひかざるに、めぐり、寢(ね)ゐたるをも、西枕をば、東にし、南を、北になす。

 此女、おそろしき事に思ひ、巫(ねぎ)・祝(はふり)・山伏・僧などに、いのらせ、札《ふだ》をおせども、しるしも、なし。

 此あるじは、元來(《もと》より)、物に動ぜざる氣象(きしやう)なりしかば、かゝる怪異を、もののかず共《とも》せず、しらぬ顏にて打過(《うち》すぐ)すに、ゆくさきにて、此事をとはれ、かへつて、快(こゝろよから)ず思ひ、

『いかにもして、正躰(しやうたい)を見あらはさん。』

と、心にかけて思ひけるに、ある日、庭に出《いで》て、屋《や》の上を見れば、いく年ふるともしれざる猫の、すさまじきが、件《くだん》の下女がもてる赤き手拭をかぶり、尾と、あとあしにて、たち、目《ま》かげをさして、四方(よも)を見ゐたり。

 

Nekomata

 

 あるじ、

『幸《さひはひ》。』

と、よろこび、半弓(はんきう)に、矢をつがひて、はなちけるに、あやまたず、猫にあたり、二まろび、三まろびして、起(おき)あがり、此矢を、寸々に、かみ折りて、死しぬ。

 引《ひき》おろして見れば、尾、ふたまたありて、頭(かしら)より尾まで、五尺ばかり有《あり》けり。

 其後、火も見えず、不思議もなかりしとかや。

 其主(あるじ)の名も聞《きき》しかど、わすれ侍り。「思出草」

[やぶちゃん注:原拠とする「思出草」は不詳。同名の江戸時代の随筆は複数あるが、孰れも内容の確認が出来ない。「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の解題でも、『該当する資料名が不明なもの』の第一番に挙げられている。

「目かげをさして」小学館「日本国語大辞典」「まかげ」があり、「目陰」で『①遠方を見るとき、光線をさえぎるために、額(ひたい)に手をかざすこと。』とあり、例文は「源平盛衰記」、次に『② (「いたち(鼬)の目陰」という表現から)疑わしく思うような目つきをすること。』として、例文を「源氏物語」の「東屋」の帖から引いている(他に『③ 目のとどかないところ。すき。油断。』を挙げてあるが、この用法例は浮世草子であるから、江戸以降)から、この②の意でよいだろう。

「半弓」常の弓より短い長さの弓。射出力が落ち、射程も短いが、機動性に富み、接近した対象や室内などで効力を発し、座位でも射ることが出来る軽便性が大きな特徴である。]

大和怪異記 卷之三 第四 ふし木の中の子規の事

 

[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の本文部分は、ここ(単独画像)。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。なお、底本のルビは歴史的仮名遣の誤りが激しく、ママ注記を入れると、連続してワサワサになるため、歴史的仮名遣を誤ったものの一部では、( )で入れずに、私が正しい歴史的仮名遣で《 》で入れた部分も含まれてくることをお断りしておく。]

 

 第四 ふし木の中の子規(ほとゝぎす)の事

 信州高遠《たかとほ》の人、僕(ぼく)に薪《たきぎ》をきらせけるに、ふし木の中より、ほとゝぎすの死したるを見出しぬ。其時は、冬のことなり。箱にいれ置《おき》、其後は、ふつと、わすれぬ。

 かくて、翌年のやよひすえつかた、かの箱を、あえみるに、件《くだん》のほとゝぎす、羽《は》だゝきして、飛《とび》さりし、となん。

 此鳥は、秋より後の、春までは、くち木の中に、かくれいるにや。されば古哥(こか)に、

 奧山のくち木の中の時鳥なつを待てや音(ね)には鳴(なく)らん

是を思ふに、世に、「冥途の鳥」といふ說も、よみがへりて來る故にや侍りけん。

[やぶちゃん注:前話同様、「犬著聞集」原拠。これは、幸いにして、後代の再編集版である神谷養勇軒編の「新著聞集」に所収する。「第九 崇厲篇」(「すうれい」と読む。「あがむべき貴い対象を疎かにした結果として起こる災い」の意)の掉尾にある「女人高野(こうや)山に詣(まふ)て害(かい)せらる」である。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の寛延二(一七四九)年刊の後刷版をリンクさせておく。ここ、と、ここ(単独画像)。本書の作者がだいたい忠実に引用しているのであろう様子が窺える。

「信州高遠」長野県伊那市高遠(グーグル・マップ・データ。但し、指示されたそこは高遠町西高遠)附近。桜の名所として知られる。私は行ったことがないが、私がただ一編、読んで気に入った井上靖の小説「化石」で記憶に刻まれている。

「ふし木」上記「新著聞集」では「節木」とある。これは「ふしき」或いは「ふしぎ」と読み、 節に穴があり、中が空洞になっている木のことを指し、「臥木」とも書く。

「奧山のくち木の中の時鳥なつを待てや音(ね)には鳴(なく)らん」大久保順子氏の論文「説話にみる文事の志向―――『古今犬著聞集』序文と考証的説話――」(福岡女子大学国際文理学部紀要『文藝と思想』第八十六号所収・二〇二二年二月発行。「福岡女子大学機関リポジトリ」のこちらからPDFでダウン・ロード出来る)の本文で、本和歌の出典は未詳とされつつ、末尾の注(28)で、『「ほととぎす」の古歌のうち「こかくれていまそきくなるほとときすなきひひかしてこゑまさるらむ」(赤人集、二二六)、「年をへてみ山かくれの郭公きく人もなきねをのみそなく」(実方、拾遺集一〇七三)等の「音を鳴く」時鳥の「深山かくれ」「木かくれ」や、「朽木」の古歌「かたちこそみ山かくれのくち木なれ心は花になさはなりなむ」(古今集、巻十七:雑上八七五)等の、「朽木」―「奥山」「深山かくれ」―「ほととぎす」の連想の親和性によるか。』と注されておられる。

「冥途の鳥」BON氏のブログ「BON's diary」の「【真読】 №112「冥途の鳥」 巻四〈送終部〉(『和漢真俗仏事編』web読書会)」を読むに、元は仏典の誤認・誤解のレベルのものであることが判る。]

《芥川龍之介未電子化掌品抄》(ブログ版) 思ふままに

 

[やぶちゃん注:芥川龍之介満三十一歳の大正一二(一九二三)年六月八日発行『時事新報』夕刊に「思ふままに 三」の題で、「淺香三四郞」の書名で掲載された。単行本には未所収。なお、先行する同年六月五日発行の同誌(夕刊)に、同題同署名で、「思ふままに 一」として「放屁」が、六月六日発行のそれに『「女と影」讀後』が掲載されている。「放屁」は私のサイト版があり、「放屁」と「「女と影」讀後』は後の作品集(随筆)『百艸』(大正一三(一九二四)年九月新潮社刊)に「續野人生計事」に「一」「二」として収録されているので、国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像で二篇続けて視認出来る。但し、『百艸』では「「女と影」讀後』は「女と影」に改題されている。その「女と影」はここから。

 底本は岩波書店の旧「芥川龍之介全集 第六巻」(一九七八年一月刊)に拠った。一部、段落末に注を入れた。

 本篇は倉田百三(龍之介より一歳年上)に対する批評であるが、相当に辛辣である。嘗つて芥川龍之介は書簡で倉田の戯曲「出家とその弟子」(大正五(一九一六)年に同人誌『生命の川』で連載され、翌年に岩波書店から出版された)を高く評価していたことを考えると、その大きな豹変が興味深い。なお、個人的には「出家とその弟子」は、二十歳の頃に必要があって精読し、評論を同人誌に書いたことがあるが、その内容は親鸞(私は日本の「思想家」として彼を非常に高く評価している)の思想を、致命的に、はき違えた感が随所にあることで、大いに不満があり、また、戯曲としては台詞その他に於いて、技術的に問題が多過ぎる失敗作だと考えている。]

 

 思ふままに

 

 最も水に憧れるものは水囊に水を貯へない駱駝背上の旅客である。最も正義に憧れるものは社會に正義を發見しない資本主義治下の革命家である。このやうに我々人間の最も熱心に求めるものは最も我々に不足したものである。此處までは誰も疑ふものはあるまい。

 しかしこれを眞理だとすれば、最も足に憧れるものは足を切斷した廢兵である。最も愛に憧れるものは愛を失つた戀人である。最も眞面目さに憧れるものは――予は論理に從はざるを得ない。眞面目さに憧れる小說家、眞面目さに憧れる評論家、眞面目さに憧れる戲曲家等は悉く彼等自身の心に眞面目さを缺いてゐる俗漢である。彼等は元來他人のことを不眞面目だなどと云はれた義理ではない。況や喜劇的精神の持ち主に兎角の非難を加へるのは上を極めた暴行である。

 又歷史の敎へるところによれば古來眞面目なる藝術家は少しも眞面目さを振りかざさない。彼等の作品には多少によらず、抑へ切れない笑ひが漂つてゐる。辛辣の名の高いイブセンさへ、眞面目さを看板に苦りきる程、人間離れのした怪物ではない。「ピイア・ギユント」は少時問はず、「鴨」の中から迸しるものは神鳴のやうな笑ひ聲である。「鰐」や「叔父の夢」のドストエフスキイも常談を好むことは人後に落ちない。御亭主と接吻をする間さへ、着物の皺になるのを心配するのはトルストイの描いた女である。義眼の片眼に人生を見ながら、道德を說いてやまないものはストリントベルグの描いた男である。

[やぶちゃん注:「ピイア・ギユント」( Peer Gynt )「ペール・ギュント」。ノルウェーの劇作家ヘンリック・イプセンが一八六七年に作った戯曲(劇詩)。

「少時」「しばらく」。

「鴨」イプセンが一八八四年に発表した悲劇「野鴨」( Vildanden )。

「鰐」(わに: Крокодил )一八六五年発表のドタバタ喜劇的小説。但し、未完。

「叔父の夢」同じくドタバタ喜劇的な中編小説「伯父さまの夢」( Дядюшкин сон )。一八五九年発表。これはシベリヤ流刑後に「ドストエフスキー」の名前で発表された最初の作品で、発表は彼がロシア内地へ帰ることを許される五ヶ月前に当たる。]

 所謂眞面目なる小說家、評論家、戲曲家等に眞面目さの訣けてゐることは論理の證するところにより疑ふ餘地のない事實である。尤もかう云ふ結論だけは誰も氣づかずにゐる譯ではない。實は大抵暗暗の裡にかんづいてゐることはゐるのである。

 たとへば武者小路實篤氏は眞面目なる藝術家の一人である、これは誰一人疑ふものはあるまい、しかし思想のみならず、文藝さへ武者小路氏に酷似した倉田百三氏の場合になると、疑ひなきを得ないものも多さうである。武者小路氏と倉田氏と、どちらが手腕があるかは問はないでも好い、唯眞面目さを問題とすれば、兩氏とも大抵同一に認められさうなものである。それが不思議にもさうならないのは、何か武者小路氏と倉田氏との間に異なつたものがなければならない、では何處が異るかと云へば武者小路氏の眞面目さの中には愛すべきヒュウモアの閃きがある、一休和尙や曾呂利新左衞門は今更說明する必要もあるまい、大蛇を退治した素盞嗚の尊は踊りにさへ加はる雅量を持つてゐる、地球を創造した神樣も滑稽天使を呼ぶ時には「コツケイ!」と叫ぶことを憚らない。しかし倉田氏の親鸞上人は悲しさうな顏を片づけてゐる、いや、親鸞上人に限つたことではない。俊寬は平家を呪つてゐる、布施太子は悄然と入山してゐる、父は――まだ讀んだことはない、しかし廣告に偏りがなければ、兎に角父も心配してゐる。

[やぶちゃん注:「一休和尙」武者小路実篤の戯曲「或日の一休」(『白樺』掲載時は「或日の一休和尚」。大正二(一九一三)年発表)を指す。

「曾呂利新左衞門」同じく武者小路の戯曲「秀吉と曾呂利」(大正一一(一九二二)年発表)。

「素盞嗚の尊」同じく武者小路の戯曲「一日の素盞嗚尊」(いちにちのすさのをのみこと:大正九(一九二〇)年発表)。

『地球を創造した神樣も滑稽天使を呼ぶ時には「コツケイ!」と叫ぶことを憚らない』同じく武者小路の戯曲「人間万歳」。大正一一(一九二二)年九月の『中央公論』に初出で、大正十四年三月に帝劇で「文芸座」によって初演された。

「俊寬は平家を呪つてゐる」倉田百三の戯曲「俊寛」を指す。

「布施太子は悄然と入山してゐる」倉田の戯曲。大正九(一九二〇)年発表。大正一四(一九二五)年、帝国劇場で上演。主人公は若きブッダを思わせる人物。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで翌年の刊本で読める。

「父」倉田の戯曲「父の心配」。大正一一(一九二二)年岩波書店刊。]

 武者小路氏は「常に」眞面目ではない。倉田氏は「常に」眞面目である。常に眞面目に構へてゐるのは生死さへ多少疑はしい。山椒の魚は常に眞面目である。サンドウイツチ・マンも常に眞面目である。埃及の王樣の木乃伊などは就中常に眞面目である。倉田氏の眞面目さを疑はれるのは當然のことと云はざるを得ない。

 人間はパスカルの言葉によればものを考へる蘆である。蘆はものを考へないかどうか――それは予には斷言出來ない。しかし蘆は人間のやうに笑はないことだけは確かである。予は笑ひ顏の見えないところには、獨り眞面目さのみならず、人間性の存在をも想像出來ない。眞面目さに憧れる小說家、評論家、戲曲家等に敬意を持たないのは當り前である。

大和怪異記 卷之三 第三 高野山に女人のぼりて天狗につかまるゝ事

 

[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の本文部分は、ここ(単独画像)。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。なお、底本のルビは歴史的仮名遣の誤りが激しく、ママ注記を入れると、連続してワサワサになるため、歴史的仮名遣を誤ったものの一部では、( )で入れずに、私が正しい歴史的仮名遣で《 》で入れた部分も含まれてくることをお断りしておく。]

 

 第三 高野山に女人のぼりて天狗につかまるゝ事

 寬文六年五月廿日、越前の国より、女順礼(《をんな》じゆんれい)、高㙒山にのぼるを、道掃除(《みちさう》ぢ)の者の、

「爰《ここ》は女人の來る所にあらず。とく、とく、かへれ。」

と、追(おひ)おろせども、立《たち》かへること、三度に及しが、夜《よ》に入《いり》て、終《つひ》に登山(とう《ざん》)しけるにや、谷二つ、へだてたる、むかひの松のえだにかけ置《おき》しを、朝に見出して、おろし、葬(ほうふ)りしに、二度、三度、おなじ所にかけたりしを、法性院《ほつしやうゐん》、きゝつけ、とふらはれしより、さはりなく成《なり》にけり。

 此とき、山は、大雨大風(たいう《たい》ふう)おびたゞしく、道も、そこね侍りし。世にいふ、「天狗の所爲《しよゐ》」なるべし。

[やぶちゃん注:前話同様、「犬著聞集」原拠。これは、幸いにして、後代の再編集版である神谷養勇軒編の「新著聞集」に所収する。「第九 崇厲篇」(「すうれい」と読む。「あがむべき貴い対象を疎かにした結果として起こる災い」の意)の掉尾にある「女人高野(こうや)山に詣(まふ)て害(かい)せらる」である。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の寛延二(一七四九)年刊の後刷版をリンクさせておく。ここと、ここ(単独画像)(第九巻の掉尾)。本書の作者がだいたい忠実に引用しているのであろう様子が窺える。

「寬文六年五月廿日」家綱の治世。一六六六年六月二十二日。

「法性院」和歌山県高野町にある高野山真言宗の大本山「寳壽院」の前身の一つの旧寺名。本尊は大日如来。藤原師輔の子深覚を開山とし、永く「無量寿院」と呼ばれていたが、大正二(一九一三)年に「宝性院」と合併して「宝寿院」となった。「宝性院」は法性覚円房を開山とし、初め、「法性院」と称していたが,中世に「宝性院」と改名したらしい。両院とも学問寺として有名であった(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。ここ(グーグル・マップ・データ)。女人結界の外にある。]

大和怪異記 卷之三 第二 古石塔たゝりをなす事

 

[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の本文部分は、ここ(単独画像)。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。なお、底本のルビは歴史的仮名遣の誤りが激しく、ママ注記を入れると、連続してワサワサになるため、歴史的仮名遣を誤ったものの一部では、( )で入れずに、私が正しい歴史的仮名遣で《 》で入れた部分も含まれてくることをお断りしておく。]

 

 第二 古石塔(ふるせき《たう》)たゝりをなす事

 延寶年中、奧州二本松の藥硏屋久心(やげん《や》きうしん)といふ者、庭を作(つくる)とて、正念寺(《しやう》ねんじ)の山に、ふるき石塔の苔(こけ)生《おひ》たるありしを、取《とり》よせ、たてけるより、おそろしき夢をみる事、度《たび》かさなりし。

 あるとき、昼、いねたりし夢に、二八ばかりなる女の、枕もとにたちつゝ、ことの外、いかれるけしきにて、

「いかなれば、我《われ》、ひさしく住《すみ》なれし所を引はなち、これへ、つれ來《きた》るぞや。此うらみ、すくなからず。」

と、にらみしまなこ、おそろしく、むねうち、さはぎしに、かたはらの人、おこして、やうやう目をさまし、

「かく。」

と、かたりければ、老たる者、いひけるは、

「『八十年程前に、此所に畠山重次(はたけ《やま》しげつぐ)と聞えし人、あり。其女子(むすめ)、十七、八にて身まかりしを、葬(ほうふ)りし、塚なり。』と、我《わが》親、かたりしなり。はやく、其石塔を、もとの所に、かへし、たてよ。」

と、をしヘしかば、かく、たてゝのち、夢みる事、なかりしとかや。「犬著聞」

[やぶちゃん注:典拠の「同」は前話と同じ「犬著聞集」を指す。本書は既に先行するこちらで注済み。本書の最大のネタ元。「犬著聞集」自体は所持せず、ネット上にもない。また、前話の最後で示した同書の後代の再編集版である神谷養勇軒編の「新著聞集」にも採られていない。

「延寶年中」一六七三年から一六八一年まで。徳川家綱・綱吉の治世。 

「奧州二本松」二本松藩。現在の福島県二本松市(グーグル・マップ・データ)。

「藥硏屋久心」不詳。

「正念寺の山」同音の称念寺ならば二本松城跡の直下にある。文治元(一一八五)年に法相宗の尊道和尚により、塩沢の道場が原で開山された。二本松は戦国時代まで畠山氏の所領であったものを、天正一四(一五八六年)に伊達政宗が畠山氏を滅ぼして伊達領となり、寺は信夫郡大森(現在の福島市大森)に移ったが、二本松藩丹羽家初代藩主丹羽光重による町割りの完成後の延宝三(一六七五)年頃に現在地に移築・再興された。二本松城址の畠山氏の菩提寺であり、奥州探題畠山家累代墓所であった(「二本松市観光連盟」公式サイトのこちら、及び、以下リンク先のサイド・パネルの解説版に拠った)。以下の叙述から、ここで間違いないであろう。グーグル・マップ・データ航空写真を見ると、称念寺の東西と北後背は山である(奥州探題畠山家墓所は東方にある)。

「二八」十六歳。

「畠山重次」「八十年程前」という老人の、その親が語ったという叙述があるから、一・五倍掛は必要であろう。すると、約百二十年前で西暦一五五三年から一五六〇年の前後となる。旧畠山家で伊達政宗に攻められ、遺体を惨たらしく扱わられたとされる当該ウィキ参照二本松城主二本松(畠山)義(天文二一(一五五二)年~天正一三(一五八五)年)が音では近い。]

2022/11/18

大和怪異記 卷之三 目録・第一 人面瘡事

 

[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の本文部分は、ここ(単独画像)。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。なお、底本のルビは歴史的仮名遣の誤りが激しく、ママ注記を入れると、連続してワサワサになるため、歴史的仮名遣を誤ったものの一部では、( )で入れずに、私が正しい歴史的仮名遣で《 》で入れた部分も含まれてくることをお断りしておく。本篇では、会話記号を「 」にするため、全体の額縁である語りの始まりを「……」で始めた。

 目録部(ここと次のコマ)は総ての読みを振った。歴史的仮名遣の誤りはママ。「十一」は底本では半角。

 本篇には挿絵があるが、これは「近世民間異聞怪談集成」にあるものが、状態が非常によいので、読み取ってトリミング補正し、冒頭に挿入した。因みに、平面的に撮影されたパブリック・ドメインの画像には著作権は発生しないというのが、文化庁の公式見解である。]

 

やまと怪異記三

  近世(きんせ)

一 人面瘡(にんめんさう)の事

二 古石塔(こせきとう)たゝりをなす事

三 高野山(かうやさん)に女人のぼりて天狗につかまるゝ事

四 ふし木の中の子規(ほとゝぎす)の事

五 ねこ人をなやます事

六 不孝(ふかう)の女(をんな)天罸(てんばつ)をかうふる事

七 紀州(きしう)眞名古村(まなごむら)に今も蛇身(じいやしん)ある事

八 殺生(せつしやう)して我子にむくふ事

九 人(ひと)の背(せ)より虱(しらみ)出(いづ)る事

十 出雲國(いづものくに)松江村(まつゑむら)穴子(あなご)の事

十一 龍(りやう)屋敷よりあがる事

 

 

 やまと怪異記三

   近世(きんせ)

 第一 人面瘡(にんめんさう《の》)事

 今はむかし、幸若八郞(かうわか《はちらう》、かたりけるは、

 

Jinmenso

 

[やぶちゃん注:底本の画像はここ。正直、人面瘡をバーンと描いて欲しかったな。]

 

……みやこにのぼるとて、木曾路を行《ゆき》けるに、所はわすれぬ、ある山かげにて、手をつかね、腰をかゞめて、よれるものあり。其さま、ひなびたれ共、さすが、下部(しもべ)とも見えぬが、馬の口によりて、いへるは、

「我、たのゝたる者[やぶちゃん注:ママ。「たのみたる者」で主人の意か。]、ひさしく治しがたき病(やま《ひ》)れば、祿を辞して、是成《これなる》森の内に引《ひき》こみ、二十(はた)とせの春秋をおくるに、次㐧《しだい》に、身、をとろえ[やぶちゃん注:「衰(おとろ)へ」。]、心、つかれて、此世に久しからじと、みゆ。されば、君の爰《ここ》もとを、のぼりたまふふこと、さきだつてきゝ、

『此世の思ひ出に、逢《あひ》たてまつりたき。』

と、ねがひ、今日、かくと、久しく、待《まち》侍りぬ。いざ、させ給へ。道しるべ、せん。

と、いへば、

『遠近(《をち》こち)のたつきもしらぬ山中《さんちゆう》。』

とは思へ共、

『煩へる人の、「我《わが》一ふし」と、ねがふに、いかで、「いな」とは、いふべき。若(もし)のあやしき事も、定まれる事なり。』

と、おもひ、此者と、うちつれゆくに、道より十町[やぶちゃん注:約一キロ九十一メートル。]ばかりすぎて、山かげの松・杉、木(こ)だち、物さびたる森のうちに行《ゆき》つきぬ。

 家づくりは、草ぶきにして、槇(まき)の戶たてたる内ながら、さすが、よしあるすみかにて、客人(まろうと)の迎(むかへ)、はかまきたる者、二、三人出《いで、》色代(しきだい)[やぶちゃん注:挨拶。会釈。]し、うちつれ通るに、亭には、弓・鑓、あまた、かけをき、二間、三間[やぶちゃん注:二百十八~三百二十七メートル。]、過行(すぎゆく)に、『左《さ》も』とおぼえし[やぶちゃん注:「如何にもそれらしい」と感じられる。]老たる、若き、詰居(つめゐ)て、其外、人、多し。

 案内するにまかせて、通りたれば、奧ふかく、作れる家、有《あり》て、庭の木だち、物ふり、よし有《あり》げなる風情(ふぜい)なり。

 しばし有《あり》て、一間(《ひと》ま)なる障子をあけ、

「是へ。」

と、いふをみれば、あるじとおぼしくて、五十ばかりの、色靑ざめたるおとこ[やぶちゃん注:ママ。]、かみ、長く、ひげがちなるが、夜着(よぎ)、引《ひき》まはし、火燵(こたつ)に、よりかゝりながら、いふやう、

「足下(そこ)に、のぼり給ふことを傳え聞《きく》。見たまふごとく、病(やみ)おとろえて、世にあらん事も、此年ばかりとおもへば、『聞及《ききおよび》たる一ふしを聞《きき》、此《この》よの思ひ出(で)にし侍らん。』と、あからさまにおとづれしに、來り給ふ事の、うれしさよ。」

「世上に何事か候。かたり給へ。」

「さらば、先(まづ)、來(こし)かたを、語侍《かたりはべ》らん。我は、もと、武士にて、主君にも、いやしからずつかえ、ゆたかにくらし侍りしが、二十歲(はたち)ばかりの比《ころ》、さだまれる妻(め)とてはなく、妾(《を》んなめ)を置(おき)て愛(あい)せしに、此もの、嫉妬の心、ふかく、かりそめにも、甚だしく、いかり、恨(うらみ)ける。有《ある》とき、我、いたはる事ありて、打《うち》ふしける枕によりゐて、又、例のごとく、うらみけるを、あまりに、腹(はら)に、すへ[やぶちゃん注:ママ。]かねつゝ、扇を取《とり》て、二つ、三つ、うちければ、

『こは。情なき御事や。とてもの事に、殺し給へ。』

と、たもとにすがり、なきさけべば、

『ころすにかたき事か。』

とて、匕首(わきざし)をぬいて、あえなく、首を、うち落せば、此くび、むかふに、ころびゆき、我《わが》かたに、むかひ、生(いけ)るときの顏色(がんしよく)のごとく、「につこ」

と、わらひぬ。扨《さて》、有《ある》べき程のさたして、㙒邊(のべ)におくり、葬(《は》うふ)る。其夜よりして、身、ほとほりて[やぶちゃん注:熱を持ってきて。]、股に、一つの腫物(しゆもつ)、出來(いでき)、見るが内に、大きになり、ころせし女の顏に、露、たがはず。髮を乱し、かねぐろに笑へるさま、すさまじといふも餘(あまり)あり。是なん、世にいふ、「人面瘡」なるべし。けづりすつれど、其日のうちに、又、出來て、少しも、かはらぬ、てい、なり。祈禱・醫療、さまざまにつくせども、其《その》甲斐、なし。今は、すべきやうなく、次第に、心氣《しんき》つかれて、つとめも、かなはず。つかえを、かへし、此所《ここ》に引《ひき》こみ、二十年(はたとせ)餘になり侍り。『此世だに、かくあれば、來世も、さぞ。』と、思はれぬ。生涯の思ひ出に、足下(そこ)の一ふしを聞《きき》て、往生の期(ご)をまたんと思ひ侍る。」

と、かたりて、淚にむせべり。

 我、

「やすきこと。」

と、いらえて、夜とともに、望《のぞみ》にまかせて、舞《まひ》ぬ。

 かくて後、病人、いへるは、

「此歲月《としつき》の憂(うき)おもひ、今宵(こよひ)ばかりぞ浮雲(うきぐも)の、風に消(きえ)たる心地し侍り。さらば、こなたに。」

と人をのけ、

「是、見たまへ。」

とて、衣(きぬ)、引《ひき》のけ、見すれば、此《この》面(おもて)、打《うち》わらひて、みゆ。

『扨《さて》も希有(けう)のことかな。』

と、すさまじく思へり。

 さて、いとまをこひければ、

「此後までの記念。」

とて、からの香箱(かうばこ)・同《おなじき》硯(すゞり)をあたへ、なみだながらに、わかれぬ。

 其夜、弓もたせ、鎗つかせ、侍僕(じぼく)十人ばかりにて、おくりかへされたり。

 其のち、

『かならず、尋《たづね》ん。』

と思ひしに、くだりには、東海道を通り、其後、のぼらねば、今は、一木(ひとき)のしるしとこそ、成《なり》つらめ。」

と、淚をながし語り侍る。「怪㚑雜記」

[やぶちゃん注:最後の典拠であるが、「近世民間異聞怪談集成」の本文・解題では、『怪異雑記』とするのであるが、原本のここ(クリックして拡大されたい)の、この書名の二字目は確かに「異」の異体字「异」の「グリフウィキ」のこの字によく似てはいるのだが、逆に「㚑」の崩しにも酷似しているのである。而して、以下の資料では、これを「靈」と採っている。それは、高い確率で本篇を読んだものと推定される田中貢太郎の怪奇小説「人面瘡物語」(以下の引用は所持する国書刊行会の一九九五年刊の改造社再編集版の「日本怪談大全」所収を底本とした。「青空文庫」のこちらでは別底本(桃源社本)で読める)の冒頭で、

   *

 谷崎潤一郎氏に人面疽(じんめんそ)のことを書いた物語がある。其の原稿はある機会から私の手に入って今に保存されているが、何(な)んでも活動写真の映画にあらわれた女のことに就(つ)いて叙述したもので、文学的にはさして意味のあるものでもないが、材料が頗(すこぶ)る珍奇であるから、これは何か粉本(ふんぽん)があるだろうと思って、それとなく注意しているうち、諸国物語を書くことになって種々の随筆をあさっていると、忽(たちま)ちそれと思われる記録に行き当った。それは怪霊雑記[やぶちゃん注:「霊」となっていることに注目。](かいれいざつき)にある話で、幸若舞(こうわかまい)の家元になった幸若八郎と云うのが、京都へ登って往く途中、木曾路(きそじ)で出会った出来事であった。

   *

である(因みに、谷崎の「人面疽」恐ろしくつまらない怪奇小説で、読んで時間を損したと思ったほどに下等なレベルの怪談である)。而して、この谷崎の「人面疽」を論じた金井公平氏の論文「西洋と日本の怪奇小説 ――人面疽をめぐる短篇小説、谷崎潤一郎の「人面疽」を中心に――」(『明治大学人文科学研究所紀要』第四十八冊所収。二〇〇一年三月発行。PDF直リンク)で、田中の「人面瘡物語」を挙げた上で(コンマは読点に代えた)、『粉本としての『怪霊雑記』を私は現在探しているが、残念ながらいまだ見つからないままである』と言及しておられる。まあ、金井氏は田中の小説の前振りの「怪霊雑記」をそのまま正直に採用されておられ、論旨も本原話を探す方向のものではないから、強力な傍証とはならないのであるが、では、或いは、「近世民間異聞怪談集成」の「怪異雑記」が正しのかと思って調べても、「大和怪異記」以前の怪奇談集には、そんな書名の物はないのである。と言うより、「近世民間異聞怪談集成」の解題で土屋氏自身が、本書を『該当する資料名が不明なもの』の一つに入れておられるのである。作者の典拠表示の律義さを好意的に受けとめるならば、今は散佚した写本の怪談集であるのかも知れない。悪意で考えるなら、作者のフェイクで、これは本「大和怪異記」の作者のデッチ上げた創作でないとも言い切れないのである。としても、私は、本篇、なかなかに出来の良い作品だと思っている。なお、老婆心乍ら、金井氏の言っておられる通りで、谷崎の「人面疽」の粉本・原拠は絶対に本篇ではない。これほども谷崎のそれは面白くも糞くもないものであることを、再度、ブチ挙げておく。なお、「人面疽」は例えば、私の「柴田宵曲 妖異博物館 適藥」、或いは、金井氏も挙げておられる「伽婢子卷之九 人面瘡」を見られたい。

「幸若八郞」「幸若舞」の創始者と伝えられる桃井幸若丸(もものいこうわかまる 生没年未詳)か、その直系伝授を受けた人物であろう。桃井幸若丸は越前の人で、南北朝時代の武将桃井直常の孫とも言われ、名は直詮(なおあき)で、「幸若丸」は元の幼名。室町前期、比叡山の稚児であった折に、平曲や声明(しょうみょう)などを取り入れて「幸若舞」を始めたとされるが、幸若舞の始祖としての桃井直詮説には疑問が多い。

「さすが、下部とも見えぬが」「どうみても、下級の下男のレベルではなく、相応の上級の用人ように見受けられる人物が」。]

大和怪異記 卷之二 第十 芦名盛隆卒前に怪異ある事 / 卷之二~了

 

[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の分は、ここ(単独画像)。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。なお、底本のルビは歴史的仮名遣の誤りが激しく、ママ注記を入れると、連続してワサワサになるため、歴史的仮名遣を誤ったものの一部では、( )で入れずに、私が正しい歴史的仮名遣で《 》で入れた部分も含まれてくることをお断りしておく。

 なお、本篇を以って「大和怪異記 卷之二」は終わっている。]

 

 第十 芦名盛隆(もりたか)卒前(そつすまへ)に怪異ある事

 芦名盛氏の養子、三浦介(《み》うらの《すけ》)盛隆、家人(け《にん》)に弑(しい)せられし以前に、秘藏の鷂(たか)、鴨《かも》二つを、一寄《ひとよせ》に、とる。これを、

「希代(き《だい》)の逸物(いちもつ)なり。」

と、ほむるやからも、あり。

「いや、小《ちさ》きものゝ、大なるを、無理にしたがへたるは、よからぬ先表(ぜんひやう)にやあらん。」

など、口々に評(ひやうし)しけるが、程なく、盛隆、此鷂を、すえながら、家人、大庭三左衞門《おほばさんざゑもん》がために、切(きら)れし、となむ。

[やぶちゃん注:典拠の「同」は前話と同じ典拠とするの意で「会津四家合考」。国立国会図書館デジタルコレクションの「会津四家合考 南部根元記二」(大正四(一九一五)年国史研究会刊)のここで当該部を確認出来た。より詳しく、他の怪異も添えてあるので、以下に電子化する。一部に句読点・記号・読み(推定・歴史的仮名遣)を挿入した。踊り字「く」は正字化した。

   *

    盛隆生害(しやうがい)の事

國家の癈興に、至誠の先如(せんじよ)、歷然なれば、事の有無、愚(ぐ)が肯(うべなひ)て評すべきにあらず。只、俗說を取りて記し侍る。「盛隆生害の少し前の事なりし。」といふ。祕蔵の鷂(たか)、鴨二つを、一度に把(と)る。是を、「希代の逸物なり。」と、譽むる族(うから)もあり、又、「いや。小さき物の、大(おほき)なるを無理に從へたるは、世の中、能(よ)からぬ先表にもや、あらん。」など、口々に評したりけるが、程なく、盛隆、此鷂を居(す)ゑ乍(ながら)ら、生害なりし、といふ。又、盛氏、岩崎に御座したる時、鷹が、鴨を二つ、一度に取りたり。「希代の事。」と、鵜浦(ううら)入道[やぶちゃん注:会津蘆名氏四代(盛舜・盛氏・盛興・盛隆)の重臣であった鵜浦左衛門尉家の一人。]が方へ、盛氏自筆の消息ありしを見たり。是れ、若(も)し、盛興逝去の頃にてもや、ある。又、蒲生秀行[やぶちゃん注:安土桃山時代から江戸時代初期にかけての大名で陸奥会津藩主。]、逝去あるべき春、鹽川へ鷹野に出でられたるに、鷂が、鴨を、二つ一度に取りたり、といふ。

一、地下の雜談に、盛隆生害の前の事なるに、厩に立竝(たちなら)びたる馬の内にて、「何とすベき、何とすべき、」と、繰返し、物を、いふ。附き居たる馬取(うまとり)共、肝を潰(つぶ)して、急ぎ、厩別當(うあまやべつたう)に此由(このよし)を告ぐる。別當も「怪し。」とて、馳せ來り、「何の馬が、さ、いひたるぞ。」と、尋ぬる辭(ことば)の下(しも)より、側(そば)に立ちたる馬、「此馬が、さ、いひたる。」と、いひしとなり。

   *

後の馬が貴人の今はの際の折りに、人語を語る怪異は、後の「伽婢子卷之十三 馬人語をなす恠異」が人口に膾炙する。

「芦名盛隆」蘆名盛隆(永禄四(一五六一)年~天正十二年十月六日(一五八四年十一月八日)は安土桃山時代の武将で陸奥国の戦国大名。蘆名氏十八代当主。当該ウィキによれば、『須賀川二階堂氏』七『代当主』『二階堂盛義の長男として誕生。生母は伊達晴宗の娘である阿南姫。伊達晴宗は』以下の養父盛氏の祖父『蘆名盛高の外孫であるため、盛隆は蘆名盛高の玄孫に当たる』。永禄八(一五六五)年に父『盛義が蘆名盛氏に敗れて降伏した際、人質として会津の盛氏の許に送られた。ところが』、天正三(一五七五)年に蘆名氏十七代当主『蘆名盛興』(もりおき)『が継嗣を残さずに早世すると、盛興未亡人の彦姫』『と結婚したうえで、盛氏の養子となって』『当主とな』り、天正八(一五八〇)年の『盛氏の死去により』『実権を掌握した』とある。以下、諸業績はリンク先を見られたい。彼は、『黒川城内で寵臣であった大庭三左衛門に襲われて死亡した』。『享年』僅か二十四歳であった。死後も不幸が『重なり、蘆名家中は混迷した。この盛隆の早すぎる死が、蘆名氏滅亡を早めた原因といえる』とあり、さらに、「奥羽永慶軍記」では、『猛勇ではあったが、知恵や仁徳が無かったと伝えて』おり、「新編会津風土記」は、『大庭三左衛門が盛隆を襲った理由について、男色のもつれが原因としてい』て、「武功雑記」などにも、『男色絡みの逸話がいくつか残されている』とあった。

「芦名盛氏」前話の私の同人の注を参照されたい。

「三浦介」前話の私の盛氏の注で示した通り、蘆名氏は平氏姓の三浦氏の系統の一族であった。

「鷂」これはタカ類の中でも、タカ目タカ科ハイタカ属ハイタカ Accipiter nisus を指す。タカ目タカ科ハイタカ属オオタカ Accipiter gentilis とともに鷹狩に用いられた種である。]

大和怪異記 卷之二 第九 芦名盛氏は僧の再來なる事

 

[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の分は、ここと、ここ(単独画像。前者に挿絵有り)。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。

 挿絵があるが、これは「近世民間異聞怪談集成」にあるものが、状態が非常によいので、読み取ってトリミング補正し、冒頭に挿入した。因みに、平面的に撮影されたパブリック・ドメインの画像には著作権は発生しないというのが、文化庁の公式見解である。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。なお、底本のルビは歴史的仮名遣の誤りが激しく、ママ注記を入れると、連続してワサワサになるため、歴史的仮名遣を誤ったものの一部では、( )で入れずに、私が正しい歴史的仮名遣で《 》で入れた部分も含まれてくることをお断りしておく。]

 

     第九 芦名盛氏は僧の再來なる事

 

Asinamoriuji

 

 

 奧州伊達郡に、「菖蒲澤《しやうぶさは》の上人」とて、有驗(うけん)の僧ありけるが、芦名盛舜(《あしなもり》とし[やぶちゃん注:ママ。])の家老、松本・平田・佐瀨・富田《とみた》を、うらむる子細あつて、

「我(われ)、隔生(きやくせう[やぶちゃん注:ママ。])に會津の主(あるじ)とうまれ、四人の者どもを、したがへむ。」

と云《いひ》て、程なく、死す。

 此一念によつて、盛舜の子、盛氏と生(うま)る。

 其いはれは、其ころ、廻国の白拍子ありて、會津に來《きた》る。

 盛舜、これを寵愛す。

 ある夜(よ)の夢に、ひとりの僧、來りて、女にむかつて、

「汝が胎内を、からん。」

ことを、こふ。

 女、應諾(《わう》だく)して、夢、さめ、程なく姙(はらみ)す。

 月ごろ、たりて後、家臣富田に、此女を、あづけらる。

 富田も又、此女、はらみけるころ、一僧、來りて、

「我、かの女が胎(たい)をかつて[やぶちゃん注:ママ。]後、汝がもとに、託《たく》せむ。」

と云《いふ》と、夢(ゆめ)む。

 はたして、姙婦(にんふ)をあづかり、あやしみ思ふ所に、又、女、はらめるはじめの夢をかたるに、富田が夢と符節(ふせつ)を合《あはし》たるがごとし。

 誕生の後、

「二人ともに、同じ夢のよし。」

を盛舜に披露す。

 此男子、四、五歲の比より、異相、あつて、かしこく、會津四人の家老をはじめ、おのおの、恐怖する事、甚だし。

 元服ありて、盛氏と名乘《なのり》、隣国に武名をあらはせる、となり。「會津四家合考《あひづしけがふかう》」

[やぶちゃん注:典拠とする「会津四家合考」は天正八(ユリウス暦一五八〇)年から慶長六(グレゴリオ暦一六〇一年:江戸幕府開府の二年前)年までの岩代国会津に於ける葦名・伊達・蒲生・上杉の四家の出来事を会津松平家家臣向井新兵衛が記した武辺史書で寛文二(一六六二)年成立。幸いにして国立国会図書館デジタルコレクションの「会津四家合考 南部根元記二」(大正四(一九一五)年国史研究会刊)のここで当該部を確認出来た。但し、前後でしつこく「野人怪妄の雜談」「野人の妄談」と断っている。

「芦名盛氏」蘆名盛氏(大永元(一五二一)年~天正八(一五八〇)年)戦国武将。蘆名氏は平(たいら)姓(せい)三浦氏系統の一族で、南北朝期には、会津に勢力を廻らし、盛氏の代に全盛期を迎えた。金上盛興(盛貞とも)の娘を母として、盛舜の次男として会津に生まれた(長男の氏方は遊女腹(サイト「会津への夢街道 夢ドライブ」の「蘆名氏」のページに『側室 川野御前(白拍子)』とあった)であったからか、盛氏が誕生すると、黒川城を出され、富田義実の元で養育された。永禄四(一五六一)年二月に盛氏が長沼実国を攻めるために黒川を留守にした際、義実父子らに奉じられ、謀叛を企てたが、数日で鎮圧されて家臣と共に自害している。ここは当該ウィキに拠った)。天文一九(一五五〇)年、田村隆顕と戦うなど、安積郡への支配を強め、安達郡,・岩瀬郡方面にも進出、また、北進化する佐竹氏に対抗するため、白川小峯氏と戦い、さらに元亀二(一五七一)年には北条氏とも同盟し、佐竹氏と、連年、交戦した。天正六(一五七八)年頃までには、田村郡は守山まで、石川郡は、ほぼ全域を掌握した。越後方面では永禄七(一五六四)年に武田信玄と連携し、菅名庄に侵入、天正六年の「上杉御館(おたて)の乱」にも上杉景虎に味方して出兵した。室町幕府は「大名在国衆」の一人として蘆名氏を扱っている(永禄六年の「諸役人付」に拠る)。一度、隠退し、会津黒川城から大沼郡岩ケ崎城に移り、「止々斎」と号したが、その子盛興の死に伴い、再び政務に戻った。天正五年頃からは、佐竹氏と協調し、大連合して、伊達・田村勢力と対抗する構図を形成した。領国政策では、徳政令の発布や流通統制によって、領内支配を強化した(以上の主文は概ね朝日新聞出版「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

「奧州伊達郡」陸奥国及び岩代国で現在の福島県北部の伊達市(グーグル・マップ・データ)相当。

『「菖蒲澤の上人」とて、有驗(うけん)の僧ありけるが、芦名盛舜(とし)の家老、松本・平田・佐瀨・富田を、うらむる子細あつて』「菖蒲澤の上人」は不詳だが、「会津四家合考」ではちゃんと彼が怨んだ具体的な理由が書かれてある。一部に句読点・記号・読み(推定・歴史的仮名遣)を挿入した。踊り字「く」は正字化した。

   *

此先、一年、蘆名と伊達と確執(かくしふ)なる事あり。其時、伊達より和を乞はれけるに、「しやうぶ澤の上人」とて、其頃、有驗(うげん)の僧、伊達にあり、此僧を和睦の使(し)に、會津へ越(おこ)さる。時に四天の宿老共、一向、許容せねば、上人、手を失ひ、本意(ほい)なく歸りけるが、路(みち)すがら、四天の宿老共の振舞を由(よし)なく思ひ、「願はくは、我、隔生(きやくしやう)に、會津の主護(しゆご)と生れて、ねたかりし四天の宿老共を、怖れしめたき。」と、瞋恚(しんい)、熾盛(しせい)し、檜原峠より、會津の方を、見返り、見返り、觀念し、伊達に歸りて、程なく、死す。

   *

ここで「家老」とする「松本・平田・佐瀨・富田」は、一々、調べて注する気にならない。悪しからず。但し、この内の「富田」は前で注した庶長子の蘆名氏方が預けられ、氏方を唆して謀反を企てて滅ぼされた富田義実(とみたよしざね)であろう。彼は「菖蒲沢の上人」の祟りを最も強く受けた一人であったこと(という本話のニュアンス)だけは判る。思うに、この伝承は、先の引用先で「白拍子」(この頃の白拍子は既に芸能者であると同時に春を売る遊女でもあった。挿絵の女も被りものが、モロ白拍子というのは、逆にいかにも過ぎてちょっと違和感がある)のこの氏方の出生と、盛氏の果敢な性格とが混同されて形成されたもののように見える。

「隔生」「きやく(きゃく)」は「隔」の呉音。 仏語で「生(しょう)を隔てて、生まれかわること。」を意味する。

「盛舜(とし)」蘆名盛舜(もりきよ 延徳二(一四九〇)年~天文二(一五五三)年:享年六十四歳)戦国武将で蘆名氏第十五代当主。永正一八(一五二一)年に兄盛滋の跡を継ぎ、陸奥会津黒川城主となる。家臣の猪苗代氏らの反乱を鎮圧し、領国の支配を固めた。享禄元(一五二八)年、伊達稙宗(たねむね)を助けて、石巻城の葛西氏を攻めた(講談社「デジタル版日本人名大辞典+Plus」に拠った)。]

大和怪異記 卷之二 第八 石塔人にばけて子をうむ事

 

[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の分は、ここと、ここ(単独画像)。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。なお、底本のルビは歴史的仮名遣の誤りが激しく、ママ注記を入れると、連続してワサワサになるため、歴史的仮名遣を誤ったものの一部では、( )で入れずに、私が正しい歴史的仮名遣で《 》で入れた部分も含まれてくることをお断りしておく。]

 

 第八 石塔(せき《たふ》)人にばけて子をうむ事

 大内左京太夫義弘(おほうちさきやう《たいふ》よしひろ)、在京のとき、「玉屋《たまや》)」といへる糸屋(いと《や》)が娘に、ちぎり、歸国のとき、つれてくだりまほしけれ共《ども》、さはる事あれば、

「むかひに、人をのぼすべき。」

と云《いひ》かはし、とかくして、打過《うちすぎ》たりしを、女、おもひわづらひて、身まかりぬ。

 父母、かなしみにたへず、發心(ほつしん)しけり。

 かゝる所に、彼(かの)女、周防(す《はう》)の山口にいたり、義弘の許《もと》へ、「御あとをしたゐ[やぶちゃん注:ママ。]、くだりたる。」

由(よし)を云入(いひ《いれ》)しかば、義弘、

「女の身として、はるばるの旅泊を凌(しのぎ)、よくこそ、來りたれ。」

とて、妹背(いもせ)の契(ちぎり)、あさからざりし中に、ひとりの男子を、まうけたり。

 其子、三歲のときに、世をのがれし父母、修行の身となり、周防にくだり、かなたこなた、徘徊せしに、相《あひ》しれる人に、あひ、

「娘に、をくれし[やぶちゃん注:ママ。]歎(なげき)にたえず、かく、さま、かへ侍り。さすが、殿の御事を思ひにたえで、よそながらも、見たてまつらんと、くだりし。」

と、かたりて、なきければ、其人、手をうちて、

「不審なる事かな。足下(そこ)の息女は、こなたにくだり給ひ、若君、出來(いでき)、はや、三歲にならせ給へ。」

とて、殿に、

「かく。」

と、つげしかば、

「それ、めせ。」

とて、むかえ[やぶちゃん注:ママ。]とり、むすめに、

「汝が親ども、來《きた》れり。いで、あへ。」

と有《あり》しかば、一間(ひとま)なる所に入《いり》て、衣(きぬ)、引《ひき》かづき、ふしたりしを、行《ゆき》て見れば、五輪一基(いつき)、有《あり》て、女は、見えず。

 義弘も、大《おほき》におどろき、あはれに思ひ、いみじく、跡を、とふらはる。

 其男子、ひとゝなりて、「石丸」何がしと名づく。

 石丸氏の祖なり。

[やぶちゃん注:典拠の「同」は前話と同じ「犬著聞」を指す。正しくは「犬著聞集」。本書は既に前々話の冒頭で注済み。「犬著聞集」自体は所持せず、ネット上にもない。また、前話の最後で示した同書の後代の再編集版である神谷養勇軒編の「新著聞集」にも採られていない。

「大内左京太夫義弘」(延文元/正平一一(一三五六)年~応永六(一四〇〇)年)は南北朝末から室町前期の武将。弘世(ひろよ)の子。周防介・左京権大夫(さきょうごんだゆう)。周防・長門・豊前・和泉・紀伊の五ヶ国の守護。建徳二/応安四(一三七一)年、九州探題今川貞世(さだよ:了俊(りょうしゅん))に従い、転戦し、天授三/永和三(一三七七)年には懐良(かねよし)親王を奉ずる菊池武朝(たけとも)を大破した。元中六/康応元(一三八九)年三月の足利義満の厳島参詣に際し、防府にて迎え、義弘はこれに随行して二十七日から二十八日に上洛、以後、義弘は幕政の中枢に参加したため、在京が多くなる。元中八/明徳二(一三九一)年の「明徳の乱」では幕府方として反乱を起こした山名氏清らを破るなど、活躍し、その功により、山名氏の旧領国である和泉・紀伊の守護職を与えられている。また、南北朝合体斡旋に尽力した。さらに室町幕府と朝鮮との通交に仲介の労をとり、自らも朝鮮と交易して強盛を誇った。応永六(一三九九)年、義弘は、大内氏が百済の後裔であることを理由に、その縁故の土地を分けてくれるよう、朝鮮に要求していることは注目に値する。同年、義弘は鎌倉公方足利満兼や山名時清らと謀って「応永の乱」を起こしたが、地方での挙兵も鎮圧され、和泉堺に拠った義弘も幕府軍の攻囲を受け、十二月二十一日(ユリウス暦では一四〇〇年一月十七日)、敗死した。享年四十五。また、義弘は和歌・連歌に通じ、「新後拾遺和歌集」の作者に列している。死後、堺の義弘山(ぎこうさん)妙光寺に葬られたが、後に、彼が、生前、山口に建立した菩提寺である香積寺(こうしゃくじ:現在の瑠璃光寺)に移葬された(小学館「日本大百科全書」に拠ったが、一部で当該ウィキも参考にした)。「在京のとき」。元中六/康応元(一三八九)年三月末以降の初上洛を時制としてよいか。但し、史実上は、上記の通り、それ以降は在京が多くなるので、本話の内容とは上手くは噛み合わない。以下の「石丸」某の注に引いた内容からは、実は義弘の没年である応永六年の出生とする。

『「石丸」何がしと名づく。石丸氏の祖なり』不詳。但し、その末裔とする戦国末から江戸初期の石丸忠兵衛なる人物がおり、サイト「愛媛県生涯学習センター」の「石丸忠兵衛」のページによれば、石丸忠兵衛(天正一三(一五八五)年~万治元(一六五八)年)は現在の今治市の『越智朝倉下村に』『生まれる。その祖は大内義弘で、応永』六『年』、『一子石丸の来住と伝える。庄屋、開拓者。初め甚蔵、後に忠兵衛吉久と改める。寛永』六(一六二九)年から同九『年の間、松山藩庁の許可を得て同村野々瀬原を開拓し、同村天王堰から山鼻を開削して水田』十二『町余を得た。しかし同地が今治藩との係争地となり、両藩協議によって野々瀬は今治領の朝倉中村となり、朝倉中村の内字岡、榾を朝倉下村とした。忠兵衛は仕方なく同郡長沢~桜井間の湾入の低湿地に着目、藩許を得て寛永』一一(一六三四)年五月、『一族と共に移住し、干拓に着手、同』十七『年に田畑』十五『町』七『反余を得た。後に藩は彼の功を賞して忠兵衛作村を立村し、忠兵衛を庄屋とした』(但し、忠兵衛の死後百五年の後の明和二(一七六五)年に『松山藩が』一『万石上地の際に、同村』は『長沢・桜井』の『二村に分割されて消失し』てしまっている)。鋭敏『闊達で』、『胆力があり』、『忠厚』の人物であったと『伝える。墓所は朝倉村満願寺にある。雲晴院秘月道円居士。(『愛媛県史 人物』より)』とあった。]

大和怪異記 卷之二 第七 一條兼良公御元服のとき怪異ある事

 

[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の分はここから。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。なお、底本のルビは歴史的仮名遣の誤りが激しく、ママ注記を入れると、連続してワサワサになるため、歴史的仮名遣を誤ったものの一部では、( )で入れずに、私が正しい歴史的仮名遣で《 》で入れた部分も含まれてくることをお断りしておく。]

 

 第七 一條兼良(かねよし)公御元服(《ご》げんぶく)のとき怪異ある事

 一條兼良公、十二歲にならせ給ひ、御元服有《あり》しとき、虛空(こくう)に、ものゝ聲して、

 さるのかしらにゑぼしきせけり

と、きこえしかば、其まゝ、緣にはしり出《いだ》させ給ひて、

 元服はひつじの時のかたふきて

と、つけさせ給ひし、となり。

 此君の御かほ、猿に似たまへる故とぞ。

 おさなくわたらせ給ふときより、御才智、他にすぐれ、博識にして、あらはし給ふ書、おほし。「犬著聞」

[やぶちゃん注:原拠は「犬著聞集」が正しい。本書は既に前話の冒頭で注済み。「犬著聞集」自体は所持せず、ネット上にもない。また、前話の最後で示した同書の後代の再編集版である神谷養勇軒編の「新著聞集」にも採られていない。

「一條兼良(かねよし)公、十二歲にならせ給ひ、御元服有《あり》しとき」「一條兼良」(応永九(一四〇二)年~文明一三(一四八一)年)は室町前期から後期にかけての公卿で古典学者。名は「かねら」とも読む(私は一貫して「かねら」と読み慣わしてきた)。関白左大臣一条経嗣の六男で、一条家八代当主。最終官位は従一位で、摂政・関白・太政大臣・准三宮。但し、当該ウィキ(引用符内はこちらのもの)、及び、信頼出来るネット上の「一条兼良略年譜」PDF)でも、正長二(一四二九)年、二十八歳で『左大臣に任ぜられるが、実権は従兄弟の二条持基に握られて』おり、永享四(一四三二)年八月十三日には『摂政となったが』、『月余で』(後者によれば、十月二十七日)『辞退に追い込まれ、同時に左大臣も辞職を余儀なくされる』(後者によれば、摂政辞任の前の八月二十八日)。『その背景には』、『同年に実施された後花園天皇の元服を巡る』、『兼良と二条持基の対立があった』。嘗つて、『後小松天皇の元服の際に、摂政の二条良基が加冠役』を、『将軍の足利義満(左大臣)が理髪役を務めた。後花園天皇の元服を後小松天皇の先例に倣って実施しようとした際に、二条家の摂政が加冠役』、『足利将軍が左大臣として理髪役を務めるべきとする主張が出され、兼良は摂政を持基に、左大臣を足利義教に譲』らざるを得ない状況へ追い込まれのであった、とある。『その後は』政治的に『不遇をかこったが、学者としての名声は高ま』った。『将軍家の歌道などに参与し』、古典・有職故実・神道・和歌に通じていたため、周囲からも「日本無双の才人」と評され、自身も「菅原道真以上の学者」と豪語しただけあって、「公事根源」・「桃華蘂葉」・「樵談治要」・「文明一統記」・「花鳥余情」・「日本書紀纂疏」や、複数の「源氏物語」注釈書など、著書も多い。さて、当該ウィキによれば、応永一九(一四一二)年、『病弱であった兄の権大納言・経輔が隠居した後を受け、元服して家督を継ぐ』とあり、生年を見て貰うと、本篇の「十二歳」というのは、「十一歲」でないとおかしいことが判る。前掲「一条兼良略年譜」でも、『応永十九(一四一二)』の数え十一歳の十一月二十八日に『元服、禁色・昇殿を聴』(ゆる)『され、正五位下い叙せらる(補任』(「公卿補任」)『・一条家譜)』とあるので、誤りである。因みに、応永十九年十一月二十八日はユリウス暦でギリギリの一四一二年である(グレゴリオ暦換算では翌一四一三年一月九日となる)。

「さるのかしらにゑぼしきせけり」「元服はひつじの時のかたふきて」南方熊楠の知られた『十二支考』の内の「猴に関する民俗と伝説」の「一 概言(1)」(大正九(一九二〇)年一月発行『太陽』初出)のまさに冒頭の枕として本話を洒落て引き、

   *

 一条摂政兼良公の顔は猿によく似ておった。十三歳で元服する時、虚空に怪しき声して「猿のかしらに烏帽子(えぼし)きせけり」と聞こえると、公たちまち縁の方へ走り出でて「元服は未(ひつじ)の時の傾きて」と付けたそうだ。予が本誌へ書きかけた羊の話も、例の生活問題など騒々しさに打ち紛れて当世流行の怠業中、未の歳も傾いて申(さる)の年が迫るにつき、猴(さる)の話を書けと博文館からも読者からも勧めらるるまま今度は怠業の起らぬよう手短く読切りとして差し上ぐる。

   *

と述べている(所持する平凡社「南方熊楠選集」第二巻(一九八四年刊)に拠った)。未の刻は午後二時前後、申の頭(「かしら」)は午後三時である。怪しの響きが虚空から齎したいまわしい前句の意の即物性を、完璧に時刻へと転じて封じ込め、自らの元服の言祝ぎへとメタモルフォーゼさせた手腕は、凡そ現在の普通の中学一年生には無理であろう。作り話ながら、面白い。]

2022/11/17

大和怪異記 卷之二 第六 吉田兼好が墓をあばきてたゝり有事

 

[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の分はここ(単独画像ページ)。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。なお、底本のルビは歴史的仮名遣の誤りが激しく、ママ注記を入れると、連続してワサワサになるため、歴史的仮名遣を誤ったものの一部では、( )で入れずに、私が正しい歴史的仮名遣で《 》で入れた部分も含まれてくることをお断りしておく。]

 

 第六 吉田兼好(けんかう)が墓をあばきてたゝり有《ある》事

 兼好法師、高師直(かうのもろ《なほ》)にそむきて後、伊賀守橘成忠《たちばなのしげただ》を賴《たより》て、伊賀国にいたり、阿拜郡《あはいのこほり》多那尾村《たなをむら》国見山《くにみやま》の麓(ふもと)、田井といふ所に住居(すみゐ)す。

 此とき、成忠が女子(むすめ)、十七、八にて、容色すぐれたるありしに、兼好、密通し、他(た)にしられんことを恥(はぢ)て、

〽しのぶ山又ことかたの道もがなふりぬる跡は人もこそしれ

と、よめり。

 かくて、數年を經て、貞治元年五月廿三日、兼好、病死す。六十三歲なり。國見山に葬(はうふ)る。

 しるしに、松を植置(うえおき)しに、近きころ、土民とも[やぶちゃん注:ママ。]、塚をほりてみれば、六尺四方斗《ばかり》に、刀《かたな》を、

「ひし」

と、うゑ、其下に、大瓶・小瓶を置《おき》、其中に、鏡(かゝみ)、あり。

 不審に思ふに、殊の外に、たゝり有《あり》ければ、おそれて、もとのごとくに埋(うづみ)ぬ。

[やぶちゃん注:典拠が挙げられていないが、次話「第七 一條兼良公御元服のとき怪異ある事」が典拠とする「犬著聞集」(いぬちょもんじゅう) に係わるものであることが判った。「犬著聞集」(いぬちょもんじゅう:別名「古今犬著聞集」)は江戸初・中期の俳諧師椋梨一雪(むくなしいっせつ 寛永八(一六三一)年~宝永三(一七〇六)年から宝永五年頃か)が書いた江戸時代の説話集の濫觴の一つで、貞享元(一六八四)年に成稿、元禄九(一六九六)年板行されている。但し、本篇は当該書ではなく、以下に示す論文と、「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の解題から、本篇は、椋梨が儒学者で神道家であった谷泰山谷秦山(たにしんざん 寛文三(一六六三)年~享保三(一七一八)年)に送った「犬著聞集抜書」に拠っていることが判明している。調べてみたところ、底本と同じ「新日本古典籍総合データベース」のこちらで、当該抜書と同一と思われる写本「犬著聞集 拔書 全」(高知県立高知城歴史博物館・山内文庫)があり、その「兼好法師塚叓」(けんかうはうしつかのこと)がそれであると思われる。ただ、前半の和歌までの内容はなく、塚の話がほぼ一致している。因みに、原拠のそこでは、を掘ったのを、『寛文七年歳』(一六六七年)と明記していることが注目される。因みに、土屋順子氏の解題によれば、本「大和怪異記」の出典の多くは「犬著聞集」に求められるとされ、『その数は飯倉』洋一『氏の調査によれば』、本書『所収の説話百五話のうち』、半分を超える『五十六話に及ぶ』とされる。私は生憎、同書を所持せず、ネットでも完本を披見出来ないため、原拠との対比が出来ないことは、ちょっと残念ではある。

 さて、先に私が述べた論文とは、「J-STAGE」のこちらからダウン・ロードできる川平敏文氏の「兼好伝と芭蕉」(『近世文藝』第六十五巻所収・一九九七年発行)で、その17ページ上段末から二行目以降がそれである。さらに、本篇の前半の兼好が女の色香に惑うという如何にも作話性の強い怪しい箇所については、その原拠とともに、同じ川平氏の論文「兼好伝の造型――『園太暦』偽文を読む――」(熊本大学『文学部紀要』第九巻二号所収・二〇〇三年三月発行/「熊本県立大学学術リポジトリ」のここからダウン・ロードできる)がそれを明らかにしておられるので、是非、参照されたい。ここに出る「園太暦」(えんたいりゃく)は、兼好と同時代人であった「中園太政大臣」と称された鎌倉後期から南北朝時代の公卿洞院公賢(きんかた)の実在する漢文体日記であるのだが、川平氏は論の冒頭で、

   《引用開始》

 兼好がその晩年を伊賀国のとある山村で過ごし、そこで最期を遂げたという、何とも奇妙な行状が世に注意されるようになるのは、ちょうど『徒然草』の注釈書が量産され、様々な角度からの「読み」が交錯していた時期と重なる。すなわちそれは、前述した『徒然草』の「発見」から約七〇年が過ぎた頃、寛文・延宝期[やぶちゃん注:一六六一年から一六八一年、]である。いま、この偽文を〈『園太暦』偽文〉と称する事とするが、それはこの偽文が、兼好と同時代の公卿、洞院公賢の漠文体日記『園太暦』からの抜粋という体裁で書き綴られているからである。

   《引用終了》

とある。我々は、この「大和怪異記」の本篇を相当に眉に唾して読む必要があるのである。

「兼好法師」卜部兼好(うらべかねよし 弘安六(一二八三)年頃?~文和元年/正平七(一三五二)年以後?)は、知らぬ者のないほど、古文の授業でやった。かなり長い間、大学受験の古文のバイブルが「徒然草」の全文であった(私も一応、古い学習参考書で全文を、嫌々、読んだ)。私は定番の「あだし野の露」と「花は」以外は、辛気臭くて嫌いであったから、それ以外はすっ飛ばすのを常としていた。所収する笑話や擬似怪奇談も高校生時代からまるで面白くなかった。だから、度応時期に芥川龍之介の「侏儒の言葉」を読んで、その「つれづれ草」(私のブログの同条の「やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈」を参照)を読んだ時は、痛快極まりなかったのを覚えている。

「高師直」(?~正平六/観応二(一三五一)年)は足利尊氏に側近として仕えた武将で官僚。歌人としても知られた。正式な名乗りは「高階師直」(たかしなのもろなお)である。当該ウィキ他によれば、事実、晩年に兼好の方が接近して親交があり、『公卿洞院公賢に狩衣着用の規則を尋ねる際、兼好法師を使者として遣わしている』(「園太暦」貞和四(一三四八)年十二月二十六日の条)とある。しかし、また、彼は、「太平記」では『卑小な好色家としても描かれる。例えば、師直が塩冶高貞の妻に横恋慕し、恋文を』『吉田兼好に書かせ、これを送ったが』、『拒絶され、怒った師直が高貞に謀反の罪を着せ、塩冶一族が討伐され』、『終焉を迎えるまでが描かれている』とある。「あだしの露」を授業で初めて読んで、ちょっと感心した高校時代の私は、その古典の蟹谷徹先生の雑談で、ラヴ・レター代筆を聴くや、一気に鼻白んだのを覚えている。兼好は、「徒然草」から想像される隠者などではなく、生涯を通じて、諸著名人の関係を結んで工作を成した俗臭の強い男であり、その故に父が神職であった吉田神社との関係などでも上手くゆかなかった。ここでは兼好が彼「にそむきて」とあるが、そうした彼の小賢しい部分を見抜いた師直が、体よく使い捨てたというのが、事実ではなかろうか。

「伊賀守橘成忠」不詳。同姓同名の人物がいるが、戦国時代の武将であり、違う。彼が兼好を招いたとする話は、先の川平氏が後者の論文で示された「園太暦」偽文が元であろうからして、架空と考えてよい(ネットで兼好を招いた伊賀守橘成忠という文々(もんもん)はあっても、その人物が如何なる事績の実在した人物であるかを述べているものは、管見した限り、一切ないのである。例えば、兼好がメインではないが、サイト「三重の木」の「種生のオオツクバネガシ」(伊賀市指定天然記念物)を参照。「兼好塚」の写真もある)。川平氏自身、そこで『伊賀守橘成忠なる』(☜「なる」に注目)『人物と親交のあった兼好が伊賀国に下り、国見山のふもと田井庄に結庵した事、そして其頃十七、八歳であった成忠の娘と数年にわたって通じていた事』を「園太暦」偽文の『何と言っても』『新奇な点』の一つである、と述べておられることからもほぼ明らかなのである。

「伊賀国」「阿拜郡多那尾村国見山」現在の三重県伊賀市種生(たなお)「国見山城跡」(グーグル・マップ・データ)があり、その山城の北西の麓の平地の向かいの山の下に伝「兼好法師終焉之地(草蒿寺跡)」(グーグル・マップ・データ航空写真)がある。サイド・パネルの伊賀市教育委員会の説明板をリンクさせておく。なお、「阿拜」は現代仮名遣で「あはい」の他、「あえ」と読む。

「田井」「Stanford Digital Repository」のこちらで戦前の地図を見たが、これに相当する小字地名は見当たらなかった。従って読みも不明である。

「しのぶ山又ことかたの道もがなふりぬる跡は人もこそしれ」「新拾遺和歌集」の卷第十一 戀歌一」に兼好の作として載る(所持しないので国立国会図書館デジタルコレクションの「二十一代集 第九」のこちらで確認した)。

   *

   忍久戀

しのふ山又ことかたに道もかなふりぬる跡は人もこそしれ

   *

「貞治元年五月廿三日」南朝で正平十七年、北朝は康安二年九月二十三日に貞治に改元している。従ってまだ康安二年であるが、改元年は後代に記す場合、元日に遡って表記するのが普通であるから問題はない。ユリウス暦一三六二年六月十五日でグレゴリオ暦換算で六月二十三日。

「六十三歲なり」機械換算すると、彼の生年は正安二(一三〇〇)年となる。現在の推定

生没年より、不自然ではないが、かなりのズレがある。

「六尺」約一メートル八十一センチメートル。

『刀を、「ひし」と、うゑ、其下に、大瓶・小瓶を置《おき》、其中に、鏡(かゝみ)、あり』ちょっと聞いたことのない、恐ろしげな埋葬法・副葬品である。

 なお、本篇は後の寛延二(一七四九)年刊の紀州藩士の学者神谷養勇軒の「新著聞集」(こちらの「新著聞集往生篇第十三に、上總福津(ふつつ)のじやじや庄右衞門てふ大若黨者、……」の私の注を参照されたいが、実は椋梨の「犬著聞集」の再編集版である)の「第六巻 勝蹟篇」にも載る。所持する吉川弘文館随筆大成版の当該部を恣意的に正字化して示す。

    *

   ○伊賀國兼好法師の塚

伊賀の國阿拜郡多那尾村の内國見山に、吉田の兼好塚あり。そのしるしに松のありし。寬文七年に、土民ども塚をほりくずしてみれば、四面六尺ばかりに、刀をひしとつめ、其下に大小の甁二つありて、中に鏡をおさめし。此ころ、村中多く煩しまゝ、神子をよせてきゝしに、塚を崩せし咎めにてありしと云しを、地頭の藤堂玄蕃殿聞たまひ、かばかりの舊蹟を、容易に掘べき事かはとて、本のごとくにおさめおかれしと也。洛西の雙丘に、無常所をかまへしと、みづからの家の集に記されしかど、もしその比、亂世にて、かゝる所へさそうへ[やぶちゃん注:底本にママ注記有り。「左樣に」か。]行れしやらん。いと不審き事なり。

   *]

2022/11/16

大和怪異記 卷之二 第五 源實朝は宋鳫陽山の僧の再來なる事

 

[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の分はここ(標題は前ページ)。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。なお、底本のルビは歴史的仮名遣の誤りが激しく、ママ注記を入れると、連続してワサワサになるため、以降では、歴史的仮名遣を誤ったものの一部では、( )で入れずに、私が正しい歴史的仮名遣で《 》で入れた部分も含まれてくることをお断りしておく。]

 

 第五 源實朝は宋(そう)鳫陽山(がんやうさん)の僧の再來なる事

 右大臣源實朝公、ある夕(ふゆべ)、㚑夢(れいむ)の告(つげ)あり。

「前生(ぜんじやう)は、宋の温州鳫陽山の僧なり。今、日本の將軍と、うまる。」

と。

 さめて後《のち》、詠哥(ゑいか)に、

〽よもしらじ我もえ知ずからくにの いはくら山に薪(たきゞ)こりしを

                  「紀州志」

[やぶちゃん注:原拠とする「紀州志」については、「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の解題では、「南紀名勝路志」を正式書名とするが、これは「南紀名勝略志」の誤りである。「南紀名勝志」とも言う。底本と同じ「新日本古典籍総合データベース」の「南紀名勝略志」でやっと見つけた。「日高郡」の中の「鷲峯山興國寺」(しゅうほうざんこうこくじ)の条の中の記載である。ちょっと長いが、内容がブッ飛んでいるので、実朝に関連する箇所のみを訓読して電子化する。段落を成形し、句読点・記号を打ち、一部に歴史的仮名遣で読みや濁点を推定で入れた。【 】は二行割注。

   *

  鷲峯山興國寺

 由良庄、門前村の西北にあり。

 緣起に曰(いはく)、

『夫(そ)れ、紀州海部郡(かいふのこほり)由良の莊(しやう)、鷲峯山西方寺(さいはうじ)草創由来の事。

 抑(そもそも)、當時、本願檀那、願性(ぐわんしやう)上人は、関東の武士、藤原景倫(ふじはらのかげとも)、葛山(かつらやま)の五郎なり。

 右丞(うじやう)将軍實朝(さねとも)公の、寓直(ぐうちよく)の近習(きんじふ)にして、恰(あたか)も、影の形に隨ふごとし。

 然(しかれ)ども、實朝、一夕(いちゆふ)、

「吾が前生は、宋の温州雁蕩山(がんたうざん)に夙因(しゆくいん)有り。其の功力(くりき)を以て、日本の将軍と為(な)る。」

と夢(ゆめみ)て、覺(さめ)て後(のち)、詠歌、有り、

  世もしらじ我もえしらじから國のいはくら山に薪とりしを

 加-旃(しかのみならず)、建仁開山葉上僧正[やぶちゃん注:栄西のこと。]の夢めに、

「実朝公は、玄奘三蔵の再誕なり」

 所以(このゆへに[やぶちゃん注:ママ。])、身は靑油幕(せいゆばく)に在りと雖(いへど)も、心は常に墨汁の衣(ころも)に染む。

 実朝、宋朝に於て、之(これ)、前因(ぜんいん)、唯一ならず。

 然(しか)るに、景倫を以て、宋國に差(さ)し遣(つかは)され、

「彼(か)の雁蕩山を繪圖に寫(うつ)し来(きた)れ。日本に於て、圖のごとくに、寺を建(たつ)べし。」

 仍(より)て、景倫、其の命を奉(たてまつり)て、鎮西博多(はかた)の津(つ)に下(くだ)り、宋舶(そうせん)の順風を待つ處に、関東より、飛脚、下(くだり)て、

「去る正月廿七日【𣴎久(じようきう)元年。】将軍御夭薨(ごえうこう)」

の訃(ふ)を告ぐ。

 景倫、哀歎(あいたん)して、即時に、髪、剃(そ)り、衣、染めて、法名を「願性」と称す。

 再び鎌倉に帰らず、徑(たゞち)に髙野に登り、主君實朝将軍、御菩提を弔ひ奉る。

 誠に以て、忠心の致す所(ところ)なり。

 實朝御母儀、尼将軍【賴朝の御内(みだい)。従二位政子(まさこ)。】、此の㫖(むね)を聞し召(めし)て曰(のたま)はり、

「近習、七百人の中(うち)に忠義、景倫にしく者、無し。」

 然る間(あひだ)、髙埜(かうや)居住・資緣(しえん)の為めに、由良庄地頭職を下し賜はる。

 承久三年辛巳、入部、其れより、七年後(のち)、安貞元年丁亥、當寺を建立【「西方寺」と号す。】、右丞相(うじやうしやう)兼(けん)征夷将軍実朝公、并(ならび)に、二品(にぼん)真如大禪定尼[やぶちゃん注:政子。]兩㚑(れい)の御菩提の為めに、當荘の地頭職、二つに割(さ)き分(わけ)て、半分充(はんぶんあて)、金剛三昧院と西方寺とに寄進す。兼(かね)て、願性、金剛三昧院、居住の砌(みぎ)り、鹿跡(しゝどの)二郎入道西入(せいにふ)、将軍葬所に於て、御頭骨(おんとうこつ)を取り、持ち来(きたつ)て、願性に付輿す。

 願性、當寺、思遠卵塔(しをんらんたう)の西に就(つけ)て、實朝の石塔を建て、塔の火輪(くわりん)の中に、御骨(おんこつ)、半分を安ず。師、其の半骨(はんこつ)を以て實朝前生の國に納めんと欲す

[やぶちゃん注:以下は原本でも改行している。]

師四十五歳、宋の淳祐十一年、明州、育王山(いわうざん)【「育(い)」は唐音。】掛塔(クハタ)す[やぶちゃん注:ママ。]。寺は平坦なる山の中(なか)に在り。爰(ここ)に、塔、有(あり)、是れ、阿育王八万四千基の其一(いち)なり【故に「育王山」と曰(いふ)。】〉。傳に曰(いはく)、

『定海(ぢやうかい)の網人(あみびと)、此の塔を牽(ひ)き上(あげ)たり。』

と。又の說(せつ)には、

『寺より、四、五町の外(ほか)に、大石(だいしやく)の上に現(げん)じて、舍利、光明を放ちたまふ。』

と。

 諸國より、毎年、二、三月、人、多く参詣す。奇瑞、太(はなは)だ、多し。大権菩薩(だいごんぼさつ)を守護神と為(な)す。

 師、此の山に於て、一宇の堂を建て、日本将軍實朝の遺骨を、等身の観音の像の肚内(づない[やぶちゃん注:原本は「ツー」。この読みの後者の長音符のようなものは、他の箇所からも普通の「音(オン)」を指示する記号ととった。)に安ず。凢(およ)そ、實朝前生の鴈蕩山に遺骨を納めらるべきに、此の山に安措(あんそ)したまふ。未-審(いぶか)し、師の意、如何。師、此山に止住(しぢゆう)すること三年

師五十二歳、正嘉二年戊午、嗣書(ししよ)を無門和尚に通(つう)す。禪定院の住持を罷(や)めて由良鷲峯に遊(あそび)て、終老(しゆうらう)の志(こころざし)有り。功徳主、願性、拝請(はいせい)して、以て、開山住持と為(な)して、同心同力に、精藍(せいらん)を新たにして、後鳥羽禪定法皇の仙駕を資嚴(しごん)し、專(もつぱ)ら、実朝公・真如禪定尼の為に、道塲を追修(ついしゆ)す【安貞元年丁亥、由良の庄地頭、願性、始て此の西方寺を、建立より、三十二年の間、他宗なり。茲(こ)の年、前意を囘(かへ)して、改めて禪刹と為(し)、覺心長老を拝請(はいしやう)す。以て、開山住持と為す。】。願性云く、

「師は、戒珠、疵(きず)無(なく)、道眼(だうがん)、是(これ)、明かなり。是の故に、道俗、嶮(けん)を冒(をか)して、遠近(をちこち)、風(ふう)に趍(わし)ると云」。』[やぶちゃん注:以下略。「わしる」は「走る」で、「競って、その足下へと走り集まってくる」の意でとった。]

   *

まず、この「鷲峯山興國寺」であるが、これは、現在の和歌山県日高郡由良町にある臨済宗妙心寺派鷲峰山(しゅうほうざん)興国寺(こうこくじ:グーグル・マップ・データ)で、本尊は釈迦如来。而して、ここに出る願性(がんしょう ?~建治二(一二七六)年)は、俗名を葛山景倫(かずらやまかげとも)で、元は源実朝に仕えた近習の一人であった。実朝が陳和卿(ちんなけい)に対面し、夢が一致したことから、「大陸へ渡る」と言い出して後、実朝の命により、まずは彼が宋へ渡ることになったが、紀伊由良荘で実朝暗殺の報を受け、高野山に登った。真言宗禅定院の退耕行勇に従い、出家するも、同荘の地頭職に任ぜられたが、一方で熱心に実朝の菩提を弔った。後、金剛三昧院の別当となり、由良に西方寺(後の興国寺)を創建した(講談社「デジタル版日本人名大辞典」に拠った)。史実上は彼は大陸に渡った事実は全くないが、以上の「鷲峯山興國寺」縁起では、極めて詳細に彼が宋に渡って、彼の前生が僧であった鳫陽山ではなく、阿育王山に実朝の遺骨を納め、而して本邦に戻って西方寺を建立したという驚天動地の話が語られているのである。また、ここに出る「明州、育王山」は、後で「吾妻鏡」から引く台詞の中の「醫王山」と同一で、現在の浙江省寧波市鄞州区太白山の麓にある阿育王寺(アショーカおうじ)である。鑑真が日本に渡る際に休息したとされ、鎌倉時代には重源が訪れている。

 本篇では、名が出ないが、この話には絶対必要条件の人物である陳和卿は、これ、甚だ怪しい人物であり、胡散臭さがプンプン臭う輩だ。最初は、治承四(一一八〇)年の東大寺焼失後、勧進上人となった重源に従って、大仏の首を鋳造する役を受けて登場する(私の「北條九代記 南都大佛殿供養 付 賴朝卿上洛」参照)。頼朝が上洛し、開眼供養の際、これに貢献した南宋渡りのその僧に逢って結縁(けちえん)をと、面会を求めたが、彼は、『國敵對治の時、多く人命を斷ち、罪業、深く、重きなり。謁に及ばざるの由』を言って、再三、断っている(「吾妻鏡」建久六(一一九五)年三月十三日の条に出る)。そんな彼奴が、二十一年後の建保四(一二一六)年六月、ふらりと鎌倉に現われ、十五日には、実朝に謁見し、「吾妻鏡」では、

   *

十五日丁酉(ていいう)。晴る。和卿を御所に召して、御對面、有り。和卿、三反(さんべん)拜し奉り、頗(すこぶ)る涕泣す。將軍家、其の禮を憚り給ふの處、和卿、申して云はく、

「貴客(きかく)は、昔、宋朝、醫王山(いわうさん)の長老をたり。時に、吾(われ)、其の門弟に、列す。」

と云々。

此の事、去(いん)ぬる建暦元年六月三日丑の尅、將軍家、御寢(ごしん)の際、高僧、一人、夢の中(うち)に入りて、此の趣を告げ奉る。而うして、御夢想の事、敢へて、以て、御詞(おんことば)に出だされざるの處、六ケ年に及び、忽ちに、以つて、和卿の申し狀に符號す。仍(よ)つて、御信仰の外(ほか)、他事(たじ)無し、と云々。

   *

という、トンデモ糞芝居をやってのけるのだ。ここは「北條九代記 宋人陳和卿實朝卿に謁す 付 相摸守諌言 竝 唐船を造る」、及び、「★特別限定やぶちゃん現代語訳 北條九代記 宋人陳和卿實朝卿に謁す 付 相摸守諫言 竝 唐船を造る」を読まれたいが、それらを公開した直後に、教え子から、以下の質問と添書を受け取った。

   *

・陳和卿の言葉に実朝の心が動いたのはなぜか?(真意はどこにあるかは別として)

・もし、船の建造に成功したら、実朝には日本を離れる意思が本当にあったのかどうか?

・陳和卿の胸には大船の竣工・進水のあてがあったのかどうか?

・彼に、もし、確信なかったのなら、その真意はどこにあったか?

・もし、竣工・進水に成功したら、彼にはどのような目算があったのか、実朝とともに一緒に大陸へ戻ろうと考えていたのか?

・陳和卿は、進水に失敗した場合、監督者としての責任追求はされなかったのか?

・日宋貿易にも使われたような大船の建造技術があったはずの当時の日本で、なぜ、進水失敗という噴飯物のミスを犯したか?

・少なくとも大輪田泊に行けば、大陸へ渡る際に使用できるような船は調達できたはずなのに、なぜ、わざわざ新造させたのか?

『由比ガ浜に打ち捨てられた大船の姿を想像すると、まるで悪夢を見ているようです。本当に事実だったのか、にわかには信じられません。』

   *

それに私は『やぶちゃんのトンデモ仮説 「陳和卿唐船事件」の真相』で答えている。これも一興にはなろう。彼は結局、京と鎌倉との二重スパイとしての両方を手玉にとっていた(逆にとられてもいた)一面があったと、今は考えている。ともかくも座礁破船事件以来、全く行方を断った彼奴(恐らくは孰れかの側の刺客によって葬られた)は――これ、――頗る怪しい奴――である。

「㚑夢(れいむ)」「㚑」は「靈」(霊)の異体字。

「温州」現在の浙江省東南沿海に位置する温州市

「鳫陽山」不詳。温州市のここに奇岩で知られる雁蕩山ならある。似た漢字の名なら、温州市の西方の浙江省麗水市慶元県に「鳳陽山」がある。孰れも寺があったかどうか、不詳である。毛利豊史氏の「幻の渡宋計画 実朝と陳和卿」(『専修人文論集』巻一〇五・二〇一九年十一月発行・「専修大学学術機関リポジトリ」のこちらからPDFダウン・ロード可能)によれば、『西安大慈恩寺(玄奘の拠点)の「大雁塔」の誤伝とも』とある。この論文、ここに至って発見したが、誠に興味深い。

「よもしらじ我もえ知ずからくにの」「いはくら山に薪(たきゞ)こりしを」私は実朝の歌としては初めて読んだ。同前の毛利氏の論文には、「紀伊続風土記」(江戸幕府の命を受けた紀州藩が文化三(一八〇六)年に藩士で儒学者の仁井田好古を総裁として複数の者にに編纂させた紀伊国地誌)から酷似した箇所が引かれており、和歌は

 世も知らじわれもえ知らず唐国のいはくら山に薪樵りしを

とある。]

大和怪異記 卷之二 第四 鵺が執心馬となつて賴政に讐をなす事

 

[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の分はここ。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。なお、底本のルビは歴史的仮名遣の誤りが激しく、ママ注記を入れると、連続してワサワサになるため、以降では、歴史的仮名遣を誤ったものの一部では、( )で入れずに、私が正しい歴史的仮名遣で《 》で入れた部分も含まれてくることをお断りしておく。]

 

 第四 鵺(ぬえ)が執心《しふしん》馬となつて賴政に讐(あた)をなす事

 源三位賴政、化鳥(けてう)を禁庭(きんてい)に射る。

 其鳥(とり)、化(くは)して良馬となつて、賴政が方(かた)あり。

 賴政、及《および》、其子仲綱、此馬を愛し、名付(なづけ)て「木下(このした)」と云《いふ》。

 平宗盛、「木下」を仲綱に、こふ。

 仲綱、おしみて[やぶちゃん注:ママ。]あたえず。

 つゐに[やぶちゃん注:ママ。]、馬故に、宗盛が爲に、ころさる。

 「木下」、此宿怨を、むくゐて後[やぶちゃん注:ママ。]、斃《たふ》る。

 時の人、これを「うづみ神」と、いはふ。

 今の洛陽の「木嶋明神(このしま《みやうじん》)」」なり。「常陸志」

[やぶちゃん注:原拠「常陸志」が同定できず、また、常陸の地誌に頼政を繋げるものも、私にはよく判らない。ネットで判ったことは、wata氏のサイト「茨城見聞録」の『【まとめ】源三位頼政の伝説【源頼政】』に、「茨城にも来ていた?」という条があり、『確実ではないものの頼政公は茨城に来ていた可能性があります』。『頼政公の父・源仲政(なかまさ)は下総守でした。下総は常陸国(いまの茨城)の南と南西部の辺り。どうやら父について兄の頼行(よりゆき)と共に下総国まで来ていたようなんです』。『兄弟揃って「東国」の和歌を詠んでいるんですが、頼政公には信太の浮島(いまの稲敷市)の和歌もあるんです』。『あきさゐる 海上潟を見渡せば 霞にうかぶ信太の浮島』[やぶちゃん注:これは「源三位頼政集」の九にあり、読みは「あきさゐるうなかみがたをみわたせばかすみにまがふしだのうきしま」である。]

『下総から浮島は比較的近くです。浮島では歴史人物がいくつも歌を残していますから、昔はちょっとした観光地だったかもしれませんね』とある。彼が実際に東国に行ったかどうかは確認出来なかったが、今回、原拠を探すために、複数の新旧の常陸地誌を縦覧した際、そもそも「茨城郡」がそこに所収されていたから、まず、この常陸との違和感は緩んだ。さらに、サイト「妖怪検索」の「鵺」の記載ページに、「続日本妖怪大全」からの引用として、頼政の鵺退治を扱った謡曲「鵺」の梗概を記した後に、

   《引用開始》

 現在、大阪府都島区都島町3丁目の商店街の一角に、〈鵺〉の死体を埋葬したという《鵺塚》がある。京より頼政によって空舟(うつぼぶね)に乗せられ、淀川を流れて、この近くに漂着したからである。[やぶちゃん注:注記略。]

 源三位頼政による『鵺退治』の話は『平家物語』『源平盛衰記』などに詳しく、当時から有名な話であったらしい。それが世阿弥の謡曲により、さらに知られるところとなった。謡曲では歌や掛け詞を交えながら、〈鵺〉の未練や悲哀を見事に表現している[やぶちゃん注:注記略。]。

 〈鵺〉の亡骸を入れて淀川に流したという《空舟》は丸太をくりぬいて造られた船で、魂を封じ込めることができると伝えられる。しかし、この空舟が流れ着いた蘆の郷では病気が蔓延し、〈鵺〉の祟りと恐れられた。そこで築かれたのが《鵺塚》であるという。

 こうした〈鵺〉の怨霊が、源三位頼政自身に祟ったという伝承が『常陸志』にあり、『大語園_7』に収められている。

 この伝承によると、〈鵺〉の怨霊は良馬と化し、頼政の家に飼われたという。頼政も息子の仲綱もこの馬をかわいがり、《木下(このした)》という名前まで付けられた。

 ところがこの馬に、平家の大将である宗盛が目をつけ、盛んに仲綱に所望した。仲綱は何度も断り、このことをきっかけに源氏の中で唯一、平氏政権内部にとどまっていた頼政父子と平家との関係が悪化し、やがて頼政は挙兵し宇治平等院での討ち死にに至る。《木下》は宿怨を晴らしたことを確認した後に倒れ、土地の人はこの馬を埋めて神として祀った。木馬明神とよばれ、崇められたという。

   《引用終了》

とあった。喜び勇んで、巖谷小波の「大語園」を探したが、国立国会図書館デジタルコレクションのそれは公開になっていないので、糸口が断たれた。最早、これまで、である。因みに、この話、「柴田宵曲 續妖異博物館 化鳥退治」の引用注で、一度、出しており、知ってはいた。因みに、本篇は余りに知られた対象が多いので、注はごく一部に留めた。

「仲綱」(大治元(一一二六)年?~治承四年五月二十六日(一一八〇年六月二十日)は頼政の嫡男。父と同じく平等院で自害した。詳しい事績は参照した当該ウィキを見られたい。序でに、父頼政のそれもリンクしておく。

「うづみ神」「埋み神」で御霊信仰であろう。

『洛陽の「木嶋明神(このしま)」』「木嶋(このしま)」となると、「蚕(かいこ)の社(やしろ)」として知られる、京都市右京区太秦森ケ東町(うずまさもりがひがしちょう)にある木嶋坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ)が知られるが、この神社は鵺とは関係がないようである。京都市上京区主税町(しゅぜいちょう)に鵺大明神はある。但し、これは昭和六(一九三一)年の建立である。しかし、サイト「シティリビングWeb」の「京都の魔界スポット」には、『頼政の矢が刺さった鵺は、恐ろしい声を発し、現在の二条城の北あたりに落ちたとか。その鵺を退治した矢じりについた血を洗った池が、二条公園の中に “鵺池” として現在も残されています』とは、ある。因みに、その記事の真上に、偶然だろうが、木嶋坐天照御魂神社の「三本柱の鳥居」が載っている。いやいや、或いは、これも因縁か?]

大和怪異記 卷之二 第三 室生の龍穴の事

 

[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の分はここから。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。なお、底本のルビは歴史的仮名遣の誤りが激しく、ママ注記を入れると、連続してワサワサになるため、これ以降では、歴史的仮名遣を誤ったものの一部では、( )で入れずに、私が正しい歴史的仮名遣で《 》で入れた部分も含まれてくることをお断りしておく。]

 

 第三 室生《むろふ》の龍穴《りゆうけつ》の事

 大和国室生の龍穴は、善達龍王のすめる所なり。龍王、はじめは、「猿沢の池」に住(すみ)けるに、天智帝の御宇に、采女(うねめ)、身を投(なげ)し故、龍王、死穢(し《ゑ》)をさけて、香山《かうぜん》に住《ぢゆう》す。此所にても、死人を捨(すつ)るもの、有《あり》しかば、爰をも、去《さり》て、室生に移れり。

 室生に賢俊僧都といふ人あり。

『龍王を拜(おがま)せむ。』

と思ふの志(こゝろざし)ありて、龍穴に入《いる》こと、三、四町に及び、くらきを凌(しのぎ)て後、靑天の所にいたる。

 此所に、一つの宮殿あり。

 僧都、其南《みんなみ》砌(みぎり)に、立(たつ)てみるに、珠簾(しゆれん)をかけ、光(ひかり)、あたりを、かゞやかす。

 簾(すだれ)を、風の吹(ふき)あげたるに、裏(うち)を見れば、玉机(ぎよくき)の上に「法華經」一部を置《おけ》り。

 しばらく有《あり》て、人、出《いで》て、

「足下(そこ)。何のために、來《きた》るや。」

と、とふ。僧都、答《こたへ》て、

「御躰(《おん》てい)を拜し奉らんとて、參入(さんにう)せしむ。」

と、いふ。

 龍王いはく、

「此所にをいて[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]、對面、かなふべからず。穴を出《いで》、三町を經て、あふべし。」

と。

 僧都、もとのごとく、穴(あな)に出《いづ》るに、約せしごとく、龍王、衣冠を着し、腰より上(かみ)、水中より、出《いで》つ。

 僧都、拜するに、たちまち、消(きえ)うせぬ。

 是によつて、件《くだん》の邊(ほとり)に社《やしろ》を建(たて)、龍王のかたちをきざんて[やぶちゃん注:ママ。]、安置す。

 是よりして、雨を祈るには、件の社頭にをいて、經をよめば、龍穴の上に、黑雲(くろくも)、たなびき、雨、くだる、といふ。「古事談」

[やぶちゃん注:出典の「古事談」は既注。「佛教大学図書館デジタルコレクション」のこちらの嘉永六(一八五三)年の版本で13コマ目、単独画像ではここと、ここ。それを見ても判る通り、僧名を本篇では誤っていることが判る。「賢俊僧都」ではなく、「賢憬僧都」が正しい。所持する「新日本古典文学大系」版四十一「古事談 続古事談」(川端善明・荒木浩校注)では、本文を『賢憬(けんきやう)僧都』とする一方、脚注では、佐久間竜氏によれば、「賢環」が正しいとする、とある。但し、ウィキでは「賢憬」で挙げている(孰れにせよ、その脚注中には「賢俊」と記す資料はないことが判るので、誤りである)。以下、引用する。賢憬(けんけい 和銅七(七一四)年~ 延暦一二(七九三)年)は『奈良時代の法相宗の僧。俗姓は荒田井氏。尾張国の出身。賢璟(けんきょう)とも称される。尾張僧都あるいは尾張大僧都とも呼ばれた』。『興福寺の宣教に師事し』、『唯識法相を学ぶ一方で』、『苦業練行を重ね』、天平一五(七四三)年『正月に「師主元興寺賢璟」として同族の子麻呂を優婆塞に貢進推挙し』ている。天平勝宝六(七五四)年、『唐の僧鑑真を難波に迎え、翌』年に『旧戒を破棄し』、『鑑真から具足戒を受けた』。天平宝字二(七五八)年に『唐招提寺に一切経』四百二十『巻を奉納して』おり、宝亀五(七七四)年には『律師に任じられている』。宝亀九(七七八)年『頃、大和国室生山で延寿法を修して』、『山部皇太子(後の桓武天皇)の宿痾を治したために、後に桓武天皇の深い信頼を得た』宝亀一一(七八〇)年には、『多度大社神宮寺に三重塔を建立、また』、この『宝亀年間』(七七〇年~七八〇年)『には室生寺を創建している』。延暦三(七八四)年、『大僧都に任じられ』、翌延暦四年四月の『最澄の戒牒』(かいちょう:僧尼が戒を受けた後、その事実証明として交付される公文書。「度牒」とも言う)や「多度神宮寺伽藍縁起並資財帳」には、『ともに僧綱の一人として署名し』ている。延暦一二(七九三)年、『遷都を行うにあたって』、『遷都先の地を選ぶ際、山背(山城)の地に派遣されて』おり、『その際、比叡山文殊堂供養で導師をつとめている』。八十『歳で没した』。『高い学識で知られ、大安寺戒明が入唐求法で請来した「釈摩訶衍論」を調べ』、『これを偽書と判定し、最澄と』、陸奥国『会津』(あいづ)の法相宗の僧『徳一』(とくいつ)『との論争に影響を与えた。多くの弟子がいたが、その中でも修円・明福は有名である』とある。

「室生」現在の奈良県宇陀市室生にある真言宗室生寺派大本山宀一山(べんいちさん:又は檉生山(むろうさん))室生寺(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)。本尊は如意輪観音。当該ウィキによれば、『この寺は奈良時代末期の宝亀年間』(七七〇年~七八一年)』に『興福寺の僧』でここに出る賢憬に『よって開かれた。創建については、役小角(役行者)の草創、空海の再興とする伝えもあるが、これらは後世の付託である』。『平安時代を通じて興福寺別院としての性格が強く、俗世を離れた山林修行の場、また、諸宗の学問道場としての性格も持っていた。中世以降の室生寺は密教色を強めるものの、なお興福寺の末寺であった。興福寺の傘下を離れ、真言宗寺院となるのは江戸時代のことで』、『真言宗の拠点である高野山が』、『かつては女人禁制であったことから、女性の参詣が許されていた室生寺には「女人高野」の別名があるが、この別名は』以上から、『江戸時代以降のものである』とあり、『なお、山号の「宀一」は「室」のうかんむりと「生」の最後の一画だという』とある。

「龍穴」「新日本古典文学大系」版脚注に、『室生川上流の、室生火山群の造り出した洞穴が屏風岩の下に口を開け』ており、『そこに龍が棲むという伝承と信仰は古い』とある。ここ。以上の地図で判る通り、室生寺東南直近(徒歩実測で一キロほど)に「室生龍穴神社」があり、これが最後の「件の邊(ほとり)に社を建(たて)」に相当する。

「善達龍王」「阿那婆達多竜王」(あなばだったりゅうおう)。サイト「神魔精妖名辞典」によれば、『仏教における八大竜王の第六尊。八大竜王の中でも最も徳が高いとされる。尊名の「阿那婆達多(あなばだった)」はサンスクリット名である』「アナヴァタプタ」を漢音写したもので、『他に「阿耨達龍王(あのくだつりゅうおう)」』(「長阿含経」等)、 『「阿耨大龍王」(あのくだいりゅうおう)」』(「仏説興起行経」)、『「阿那婆答多龍王(あなばとうたりゅうおう)」』(「大唐西域記」)『と音写されるほか、住んでいる池の名前から「阿耨達池龍王(あのくだっちりゅうおう)」、「阿耨大池龍王(あのくだいちりゅうおう)」、サンスクリット名の意味訳から「無熱惱池龍王(むねつのうちりゅうのう)」、「無熱池龍王(むねつちりゅうおう)」、「無熱龍王(むねつりゅうおう)」とも称される。大雪山の山頂にあり、人間界を潤す源泉となっているとされる、「阿耨達池(あのくだっち)」と呼ばれる池に住んでいるとされる』とある。これは前掲の「新日本古典文学大系」版の別な記事の脚注で、以上の内容とほぼ同じものが確認出来た。

「猿沢の池」法相宗興福寺(天智天皇八(六六九)年に山背国山階(現在の京都府京都市山科区)で創建した山階寺(やましなでら)が起源で、「壬申の乱」があった天武天皇元(六七二)年、寺は藤原京に移り、地名の高市郡厩坂をとって厩坂寺(うまやさかでら)と称した。以上は当該ウィキに拠った)が行う「放生会」の放生池として天平二一(七四九)年に造られた人工池。ここ。「新日本古典文学大系」版脚注に、興福寺の縁起類を纏めた秀盛編の「興福寺流記(るき)」に、『興福寺伽藍は伏龍の集まる上に結構されたといい、殊に金堂の下は龍宮で、南大門の槻木』(つききのき:欅(けやき:バラ目ニレ科ケヤキ属ケヤキ Zelkova serrata )の別称)『のもとの穴から通うことができたという』とあり、この『南大門の外に位置した放生池である猿沢池は龍池であった』とる。底本と同じ「新日本古典籍総合データベース」の「興福寺流記」(写本)の、ずっと後のここで(単独固定画像)、金堂の伝承は記されてあり、前のここと、ここで、以上の本篇の第一段落の内容も含めて、総てが確認出来る。なお、この猿沢の池の龍伝承は、「宇治拾遺物語」の「藏人得業猿さはの池龍事(蔵人(くらうど)得業(とくごふ)、猿澤の池の龍の事/巻第十一第六話・第百三十話)で知られ(「やたがらすナビ」の同話(訓読・新字)をリンクさせておく)、また、芥川龍之介の小説「龍」でとみに知られる(『中央公論』大正八(一九一八)年五月初出で、翌年に刊行された作品集『影灯籠』に所収された。国立国会図書館デジタルコレクションの同原本の本文冒頭をリンクさせておく)。

「天智帝の御宇に、采女(うねめ)、身を投(なげ)し」「新日本古典文学大系」版脚注に、『奈良の帝に仕える采女が一度しか召されなかったことを憂えて投身した伝説』に拠るとある。「天智帝の御宇」は天智天皇七(六六八)年から天智天皇一〇(六七二)年(没年)。

「香山《かうぜん》」読みは「新日本古典文学大系」版本文に拠った。脚注に、この山は『春日山の東南、もと香山薬師寺』(こうぜんやくしじ)『の存在した山』で、『平城京の水源の一つに当たり、水神の信仰があり』、『祈雨も行われた』。この附近に当たる。上に示した「興福寺流記」画像にある通り、『興福寺南大門に七十年住んだ龍は香山に移り』、さらに、その『四十後、室生に移住したという』とある。

「三、四町」約三百二十七~四百三十六メートル。

「砌(みぎり)」軒下或いは階下の石畳。

「法華經」「新日本古典文学大系」版脚注に、「法華経」には、『釈迦の説法を八代龍王が聞いた話や八歳の龍女成仏の話がある』とある。

「雨を祈る」「新日本古典文学大系」版脚注によれば、『龍穴神への祈雨は、以後、興福寺僧で僧綱(律師以上)のものが導師となり』、『天応元年(七八一)から承平七年(九三七)までに二十七度の請雨・止雨の祈禱がなされている』とある。]

2022/11/15

大和怪異記 卷之二 第二 日田永季出雲小冠者と相撲の事

 

[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の分はここから。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。なお、底本のルビは歴史的仮名遣の誤りが激しく、ママ注記を入れると、連続してワサワサになるため、これ以降では、歴史的仮名遣を誤ったものの一部では、( )で入れずに、私が正しい歴史的仮名遣で《 》で入れた部分も含まれてくることをお断りしておく。

 挿絵があるが、これは「近世民間異聞怪談集成」にあるものが、状態が非常によいので、読み取ってトリミング補正し、適切と思われる箇所に挿入する。因みに、平面的に撮影されたパブリック・ドメインの画像には著作権は発生しないというのが、文化庁の公式見解である。底本(カラー。但し、挿絵は単色)の挿絵部分もリンクを張っておく。

 なお、標題の名前の「季」の「すへ」(「すゑ」が正しい)、「相撲」の「すもう」はママ(「爭(すま)ふ」の連用形の名詞化したもの。歴史的仮名遣では「すまひ」「すまう」「すまふ」が普通。但し、江戸時代には既に当時の口語として「すもう」という表記も一般化していた)。]

 

 第二 日田永季(《ひたなが》すへ)出雲小冠者(《いづものこ》くわん《じや》と相撲(すもう)の事

 人王七十一代三條院御宇、延久三年、豊後国日田郡《ひたのこほり》に、日田鬼太夫大藏永季といふ者、強力(ごうりき)のきこえあるに依(よつ)て、十六歲にて、「相撲の節會(せちゑ)」にめされて、上洛す。

 此とき、出雲國より、竒代(きだい)の強力、宣旨にまかせて、參洛せしむる旨、風聞す。

 これによつて、永季、諸社に祈誓をかけ、上洛の節、筑前太宰府にをいて[やぶちゃん注:ママ。後の「をゐて」もママ。]、ひとりの童女(どうによ)に行《ゆき》あふ。

 童女、永季にむかつて、

「君、此度《このたび》、禁裏にをゐて、古今絕倫(ここんぜつりん)の大力(《だい》りき)にあふべし。其長(たけ)、普通の人よりは、ひきく、惣身《そうしん》、鉄(てつ)にして、力、無量(むりやう)なり。これにかたん事、人力(《じん》りき)に及《および》がたしといへども、彼(かの)童(わらは)が母、諸願の旨、あつて、懷姙のはじめより、鉄砂(てつしや)をくらふ故、うまるゝ子、惣身、鉄なり。しかれ共、母、あやまつて甜瓜(あまうり)をくらひしかば、童が頭上(かしらのうへ)にとゞまり、方《はう》三寸の肉となれり。今度《このたび》、『すまうの節(せつ)』にいたりて、乾(いぬ《ゐ》)の方(かた)をうかゞふべし。我、汝に方便をしめすべし。」

と、いひおはつて[やぶちゃん注:ママ。]、飛(とび)さりぬ。

 

Hitanonagasue

 

 永季、此竒特(きどく)を感じ、天滿宮にまふでて、無二の丹誠(たんせい)を抽(ぬきんで)、奉幣(ほうへい)し、日田郡の内、大肥庄《おほひのしやう》を寄進せしめ、其地に「老松明神《おひまつみやうじん》」を勸請すべき旨、祈願して、京都にいたり、「相撲の節」に望んで、小冠者に出あひ、手合《てあはせ》するとき、乾の方をうかゞふに、以前の童女、空中にあらはれ、永季にむかひ、みづから、右の手をもつて、額をおさえて、さとしめたり。

 永季、やがて、小冠者が額を、

「丁(てう)」

ど、うちければ、はたして、人肉なりしかば、破れて、血、顏に、ながる。

 さしもの小冠者も、少しひるみて、たゞよふを、かひつかむで、引《ひき》よせ、目より高くさし上《あげ》、一ふり、ふりて、大地になぐるに、頭(かしら)・手足、ちぎれて、四方に、ちりぬ。

 かゝりしかば、

「日本第一の大力。」

と云《いふ》綸旨を賜り、歸國し、所願のごとく、大肥庄に「老松大明神」を勸請す。

 又、高城《たかじやう》に、みづからの長(たけ)に、少しも、たがえず、冠者をふまへたる躰(てい)をつくり置《おく》。

 後に、寺を建(たて)、「永福傳寺(ゑいふくでん《じ》)」と號す【一說に、此とき、永季が出立《いでたち》は、草鎧《くさよろひ》二兩、かさね着《ぎ》し、八寸まわりの竹を、握《にぎり》ひしぎ、帶とす。】。

 それよりのち、三度《みたび》、「すまうの節會」に侯(こう)し、堀河院御宇、寬治五年より、長治元年にいたりて、七度《しちたび》、以上、十箇度(かど)、終(つ《ひ》)に、一度も、負(まく)る事、なし。

 此永季、あるひは、枚(きのいた)に、大石を、はさみ、大石の上に、同じごとくの石を置

 小山のごとし。

 世に、是を、「日田が重石(かさねいし)」といふ。

 永季が先祖を善憧鬼(ぜんどうき)といふ。紀州大藏谷より、豊後國日田に下向し、戸山に住(ぢう)す。

 其末葉(ばつ《えふ》)、妙憧鬼、後に鬼藏太夫永弘と改む。白鳳年中の人なり。

 それより數代をへて、永季に、いたれり。

 永季より、次郞太夫季平、太夫高家、五郞太夫永平、新六太夫永宗、次郞永秀、三郞永隆、四郞永俊、六郞永綱、左衞門永信、彌次郞永基《ながもと》、六郞永資、肥前權守永貞、出羽守永俊、上㙒守詮永、筑後守永息《ながやす》、安藝守永秀、七郞丸と相續(さうぞく)す。七郞丸、十二歲にて、早世し、家、絕たり。代々の戰功、詳(つまびらか)に「日田事記」に見えたり。

[やぶちゃん注:原拠は前話に同じ。前回と同じく、伝承と比較するには、古賀勝氏のサイト「筑紫次郎の世界」の「怪力! 鬼太夫」(副題「豊後日田の大蔵永季」)がよい。前回同様、伝說が細かなシークエンスが重なれられて、読んでいて楽しい。

「日田永季」(天喜(てんぎ)四(一〇五六)年~長治元(一一〇四)年)は平安後期の豪族で豊後日田郡司であった。本姓は大蔵(おおくら)。通称は鬼太夫(おにだゆう)。延久三(一〇七一)年の朝廷での「相撲節(すまいのせち)」(=「相撲の節會(せいゐ)」)に相撲人(すまいびと)として参加し、優勝、この勝利を天神の加護とし、大肥荘に「老松天満宮」を建て、木彫毘沙門天立像を永興寺に安置したとされる(主文は講談社「デジタル版日本人名大辞典+Plus」に拠った)。享年四十九歳。最後に系譜が載るが、ウィキの「大蔵氏(豊後国)」を比較参照されたい。但し、若干、系図の名と異同がある。なお、そこの解説によれば、永季の死因は「風邪」とある。

「人王七十一代三條院御宇」以上はトンデモない誤りである。三条天皇は第六十七代で在位は寛弘八(一〇一一)年から長和五(一〇一六)年で寛仁元(一〇一七)年にとっくに没しているここは文字通り、「数字」だけが正しく、第七十一代の後条天皇(在位::治暦四(一〇六八)年~延久四(一〇七三)年)の治世である。

「相撲の節會(せちゑ)」小学館「日本国語大辞典」によれば、『天皇が宮中で相撲を観覧され、参列の諸臣と饗宴を催される儀式。延暦以降』十二『世紀までは七月に行なわれた。相撲使(すまいのつかい)を地方につかわして相撲人(すまいびと)を召し出させる。七月』二十六『日頃に相撲の下げいこである内取(うちどり)が仁寿殿(じじゅうでん)で行なわれ』、二十七『日頃に紫宸殿で召合(めしあわせ)があり、はじめは』二十