大和怪異記 卷之一 第九 豊後の国頭峯の事・第十 同国田㙒の事
[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の分はここ。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。
正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。
挿絵があるが、これは「近世民間異聞怪談集成」にあるものが、状態が非常によいので、読み取ってトリミング補正し、適切と思われる箇所に挿入する。因みに、平面的に撮影されたパブリック・ドメインの画像には著作権は発生しないというのが、文化庁の公式見解である。
ここでは、原拠が同じ「豊後国風土記」で、しかも直に続いていることから、「第十 同國田㙒の事」をカップリングした。
なお、読みの私の添えた一部は、本書の目次及び武田祐吉編「風土記」(岩波文庫一九三七年刊)に拠った。]
第九 豊後の国頭《くび》の峯《みね》の事
[やぶちゃん注:底本の画像はここ。]
豊後国速見郡(はや《みのこほり》)に頭の峯といふ所あり。此峰(みね)の下に水田あり。もとの名を宅(いへた)田と云。鹿、つねに來りて、此田の苗(なへ)をくらふ。田主(たのぬし)、これをとらへ得て、其くびをきらんとするに、しか、こふて、いはく、
「我、今、ちかひを、たつ。若(もし)、大惠(おゝいなるめぐみ[やぶちゃん注:ママ。])をたれて、死をゆるさば、我《わが》子孫にいたるまで、苗をくらはしむること、なからん。」
と。
田主、此怪異におどろき、きらずしてこれをゆるす。
それより、このかた、此田のなえ[やぶちゃん注:ママ。]を、鹿、くらはず。
よつて、「頭田邑《くびたむら》」といふ。此みねを「頭(くび)の峰(みね)」と云。「豊後風土記」
[やぶちゃん注:原拠「豊後国風土記」の原文を国立国会図書館デジタルコレクションの写本の当該部を視認して示す。異体字で示せないものは、最も近い字に代えた。
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頚峯在柚富
此峯下有水田本名宅田此田苗子𢈘恒喫之田主造柵伺待𢈘到耒挙己𩒤容柵閒即喫苗子田主捕獲將斬其𩒤于時𢈘請云我今立盟免我死罪若埀大恩得更存者告我子孫勿喫苗子田主於茲大懐恠異殺免不斬因時以来此田苗子不被𢈘喫令獲其實因曰頚田兼爲峯名
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以下の訓読文は武田祐吉編「風土記」(岩波文庫一九三七年刊)を参考にオリジナルに訓読した。従って、前掲の原文とは文字だけでなく、異なる部分が、多々、ある(以上の写本は書写時の誤認が疑われる)。
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頸(くび)の峯(みね)柚富(ゆふ)の峯の西南に在り。
此の峯の下に、水田(こなた)、有り。本(もと)の名は「宅田(いへた)」なり。此の田の苗子(なへ)を、鹿、恆(つね)に喫(くは)へり。
田の主(ぬし)、柵(き)を造りて、伺ひ待ちしに、鹿、到-來(きた)りて、己(おの)が頸を擧げて、柵の閒(あひだ)に容(い)れ、卽ち、苗子を喫(くら)ひしかば、田の主、捕-獲(とら)へて、其の頸を斬らむとしき。
時に、鹿、請(こ)ひて云へらく、
「我れ、今、盟(うけひ)を立てむ。我が死ぬる罪(つみ)を免(ゆる)し、若(も)し、大きなる恩(めぐみ)を埀れて、更(また)在(い)くることを得しめば、我が子孫に告げて、苗子を喫ふこと、勿(な)からしめむ。」
と。
田の主、茲(ここ)に、大(いた)く、
『恠異(あや)し。』
と懷(おも)ひて、赦免(ゆる)して斬らざりき。
時(それ)より以來(このかた)、此の田の苗子、鹿に喫(く)はえず、其の實(みのり)を獲(え)しむ。
因りて、「頸田(くびた)」と曰ひ、兼ねて、峯の名と爲(な)せり。
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この「盟(うけひ)」は、この場合は「誓約」に同じ。
「豊後国速見郡」「頭の峯」現在の大分県の旧速見郡は別府市を中心とした広域(グーグル・マップ・データ)である。国立国会図書館デジタルコレクションの後藤蔵四郎著「肥前国豊後国風土記考証」(昭和八(一九三三)年大岡山書店刊)のこちらによれば、『柚富峯』(現在の由布岳)『の西南とあるから、今の野稻嶽に當であらう』とある。大分県由布市湯布院町川西の野稲岳(グーグル・マップ・データ)である。
「頸田」は見当たらなかったが、試みに、「Stanford Digital Repository」のこちらで戦前の地図をみたところ、この野稲岳を下った東北東の旧村名に「鹿出」とあるのを見つけた。]
第十 同国田㙒《たの》の事
同国同郡に「田㙒」といふ所あり。むかし、此㙒は、水田にして、地(つち)、肥(こゑ[やぶちゃん注:ママ。])たり。
其比、豪冨(おゝいにとめる[やぶちゃん注:ママ。なお、この読みは意訓。])の土民あり。家を此所に作《つくり》て住《ぢゆう》す。
驕奢(をごり[やぶちゃん注:ママ。])のあまりに、餅(もち)をつくつて的(まと)とす。
此もち、忽(たちまち)、白鳥に化(け)して、南に飛《とぶ》。
それより、かの土民、家、おとろへ、一族、ことごとく、斷絕し、水も、又、かはけり。
このゆへに、
「水田に、ならざる。」
とて、「田㙒」と名づくといふ。同
[やぶちゃん注:前と同じ電子化をする。割注は底本では二行。
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田野在郡西南
此野廣大土地沃腴畔開墾之便与比此土昔者郡内百姓居此野多開水田餘糧宿畝大木者已冨作餅為的于時餅化白鳥発而南飛當年之閒百姓死絕水田不造遂以荒廃自時次降不宜水田今謂田野斯其縁也
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訓読も同前。やはり、以上の原文は複数の書写の誤りが認められる。
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田野郡の西南に在り。
此の野は廣く大きにして、土地(つち)、沃-腴(こ)えたり。開墾(あらき)の便(たよ)り)、この土(くに)に比(たぐ)ふものなし。
昔、郡内(くぬち)の百姓、此の野に居(を)りて、多く、水田を開き、糧(かて)を餘(あま)して、畝(うね)に宿(とど)め、已(はなは)だ富みて、大(いた)く奢(おご)り、餅(もちひ)を作りて、的(まと)と爲(な)しき。
時に、餅、白鳥と化(な)りて、發(た)ちて、南に飛びき。
當年(そのとし)の閒(あひだ)に、百姓、死に絕えて、水田を造らず。
遂に、荒れ、廢(う)てたりき。
時より、以降(このかた)、水田に宜(よろ)しからず、今、「田野(たの)」と謂へるは、斯-其(そ)の緣(ことのもと)なり。
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「廢(う)て」「棄(う)つ」に同じ。「遺棄する」「捨てる」の意。しかし、「学研全訳古語辞典」には例を「古事記」の「神代」から、「次に、投げうつる御帯(みおび)に成りませる神」とした後に、附説し、『「うつ」の単独用例はなく、他の動詞と複合して用いられる。「投げうつ」「脱ぎうつ」「流しうつ」など』とある。とすると、ここは「荒らし廢(う)てたりき」と読まにゃならんとですかね? 武田先生?
「同國」(前の豊後国)「同郡」「田㙒」前掲の「肥前国豊後国風土記考証」のここに、次のページに続く恐ろしく詳しい考証が載る。本書は保護期間満了であるから、以下に総て電子化する。頭の注記号は外した。
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田野(タノ) 湯布嶽の西南に於いて、今の溫湯(ヌルユ)・石松・乙丸等の地方に當るであらう。此の地、今は村落も水田もあるが、豐後國志には、次の如くある。
[やぶちゃん注:以下の引用は底本では全体が一字下げ。]
嶽下池(ダケノシタイケ)は由布山の西趾(ニシノフモト)にあり。又、溫湯(ヌルユ)といふ。池舊(モト)廣漠(ヒロク)、湖の如し。慶長中、地震の時、由布嶽の西北、椿山崩壞し、溫湯、石松、乙女、數村の民屋、皆地下に湮滅す、人畜死亡すること、其數を知らず、池も併せ沒し、僅かに二百餘步(ブ)を殘す。
慶長二年より七百三十年前の貞觀九年正月二十二日には、由布嶽の東隣の鶴見山が爆發して、磐石飛び亂れ、沙泥雪の如く散り、數里に積るといふ。これ等に類することにより、往者[やぶちゃん注:「そのかみ」と当て訓したい。]、開墾せられた田畑が、火山の爆發によつて、荒廢に歸したものかと思はれる。それから、塵添壒囊抄(卷三)に次の如くある。
[やぶちゃん注:同前。]
昔、豐後ノ國玖珠郡、廣キ野アル所ニ、大分郡ニ住ム人、其野ニ來リテ、家ツクリ、田ツクリテ、スミケリ。アリツキテ、家富ミ、樂シカリケリ。酒ノミアソビケルニ、トリアヘズ、弓ヲ射ケルニ、的ノナカリケルニヤ、餅ヲククリテ、的ニシテ、射ケルホドニ、其餅、白キ鳥ニナリテ、飛去リニケリ。其ヨリ後、次第ニ衰ヘテ、マドヒウセニケリ。アトハ、空キ[やぶちゃん注:「むなしき」]野ト、ナリタリケルヲ、天正年中ニ、速見郡ニ住ミケル、訓邇(クニ)ト云ケル人、サシモ能ク、ニギハヒタリシ所ノ、アセニケルヲ、アタラシヤト思ヒケン、此ニワタリテ、田ヲツクリタリケルホドニ、其苗皆失セケレバ、驚キオソレテ、又トツクラズ、ステニケリト云ヘル事有。云々。
箋釋には、壒嚢抄を參照して、この風土記の田野の條は、玖珠郡にあるべきが、誤つて速見郡に入つたのではあるまいかと疑つてある。玖珠郡の今の飯田村に、田野(タノ)といふ地があり、これは九重山(クヂユウサン)の裾野にあたり、その邊を千町蕪川(セオチヤウムダ)といふ。然し、この風土記の田野は、「在郡西南」とあるによれば、今の千町蕪田は、これに合はぬ。速見郡の郡家は、石垣莊にあつたとすれば、その西南にあたる地は、鶴見山の東の裾野か、由布嶽の西南か、又は山布獄の北、今の塚原を中心とする盆地かであらうが、本文記載の模樣によつて考へれば、由布嶽の西南の噸にあたる盆地と思はれる。そこより、少し下つて、野稻嶽の東南に、今、小田野池といふがある。壒囊抄に、玖珠郡とあるのが誤りではあるまいか。
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「今の溫湯(ヌルユ)・石松・乙丸等の地方」温湯はこの附近、石松はこの附近で、乙丸はここ(総てグーグル・マップ・データ)。]
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