大和怪異記 電子化注始動 / 序・卷之一 第一 日本武尊山神を殺し給ふ事
[やぶちゃん注:「大和怪異記」電子化注を始動する。本書は作者不詳(無記名)で、七巻七冊。宝永五 (一七〇八)年の序(署名は「無名氏」)がある。但し、以下に示す「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の解題によれば、作者を『興雲子(荻原政親か)』とされる。但し、この荻原政親なる人物もネット上では事績が判らない。底本の版元は京都の「柳枝軒」である。
底本は「国文学研究資料館」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用とする。
正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。
挿絵があるが、これは「近世民間異聞怪談集成」にあるものが、状態が非常によいので、読み取ってトリミング補正し、適切と思われる箇所に挿入する。因みに、平面的に撮影されたパブリック・ドメインの画像には著作権は発生しないというのが、文化庁の公式見解である。底本(カラー。但し、挿絵は単色)の挿絵部分もリンクを張っておく。]
所 ■■
出 大和怪異記
付 繪入
[やぶちゃん注:表紙。左䇳。「出所付」は底本では、大きな○印の中に正三角形状の頂点位置に配されてある。「■■」は大方が欠損していて判読不能。
以下、序(ここから)。句点が打たれているが、従わない。読みはカタカナで、ここのみ、その総てを附した。]
屋滿登怪(クワイ)異記叙
そのかみ、「遼東(レウトウ)に白豕(ハクシ)を異(コト)なり。」とする者ありて、そしりを萬世(バンセイ)に胎(ノコ)すといへども、河東(カトウ)の群豕(グンシ)を見て、おのが陋識(ロウシキ)をしれり。今(イマ)、やつがれが此書を記(キ)せる。漏(モレ)たるを拾(ヒロ)ひ、竒(メヅラカ)なるを輯(アツ)むと思へど、邊鄙(ヘンヒ)に居(ヰ)て、書籍(シヨセキ)に乏(トボ)しき故、其所ㇾ載(ノスル)事の事、既(スデ)に世におこなはれたるもしらねば、彼(カノ)遼東(レウトウ)の人の陋識(ロウシキ)をさとれるも、予(ヨ)にをゐては、こひねがふべきのみ。然れ共゛、知(シラ)ざるを知(シラ)ざるとせよ、となれば、耻(ハヅ)べきにあらずと、みだりに梓(シ)にちりばめて、臭(クサキ)を逐(ヲフ)人の為(タメ)にす。旹ニ寶永戊子の冬
無名氏序
[落款][落款]
[やぶちゃん注:「をゐて」はママ。落款二種(底本のここ)は私には読めない。
「遼東の白豕」故事成句「遼東の豕」。「後漢書」の「朱浮伝」の中で、遼東で珍しいとされた白頭の豚が、河東では珍しくなかったという故事から、「世間知らずであったために、つまらないことを誇りに思って自惚れること。」の喩えとする。
「旹ニ」「ときに」と読む。「時に」に同じ。底本では、「旹」は上から「山」+「上」+「日」であるが、表記出来ず、「グリフウィキ」の「旹」にもない、いわば、変造字である。
「寶永戊子冬」宝永五年戊子(つちのえね/ボシ)。一七〇八年。「冬」とあるから、初版はやはり宝暦六年と考えてよかろう。
以下、巻之一の目録。「十一」以下の頭の数字は底本では半角。ここも読みは総て附した。]
やまと怪異記一
一 日本武尊(やまとだけのみこと)山神(やまのかみ)を殺(ころ)し給ふ事
[やぶちゃん注:「やまとだけのみこと」はママ。]
二 小竹宮(しのゝみや)怪異(けい)の事
三 吉備縣主(きびのあがたもり)虬(みつち)をきる事
四 螺蠃(すがる)大蛇(おろち)を捉(とる)事
五 文石小麿(あやしのこまろ)狗(いぬ)に化(ばけ)る事
六 猿(さる)哥(うた)をよむ事
七 河邊臣(かはべのしん)雷(いかづち)神をやきころす事
八 猪麿(いまろ)鰐魚(わに)をころす事
[やぶちゃん注:「いまろ」はママ。]
九 豊後國(ぶんごのくに)頭峯(くびのみね)の事
十 同国(どうこく)田野(たの)の事
十一 嵯峨天皇(さがのてんわう)は上仙法師(じやうせんほうし)が後身(こうしん)たる事
十二 雲中(うんちう)ににはとりたゝかふ怪異(けゐ)の事
[やぶちゃん注:「けゐ」はママ。]
十三 金峯山上人(きんぶせんのしやうにん)鬼(をに)となつて染殿后(そめどののきさき)をなやます事
[やぶちゃん注:「をに」はママ。]
十四 阿部晴明(あべのせいめい)花山院(くはさんのいん)の前生(ぜんじやう)をうらなふ事
[やぶちゃん注:「いん」はママ。]
十五 赤染衞門(あかぞめゑもん)が妹(いもと)魔魅(まみ)にあふ事
十六 宇治中納言在原業平(うぢのちうなごんありはらなりひら)の幽㚑(ゆうれい)にあふ事
[やぶちゃん注:「ゆうれい」はママ。「㚑」は「靈」の異体字。]
十七 大江匡房(をほゑのまさふさ)は蛍惑星(けいこくせい)の化身(けしん)たる事
十八 壬生(みぶ)の尼(あま)死(し)して腹(はら)より火(ひ)出(いづ)る事
やまと怪異記一
第一 日本武尊(やまとだけのみこと)山神(やまのかみ)をころし給ふ事
景行天皇二十八年、日本武尊、信濃におもむきたまふに、此國は、山、たかく、谷、ふかく、嶺(みね)、かさなり、いはほ、さかしふして、馬、なづみて、ゆかず。
しかれども、尊、けふりを、披(ひら)き、霧を、しのぎ、大山(たいさん)を、わたり、みねに、いたりて、山中に食し給ふに、山の神、みことを、なやまさんがため、白き鹿(しか)になりて、尊の前に、たてり。みこと、あやしみて、蒜(にら)をとりて、彈(はじき)たまひしかば、鹿の、まなこに、あたりて死しぬ。
此とき、尊、たちまち、道にまどひて、いづる所を、しり給はざりしに、白き狗(いぬ)、來りて、みちびくのかたちあり。狗にしたがひて、美濃に出《いづ》ることを得たまふ。「日本紀」
[やぶちゃん注:底本はここから。原拠は、国立国会図書館デジタルコレクションの昭和六(一九三一)年岩波書店刊黒板勝美編「日本書紀 訓讀」中巻で示すと、ここの左ページ一行目半ばから。原文は以下。関連する後続部分も示しておく。
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則日本武尊、進入信濃。是國也、山高谷幽、翠嶺萬重、人倚杖難升、巖嶮磴紆、長峯數千、馬頓轡而不進。然日本武尊、披烟凌霧、遙俓大山。既逮于峯而飢之、食於山中。山神、令苦王、以化白鹿、立於王前。王異之、以一箇蒜彈白鹿、則中眼而殺之。爰王忽失道、不知所出。時白狗自來、有導王之狀、隨狗而行之、得出美濃。吉備武彥、自越出而遇之。先是、度信濃坂者、多得神氣、以瘼臥。但從殺白鹿之後、踰是山者、嚼蒜塗人及牛馬、自不中神氣也。
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後の「吉備武彥、……」以下がちょっと判り難い向きには、サイト「日本神話・神社まとめ」の「景行天皇(三十七)信濃の白い鹿を蒜で殺す」が現代語訳も載っており、解説も親切でお薦めである。その訳中の「信濃坂」について、『信濃坂(シナノノサカ=現在の長野県下伊那郡那智村と木曽郡山口村の境の富士見台)』を一説として挙げておられるが、前者は長野県下伊那郡阿智村の誤りであろう。後者は旧長野県木曽郡山口村で、現在の岐阜県中津川市山口で、南の馬籠宿を含む旧村名である。県を越えた合併は非常に珍しい。さて、その馬籠の南東に接するのが、まさに、岐阜県中津川市神坂で、ここは南西で長野県下伊那郡阿智村に接しており、その境に神坂峠はあるのである(孰れもグーグル・マップ・データ)。実際、ウィキの「神坂峠」の「古典文学に登場する神坂峠」はこの話を筆頭に置いている。また、言うまでもなく、その北方の馬籠―馬籠峠―妻籠(グーグル・マップ・データ航空写真)は中山道の要衝であった。]