フォト

カテゴリー

The Picture of Dorian Gray

  • Sans Souci
    畢竟惨めなる自身の肖像

Alice's Adventures in Wonderland

  • ふぅむ♡
    僕の三女アリスのアルバム

忘れ得ぬ人々:写真版

  • 縄文の母子像 後影
    ブログ・カテゴリの「忘れ得ぬ人々」の写真版

Exlibris Puer Eternus

  • 吾輩ハ僕ノ頗ル氣ニ入ツタ教ヘ子ノ猫デアル
    僕が立ち止まって振り向いた君のArt

SCULPTING IN TIME

  • 熊野波速玉大社牛王符
    写真帖とコレクションから

Pierre Bonnard Histoires Naturelles

  • 樹々の一家   Une famille d'arbres
    Jules Renard “Histoires Naturelles”の Pierre Bonnard に拠る全挿絵 岸田国士訳本文は以下 http://yab.o.oo7.jp/haku.html

僕の視線の中のCaspar David Friedrich

  • 海辺の月の出(部分)
    1996年ドイツにて撮影

シリエトク日記写真版

  • 地の涯の岬
    2010年8月1日~5日の知床旅情(2010年8月8日~16日のブログ「シリエトク日記」他全18篇を参照されたい)

氷國絶佳瀧篇

  • Gullfoss
    2008年8月9日~18日のアイスランド瀧紀行(2008年8月19日~21日のブログ「氷國絶佳」全11篇を参照されたい)

Air de Tasmania

  • タスマニアの幸せなコバヤシチヨジ
    2007年12月23~30日 タスマニアにて (2008年1月1日及び2日のブログ「タスマニア紀行」全8篇を参照されたい)

僕の見た三丁目の夕日

  • blog-2007-7-29
    遠き日の僕の絵日記から

サイト増設コンテンツ及びブログ掲載の特異点テクスト等一覧(2008年1月以降)

無料ブログはココログ

« 曲亭馬琴「兎園小説拾遺」 第一 「志賀隨應神書」 | トップページ | 「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「話俗隨筆」パート 盜人灰を食ひし話 »

2022/11/02

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 奇異の神罰

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここ。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。

 なお、本篇は十三年前、未だ現役高校教師であった二〇〇九年三月十七日にサイト版で、底本は一九九一年河出書房新社刊の『河出文庫』中沢新一編《南方熊楠コレクションⅢ》「浄のセクソロジー」所収のもの(底本の親本は平凡社版「南方熊楠全集」第二巻四五七~四六〇頁とある。上記「選集」も同底本である)を底本として「南方熊楠 奇異の神罰 附やぶちゃん注」を公開している。今見ても、当時の私の仕儀としては、かなり強力な注を附しているとは思う。今回は原表記版で、本文自体は零から視認し、注に関しては、その私の旧注を参考にしつつ、よりブラシュ・アップしたものになるよう、努力したつもりである。従って、本テクスト及び私の注を以って本篇の決定版とする

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文脈部分は直後に、「選集」を参考にしつつ、〔 〕で推定で訓読文を附した。]

 

     奇 異 の 神 罰 (明治四十五年七月『此花』凋落號)

 

 「猥褻風俗史」十二張裏(うら)に、寶永七年板『御入部伽羅女(ごにふぶきやらをんな)』、又、『寶永千載記』等を引き、伊勢詣りの男女、途中で交接して、離れざるものを見世物にしたる由、見ゆ。樽屋お仙(『好色五人女』卷二)、お半長右衞門(『桂川連理柵(かつらがはれんりのしがらみ)』上)など、參宮に便りて淫奔《いんぽん》せし例、少なからねば、自然、斯《かか》る見世物も信受(まにうけ)られし也。

[やぶちゃん注:「明治四十五年」(一九一二年)「七月『此花』凋落號」既出既注

「猥褻風俗史」宮武外骨著。明治四四(一九一九)年雅俗文庫(出版社名で『此花』もここから発行されていた)刊。宮武外骨(慶応三(一八六七)年~昭和三〇(一九五五)年)は反権力に徹したジャーナリストで風俗研究家。「十二張裏」は「二十二」ページ(裏)の誤りで、「▲觀物(みせもの)」の章の内。原本当該部が国立国会図書館デジタルコレクションの画像で視認出来る

「御入部伽羅女」浮世草子。湯漬翫水(ゆづけがんすい)作。宝永七(一七一〇)年刊。「猥褻風俗史」の引用箇所は、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の原本の同巻一括PDF版8コマ目の十八章の「開帳(かいちやう)は本(ほん)の拔參(ぬけまいり)」の左丁五行目以下で確認出来る。

「寶永千載記」正式には「日本繁昌寶永千歲記」で、宝永二(一七〇五)年刊)の浮世草子。作者は田村栄秀。「猥褻風俗史」の引用箇所は、国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認したところ、巻之三のここの上段の右丁七行目から見出せた

「交接して、離れざるもの」激しい膣痙攣。

「便りて」普通に「便(たよ)りて」と読むが、ここはフラットな「~に依る・~を用いて」の意よりも、批判的な「~をよいことに・~にかこつけて」の意であろう。

「好色五人女」井原西鶴浮世草子で「好色物」第三作。貞享三(一六八六)年刊。全五話からなり、当時著名な巷説に取材し、「お夏清十郎」・「樽屋おせん」・「おさん茂右衛門」・「八百屋お七」・「おまん源五兵衛」の五組の恋愛・姦通事件を扱う。後世の歌舞伎・浄瑠璃にも数多くとりあげられることになる主人公たちを最初に描いた作品(小学館「日本国語大辞典」に拠った)。巻二の「情(なさけ)を入し樽屋物かたり」は「国立国会図書館デジタルコレクションの活字本のここから読める(一部伏字)。

「桂川連理柵」浄瑠璃。世話物。全二段。菅専助作。安永五(一七七六)年大坂北堀江市の側の芝居が初演。宝暦一一(一七六一)年、京都の桂川に十四、五の娘と五十男の死体が流れついた巷説を脚色したもの。信濃屋の娘お半と隣家の四十男の帯屋長右衛門とが伊勢参りの石部(いしべ)の宿での契りから、お半は懐妊、二人は桂川で心中するという筋立て(小学館「日本国語大辞典」に拠った)。私も二度ほど見た。活字本は国立国会図書館デジタルコレクションの「解説附 稽古本 義太夫名曲全集 桂川連理柵 おはん長右衞門 帶屋の段」がよい。]

 伊勢道中に限らず、諸所の聖地に、今も、間《ま》ま、實際斯《かか》る事有るは、四年前、七月二十日の『大阪每日』紙上、三面先生の「別府繁昌記」に、溫泉の由來を說明する「坊さん、猶、續けて云ふ、不思議な事には、中で不淨なことがあると、屹度、湯が冷《ひえ》切りますぢや。愚僧の時代にも、三度ほど、ありました。十年許り前になりますがの、男女の不埒者がありましてな、合《あふ》た所が、離れません。其時も、湯が、悉く冷切りまして、三日三夜(《みつか》みよさ)、大祈禱を行ひましたぢや。此頃は滅多に有りません。何(なん)し、信仰が强い因《よつ》て、其樣(そん)な馬鹿者は、十年に一人とも、まあ、出ませんわい」云々。紀州田邊に藤原拔高(《ふぢはら》のぬけたか)と綽名立《たち》し人、ありし。三十年程前、近町の寡婦と、高野の女人堂《によにんだう》で淫行して、離れ得ず、僧の加持を賴み、纔《わづか》に脫して還れるを、當時、流行唄《はやりうた》で、持囃《もてはや》され、今も記憶する人、多し。『續群書類從』所ㇾ收「八幡愚童訓」卷下に、御許山(おもとやま)の舍利會(しやりゑ)に、一僧、女房を賺(すか)して、人なき谷底にて犯しける程に、二人、抱き合ふて、離れず、命、失せに鳧《けり》と載す。文の前後を推すに、鎌倉時代の事の如し。

[やぶちゃん注:「三面先生」三面記事に引っ掛けた記者(後述)のペンネーム。サイト「別府大学地域連携プログラム」のこちらに、分割された当該記事の書誌データがあり、「別府温泉繁昌記(四)」として、『明治四十一年六月(大阪毎日新聞)』とあり、一九九三年十一月に発行された『別府史談』(第七号)の『目次には著者は「菊池幽芳」とあり』とある。菊池幽芳(ゆうほう 明治三(一八七〇)年~昭和二二(一九四七)年)は、当時の大阪毎日新聞社同社の文芸部主任で小説家でもあった人物で、本名は菊池清。後に社会部長・学芸部長・副主幹・同社取締役・相談役を歴任した(当該ウィキに拠った)。

「三夜(みよさ):「よさ」は「夜去る」(古語で「夜が来る」の意)の名詞化した「夜去り」の語尾が脱落したものである。懐かしい響きである。私が青春時代を過ごした富山では、「よさり」=「夜」という語が今も生きているからである。

「高野の女人堂」高野山は明治五(一八七二)年に女人禁制が解かれるまで、女性は入山出来なかった(女人結界)。高野山への参道は「高野七口」と呼ばれ、以前は、それぞれの入口に女性のための籠り堂として女人堂が建てられていた。女性信者はこの女人堂を巡りつつ、八葉蓮華の峰々を辿って御廟を遥拝したのであった。この巡礼道を「女人道(にょにんみち)」と呼ぶ。最も知られ、現在も唯一、堂がある京大坂道(きょうおおさかみち)女人堂が知られる(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)。

「八幡愚童訓」「はちまんぐどうくん」又は「はちまんぐどうきん」と読む。鎌倉時代中・後期の成立とされる縁起。作者不詳。「愚童訓」とは八幡神の神徳を「童子や無知蒙昧の徒にも分かるように読み説いたもの」という意味で、「三韓征伐」から「文永・弘安の役」までの歴史的事実を素材としつつ、八幡神の霊験を説いている。石清水八幡宮社僧の作と推定されている。「八幡大菩薩愚童訓」「八幡愚童記」とも言う。

「御許山」宇佐神宮(大分県宇佐市大字南宇佐)の背後にある山。宇佐神宮の神比売大神(ひめのかみ)が降臨した山として崇拝され、現在もその頂上は神域として立入禁止となっている霊山である。

「舍利會」寺に於いて仏の遺骨(その実態は概ね水晶である)を供養する法事のこと。舎利講会・舎利講とも言う。

「賺して」「騙(だま)して誘(いざな)い」の意。]

 外國の例は、元の周達觀の『眞臘(今の柬埔塞(かんぼぢあ)風土記《しんらふふどき》』に「異事」と題して、東門之裏、有蠻人淫其妹、皮肉相粘不開、歷三日不ㇾ食而俱死、余鄕人薛氏、居ㇾ番三十五年矣、渠謂兩見此事、蓋其聖用佛之靈、如此。〔東門の裏(うち)に、蠻人の、其の妹を淫する者、有り。皮肉、相ひ粘(ひつつ)きて開かず、三日を歷(へ)て、食(くら)はずして、俱(とも)に死す。余の鄕の人、薛(せつ)氏は、番(ばん)に居(を)ること、三十五年たり。渠(かれ)の謂ふに、「兩(ふた)たび、此の事を見たり。」と。蓋し、其れ、聖佛(しやうぶつ)の靈(くしび)[やぶちゃん注:霊妙。不可思議。]を用(もち)ひて、所以(ゆゑん)、此くのごときなり。〕。一八七七年龍動(ろんどん)板、ゴルトチッヘルの『ヘブリウ鬼神誌』一八二頁に、回敎徒が巡禮するカバ廟で、語らいした罰に、化石した男女の事を記せり。又、『嬉遊笑覽』所引、明の祝允明(しゆくいんめい)の『語恠(ごくわい)』に、兗《えん》州、人家の贅婿(いりむこ)其妻の妹と通じ、事、露《あらはれ》しが、抗辯して、岱山頂《たいざんいただき》に上《のぼ》り、二人、「果して、私《わたくし》あらば、神誅を受けん。」と祝し、山腹の薄闇き所で、忽ち、行淫して、久しく還らず。人々、尋ね見出《みいだ》せしに、二根、粘着(ひつつ)き、解《とけ》ずして、死し居《をり》たり、と有り。唐の段成式の『酉陽雜俎(いうやうざつそ)』續集六に、長安靜域寺之金剛舊有ㇾ靈、天寶初、駙馬獨孤明宅與ㇾ寺相近、獨孤有ㇾ婢名懷香、稚齒俊俏、常悅西隣一士人、因宵期於寺門、有巨蛇束ㇾ之俱卒。〔長安靜域寺の金剛は、舊(ふる)く靈(くしび)有り。大寶の初め、駙馬《ふば》の獨孤明の宅、寺と相ひ近し。獨孤に婢有り、懷春と名づく。稚齒(としわか)くして、俊俏(みめよ)し。常に西隣りの一士人と悅(たのし)む。因りて、宵(よひ)に、寺門に於いて期(あ)へり。巨蛇(うはばみ)、有りて、之れらを束(つか)ね、俱(とも)に卒(し)せり。〕。實《まこと》は、例の離れずに死に居(をり)たるを、「蛇に束ね殺されし」と僞言せしならん。

[やぶちゃん注:「眞臘風土記」元の周達観撰になる見聞録。成宗(テムル)の時代の中国人外交官であった周達観(一二〇七年頃~?)は成宗元貞元年(一二九五)年七月から翌年六月にかけて、クメール王朝(アンコール王朝)の真臘(現在のカンボジア)への使節団に随行して、約一年、滞在したが、その間に見聞きした現地の風俗や異聞を記録したもの。実際の執筆は一三〇〇年頃と考えられるが、アンコール時代の見聞録は他に例がなく、極めて重要な風俗資料とされる。引用部は「中國哲學書電子化計劃」の影印本の当該部で校合した。

「番」「蕃」の通用字であろう。「南蠻」と同義で、南方の異民族の地を卑称する語。

「ゴルトチッヘルの『ヘブリウ鬼神誌』」今回も作者・著者ともに私には未詳である。先のサイト版で『本書及び著者について、識者の御教授を乞う』と記したが、十三年間、誰からも報知はなかった。なお、そこで『ただ、これは南方の「十二支考」の一つ「田原藤太竜宮入りの譚」の「竜の起原と発達」の条に現れる「一八七六年版ゴルトチッヘルの『希伯拉鬼神誌(デル・ミスト・バイ・デン・ヘブレアーン)』に……」と、出版年に一年の齟齬はあるが、同じ書物かと思われる。「希伯拉」が「ヘブリウ」で、ヘブライである』と記したが、今回、さらに調べたところ、加工データとして使用させて頂いている「私設万葉文庫」「南方熊楠全集5(雑誌論考Ⅲ)」の電子データの中の、『日本及日本人』の大正四(一九一五)年一月一日発行に掲載された熊楠の「石蒜(せきさん)の話」(石蒜はヒガンバナの漢名)の中に、『ハンガリーのユダヤ人で博言学の大家たるゴルトチッヘルの『希伯拉《ヘブライ》鬼神誌』』という簡単な人物紹介が出ているのも確認出来た。再度、識者の御教授を俟つものである。

「カバ廟」カーバ。イスラム教の最高の聖地メッカのマスジド・ハラームの中心部にある建造物のこと。最高の聖地の最高の聖殿で、「カーバ神殿」とも呼称される。本来はアラビア語で「立方体」を意味する。宮殿の形状が立方体に近いことから名づけられた。グーグル・マップ・データ航空写真。サイド・パネルのこの画像なども参照されたい。

「嬉遊笑覽」国学者喜多村信節(のぶよ 天明三(一七八三)年~安政三(一八五六)年)の代表作。諸書から江戸の風俗習慣や歌舞音曲などを中心に社会全般の記事を集めて二十八項目に分類叙述した十二巻付録一巻からなる随筆で、文政一三(一八三〇)年の成立。私は岩波文庫版で所持するが、それらしいものが載る箇所を中心に、二度、目を通したが、見当たらない。見出し項目か、せめても巻数を示して欲しかったな、南方先生。発見し次第、追記する。

「祝允明」(一四六〇年~一五二六年)は明代中期の文人・書家。著名な書に「楷書出師表巻」がある。「語恠」は彼の志怪小説。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の元末明初の陶宗儀の手になる漢籍叢書「説郛」の巻第四十六(四十五とのカップリングPDF一括版)に「語怪」があり、「祝允明」撰として、110111コマ目に原文(標題は「神譴男女」)が出る。

「兗《えん》州」底本では、「兗(こん)州」であるが、上記「説郛」を見たところ、「袞」であることが判ったので、訂した。「選集」も河出文庫版の本篇も孰れも「兗(えん)州」とルビを振っており、以下のグーグル・マップ・データ表示名でも「エン州市」である。狭義には現在の山東省西南部にある済寧市兖州区の県級市である兗州市周辺を指すが、兗州の名は古代中国の天下九州の一である「兗州」に由来するので、当該ウィキによれば、唐代には『兗州は河南道に属し、瑕丘・曲阜・乾封・泗水・龔丘・鄒・任城・金郷・魚台・萊蕪の』十一『県を管轄した』とあり、寧ろ、以下の泰山を中心とした広域に相当する。

「岱山」山東省泰安市にある霊山とされる泰山。標高千五百四十五メートル。「封禅(ほうぜん)の儀」(中国の皇帝が直接に行った秘儀的祭祀の一つ。天命を受けた皇帝がこの泰山 の頂きに天を祭り(「封」)、麓の小さな丘である梁父(りょうほ)で地を祭って(「禅」)、王朝国家の成立と永続を祝福するもの。「史記」にその起源を伝えるが、確実に行ったのは秦の始皇帝が最初で、以降、前漢の武帝、後漢の光武帝、唐の玄宗などが実施した)が行われた霊山として知られ、道教の聖地五岳(東岳泰山・南岳衡山・中岳嵩山・西岳華山・北岳恒山)の筆頭であり、この山には、人の生死を司る神である「泰山府君」が住むと考えられていた。

「『酉陽雜俎』續集六に、「長安靜域寺の金剛は……」この部分、「維基文庫」の「酉陽雜俎/續集」の「巻六 寺塔記下」の電子化本文と校合した。この話は、平凡社一九八一年刊の『東洋文庫』の今村与志雄訳注「酉陽雑姐」第三巻の二十六ページの通し番号「宜陽坊静城寺(じょうじょうじ)」(通し番号「一〇五四」条)に続く形で、三十ページの「一〇五六」の条に現れる(以下は当該訳書を参照・引用した)。既に「一〇五四」で、門の東の内側には、夜叉や鬼神の画が描かれ、特に『鬼の頭上にとぐろをまいている蛇は汗烟(かんえん)』(この語、見かけないが、「冷汗が出て、それが煙のように立ち上るほど、慄(ぞっ)とする」という意か)「汗をかき、煙を吐くようにリアルで」の意か)『でおそろしい』とあり、東の廊の庭にある樹木や岩石も険阻にして奇怪であると記す。而して、「一〇五六」には『三門外の絵画も、やはり、皇甫軫の筆蹟である。金剛(こんごう)は、かねてから霊験があった』とし、『天宝〔七四二―七五五年〕のはじめ、附馬(ふば)の独孤明の邸宅は、寺と近かった。独孤には、懐春という名の女奴隷がいた。うら若く、きりょうがよかった。あるとき、西隣にすむ一士人が好きになって、そこで、夕方寺の門であいびきを約束した。ところが大きな蛇が、まきついてしめ、二人とも死んでしまった。』とある。独孤明は、今村先生の注によれば、玄宗の皇女信成公主が嫁いだ実在の人物である。皇甫軫(こうほしん)なる画家については未詳。]

 東晋の代に天竺三藏覺賢(ぶだぶはとら)が譯せる『觀佛三昧海經』卷七に云く、波羅奈(はらな)國の婬女、名は妙意、世尊、「此女を化度せん。」とて、三童子を化成《かせい》す。年、皆、十五、面貌端正、一切の人に勝れり。此女、之を見て、大《おほい》に歡喜し、語るらく、丈夫、我今此舍如功德天、富力自在衆寶莊嚴、我今以身及與奴婢上丈夫、可ㇾ備灑掃、若能顧納、隨我所願、一切供給、無ㇾ所愛惜。〔丈夫(をのこ)よ、我れ、今、此の舍(いへ)、功德、天のごとく、富力自在にして、衆寶もて、莊嚴(しやうごん)なせり。我れ、今、身(わがみ)及び奴婢(ぬひ)とを以つて、丈夫に奉(ささ)げ上(たてまつ)り、灑掃(さいさう)に備ふべし。若(も)し、能く顧みて、納(いて)れ、我が願ふ所に隨はば、一切を供給し、愛惜する所、無し。〕とて、招き入れ、卽附近已、一日一夜、心不疲厭、至二日時、愛心漸息、至三日時白言、丈夫可起飲食、化人卽起、纏綿不ㇾ已、女生厭悔、白言、丈夫異人乃爾、化人告言、我先世法、凡與ㇾ女通、經十二日、爾乃休息、女聞此語、如人食噎既不ㇾ得ㇾ吐、又不ㇾ得ㇾ咽、身體苦痛、如ㇾ被杵搗。至四日時、如ㇾ被車轢、至五日時、如鐵丸入一ㇾ體、至六日時、支節悉痛、如箭入一ㇾ心。〔卽ち、付(したが)ひ近づき已(をは)る。一日一夜、心、疲れ、厭(や)まず。二日に至りし時、愛の心、漸(やうや)く息(や)む。三日に至りし時、白(まを)して言はく、「丈夫、起きて、飮食すべし。」と。化人(かじん)、卽ち、起きるも、纏綿(てんめん)として、已(や)めず。女、厭悔を生じ、白して言はく、「丈夫は、異人なれば、乃(すなは)ち、爾(しか)り。」と。化人、告げて言はく、「我が先きの世の法は、凡そ、女子と通ずるに、十二日を經て、爾(しかるの)ちに休息す。」と。女、此の語(ことば)を聞き、人の、食らひて噎(おくび)するも、既に吐くを得ずして、又、咽(の)むを得ざるがごとし。身體の苦痛なること、杵(きね)にて擣-搗(つ)かるるがごとし。四日に至りし時は、車にて轢かるるがごとし。五日に至りし時は、鐵丸(てつぐわん)を體に入るるがごとし。六日に至りし時は、支節(しせつ)悉く、痛み、箭(や)の心(むね)に入るるがごとし。〕。婬女、大《おほき》に懲《こ》り果《はて》て、「我れ、今より、一生、色を貪らじ。寧ろ、虎狼と一穴に同處するも、色を貪《むさぼり》て、此苦を受けじ。」と念《ねが》ふ。化人亦嗔。咄弊惡女、汝廢我事業、我今共ㇾ汝合體處、不ㇾ如早死、父母宗親、若來覓、我於ㇾ何自藏、我寧經死、不ㇾ堪ㇾ受ㇾ恥、女言、弊物、我不ㇾ用ㇾ爾、欲ㇾ死隨意、是時化人、取ㇾ刀刺ㇾ頸、血流滂沱、塗汚女身、萎沱在ㇾ地、女不ㇾ能ㇾ勝、亦不得免、死經二日靑瘀臭熏、三日膖脹、四日爛潰。大小便利及諸惡蟲。迸血諸膿涂漫女身。女極惡厭而不得離。至五日時皮肉漸爛。至六日時肉落都盡。至七日時唯有臭骨。如膠如漆粘著女身。女發誓願。若諸天神及與仙人。淨飯王子能免我苦、我持此舍一切珍寶以用給施。〔化人、亦、瞋(いか)るらく、「咄(とつ)、弊惡女(あばずれめ)、汝は、我が事業を廢せり。我れ、今、汝と共に合體して一處なれば、早く死するに如(し)くはなし。父母(ぶも)・宗親(そうしん)、若(も)し、來りて覓(もと)むれば、我れ、何(いづ)くに於いて自(みづか)ら藏(かく)れんや。我れ、寧ろ、經(くび)れて死せん。恥を受くるに堪へず。」と。女、言はく、「弊物(ろくでなし)。我れは、爾(なんぢ)に用なし、死を欲するも、隨意なり。」と。此の時、化人、刀を取りて頸を刺す。血、流るること、滂沱(ばうだ)として、女身を塗-汚(けが)し、萎-沱(くづを)れて地に在り。女は勝《た》ふる能はざるも、亦、免るるを得ず。死して二日を經(へ)て、靑き瘀(うみ)、臭-熏(にほ)ふ。三日にして膖脹(ぼうちやう)し、四日にして爛(ただ)れ漬(つぶ)れ、大小便利及び諸惡蟲、迸(ほとば)しりし血と諸(もろもろ)の膿(うみ)、女身に塗-漫(へばりつ)く。女、極めて惡厭(おえん)するも離るるを得ず。五日に至りし時、皮肉、漸(しだい)に爛れ、六日の時、肉、落ち、都(すべ)て盡く。七日の時に至り、唯(ただ)、臭き骨、有るのみ。膠(にかは)のごとく、漆のごとく、女身に粘著(ねんちやく)す。女、誓願を發(ほつ)すらく、「若(も)し、諸天神及び仙人・淨飯王子(じやうぼんわうじ)、能く我が苦しみを免れしめば、割れ、此の舍の一切の珍寶を持(も)ちて、以つて、給へ施しに用ひん。」と。〕。斯く念ずる所え[やぶちゃん注:ママ。]、佛、阿難を伴ひ來《きた》る。女、之を見て、男の屍《しかばね》を離さんとするに、離れず。白氈《はくせん》もて覆ふに、臭き故、覆ひ得ず。大《おほい》に慚愧して救ひを乞ひければ、佛の神力で、臭屍、消失《きえう》せ、婬女、佛に歸依し、卽ち、道を得たり、と。是れ餘りに大層な話なれど、宗敎心厚かりし印度人中には、二根、離れざるを、愧じて死し、熱地の事故、忽ち、屍《しかばね》が腐り出《いだ》せし例も有りしに依《よつ》て、作り出したる訓戒なるべし。

[やぶちゃん注:以上の「觀佛三昧海經」の引用部は、「大蔵経データベース」のものでは、同じ訳者のものが見当たらないので、同訳者「東晉天竺三藏佛陀跋陀羅譯」の「維基文庫」の「觀佛三味海經」で校合した。熊楠の引用は省略があり、例えば、死体変相の初めの箇所を飛ばすなど、私には許し難いカットがあるため、そこは、勝手に補った。返り点もおかしく、これも勝手に変えた。この「観仏三昧海経」(かんぶつざんまいかいきょ)は十巻からなる仏典で、東晋のインド僧仏駄跋陀羅(ぶっだばだら 三五九年~四二九年)の漢訳になる。十二品(ほん)に分けて、仏を観想する際の方法と、その功徳について詳述したもの。仏駄跋陀羅は漢訳略称を覚賢・仏賢・覚見とも称し、北インド出身であったが、当時の東晋に渡り、仏典の漢訳に携わった訳経僧であった。「大般涅槃経」「華厳経」「摩訶僧祇律」等、禅関連の経典漢訳で知られる。南方の引用するエピソードについては、森雅秀氏の論文「『観仏三昧海経』「観馬王蔵品」における性と死」(『北陸宗教文化』第二十一 号二〇〇八 年刊所収・PDF)に詳しい。一読をお薦めする。

「波羅奈國」サンスクリット語「ヴァラナシ」の漢音写。ガンジス川中流の聖都カーシ(現在のヴァーラーナシー)を中心とした古代インドの王国。その郊外に釈迦に纏わる「鹿野苑」(ろくやおん)がある。古くからの王国であったが、釈迦の時代にはコーサラ国と併合されている。

「灑掃:「洒掃」とも。「洒」や「灑」はどちらも水を注ぎかけるの意で、水をかけ、塵を払って清掃すること。

「噎(おくび)して」「むせぶ・食物が喉に閊(つか)える」の意。

「宗親」広義には同姓の人々を指し、同じ先祖から別れた同姓の親族・血族を言うが。特に近親者を言うと考えてよい。

「淨飯王子」サンスクリット語「スッドーダナ」の漢音写。中インドのヒマラヤ山麓にあったカピラバストウ(迦毘羅衛城(かびらえじょう))という小都市を首都とする国(迦毘羅国(かぴらこく))の長で、シャカ族の王。彼の皇太子が釈迦で、妃は摩耶夫人(まやぶにん)。当時、シャカ族は共和制をしいていたと考えられている。一説では、この浄飯王の弟の息子が釈迦の弟子となった阿難であるともされる。

「白氈」白い毛氈のこと。毛氈は、獣の毛に湿気や熱・圧力を加えて、繊維を密着させ、織物のようにしたものを指す。]

 本朝の佛書には、弘仁中、僧景戒の著『日本靈異記』卷下に、寶龜二年夏六月、河内の人丹治比經師(たじひのきやうじ)、他人の爲に、野中堂《のなかのだう》にて、「法華經」を寫す際、雨を避けて、女衆《をんなしゆ》、狹き堂内に込合《こみあ》ひしに、經師婬心熾發、踞於孃脊擧ㇾ裳而婚、隨𨳯入※[やぶちゃん注:「※」=「門」+(「門」の中下に)「也」。]、携ㇾ手俱死、唯女口漚嚙出而死。〔經師(きやうじ)、婬(みだりがは)しき心、熾(さか)んに發り、孃(をんな)の脊(せなか)に踞(うづくま)り、裳(もすそ)を擧げて婚(くなが)ふ。𨳯(まら)の※(しなたりくぼ)に入るるまにまに、手を携へて俱に死す。唯(ただ)、女の口より漚(あわ)を嚙み出だして死にき。〕。又、卷之中に、聖武帝の時、紀伊の人上田三郞、妻が寺に詣《まゐり》しを憤り、往《ゆき》て、導師を、「汝、我が妻を婚《くながひ》せり。」と罵り、妻を喚《よん》で家に歸り、卽犯其妻、卒爾𨳯著ㇾ蟻嚼、痛死、〔卽ち、其の妻を犯す。卒爾(にはか)に𨳯(まら)に、蟻、著きて、嚙み、痛み死(じに)き。〕と出《いで》たり。又、『常陸風土記』香島郡の那賀寒田郞子(なかさむたのいらつこ)、海上安是孃子(うなかみあぜのいらつこ)と相愛し、嬥歌(かがひ)の會で出會ひ、松下に蔭《かく》れ、携ㇾ手促ㇾ膝陳ㇾ懷吐ㇾ憤、既釋故戀之積疹、還起新歡之頻咲中略俄而鷄鳴狗吠、天曉日明、爰僮子等不ㇾ知ㇾ所ㇾ爲、遂愧人見、化成松樹、郞子謂奈美松、孃子稱二古津松一、自ㇾ古著名、至ㇾ今不ㇾ改。〔手を携へ、膝を促ね、懷ひを陳(つら)ね、憤りを吐く。既に故(ふる)き戀の積もれる疹(やまい)を釋(と)き、還(また)、新しき歡びの頻りなる咲(えみ)を起こす。(中略)俄かにして、鷄(とり)、鳴き、狗、吠え、天(そら)、曉(あ)け、日、明らなり。爰(ここ)に僮子等(わらはら)、爲(な)す所(すべ)を知らず、遂に人に見らゆるを愧(は)ぢ、化(け)して、松の樹と成れり。郞子(いらつこ)を「奈美松(なみまつ)」と謂ひ、孃子(いらつめ)を「古津松(こつまつ)」と稱(い)ふ。古へより名を著(つ)けて、今に至るまで改めず。〕。是れも露(あら)はに言《いひ》たらねど、交會の儘、脫するを得ず、人の見るを羞《はぢ》て、二松、相連《あひつらな》れるものと化したり、と謂ふに非ざる歟。「相生《あひおひ》の松」、「連理の松」など、諸所に、間《ま》ま、有り。隨《したがつ》て、紀海音作『今宮心中丸腰連理松《いまみやしんぢゆうまるごしれんりのまつ》』てふ戯曲(じやうるり)抔あり。和歌浦《わかのうら》近く、「鶴龜松」とて、二本の松の根、連なれる有りしが、先年、倒れ失《うせ》たり。

[やぶちゃん注:「弘仁」八一〇年から八二三年まで。皇位は嵯峨及び淳和天皇。日本史上の事件としては弘仁元(八一〇)年の「薬子の変」が知られる。

「景戒」(生没年不詳)は「きょうかい」又は「けいかい」(現代仮名遣)と読む。奈良期の薬師寺の僧。延暦一四(七九五)年に伝灯住位を受けているが、専ら、本邦初の仏教説話集「日本國現報善惡靈異記(にほんこくげんぽうぜんあくりやういき)」の著者として知られる。この略称「日本靈異記」は延暦六(七八七)年頃に初稿を書き上げた後、増補改訂しながら、弘仁一三(八二二)年に完成させたものと推定されている。以下の話は、下巻第十八。以下に昭和三二(一九五七)年角川書店刊の板橋倫行校註版(正字正仮名)を参考に全文を引用し、板橋先生の注を参考に私の注を附す。それを以って本文の一部の注に代えることとする。なお、「※」は本文に注した漢字と同じ。因みに、本話は後の「今昔物語集」巻第十四の「丹治比經師不信寫法花死語第二十六」(丹治比の經師、不信にして「法花」を寫して死にたる語(こと)第二十六)で再話されている。新字であるが、「やたがらすナビ」の当該話をリンクさせておく。

   * 

   法花經を寫し奉る經師(きやうじ)、
   邪婬をなし、もちて、現に惡死の報
   を得る緣第十八 

丹治比(たじひ)の經師は、河内の國、丹治比(たじひ)の郡(こほり)の人なり。姓は丹治比なるが故に、もちて、字(あざな)とす。その郡の部内に、一つの道場あり。號(なづ)けて、「野中(のなか)の堂」と曰ふ。願を發(おこ)す人ありて、寶龜二年辛亥(かのとゐ)の夏六月、もちて、その經師を、その堂に請(う)け、「法花經」を寫し奉らしむ。女衆、參(ま)ゐ集(つど)ひて、淨水(じやうすい)をもちて、經の御墨(みすみ)に加ふ。時に未申(ひつじさる)の間に、段雲(たなぐも)り、雨、降る。雨を避けて、堂に入るに、堂の裏(うら)、狹-少(せま)きが故に、經師と女衆と、同じ處に居(を)り。ここに經師、婬(みだりがは)しき心、熾(さかり)に發(おこ)り、孃(をみな)の背(せなか)に踞(うづくま)り、裳(もすそ)を擧げて、婚(くがな)ふ。𨳯(まら)の※(しなたりくぼ)に入るるまにまに、手を携へて、俱に死ぬ。ただ、女の口より漚(あわ)を嚙み出して、死にき。あきらかに知る、護法(ごほふ)の形罰なることを。愛欲の火、身心を燋(や)くといへども、婬しきの心に由りて、穢(きたな)き行(わざ)を爲さざれ。愚人の貪(ふけ)る所は、蛾(ひひる)の火に投(い)るが如し。所以(このゆゑ)に律(りち)に云はく、「弱脊(じやくはい)、みづから、面門(めんもん)に婬(いん)す。」と、いへり。また、「涅槃經」に云はく、「五欲の法を知らば、歡樂、有ること無し。しばらくも停(とどま)ることを、得じ。犬の枯れたる骨を齧(かぶ)るに、飽-厭(あ)く期(とき)、無きが如し。」といふは、それ、これを謂ふなり。

   *

・「丹治比(たじひ)」:現在の大阪府松原市上田の柴籬神社を中心とした一帯を指すか。

・「經師(きやうじ)」:写経を生業(なりわい)とする職人。

・「野中(のなか)の堂(だう)」:底本脚注に『南河内郡埴生村』(はにうむあ)『野々上』(ののうえ)『に舊伽藍趾がある』と記す。これは、この寺の後身の大阪府羽曳野市野々上にある高野山真言宗青龍山野中寺(やちゅうじ)の境内内を指している。この寺の原形は聖徳太子建立三太子の一つであって、叡福寺(太子町)の「上の太子」、大聖勝軍寺(八尾市)の「下の太子」に対して、「中の太子」と呼ばれている。中世までの沿革はあまり明らかでなく、一時期は廃寺に近い状況だったと見られるが、寛文元(一六六一)年に再興され、江戸時代には律宗の勧学院として栄え、明治中期に現在の宗派に改宗されている(寺史は当該ウィキに拠った)。

・「寶龜二年辛亥(かのとゐ)の夏六月」ユリウス暦七七一年七月中旬から八月上旬。

・「𨳯(まら)」陰茎。「閉」の俗字。この場合、以下と合わせて考えれば、「ひらいたもの」を「ふさぐもの」という、一種の隠語であろう。

・「※(しなたりくぼ)」会陰部。「開」の俗字らしい。

・「護法」護法童子。仏法を守護するために働く童子姿の鬼神。護法天童とも呼ぶ。

・「律」:仏法に於いて僧侶の守るべき規則。

・「弱脊(じやうはい)みづから面門(めんもん)に婬す」:「面門」は口のことで、「若さ故に背の柔らかな若者は、情欲にとらわれれば、自分の口でもってさえ自慰行為をする」という謂いである。

・「五欲」色・声・香・味・触の五境への執着から生ずる五種の情欲。

・「法(ほふ)」サンスクリット語「ダルマ」の漢訳語。三宝(仏教における三つの宝物。仏・法・僧(僧伽:僧宗団))の一つ。本来は「保持するもの」「支持するもの」の意で、それらが信仰の中に於いて働く様態を意味する。仏教教義の法則のこと。「法」の通常の歴史的仮名遣は「はふ」であるが、仏教用語の場合は「ほふ」である。

・「齧(かぶ)る」喰らいしゃぶる。

「卷之中に、聖武帝の時、紀伊の人上田三郞、……」同前で電子化する。【 】は原文では二行割注。

   *

    僧を罵ると邪婬とにより惡病を得て
    死ぬる緣第十一 

聖武天皇の御世、紀伊の國伊刀(いと)の郡(こほり)、桑原の狹屋寺(さやでら)の尼等、願を發(おこ)し、かの寺に法事を修(しゆ)す。奈良の右京の藥師寺の僧題惠禪師(だいゑぜんじ)【字(あざな)を依網(よさみ)の禪師と曰ふ。俗姓、依網(よさみ)の連(むらじ)の故に、以て、字とす。】を請(う)け、十一面觀音の悔過(けくわ)を仕(つか)へ奉(つかまつ)る。時に、彼の里に、一(ひとり)の凶人(きようじん)あり。姓は文(ふみ)の忌寸(いみき)なり【字を上田三郞と云ふ。】。天骨(ひととなり)、邪見にして、三寶を信(う)けず。凶人の妻は、上毛野(かみつけ)の公(きみ)大椅(おほはし)が女(むすめ)なり。一日一夜に八齋戒(はちさいかい)を受け、參(ま)ゐりて悔過(けくわ)を行ひて、衆の中に居り。夫、外より、家に歸りて見るに、妻、無し。家人に問ふに、答へて曰はく、「參ゐりて悔過を行ふ。」といふ。聞きて瞋-怒(いか)り、卽ち、往きて、妻を喚(よ)ぶ。導師、見て、義を宣べて、敎化(きやうげ)す。信-受(う)けずして、曰はく、「無用(いたづら)の語(こと)たり。汝、吾が妻に婚(くなが)はば、頭(かしら)、罰(う)ち破らるべし。斯下(しげ)の法師。」といふ。惡口多言(あくくたごん)、具(つぶさ)に述ぶること、得ず。妻を喚びて、家に歸り、すなはち、その妻を犯す。卒爾(にはか)に、𨳯(まら)に、蟻、著きて、嚼(か)み、痛み死(じ)にき。刑を加へずといへども、惡心を發(おこ)し、濫(みだりがは)しく罵(の)りて、恥づかしめ、邪婬を恐れざるが故に、現報を得たり。口に百舌を生(しやう)じ、萬言白(まを)すといへども、ゆめ、僧を誹(そし)ること、莫かれ。たちまちに災(わざはひ)を蒙(かがふ)らむが故なり。

   *

・「邪婬」妻が八斎戒(在家信者が六斎日に守るべき八種の禁戒。不殺生・不偸盗・不淫・不妄語・不飲酒(ふおんじゅ)の五戒に、不歌舞観聴戒(ふかぶかんちょうかい:歌舞音曲について、その行為及び鑑賞の禁止)・不高広大床戒(ふこうこうだいしょうかい:高く広い豪華な寝台の使用禁止)。不非時食戒(ふひじじきかい:昼以後の飲食(おんじき)である非時(本来の仏教では僧衆は午前中に一度だけ食事をすることが出来るが、それではもたないので、午後などに摂ることをかく呼ぶ)禁止)の三種を加えたもの(後者の不歌舞観聴戒には不香油塗身戒(ふこうゆずしんかい:身体に贅沢な香油を塗ったり化粧をしたりすることの禁止)を含む)を修している最中に強引に交合をしたことを、かく言っているのである。

・「紀伊の國伊刀の郡桑原」底本脚注に『和歌山県伊都郡』とし、「桑原」は『所在不明。きの川の右岸の笠田村・大谷村のあたりだらうといふ。』とある。岩波の新日本古典文学大系三十八の「日本霊異記」の出雲路修氏による頭注では、同郡『かつらぎ町』(ちょう)『佐野(さや)に所在。佐野廃寺跡がその地とされる。』とする。ここ

・「題惠禪師」未詳。

・「悔過」懺悔(さんげ)。キリスト教が明治になって解禁される以前、日本では「ざんげ」とは読まなかった。

・「凶人」性質が粗暴で凶悪な人。

・「三寶を信けず」「三寶」は通常は既注のそれを指すが、ここでは成句として、「仏道への信仰心を全く持たないこと」を言っている。

・「上毛野の公大椅」不詳。「上毛野」は現在の群馬県で、「公」は国守のこと。

・「無用の語」馬鹿げたこと。題恵禅師が妻の無実を証明し、文忌寸の非道を諭した言葉に対しての傲岸不遜な罵詈雑言である。

・「斯下の法師」「このッツ! 糞坊主がッツ!」という罵倒である。

・「蟻」同じく新日本古典文学大系三十八の「日本霊異記」の出雲路修氏による頭注には、十一面観音を祈念する際の尊称として、『聖者の意の「阿利耶」「阿利也」が冠せられた語形が用いられる。アリヤ、と唱えたので蟻が救いに現れた、という説話か。』とある。いやいや! 魔羅から蟻、基! 目から鱗である。

・「萬言白すといへども」「どれほど、べらべらと、言いたい放題のことを言って、他人を罵る場合でも、」の意。

「『常陸風土記』香島郡の那賀寒田郞子、……」以下に一九三七年岩波書店刊の武田祐吉篇「風土記」の「香島の郡(こほり)」から該当箇所を参考に電子化し、私の注を附した(注では岩波の日本古典文学大系二の秋本吉郎校注「風土記」(一九五八年刊)の頭注に多くを依らせて頂いた)。底本の割注は【 】で示した。

   *

南に「童--女(をとめ)の松原」あり。古(いにしへ)、年少(としわか)き童子(わらは)ありき。【俗に、「かみのをとこ」、「かみのをとめ」といふ。】那賀(なか)の寒田(さむだ)の郞子(をとこ)と稱(い)ひ、女を「海上(うなかみ)の安是(あぜ)の孃子(をとめ)」と號(なづ)く。並(ならび)に形容(かたち)端正(きよら)にして、鄕-里(さと)に光(て)り華(にほ)へり。名-聲(な)を相聞(あひき)きて、同(とも)に望念(おもひ)を存(おこ)し、自(おの)づから愛(め)づる心、熾(さかり)き。月を經(へ)、日を累ねて、「嬥歌(かがひ)の會(ゑ)」に、【俗に「うたがき」といひ、又、「かがひ」といふ。】邂逅(わくらば)に相遇(あひあ)へり。時に、郞子(をとこ)、歌ひて曰(い)ひけらく、

  いやぜるの 阿是(あぜ)の小松(こまつ)に

  木綿(ゆふ)垂(し)でて 吾(わ)を振(ふ)り見(み)ゆも

  安是小島(あぜこじま)はも

孃子(をとめ)、報(こた)へ曰ひけらく、

  潮(うしほ)には 立(た)たむといへど

  汝夫(なせ)の子が

  八十島(やそしま)隱(かく)り 吾(わ)を見(み)さば 著(し)りし

すなはち、相-語(かた)らまく欲(ほ)りして、人の知らむことを恐(おそ)り、遊(あそび)の場(には)より、避けて、松の下に蔭(かく)り、手攜(たづさ)へ、膝を促(ちかづ)け、懷(おもひ)を陳(つら)ね、憤(いきどほり)を吐く。既に故(ふる)き戀の積れる疹(やまひ)を釋(と)き、還(また)、新しき歡びの頻(しきり)なる咲(ゑみ)を起こす。時に、玉のごとき露、杪(こぬれ)に候(うかが)ひ、金風(あきかぜ)の節(とき)なり。皎々(けうけう)たる桂月の照らす處、西の洲に唳(な)ける鶴(たづ)あり。颯々たる松風(まつかぜ)の吟(うた)ふ處、東の路に度(わた)る雁あり。山は寂寞として、巖(いはほ)の泉、舊(ふ)り、夜は蕭條として、烟(けふ)れる霜、新(あらた)なり。近き山には、おのづから、黄葉(もみじば)の林に散る色を覽(み)、遙けき海には、唯(ただ)、蒼波の磧(いそ)に、激(たぎ)つ聲を聽く。玆(ここ)に玆(こ)の宵(ゆふべ)あり。樂しみ、これより、樂しきは、なし。偏(ひと)へに、語らひの甘味に耽(ふけ)り、夜の闌(た)けなむとすることを、忘る。俄(にはか)にして、鷄(とり)、鳴き、狗(いぬ)、吠え、天(そら)、曉(あ)け、日、明(あきら)かなり。爰(ここ)に童子等(わらはら)、爲(せ)むすべを知らに、遂に、人に見らゆることを愧(は)ぢて、松の樹(き)と化-成(な)れり。郞子(をとこ)を「奈美松(なみまつ)」と謂ひ、孃子(をんな)を「古津松(こつまつ)」といふ。古(いにしへ)より、名を著けて、今に至るまで、改めず。

   *

・「童子女の松原」:「童子女」は「うなゐ」とも読む。岩波の日本古典文学大系二の秋本吉郎校注「風土記」の頭注に、ここを同定して茨城県波崎町(はさきまち)波崎の手子崎(てごさき)神社の『北方の旧若松村の海辺か。』とする。現行は手子后神社。古い地誌では上記の名で出るので問題ない。茨城県神栖(かみす)市波崎のここ。犬吠埼の北西直近で、利根川河口近くの左岸にある。

・「童子」複数を示しているので、髫(うないがみ)をしている男女の意。髫(うないがみ)とは、七、八歳の童児の髪を項(うなじ)の辺りで結んで垂らした髪型。また、女児の髪を襟首の辺りで切り下げた髪型をも言う。この場合は、次注から前者。

・「かみのをとこ、かみのをとめ」神男・神女であるから、彼らが下級神官の「祝(ほうり)」であったことが分かる。また、この時代、祝は、年齢に関わらず、垂髪(うない髪)でなくてはならなかった。

・「那賀の寒田」秋本吉郎氏頭注によれば、神栖村。現在の茨城県の最東南端にある神栖市内。現在、ここに「童子女(おとめ)の松原公園」がある。

・「海上の安是」秋本吉郎氏頭注によれば、利根川河口付近の地名とする。

・「嬥歌(かがひ)」古代の習俗である「歌垣」(うたがき)のこと。男女が山野・海浜に集まって歌舞飲食などをしつつ、豊作祈願や、その成就を祝った。多くは春と秋に行われたが、その場は相互の意思疎通による自由な性交渉も許される「ハレ」の場でもあって、古代における求婚形式としてはごく普通なものでもあった。

・「邂逅」偶然に出逢って。

・「いやぜるの……」「いやぜる」は秋本吉郎氏頭注によれば、地名の「安是」の冠称とする。意義は不詳。「小島」は「可憐な少女」を言うのであろう。オリジナルに自在に通釈する。

   *

 手折(たを)った安是(あぜ)の小松の枝に

 羽衣のごと木綿(ゆう)を懸け 垂らして舞うは乙女子よ

 その天つ女(おとめ)の羽衣は ああ 吾の方(かた)へと振ると見ゆ

 安是は可愛いや 小(ち)さき島――

   *

・「潮には……」同前で訳す。

   *

 潮(うしお)寄せくる浜の辺(べ)に 人に知られずあらばよし

 ああ そう思うたに 少年の眼(まなこ)確かに

 真砂なす 島の中にぞ隠れおる 我をつらまえ 走るは走る――

・「杪(こぬれ)」梢(こずえ)。

・「玆に玆の」強調形。

・「奈美松」秋本吉郎氏頭注によれば、『見るなの松。禁忌の樹で見触れることを避ける名か。』とする。

・「古津松」秋本吉郎氏頭注によれば、前注と同様に『屑松。同じく禁忌の樹で利用しない故の卑称か。コツは木屑の意。』とある。最後に。私はこの恋愛譚、何か哀しくとても美しいものに見える。これを、このような話の傍証にした南方が、珍しく、生理的嫌悪感を感じたことを告白しておく。

「紀海音」(きのかいおん 寛文三(一六六三)年~寛保二(一七四二)年)江戸中期の大阪の浄瑠璃作家・狂歌師・俳諧師。

「今宮心中丸腰連理松」浄瑠璃外題。正徳二(一七一二)年豊竹座初演。

「和歌浦」和歌山県北部の和歌山市南西部にある海岸。古来から景勝の地として知られ、「万葉集」にも詠まれた歌枕である。和歌浦の松と言うと、「布引の松」の方が有名(豊臣秀吉が「打ち出て玉津島よりながむればみどり立そふ布引の松」と詠んだ巨大松。但し、こちらも現存しない)。]

 宋の康王、韓朋を殺し、その美妻を奪ひしに、妻、自殺し、二人の墓より、樹、生じ、枝體、相交りしを、王、伐らんとせしに、鴛鴦に化し、飛び去れり、という。『長恨歌』に、地にあっては連理の枝とならんと、明皇(めいくわう)が貴妃と契りしも、詰まるところは、雙身、離れざるを望みたる也。支那には、男色の連理樹さへ有り。董斯張《とうしちやう》の『廣博物志』卷廿に云く、吳潘章少有美容儀、時人競慕ㇾ之。楚國王仲先、聞其名、來求爲ㇾ友、章許ㇾ之、章許之因願同學、一見相愛、情若夫婦、便同衾共枕、交好無ㇾ已、後同死、而家人哀ㇾ之、因合葬于羅浮山、塚上忽生一樹、柯條枝葉、無ㇾ不相抱、時人異ㇾ之、號爲共枕樹。〔吳の潘章(はんしやう)は、少(わか)くして、美なる容儀有り。時の人、競ひて之れを慕ふ。楚の國の王仲先(わうちゆうせん)、その美名を聞き、故(ため)に、來たり求めて、友と爲(な)さんとし、章、之れを許す。因りて、同(とも)に學ばんことを願ひ、一見して相愛すること、情、夫婦のごとく、便(すなは)ち、同衾共枕(どうきんきようちん)す。交好、已むこと無し。後(のち)、同(とも)に死す。而して、家人、之れを哀れみ、因りて羅浮山に合葬するに、塚の上に、忽ち、一樹を生じ、柯條枝葉(かじやうしえふ)、相抱(あひいだ)かざる無し。時の人、之れを異とし、號(なづ)けて「共枕樹(きようちんじゆ)」と爲(な)す。〕と。『日本紀』にも、神功皇后、紀伊に到り玉ひし時、兩男子、相愛し、死して一穴に葬られし事有り。但し、樹を生ぜし事なし。

[やぶちゃん注:「宋の康王、韓朋を殺し、……」これは私の愛読書である晋の干宝の撰になる「捜神記」巻十一に現れる話。但し、南方は「韓憑」を「韓朋」と誤っている。以下に「中國哲學書電子化計劃」の影印本の該当話を参考に漢字の一部を正字化し、句点・記号を追加・変更し、改行・段落を成形した。その後に、私の訓読文と現代語訳を、さらに改行・段落を成形して試みた(現代語訳には昭和三九(一九六四)年平凡社刊の竹田晃氏の訳を一部参考にしたが、比較して戴ければ分かるが、あくまで訳に困った部分だけの披見参考に抑えてある。また、私のは一部に自由な憶測を交えた自在勝手訳でもある)。

   *

 宋康王舍人韓憑娶妻何氏、美、康王奪之。憑怨、王囚之、論爲城旦。妻密遺憑書、繆其辭曰、

「其雨滛滛、河大水深、日出當心。」

 既而王得其書、以示左右、左右莫解其意。臣蘇賀對曰、

「其雨淫淫、言愁且思也。河大水深、不得徃來也。日出當心、心有死志也。」

俄而憑乃自殺。其妻乃陰腐其衣、王與之登臺、妻遂自投臺、左右攬之、衣不中手而死。遺書於帶曰、

「王利其生、妾利其死、願以屍骨賜憑合葬。」

 王怒、弗聽、使里人埋之、冢相望也。王曰、

「爾夫婦相愛不已、若能使冢合、則吾弗阻也。」

 宿昔之間、便有大梓木、生於二冢之端、旬日而大盈抱、屈體相就、根交于下、枝錯于上。又有鴛鴦、雌雄各一、恆棲樹上、晨夕不去、交頸悲鳴、音聲感人。宋人哀之、遂號其木曰、「相思樹」。「相思」之名、起于此也。南人謂、

「此禽卽韓憑夫婦之精魂。」

 今睢陽有韓憑城、其歌謠至今猶存。

    *

●やぶちゃんの訓読文

 宋の康王の舍人(とねり)、韓憑(かんぴやう)、妻として、何(か)氏を娶(めと)るも、美なれば、康王、之れを奪ふ。

 憑、怨めば、王、之れを囚(とら)へ、論(あげつら)ひて、城旦(じやうたん)と爲(せ)り。

 妻、密かに書を憑に遺(おく)るに、繆(びう)して、其の辭に曰はく、

「其れ、雨、滛滛(いんいん)として、河、大きくして、水、深し。日、出でて、心に當たれり。」

と。

 既に、王、其の書を得、以つて、左右に示すに、左右、其の意を解(と)く莫(な)し。

 臣の蘇賀(そが)、對(こた)へて曰はく、

「『其れ、雨、滛滛として。』とは、『愁へ、且つ、思ふ。』の言(い)ひなり。『河、大きにして、水、深し。』とは、『往來するを得ざる。』をいふなり。『日、出でて、心に當たれり。』とは、『心に死の志し有る。』をいふなり。」

 と。

 俄かにして、憑、乃(すなは)ち、自殺す。

 其の妻、乃ち、陰(ひそか)に其の衣(ころも)を腐らす。

 王、之れと臺に登るに、妻、遂に、自(みづか)らを、臺より投(なげう)つ。左右、之れを攬(とら)へんとするも、衣、手に中(のこ)らずして、死す。

 遺書、帶にありて、曰はく、

「王、其の生(せい)を利するも、妾(わらは)、其の死を利せんとす。願はくは、屍骨(しこつ)を以つて、憑と合葬せんことを賜はらんことを。」

と。

 王、怒りて、聽かず、里人(さとびと)をして、之れを埋めしむるに、冢(つか)、相ひ望ましむ。

 王、曰はく、

「爾(なんぢ)ら夫婦、相愛、已(や)まざるに、若(も)し、能く冢をして合はしめば、則ち、吾、阻(はば)まざるなり。」

と。

 宿昔(しゆくせき)の間(かん)、便(たちま)ち、大きなる梓(あづさ)の木、有りて、二つの冢の端に生(しやう)ず。

 旬日(じゆんじつ)にして、大きなること、抱ふるに、盈(み)ち、體(たい)を屈して、相ひ就き、根、下に交はり、枝、上に錯(まじ)はる。

 又、鴛鴦(をしどり)有り、雌雄、各各一つ、恆(つね)に樹上に棲み、晨夕(しんゆふ)、去らず、頸を交(かは)して、悲鳴し、音聲(おんじやう)、人をして、感ぜしむ。

 宋人(そうひと)、之れを哀れみ、遂に、其の木を號(なづ)けて曰はく、「相思樹」と。

 「相思」の名、此れに起くるなり。

 南人(なんじん)、謂ふに、

「此の禽(とり)、卽ち、韓憑夫婦の精魂なり。」

と。

 今、睢陽(すいやう)に韓憑城、有り、其の歌謠、今に至るまで、猶ほ、存す。

   *

●やぶちゃんの語注

・「城旦」四年又は五年の間、築城の労役に従わせる懲役刑。漢代には既にあった。

・「繆」現代仮名遣の音は「ビュウ」。「纏う」・「合せる」・「偽(いつわ)る」・「深く思う」の意だが、ここはそこから派生できる「意図的に別な言葉に纏わせて隠語を用いる」の意。

・「滛滛」長く雨が降り続くさま。

・「宿昔」この場合は「宿夕」に同じで、「たった一晩・束の間」の意。

・「旬日」十日ほど。

・「睢陽」春秋時代の宋の国都で、秦代には現在の河南省東部の商丘市の南に置かれた県。七五七年の唐の「安祿山の乱」に、張巡・許遠が城を死守し、反乱軍の進出を妨げた場所として知られるが、その城こそ韓憑が築いたそれなのである。

   *

●やぶちゃんの現代語訳

 宋の康王の侍従であった韓憑(かんぴょう)は、妻として何氏を迎えた。

 しかし、彼女がたいそう美しかったため、康王は、理不尽にも、彼女を韓憑から奪いとってしまった。

 憑は深く康王を怨んだが、それを聞き知った王は、突然、彼を無実の罪で捕縛するや、即座に、城壁修理の人夫とするという不当な懲役刑の判決を下してしまった。

 妻は、王や取り巻きの目を盗んで、夫の憑に密かに手紙を送ったが、その際、人が読んでも、まるで意味の判らない表現をもので、

「其れ 雨 滛滛として 河 大きくして 水 深し 日 出でて 心に當たれり」

(雨は、しとしとと、降りしきって、河は大きくして、水は深いのです。日は、さし出でて、心を射当(いあ)てます。)

とあった。

 ところが、そのうち、このことが露見してしまった。

 王が、その手紙を押収したところが、近習の者は、その文面を示してみても、誰(たれ)一人、その意を解せなかった。

 最後に、しばらく眺めていた家臣の蘇賀が、答えて、次のように言った。

「『其れ 雨 淫淫として』とは、『私は、愁えつつも、確かに、あなたのことだけを思っています。』という意味で御座います。また、『河 大きくして 水 深し』とは、『あなたのもとへ行きたいのですが、王や監視の者の眼が厳しく、私たち二人の間を非情にも隔てているのです。』という意味で御座います。そして、最後の『日 出でて 心に 當たれり』とは、これ、『ともに死ぬ誓いを心にしっかりと持っています。』という意味で御座います。」

と。

 間もなく、憑は、失意のうちに、自害してしまった。

 それを知った妻は、秘かに、自身の着衣に、さまざまな処理を施し、急激に繊維を痛ませたり、脆弱になるようにした。

 そうした、ある日、王が、彼女とともに高楼の物見台に登った時、彼女は、自(みずか)ら、

「ざっ」

と、台上から、身を投げたのであった。

 近習の者どもが、慌てて、これを捉(とら)えようとしたが、腐った衣(ころも)故に、手は、空しく、虚空を摑むばかりなのであった。

 彼女の帶には、遺書が挟まれており、そこに書かれてあった言葉は、

「王さま、私の身体(からだ)は生きている間は、あなたさまのお役にたちましたね。ですから、私は、死んだ後の私の身体くらい、私のために、私の思い通りに役立てとう存じます。願はくは、私の骸(むくろ)を、夫の憑とともに合葬して下されますように。」

であった。

 しかし、凶悪な王は、却って怒りを募らせ、遺言を聞き入れることなく、村人に命じ、埋葬させるに、その塚を、わざと韓憑の塚から離して、意地悪く、向かい合わせにさせたのであった。

 そうしておいて、王は、

「お前たち夫婦は、互いに深く、深ぁく、愛し合っておるようじゃなぁ。どうじゃ、もし、その離れた二つの土饅頭を、一つに合わすことが出来たとなら、儂(わし)はもう、お前らを、邪魔立ては、せんがのぅ。」

と、如何にも憎々しげな言葉を吐いたのであった。

 ところが、かく言い放って後、わずか一夜にして、双方の塚の端から、

「するする」

と、大振りの梓(あづさ)の木が生えて来た。

 そうして、これまた、十日も経つと、人が、やっと一抱え出来るか、出来ないかという太さにまで成長した。

 更に、不思議なことに、互いに、幹を曲げては、近づき合い、地面をよく見てみると、これ、地下でも、みるみる、根が絡み合ってゆくのが、土の蠢くさまで、くっきりと目に見え、頭上では枝が、ざわざわと、互いに交錯する、その音が、はっきりと聴きとることが出来るのであった。

 そうして、また、雌雄一つがいの鴛鴦(おしどり)が、常に、その連理の樹上に塒(ねぐら)を作り、朝から晩まで、その連理の枝の上にとまっては、互いの首を、絡(から)め絡めしては、悲しげに、鳴くのであった。

 その哀切の声に、心うたれぬ者は、一人としてなかった。

 宋の人は、これを哀れみ、遂に、その木を名づけて、「相思樹(そうしじゅ)」と呼んだ。

 そう、則ち、麗(うるわ)しくも深い男女の恋を名指すところの「相思」という言葉は、ここに始まったのである。

 南方の人の物語るところによれば、「この鴛鴦という鳥は韓憑夫婦の魂なのだ。」そうである。

 今も、睢陽(すいよう)には、失意の中で、人夫韓憑が築いたという堅牢な韓憑城があり、その二人の悲恋を歌った民謡もまた、今に至るまで、なお伝えられているのである。

   *

――さて、この恋愛譚も、如何にも哀しく切ないぞ! 南方先生よぅ! ちょいと、おふざけの度が過ぎやしませんか?! ってえんだ

「明皇(めいくわう)」唐の玄宗皇帝を指す。但し、白居易の「長恨歌」は中唐の詩篇であるから、憚って冒頭で主人公を「漢皇」と時代をずらしている。

「董斯張の『廣博物志』」董斯張は明代の文人。「広博物志」は彼の撰した博物書。五十巻。

「吳の潘章は……」この話は元代の「誠斎雑記」に既に所収するらしい(ネット上の情報で未確認)。今回、「中國哲學書電子化計劃」の「太平廣記」の「塚墓一」の「潘章」を発見したので、それと旧来のサイト版のそれとで、熊楠の引用を校合した。

「羅浮山」香港の北方、広州市の東・東莞市の北東にある現在の恵州市博羅にある山。道教十大名山の一つとして名高い。ここ

 「『日本紀』にも、神功皇后、紀伊に到り玉ひし時、……」「日本紀」は「日本書紀」のこと。この話は巻第九の鹿坂(かごさか)王・忍熊(おしくま)王の内乱のエピソードに現れる。神功皇后が反乱を起こした忍熊王を攻めるために小竹(しの:旧那賀郡志野村とも御坊市とも言われる)に入った神功皇后摂政元(二〇一)年二月の条である。以下、あるサイトに嘗つて存在した、朝日新聞社版「日本書紀」の電子化物を参考に、漢字を恣意的に正字化して電子化し、さらに私の訓読文と現代語訳を試みてみた(不表示字「櫬」は岩波版日本古典文学大系五の坂本他校注「日本書紀 上」(一九六七年版)で補填し、訓読文の不明な漢字の読みも、一部、そちらを参考にした)。

   *

適是時也。晝暗如夜。已經多日。時人曰。常夜行之也。皇后問紀直祖豐耳曰。是怪何由矣。時有一老父曰。傳聞。如是怪謂阿豆那比之罪也。問。何謂也。對曰。二者祝者、共合葬歟。因以令推問。巷里、有一人曰。小竹祝與天野祝、共爲善友。小竹祝逢病而死之。天野祝血泣曰。吾也生爲交友。何死之無同穴乎。則伏屍側而自死。仍合葬焉。蓋是之乎。乃開墓視之實也。故更改棺櫬。各異処以埋之。則日暉炳。日夜有別。

    *

●やぶちゃんの訓読文

 是の時に適(あた)りて、晝の暗きこと夜の如くにして、已に多くの日を經ぬ。時の人の曰はく、

「常夜(とこやみ)、行く。」

と、いふなり。

 皇后、紀直(きのあたひ)の祖(おや)豐耳(とよみみ)に問ひて曰はく、

「是の怪(しるまし)は何の由(ゆゑ)ぞ。」[やぶちゃん注:「怪(しるまし)」上代語。奇怪な前兆。不吉な前触れ。]

と問ひたまふ。時に、一老父有りて、曰(まを)さく、

「傳(つて)に聞く、是(こ)のごとき怪をば、阿豆那比(あづなひ)の罪と謂ふ。」

と。

「何の謂ひや。」

と。

 對(こた)へて曰さく、

「二つの社の祝(ほふり)をば、共に合はせ葬むるか。」

と。

 因りて、以つて、推し問はしむ。

 巷里(かうり)にて、一人有りて、曰さく、

「小竹(しの)の祝者(はふり)と天野(あまの)の祝と、共に善(うるは)しき友たりき。小竹の祝、病ひに逢ひて、之(ここ)に死す。天野の祝、血-泣(いさ)ちて曰はく、

『吾や、生きて交(うるは)しき友たり。何ぞ死して穴を同じくすること、無けんや。』

と。則ち、屍(かばね)の側(ほとり)に伏して、自(みづか)ら死す。仍(よ)りて、合はせ葬らふ。蓋し、是(これ)か。」

と。

 乃(すなは)ち、墓を開き、之れを視れば、實(まこと)なり。故(かれ)、更に棺-櫬(ひつぎ)を改め、各々、異れる處に、之れを埋(うづ)む。則ち、日の暉(ひかり)、炳(て)りて、日と、夜と、別(わきだめ)有り。

    *

●やぶちゃんの現代語訳

 丁度、この時(神功皇后が小竹(しの)に行宮(あんぐう)を置いた、その日)、一転、俄かに搔き曇って、昼なのに、真っ暗になって、夜のようであった。

 しかも、そんな日が何日も続いた。

 当時の人は、

「年中、夜(よる)みたようで、すっかり、お先真っ暗じゃ。」

と言い合ったそうである。

 皇后は紀直(きのあたい)の祖先であった豊耳(とよみみ)に、

「この怪異は、一体、何が原因なのか。」

と尋ねた。

 すると、そこに居た一人の老人が答えて、

「伝え聞いておりますことには、かほどに怪しい異変は、謂うところの『阿豆那比(あずない)の罪』なるものの、所為(せい)で御座いましょう。」

と申し上げた。

 皇后は問うた。

「それはどのような罪じゃ?」。

 老人が応じる。

「……さて、よくは存じませぬのじゃが、二つのお社(やしろ)に属する祝(ほうり:下級神官)を、一緒に合葬致しました咎(とが)を言うかとも……」

と、しどろもどろに答えた。

 そこで、人々に問い質(ただ)し、詳しく調べさせてみると、一人の村人が、

「嘗つて、『小竹(しの)のお社』の祝と、『天野のお社』の祝とは、非常に仲が良く、共に『無二の友』と誓い合うほどの間柄で御座いました。ところが、小竹の祝が、ふと、病いとなって、亡くなってしまったので御座います。天野の祝は、血の涙を流して号泣しつつ、

『私は彼と一緒に生きてきたのだ! どうして同じ穴で死ねないなどということがあろうか!』

と叫ぶやいなや、屍(かばね)の傍らに添い伏したかと思うと、あっという間に自害してしまったので御座います。そこで、哀れに思うた村人どもは、彼ら二人を、ともに葬ったので御座いますが……もしや……これが災いとなっているのでは御座いませんでしょうか?」

と告白した。

 そこで、皇后が、その墓を掘らせて見たところが、まさにそれらの詞通りなのであった。

 されば、新たに柩(ひつぎ)を用意し、それぞれ、別の地に、これを埋葬し直した。

 すると、すぐに、雲が晴れて、陽(ひ)の光りが輝き出し、漸(ようや)く、昼と夜との区別が出来るようになったのであった。

   *

【二〇二二年十一月六日追記】「阿豆那比(あづなひ)の罪」について注を附さなかったことがちょっと気になっていた。私は書かれた内容を等身大で理解していた。則ち、①二人の「祝」(ほうり)の遺体を、②合わせて葬ってしまったことが禁忌に触れるというダブルの禁忌が、この異常気象を引き起こしたという認識である(ただ、にしても、その直後ではなく、かなりの村人が忘れた頃になってから、おもむろに変事が起こること自体は不可解である。その因果関係を認識し得、しかも、それに対して適切な処置を施して呉れるような神がかった人間、則ち、神宮皇后が、展開上、必要だったということか)。「ダブル」の意は、この二人の「祝」は、別々な狭義の共同体(但し、近くてよい。親しかったというのだから、隣村でも問題ない)に属する者だったと推定することが、その①の理由なのである。よほど、大規模な神社でない限り、この時代、ここのような田舎の(失礼)同一の社(摂社を含む)に、同等の位の「祝」が複数いる必要はないと考えるからである。実際、以上の話でも、社名が違うことでそれは明白である。異なる産土神に仕える「祝」が、一緒に埋葬されてしまうのは、これ、タブーであること、明白である。続く②は、二人の、縁者でも何でもない他人同士の死者を、並べた状態(物理上の二重体)で埋葬するというのは、民俗社会おいて強く忌避されるべき行為だからである。それは本来、別々であるはずの魂が、ハイブリッドの状態で死後に二重なって存在するということになり、シャーマニズムの中では極めて異常なことだからである。それは、汎世界的に妊娠状態(出産まで)の女性が、普通の状態でない、邪悪な存在にとり憑かれやすい危険な異常な存在として古くは思われていたのと相同である(「血の穢れ」とは全く別物である)。それは、まさに妊婦に言える。一つの肉体に、二つの魂が同時にあるという点に於いて、その存在は「普通でない」のである。それは、母と子であり、縁者であるから、まだ、いい。しかし、ここは、赤の他人の成人男性二人が、一方の男の一方的な判断によって相死(あいじ)にし、しかも合葬されたという点に於いて、異常極まりなく、それに輪をかけて、というより、火に油を注ぐ如く、別々な産土神に奉仕する神職であることが加わって、致命的に太陽を翳らす凶変が起きたと考えるのである。親族や夫婦の合葬、或いは、殉死とは異なり、明かに運命共同体としての民俗社会では、この①も②も、許容の範囲を超えてしまった誤った行為であり、それは神罰が下されて、誰が考えても当然、と私は当たり前に考えたのである。だから、注をしなかったのである。

 因みに、南方熊楠は、この「續南方隨筆」の本篇と、その前のある諸篇から、私は、熊楠は、この二人の「祝」を同性愛者であると考えている節があるように思う。而して、この異変も同性愛者を合葬した結果、生じた、と理解しているのではないか? と、実は、疑っている。私は、当初、この話について、微塵も、同性愛者の合葬だからタブー、という考え方は持たなかった。それは、本邦に於いて、同性愛、特に男色が、民俗社会の禁忌であったことは、近代まで殆んど皆無であったと考えているからである。しかし、読者の中には、同性愛禁忌の方を原因としてとる方もあろうかと思う。「それに、ちゃんと反論するべきかなぁ。」、と考えている内に、今日、偶然、別なテクストで、この話を、再度、扱うことになったのであった。

 而して、この「阿豆那比(あづなひ)の罪」を、再度、考証せざるを得なくなった。ところが、これ、幸いにも、この問題を扱った論文があることを、今日の午後に発見したのである。難波美緒氏の論文『「阿豆那比の罪」に関する一考察』(『早稲田大学大学院文学研究科紀要』第四分冊・二〇一三年発行)である。「学術機関リポジトリデータベース(IRDB)」のこちらからダウン・ロード出来る。

 先ほど、全文を読んだが、近来、こんなに興味深く論文を読んだのは、久々であった。是非、一読をお薦めするが、この話については、「阿豆那比(あづなひ)の罪」を男色の罰とする説は、江戸後期になって、初めて登場していることが判明した。以下、私が感じたように、二つの社の祝であり、共同体の異なる社のそれであることを理由とする説が強く支持されており、さらに、合葬の十分条件が、この二人の男の場合、満たし得ないとする説も提示されており、難波氏は、はっきりと『男色が罪とされたとするのは誤りと言える』と述べておられるのである。

 神佛の罰に依《より》て、兩根、相離れざる諸話、全く據《よりどこ》ろ無きに非ず。本人、既に、自《みづか》ら、その非行を知るが故に、恐怖大慚《たいざん》して、陰膣痙攣(ヴアギニスムス)を起《おこ》し、雙體《さうたい》、忽ち、解くるを得ざる也(予が知れる一醫師、先年、東京に在りし日、華族の娘、書生と密會して、この症、頓《とみに》發し、離れ能はざる所へ招かれ、灌腸して、之を解《とか》し、翌日、五十圓を餽(おく)られし由、聞けり。)。場合に依り、故《ことさ》らに不可解を覓(もと)め樂しむ人もあるは、萬曆中の輯纂に係ると覺しき、『增補萬寶全書』卷六十、「春閨要妙」の篇中、相思鎖方(さうしさのはう)・金鎖玉連環方(きんさぎよくれんくわんのはう》等の奇法を載せたるにて明か也。

[やぶちゃん注:「大慚」おおいに恥じ入ること。

「陰膣痙攣(ヴァギニスムス)」現在の医学用語では「腟痙」(英語:vaginism/ドイツ語:vaginismus)が正しい。以下、信頼できる学術的な記載として、嘗つて万有製薬株式会社の提供していた「メルクマニュアル 第17版」「女性の性機能不全」より、「腟けいれん」部分をコピー・ペーストしたものを掲げる。

   《引用開始》

腟けいれん

腟の下部の筋肉の条件反射的な不随意性収縮(けいれん)で、挿入を阻みたいという女性の無意識的欲求が原因である。

 腟けいれんの痛みは挿入を阻むため、しばしば未完の結婚をもたらす。腟けいれんのある女性の一部は、クリトリスによるオルガスムを楽しんでいる。

病因

 腟けいれんは、しばしば性交疼痛症を原因とする後天的な反応で、性交を試みると痛みを引き起こす。性交疼痛の原因が取り除かれた後であっても、痛みの記憶が腟けいれんを永続させうる。その他の原因としては、妊娠への恐れ、男性に支配されることへの恐れ、自制を失うことへの恐れ、または性交時に傷つけられることへの恐れ(性交は必ず暴力的だという誤解)がある。女性がこのような恐れを抱いている場合、腟けいれんは通常原発性(生涯続く)である。

診断と治療

 患者の回避反応は、しばしば診察者が近づいた時に観察される。骨盤の診察時に不随意的腟けいれんが観察されれば、診断は確実である。病歴と身体診察により、身体的または心理的原因が確定できる。最もおだやかな骨盤診察によってさえ引き起こされるけいれんを除くために、局所または全身麻酔が必要な場合がある。

 有痛性の身体疾患は治療されるべきである(前述「性交疼痛症」参照[やぶちゃん注:「女性の性機能不全」内。])。腟けいれんが持続する場合には、段階的拡張などの、腟の筋肉けいれんを軽減する技法が有効である。切石位をとらせた患者に、十分に潤滑油を塗った段階的なサイズのゴムまたはプラスチックの拡張器を、最も細いものから始めて腟の中へ差し込み、そのままの位置に10分間置いておく。代わりにヤングの直腸拡張器が用いられることがあるが、理由はそれが比較的短く、不快感がより少ないからである。患者自身に拡張器を腟内に入れさせることが望ましい。拡張器を中に入れている時にケーゲル練習法を行うことは、患者が自身の腟筋肉のコントロールを発達させるのに役立つ。患者は腟周囲の筋肉をできるだけ長時間収縮させてから腟筋肉を緩めるが、この際同時に、緩めた時の感覚に注意を払う。患者に大腿の内側に片手を置かせてから、それらの筋肉を収縮させ、緩めるよう要求することが役に立つが、これは患者が一般的に、大腿、そしてこの処置の間は腟周囲の筋肉を、両方ともリラックスさせているからである。段階的拡張は、自宅で行ったり、または医師の監督のもとに1週間に3回行われるべきである。患者は1日に2回、自分の指で似たような処置を行うべきである。

 患者が、より大きい拡張器の挿入に不快感なく耐えられるようになったら、性交が試みられる。この処置には教育的カウンセリングが必要である。段階的拡張を始める前の性科学的診察は、しばしば有用である;患者のパートナーを同席させ、手鏡を使って患者に自分の身体を診察させながら、医師は諸器官の構造を同定する。このような処置は、しばしばパートナー双方の不安を軽減し、性的事柄についてのコミュニケーションを促す。

   《引用終了》

 以上の記載からも想像出来る通り、南方が頻繁に起こり得るように叙述している、性行為結合のままで離脱不能になるケースは、皆無でないものの、極めて稀であることは、ネット上に散見される信頼できる(と判断される)真摯な記事からも、また、実際にそのような事態を私自身、実際に見たことも聞いたこともなく(勿論、経験もない)、これが所謂、都市伝説(アーバン・レジェンド)の性格を持って、市井に流布されていることは明白なことと思われる。なお、万が一、私がそのような事態を経験した場合は、必ずや隠すことなくここで実例として掲げることをお約束する(約束して十三年、経験なし)。

「增補萬寶全書」明代の張溥撰になる医学書。未見につき、「春閨要妙」の内容(題名からはハウ・トゥ・セックス風の指南書と思しい)は未詳。

「相思鎖方」異常な持続性を示す房中秘法と思われるが、現代の中文サイト「健康排行榜」に「相思鎖」として以下の処方が嘗つて示されていた(コピー・ペースト。漢字の一部を正字化した)。

   《引用開始》

相思鎖藥方:辰砂三錢、肉蓯蓉酒浸培幹三錢、麝香五分、地龍七條瓦上烤幹。 制法、用法:碾爲細末、用龜血調爲丸、如綠豆大、房事前取一丸置龜頭馬口内。 功用:使陰莖粗長、脹滿陰戶。

   《引用終了》

「金鎖玉連環方」嘗つてあったサイト「四目屋漢方覚え書き」に「金鎖玉連環」として以下の処方が示されている(コピー・ペーストしたが、二箇所の「?」部分は、中文漢方サイトを渉猟し、それぞれ「匀」及び「蓯」であることを認めたため、補填した)。なお、「四目薬」というのは、同サイトで『四目屋媚薬は恋慕の情(性欲)を催す薬ですが、男性性器を大きくする薬、女性性器を小さくする薬、も媚薬と呼んでいます。性交部のきつさで性感が高まると信じられるからです。私達江戸庶民はこれら全てを四目薬と呼んでいます。』と説明されている。

   《引用開始》

◇金鎖玉連環〔四目薬〕

制法・用法:碾為細末、加入膽汁、攪匀、線紮於通風処四十九天陰乾

      毎用一分、津調塗於玉茎上

功用   :行事交鎖不脱

   雄狗膽…………………1個

   肉蓯蓉…………………3錢(酒浸、瓦上焙乾)

   川椒……………………5分

   紫稍花…………………1銭

   硫黄……………………5分

   韭子……………………10

   《引用終了》

 以下の「附言」は、底本にあるが、「選集」にはない。底本では全体が一字下げである。]

 附言 第二十一枝に拙文「婦女を妓童(わかしゆ)に代用せし事」に出でゝ後、『源平盛衰記』巻卅「榛澤成淸(はんざはなるきよ)巴(ともえ)女の事」を、其主人重忠に話す内、義仲の、「乳母子(めのとご)乍ら、妾(おもひもの)にぞ、内には童(わらは)仕ふ樣にもてなし、軍《いくさ》には一方の大將軍して、更に不覺の名を取らず。」と有るを見出しつ。然らば、巴も妓童風態(わかしゆぶり)して、木曾に隨身せるにて、先《まづ》は、若衆女郎體《てい》の者たりしならん。又、『覺後禪』第十七回に依れば、支那に『奴要嫁傳(どえうかでん)』なる書あり。一个《いつこ》の書生が、隣りの室女(きむすめ)を非路行犯する事を述たる物の由也。

[やぶちゃん注:『「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 婦女を姣童に代用せし事』の注の最後で、「選集」にある正字化されたそれを電子化し、注も附しておいた。

 因みに、私は巴御前が大好きだが、ここに書かれている内容は、頗る腑に落ちるものである。]

« 曲亭馬琴「兎園小説拾遺」 第一 「志賀隨應神書」 | トップページ | 「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「話俗隨筆」パート 盜人灰を食ひし話 »