大和怪異記 卷之三 第十二 大蛇をころしたゝりにあふ事 / 卷之三~了
[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の本文部分はここから。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。
正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。なお、底本のルビは歴史的仮名遣の誤りが激しく、ママ注記を入れると、連続してワサワサになるため、歴史的仮名遣を誤ったものの一部では、( )で入れずに、私が正しい歴史的仮名遣で《 》で入れた部分も含まれてくることをお断りしておく。]
第十二 大蛇をころしたゝりにあふ事
伊與国宇間郡《うまのこほり》龍池(りやうのいけ)の庄屋龍池忠衞門といひしものゝ屋敷は、いにしへ、龍のすみし淵を、うづみて、家を作りしとかや。
そこに、三、四尺四方に、水、少《すこし》、殘《のこり》て、常に、あり。
寬永十五年七月十五日に、一在所(ひとざいしよ)の者共、
「嘉例なり。」
とて、忠衞門が庭にて、おどり[やぶちゃん注:ママ。]を催しけるに、いかなる事にか有けん、忠衞門夫婦、いさかひを仕出(しいだ)し、宵より、奧の座敷に入《いり》、八歲になる子を、いだきて、いねたりしに、かの子、
「わつ。」
と鳴出(なき《いだ》)しにおどろきをきて、みれば、何とはしらず、子が片うでを吞(のみ)しかば、咽(のど)とおぼしき所を、
「はた」
と、にぎりて、声を立(たて)しかど、おどり、最中なれば、しばしは聞えざりしが、とかくして聞付(きゝつけ)、踊子をはじめ、見物のものまで込入(こみ《いり》)、我も我もと、わきざしをぬきて、かのばけものを切(きれ)ば、見るうちに大《おほき》なる蛇(じや)となる。
胴中(どう《なか》)は、臼(うす)程なりしを、人、あまたにて、とりすて、
「さもあれ、此蛇は、いづくより來りし。」
と、座敷の内を尋(たづね)見しに、蚯蚓(みゝず)の出入《いでいる》程の穴、座(ざ)のわきに有て、件(くだん)のたまり水の砂の上に、はひたる筋(すぢ)、ほそく見えし。
「これより出《いで》たる成《なる》べし。」
と諸人(しよにん)思へり。
やがて、忠衞門、わづらひて死し、それより、兄弟・伯父・從弟にいたるまで、一族七十餘人、相《あひ》つゞきて死(しに)けるぞ、不思儀なれ。「犬著聞」
やまと述異記卷三終
[やぶちゃん注:原拠「犬著聞集」自体は所持せず、ネット上にもない。また、所持する同書の後代の再編集版である神谷養勇軒編の「新著聞集」にも採られていないようである。
「伊與国宇間郡龍池」「宇間郡」は「宇摩」で、現在の愛媛県の東部(グーグル・マップ・データ)で、四国のほぼ中央の地域名。当該ウィキによれば、『宇摩は、歴史的にも古くからあった名称で、古文書によると、和銅二(七〇九)年の『「河内国古市郡西林寺事」に「伊予国宇麻郡常里」とあるのが郡としての名の初見とされる。また』、「和名類聚抄」に『「宇摩郡」とあり』、五『郷が記されている。また』、「宇麻」とも『異記されている。このように古くは「宇麻」としていたようであるが』、「和名類聚抄」の『「宇摩」を今日まで継承している』とある。「龍池」は不詳。
「寬永十五年七月十五日」グレゴリオ暦一六三八年八月二十四日。
「奧の座敷に入」の「座敷」の「敷」の右手には「いた」という読みが振られているが、意味不明なので示さなかった。]
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