大和怪異記 卷之四 第十一 孕女死して子を產育する事
[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の本文部分はここと、ここ。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。
正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。なお、底本のルビは歴史的仮名遣の誤りが激しく、ママ注記を入れると、連続してワサワサになるため、歴史的仮名遣を誤ったものの一部では、( )で入れずに、私が正しい歴史的仮名遣で《 》で入れた部分も含まれてくることをお断りしておく。]
第十一 孕女(はらみ《をんな》)死して子を產育する事
土佐国、浦邊にあるもの、懷姙《くわいにん》にて、身まかりぬ。
しかるを、染(そめ)かたびらを、きせて、葬れり。
其のち、近邊に「もちや」ありしに、夜(よ)ごとに、錢壱匁づゝもちて、もちを、かい[やぶちゃん注:ママ。]に來《きた》る女、あり。
六日、來《きたり》て、七日めには、「かたびら」をもち來り、
「これに、あたるほど、たまはれ。」
とて、もちにかへて、歸りぬ。
翌日、かたびらを見れば、あまりによごれし程に、あらいて、ほしけるとき、かの女のをつと、通りあはせ、これをみ、
『もし、塚をほりて取(とり)たるか。』
と、うたがひ、ゆへをとひければ、
「しかしか。」
と、かたりしかば、ふしぎの事におもひ、其夜、「もちや」がかたに、女、來るを、うかゞひみるに、をのが[やぶちゃん注:ママ。]妻なりしかば、あとを、したゐ[やぶちゃん注:ママ。]ゆくに、はか所《しよ》に入《いり》けるを、心しづかに、耳をよせて、きけば、あか子のなく聲、しけるほどに、いよいよ、あやしみ、つかを、ほりかへし見れば、子をうみて、ひざのうへに、すへたり[やぶちゃん注:ママ。]。
その子を、つれかへり、はごくみしに、成人して、寬文元年の比(ころ)、十八、九歲にて、船頭と成(なり)、大坂に來りしを、見たり。
死しても、子をおもふみちに、まよふ。
おやのこゝろほど、あはれなる事は、あらじ。「犬著聞」
[やぶちゃん注:「犬著聞集」の後代の再編集版である神谷養勇軒編の「新著聞集」にも採られていないようであるが、これは「子育て幽霊」として頓に知られる話柄であり、私の記事でも枚挙に遑がないほど、甚だ多い。個人的には好きな類譚である(「餅」の代わりに「飴」であるものも本邦では多い)。蘊蓄物で個人的には好かぬが、原拠の一つなどを注で探っておいた「古今百物語評判卷之二 第五 うぶめの事附幽靈の事」や、「伽婢子卷之十三 幽鬼嬰兒に乳す」、また、民俗学からの「うぶめ」の考証物では、『柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 橋姫(3) 産女(うぶめ)など』を挙げておこう。また、当該ウィキの「子育て幽霊」もあり、その「餅を買う女」の項を見て戴くと、本譚の濫觴が南宋の洪邁の撰になる怪奇談集「夷堅志」(一一九八年成立)に載せるものと酷似することが紹介されてある。これは同書の「夷堅丁志」の「宣城死婦」である。「中國哲學書電子化計劃」の影印本の当該部で起こす。暴虎馮河の自然流で訓読する。
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宣城經戚方之亂、郡守劉龍圖被害、郡人爲立祠。城中蹀血之餘、往往多丘墟。民家婦任娠、未產而死。瘞廟後、廟旁人家、或夜見草間燈火、及聞兒啼。久之。近街餅店、常有婦人抱嬰兒來買餅。無日不然。不知何人也。頗疑焉。嘗伺其去、躡以行、至廟左而沒。他日再至、留與語、密施紅線綴其裙、復隨而往、婦覺有追者、遺其子而隱。獨紅線在草間塚上。因收此兒歸。訪得其夫家、告之故、共發塚驗視、婦人容體如生、孕已空矣。舉而火化之。自育其子、聞至今猶存。荊山編亦有一事小異。
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宣城、「戚方の亂」を經て、郡守劉龍圖、害せられ、郡人、祠(ほこら)を立てんと爲(す)るも、城中、蹀血(てうけつ)の餘り[やぶちゃん注:血の海となって。]、往往、丘墟[やぶちゃん注:荒れ果てた野。]、多し。
民家の婦(をんな)、任娠して、未だ產せずして、死す。
瘞廟(えいびやう)[やぶちゃん注:廟を設けて埋葬すること。]の後(のち)、廟の旁らの人家、或る夜、草の間(あひだ)に燈火を見、兒の啼くを聞くに及ぶ。
之れ、久し。
近街の餅(もちう)る店に、常に婦人の嬰兒を抱きて來たりて餅を買へる有り。然らざる日、無し。何人(なんぴと)なるか知らざるなり。
頗(すこぶ)る、疑へり。
嘗(こころ)みに、其の去れるを伺ひ、以つて、躡(あとお)ひ行くに、廟の左に至りて、沒(うしな)へり。
他日、再び至れば、留めて與(とも)に語り、密(ひそ)かに紅き線-綴(いと)を、其の裙(すそ)に施し、復た、隨ひて往(ゆ)きたるに、婦、追へる者、有るを覺え、其の子を遺(のこ)して隱れたり。
獨(ただ)、紅線のみ、草の間の塚の上に、在り。
因りて、此の兒を收(いだ)きて歸る。
其の夫(をつと)の家を訪ね得て、之れを告げし故、共に塚を發(あば)き、驗(こころ)み視るに、婦人の容體(やうたい)、生けるがごとく、孕(はら)は、已に空(くう)たり。
舉(とりあ)げて、火にて、之れを化(おく)れり。
自(みづか)ら、其の子を育み、聞くに、今に至りて、猶ほ、存すと。
「荊山編」に『亦、一事の小異、有り。」と。
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「寬文元年」一六六一年。徳川家綱の治世。
「死しても、子をおもふみちに、まよふ」と一見、辛口に批評しつつ(仏教では父母の子を思う心を最大の妄執の一つとして戒めている)、糞「徒然草」の辛気臭いそれに終らず。「おやのこゝろほど、あはれなる事は、あらじ」と思いやって感じは、いい。]