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2022/11/05

曲亭馬琴「兎園小説拾遺」 第一 「浦賀屋六右衞門話記」

 

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。昨年二〇二一年八月六日に「兎園小説」の電子化注を始めたが、遂にその最後の一冊に突入した。私としては、今年中にこの「兎園小説」電子化注プロジェクトを終らせたいと考えている。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちら(右ページ上段終りから六行目から)から載る正字正仮名版を用いる。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。

 馬琴の語る本文部分の句読点は自由に変更・追加し、記号も挿入し、一部に《 》で推定で歴史的仮名遣の読みを附した。]

 

   ○浦賀屋六右衞門話記【靈巖島、住居。】

去る十三日【文政元年五月十三日也。】亥刻、相州浦賀へ、異國船一艘、着す。右船、遠州沖にて、伊勢白子《しろこ》の船乘共、見掛候に付、遠く避《さけ》て乘行候得共、兎角、跡を追來候樣子に相見え候間、「多分、海賊の船哉《かな》。」と恐怖仕《つままつり》、猶、以、船を早め候處、彼船に被追越候故、又々、遲めに船をやり候得ば、又復《またまた》、彼船、相從ひ、遲めに相成候を見候に付、愈《いよいよ》、船の者共、驚天仕、彼是《かれこれ》と致候内、伊豆沖に相成候へば、「此分にては、入津《にふしん》仕《し》がたし。」と存《ぞんじ》、伊豆相摸の間に【此處の名、忘却。】、」碇を卸し、日暮を相待《あひまち》、彼船を出し拔き、浦賀へ入津可ㇾ仕旨、船中相談致し、夜に入《いり》、四時《よつどき》頃に帆を揚《あげ》、浦賀へ着船致し、右之趣、委敷《くはしく》御番所へ申上候。

[やぶちゃん注:「浦賀屋六右衞門」江戸初期から東浦賀を代表していた干鰯問屋(ほしかどいや)の宮原屋与右衛門の既に隠居して霊岸島に住んでいた旧店主か。

「文政元年五月十三日」グレゴリオ暦一八一八年六月十六日。この年は文化十五年四月二十二日に仁孝天皇即位のため、改元している。この浦賀に来た船は、先に述べてしまうと、イギリス船である。「国立公文書館」の「デジタルアーカイブ」の「4.視聴草(みききぐさ)」を見られたい。当該書の始末書写しの資料が画像で見られる。解説には、『番所の役人が事情を尋ねたが』、『言葉が通じない。江戸から天文方の足立左内(あだちさない 信頭(のぶあきら))・馬場佐十郎(ばばさじゅうろう 貞由)が派遣され、来航の経緯を聴取したということです。異国船現る!の報が達すると、この地で海岸防備に当たっていた会津藩兵が抜き身の槍を持って出動し、兵船で取り囲むなど緊張が高まりましたが、イギリス船はインドからロシアヘ向かう途中の商船で、交易は不可、即刻退去するように勧告すると、静かに姿を消したと書かれています。通訳を務めた足立左内と馬場佐十郎は、オランダ語を解したうえ、共にゴロウニンの一件』(ウィキの「ゴローニン事件」を参照されたい)『で松前に出張してロシア語を学んでおり、当時最も外国語に通じた幕臣でしたが、英語の理解力は不十分だったようです』とある。

「伊勢白子」現在の三重県鈴鹿市白子(グーグル・マップ・データ。以下、指示のないものは同じ)。

「四時」午後十時前後。]

一、此異國船、松平肥後守樣御固め場、三崎浦を過《すぎ》候節は、未の下刻、白子船、碇を卸候は、申の刻に候。此處【地名、忘却。】、獵船、多く候故、皆々、「唐人船。」と申、逃候も有し。又、おそるおそる、船に近寄候處、さしてかまひ候體《てい》も見え不ㇾ申候に付、彼船へ、乘移り、見候人も、有しよし。乍ㇾ去《さりながら》、此處の浦人は、猥《みだ》りに見候事は話し不ㇾ申候故、御固め御番所の御方は、一向、御存無ㇾ之由に御座候。此船、白子船と同時に、浦賀へ着船仕候。右の船、此邦、五、六百石積《づみ》の船程に相見え申候。帆三ケ所、檣《ほばしら》二本、四人、乘《のり》、何れも六尺位に見え候。中に、一人、六尺三、四寸位、尤《もつとも》衣服、筒袖に候故、大きく見え申候。乍ㇾ去、此方、御役人と並びし處、差《さし》て違ひも無ㇾ之に付、只、見《みて》、大きく見え候歟《か》と存候。船は、總《すべて》、黑塗にて、中程に、一筋、白き所、御座候。波付の處は、銅にて張つめ有ㇾ之、不ㇾ殘、チヤン塗也。

[やぶちゃん注:「松平肥後守」当時の相州三浦の三崎は陸奥国会津藩の領分で、藩主は第七代松平容衆(かたひろ)。但し、未だ数え十六であった。因みに、この四年後に二十歳で亡くなっており、彼の死によって徳川秀忠の男系直系は断絶している。

「未の下刻」午後二時半から三時頃。

「申の刻」午後四時前後。

「此處【地名、忘却。】」先のリンク先の始末書写しを見るに、久里浜沖である。

「四人、乘」檣(マスト)に上っている人員数。

「六尺」一メートル八十二センチメートル弱。

「六尺三、四寸」一・九一~一・九四メートル弱。

「波付」舷側。ふなばた。

「チヤン」通常は「瀝青炭」を指すが、この頃は同様な充填・塗装材として用いる「松脂」もこのように言った(日本人がそうとった)ものと思われる。瀝青は「chian turpentine」の略とされ、タールを蒸留して得る残滓、又は、油田地帯などに天然に流出固化する黒色、乃至、濃褐色の粘質物質、又は、固体の有機物質で、道路舗装や塗料などに用いる「ピッチ」を指す(「広辞苑」に拠った)。]

一、船のトモに土藏體《てい》の物、有ㇾ之。是も圖【◎圖、省略。】の如く、總體、白きに、黑き筋、有ㇾ之候。此處は、錠《ぢやう》、おり候間、何故とも相分り不ㇾ申候。又、此錠、有ㇾ之前に、長者、一人、是は頭分《かしらぶん》の者と相見え、小事に一向、かまい不ㇾ申、只、終日、日本[やぶちゃん注:この右手にママ注記有り。]物計《ばかり》、讀居《よみをり》申候。中に一人、此頭の弟かと申者、有ㇾ之、是は、服も、外のよりは美敷《うつくしく》御座候て、顏も野《や》ならず、髯《ひげ》なども、そり候故、格別、目立申候。

[やぶちゃん注:「トモ」艫。船尾。

「土藏體」不詳。私は当初、固定された巨大な大砲を収納してあったものかとも思い、次では献上品と推測しているが、一日に異常な回数で何度も出入りしているから、孰れも違うか。よく判らぬ。後で大筒は出る。]

一、十四日の朝、浦賀船乘《ひなのり》共、右、船、見物に參り申候者の中に、一人、彼船に乘移り候處、異人共、皆々、顏に風呂敷程の物を覆ひ、熟睡仕候故、試《こころみ》に取はづし見候へば、面體《めんてい》、白く、眼中、赤く、髮・髯・眉毛、赤く、鼻筋通り、此邦の人とは相違候故、驚き、船より飛おり、逃申候。是より、浦々のもの共、小船にて見物に參り候處、彼《かの》船中へ招き入れ、悉く、見物爲ㇾ致候《いたさせ》へ共、船底は、何程《いかほど》有ㇾ之候哉《や》分り不ㇾ申候。只、家猪《ぶた》[やぶちゃん注:二字への読み。]・雞(にはとり)の類、多《おほく》畜《たくはへ》候故、臭氣、堪がたく候。又、所々見せ候中《うち》、錠おろし有ㇾ之所を、見せ候樣、手まねいたし候所、異人共、指二本をさし出し見せ、又、首のあたりを、手にて、たゝき申、錠、をさへ[やぶちゃん注:「押(お)さへ」か。]候眞似、仕候。是は、彼、國王よりの献上物を入れ候故、首を刎《はね》らるゝ共、聞き不ㇾ申との事哉《なり》と推察仕候。

一、日々、兩人づゝ手をこまぬき、右土藏の物の前へ、百度參りやうなる事を仕、終日、五百遍計りもいたし申候。相濟候へば、頭分のもの、書を讀立候《よみたてさふらふ》と、外、八人の者、前へ並び、禮を盡し候樣子に相見申候。

一、江戶より、御通辭、御兩人、御出被ㇾ成、船の元にて、何々と被ㇾ仰候と、異人共、大喜《おほよろこび》の體《てい》にて、彼《かの》船へ御招き申、毛氈を敷《しき》、菓子など、とりそろへ、もてなし候樣子にて、能《よく》、言語も相通《あひつうじ》候よし。

一、十四日、會津樣御役人中《ちゆう》樣、異國船御見分に御出被ㇾ成候節、異人共、皆、笠をとり、御役人方の前へ差出《さしいだし》、其御役人方、御冠り被ㇾ成《なられ》候笠を、とり替《かへ》、おのれが臂《ひぢ》にて、寸尺をとり、戾し候よし。何の故とも相分り不ㇾ申候。

[やぶちゃん注:これは単に相手が帽子をとって挨拶したのを、役人たちが帽子を贈り物と勘違いしたに過ぎないのではなかろうか。]

一、大筒、其外の武器、幷に所持の種ケ島、佩劔、帆・楫等、御取上げに相成候よし。【但、帶劔、鞘、無ㇾ之、創之幅二寸ほどと申事に候。】

一、右、品々御取上の後、又々、帆を拵へ掛申候。楫も拵候よし。

一、右、揖を拵候節、カンナを取出候處、此邦のより、よほど大きくて、向ふへ、向ふへと、けづり申候。

一、武器、多く、船へ仕入來候事、如何《いかん》の儀と御尋有ㇾ之候處、海賊の防《ふせぎ》の爲に候よし、申上候とぞ。

一、右、大筒御取上の節、異人一人にて差出候、鐵砲、二人かゞりにて、堪がたき、よし。

一、異人共、只、「江戶、江戶、」と申計《ばかり》相分り候て、外、言語、一向、相通じ不ㇾ申。「江戶」と申も、此邦へは、「イド」と計、聞え申候。

一、願書、漢字・國字、其外、和蘭國王の添狀、持參候得共、和蘭王の印、無ㇾ之よし、風聞申候。併《ならびに》、願書の儀なども、下說《げせつ》にては、色々、申候間、しかと致し候事、一向、分り不ㇾ申候。

[やぶちゃん注:「下說」下々の者の勝手な噂。]

一、御通辭方、御出被ㇾ成候て、渡海の料《れう》に米を被ㇾ下べきよし、御尋有ㇾ之候處、米は、五百俵、積來《つみきたり》候に付、水計《ばかり》被ㇾ下候。外に、枇杷《びは》被ㇾ下候處、誠に大喜の樣子のよし。

一、十四日の朝、沖に、大船、相見え候得ども、何艘と申事、分り兼申候。或は三艘とも申、或は二艘とも申候。又、十五日の夕方にも相見え申候。

一、檣の上に、二人、乘《のる》程に、拵候物、御座候て、是へ、繩梯子かけ、有ㇾ之、何か相談有ㇾ之節、此處にて致し申候よし。

一、異人共、天眼鏡の樣なる物を所持仕候。是は水の淺深を計り申候器《き》のよし。

[やぶちゃん注:どんな形の器械なのか、私には判らない。何方か御教授をお願いする。]

一、大行燈《だいあんどん》有ㇾ之、是は硝子にて、張詰《はりつめ》有ㇾ之候に付、大船中、是一つにて明《あかるく》なるよし。

一、碇、此邦とは相違仕り、

 

Ikari

 

如ㇾ此、二股なる木の兩端に、鐵をはめ候ものなり。その木計《ばか》りにても、石よりも、おもきよし、右、碇、二本にて、此大船をとゞめ申候。右、碇、シヤチにて上下仕候。其シヤチの中ほどに、穴、有り。その穴の中へ、木を入れ、卷申候。卷《まく》こと、一廻り仕時候《じこう》、シヤチの兩方に釣り御座候て、自然と落《おち》候へば、碇繩、跡へは、もどり不ㇾ申候故、手もなく、數百貫目の碇を、容易に二人にて上下仕候。一人は碇の綱を預り候て、世話いたし候由。

[やぶちゃん注:画像は吉川弘文館随筆大成版のものをトリミング補正した。

「シヤチ」「車地」或いは「車知」と書き、重い物を引っ張ったり、持ち上げたりするために、綱をかけて巻き上げる大きな轆轤(ろくろ)のこと。「絞車」(こうしゃ)や「車盤」(しゃばん)とも言う。]

一、衣服、皆、羅紗、着用仕居申候。

一、此船、イギリス國の令にて、榜葛羅(べんから)國より出帆いたし候由。

[やぶちゃん注:「榜葛羅(べんから)國」ベンガル地方。現在のインドの西ベンガル州とバングラデシュに相当。]

一、廿一日、願の儀、一切御聞屆無ㇾ之旨、被仰渡、卽日、早々、出帆被仰付候由。

一、出帆の節、九人の者共、名殘惜《なごりをし》き體《てい》にて、船の霞《かすみ》候まで、遠眼鏡にて見申候。

一、此日、又復、沖に船見え候由にて、浦賀騷ぎ候得ども、出船いたし候船の、沖に漂ひ候也《なり》とも申候。

[やぶちゃん注:以下の二段落は底本では全体が一字下げ。]

右浦、六話、記畢《しるしをはんぬ》。船の圖は左にあり。

此後、文政五年七月、又、來る。次の卷に載たる船の圖には、檣、三本ありて、大同小異なり。おもふに、次の卷の圖は、五年の七月に來つる船の圖なるべし。これ彼、合せ考べし【圖、省略。】。

[やぶちゃん注:「文政五年七月、又、來る」先の「国立公文書館」の「デジタルアーカイブ」の「4.視聴草(みききぐさ)」の解説に、『『視聴草』続二集の六には』、文政五年四月二十九日(グレゴリオ暦一八二二年六月十八日)、『再びイギリスの船が浦賀に来航したときのことが記されています。またしても足立・馬場の両名が派遣され、オランダ語を解する乗務員から、同船が』二『年前に本国を出航した捕鯨船で、水、食料、薪を補給するために立ち寄ったことを聴き取ります。幕府の警戒は厳しく、白河、小田原、川越各藩に出動を命じ、多数の船で捕鯨船を囲みましたが、船内には鯨油のほか荷物はなく、薪水と食料そして「敗血病」治療用の「山土」(病んだ足を土中に漬けると快方に向かうというのです)など希望の品が手に入ると、捕鯨船は』五月八日(グレゴリオ暦六月二十六日)『に浦賀を去りました。『視聴草』には、船内の捕鯨道具や乗組員の食器等の図のほか、「諳厄利亜人言語之大概(あんげりあじんげんごのたいがい)」と題してさまざまな英単語が紹介されています』とある。]

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