曲亭馬琴「兎園小説拾遺」 第一 「享保八癸卯年御蔭參抄錄」
[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。昨年二〇二一年八月六日に「兎園小説」の電子化注を始めたが、遂にその最後の一冊に突入した。私としては、今年中にこの「兎園小説」電子化注プロジェクトを終らせたいと考えている。
底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちら(右ページ上段最終行から)から載る正字正仮名版を用いる。
本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。
馬琴の語る本文部分の句読点は自由に変更・追加し、記号も挿入し、一部に《 》で推定で歴史的仮名遣の読みを附した。今回は短いので、そのままとした。
前回の「松坂友人書中御陰參りの事」に続き、文政一三・天保元(一八三〇)年閏三月に発生した伊勢神宮への「お蔭参り」の正篇の続篇のキリとなる第五弾である。但し、内容は、以上の「お蔭参り」の比較対照附録としての先行する享保八(一七二三)年に発生した同じ爆発的集団参拝(当時は「お蔭参り」の言葉はなく、概ね「抜け参り」と呼ばれた)の参考資料の抄録である。
なお、前回までに注したものは繰り返さないので、検索でこちらへ来られた方は、上記正篇第一話から順にブログ・カテゴリ「兎園小説」で読まれたい。]
○享保八癸卯《みづのとう》年「御蔭參」抄錄
當三月初《はじめ》かたより、諸國、伊勢參《まゐり》、多く、京都も、下々《しもじも》、子供迄、ぬけ參仕候。大かた、「先年、寶永三年の參宮人《さんぐうびと》程も、可ㇾ有ㇾ之か。」と噂御座候。依ㇾ之、東石垣町の者共、申合《まをしあはせ》、男女《なんによ》廿人餘《あまり》、參宮仕《つかまつり》、下向《げかう》に、津に一宿仕候處、旅籠屋《はたごや》亭主と、石垣町の駕籠の者と、喧嘩仕、駕籠の者三人、薄手《うすで》負《おは》せ申候。津よりも、京都御町奉行へ申參、種々《しゆじゆ》御穿議之處、手負は、所にて養生被二仰付一候て、事、相濟候。旅龍屋は津の「桔梗屋」と申候由。是の者の所、御奉行、御《お》かばひ故、樣子、知れ不ㇾ申候。右は四月中旬之事也。右の喧嘩に打續《うちつづき》、祇園町之者、男女三十八人、此外、荷持《にもち》・駕籠之者共、大勢、召巡《めしつれ》參宮仕候。「のぼり千里安行參《せんりやすくゆきまゐる》」と書付、其次に三色染分《みいろそめわけ》の吹貫《ふきぬき》、太鼓・笛・鼓・三味線の類《たぐゐ》、爲ㇾ持《もちなし》、衣服、種々、異形《いぎやう》にて、宿々共《ども》、囃子立《はやしたて》、步行仕《ありきゆきつかまつり》候樣子、相知《あひし》れ、四月廿二日、御屋敷え[やぶちゃん注:ママ。]、被二召寄一、樣子、御聞被ㇾ遊。廿三日、又々、不ㇾ殘、銘々、口書《くちがき》御取可ㇾ被ㇾ成候由。參宮仕候男女・下々迄、御呼寄、御詮議之最中に、松屋理兵衞儀、年寄故、御屋敷へ相詰居《あひつめをり》候留守の内、忰《せがれ》佐兵衞、頓死仕候。「若《もし》は、自害にも可ㇾ有《あるべき》。」と御檢使被ㇾ遣候處、病死に極《きはま》り申候。のぼり・吹貫、銘々着仕候衣類、取寄御覽被ㇾ成候。扨、被二仰渡一候趣は、「旅の事故、伊達成《だてなる》物を着候儀は、尤《もつとも》に候得共《そうらえども》、總體《そうたい》の致方《いたしかた》、よろしからず。道中、傍若無人の樣子、不埒《ふらち》に候。依ㇾ之、すみ田屋才右衞門、翁屋伊左衞門、すみ田屋庄右衞門、弟・吉文字屋庄―郞、四條角屋五郞右衞門、うどんや・繩手の水茶屋、二人《ふたり》【二人は「かさや平七」、「平野屋」。】、国太夫、常太夫、合《あはせて》九人、御預け被ㇾ成候。祇園町、南北年寄、繩手新地、建仁寺町、宮川町、以上、拾町《じつつやう》の年寄共、遠慮被二仰付一候。石垣町、祇園町、南町共、濟候。いまだ得《とく》と樣子相知れ不ㇾ申候。以上【名付に、少々、相違《あいひたがひ》、有ㇾ之。過料の所に委《くは》し。】
一、五月廿六日、祇園町、參宮の出會料《しゆつくわいれう》上納にて、御赦免。
鳥目十貫文【建仁寺北門前、上之町。】丸屋 五郞右衞門
同 參貫文【同所。】 年 寄 勘 兵 衞
同 五貫文【祇園町。】 吉文字屋 庄次郞
同 五貫文 十文字屋次郞三郞
同 六貫文 翁屋 伊左衞門
同 三貫文 松代屋 理 兵 衞
同 六貫文【同所。但、三文めづゝ。】年寄 理 兵 衞
同 五 兵 衞
同 五貫文【祇園新地・淸水町。】 宮 こ 路國太夫
同 三貫文【同所。】 年 寄 喜左衞門
同 三貫文【同新地・富永町。】 同 吉 兵 衞
鳥目五貫文【大賀路廿一新町。】 若狹屋 半右衞門
同 五貫文 一文字屋 源 助
同 三貫文【同所。】 年 寄 伊 兵 衞
同 三貫文【建仁寺西門前上之町。】 大和井 常 太 夫
同 三貫文【同所。】 年 寄 新 兵 衞
同 三貫文【同北門前南町。】 同 治 兵 衞
同 三貫文【大賀路常磐町。】 同 右 兵 衞
同 三貫文【同辨才天町。】 同 十右衞門
同 三貫文【四條河原。】 同 新 四 郞
同 三貫文【宮川筋三町目。】 同 五郞右衞門
合《あはせて》鳥目八拾二貫文
「すみ田や」才右衞門は、元より、御構《おかまひ》無ㇾ之、依ㇾ之、過料も出し不ㇾ申候。
右、「月堂見聞集」卷之十五に出《いづ》。
按に、世人、只、寶永二年に「お蔭參り」の事を、のみ、知《しり》て、享保八年にも、又、かくの如くなりしを、いふもの、稀也。因《よつて》抄出、畢《をはんぬ》。
[やぶちゃん注:「寶永三年の參宮人」ウィキの「お蔭参り」によれば、宝永二(一七〇五)年の夏四月から五月にかけて、「抜け参り」の特異点があったことが記されてあり、発生地は京都で、参詣者は三百三十万から三百七十万人に及んだ(当時の日本総人口は元禄一三(一七〇〇)年で二千七百六十九万人であるから、当時の日本人の約七%相当)とし、以下の解説がある。『宝永のお蔭参りは、「お蔭参り」という呼称はまだ用いられていないものの、京都と大坂を中心に、畿内一円から四国、東は江戸まで及ぶものとなったことや、沿道で参宮者への施行が行われたこと、人々の社会観に新しい展開をもたらしたことから、本格的なお蔭参りの始まりであるとされる』。『本居宣長の』「玉勝間」の『記載によると』、四『月上旬から、京都の人々を中心に』一日に二、三千人が『松阪を通り』、四『月中旬には』一『日に』十『万人を超えた』。五『月に入ると』、『大坂にまで波及し、五『月中旬には最高値となる』一日二十三万人を『数えた』、『この間の平均値は』、一日七『万人程度であった』。『元禄期以降』、『盛んになっていた伊勢参りにおいては、その中心はあくまで成人男性であったが、この宝永のお蔭参りでは』、『女性や子供の割合が高くなっている』。『元禄期以降の経済成長によって、庶民経済が向上し』、『伊勢参り』が『盛んになる一方、格差が生じて』、『貧しい生活を強いられ、参宮が困難な階層も生じてきたが、女性や子供など、そのような日常において参宮の機会を得られない人々が、突発的に参詣に向かったことで生じたのが』、「お蔭参り」『であると考えられ』ている。『このため』、この『宝永の』「お蔭参り」では、『後のような享楽的現象は見受けられず、伊勢参りへの信仰心の強さが根底にある』とある。なお、ウィキによれば、その後で、この記事よりも五年前の享保三(一七一八)年にも、「抜け参り」の特異点があった(こちらは発生年だけで記事はない)。
「參宮の出會料」よく判らないが、「伊勢参り」の人々に施行するための寄付金を京都奉行所へ先に出していたということだろうか。
なお、以下、京の旧町名など、知らぬものだらけだが、私には労多くして、益、全くない。やらない。悪しからず。
それにしても、この全五篇の「お伊勢参り」の面影は、私には、現代の日本より、遙かに人心が暖かったのだなぁと強く感じたことを述べて終わりとする。]
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