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2022/11/20

大和怪異記 卷之三 第七 紀州眞名古村に今も蛇身ある事

 

[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の本文部分はここと、ここ(単独画像)。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。なお、底本のルビは歴史的仮名遣の誤りが激しく、ママ注記を入れると、連続してワサワサになるため、歴史的仮名遣を誤ったものの一部では、( )で入れずに、私が正しい歴史的仮名遣で《 》で入れた部分も含まれてくることをお断りしておく。]

 

 第七 紀州眞名古(まなご)に今も蛇身(じやしん)ある事

 紀州日高郡眞名古村は、いにしへ、眞名古庄司(まなごのしやうじ)が住《すみ》し所なり。

 此村は、

「蛇(じや)の子孫なり。」

とて、隣鄕(りん《がう》)より、婚姻を、むすばざれば、伯父・姨(おば)・姊妹のわかちもなく、緣をむすび侍る。

 此村に、いにしへより、蛇身の女、一人づゝ、かならず、うまるゝ事、今にいたりて、たゆる事、なし。

 其女は、眉目(みめ)かたち、人にすぐれ、髮は、たけにあまり、地を、ひけり。

 五月、墜栗花(つゆ[やぶちゃん注:三字への読み。])に入《いる》ごとに、件(くだん)の女の髮、とりもちなどを塗(ぬり)たるやうに、もつれあひ、櫛(くし)も、いれがたし。

 梅雨侯(つゆのこう)、あけば、あたりの川にて、あらふに、さはやかに、

「はらはら」

と、とける、となり。

「此女は、在所にても、一生、つれあふ男、なし。」

と、いへり。同【○『紀州矢田庄《やたのしやう》、天音山《てんおんざん》道成寺は、文武帝、大寶年中、紀大臣道成《きいのおほおみみちなり》、奉行として草創なる故、「道成寺」と號す。』と、「紀州志」に見たり。世に云《いふ》怪說の事は、曽《かつ》て見えず。】

[やぶちゃん注:前話同様、「犬著聞集」原拠。調べてみたところ、底本と同じ「新日本古典籍総合データベース」のこちらで、当該原本の抜書と同一と思われる写本「犬著聞集 拔書 全」(高知県立高知城歴史博物館・山内文庫)があり、ここに「真砂村蛇身女叓」(まさごむらじやしんのこと)とあった。さらにこれは、幸いにして、後代の再編集版である神谷養勇軒編の「新著聞集」にも所収する。「第十 奇怪篇」にある「眞名古村(まなこむら)蛇孫(じやそん)髮(かみ)粘(ねば)る」である。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の寛延二(一七四九)年刊の後刷版をリンクさせておく。ここ、と、ここ(単独画像)。今までと同様、本書の作者がだいたい忠実に引用しているのであろう様子が窺える。

「紀州日高郡眞名古村は、いにしへ、眞名古庄司が住し所なり」筆者は敢えて何も言わないのであるが、これはもう、所謂「道成寺物」「安珍清姫」の物語として知られる場所と人物である。私はサイトに「――道 中―― Doujyou-ji Chronicl」という単独ページを作るほどには、「道成寺」フリークであり(私は若き日に教え子に招待されて金春流の「道成寺」を観賞し、激しい感動を受けたのが最初である。私は生涯で見た舞台では、真に感銘して文字通り、「息を止めて」見たのは、この時の「道成寺」と、アントニオ・ガデス舞踊団の「血の婚礼」、転形劇場の「水の駅」の三つだけである。道成寺を訪れた際には鬼となった彼女が本堂で踊り狂うという現場を見たほどであった(事実である。実は、たまたま、町内の秋に向けての観光キャンペーンのために能楽師のシテを呼んでポスター写真を撮っていたに過ぎなかったのだが、それを知らずに入ったら、鬼面の後シテが、御堂の柱に纏わってこちらを「きっ!」と見つめられた時には、正直、心臓がドキドキした))。同伝承の現存する最も古い記載は、十一世紀初頭平安中期の比叡山の僧鎮源(伝不詳)の記した上中下三巻から成る仏教説話集

「大日本國法華經驗記(げんき)」の下巻掉尾にある「第百廿九」の「紀伊國牟婁郡の惡しき女」

とされる。そこでは、女に名はなく、彼女が恋慕する僧にも名は、ない。二人の僧が熊野詣での途中、「牟婁郡(むろのこほり)」の「路の邊(ほとり)の宅(いへ)」に泊めて貰う。その家の「主(あるじ)」で独り身の女が若い方の僧に恋慕するという形をとっており、後半の道成寺に至るカタストロフと救済の枠組みは既にしてほぼ同じである。その後、この伝承が後に、

「今昔物語集 第卷十四」の「紀伊國道成寺僧寫法花救蛇語第三」(紀伊の國の道成寺の僧、法花を寫して蛇(じや)を救へる語(こと)第三)

となって人口に膾炙し始めるが(「今昔物語集」の成立は平安末期の一一二〇年代(元永三・保安元(一一二〇)年~大治四(一一二九)年)からあまり遠くない白河法皇・鳥羽法皇による院政期の頃に成立したものと考えられている)、そこでも、未だ、二人の男女に名は、ない。僧らの泊ったのは「牟婁の郡」の、やはり独り身の女の自宅であるが、従者が、二、三人いる相応の屋敷である。因みに、これ以前の設定では、この女、おぼこい娘という感じでは、実は私には全くしないのである。若くして父母の旧主人を失って、忠実な下人らに守られて、ここに住みなしているやや若い女(年増女とは思いたくはないが、それは完成されてしまった「道成寺」伝承に私が無意識的に惹かれているからに過ぎないのであって、虚心に読むなら、一屋の下男下女を持つ女主人は十代の娘よりも、二十代後半の方の印象の方が相応しいのではないだろうか?)であって、後の清姫のような、清純一筋、意地悪に言い換えると、現実を理解し得ないパラノイア的傾向を多分に持った娘には、とても読めないことも、言っておく。

鎌倉末期の元亨二(一三二二)年に、臨済僧で東福寺・南禅寺住持を務めた名僧虎関師錬によって書かれた本邦初の仏教通史

「元亨釋書」(げんこうしゃくしょ)の「卷第十九」の「願雜十之四 靈怪六 安珎」の「釋安珎」

に載った際、恐らく現存する道成寺伝説の中で初めて主人公が「鞍馬寺の」「釋安珎」と名指さられることとなる。泊るシークエンスは「今昔物語集」に相同(従者は「婢」)。而して、

道成寺所蔵の「道成寺縁起(絵巻)」(この絵巻自体は室町後期十六世紀に描かれたものである)

の私も面白く拝聴させて戴いた「安珍清姫の物語」の「絵解き」のそれでは(「道成寺」公式サイト内のこちらを参照されたい)。

時制が延長六(九二八)年の物語

として設定されており、

安珍奥州から熊野詣でに来た修行僧

とされ、

彼に恋慕する少女も真砂庄司の娘「淸姫」

となっている。則ち、この「元亨釋書」から「道成寺縁起」の絵巻の形成される間で、現在、我々が認識している伝説が、ほぼその基本的諸設定のデーティルが整えられたと考えてよい。そうして、満を持して登場するのが、

謡曲の先行して出る観世小次郎信光の作とされる「鐘卷」と、それを切り詰めて見事な乱拍子を中心に構成してインスパイアされた作者不明の名品「道成寺」

が生まれるということになる。そこでワキによって語られる謂われは、

   *

「昔この所にまなごの庄司と云ふ者あり 彼の者一人(いちにん)の息女を持つ またその頃奧より熊野へ參詣する山伏のありしが 庄司がもとを宿坊と定めいつも彼の所に來りぬ 庄司娘を寵愛の餘りに あの客僧こそ汝が妻よ夫よなんどと戲れしを をさな心にまことと思ひ年月(ねんげつ)を送る。またある時かの客僧庄司がもとに來りしに 彼の女夜更け人靜まつて後 客僧の閨に行き いつまでわらはをばかくて置き給ふぞ 急ぎ迎へ給へと申ししかば 客僧大きに騷ぎ さあらぬよしにもてなし 夜(よ)にまぎれ忍び出でこの寺に來たり ひらに賴むよし申ししかば 隱すべき所なければ 撞き鐘を下ろしその中(うち)にこの客僧を隱し置く さてかの女は山伏を逃(のが)すまじとて追つかくる 折節日高川(ひたかがは)の水もつてのほかに增さりしかば 川の上下かみしもをかなたこなたへ走り𢌞りしが 一念の毒蛇となつて 川を易々と泳ぎ越し この寺に來たりここかしこを尋ねしが 鐘の下(お)りたるを怪しめ 龍頭を銜(くは)へ七纏ひ纏ひ 炎(ほのほ)を出だし尾をもつて叩けば 鐘はすなはち湯となつて 終(つひ)に山伏を取り畢んぬ なんぼう恐ろしき物語にて候ふぞ。」

   *

と語るのである。ここでは俗臭を排するために二人の名は示されない。能の「道成寺」は滅多に見られぬし、現在、謡曲本が普通に読まれることは少ないが、まさにこのワキの語りの内容こそが、最もコンパクトに我々の知る「安珍清姫の物語」(厳密には最後の済度大団円のプレの悲劇部分)の濫觴であると言ってよいように思う。さて、最後になるが、

安珍の「奥州から熊野詣でに来た修行僧」という新設定の伝承はどうか

というと、これまた、ちゃんと事実として語られていることが証明されているのである藤川建治のサイト「いこいの広場」の「安珍堂、 安珍の墓 根田 白河市」を見られたい(写真あり)。そこに、「里帰りした」(!!!)安珍像の写真があって、『この安珍像は、和歌山川辺町の道成寺に所蔵されていましたが、昭和』六〇(一九八五)年三月、『道成寺及び地元有志の御好意により、東北新幹線上野駅乗入れを記念し、安珍の生誕の地、根田に里帰りしたものです。伝説によれば、修験僧安珍が延長』六(九二八)年十九『歳の時、修行のため熊野山に登った折』、『その途中で泊った紀州御坊の庄司の家の娘、清姫』十三『歳に恋慕されたが、安珍は、幼女の気まぐれと考えて、末の契りに答えてしまいました。後に、これが偽りと知った清姫は、激怒のあまり』、『蛇身と化して安珍を追い、道成寺の鐘の中に逃げ込んだ安珍を恨みの火焔で責め殺してしまったといわれております』。(☞)『この地に伝わる安珍念仏踊りは、彼の冥福を祈る為』、『根田の里人がはじめたものといわれ、歌舞伎などで知られる娘道成寺の物語を美しく歌い込んだ、念仏踊りとして知られ、毎年』三月二十七日の『安珍忌に供養として踊られています。なお』、『この安珍堂は、各種団体及び市民有志から寄せられた浄財により建立されたものです、』という最後に昭和六十一年十月のクレジットと『安珍像郷里安置対策委員会』の署名がある(これは以下のグーグル・マップ・データのサイド・パネルのこの解説板の電子化であることが判った)。而して、確かに福島県白河市萱根根田(かやねねだ)に「安珍堂」があるのである。ただごとではない。道成寺が「里帰り」を許すということは、安珍の出自をここと認定したものと認められるし、「白河市」公式サイトの文化のページの県指定重要無形民俗文化財として「奥州白河歌念仏踊」が挙げられており、『いつの頃から行われているか明らかではないが、白河市付近の村々に、盛大な歌念仏踊が伝承されている。口碑では、流布するに至ったのは、江戸時代の中頃からという。根田組、久田野組、釜の子組、柏野組、羽太組等がそれぞれの集落にある念仏踊りには、村内安全と五穀豊』饒『を祈ることに始まったと言われるが、長い間に舞踊化し、交情和親の娯楽ともなって各村に定着した』とあって、最後に、『なお、根田においては「道成寺物語」の安珍僧が、市内萱根の生れと伝えられ、これにちなんだ歌詞や踊りがあるので』、『安珍念仏踊りとして有名である。旧暦』二月二十七日『の「安珍忌」には歌と踊りで供養する』(後に括弧附きで、現在は毎年三月二十七日に行われているという注記がある)とあるのである。これを読むに、発生が江戸中期ならば、これは浄瑠璃・歌舞伎・日本舞踊等の種々の道成寺譚が盛んになり、口碑の変形が生じさせたもののようには思われるし、安珍像が、見た目、かなり新しいものであることから、或いは、江戸時代、この白河からの参詣者が奉納像なのかも知れぬ(もし、この念仏踊りが、中世、或いは、それ以前に遡れるとなら、私は安珍の白河出自を俄然、支持したいとは思う。「鞍馬寺の安珍」の方が遙かに噓臭くて厭だからである)。

「紀州日高郡眞名古村は、いにしへ、眞名古庄司(まなごのしやうじ)」さて、私が以上の経緯を長々と記した理由は、以上の「紀州日高郡眞名古村」の位置や、そこを支配した「眞名古庄司」なる人物を特定することが、本伝承の形成過程を見て戴ければ判る通り、伝承初期に於いては異なる以上、あたかも史実上の設定が存在してそれを同定する気には、実は、全くならないからである。その原拠から見て、日高川を蛇龍となって泳ぎ越えて道成寺へ至るというシーンから、素人考えでは、女の里の後身「日高郡眞名古村」は日高川以東でなくてはならないことだけが、揺るぎないたった一つの地理的事実のみのように見えるだけだからなのである。しかし、それは民俗学的には、現在の紀州に残る最終的に変成した伝承に従って、この「紀州日高郡眞名古村」の比定地と、「眞名古庄司」なる人物を考察せねばなるまい。ネットを調べてみると、サイト「わかやま歴史物語100」の「ストーリー053」の『妖しく、そして悲しき「道成寺物」  安珍・清姫の悲恋の物語』には、『奥州から熊野詣に訪れた修行僧・安珍は、現在の田辺市中辺路町にあったという真砂庄司清重』(☜)『の屋敷に一夜の宿を求めました。安珍に一目惚れをした女房の清姫は求婚しますが、困った安珍は「熊野詣の帰りに必ず立ち寄る」と言い残して熊野詣へ出立。約束を信じて帰りを待つ清姫でしたが、安珍は一向に戻らず、通りすがった旅人に尋ね、潮見峠を通る別の道で帰ったと知ります。怒り狂った清姫は、髪を振り乱して、その後を追い、ついには大蛇に姿を変えて日高川を渡り、道成寺の鐘の中に隠れた安珍を焼き殺してしまいました。田辺市には中辺路町を中心に、清姫の生家があったと言われる跡地や「清姫の墓」などの伝承地が多く点在。妖しく、悲しい「道成寺物」。その悲恋の地で』二『人に思いを重ねれば、新たな一面を知ることができるでしょう』とあり、写真入りで所在地を明記した上で、「清姫の墓」に始まり、『清姫一族の菩提寺でもあり、江戸中期のものと推測される安珍・清姫物語の絵巻(非公開)も収められてい』るという「一願寺(福巖寺)」、「(伝)真砂一族住居跡・(伝)清姫生誕屋敷」、『安珍を追う清姫』が『この杉に上って前方を逃げる安珍を見つけ、悔しさのあまり杉の枝を捻じ曲げたと』伝える「捻木の杉(潮見峠越)」、『安珍を追いかけてきた清姫が、この泉の水を飲んで』、『力をもらった』と伝える「清姫の井戸」が載るので、是非、見られたい。他に、サイト「日本伝承大鑑」の「清姫の墓」にも、『清姫が住んでいたとされる真砂の地には、清姫の墓と呼ばれるものがある。この地の伝説では、清姫は、真砂の庄司藤原左衛門之尉清重』(☜)『の娘であるが、その母親は清重に命を救われた白蛇であるとされる。そして安珍が清姫に言い寄るものの、障子に映った清姫の影が蛇であることに気付いて逃げ出す。これに世をはかなんだ清姫は』、『淵に身を投げて亡くなるが、その安珍を思う情念が蛇に化身して道場寺まで追い詰めたとされる』という異聞が記されてあり、『清姫の墓がある場所が庄司の館、そのそばにある淵が清姫が身を投げた場所(清姫渕)と言われる』とあって、さらに『真砂の庄司家』として、『清姫の実家である庄司家は熊野本宮の禰宜職』(☜ ☞)『にあり、父の清重が』三『代目にあたる。この清重の代の時に真砂の地の荘官として移ってきたとされる。その後、庄司家は小領主としてこの土地を治めていたが』、天正一三(一五八六)年の『豊臣秀吉の紀州攻めの際に一族ことごとく滅びたという』の補注がある(写真・地図あり)。これらを整理すると、「紀州日高郡眞名古村」は、

現在の田辺市中辺路町真砂まなご:グーグル・マップ・データ。以下無指示は同じ)

ということになる。而して、道成寺は、ずっと西の和歌山県日高郡日高川町鐘巻のここである。直線で計測しても、真砂から道成寺までは、三十四キロメートルあるしかもその間は起伏激しい山間である(グーグル・マップ・データ航空写真)。その真砂地区に「清姫生誕地 真砂一族住居跡」のポイント」が示されてあり、そのサイド・パネルの「(伝)真砂一族住居跡・(伝)清姫生誕屋敷」という解説版画像を見ると(読みは一部に留めた)、

   *

 この住居跡は、物部阿斗(もののべのあと)の姓から真砂姓に改名した2代目真砂清春(まさごきよはる)が西暦800余年[やぶちゃん注:西暦八〇〇年は延暦十九年。桓武天皇の御代。]の頃、本宮大社より荘園主として遣わされ当地の国造りと神仏の勧請、住民の統率等を行ってきた場所と伝えられている。

 しかし、長く続いた家系も、1585年頃に始まる豊臣秀吉の紀州攻略によって、本家の真砂一族(第31代目友家)並びに本陣に仕えていた家臣ら71名の討死により滅びたとの記録が残されている。

  その後、生き残った第32代目友定(ともさだ)は、徳川家に仕えた後に越前にて三千石を領すとの記録があり、本家は滅亡したものの、全国には枝分かれした分家が多くあり、真砂に由来する神社や地名も各地に存在している。

  清姫は、この家系の第3代目清重(きよしげ)の後妻との間に生まれた子で927年8月23日、13歳にして没したと伝えられている。

   *

と、驚くべきことに、清姫の没日と享年まで記されてあるのである(原拠不明)。ユリウス暦九二七年八月二十三日は延長五年七月二十四日(グレゴリオ暦換算八月二十八日)である。万一、月日が陰暦八月二十三日だとした場合のことを考えて換算すると、ユリウス暦九二七年九月二十一日(同前九月二十六日)である(実際、後の説明板によって月日は陰暦で後者が正しいことが判った)。

さらに、真砂地区のその南直近の富田川(とんだがわ)の右岸には、異聞の中の、清姫が身を投じて蛇体に変じた淵の側にあるとする「清姫の墓」のポイントがある。また、麻巳子氏のブログ「癒しの和歌山」の「清姫伝説」の記事に、ここは、福巖寺(通称・一願寺)の「境外地 薬師堂 清姫堂」であるとあり、飛地境内であることが判る(同寺は、ここから北西の谷の奥である和歌山県田辺市中辺路町西谷のここにある)。『「伝説 清姫生誕の地」の説明板』の写真と字起こし、同じく石碑「清姫之里の伝説」(画像はちょっと小さくて読みづらい)のそれが丁寧になされてある。後者の画像は「清姫の墓」のサイド・パネルのこれがよい。麻巳子氏の後者のデータを元にこの写真で起こしておく。字空けがあるが、句読点に自由に代え、それ以外にも記号を追加し、段落も成形した。段落の頭は一字下げにし、準直接話法は改行した。

   *

   清姫之里の伝説

 清姫の父、真砂の荘司藤原左衛之慰[やぶちゃん注:誤字ではない。「尉」の異体字。]清重は、妻に先立たれて、その子、清次と暮らしていた。ある朝、散歩の途中、黒蛇に呑まれている白蛇を見て、憐れに思い助けた。数日後、白装束の女遍路(白蛇の化身)が宿を迄[やぶちゃん注:ママ。「乞」の誤刻か。]い、そのまま清重と夫婦の契りを結び、清姫が誕生した。

 清姫が十三才の年、毎年、熊野三山へ参拝の途中、ここを宿としていた奥州(福島県)白河在萱根の里、安兵衛の子、安珍、十六才は、みめうるわしい清姫の、稚い頃より、気をとられて、

「行く末はわが妻にせん。」

とひそかに語られ、姫も真にうけて、安珍を慕った。

 ある夜、安珍は障子に映った蛇身の清姫を見て、その物凄い形相に恐れをなした。

 それとは知らぬ姫は、思いつめて、遂に、胸のうちを語り、

「いつまでも待たさずに、奥州へ連れていってほしい。」

と頼んだ。

 安珍は、突然の申し入れに大いに驚き、

『これは。なんとかして、避けよう。』

と思い、

「我は今、熊野参拝の途なれは[やぶちゃん注:ママ。]、必ず、下向には、連れ帰る。」

と、その場のがれの申しわけをされた。

 姫は、その真意を知らず、安珍の下向を、指おり数えて、待ちわびたが、あまりにも遅いので、旅人に尋ねると、

「あなたの申される僧は、先程、通られ、早、十二、三町[やぶちゃん注:一・三~一・四キロメートル。]も過ぎ去られた。」

と聞くや、

『さては、約束を破り、道を変えて、逃げられたのだ。』

と察し、あまりの悔しさに、道中に伏して、泣き叫んだ。

 やがて、気を取り直して、汐見峠まで、後を追い、杉の大木に、よじ登り(現在の捻木)、はるかに望めば、すでに田辺の会津橋を渡り、逃げ去る安珍を見て、瞋り[やぶちゃん注:「いかり」。]にくるい、

「生きてこの世でそえぬなら、死して、思いをとげん。」

と、立帰り、荘司ヶ淵に身を投げた。

 その一念が、怨霊となり、道成寺まで、蛇身となって後を追い、鐘にかくれた安珍を、七巻半して、大炎を出し、焼死させ、思いをとげたと云う。

 時、延長六年八月二十三日(今から約千八十年前、西暦二九八年。[やぶちゃん注:ママ。先の説明板とは一年ズレている。])。

 後、里人達は。この渕を「清姫渕」と呼び、霊を慰めるため、碑を建立、「清姫の墓」として、毎年四月二十三日、供養を続けている。

 平成二十年 四月吉日

  福巌寺第十二世 霊 岳 代 誌

         髙 岡 節 子

    寄贈者

         清 水 泰 弘

   *

なお、ここに出る「汐見峠」、先の「捻木の杉(潮見峠)」は、ここ思うに、この淵に身を投げて、大蛇に変じて安珍の後を追ったとなら、容易に山越えも出来ようか。しかし、さらに私がそうなったらと考えると、現行、蛇というよりも殆んど龍に造形されているから、富田川を下って、海に出、白浜・田辺・千里・風早と沿岸をゆうゆうと北西へ登り、日高川を遡った方が、遙かに容易いと思うたことを最後に記しておく。「眞名古庄司」については、以上の解説版電子化で十分であろう思う。

「蛇身の女」私はこの手の因果譚に出る代々の因果というのは、概ね、遺伝性魚鱗癬(ぎょりんせん)と見做していた。「MSDマニュアル家庭版」の「魚鱗癬」に、『重度の皮膚の乾燥の一種で、皮膚に鱗屑が大量に生じます。鱗屑とは、死んだ皮膚細胞が蓄積し、薄く剥がれ、乾燥し、ざらざらになった斑状の領域です』。『魚鱗癬は、ただの皮膚の乾燥である 乾皮症とは異なり、遺伝性の病気として、または他のいくつかの病気や薬によって、皮膚の乾燥が生じる病気です(前者は遺伝性魚鱗癬、後者は後天性魚鱗癬と呼ばれます)』。「遺伝性魚鱗癬」は本疾患の『最も多いタイプ』で、『遺伝子の変異により生じるもので、変異は通常は親から子へと伝わりますが、自然発生的に生じることもあります。遺伝性魚鱗癬は出生時にみられることもあれば、乳児期や小児期に発生することもあります。遺伝性魚鱗癬には様々な種類があります。皮膚にのみ生じるものもあれば、他の臓器に生じる遺伝性疾患の一部に過ぎない場合もあります』。『その種類により、鱗屑は細かいこともあれば、大きく厚く、いぼ状であることもあります。鱗屑が手のひらや足の裏にのみ生じることもあれば、体のほとんどの部分を覆うこともあります。水疱を引き起こすものもあり、その場合、細菌に感染しやすくなります』とある(リンク先には「小児の重度の魚鱗癬」のかなり激しい症状の画像があるので、クリックは注意されたい)。しかし、本篇の語る「蛇女」は、さわにある髪の毛が、梅雨時になると、ヌメり始め、次第に、縺れ合って、びっちりがっちりと鳥黐(とりもち:「耳嚢 巻之七 黐を落す奇法の事」の私の注を参照されたい)のように固まってしまい、櫛さえ入れ難くなるという、奇体な(しかし、忌まわしいとは私は感じない)状態を呈するという怪奇現象である。「ぬめぬめぬったりとなるんだから、蛇でっしょう!」と言う勿れ。私が、現代文の教科書に載り、好んでやった安倍公房の随想「ヘビについて――日常性の壁」を思い出し給え。蛇は「ぬるぬる」などしていないさ! 寧ろ、乾いて鱗の向きに沿って撫でてやれば、極めてさらっとしているぐらいである!

「紀州矢田庄」現在の道成寺のある鐘巻は、正確には和歌山県日高郡日高川町大字土生(はぶ)で、ここは旧川辺町の矢田地区の鐘巻である。

「文武帝、大寶年中」七〇一年から七〇四年まで。

「紀大臣道成」藤原姓。詳細不詳。ウィキの「道成寺」によれば、『大宝元年』(七〇一年)、『文武天皇の勅願により、義淵僧正を開山として、紀大臣道成なる者が建立したという。別の伝承では、文武天皇の夫人・聖武天皇の母にあたる藤原宮子の願いにより文武天皇が創建したともい』い、『この伝承では宮子は紀伊国の海女であったとする考証もある』。『これらの伝承をそのまま信じるわけにはいかないが、本寺境内の発掘調査の結果、古代の伽藍跡が検出されており、出土した瓦の年代から』、八『世紀初頭には寺院が存在したことは確実視されている。昭和六〇(一九八五)年に着手された、『本堂解体修理の際に発見された千手観音像も奈良時代にさかのぼる作品である』とある。

「紀州志」「紀州志」「南紀名勝志」或いは「紀州名勝志」・「南紀名勝略志」という名で伝わる紀州藩地誌の写本の中の一冊であろう。底本と同じ「新日本古典籍総合データベース」の「南紀名勝志」を参看したところ、同書の「日高郡」のここ以下の「天音山道成寺」の条。

「世に云怪說の事は、曽て見えず」則ち、「紀州志」には見えない、ということ。「怪說」とは「安珍清姫」の伝承のことではなく(いやいや! 「元亨釈書」の日本漢文の訓点附きでしっかりばっちり載っている。「鞍馬寺」の「安珍」として名も出ている)、この奇体な髪の時期的変成が生ずる「蛇女」の話のことである。]

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