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2022/11/13

大和怪異記 第十六 宇治中納言在原業平の幽靈にあふ事

 

[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の分はここから。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。【 】は二行割注。]

 

 第十六 宇治中納言在原業平の幽靈にあふ事

 在原業平は、十四歲より、眞雅僧正にしたがひ、眞言の奧儀(をうぎ[やぶちゃん注:ママ。以下の「奥旨」も同じ。])をきはめ、二十八歲まで、つとめらる。

 この故に、詠哥、をほく、眞言の奧旨(をうし)にかなへる事、あり。眞言の血脉(けつみやく)に好賢(こうけん)とあるは、業平の名(な)なり。

 天安元年正月廿八日、文德天皇、住吉に行幸(ぎやうがう)のとき、業平、供奉せらる。

 此とき、明神の託(たく)に、

  尋《たづね》ても君にぞかたる神のますあこねのうらの昔語《むかしがたり》を

中將、かへし、

  いせの海やあこねのうらのいにしへをいかでか人に語《かたり》そめけん

 業平は、淳和帝、天長二年に、うまれ、元慶四年五月九日より、やまひにふし、同廿八日子《ね》の刻に死去、五十六歲なり。

 遺言にまかせ、東山の麓に葬(はうふ)る【一說に「大和國、在原寺、葬地なり。」と云。】。

 同年九月十三日、宇治中納言藤朝雄(とうのあさを)卿、くまのさんけいのとき、いづみの國大島郡にて、なりひらに、あひ給へり。

 そのゝち、ゆめの告(つげ)によつて、なりひらの死骨(しこつ)を、いづみの国に、うつして、塚をきづき、寺をたて、和泉寺《いづみでら》と名づく。又、「濱寺《はまでら》」とも、「在平寺《なりひらでら》」ともいふ。

 延喜帝の御宇、「在原寺」のはしらに、虫くひのうたあり、

  あり原や中なるさとの道とめていわゐかしづけやどはしらせん

かゝりしかば、左少弁淸原の光任(《みつ》とう)に仰《おほせ》て、中將の靈を、神とあがむ。いまの「大和大明神」なり。又、「池田の社《やしろ》」共、云。「玉傳深祕」

[やぶちゃん注:以下、底本では、終りまで全体が一字下げ。]

 同書云《いはく》、『業平、交會(こうくわい)につけて、かくし名、おほし。「初紅葉(はつもみぢ)」【二條后《にじやうのきさき》をいふ。「秋風」共云。】、「白雲(しらくも)」【染殿内侍《そめどののないし》を云。】、「初草(はつくさ)」【業平、妹《いもと》を云。】、「若紫(わかむらさき)【紀有常が女《むすめ》をいふ。】、「忘草(わすれ《ぐさ》)【染殿后《そめどののきさき》を云。】、「武藏(むさし)あぶみ」【四條后をいふ。】、「やまぶき」【定文《さだふみ》女《むすめ》をいふ。】、「浮雲(うきくも)」【當紀、妹をいふ。】、「唐衣」【伊勢をいふ。】、「千草(ち《くさ》)」【小㙒小町をいふ。】、是等(これら)なり。

[やぶちゃん注:原拠とする「玉傳深祕」は「玉傳深祕卷(ぎょうでんしんぴくわん)」が正しい。中世の歌論書。作者未詳。底本と同じ「新日本古典籍総合データベース」で写本が見られるが、以上は、同書の幾つかの別々な箇所を繋げたもので、例えば、冒頭部はここの右丁が元で、文徳天皇の供奉はここの左丁最終行、及び、ずっと後のここの右丁から左丁の部分が相当する(ここに歌が出る)。霊に行き逢ったところはここの右丁後ろから二行目以降。但し、評言にある「隠し名」は、この写本には、ない。

「宇治中納言」不詳。前注の最後のリンク先の原拠を見ると、『宇治関白ノ末孫宇治中納言藤原朝雅』とある。この「宇治関白」とは藤原頼通(道長の子)のことである。しかし、系図を見ても、「朝雄」も「朝雅」も見当たらない。

「在原業平」は天長二(八二五)年生まれで、元慶四年五月二十八日(八八〇年七月九日)没。数え五十六。当該ウィキによれば、『父は平城天皇の第一皇子』であった『阿保』(あぼ)『親王、母は桓武天皇の皇女』であった『伊都』(いと)『内親王で、業平は父方をたどれば』、『平城天皇の孫』で『桓武天皇の曾孫であり、母方をたどれば』、『桓武天皇の孫にあたる。血筋からすれば』、『非常に高貴な身分だが』「薬子(くすこ)の変」(大同五(八一〇)年に故桓武天皇皇子である平城上皇と嵯峨天皇が対立、嵯峨天皇側が迅速に兵を動かした結果、平城上皇が出家して決着、上皇の愛妾の尚侍藤原薬子や、その兄である参議藤原仲成らが処罰された)により、『皇統が嵯峨天皇の子孫へ移っていたこともあり』、天長三(八二六)年に父『阿保親王の上表によって臣籍降下し、兄(七つ年上)『行平らと共に在原朝臣姓を名乗』ったのであった。

「眞雅僧正」(延暦二〇(八〇一)年~ 元慶三(八七九)年)は空海の弟で讃岐国多度郡屏風浦の出身。空海の十大弟子の一人。清和天皇の誕生以来の護持僧で、天皇と、その外祖父藤原良房から、厚い信任を得た人物である。

「好賢」先の「玉傳深祕」で見た通り、確かに業平の『法名ナリ』と書いてある。但し、他のメジャーな記載には載らない。

「天安元年正月廿八日」ユリウス暦八五七年二月二十六日。但し、「玉傳深祕」の後者の記載では、『二月』となっている。その場合は同年三月二十七日である。

「住吉」現在の住吉大社(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)。

に行幸(ぎやうがう)のとき、業平、供奉せらる。

「託(たく)」神託。

「あこねのうら」「阿古根の浦」。「万葉集」に出る。和歌山県御坊市野島附近の海岸ともされるが、未詳。後世、「阿漕ケ浦」(あこぎがうら)と混同された。一説に伊耶那岐命と伊耶那美命が「みとのまぐはひ」を行なった場所とされる。神託の『「昔語」り』も、この後の女色の「まめ男」業平の作とする歌も、明かにそれを意識したものである。

「東山」京都府京都市東山区附近。

「大和國、在原寺」今の奈良県天理市櫟本町(いちのもとちょう)にある在原神社附近が旧在原寺。「天理市」公式サイト内の「在原寺跡」によると、『在原寺の縁起によれば、この東の石上領平尾山に、光明皇后が開かれた補陀落山観音院本光明寺があり、本尊は聖武天皇御縁仏の十一面観音であった。第』五十一『代平城天皇の御子阿保親王はこの観音を信心して業平が生れたと称し、このため親王は』、承和二(八三五)年に『今の地に移し、本光明山補陀落院在原寺と称した』とある。

「同年九月十三日」元慶四年のその日はユリウス暦で十月二十日。

「いづみの國大島郡」これは和泉国「大鳥郡(おほとりのこほり)」の誤り「玉傳深祕」では正しくそうなっている。現在の高石市と、そこに北と東で接する堺市の一部を含む広域。

「いづみの国に、うつして、塚をきづき、寺をたて」『「和泉寺」と名づく。又、「濱寺」とも、「在平寺」ともいふ』「大阪府」公式サイトの「和泉市和泉寺跡(いずみでらあと)現地公開資料」を参照されたい。詳細不詳の古代寺院で、一説に行基の創建になり、在原業平の遺骨を蔵すると一般には流布されている。遺跡の場所は和泉市府中町(ふちゅうちょう)四丁目である。

「延喜帝の御宇」醍醐天皇の御代。在位は寛平九年七月(八九七年八月)から 延長八年九月(九三〇年十月)まで。「延喜帝」の延喜の元号はその間に入るが、彼の治世は三十四年の長きに亙り、しかも摂関を置かず、形式上は親政を行って、数々の業績を収めたことから、後代になってこの治世は最も長かった延喜(二十三年間)をとって「延喜の治」と称されたことに基づく。以下は、「玉傳深祕」では、ここの右丁四行目から書かれてある。

「虫くひのうたあり」キクイムシなどが空けた孔が崩し字のようになって、以下のように読めたというのであろう。

「あり原や中なるさとの道とめていわゐかしづけやどはしらせん」意味不明。

「左少弁淸原の光任」不詳。

『いまの「大和大明神」』「池田の社」不詳。天理にある在原神社の別称か。

「交會」「交際」。或いは「性交」をも指す。

「二條后」藤原高子(たかいこ)。「伊勢物語」のモデルで、お馴染み。

「染殿内侍」後の染殿后の女房。

「妹」確かに妹がいたようである。腹違いか。

「紀有常」(弘仁六(八一五)年~貞観一九(八七七)年)は従四位下・周防権守。「伊勢物語」第十六段で、長年連れ添った妻が、尼となって去ってしまったことを悲しんだ有常が、親しい友人と和歌のやりとりをした話が語られてある。この娘は業平の正式な妻として記されており、業平が仕えていた、文徳天皇の皇子惟喬親王の母静子の父でもある。

「染殿后」藤原明子。「大和怪異記 卷之一 第十三 金峯山の上人鬼となつて染殿后を惱す事」を、或いは、『「今昔物語集」卷第二十「染殿后爲天宮被嬈亂語第七」(R指定)』を参照。

「四條后」在原行平の娘の在原文子か。清和天皇の更衣。

「定文女」不詳。「在中・平中」として在原業平と並び称されたプレイ・ボーイ平貞文(定文とも書いた)がいるが、彼は貞観一四(八七二)年頃の生まれで、時代が合わない。

「當紀」不詳。

「伊勢」不詳。知られた女流歌人のそれは、やはり時代が合わない。

「小㙒小町」言わずもがなの小野小町。業平と和歌の贈答をしている。]

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