大和怪異記 卷之三 第二 古石塔たゝりをなす事
[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の本文部分は、ここ(単独画像)。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。
正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。なお、底本のルビは歴史的仮名遣の誤りが激しく、ママ注記を入れると、連続してワサワサになるため、歴史的仮名遣を誤ったものの一部では、( )で入れずに、私が正しい歴史的仮名遣で《 》で入れた部分も含まれてくることをお断りしておく。]
第二 古石塔(ふるせき《たう》)たゝりをなす事
延寶年中、奧州二本松の藥硏屋久心(やげん《や》きうしん)といふ者、庭を作(つくる)とて、正念寺(《しやう》ねんじ)の山に、ふるき石塔の苔(こけ)生《おひ》たるありしを、取《とり》よせ、たてけるより、おそろしき夢をみる事、度《たび》かさなりし。
あるとき、昼、いねたりし夢に、二八ばかりなる女の、枕もとにたちつゝ、ことの外、いかれるけしきにて、
「いかなれば、我《われ》、ひさしく住《すみ》なれし所を引はなち、これへ、つれ來《きた》るぞや。此うらみ、すくなからず。」
と、にらみしまなこ、おそろしく、むねうち、さはぎしに、かたはらの人、おこして、やうやう目をさまし、
「かく。」
と、かたりければ、老たる者、いひけるは、
「『八十年程前に、此所に畠山重次(はたけ《やま》しげつぐ)と聞えし人、あり。其女子(むすめ)、十七、八にて身まかりしを、葬(ほうふ)りし、塚なり。』と、我《わが》親、かたりしなり。はやく、其石塔を、もとの所に、かへし、たてよ。」
と、をしヘしかば、かく、たてゝのち、夢みる事、なかりしとかや。「犬著聞」
[やぶちゃん注:典拠の「同」は前話と同じ「犬著聞集」を指す。本書は既に先行するこちらで注済み。本書の最大のネタ元。「犬著聞集」自体は所持せず、ネット上にもない。また、前話の最後で示した同書の後代の再編集版である神谷養勇軒編の「新著聞集」にも採られていない。
「延寶年中」一六七三年から一六八一年まで。徳川家綱・綱吉の治世。
「奧州二本松」二本松藩。現在の福島県二本松市(グーグル・マップ・データ)。
「藥硏屋久心」不詳。
「正念寺の山」同音の称念寺ならば二本松城跡の直下にある。文治元(一一八五)年に法相宗の尊道和尚により、塩沢の道場が原で開山された。二本松は戦国時代まで畠山氏の所領であったものを、天正一四(一五八六年)に伊達政宗が畠山氏を滅ぼして伊達領となり、寺は信夫郡大森(現在の福島市大森)に移ったが、二本松藩丹羽家初代藩主丹羽光重による町割りの完成後の延宝三(一六七五)年頃に現在地に移築・再興された。二本松城址の畠山氏の菩提寺であり、奥州探題畠山家累代墓所であった(「二本松市観光連盟」公式サイトのこちら、及び、以下リンク先のサイド・パネルの解説版に拠った)。以下の叙述から、ここで間違いないであろう。グーグル・マップ・データ航空写真を見ると、称念寺の東西と北後背は山である(奥州探題畠山家墓所は東方にある)。
「二八」十六歳。
「畠山重次」「八十年程前」という老人の、その親が語ったという叙述があるから、一・五倍掛は必要であろう。すると、約百二十年前で西暦一五五三年から一五六〇年の前後となる。旧畠山家で伊達政宗に攻められ、遺体を惨たらしく扱わられたとされる(当該ウィキ参照)二本松城主二本松(畠山)義継(天文二一(一五五二)年~天正一三(一五八五)年)が音では近い。]
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