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2022/11/11

曲亭馬琴「兎園小説拾遺」 第二 「江戶大雹」

 

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。昨年二〇二一年八月六日に「兎園小説」の電子化注を始めたが、遂にその最後の一冊に突入した。私としては、今年中にこの「兎園小説」電子化注プロジェクトを終らせたいと考えている。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちら(右ページ下段七行目から)から載る正字正仮名版を用いる。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。

 馬琴の語る本文部分の句読点は自由に変更・追加し、記号も挿入し、一部に《 》で推定で歴史的仮名遣の読みを附した。今回は読み易さを考えて段落を成形した。]

 

   ○江戶大雹《えどだいひよう》

 

Hyou100

 

Hyou

 

[やぶちゃん注:底本の図の円部分のみをトリミング補正した。最初に掲げたのは、国立国会図書館デジタルコレクションの画像を百%でダウン・ロードしたものを、中の活字を削除し、改めて私が明朝体で文字を入れたものであるが、実物の原板本を見たことはないのだが、百%では、あまりに原本が大きくなり過ぎ、雹の直径は五センチ八ミリになってしまう(以下の文中では、場所によっては『手鞠』大のものが落ちたとするが、それは後に馬琴が聴いた話に過ぎず、実見したわけではない)。そこで、吉川弘文館随筆大成版の円の大きさに近づけて、中の字を削除したものを後に添えた。馬琴は以下の本文で『欒子の如し』と言っている。「木欒子」はムクロジ目ムクロジ科ムクロジ属ムクロジ Sapindus mukorossi のことである。羽根突きの玉に用いることで知られるが、ムクロジの実は概ね直径二センチメートルである。上の前図の直径は一センチ四ミリしかないが、馬琴のそれは、雹が降った時の最初の印象記であり、後図の中にある通り、この絵は『なかばとけたるもの此大さなりき』(半ば、溶けたる物、此の大きさなりき)で、時間が経過して溶けてしまったものを描いたのであるから、私はこの大きさでよいと考える(実は馬琴は直径としか思えない数値も添えており、それは一センチ六ミリ相当なのである)。

 

 文政十三年庚寅閏三月小廿九日、昨今、南風、烈《はげし》く、溫熱、五、六月の如し。

 この日、晴天、午後、俄-頃《にはか》に、雲、起《おこり》て、風、止む。

 忽《たちまち》、大雹《だいひよう》、降れり。

 神田明神下、吾家の邊《あたり》は、その雹、木欒子《むくろじ》の如し【雹、止《やん》で、既に解《とけ》んとせしを、秤《はかり》にかけて見つるに、一匁《もんめ》、或《あるいは》、五分五厘ばかりなりき。】。庭の梅の若枝は、大かた、打落《うちおと》されたり。

 松前家下屋敷、千束・下谷坂本邊、幷に、根岸中通り・藤寺前邊は、雹の大《おおき》さ、手鞠の如し。地上に落《おつ》るとき、三つ、四つに、碎けざるは、なし。

 松前家の近臣某《なにがし》、

「その碎けたる雹を拾ひて、茶碗へ入れ置《おき》しに、茶碗内に、みちたり。夕ぐれまで、猶、解《とけ》ざりし。」

と、いへり。

 かゝれば、瓦は、大かた、打碎《うちくだか》れざるは、なし。

 婦幼は、怕《おそれ》れて、頭を擡《もたげ》るもの、なかりし、とぞ。

 西丸御番所人、中西氏の居宅は、根岸三島門前にあり。こゝらは、雹の大さ、普通の茶碗の如し。此中西氏の所親、

「谷中《やなか》に居《をる》某が門の板屋根は、この雹に打拔《うちぬか》れし。」

といふ。其大さ、しるべし。

 吉原・淺草邊は、木欒子の大さなるが、降《ふり》たり。

 纔《わづか》に隔りたる所にて、大小あること、かくの如し【中西氏云、「此大雹は、多く、土にまみれ、又、靑苔《あをごけ》の交《まぢ》りたる、多かり。思ふに、高山積雪、烈風に摧《くだ》れて、遠く、散亂せしにや。」と、いへり。此說、非なるべし。愚按あり。今こゝに贅《ぜい》せず。】。

 田畑・西ケ原邊は就ㇾ中《なかんづく》、甚し。

「牛・馬・犬・鷄は、さらなり、人にも稀には怪我あり。」

と傳へ聞《きき》にき。

 江戶にては前代未聞の大雹なり。

「日本橋・四日市邊へふりしは、赤小豆《あかあづき》の大さなり。」

といふ。

 京橋より西南、芝・麻布邊へは、この雹、ふらず。

 北の方《かた》、栗橋邊を限りとして、下總《しもふさ》の中、十八、九ケ村、麥を、そこなはれたり。「苗代《なはしろ》には障《さは》りなし。」と、後に聞《きけ》り。

 此日、雹は、須臾(しゆゆ)にして、雷鳴あり。未《ひつじ》の後《ご》より、雨ふりて、大雷、數十聲【この雷雨、三ケ所へ限《かぎり》たりといふ。】、本所邊も、此雹、大きからず【小川町・飯田町邊は、いよいよ、ちいさく、四谷邊へは、ふらざりしなるべし。】。

[やぶちゃん注:「文政十三年庚寅閏三月小廿九日」馬琴にしては珍しく干支を誤っており、同年は庚辰である。グレゴリオ暦一八二〇年五月十一日。

「神田明神下、吾家の邊」現在の東京都千代田区外神田のここ(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)。サイド。パネルの画像には説明板が二種あるが、こちらの方がよい。

「一匁」三・七五グラム。

「五分五厘」「或」いは、と言っているが、分(ぶ)・厘(りん)は長さの単位である。従って、これは大まかな雹の直径を示したのであって、一センチ六ミリ相当である。

「松前家」松前藩下屋敷は現在の両国駅と国技館のある附近に南北に細長くあった。「江戸マップβ版」の「江戸切絵図」「本所絵図」の左下方に「松前伊豆守」とあるのが、それである。息子の興継宗伯が医員として勤め、馬琴とも親しくしていた、当時は前藩主であった老公松前道広は馬琴の愛読者で、本「兎園小説」にも頻繁に出てくる。

「千束」東京都台東区千束

「下谷坂本」富士講の富士塚で知られる「下谷坂本の富士塚」附近。

「根岸中通り」東京都台東区根岸の北西に走る通り辺りか。

「藤寺」同じく台東区根岸にある臨済宗妙心寺派寶鏡山円光寺。元禄一二(一六九九)年開山。江戸時代には藤の大樹があって、花の頃は『一奇視』を呈し、『俗閒これを藤寺と稱せり』と「江戸名所図会」(卷之六 開陽之部)の同寺の条に記されてある。

「根岸三島門前」「江戸マップβ版」の「江戸切絵図」の「浅草御蔵前辺図」の右中央やや下に「兵庫頭大岡」の屋敷があるが、その通りを隔てた右手の「明神」とあり(⛩マークが逆立ちしている)その上の一画に「三島門前」町がある。ここは根岸ではないのだが、「江戸町巡り」の「【浅草②】浅草三島門前町」を見ると、この「明神」は三島神社で、古くは金杉村根岸にあったが、宝永六(一七〇九)年又は宝永十年に収公されて当地に代地を給された、とあった。転地させられた場合、旧地を冠することはよく行われたから(但し、その場合は「元」をつけて区別することが多かった)、ここもそれか。確定は

出来ないが、現在の東京都台東区寿のここである。

「所親」親しい間柄の人、或いは、遠い血縁関係の親戚。

「谷中」ここ

「田畑」現在の田端であろう。

「西ケ原」東京都北区西ケ原

「四日市」中央区日本橋一丁目の古名。日本橋の南詰一帯。

「栗橋」不詳。埼玉県久喜市栗橋地区に旧栗橋宿が知られるが、北に飛び過ぎる気がする。但し、後から日光街道を下ってきた人から聴いた可能性はあるし、以下、「下總」(現在の千葉県北部と茨城県の南部)の様子を書いているところからは、距離が離れ過ぎとは言えないようにも思う。

「雹は須臾(しゆゆ)にして」降雹はごく短い間で。

「未の後《ご》」定時法で「後」(あと)ではなく一刻を三分割する「後刻」の意でとり、午後二時半から三時まで。

「本所」この附近

「小川町」千代田区神田小川町

「飯田町」は現在の飯田橋を含む広域附近

「四谷」東京都新宿区四谷附近。]

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