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« 大和怪異記 卷之一 第十八 壬生の尼死して腹より火出る事 / 卷之一~了 | トップページ | 曲亭馬琴「兎園小説拾遺」 第二「伊勢參宮お陰參りの記」 »

2022/11/14

大和怪異記 卷之二 目録・一 草野經廉化物を射る事

 

[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の分はここから(目録から示した)。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。なお、底本のルビは歴史的仮名遣の誤りが激しく、ママ注記を入れると、連続してワサワサになるため、これ以降では、歴史的仮名遣を誤ったものの一部では、( )で入れずに、私が正しい歴史的仮名遣で《 》で入れた部分も含まれてくることをお断りしておく。

 以下、頭に巻之一の目録を示す。「十一」以下の頭の数字は底本では半角。ここでは読みは総て附した(歴史的仮名遣の誤りは総てママ)。

 挿絵があるが、これは「近世民間異聞怪談集成」にあるものが、状態が非常によいので、読み取ってトリミング補正し(今回は二幅を合成して見やすくした)、適切と思われる箇所に挿入する。因みに、平面的に撮影されたパブリック・ドメインの画像には著作権は発生しないというのが、文化庁の公式見解である。底本(カラー。但し、挿絵は単色)の挿絵部分もリンクを張っておく。

 なお、以下で本書名が「やまと述異記」とあるのは、初期の作者の書名が残っているこれは、山川等の地理に関する異聞や、珍しい動植物に関する話などを多く集めた志怪小説集「述異記」(全二巻。南朝梁の官吏で文人の任昉(じんぼう)が撰したとされているが、偽書説もある)に倣って、その「日本」版ということで、かく名づけたものの、出版の土壇場になって、書名を急遽、「大和怪異記」に変更した結果である。]

 

やまと述異記二

一 草野經廉(くさのつねかど)化物(ばけもの)を射(ゐ)る事

二 日甲氷季(ながすへ)出雲小冠者(いづものこくわじや)と相撲(すまひ)の事

三 室生(むろう)の龍穴(りうけつ)の事

四 鵺(ぬえ)が執心(しうしん)馬(むま)となつて賴政(よりまさ)に讐(あた)をなす事

五 源實朝(さねとも)は宋(そうの)鳫陽山(かんやうざん)の僧(そう)の再來(さいらい)なる事

六 吉田兼好(よしだのけんかう/かねよし)が墓をあばきてたゝりある事

[やぶちゃん注:読みは(右/左)にある。]

七 一条兼良公(かねよしこう)御元服(ごげんぷく)のとき怪異(くわゐ)ある事

八 石塔(せきとう)人(ひと)にばけて子(こ)をうむ事

九 芦名盛氏(あしなもりうぢ)は僧の再來なる事

十 芦名盛隆(あしなもりたか)卒前(そつぜん)に怪異(くわいゐ)ある事

 

 

やまと述異記二

 第一 草野經廉(つねかど)化物を射(い)る事

 筑後國、山本の住人、草㙒太郞經廉といふ者、あり。

 常に山中(さんちう)に入《いり》て、猪鹿(ちよろく)を狩(かり)て、たのしみとす。

 あるとき、弓矢をたづさえ[やぶちゃん注:ママ。]、「小黑(こぐろ)」・「眞黑(まくろ)」といふ二犬(にけん)をひき、深き嶺(みね)にのぼり、鹿(しか)を、もとむ。

 かの二犬が行(ゆく)にしたがひ、山谷(やまたに)をしのぎ、豊後(ぶんご)日田郡の内《うち》、「内野狩倉(うちのかくら)」に出《いづ》る【「内河㙒由桶原(《うちかはの》ゆず《けはら》)」也。】。

 爰に、ひとつの家《いへ》、有。

 外郭(ぐわいくはく[やぶちゃん注:ママ。])、ひろくして、閣殿、棟門(とうもん)、美をつくし、碧甍(みどりのかわら[やぶちゃん注:ママ。])、空(そら)にかゝやき、丹檐(あかきのき)、地をてらす。數棟(すとう)の倉庫(そうこ)、扉(とびら)を鎖(とざ)す。東にあたつて、小川、ながる。爰に、虹桁(こうゑん)の橋をなし、里民、旅驛(りよえき)の勞(らう)を、いこはしむ。

 もつとも、財福・有德のよそほひなり。

 折節、南庭の梅花(ばいくわ)、ひらきて、芬々(ふんふん)たり。

 經廉、門前にいたり、案内をこふといへ共、人、なし。

 其内を、うかゞひ見れば、庭上(ていじやう)に春草(しゆんさう)ふかく、廣亭(くわうてい)、塵埃(ぢんあい)に埋(うづ)もれ、窓扉(さうひ)、をのづから[やぶちゃん注:ママ。]ひらけ、春風、簾帳(れんてう[やぶちゃん注:ママ。])をやぶる。

 奧室(をうしつ[やぶちゃん注:ママ。])に入《いる》に、いよいよ、人、なし。

 

Kusanounekado

 

[やぶちゃん注:底本の画像はこれ。以前のものと同じく、台詞のようなものがあるが、墨の濃淡が異なり(特に娘の左のそれ)、落書きと断じて電子化しない。]

 

 爰に、齡(よはい[やぶちゃん注:ママ。])、二八《にはち》ばかりの美姬(びぢよ)一人、悲淚啼泣(ひるいていきう)す。

 經廉、問《とふ》ていはく、

「汝は、人間なるや。」

 彼(かの)女子(によし)、こたへていはく、

「我は草壁春里(くさかべはるさと)が季(すへ[やぶちゃん注:ママ。])の女子なり。然《しかる》に、我父、春里は、冨貴有福(ふうきゆうふく)にして、七珎万寶(《ひつ》ちんまんばう)を、藏庫(くら)にたくはえ[やぶちゃん注:ママ。]、累葉(るいえう[やぶちゃん注:ママ。「るいえふ」が正しい。]。)、繁榮せしめ、諸從春属(しよしけんぞく[やぶちゃん注:ママ。])、數(かず)をつくす。去月(きよげつ)はじめより、不思議の魔生、夜〻(よなよな)、來(きたり)て、我(わが)親兄(しんきやう)を、一〻《いちいち》、取《とり》つくす。諸從《しよじゆう》、おそれて迯去(にげさり)、今は、我身一人、殘れり。何さま、今宵、かの魔のために、とらるべき事、必定《ひつぢやう》なる故、かく、悲歎に及《および》候。」

といふ。

 經廉、重(かさね)て、いはく、

「それがし、今夜(こよひ)、彼(かの)魔生を、退治すべし。」

と契約し、女子を唐櫃(からひつ)に入《いれ》、經廉は、其ふたの上に座し、件《くだん》の二犬を、左右に置《おき》、魔生が來る尅限(こくげん)を、

『いまや、いまや、』

と相待(あひまつ)に、夜半に及《および》て、巽(たつみ)の方(かた)より、雷(いかつち)のごとくになり、車輪のごとくにめぐり、電(いなづま)のごとくに來《きたつ》て、寢殿の破風(はふ)より、入《いら》むとす。

 經廉、山鳥の羽にてはぎたる大矢(おほや)をもつて、

「ひよう」

ど、射る。

 電、(いなひか《り》)、たちまち、南方に去(さり)て、ふたゝび、來らず。

 曉天《げうてん》に、これをみるに、破風より、血、ながれたり。

 件の二犬を先にたてゝ、血をしたひ行(ゆく)に、櫛川山にいたる。

 爰に、ふし木あり。

 其なかばに、彼(かの)矢、たちて、血ながるゝ事、おびたゞし。

 時に、經廉、竒異の思ひをなす所に、樵夫(せうふ)、一人、來り、語《かたり》ていはく、

「此木は、一莖千條(いつ《ぎ》やうせんでう)の柏木(はくぼく)、山中一の木神(もくしん)なり。しかるを、草壁春里、しらずして、これをきる。此木、すでにくつがへり、倒(たを[やぶちゃん注:ママ。])るゝ時、声、有《あり》て、さけぶこと、あたか[やぶちゃん注:ママ。「も」の脱字。]、百千の雷(いかつち)のごとし。これよりして、其木精(もくせい)、春里にあだをなす事、右の如し。」

と云(いひ)おはつて[やぶちゃん注:ママ。]、見えず。

 經廉、伏木にむかつて、

「汝が憤怒、ことはり、至極せり。此上は、速かに、塞氣逆生(そくきぎやくしやう)の木体(もくたい)を轉じて、万德(まんとく)圓滿の佛體に刻(きざ)ましむべし。自今(じこん)以後、恨(うらみ)を散ずべし。」

といふ時に、窾(か)の中に、聲、あつて、これに應ず。

 經廉、重て、いはく、

「まことに、猶、木精あらば、みづから、某《それがし》が住国(すむくに)に來《きた》るべし。」

と。

 其言葉、おはらざるに[やぶちゃん注:ママ。]、山河(さん《が》)大地、震動し、大雨(たいう)、車軸をなし、洪水、おびたゞしく、伏(ふし)たる柏木、をきあがり、龍(りやう)のかたちに変じ、大河(だいが)にくだれり。今に櫛川山に「蛇道(じやのみち)」といへる、是なり。

 かくて後、筑後国、「九万死路(くましろ)の渡(と)」に、怪鬼、出現し、夜々(よなよな)、人を、とりころす。

 これによつて、人民の通路(つうろ)、たえ、国中の禍害(くはがい)となる。

 經廉、これを聞《きき》、退治の爲、かしこに行《ゆき》、うがゝひみるに、夜半に、河邊(か《は》べ)の砂中(すなのなか)より、光を、はなつ。

 其所を、ほりうがつに、窾(かの)木、砂中に有《あり》て、矢、たてり。

 よく見るに、經廉が矢なりければ、かの木にむかつて、

「去るころ、櫛川山にて約せる旨にまかせ來る事、殊勝なり。ねがはくは、是より行程一里のほづて[やぶちゃん注:ママ。「のぼつて」の誤刻であろう。]、我《わが》城地(《じや》ち)に來るべし。」

といふに、又、風雨おこりて、大河の水、さかさまにながれ、かの木、經廉が城地にいたりければ、經廉、件(くだん)の木をもつて、佛像をきざましめ、堂舎をたてて、安置(あんぢ)す。

 今、筑後國「山本の觀音」、これなり。

 其後、經廉、草壁春里が女子を妻(つま)とし、子孫、繁榮しけるとなり。「豊後日田事記」

[やぶちゃん注:原拠とする「豊後日田事記」(ぶんごひたじき)は、『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の解題によれば、「豊西記」(ほうせいき)の異名とある。「豊西記」は春森樹の著になるもので、「西尾市岩瀬文庫/古典籍書誌データベース」の写本の書誌によれば、『豊後国日田の沿革・歴代領主について記した地誌。漢文体。序によれば、本書は天和』三(一六八三)『年に新領主松平大和守直矩に献上され、更に貞享』三(一六八六)]『年に日田が公領となり』、『国替えとなると、新代官小川藤左衛門尉正辰に献上された』とあり、『貞享』三『年青陽、自序』で、『巻末の「日田郡守護領主之次第」は寛政』五(一七九三)『年の記事まで増補あり(本文同筆)』とある。ネットでは現物には当たれない。非売品で昭和三〇(一九五五)年に校訂本が刊行されている。有意な破綻のない展開を持ち、何らかの原話があるようでもなく、是非、原話を見てみたいものである。

「草野經廉」本篇は時代背景が明らかでないが、かなり類似した名で、九州北部に関連し、鎌倉時代の武将で神主でもあった草野経永 くさのつねなが 生没年未詳)がいる。講談社「デジタル版日本人名大辞典+Plus」によれば、父祖から受け継いだ肥前松浦郡鏡社(長崎県)の宮司職に専念するため、本拠の筑後山本郡から同地に移住。弘安四四(一二八一)年の「蒙古襲来」に出陣し、戦功をたてた。通称は次郎とあった。龍となった異界のものと感応出来るというのはシャーマンとしての神職とも通っじ、本拠が一致することから、この者の祖先がモデルと措定される(理由は後の「「草壁春里(くさかべはるさと)」の注を参照。

「筑後國」「山本」現在の久留米市の一部。この附近(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)

「豊後(ぶんご)日田郡の内」「内野狩倉(うちのかくら)」「内河㙒由桶原(《うちかはの》ゆず《けはら》)」大分県宇佐市院内町落狩倉(いんないおちかくら)という山間部があるが、ここであろう。

「東にあたつて、小川、ながる」大分県宇佐市院内町落狩倉の東方なら、新貝川が流れる

「虹桁(こうゑん)の橋」美しい支えの橋桁(はしげた)を架けた橋の意であろう。

「芬々(ふんふん)たり」芳気の高く香るさま。

「二八」十六歳。

「草壁春里(くさかべはるさと)」日田には古くから「日下部(くさかべ)の長者」伝説がある。古賀勝氏のサイト「筑紫次郎の世界」の「一夜川」(ひとよがわ:副題は「榧の木物語」「榧」は「かや」)を読まれたい。その冒頭に、千三百年以上も昔の話として出る。これは単純計算で養老六(七二二)年以前で、奈良時代以前ということになる(本篇の私の最後の注も参照)。その伝説によれば、本篇の草野経廉は、『草野太郎常門(くさのたろうつねかど)』で、『耳納』(みのう)『山麓の山本郷(現久留米市)の豪族である』とあるのでほぼ一致を見る。ピークの耳納山はここで、この一帯を「耳納山地」と呼ぶ。伝説と本篇とは微妙な小道具が異なるが、

・最初に逢うのは娘ではなく、長者の下男の初老の者であり、娘に逢わせるために、屋形へ案内するシーンがあること。

・その娘は『末娘の玉姫』と名が出ること。

・犬は二匹ではなく、三匹であること。

・変化が具体な「鬼」として形象化されているらしいこと。

・祟りの謂われを語る怪しい「樵夫」が、『白装束で白髪の老人』である

こと等々であるが、同一の伝承に基づく酷似した譚である。敢えて言うと、大きな違いは、

  • 変化元の神木が「柏」(被子植物門のブナ目ブナ科コナラ属コナラ亜属 Mesobalanus 節カシワ Quercus dentata )ではなく、「榧」(裸子植物門マツ綱マツ目イチイ科カヤ属カヤ Torreya nucifera )であること

と、

  • 日下部の長者は『生前このご霊木で観音像を彫り、供養すると約束した』にも拘らず、斬り倒したままに、『大事な約束を反故にした』結果、『春里は罰を受けて死んだ』という霊の語りの部分がより詳しいこと

であろう。なお、この伝承は実はもっと遅いことが後で判る。本篇の私の最後の注も参照。

「諸從春属(しよしけんぞく)」前の部分は後の「諸從《しよじゆう》」が正しい。振り仮名の誤刻であろう。

「巽(たつみ)」東南。

「櫛川山」不詳。但し、「Stanford Digital Repository」の戦前の地図の「豐岡」で前注の位置を調べ得見ると、古くはここは広域の「安心院村」で、これ、驚くべきことに、「あじみ」(むら)と読んでいることが判明した。というより、現在も落狩倉の東北に接して、やや読み方が変わって、大分県宇佐市安心院町中山(あじむまちなかやま)が現存することも判った。その辺りを探してみたが、「櫛川山」は見あたらない。ただ、落狩倉の北方の現在の院内町副の丘陵部に「櫛野」の地名が見出せた(上櫛野・下櫛野も並ぶのですぐ見出せる。現在のグーグル・マップ・データ航空写真のここで、東部分が有意なピークを持つ山体であることが判る)。ここがそこか?  なお、本篇の私の最後の注も参照。

「ふし木」ここは「倒木」の意。

「一莖千條(いつ《ぎ》やうせんでう)」不詳。通常の草木の一茎の千本分に当たる霊験あらたかな神木・木神であることを言うか。

「塞氣逆生(そくきぎやくしやう)」不詳。倒木となって、本来の陽気が閉塞して、逆に陰気となってしまった状態を言うか。

「窾(か)」洞(ほら)。倒木に生じた空洞。

「大河(だいが)」先の古賀氏の記載によれば、筑後川ということになる。

「蛇道(じやのみち)」不詳。

「九万死路(くましろ)の渡(と)」古賀氏の記載に『神代(くましろ)(久留米市)』とある。(旧)神代橋はここであるから、この「渡し」はこの附近となろうか。但し、少し上流のここに「古北渡船場跡」(明治八(一八七五年より)があるので、こちらの方が候補地としてはより近いか。冒頭の旧「山本」も、この左岸である。

「是より行程一里のほづて、我城地(ち)に來るべし」それらしい山砦跡はないようである。

「山本の觀音」先の古賀氏のページに、『山本町の観興寺には、常門が榧の霊木で彫った千手観音像が秘仏として祭られているという』とあるのがそれである。曹洞宗山本山普光院観興寺(やまもとざんふこういん かんこうじ )。解説は短いが、サイト「筑後三十三所観音霊場」のこの寺のページが、本伝承を述べてあり、解説版写真も拡大して読める。それを見ると、『天智天皇の白雉年中(六五〇年頃)』(この言い方はおかしい。白雉時代(六五〇年~六五四年)の実際の天皇は孝徳天皇で、中大兄皇子(=天智)は孝徳の皇太子となって「大化の改新」を進めていたが、白雉四年に二人の対立は深まり、翌五年に孝徳帝は崩御する)、『草野太郎常門が豊後国串川山(現日田市)に狩りをし、榧(かや)の木の霊木を得て、これで千手観音の像を彫刻し、それを本尊として当山を開基、伽藍堂坊三十六坊を建立したのが始まりといわれてい』るとあり、『特に天智天皇により「観興寺」の勅額を賜ったほどで、境内の小池から、大宰府の都府楼と同じ「観興寺」の銘の入った布目瓦が出たことがあり、草野氏の信仰と当時の隆盛がしのばれ』るとする。さらに、『寺宝としては、千手観音の霊木にまつわる鎌倉後期の作と伝えられる「観興寺縁起」二幅があ』るとある。而して、本話は以上の寺の記載が正しいとならば、確実に千三百七十二年前の六五〇年、或いは、それ以前に遡ることが可能ということになるのである。なお、この解説の中の狩りをした場所を『豊後国串川山(現日田市)』とするのは、一寸悩ましいのである。串川山という山は現在の日田市にはない。しかし、日田市には串川という川はある。しかし、ここは私が先に比定した大分県宇佐市院内町落狩倉とは遙かに隔たっているのである。無論、一種の神話であるからして、まさにこの広域に於いて、この神話の原形が生まれ、それぞれの地が超現実的に組み合わされ、話も多彩な変異を見せて、複数生れたと考えればよかろう。

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