大和怪異記 卷之四 第五 古井に入て死る事
[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の本文部分はここから。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。
正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。なお、底本のルビは歴史的仮名遣の誤りが激しく、ママ注記を入れると、連続してワサワサになるため、歴史的仮名遣を誤ったものの一部では、( )で入れずに、私が正しい歴史的仮名遣で《 》で入れた部分も含まれてくることをお断りしておく。]
第五 古井(ふる《ゐ》)に入《いり》て死(しす)る事
奧州の者、かたりけるは、我国に、あるもの、
「井の水を、かゆる。」
とて、奴僕(ぬぼく)をあつめ、かへさせけるに、下の、にごり、つきず。
とかく、
「人をおろし、掃除させよ。」
とて、井底におろしけるに、ひかへたる繩、かろければ、
『定(さだめ)て、おりゐたるらん。』
と思ひ、まて共゙まて共゙、おと、なければ、不思議におもひ、又、人を、おろすに、なわ[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。]、かろくなりて、かの者は、いづちゆきけん、しらず。
みなみな、奇異の思ひをなし、あきれ、まどへり。
其中に、をごの者、ありて、
「いざ、我をおろし給へ。いかなる變化(へんげ)の所爲(しよ《ゐ》)にもあれ、我は左《さ》は、せられじ。正躰を見とゞけん。」
と望み、手縄、二すぢ、より合せ、つよく帶(おび)し、かまを、こしにさし、桶の内に、足をふみ入《いれ》、おろせる繩に、をのが[やぶちゃん注:ママ。]こしを、つよく、ゆひ付、
「もし、かはれることあらば、此なわを、うごかさん。」
と、いひて、井に入《いり》しに、
『そこに、つきぬ。』
と思ふ時、かすかに、なわ、うごきしを、皆人(みな《ひと》)、手に手をかさね、引《ひき》あぐるに、ことの外にかろし。
急《いそぎ》て、縄をくり上《あげ》たれば、又、人は、なく、こしに付《つけ》たる、なは、むすびたるまゝにて、もぬけせしごとし。
「こは、いかに。」
と、あきれ、まどゐぬれども、せんかたなし。
井、ふかければ、そこ、見ゆるまでほらせんには、隣家(りんか)までも、くづれなん。
もはや、「入れ」といふ事もなく、「入《いら》ん」といふ人も、なし。
「あたら、人を、おほく、ころせしよ。」
と、悔(くやみ)ながら、此井を、うづめし、となむ。
是、「酉陽雜俎」・「輟畊錄」等に、古井ありて、人をうしなふ、と記(しる)せるたぐゐ成《なる》べし。陸奥国人ノ物語
[やぶちゃん注:原拠は書名とは思われない。本怪異は最後の志願者が縄を厳重に二重巻きで強く締めたのに遺体が抜けてしまっている点が不審乍ら、所謂、酸欠或いは一酸化炭素か二酸化炭素中毒で説明がつくであろう。
「おごの者」「おこの者」「おこ」は当て字では「嗚呼」「烏滸」が一般的で、他に「癡」(痴)「尾籠」などとも書く。古代からあった「愚かなこと・馬鹿げたこと・思慮の足りないことを行なうこと」、また、「そのさまや、そうしたその人」を意味する。小学館「日本国語大辞典」によれば、「うこ」の母音交替形で、奈良時代から盛んに用いられるようになり、漢字を当てて、日本漢文の中でも多く使われた。多くの漢字表記が残っているが、それぞれの時代で使う漢字が定まっていたらしい。平安時代の漢字資料では「𢞬𢠇」「溩滸」など、「烏許」を基本にこれに色々な(へん)を附した漢字を用い、院政期には「嗚呼」が優勢となり、鎌倉時代には「尾籠」が現われ、これを音読した和製漢語「びろう(尾籠)」も生まれた、とある。
「酉陽雜俎」唐の段成式(八〇三年~八六三年)が撰した怪異記事を多く集録した書物。二十巻・続集十巻。八六〇年頃の成立。「中國哲學書電子化計劃」の影印本で示すと、十一巻の「廣知」の中の「隱訣」の引用中、まず、ここの終りから二行目下方から、「井戸の水で、沸騰しているのは、飲んではいけない」とあり、次の丁の頭に、「凡そ、冢(墓)や井戸の閉じられた気は夏・秋に中(あた)ると、人を殺す。予め、雞(にわとり)の毛を投げ入れ、その毛が真っ直ぐ落ちていったなら、無毒であるが、それがぐるぐると旋回して下りていったら、無理をして危険を犯してはならない。醋(酢)を数斗[やぶちゃん注:唐代の「一斗」は五・九リットル。]注いで初めて、方(まさ)に入れるようになる。」とある。
「輟畊錄」「輟耕錄」に同じ。元末の一三六六年に書かれた学者で文人の陶宗儀の随筆。正式には「南村輟耕錄」(「南村」は宗儀の号)である。世俗風物の雑記であるが、志怪小説的要素もある。当該話は多分、第十一の「枯井有毒」である。ここでは、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の承応元(一六五二)年板行の本邦の板本(訓点附き)を元に電子化して示すここ(巻十から十二の合本一括版)(PDF)の31コマ目からである。但し、私の以下の訓読は、必ずしも訓点に従ってはいない。表記は若干、疑問があったので、「中國哲學書電子化計劃」の影印本と校合して一部を変えた。
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枯井有毒(こせいうどく)
平江の在城、峨嵋橋(がびきやう)に、葉剃(えふてい)といふ者の門首(もんしゆ)の簷(ひさし)の下に、一つの枯れ井、有り。深さ、丈(じやう)許(ばか)りなるべし。
偶(たまた)ま、畜(か)ふ所の猫(ねこ)、墮ち入る。
隣家、井を浚(さら)ふに適(あた)れば、遂に、井夫に錢一緡(さし)を與へ、下(お)りて猫を取らしむ。
夫(そ)の父子、諾(だく)す。
子、既に井に入りて、久しく出でず。
父、繼(つづ)いて入り、之れを視るも、亦、出でず。
葉、惶-恐(きやうこう)して、索(なは)を腰に繫ぎて、家人をして、次第に索を放たしめ、將に井の底に及ばんとして、亟(きふ)に、
「命(いのち)を、救へ。」
と、呼ばふ。
拽(ひ)き、比(なら)べて、起こすに、體の下、已に僵木(きやうぼく)となること、屍(かばね)のごとく、而(しか)も、氣息、奄奄(えんえん)たり。
鄕里(がうり)、救ひて、之れを活(い)かしめんとして、官に白(まを)す。
官、來たりて、驗視(けんし)す。
火をして、下を燭(てら)さしむに、仿佛(ほうふつ)として、旁(かたは)らに空(あ)ける者、有るがごとく見ゆ。
向(さき)の死人、一(ひと)りは、橫に地上に臥(ぐわ)し、一りは、斜めに倚(よ)りかかりて、倒れず。
其の髮を、鉤(ひきか)けて提(あ)げ出だせり。
遍身、恙無(つつがな)くして、止(ただ)、紫黑なるのみ。
衆議して以(おもへ)らく、
「恐らくは、是れ、蛟蜃(かうしん)の屬(ぞく)ならん。之れ、土(ど)を實(じつ)とす。餘意、山崗(さんこう)の蠻瘴(ばんしやう)すら、尚ほ、能(よ)く人を殺す。何ぞ況んや、久しき年、乾涸(かんこ)して、陰の毒、凝結し、其の氣を納(い)れて、而して死すを、復(ま)た奚(なん)ぞ疑はんや。」
と。
此の事、至正己亥(きがい)の秋八月初旬に在り。後に「酉陽雜俎」を讀むに、云へる有りて、
『凡そ、冢(はか)・井(ゐ)の間氣(かんき)、秋、夏、多く、人を殺す。先づ、雞(にはとり)の毛を以つて、之れに投じて、直ちに下れば、毒、無し。廻り舞ひして下る者は、犯すべからず、當(まさ)に泔(ゆする)[やぶちゃん注:米の研ぎ汁。]數斗を以つて、之れに澆(そそ)ぎ、方(まさ)に入るべし。』
と。此の一章を得て、餘意の誠(まこと)に是れなるを信ず。
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この「鄕里」は当該地方の現地の実務官吏であろう。「土(ど)を實(じつ)とす」は『五行の「土」を本性・本質とする』の意でとる。「蠻瘴」蛮地の自然の悪しき瘴気。「至正己亥」は元の至正十九年。ユリウス暦一三五九年。トゴン・テムルの治世。中和剤が異なるのは御愛嬌。ここで遺体が「紫黑」というのは、一酸化炭素中毒の遺体によく似ている。同中毒死の直後は遺体がピンク色を呈するのである。]
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