大和怪異記 卷之二 第五 源實朝は宋鳫陽山の僧の再來なる事
[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の分はここ(標題は前ページ)。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。
正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。なお、底本のルビは歴史的仮名遣の誤りが激しく、ママ注記を入れると、連続してワサワサになるため、以降では、歴史的仮名遣を誤ったものの一部では、( )で入れずに、私が正しい歴史的仮名遣で《 》で入れた部分も含まれてくることをお断りしておく。]
第五 源實朝は宋(そう)鳫陽山(がんやうさん)の僧の再來なる事
右大臣源實朝公、ある夕(ふゆべ)、㚑夢(れいむ)の告(つげ)あり。
「前生(ぜんじやう)は、宋の温州鳫陽山の僧なり。今、日本の將軍と、うまる。」
と。
さめて後《のち》、詠哥(ゑいか)に、
〽よもしらじ我もえ知ずからくにの いはくら山に薪(たきゞ)こりしを
「紀州志」
[やぶちゃん注:原拠とする「紀州志」については、「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の解題では、「南紀名勝路志」を正式書名とするが、これは「南紀名勝略志」の誤りである。「南紀名勝志」とも言う。底本と同じ「新日本古典籍総合データベース」の「南紀名勝略志」でやっと見つけた。「日高郡」の中の「鷲峯山興國寺」(しゅうほうざんこうこくじ)の条の中の記載である。ちょっと長いが、内容がブッ飛んでいるので、実朝に関連する箇所のみを訓読して電子化する。段落を成形し、句読点・記号を打ち、一部に歴史的仮名遣で読みや濁点を推定で入れた。【 】は二行割注。
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鷲峯山興國寺
由良庄、門前村の西北にあり。
緣起に曰(いはく)、
『夫(そ)れ、紀州海部郡(かいふのこほり)由良の莊(しやう)、鷲峯山西方寺(さいはうじ)草創由来の事。
抑(そもそも)、當時、本願檀那、願性(ぐわんしやう)上人は、関東の武士、藤原景倫(ふじはらのかげとも)、葛山(かつらやま)の五郎なり。
右丞(うじやう)将軍實朝(さねとも)公の、寓直(ぐうちよく)の近習(きんじふ)にして、恰(あたか)も、影の形に隨ふごとし。
然(しかれ)ども、實朝、一夕(いちゆふ)、
「吾が前生は、宋の温州雁蕩山(がんたうざん)に夙因(しゆくいん)有り。其の功力(くりき)を以て、日本の将軍と為(な)る。」
と夢(ゆめみ)て、覺(さめ)て後(のち)、詠歌、有り、
世もしらじ我もえしらじから國のいはくら山に薪とりしを
加-旃(しかのみならず)、建仁開山葉上僧正[やぶちゃん注:栄西のこと。]の夢めに、
「実朝公は、玄奘三蔵の再誕なり」云云
所以(このゆへに[やぶちゃん注:ママ。])、身は靑油幕(せいゆばく)に在りと雖(いへど)も、心は常に墨汁の衣(ころも)に染む。
実朝、宋朝に於て、之(これ)、前因(ぜんいん)、唯一ならず。
然(しか)るに、景倫を以て、宋國に差(さ)し遣(つかは)され、
「彼(か)の雁蕩山を繪圖に寫(うつ)し来(きた)れ。日本に於て、圖のごとくに、寺を建(たつ)べし。」
仍(より)て、景倫、其の命を奉(たてまつり)て、鎮西博多(はかた)の津(つ)に下(くだ)り、宋舶(そうせん)の順風を待つ處に、関東より、飛脚、下(くだり)て、
「去る正月廿七日【𣴎久(じようきう)元年。】将軍御夭薨(ごえうこう)」
の訃(ふ)を告ぐ。
景倫、哀歎(あいたん)して、即時に、髪、剃(そ)り、衣、染めて、法名を「願性」と称す。
再び鎌倉に帰らず、徑(たゞち)に髙野に登り、主君實朝将軍、御菩提を弔ひ奉る。
誠に以て、忠心の致す所(ところ)なり。
實朝御母儀、尼将軍【賴朝の御内(みだい)。従二位政子(まさこ)。】、此の㫖(むね)を聞し召(めし)て曰(のたま)はり、
「近習、七百人の中(うち)に忠義、景倫にしく者、無し。」
然る間(あひだ)、髙埜(かうや)居住・資緣(しえん)の為めに、由良庄地頭職を下し賜はる。
承久三年辛巳、入部、其れより、七年後(のち)、安貞元年丁亥、當寺を建立【「西方寺」と号す。】、右丞相(うじやうしやう)兼(けん)征夷将軍実朝公、并(ならび)に、二品(にぼん)真如大禪定尼[やぶちゃん注:政子。]兩㚑(れい)の御菩提の為めに、當荘の地頭職、二つに割(さ)き分(わけ)て、半分充(はんぶんあて)、金剛三昧院と西方寺とに寄進す。兼(かね)て、願性、金剛三昧院、居住の砌(みぎ)り、鹿跡(しゝどの)二郎入道西入(せいにふ)、将軍葬所に於て、御頭骨(おんとうこつ)を取り、持ち来(きたつ)て、願性に付輿す。
願性、當寺、思遠卵塔(しをんらんたう)の西に就(つけ)て、實朝の石塔を建て、塔の火輪(くわりん)の中に、御骨(おんこつ)、半分を安ず。師、其の半骨(はんこつ)を以て實朝前生の國に納めんと欲す云々。
[やぶちゃん注:以下は原本でも改行している。]
師四十五歳、宋の淳祐十一年、明州、育王山(いわうざん)【「育(い)」は唐音。】掛塔(クハタ)す[やぶちゃん注:ママ。]。寺は平坦なる山の中(なか)に在り。爰(ここ)に、塔、有(あり)、是れ、阿育王八万四千基の其一(いち)なり【故に「育王山」と曰(いふ)。】〉。傳に曰(いはく)、
『定海(ぢやうかい)の網人(あみびと)、此の塔を牽(ひ)き上(あげ)たり。』
と。又の說(せつ)には、
『寺より、四、五町の外(ほか)に、大石(だいしやく)の上に現(げん)じて、舍利、光明を放ちたまふ。』
と。
諸國より、毎年、二、三月、人、多く参詣す。奇瑞、太(はなは)だ、多し。大権菩薩(だいごんぼさつ)を守護神と為(な)す。
師、此の山に於て、一宇の堂を建て、日本将軍實朝の遺骨を、等身の観音の像の肚内(づない[やぶちゃん注:原本は「ツー」。この読みの後者の長音符のようなものは、他の箇所からも普通の「音(オン)」を指示する記号ととった。)に安ず。凢(およ)そ、實朝前生の鴈蕩山に遺骨を納めらるべきに、此の山に安措(あんそ)したまふ。未-審(いぶか)し、師の意、如何。師、此山に止住(しぢゆう)すること三年云々。
師五十二歳、正嘉二年戊午、嗣書(ししよ)を無門和尚に通(つう)す。禪定院の住持を罷(や)めて由良鷲峯に遊(あそび)て、終老(しゆうらう)の志(こころざし)有り。功徳主、願性、拝請(はいせい)して、以て、開山住持と為(な)して、同心同力に、精藍(せいらん)を新たにして、後鳥羽禪定法皇の仙駕を資嚴(しごん)し、專(もつぱ)ら、実朝公・真如禪定尼の為に、道塲を追修(ついしゆ)す【安貞元年丁亥、由良の庄地頭、願性、始て此の西方寺を、建立より、三十二年の間、他宗なり。茲(こ)の年、前意を囘(かへ)して、改めて禪刹と為(し)、覺心長老を拝請(はいしやう)す。以て、開山住持と為す。】。願性云く、
「師は、戒珠、疵(きず)無(なく)、道眼(だうがん)、是(これ)、明かなり。是の故に、道俗、嶮(けん)を冒(をか)して、遠近(をちこち)、風(ふう)に趍(わし)ると云云々」。』[やぶちゃん注:以下略。「わしる」は「走る」で、「競って、その足下へと走り集まってくる」の意でとった。]
*
まず、この「鷲峯山興國寺」であるが、これは、現在の和歌山県日高郡由良町にある臨済宗妙心寺派鷲峰山(しゅうほうざん)興国寺(こうこくじ:グーグル・マップ・データ)で、本尊は釈迦如来。而して、ここに出る願性(がんしょう ?~建治二(一二七六)年)は、俗名を葛山景倫(かずらやまかげとも)で、元は源実朝に仕えた近習の一人であった。実朝が陳和卿(ちんなけい)に対面し、夢が一致したことから、「大陸へ渡る」と言い出して後、実朝の命により、まずは彼が宋へ渡ることになったが、紀伊由良荘で実朝暗殺の報を受け、高野山に登った。真言宗禅定院の退耕行勇に従い、出家するも、同荘の地頭職に任ぜられたが、一方で熱心に実朝の菩提を弔った。後、金剛三昧院の別当となり、由良に西方寺(後の興国寺)を創建した(講談社「デジタル版日本人名大辞典」に拠った)。史実上は彼は大陸に渡った事実は全くないが、以上の「鷲峯山興國寺」縁起では、極めて詳細に彼が宋に渡って、彼の前生が僧であった鳫陽山ではなく、阿育王山に実朝の遺骨を納め、而して本邦に戻って西方寺を建立したという驚天動地の話が語られているのである。また、ここに出る「明州、育王山」は、後で「吾妻鏡」から引く台詞の中の「醫王山」と同一で、現在の浙江省寧波市鄞州区太白山の麓にある阿育王寺(アショーカおうじ)である。鑑真が日本に渡る際に休息したとされ、鎌倉時代には重源が訪れている。
本篇では、名が出ないが、この話には絶対必要条件の人物である陳和卿は、これ、甚だ怪しい人物であり、胡散臭さがプンプン臭う輩だ。最初は、治承四(一一八〇)年の東大寺焼失後、勧進上人となった重源に従って、大仏の首を鋳造する役を受けて登場する(私の「北條九代記 南都大佛殿供養 付 賴朝卿上洛」参照)。頼朝が上洛し、開眼供養の際、これに貢献した南宋渡りのその僧に逢って結縁(けちえん)をと、面会を求めたが、彼は、『國敵對治の時、多く人命を斷ち、罪業、深く、重きなり。謁に及ばざるの由』を言って、再三、断っている(「吾妻鏡」建久六(一一九五)年三月十三日の条に出る)。そんな彼奴が、二十一年後の建保四(一二一六)年六月、ふらりと鎌倉に現われ、十五日には、実朝に謁見し、「吾妻鏡」では、
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十五日丁酉(ていいう)。晴る。和卿を御所に召して、御對面、有り。和卿、三反(さんべん)拜し奉り、頗(すこぶ)る涕泣す。將軍家、其の禮を憚り給ふの處、和卿、申して云はく、
「貴客(きかく)は、昔、宋朝、醫王山(いわうさん)の長老をたり。時に、吾(われ)、其の門弟に、列す。」
と云々。
此の事、去(いん)ぬる建暦元年六月三日丑の尅、將軍家、御寢(ごしん)の際、高僧、一人、夢の中(うち)に入りて、此の趣を告げ奉る。而うして、御夢想の事、敢へて、以て、御詞(おんことば)に出だされざるの處、六ケ年に及び、忽ちに、以つて、和卿の申し狀に符號す。仍(よ)つて、御信仰の外(ほか)、他事(たじ)無し、と云々。
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という、トンデモ糞芝居をやってのけるのだ。ここは「北條九代記 宋人陳和卿實朝卿に謁す 付 相摸守諌言 竝 唐船を造る」、及び、「★特別限定やぶちゃん現代語訳 北條九代記 宋人陳和卿實朝卿に謁す 付 相摸守諫言 竝 唐船を造る」を読まれたいが、それらを公開した直後に、教え子から、以下の質問と添書を受け取った。
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・陳和卿の言葉に実朝の心が動いたのはなぜか?(真意はどこにあるかは別として)
・もし、船の建造に成功したら、実朝には日本を離れる意思が本当にあったのかどうか?
・陳和卿の胸には大船の竣工・進水のあてがあったのかどうか?
・彼に、もし、確信なかったのなら、その真意はどこにあったか?
・もし、竣工・進水に成功したら、彼にはどのような目算があったのか、実朝とともに一緒に大陸へ戻ろうと考えていたのか?
・陳和卿は、進水に失敗した場合、監督者としての責任追求はされなかったのか?
・日宋貿易にも使われたような大船の建造技術があったはずの当時の日本で、なぜ、進水失敗という噴飯物のミスを犯したか?
・少なくとも大輪田泊に行けば、大陸へ渡る際に使用できるような船は調達できたはずなのに、なぜ、わざわざ新造させたのか?
『由比ガ浜に打ち捨てられた大船の姿を想像すると、まるで悪夢を見ているようです。本当に事実だったのか、にわかには信じられません。』
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それに私は『やぶちゃんのトンデモ仮説 「陳和卿唐船事件」の真相』で答えている。これも一興にはなろう。彼は結局、京と鎌倉との二重スパイとしての両方を手玉にとっていた(逆にとられてもいた)一面があったと、今は考えている。ともかくも座礁破船事件以来、全く行方を断った彼奴(恐らくは孰れかの側の刺客によって葬られた)は――これ、――頗る怪しい奴――である。
「㚑夢(れいむ)」「㚑」は「靈」(霊)の異体字。
「温州」現在の浙江省東南沿海に位置する温州市。
「鳫陽山」不詳。温州市のここに奇岩で知られる雁蕩山ならある。似た漢字の名なら、温州市の西方の浙江省麗水市慶元県に「鳳陽山」がある。孰れも寺があったかどうか、不詳である。毛利豊史氏の「幻の渡宋計画 実朝と陳和卿」(『専修人文論集』巻一〇五・二〇一九年十一月発行・「専修大学学術機関リポジトリ」のこちらからPDFダウン・ロード可能)によれば、『西安大慈恩寺(玄奘の拠点)の「大雁塔」の誤伝とも』とある。この論文、ここに至って発見したが、誠に興味深い。
「よもしらじ我もえ知ずからくにの」「いはくら山に薪(たきゞ)こりしを」私は実朝の歌としては初めて読んだ。同前の毛利氏の論文には、「紀伊続風土記」(江戸幕府の命を受けた紀州藩が文化三(一八〇六)年に藩士で儒学者の仁井田好古を総裁として複数の者にに編纂させた紀伊国地誌)から酷似した箇所が引かれており、和歌は
世も知らじわれもえ知らず唐国のいはくら山に薪樵りしを
とある。]
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