曲亭馬琴「兎園小説拾遺」 第一 「雷砲同德辨」
[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。昨年二〇二一年八月六日に「兎園小説」の電子化注を始めたが、遂にその最後の一冊に突入した。私としては、今年中にこの「兎園小説」電子化注プロジェクトを終らせたいと考えている。
底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちら(左ページ下段五行目から)から載る正字正仮名版を用いる。
本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。
本篇は全部が返り点のみ附した漢文体で、以下の本文のみが、与えられてあるだけで、他に参考に出来るものも見当たらなかったため、訓読は勝手自然流である。誤読があれば、御指摘・御教授戴ければ、幸いである。]
○雷砲同德辨
雷之與二鐵砲一【鐵砲名目、非二俗稱一。出二「會典」一。】。其德之等。其用亦同。葢雷霆者聚散闔闢之師也。是故、仲春月雷有ㇾ聲。則螫蟲出焉。又彼火銃之發也。轟然有ㇾ聲有ㇾ光。聲則屬ㇾ陽。光亦屬ㇾ陽。光發而聲隨ㇾ之。其理如二雷霆一般一。人々欝氣散焉。聞二鐵砲響一者。亦與ㇾ此同。此以二理所ㇾ同其用不一ㇾ異也。近有ㇾ辨二雷霆一。以爲二造化鐵砲一者。其言與二愚意一暗合、亦可ㇾ喜也。若夫聞三雷聲與二銃響一、忽膽怯戰慄者、必在二虛陰之症一。其病蓡附所ㇾ主也。何則雷霆者。陽氣將ㇾ升而爲二陰氣所一ㇾ壓。於ㇾ是乎。陽氣欝而怒。怒則奮擊終焉。鐵砲者。以二燄硝一爲二火藥一。硝石陰類也。傳ㇾ之以ㇾ火。則其火欝而怒。怒則不ㇾ得ㇾ不二奮擊一也。由ㇾ此觀ㇾ之。非乙獨雷霆爲二造化鐵砲一已甲。鐵砲亦可ㇾ謂二人作雷霆一矣。是故獵戶於二深山中一遭二魑魅一。則發二空丸一以禳ㇾ之。此發陽之氣。其德與ㇾ雷同。人之好憎不ㇾ一。虛症者心憎ㇾ雷。聞二銃響一心怯。是則病所ㇾ致。實症者不ㇾ然也。吾老侯嘗好二騎馬銃一。頃年使二本藩牧士等習一ㇾ之。至二於今一人馬相熟。而其術大進。於ㇾ是觀者駭嘆爲二至妙一。老侯以ㇾ此爲ㇾ樂。其意居ㇾ治不ㇾ忘ㇾ亂。亦是演武之一端云。天下靖治二百十數年矣。騎銃之術無ㇾ所ㇾ用。能ㇾ之者幾稀矣。而是事出二於老侯臆度一。其用心可ㇾ知也。一日某侍二於老侯一。老侯曰。寡人每ㇾ聞二銃響一、胸隔豁然。爽然覺二欝氣解散一。盍四爲ㇾ予誌三火銃有二是德一。某固陋。雖ㇾ云ㇾ辱二貴命一、然未ㇾ知ㇾ所ㇾ述。赧然摩ㇾ頂。逡巡固辭。而不ㇾ見ㇾ許。便是所三以有二是辨一也。昔者孔聖稱二驥德一。今也。老侯好二銃擊一孔子所ㇾ稱。非二奔蹄千里之謂一也。老侯所ㇾ欲。豈能擊二殺人一之謂耶。吁長者嗜好。雖ㇾ兵矣必有ㇾ趣焉。併誌二是言一。使下人知中其勝二於殘一之深意上。
文政九年丙戌夏六月 琴嶺瀧澤宗伯敬識
[やぶちゃん注:以下、私の妄想的訓読を示す。読み易くするために、段落と記号を加えた。
*
○雷(かみなり)と砲(はう)と同じき德あるの辨(べん)
雷(かみなり)と鐵砲(てつぱう)とは【「鐵砲」の名目は、俗稱に非ず。「會典(かいてん)」に出でたり。】、其の德、之れ、等しく、其の用も亦、同じ。
葢(けだ)し、雷霆は、聚散闔闢(しゆうさんこうへき)の師なり。是れ故、仲春の月の雷、聲(せい)、有り。則ち、螫(さ)す蟲、出づるなり。又、彼(か)火銃(くわじゆう)の發(おこ)りなり。
轟然として、聲、有り、光り、有り。聲、則ち、陽(やう)に屬し、光も亦、陽に屬す。光り、發(はつ)して、聲、之れに隨ふ。
其の理(ことわり)は雷霆一般のごとし。
人々、欝氣を散ずるに、鐵砲の響きを聞かば、亦、此れと同じ。
此れ、理(ことわり)は、同じくせるものにして、其の用(よう)も異(こと)ならざるものを以つてするなり。
近きに、「雷霆の辨」、有り。以つて、「造化の鐵砲」と爲(な)すは、其の言、愚かなる意を與ふるも、暗に合ひて、亦、喜ぶべきなり。
若(も)し、夫(それ)、雷聲(らいせい)を銃の響きと聞かば、忽ち、膽(きも)、怯(おび)え、戰慄する者は、必ず、虛陰の症、在り。其の病ひ、蓡(しん:朝鮮人参)を附(そ)へて主(つかさど)らせるものなり。
何(なん)とならば、則ち、雷霆は、陽氣、將(まさ)に升(のぼ)らんとして、陰氣を壓する所を爲(な)すものなればなり。是(これ)に於いてや、陽氣、欝して怒る。怒り、則ち、奮擊して終(をは)る。
鐵砲は、燄硝(えんしやう)を以つて、火藥と爲す。硝石は陰類なり。之れを傳ふるに、火を以つてす。則ち、其の火、欝にして怒り、怒り、則ち、奮擊せざるを得ざるなり。
此れに由つて、之れを觀るに、獨り、雷霆のみ、「造化の鐵砲」と爲(な)して已(や)むに非ず。
鐵砲も亦、「人作(じんさく)の雷霆」と謂ふべし。
是れ故、獵戶(れふこ)[やぶちゃん注:猟師。]深山の中(なか)に於いて魑魅(ちみ)に遭へば、則ち、空丸(からだま)を發(はつ)して、以つて、之れを禳(はら)ふ。
此の發陽の氣、其の德、雷と同じ。
人之の好憎(かうざう)、一(いつ)ならず、虛症の者は、心(こころうち)、雷を憎み、銃の響きを聞かば、心、怯(おび)ゆ。
是れ、則ち、病ひの致す所なり。實(まこと)の症には、然らざるなり。
吾が老侯[やぶちゃん注:松前藩前藩主(隠居)松前道広(宝暦四(一七五四)年~天保三(一八三二)年)。]、嘗つて、騎馬銃を好む。頃年(けいねん)、使二本藩の牧士等(ら)に之れを習はしむ。
今に至りて、人馬、相ひ熟し、而して其の術、大きに進めり。是(ここ)に於いて、觀る者、駭嘆し、「至妙たり。」と爲(な)す。
老侯、此れを以つて、樂しみと爲す。
其の意、
「治まり居(を)りても、亂(らん)を忘れず。」
と。亦、
「是れ、演武の一端。」
と。云はく、
「天下、靖(やす)んじて治(をさ)まること、二百十數年。騎銃の術、用とする所、無し。之れ、能(よ)くする者、幾(ほとん)ど、稀れなり。」
と。
而して是の事、老侯の臆(おもひ)、度(たびたび)出でたり。
其の用心、知るべし。
一日(あるひ)、某(それがし)[やぶちゃん注:最後の署名では、表向きは松前藩医員であった瀧澤宗伯(そうはく:医名)興継琴嶺(きんれい:号)をとっているが、事実はその父馬琴である。]、老侯に侍(じ)す。
老侯、曰はく、
「寡人(かじん)[やぶちゃん注:「徳の寡(すく)ない者」の意で、一人称の人代名詞。但し、王や諸侯が自分自身を謙遜して言う語である。]、銃の響きを聞く每(ごと)に、胸隔、豁然(かつぜん)とし、爽然(さうぜん)して、欝氣、解散するを覺ゆ。盍(なん)ぞ、予が爲(ため)に、火銃に是の德の有るを誌(しる)さざる。」
と。
某、固陋(ころう)なれば、貴命を辱(かたじけな)きと云ふと雖も、然(しか)るに、未だ、述ぶる所を知らず、赧然(たんぜん)として、頂(ちやう)を摩(ま)すのみ、逡巡して固辭せしも、而れども、許されず、便(すなは)ち、是れを以つて、是の辨の有る所なり。
昔は、孔聖、「驥德(きとく)」と稱せり。今や、老侯、「銃響(じゆうきやう)」を好みて、孔子の稱する所たり。
「奔蹄(ほんてい)するに、千里。」の謂ひには非ざるなり。
老侯が欲せらるるは、「豈に能く殺せる人を擊つ。」の謂ひか。
吁(ああ)、長者の嗜好たり。
兵(つはもの)と雖も、必ず、趣き、有り。
併(あはせ)て、是の言(げん)を誌(しる)せり。人をして、其の殘りの勝れるところの深意を知らしむ。
文政九年丙戌(ひのえいぬ)夏六月 琴嶺瀧澤宗伯敬識
*
「會典」(くわいてん(かいてん))は政治書群の中の一種を指す語で書名ではない。特に法令や典章を記録したものを指す。現存している会典で最も古いものは「唐六典」である。但し、ここは「鐵砲」或いはそれと同義の語を挙げている、「会典」の意である。因みに、小学館「日本国語大辞典」の「銃」の項に用例として『清会典―兵部・武庫清吏司』を挙げているから、清代の「大清会典」(初版は一六九〇年)には既に「銃」は確認されていることになる。但し、ウィキの「銃」によれば、『一二七〇年から一二八〇年頃に』、南宋の一二五九年頃に発明された筒状の木や竹の中に火薬と石の弾丸を入れて前方に飛ばす「突火槍」に代わって、『青銅などの金属を筒状に鋳造した「手銃」』(ハンド・キャノン)『が製造され、これは筒の後方に木の柄を取り付けて使用した』。十四『世紀に入ると』、『中国各地に手銃が伝わり、同世紀末頃に中国各地で製造が始まっている』。『中国の主張によれば、中国で発明された火薬や火薬を使用する武器はシルク・ロードを通ってインドやアラビアに伝わったのだという』とあるから、もっと前の「会典」に載るのであろう。そうなると「明会典」かと思ったが、考えてみると、元寇は、そのような装置を持って日本を攻めていることは誰でもご存知であろう。而して、上記リンク先をよく読むと、『初め火薬は、梱包されて』、『導火線をつけ、投擲して建物などを焼く、焼夷弾の火毬に利用された。火毬は火薬を陶器の容器に装填し、破裂すると』、『破片が飛び散る原始的な手榴弾となった。この手榴弾は』「鉄炮」『と名づけられ』、十三『世紀にモンゴル帝国が武器として各戦場で使用した』(☜)。一二七四(文永一一)年『年の日本襲来(元寇)の際にもモンゴル軍によって使用された』とあるから、これは元の「会典」である「大元聖政国朝典章」(略称「元典章」。一三二二年までの情報が記されてある。現存するものは、元代の福建で作られたものであり、台北の国立故宮博物院にある。しかし、奥付等が無いため、正確な刊行年は不明である。ここは当該ウィキに拠った)が実際に近代的鉄砲の原形が掲載されている当該書ではないかと私には思われる。
「闔闢」閉じることと開くこと。
「仲春の月の雷、聲、有り」「一年の始まりと生きとし生けるものの活発に開き始める二月の春雷には、厳かな聖なる響きがあるのである。」という意でとった。
「雷霆の辨」不詳。識者の御教授を乞う。馬琴の別な論ではないようである。
『吾が老侯、嘗つて、騎馬銃を好む。頃年(けいねん)、使二本藩の牧士等(ら)に之れを習はしむ。今に至りて、人馬、相ひ熟し、而して其の術、大きに進めり。是(ここ)に於いて、觀る者、駭嘆し、「至妙たり。」と爲(な)す。』先行する『曲亭馬琴「兎園小説別集」上巻 松前家走馬の記 騎馬筒考(騎馬筒)』を参照されたい。
「赧然」恥ずかしさのあまり、顔を真っ赤にするさま。
「驥德」孔子が好んだ「駿馬がその内に持つ稀有なる徳のこと」。
「文政九年」一八二六年。]
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