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2022/11/25

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「話俗隨筆」パート 武邊手段の事

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから次のコマにかけて。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。

 なお、私は本篇を、二〇一〇年一月二十八日に、上記「選集」を底本としてサイト版として「武辺手段のこと」として電子化注しているが、今回は全くの零から始めており、これを決定版とする。

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。]

 

      武邊手段の事 (大正二年九月『民俗』第一年第二報)

 

 「武邊手段の事」と題して、根岸肥前守の「耳袋」二編に次の話が有る。寬延の末頃、巨盜日本左衞門の餘類の山伏、長《ながさ》三尺、周《めぐり》一寸餘の鐵棒を用るのが上手で、諸國で手に餘つた。所ろが、大阪町同心の内に武邊の者有《あり》て、手段もて、難無く捕へた。其法と謂《いは》ば、此同心、長五尺、廻り二寸近い鐵棒を作り、姿を變じて、彼《かの》山伏の宿に詣《いた》り、知人に成り、色々、物語の上、自分も鐵棒を使ふ由言《いひ》て、持參した棒を見せると、山伏、驚きて、同心の大力《だいりき》を讃《ほ》め、自分のと取更(とりかえ[やぶちゃん注:ママ。])に、同心の棒を手に取《とつ》て觀る。隙に乘じ、山伏の鐵棒で、山伏の眞甲を打つ。山伏、「心得たり。」と、同心の棒を取上《とりあげ》たが、力に餘つて、働き、十分ならず。彼是する内、組の者、入來《いりき》たりて捕へた。

[やぶちゃん注:『「武邊手段の事」と題して、根岸肥前守の「耳袋」二編に次の話が有る』「『耳袋』二編」とあるが、私が全電子化注(二〇一五年四月完遂)の底本した所持する三一書房『日本庶民生活史料集成』第十六巻「奇談・紀聞」中の「耳囊」(底本は本篇を含む巻一については東北大学図書館蔵狩野文庫本)では「卷之一」にあるし、別に所持する岩波文庫の、現在、唯一の十巻完備本であるカリフォルニア大学バークレー校本東アジア図書館蔵旧三井文庫本でも、同じく「巻之一」である。但し、「耳囊」の伝本は不完全なものが複数あり、そうしたものの一つ翻刻したものを熊楠は所持していた可能性があり、熊楠の誤記や、驚くべき記憶力で書くことの多い彼の誤記憶とは必ずしも断定出来ない。特に、この「武邊手段の事」は上記二本ともに第一巻の終りの方にあるため、錯本が第二巻に回した可能性はあると言えるのである。なお、ブログ単発では、「耳囊 武邊手段ある事」(当時、第一巻では標題では巻数を外していた)であり、そちらで十二年前の私が真摯に注を附しており、現代語訳もやっているから、ここでは、それに敬意を表してそこに注したものは繰り返さない(今回、当該記事のみの正字不全(ユニコード前のための不可抗力)だけは修正しておいた)。そもそもサイト版「武辺手段のこと」のここの部分への注は、直前(前日)に電子化した「耳囊」の注を援用したに過ぎないからである。閑話休題。「根岸肥前守」は根岸鎭衞(しづもり 元文二(一七三七)年~文化一二(一八一五)年)は旗本。下級旗本の安生(あんじょう)家の三男として生まれ、宝暦八(一七五八)年二十二歳の時、根岸家の養子となり、その家督を相続した。同年中に勘定所御勘定として出仕後、評定所留役(現在の最高裁判所予審判事相当)・勘定組頭・勘定吟味役を歴任した。また、彼は河川の改修・普請に才覚を揮い(「耳嚢」にはそうした実働での見聞を覗かせる話柄もある)、浅間大噴火後の天明三(一七八三)年、四十七歳の時には浅間復興の巡検役となった。その功績によって翌天明四(一七八四)年に佐渡奉行として現地に在任、天明七(一七八七)年には勘定奉行に抜擢されて帰参、同年十二月には従五位下肥後守に叙任、寛政一〇(一七九八)年に南町奉行となり、文化一二(一八一五)年まで、終身、在職した。

「長三尺」約九十一センチ。

「周一寸」直径三センチ。「周」は今なら円周だが、それでは九ミリほどの細いものでおかしい。「わたり」(径)に「周」を当てたものと判断する。後の「廻り」も同じ。

「五尺」一メートル五十一センチ。

「廻り二寸」直径六センチ。]

 是は事實譚らしいが、似た話が伊太利の文豪「ボカッチオ」[やぶちゃん注:ママ。]の「デカメロン」の第五日、第二譚に在る。此譚は、伊太利の「リパリ」島の富家の娘「ゴスタンツァ」と、貧士「マルツッチオ」が相惚《あひぼ》れと來たが、女の父、男の貧を蔑《さげす》みて、結婚を許さぬ。男、大《おほい》に奮發して、身、富貴とならずば、生きて再び、此島を見ぬと言放《いひはな》ち、同志を募り、海賊となり、繁盛したが、「チュニス」人と戰ふて、囚はれた切り、故鄕へ、消息が無い。娘、失望の餘り、潜かに家を出《いで》て海濱にゆき、空船を見出《みいだ》し、海中で死なうと、それに乘《のり》て宛も無く漕出《こぎいだ》し、哀《あはれ》んで、船中に臥すと、船は無難に「チュニス」近き「スサ」市につき、情有る漁婦に救はれ、富家の老婦に奉公し居《を》る。「マルツッチオ」は、長々、獄中に居る内、「チュニス」へ敵が大擧して攻入《せみら》うとすると聞《きき》て、獄吏に向ひ、「『チュニス』王、予の謀《はかりごと》を用ひたら、必勝だ。」と云ふ。獄吏から、此事を聞いた王は、大悅びで、「マルツッチオ」を延見《えんけん》して、奇計を尋ねる。「マルツッチオ」曰く、「王の軍勢が用《もちひ》る弓弦《ゆづる》を、敵に少しも知れぬ樣に、至《いたつ》て細うし、其に相應して、矢筈《やはず》をも、至て狹うしなさい。扨、戰場で雙方、存分、矢を射盡して、彌《いよい》よ拾ひ集めた敵の矢を用るとなると、此方《こなた》は弦が細いから、敵の廣い矢筈の矢を射る事が成るが、敵の弦は、此方から放つた矢の狹い矢筈には、ずつと太過《ふとすぎ》て、何の用をも成《なさ》ぬ。此方は、矢、多く、敵は、矢がなくなる道理で、勝つ事、疑い無し。」と。王、其策を用ひ大捷《たいせふ》し、便《すなは》ち「マルツッチオ」を牢から出し、寵遇、限りなく、大富貴と做《なつ》た。此事、國内へ知れ渡り、「ゴスタンツァ」女《ぢよ》、「マルツッチオ」を訪《おとな》ひ、戀故に辛苦した話をすると、大悅びで、王に請《こふ》て、盛んに婚式を擧げ、大立身して、夫婦が故鄕へ歸ったと云ふ事ぢや。「エー・コリングウッド・リー」氏の『「デカメロン」出所及び類話』(一九〇九年の板、一六〇頁)に據ると、「ジォヴニ・ヴラニ」(一三四八年歿せり)の「日記」卷八に、一二九九年、韃靼帝の子「カッサン」が、己れの軍兵の弦と筈を特に細くして、埃及王を酷《むご》く破った、と有る由。「ヴィラニ」は「ボカッチオ」と同時代の人だ。

[やぶちゃん注:『「ボカッチオ」の「デカメロン」の第五日、第二譚』中世イタリアのフィレンツェの詩人で作家のジョヴァンニ・ボッカッチオ(Giovanni Boccacio 一三一三年~一三七五年)、及び、彼の代表作で一三四九年から一三五一年にかけて執筆された(本邦では南北朝時代に相当)イタリア散文の濫觴にして世界文学に於ける近代小説の魁(さきがけ)として評価される作品「デカメロン」(DecameronDecamerone))については、サイト版「武辺手段のこと」の私の注を参照されたい。梗概が記されたそれは、国立国会図書館デジタルコレクションの戸川秋骨訳の同書の翻訳「十日物語」(大正五(一九一六)年国民文庫刊行会刊)のここから視認出来る。

『伊太利の「リパリ」島』イタリア語で“Isola di Lipari”。「リ―パリ」とも音写する。シチリア(Sicilia)島の北東沖に浮かぶエオリエ諸島最大の島。の紀元前四千年から人が住んでいたと言われており、城塞地区には住居跡も残り、居住の歴史は六千年前の新石器時代にまで遡るとされ、青銅器時代やギリシャ時代の遺跡が残る歴史の島である。ギリシャの詩人ホメロス(Homeros)の「オデュッセイア」(Odysseia)に登場する風の神アイオロスの住む島とされ、島の名もホメロスの娘婿リパロに由来するとされる。古くは黒曜石や軽石(エオリエ諸島は火山列島)の交易で栄えた。現在はエオリエ諸島観光の拠点である。

「ゴスタンツァ」原文(イタリア語の「Wikisource」のこちらに拠った。以下同じ)では‘Gostanza’。戸川は『コンスタンチア』と訳している。

「マルツッチオ」“Martuccio”。戸川訳は『マルツチオ』。

「空船」これを「うつろぶね」と読むなら、このシークエンスは一種の汎世界的な各種の創世神話の変形譚が意識されているパロディのようにも思われる。

『「チュニス」人』“Tunis”は現在のチュニジア共和国の首都で、その地の民。以下、ウィキの「チュニス」によると、古代フェニキア人によって建設されたカルタゴ近郊の町であったが、『ローマ共和国との間で戦争を繰り返し、紀元前』百四六『年の第三次ポエニ戦争で完全に破壊され』、『その後、ローマの属州アフリカとなり』、再建され、三七六『年のローマ帝国の分裂に伴い、東ローマ帝国の属州となった』。七『世紀にはウマイヤ朝(イスラム帝国)は、当時イフリーキヤと呼ばれたチュニジアの占領を目指していた』六七〇『年のオクバの遠征によって』、『イフリーキヤにはカイラワーンが建設され、ウマイヤ帝国のアフリカ支配の拠点として更なる拡大をもくろんだが、ベルベル人の激しい抵抗にあって苦戦した。その後、ハッサン・イブン・アル=ヌマン率いるウマイヤ朝軍が東ローマ帝国軍を破って』、『カルタゴを占領、さらに』七〇一『年にはベルベル人が支配するカヘナも攻略する。これ以降、この街はチュニスとしてアラブ人によって開発されること』となり、イスラーム化された。『一時期』、『シチリア王国を築いたキリスト教徒のノルマン人に占領され』たこともあったが、十二『世紀には西方から侵攻したモロッコのムワッヒド朝が支配することになった』とある。

「スサ」“Susa”。ウィキの「スース」によると、フランス語で“Sousse”(「スース」。又はアラビア語で“Sūsa”(スーサ)と言う。港湾都市で、『チュニスの南約』百四十キロメートルに『に位置するチュニジア第三の都市で』、現在の『人口は約』四十三『万人。町は美しく、「サヘルの真珠」といわれる。旧市街メディナはユネスコ世界遺産に登録され』た。『紀元前』九『世紀頃』、『フェニキア人によって「ハドルメントゥム(Hadrumentum)」と』いう名で『開かれた。古代ローマと同盟を結びんでいたため』、「ポエニ戦争」『中も含め』、『パックス・ロマーナの』七百『年の間』、『比較的』、『平和で、大きな被害を免れた』。『ローマ時代の後、ヴァンダル族、その後』、『東ローマ帝国がこの町を占拠し、町の名を「ユスティニアノポリス(Justinianopolis)」と改名』、七『世紀にはアラブ人のイスラム教軍が現在のチュニジアを征服し、「スーサ(Sūsa)」と改名。その後』、『すぐアグラブ朝の主要港となった』。八二七『年にアグラブ朝がシチリアに侵攻した際、スーサは主要基地となった』。『その後』、『ヨーロッパでは技術革新が進み』、『イスラム教に対して優勢に出始め』、十二『世紀にはノルマン人に征服された時期もあり、その後』、『スペインに征服された』。十八『世紀にはヴェネツィア共和国とフランスに征服され、町の名をフランス風に「スース(Sousse)」と改名した。その後もアラブ風の町並みは残り、現在ではアラブ人による典型的な海岸の城砦都市として観光客が多く訪れる』とある。

「延見」呼び寄せて面会すること。「引見」に同じ。この「延」は「引き寄せる・招く」の意。

「矢筈」矢の末端の弓の弦(つる)を受ける部分で、弓の弦に番(つが)えるための切り込みのある部分を指す。この時代のそれは、木製の矢柄を、直接、二股に削ったものであったと考えられる。

『「エー・コリングウッド・リー」氏の『「デカメロン」出所及び類話』(一九〇九年の板、一六〇頁)』A. Collingwood Lee(詳細事績不詳)の一九〇九年刊の‘The Decameron. : Its sources and analogues’。調べたが、原本に当たれなかった。

『「ジォヴワニ・ヴヰラニ」(一三四八年歿せり)』フィレンツェの銀行家にして歴史家でもあったジョヴァンニ・ヴィッラーニ((Giovanni Villani ? ~一三四八年)のこと。ヴィッラーニは「新年代記」の作者として知られ、南方の言う「日記」も、それを指すものと思われる。以下、ウィキの「ジョヴァンニ・ヴィッラーニ」より引用する。『父親のヴィッラーノ・ディ・ストルド・ヴィッラーニはフィレンツェの有力な商人の』一『人であり』、一三〇〇『年にはダンテ・アリギエーリとともに市の行政委員(プリオーネ)を務めた』(但し、『ほどなく辞任して翌年の政変で失脚した同僚ダンテと明暗を分けることとな』った)。この年、ジョヴァンニはペルッツィ銀行に入社して』一『人前の商人の』一『人としてのスタートを切っている。この年はローマ教皇ボニファティウス』Ⅷ『世が初めて聖年とした年であり、各地より』二十『万人がローマ巡礼に訪れた。ジョヴァンニもまた』、『これに参加してローマを訪問し』、『ローマの史跡や文献に触れる機会があった。そこで彼は古代ローマ以来の歴史家の伝統が途絶したことを嘆き、「ローマの娘」を自負するフィレンツェ市民である自分が』、『その伝統を復活さなければならないとする霊感に遭遇した(と、本人は主張した)ことによって、彼は「ローマの娘」フィレンツェを中心とする年代記編纂を決意したと伝えられている』。『だが、彼の決意とは裏腹に』、『実際には商人・銀行家としての道を着実に歩む彼には執筆の時間はほとんど無かったと考えられている。代表者の死去によって』、『当時の慣例に従って』、『ペルッツィ銀行は一旦清算されることなると、彼は再設立されたペルッツィ銀行ではなく、縁戚の経営するブオナッコルシ銀行に移り』一三二五『年には共同経営者となった。同時にフィレンツェ市の役職も歴任し』、一三一六年・一三一七年・一三二一年には『父と同じ行政委員に就任したほか、各種の委員を務め、この間に多くの行財政文書を閲覧する機会に恵まれた。ところが』一三三一『年に市の防壁建築委員を務めていたジョヴァンニは』、『突如』、『公金横領の容疑で告発を受けることとなる。これは間もなく無実と判断されたが、政治的な挫折を経験したジョヴァンニの年代記執筆がこの時期より本格化していったと考えられている』。『ところが、ジョヴァンニの引退後、フィレンツェの政治は混乱して信用問題にまで発展、更に百年戦争による経済混乱も加わって』、一三四〇『年代に入ると』、『フィレンツェは恐慌状態に陥った結果、同地の主要銀行・商社のほとんどが破産に追い込まれた』。一三四二『年にブオナッコルシ銀行が破綻に追い込まれると、ジョヴァンニは債権者との交渉にあたったが、続いてペルッツィ銀行・バルディ銀行など』、『他の会社も次々と倒産した混乱もあって混乱が収まらず』、一三四六年二月には、『ジョヴァンニが債権者の要求によって』、『一時』、『投獄される事件も起きている。そして』、一三四八『年にフィレンツェを襲った黒死病はジョヴァンニの命をも奪ってい』ったのであった。『その後、ジョヴァンニの後を引き継ぐ形で』、『三弟のマッテオ・ヴィッラーニ』(一三六三年没)と、『その子フィリッポ・ヴィッラーニも年代記を執筆している』とあり、以下、「新年代記」の内容を記載する。“Nuova Cronica”「新年代記」は全十二巻から『構成され、大きく』二『部に分けられる。前半』六『巻はバベルの塔からフリードリヒ』Ⅱ『世までを扱い、父祖以前の歴史に属するため先人の著書に依存する部分が多い。また、ジョヴァンニはラテン語をほとんど知らなかったとされる一方で、聖書や古典に関する知識が豊富であり、それが記述にも生かされている。後半の』六『巻は』一二六六『年のシャルル・ダンジューのシチリア王継承から始まり、父親』或いは『自己の生きた時代を描いて』一三四六『年で終了している。彼が銀行家・政治家として活躍した』一三一〇『年代を描いた第』八『巻以後については綿密な記載がされており、彼が優れた観察者であったことがうかがえる。特に第』十一『巻にある』千三百三十八『年頃のフィレンツェの風景と経済状況に関する記述の緻密さはヤーコプ・ブルクハルトにも注目された。また、彼も同時代の他の人々と同じく熱心なキリスト教徒であり、神の裁きや』、『占星術を信じた記述があるものの、一方で経済特に商業関係の記述においては合理的な記述を尽している』とある。南方は『日記』の『卷八』と記しており、このウィキの「新年代記」の記載内容と合致している。

『一二九九年、韃靼帝の子「カッサン」が、己れの軍兵の弦と筈を特に細くして、埃及王を酷く破った』「カッサン」はモンゴル帝国を構成したイル・カン国(イルハン国、又は「フレグ・ウルス」とも呼ぶ)の第七代皇帝であったガザン・ハン(Ghāzān khān  ロシア語表記:Газан-хан 一二七一年~一三〇四年)のことを指す。彼の曽祖父で初代のイル・カン国皇帝であったフレグは、チンギス・ハーンの孫に当たる。ガザン・ハンは、イスラム教に改宗し、イラン人との融和を図るなどして、内政を安定させ、政治的にも文化的にも、イル・カン国の黄金時代を築いた名君であったが、三十四歳の若さで亡くなっている。一二九九年当時のエジプトは、バフリー・マムルーク朝ナースィル・ムハンマドの統治時代であったが、熊楠の述べる通り、この年、イル・カン国のガザンが、シリア侵攻を開始し、ナースィルはシリア北部のマジュマア=アルムルージュでガザン・ハン軍で迎え撃ったが、実戦経験が乏しかったため、大敗を喫して敗走、イル・カン国はシリアを支配下に置き、ダマスクスを百日に渡って占領した(以上は嘗つて、高校教師時代、同僚の世界史の先生からの教授を受けて作文したものである)。]

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