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2022/11/05

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「話俗隨筆」パート 蟻を旗印とせし話

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここと、ここ。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。

 なお、標題下の「同前」は前の「梔子花の兒戯 / 爪切る事 / 感冒」と同じで、大正二(一九一三)年五月『民俗』第一年第一報所収であることを言う。]

 

      蟻を旗印とせし話 (同前)

 

 『常山紀談』卷三、十八章に、「北條丹後、一尺四方の白練《しろねり》に、黑き蟻を繪に書《かき》て指物《さしもの》にしけるを、謙信、見て、「汝が指物、餘りに小《ちひさ》きは、いかなる仔細ぞ。」と問はるゝに、丹後、「誠に、味方よりは、見え難く候べし、左《さ》はあれども、進むに先蒐《さきがけ》し、退くに、いつも後殿《しんがり》せんには、他人の大なる指物も、此小四半《こしはん》と、敵の見る所は同じからんと、存ずる也。」と申すをば、謙信、「理《ことわり》也。」と云はれしとぞ。」。「北條」は「北城」を正《ただし》とす。『關八州古戰錄』(享保丙午成る)卷六には、「北城丹後守長國、未だ彌五郞と申せし時、幅一尺五寸許の白き練貫の四半に、五、六寸(分か)の馬蟻を墨にて𤲿《ゑが》き、捺物《おしもの》としたりける。「先へ進み、敵の面前へ、矢庭に乘着《のりつ》け、手詰《てづめ》の勝負を仕る分別なれば、『憖(なまじひ)に、走り廻りの妨《さまたげ》に罷成る大捺物、一向、無益の事也。』と地盤《じばん》し、隨分、働きの邪魔無き樣に、小《ちひ》く支度仕り候。」と申しければ、輝虎、事の外、悅び褒む。」と有り。

[やぶちゃん注:「『常山紀談』卷三、十八章」「選集」も同じ巻数であるが、私の所持する岩波文庫版では、この話は「卷之三」にある。本書は小学館「日本大百科全書」他によれば、江戸中期の随筆・歴史書で、正編二十五巻・拾遺四巻・付録「雨夜灯(あまよのともしび)」一巻で、全三十冊。湯浅常山(宝永五(一七〇八)年~安永一〇(一七八一)年)著。元文四(一七三九)年の自序があり、原型は其頃に出来たものと思われるが、刊行は著者没後、三十年()ほど後の、文化・文政年間(一八〇四年~一八三〇年)のことであった。戦国時代から江戸時代初頭の武士の逸話や言行七百余を、諸書から任意に抄出、集大成したものといってよい。著者自らが「ここに収めた逸話は大いに教訓に資する故に、事実のみを記す」というように、内容はきわめて興味深いエピソードに富み、それが著者の人柄を反映した謹厳実直な執筆態度や、平明簡潔な文章と相まって多くの読者を集めた、とある。なお、当該ウィキによれば、『著者は備前岡山藩主池田氏に仕えた徂徠学派の儒学者』で、『いわゆる勧善懲悪ではなく、複数の有名な逸話を短く編集して主題ごとに一つの条にまとめて、評論を加えずに淡々としるしている』とし、『草稿(自序)の完成は比較的早期に行われた』が、湯浅の『師匠である太宰春台の意見を入れて』、『徹底的な再改稿を行い』三十『年かけて満足のいく形に完成させたといわれ』、『本書の版本での初刊は死後』二十『年後のことであった』()とあって、刊期に異同があるから、或いは、岩波版の刊本以前の縮約或いは異本に熊楠は拠ったものとも思われなくはない。一応、注意を喚起しておく。一応、熊楠の表記をまずは尊重しつつ、一部の表記及び読みは岩波版を採用して校合した。

「黑き蟻を繪に書て指物にしける」実際のその画像をネット上に探してみたが、残念ながら、見当たらなかった。

「小四半」正方形ではなく、長方形に近い旗指物を「四半」と呼び、それの小さなものの意。

『「北條」は「北城」を正とす』後注に回す

「『關八州古戰錄』(享保丙午成る)卷六には、……」当該ウィキによれば、『軍記物』で、享保一一(一七二六)年に成立。全二十巻。『著者は槙島昭武』(生没年未詳)江戸前・中期の国学者で軍記作家。名は別に郁。通称は彦八。号は駒谷散人。江戸出身。有職故実や古典に詳しく、著作は、他に「北越軍談」など)。「関東古戦録」『とも呼ばれる』。『戦国時代の関東地方における合戦や外交情勢について記されており』、天文一五(一五四六)年)の『河越夜戦から天正』十八『年の後北条氏滅亡までの関東における大小の合戦を詳細に扱っている』。『関東各地に埋もれている戦記類を』丹念に『集めたもので、その他の軍記物に比すると、語りものの調子を避け』、『歴史をそのままに伝えようとしている姿勢が強い。それゆえか』、『歴史的あやまりは少ないとされている』。『しかし近年の研究では』「河越夜戦」や「小田井原の戦い」『などについて、一次史料にない誇張や創作が多く見られると指摘されるようになっている』。『同書は実証的戦国時代史研究において』、『原資料に基づいた良質な内容も認められるが、その他』の『軍記物類の影響も見られるので、近世・近代に比べ』、『古文書・日記などの同時代史料の少ない戦国時代の研究において、史料批判を行なった上で使用される』とある。探すのに手間がかかったが、国立国会図書館デジタルコレクションの「史籍集覧」第五冊(近藤瓶城編・大正一四(一九二五)年近藤出版部刊)に「關東古戰錄」の方の書名で発見、当該部はここである。「卷之六」の中の「長尾謙忠伏誅北城丹後守長國事」の条で、右ページの後ろから四行目から確かに「北城丹後守長國」の表記名で登場し、熊楠の引用は左ページ一行目からだが、途中を数ヶ所、省略している。視認されたい。

「北城丹後守長國」ネット上の情報を総合すると、これは、北条高広(永正一四(一五一七)年?~天正一五(一五八七)年?)である。戦国時代の総合サイト内の「地方別武将家一覧」の「北条氏」「一文字に三つ星」「(大江姓毛利氏族)」のページの「厩橋城将として活躍」の文中に、『北条氏の家督となった景広は、永禄二年の関東出陣。同四年の川中島合戦に出陣するなど父とともに謙信麾下の勇将として活躍していた。以後、景広が厩橋城将として関東経略の中心人物となった。景広は「上杉二十五将」の一人に数えられ、二十五将のうち北条丹後守長国とあるのが景広である』とあるので間違いない。彼は異様に多い名乗りや通称を持っているものの、熊楠が正しいとする「北城」姓は見当たらなかった。要は、彼は、鎌倉時代の北条氏でも、後北条氏でもなく、以上のサイトの冒頭にある通り、元は『大江姓毛利氏の一族』で、『鎌倉幕府初代公文所別当大江広元の四男季光が相模毛利庄を領して毛利氏を名乗った』流れを汲む『越後毛利氏』の末裔であり、ページ最後の系図の最後を見られれば判る通り、彼のさらに後裔が毛利元就なのである。北条高広の詳しい事績は当該ウィキに譲るが、彼は、仕えた主君が目まぐるしく変わっており、『長尾為景→晴景→長尾景虎→北条氏康→上杉謙信→上杉景虎→武田勝頼→滝川一益→北条氏政→上杉景勝?』とあり、この間、方丈に仕えた時期に、主君の姓と同じなのは畏れ多いはずだから、滅多に見ない「北城」と変えたか、それ以外の主君であった折には、或いは、後北条氏の一族と疑わられる誤解を避けるために、「北城」としたともとれなくはない。

「一尺五寸」四十六センチメートル弱。

「五、六寸(分か)」「寸」ならば十五~十八センチメートル、「分」なら、一・五~一・八センチメートル。

「輝虎」上杉謙信の出家法号前の本名。]

 『一話一言』卷四十四、山中源左衞門、大御番旗本で、知行五百石、賜り、隱れなき任俠、常に人を困《くるし》むるを好む。或時、白小袖を着て、登城しけるを、目付、咎めければ、目に見えぬほどの蚤を、縫紋に附置《つけお》き、「是は、白ならず。」と言《いひ》、通《とほ》せし事、有り。正保中、切腹を命ぜらる、と見ゆ。其目的は、長國と異なれど、趣向は似たり。

[やぶちゃん注:「一話一言」大田南畝の随筆で、安永八(一七七九)年から文政三(一八二〇)年頃の執筆。全五十六巻であるが、内、六巻は欠。歴史・風俗・自他の文事についての、自己の見聞と、他書からの抄録を記したもの。所持せず、ネットで当該巻を視認出来ない。

「山中源左衞門」(生没年不詳)は江戸前期の旗本奴。寛永・正保年間(一六二四年~一六四八年)の人。経歴不詳で、大田南畝の「俠者姓名」(「一話一言」)に、「五百石大御番也。正保年中、麹町眞法寺にて切腹被仰付也。」(別な辞書では、正保二(一六四五)年十一月八日、罪をえて、切腹とある)とあるだけだが、「べらんめえ」調による以下の辞世で知られる。「わんざくれ 踏(ふ)んぞるべいか 今日(けふ)ばかり 翌日(あす)は烏(からす)が搔(か)ッ咬(か)じるべい」。]

 英國にも似たる話、‘Merry Tales and Quick Answeres, 1567, ed. Hazlitt, p.122  に云く、戰場に趣く一壯男、楯に、自然大の蠅を𤲿《ゑがき》しを、或人、笑うて、「斯く小《ちひ》き目標《めじるし》は、人の目に立つまじ。」と云ひけるに、其男、答へて、「予、敵が明かに、此標を見分け得る程、進まば、標、如何に小さくとも、敵、皆、予の勇武を稱揚せん。」と云へり、と。

[やぶちゃん注:「‘Merry Tales and Quick Answeres’, 1567, ed. Hazlitt, p.122」イギリスの弁護士・書誌学者・作家ウィリアム・カルー・ハズリット(William Carew Hazlitt 一八三四年~一九一三年)著の「笑譚捷答」(ロンドン刊)。]

 以上、二年前、倫敦發行『ノーツ・エンド・キーリス』十一輯、一の二六六頁に、予、‘Fly painted on a Shield : Japanese Variant’と題し出せるを見て、南濠州「アデレード」大學、古文學敎授「ベンスリ」の敎示に、件《くだん》の蠅を楯に𤲿きし話は、Apophthegmata Laconicaap. Plutarch, Moralia’、既に之を載す、と也。然らば、千八百年斗り前、既に南歐に行はれたる話にこそ。

[やぶちゃん注:「二年前」「選集」は一九一〇年と割注する。実時間で二年前の意であろう。熊楠の当該原雑誌の原文は「Internet archive」のここで視認出来る(左ページ下方)。

『「ベンスリ」の敎示』同じく上記「Internet archive」の377ページ右下方で「EDWARD  BENSLY」の署名記事がそれ。エドワード・フォン・ブルームバーグ・ベンスリー(Edward von Blomberg Bensly 一八六三年~一九三九年)は英文学者。

「Apophthegmata Laconica、ap. Plutarch, ‘Moralia’」こちらのデータ(PDF)によれば、帝政ローマのギリシア人著述家プルタルコス(四六年頃~一一九年以降)の「倫理論集」の中の「スパルタ警句集」がそれである。]

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