大和怪異記 卷之二 第十 芦名盛隆卒前に怪異ある事 / 卷之二~了
[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の分は、ここ(単独画像)。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。
正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。なお、底本のルビは歴史的仮名遣の誤りが激しく、ママ注記を入れると、連続してワサワサになるため、歴史的仮名遣を誤ったものの一部では、( )で入れずに、私が正しい歴史的仮名遣で《 》で入れた部分も含まれてくることをお断りしておく。
なお、本篇を以って「大和怪異記 卷之二」は終わっている。]
第十 芦名盛隆(もりたか)卒前(そつすまへ)に怪異ある事
芦名盛氏の養子、三浦介(《み》うらの《すけ》)盛隆、家人(け《にん》)に弑(しい)せられし以前に、秘藏の鷂(たか)、鴨《かも》二つを、一寄《ひとよせ》に、とる。これを、
「希代(き《だい》)の逸物(いちもつ)なり。」
と、ほむるやからも、あり。
「いや、小《ちさ》きものゝ、大なるを、無理にしたがへたるは、よからぬ先表(ぜんひやう)にやあらん。」
など、口々に評(ひやうし)しけるが、程なく、盛隆、此鷂を、すえながら、家人、大庭三左衞門《おほばさんざゑもん》がために、切(きら)れし、となむ。同
[やぶちゃん注:典拠の「同」は前話と同じ典拠とするの意で「会津四家合考」。国立国会図書館デジタルコレクションの「会津四家合考 南部根元記二」(大正四(一九一五)年国史研究会刊)のここで当該部を確認出来た。より詳しく、他の怪異も添えてあるので、以下に電子化する。一部に句読点・記号・読み(推定・歴史的仮名遣)を挿入した。踊り字「く」は正字化した。
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盛隆生害(しやうがい)の事
國家の癈興に、至誠の先如(せんじよ)、歷然なれば、事の有無、愚(ぐ)が肯(うべなひ)て評すべきにあらず。只、俗說を取りて記し侍る。「盛隆生害の少し前の事なりし。」といふ。祕蔵の鷂(たか)、鴨二つを、一度に把(と)る。是を、「希代の逸物なり。」と、譽むる族(うから)もあり、又、「いや。小さき物の、大(おほき)なるを無理に從へたるは、世の中、能(よ)からぬ先表にもや、あらん。」など、口々に評したりけるが、程なく、盛隆、此鷂を居(す)ゑ乍(ながら)ら、生害なりし、といふ。又、盛氏、岩崎に御座したる時、鷹が、鴨を二つ、一度に取りたり。「希代の事。」と、鵜浦(ううら)入道[やぶちゃん注:会津蘆名氏四代(盛舜・盛氏・盛興・盛隆)の重臣であった鵜浦左衛門尉家の一人。]が方へ、盛氏自筆の消息ありしを見たり。是れ、若(も)し、盛興逝去の頃にてもや、ある。又、蒲生秀行[やぶちゃん注:安土桃山時代から江戸時代初期にかけての大名で陸奥会津藩主。]、逝去あるべき春、鹽川へ鷹野に出でられたるに、鷂が、鴨を、二つ一度に取りたり、といふ。
一、地下の雜談に、盛隆生害の前の事なるに、厩に立竝(たちなら)びたる馬の内にて、「何とすベき、何とすべき、」と、繰返し、物を、いふ。附き居たる馬取(うまとり)共、肝を潰(つぶ)して、急ぎ、厩別當(うあまやべつたう)に此由(このよし)を告ぐる。別當も「怪し。」とて、馳せ來り、「何の馬が、さ、いひたるぞ。」と、尋ぬる辭(ことば)の下(しも)より、側(そば)に立ちたる馬、「此馬が、さ、いひたる。」と、いひしとなり。
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後の馬が貴人の今はの際の折りに、人語を語る怪異は、後の「伽婢子卷之十三 馬人語をなす恠異」が人口に膾炙する。
「芦名盛隆」蘆名盛隆(永禄四(一五六一)年~天正十二年十月六日(一五八四年十一月八日)は安土桃山時代の武将で陸奥国の戦国大名。蘆名氏十八代当主。当該ウィキによれば、『須賀川二階堂氏』七『代当主』『二階堂盛義の長男として誕生。生母は伊達晴宗の娘である阿南姫。伊達晴宗は』以下の養父盛氏の祖父『蘆名盛高の外孫であるため、盛隆は蘆名盛高の玄孫に当たる』。永禄八(一五六五)年に父『盛義が蘆名盛氏に敗れて降伏した際、人質として会津の盛氏の許に送られた。ところが』、天正三(一五七五)年に蘆名氏十七代当主『蘆名盛興』(もりおき)『が継嗣を残さずに早世すると、盛興未亡人の彦姫』『と結婚したうえで、盛氏の養子となって』『当主とな』り、天正八(一五八〇)年の『盛氏の死去により』『実権を掌握した』とある。以下、諸業績はリンク先を見られたい。彼は、『黒川城内で寵臣であった大庭三左衛門に襲われて死亡した』。『享年』僅か二十四歳であった。死後も不幸が『重なり、蘆名家中は混迷した。この盛隆の早すぎる死が、蘆名氏滅亡を早めた原因といえる』とあり、さらに、「奥羽永慶軍記」では、『猛勇ではあったが、知恵や仁徳が無かったと伝えて』おり、「新編会津風土記」は、『大庭三左衛門が盛隆を襲った理由について、男色のもつれが原因としてい』て、「武功雑記」などにも、『男色絡みの逸話がいくつか残されている』とあった。
「芦名盛氏」前話の私の同人の注を参照されたい。
「三浦介」前話の私の盛氏の注で示した通り、蘆名氏は平氏姓の三浦氏の系統の一族であった。
「鷂」これはタカ類の中でも、タカ目タカ科ハイタカ属ハイタカ Accipiter nisus を指す。タカ目タカ科ハイタカ属オオタカ Accipiter gentilis とともに鷹狩に用いられた種である。]
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