大和怪異記 卷之一 第十一 嵯峨天皇は上仙法師が後身なる事
[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の分はここから。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。
正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。【 】は二行割注。]
第十一 嵯峨天皇は上仙法師(じやうせん《ほふし》)が後身なる事
むかし、伊豫国神㙒郡(かみの《こほり》)に上仙といふ僧あり。つねに天子に生れんことを、いのる。
死するに及《およん》で、いはく、
「我、もし、天子とならば、郡の名をもつて、名字とすべし。」
と。
又、同郡橘里(たちばな《のさと》)に橘嫗(《たちばな》のうば)といふもの、あり。家產をかたぶけつくして、上仙を供養す。
上仙、死するの後、嫗《うば》、なげきて、
「吾、和尚の旦越(だんをつ)たる事、久し。ねがはくは、來生《らいしやう》、一所《いつしよ》に、したしみ、ちかづかん。」
と、いひて、命、をはれり。
其後、いくばくならずして、嵯峨帝(さがてい)、降誕(がうたん)まします。
先朝(せんてう)よりの制(せい)に、皇子《わうじ》うまれ給ふごとに、乳母が姓を以て、名とする故、帝(みかど)の乳母(めのと)、姓(せい)、「神㙒」といひしかば、これをもつて、帝の諱(いみな)とす。
上仙が後身なり。
郡(こほり)の名、帝の諱に同じきによつて、改めて、「新居(にゐ)」と名づく。
其後、橘淸友の女子、嘉智子を、夫人とし給ふ。「橘の夫人」といふ【世に「檀林皇后」と云《いふは》、是也。】。是《これ》、橘嬉が後身なり。【「日本後紀」・「文德實錄」】
[やぶちゃん注:原拠とする「日本後紀」は六国史の第三。本来は全四十巻。藤原緒嗣(おつぐ)ら七名の編になる。承和七(八四〇)年成立。「続(しょく)日本紀」を継ぐもので、延暦一一(七九二)年から天長一〇(八三三)年までの史実を、漢文・編年体で収録したものであったが、早く散逸してしまい、現存するのは十巻分だけである(小学館「日本国語大辞典」に拠った)。今一つの「文德實錄」「日本文德天皇實錄」(にほんもんとくてんのうじつろく)の略称。勅撰の歴史書で全十巻。六国史の一つ。嘉祥三(八五〇)年から天安二(八五八)年までの文徳天皇の在位の一代の歴史を編年体に記したもの。藤原基経らが、貞観一三(八七一)年に文徳の次代の清和天皇の勅により、撰集が開始されたものの、一時、中止された。後、元慶二(八七八)年に清和の次代の陽成天皇の勅によって再開され、翌年に完成した。本書は以前の史書に比べ、薨卒伝(こうしゅつでん:令制で「薨」は親王と三位以上、「卒」は四位・五位と諸王の逝去することを指す)が豊かで、これは、律令体制の解体期に、古代国家再編に努めた人物群の伝記によって、当代と将来の範としたものと考えられている(小学館「日本大百科全書」に拠った)。
さて、後者「日本文徳天皇実録」の当該部は国立国会図書館デジタルコレクションで調べたところ、巻一のここである(出雲寺和泉掾の宝永六 (一七〇九)年出版になるもの)。右丁四行目。前者は国立国会図書館デジタルコレクションの写本や活字本を見たが、どこに書かれているか、判らなかった。「日本文徳天皇実録」でご勘弁戴きたい。その代わり、同話を一節に載せる「日本霊異記」の下巻「智行(ちぎやう)並び具する禪師、重ねて人の身を得て、國皇(こくわう)の子に生まるる緣第三十九」(同書の掉尾)の話を、以下に全部、電子化する。所持する角川文庫の板橋倫行校注(昭和五二(一九七七)年十五版)を一応の底本としたが、読みの一部を送り仮名に出し、また、一部を所持する「新潮古典集成」版の読みに変えた(原本は漢文)。読点・記号を追加し、段落を成形した。一部で私の判断で歴史的仮名遣で読みを推定で入れてある。それは《 》を使った。
*
智行並び具する禪師、重ねて人の身を得て、
國皇の子に生まるる緣第三十九
釋の善珠禪師は、俗姓、「跡(あと)の連(むらじ)」なり。母の姓を負ひて、跡の氏と爲る。
幼き時、母に隨ひて、大和の國山邊(やまべ)の郡《こほり》磯城嶋(しきしま)の村に居住《すまひ》せり。
得度して精懃(ねんごろ)に修學し、智行、隻(なら)びたもつ。皇臣に敬せられ、道俗に貴《たふと》ばる。法を弘《ひろ》め、人を導きて、行業(ぎやうごふ)とす[やぶちゃん注:以上の内容を自身の成すべきことと決めて精進することを言う。]。ここをもちて、天皇《すめらみこと》、其の行徳を貴び、僧正に拜任す。
かの禪師の頤(おとがひ)の右の方に、大きなる黶(ははくそ)[やぶちゃん注:黒子(ほくろ)。]有り。
平城の宮に、天《あめ》の下、治めたまひし山部の天皇の御世、延曆十七年[やぶちゃん注:七九八年。]の比頃(ころほひ)、禪師善珠、命終(いのちをは)る時に臨みて、世俗(よのひと)の法に依りて、飯占(いひうら)を問ひし時、神靈(もの)、卜者(かみなぎ)に託(くる)ひて言はく、
「我、必ず、日本の國王の夫人(ぶにん)丹治比(たぢひ)の孃女(をむな)の胎(はら)に宿りて、王子に生まれむ。吾が面(おも)の黶、著きて、生まれむを以て、虚實《こじつ》を知らむのみ。」
といふ。
[やぶちゃん注:「飯占」諸本未詳とする。私は竹筒に穴を開けて米に入れて粥を作り、竹の中にどのように粥が入ったかを見てその年の稲の出来高を占うというある地方の習俗を、かなり昔、NHKのドキュメントで見た記憶がある。これもそれに類似したものではなかろうか? 「託(くる)ひて」霊が憑依して。]
命終はりし後《のち》、延曆十八年の比頃に、丹治比の夫人、一(ひとり)の王子を誕生す。其の頤の右の方に、黶、著くこと、先の善珠禪師の面の黶の如くにして、失せずして、著きて生まるるが故に、名を「大德(だいとこ)の親王(みこ)」と號(なづ)く。
然して、三年許りを經(へ)、世に存(ながら)へて、薨(まか)りぬ。向(むか)へ飯占を問ふ時に、「大徳の親王」の靈(みたま)、卜者に託ひて言はく、
「我は、是れ、善珠法師なり。暫くの間、國王の子に生まるるのみ。吾が爲に香を燒(た)きて供養せよ。」
といふ。
是の故に、當に知るべし、善珠大德、重ねて人身を得て、人王(にわう)の子に生まれしことを。
内敎《ないきやう》に言はく、『人、家々《いへいへ》なり。』といふは、其れ、斯れを謂ふなり。是れも亦、奇異《あや》しき事なり。
[やぶちゃん注:「内敎」釈迦の教え。仏典。但し、ここでは、以下の引用から「倶舎論」(くしゃろん)を指す。]
また、伊與(いよ)の國、神野(かみの)の郡《こほり》の部内《ぶない》に、山、有り、名を「石鎚(いしづち)の山《やま》」と號く。是れ、卽ち、かの山に「石槌の神」ありての名なり。
[やぶちゃん注:「伊與(いよ)の國、神野(かみの)の郡の部内」「新潮古典集成」頭注に、『大同四年(八〇九)に新居(にいい)郡と改称する(『類聚国史』)。いま愛媛県西条市・新井浜市。』とある。この附近(グーグル・マップ・データ)。
「石鎚(いしづち)の山」ここ(グーグル・マップ・データ)。]
其の山、高く崪(さが)しくして[やぶちゃん注:嶮(けわ)しくて。]、凡夫は登り到ることを得ず。ただし、淨行《じやうぎやう》の人のみ、登り到りて居住(ゐとどま)れり。
昔、諾樂(なら)の宮に二十五年、天の下、治めたまひし、勝寶應眞(しようほうしようしん)聖武太上天皇(たいじやうてんわう)の御世、また、同じ宮に、九年、天の下治めたまひし帝姬(ていき)阿陪(あべ)の天皇(すめらみこと)[やぶちゃん注:孝謙天皇。]の御世に、かの山に、淨行の禪師、有りて、修行す。其の名を「寂仙菩薩」とす。其の時の世の人、道俗、かの淨行を貴ぶ。故に、「菩薩」と美-稱(たた)ふ。
帝姬の天皇の御世、九年寶字二年の歲(ほし)の戊戌(つちのえいぬ)に次(やど)れる年に、寂仙禪師、命終はる日に臨みて、文《ふみ》に留(とど)め錄(しる)し、弟子に授け、告げて言はく、
「我が命終はりてより以後、二十八年の間を歷て、國王の子に生まれて、名を『神野』とす。ここをもちて、當に知るべし、我《われ》寂仙なることを云々」
といふ。
[やぶちゃん注:「寂仙菩薩」既にリンクでお判りの通り、底本の板橋先生の脚注に、『文德實錄の嘉祥三年五月の條には上仙とある。』とある。
「九年寶字二年」「新潮古典集成」頭注に、『天平宝字二年(七五八)。孝謙天皇在位十年目に当り、「九年」は「天平」の誤りか(虎尾俊哉説)』とある。]
然して、二十八年を歷て、平安の宮に、天の下、治めたまひし山部の天皇[やぶちゃん注:桓武天皇。]の御世、延曆五年の歲の丙寅に次(やど)れる年に、則ち、山部の天皇の皇子に生まれ、其の名を「神野の親王」とす。今、平安の宮に十四年、天の下、治めたまふ賀美能(かみの)の天皇、是れなり[やぶちゃん注:後の嵯峨天皇。]。
ここをもちて、定めて知る、此は聖君なることを。
また、何をもちて、聖君なることを知るか、とならば、世俗(よのひと)の云はく、
「國皇(こくわう)の法は、人を殺す罪人は、必ず、法に隨ひて、殺す。しかるに、この天皇は、弘仁の年號を出《いだ》して、世に傳へ、殺すべき人を、流罪となし、その命を活かし、もちて、人を、治めたまふ。ここをもちて、あきらかに『聖君《せいくん》』なることを知るなり。」
といふ。
或る人は、
「聖君に非ず。」
と誹謗す。
「何を以ての故に、とならば、此の天皇の時に、天《あめ》の下《した》、旱厲(かんれい)[やぶちゃん注:旱魃や疫病。]有り。また、天《てん》の災《わざはひ》、地《くに》の妖《わざはひ》、飢饉の難、しげし。また、鷹と犬とを養ひ、鳥・猪・鹿を取る。是れ、慈悲の心に、非ず。」
といふ。
是の儀、然らず。
食(を)す國の内の物は、みな、國皇《こくわう》の物にして、針指すばかりの末《すゑ》だに、私《わたくし》の物、かつて、無し。國皇とは「隨自在(ずゐじざい)」の義たればなり。百姓たりといへども、敢へて誹(そし)らむめや。
また、聖君尭・舜の世すら、なほ、旱厲ありき。故に、誹るべからざるなり。
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『國皇とは「隨自在(ずゐじざい)」の義たればなり。』は板橋先生の脚注に、『國皇とは何等拘束される所の無い者の意味だからだ。』とある。
*
「旦越(だんをつ)」「檀越」に同じ。檀那。檀家。檀主。サンスクリット語「ダナ・パティ」(「施主」の意)の漢音写。僧のために金品などを施す信者。「だんおち」「だんえつ」「だんのつ」などとも読む。
「降誕(がうたん)」古くは、かく、「ごうたん」とも読んだ。 神仏・高僧・聖人・偉人・帝王・皇族などが生まれること。「降生」(こうしょう)とも言う。]
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