大和怪異記 卷之三 目録・第一 人面瘡事
[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の本文部分は、ここ(単独画像)。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。
正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。なお、底本のルビは歴史的仮名遣の誤りが激しく、ママ注記を入れると、連続してワサワサになるため、歴史的仮名遣を誤ったものの一部では、( )で入れずに、私が正しい歴史的仮名遣で《 》で入れた部分も含まれてくることをお断りしておく。本篇では、会話記号を「 」にするため、全体の額縁である語りの始まりを「……」で始めた。
目録部(ここと次のコマ)は総ての読みを振った。歴史的仮名遣の誤りはママ。「十一」は底本では半角。
本篇には挿絵があるが、これは「近世民間異聞怪談集成」にあるものが、状態が非常によいので、読み取ってトリミング補正し、冒頭に挿入した。因みに、平面的に撮影されたパブリック・ドメインの画像には著作権は発生しないというのが、文化庁の公式見解である。]
やまと怪異記三
近世(きんせ)
一 人面瘡(にんめんさう)の事
二 古石塔(こせきとう)たゝりをなす事
三 高野山(かうやさん)に女人のぼりて天狗につかまるゝ事
四 ふし木の中の子規(ほとゝぎす)の事
五 ねこ人をなやます事
六 不孝(ふかう)の女(をんな)天罸(てんばつ)をかうふる事
七 紀州(きしう)眞名古村(まなごむら)に今も蛇身(じいやしん)ある事
八 殺生(せつしやう)して我子にむくふ事
九 人(ひと)の背(せ)より虱(しらみ)出(いづ)る事
十 出雲國(いづものくに)松江村(まつゑむら)穴子(あなご)の事
十一 龍(りやう)屋敷よりあがる事
やまと怪異記三
近世(きんせ)
第一 人面瘡(にんめんさう《の》)事
今はむかし、幸若八郞(かうわか《はちらう》、かたりけるは、
[やぶちゃん注:底本の画像はここ。正直、人面瘡をバーンと描いて欲しかったな。]
……みやこにのぼるとて、木曾路を行《ゆき》けるに、所はわすれぬ、ある山かげにて、手をつかね、腰をかゞめて、よれるものあり。其さま、ひなびたれ共、さすが、下部(しもべ)とも見えぬが、馬の口によりて、いへるは、
「我、たのゝたる者[やぶちゃん注:ママ。「たのみたる者」で主人の意か。]、ひさしく治しがたき病(やま《ひ》)れば、祿を辞して、是成《これなる》森の内に引《ひき》こみ、二十(はた)とせの春秋をおくるに、次㐧《しだい》に、身、をとろえ[やぶちゃん注:「衰(おとろ)へ」。]、心、つかれて、此世に久しからじと、みゆ。されば、君の爰《ここ》もとを、のぼりたまふふこと、さきだつてきゝ、
『此世の思ひ出に、逢《あひ》たてまつりたき。』
と、ねがひ、今日、かくと、久しく、待《まち》侍りぬ。いざ、させ給へ。道しるべ、せん。
と、いへば、
『遠近(《をち》こち)のたつきもしらぬ山中《さんちゆう》。』
とは思へ共、
『煩へる人の、「我《わが》一ふし」と、ねがふに、いかで、「いな」とは、いふべき。若(もし)のあやしき事も、定まれる事なり。』
と、おもひ、此者と、うちつれゆくに、道より十町[やぶちゃん注:約一キロ九十一メートル。]ばかりすぎて、山かげの松・杉、木(こ)だち、物さびたる森のうちに行《ゆき》つきぬ。
家づくりは、草ぶきにして、槇(まき)の戶たてたる内ながら、さすが、よしあるすみかにて、客人(まろうと)の迎(むかへ)、はかまきたる者、二、三人出《いで、》色代(しきだい)[やぶちゃん注:挨拶。会釈。]し、うちつれ通るに、亭には、弓・鑓、あまた、かけをき、二間、三間[やぶちゃん注:二百十八~三百二十七メートル。]、過行(すぎゆく)に、『左《さ》も』とおぼえし[やぶちゃん注:「如何にもそれらしい」と感じられる。]老たる、若き、詰居(つめゐ)て、其外、人、多し。
案内するにまかせて、通りたれば、奧ふかく、作れる家、有《あり》て、庭の木だち、物ふり、よし有《あり》げなる風情(ふぜい)なり。
しばし有《あり》て、一間(《ひと》ま)なる障子をあけ、
「是へ。」
と、いふをみれば、あるじとおぼしくて、五十ばかりの、色靑ざめたるおとこ[やぶちゃん注:ママ。]、かみ、長く、ひげがちなるが、夜着(よぎ)、引《ひき》まはし、火燵(こたつ)に、よりかゝりながら、いふやう、
「足下(そこ)に、のぼり給ふことを傳え聞《きく》。見たまふごとく、病(やみ)おとろえて、世にあらん事も、此年ばかりとおもへば、『聞及《ききおよび》たる一ふしを聞《きき》、此《この》よの思ひ出(で)にし侍らん。』と、あからさまにおとづれしに、來り給ふ事の、うれしさよ。」
「世上に何事か候。かたり給へ。」
「さらば、先(まづ)、來(こし)かたを、語侍《かたりはべ》らん。我は、もと、武士にて、主君にも、いやしからずつかえ、ゆたかにくらし侍りしが、二十歲(はたち)ばかりの比《ころ》、さだまれる妻(め)とてはなく、妾(《を》んなめ)を置(おき)て愛(あい)せしに、此もの、嫉妬の心、ふかく、かりそめにも、甚だしく、いかり、恨(うらみ)ける。有《ある》とき、我、いたはる事ありて、打《うち》ふしける枕によりゐて、又、例のごとく、うらみけるを、あまりに、腹(はら)に、すへ[やぶちゃん注:ママ。]かねつゝ、扇を取《とり》て、二つ、三つ、うちければ、
『こは。情なき御事や。とてもの事に、殺し給へ。』
と、たもとにすがり、なきさけべば、
『ころすにかたき事か。』
とて、匕首(わきざし)をぬいて、あえなく、首を、うち落せば、此くび、むかふに、ころびゆき、我《わが》かたに、むかひ、生(いけ)るときの顏色(がんしよく)のごとく、「につこ」
と、わらひぬ。扨《さて》、有《ある》べき程のさたして、㙒邊(のべ)におくり、葬(《は》うふ)る。其夜よりして、身、ほとほりて[やぶちゃん注:熱を持ってきて。]、股に、一つの腫物(しゆもつ)、出來(いでき)、見るが内に、大きになり、ころせし女の顏に、露、たがはず。髮を乱し、かねぐろに笑へるさま、すさまじといふも餘(あまり)あり。是なん、世にいふ、「人面瘡」なるべし。けづりすつれど、其日のうちに、又、出來て、少しも、かはらぬ、てい、なり。祈禱・醫療、さまざまにつくせども、其《その》甲斐、なし。今は、すべきやうなく、次第に、心氣《しんき》つかれて、つとめも、かなはず。つかえを、かへし、此所《ここ》に引《ひき》こみ、二十年(はたとせ)餘になり侍り。『此世だに、かくあれば、來世も、さぞ。』と、思はれぬ。生涯の思ひ出に、足下(そこ)の一ふしを聞《きき》て、往生の期(ご)をまたんと思ひ侍る。」
と、かたりて、淚にむせべり。
我、
「やすきこと。」
と、いらえて、夜とともに、望《のぞみ》にまかせて、舞《まひ》ぬ。
かくて後、病人、いへるは、
「此歲月《としつき》の憂(うき)おもひ、今宵(こよひ)ばかりぞ浮雲(うきぐも)の、風に消(きえ)たる心地し侍り。さらば、こなたに。」
と人をのけ、
「是、見たまへ。」
とて、衣(きぬ)、引《ひき》のけ、見すれば、此《この》面(おもて)、打《うち》わらひて、みゆ。
『扨《さて》も希有(けう)のことかな。』
と、すさまじく思へり。
さて、いとまをこひければ、
「此後までの記念。」
とて、からの香箱(かうばこ)・同《おなじき》硯(すゞり)をあたへ、なみだながらに、わかれぬ。
其夜、弓もたせ、鎗つかせ、侍僕(じぼく)十人ばかりにて、おくりかへされたり。
其のち、
『かならず、尋《たづね》ん。』
と思ひしに、くだりには、東海道を通り、其後、のぼらねば、今は、一木(ひとき)のしるしとこそ、成《なり》つらめ。」
と、淚をながし語り侍る。「怪㚑雜記」
[やぶちゃん注:最後の典拠であるが、「近世民間異聞怪談集成」の本文・解題では、『怪異雑記』とするのであるが、原本のここ(クリックして拡大されたい)の、この書名の二字目は確かに「異」の異体字「异」の「グリフウィキ」のこの字によく似てはいるのだが、逆に「㚑」の崩しにも酷似しているのである。而して、以下の資料では、これを「靈」と採っている。それは、高い確率で本篇を読んだものと推定される田中貢太郎の怪奇小説「人面瘡物語」(以下の引用は所持する国書刊行会の一九九五年刊の改造社再編集版の「日本怪談大全」所収を底本とした。「青空文庫」のこちらでは別底本(桃源社本)で読める)の冒頭で、
*
谷崎潤一郎氏に人面疽(じんめんそ)のことを書いた物語がある。其の原稿はある機会から私の手に入って今に保存されているが、何(な)んでも活動写真の映画にあらわれた女のことに就(つ)いて叙述したもので、文学的にはさして意味のあるものでもないが、材料が頗(すこぶ)る珍奇であるから、これは何か粉本(ふんぽん)があるだろうと思って、それとなく注意しているうち、諸国物語を書くことになって種々の随筆をあさっていると、忽(たちま)ちそれと思われる記録に行き当った。それは怪霊雑記[やぶちゃん注:「霊」となっていることに注目。](かいれいざつき)にある話で、幸若舞(こうわかまい)の家元になった幸若八郎と云うのが、京都へ登って往く途中、木曾路(きそじ)で出会った出来事であった。
*
である(因みに、谷崎の「人面疽」恐ろしくつまらない怪奇小説で、読んで時間を損したと思ったほどに下等なレベルの怪談である)。而して、この谷崎の「人面疽」を論じた金井公平氏の論文「西洋と日本の怪奇小説 ――人面疽をめぐる短篇小説、谷崎潤一郎の「人面疽」を中心に――」(『明治大学人文科学研究所紀要』第四十八冊所収。二〇〇一年三月発行。PDF直リンク)で、田中の「人面瘡物語」を挙げた上で(コンマは読点に代えた)、『粉本としての『怪霊雑記』を私は現在探しているが、残念ながらいまだ見つからないままである』と言及しておられる。まあ、金井氏は田中の小説の前振りの「怪霊雑記」をそのまま正直に採用されておられ、論旨も本原話を探す方向のものではないから、強力な傍証とはならないのであるが、では、或いは、「近世民間異聞怪談集成」の「怪異雑記」が正しのかと思って調べても、「大和怪異記」以前の怪奇談集には、そんな書名の物はないのである。と言うより、「近世民間異聞怪談集成」の解題で土屋氏自身が、本書を『該当する資料名が不明なもの』の一つに入れておられるのである。作者の典拠表示の律義さを好意的に受けとめるならば、今は散佚した写本の怪談集であるのかも知れない。悪意で考えるなら、作者のフェイクで、これは本「大和怪異記」の作者のデッチ上げた創作でないとも言い切れないのである。としても、私は、本篇、なかなかに出来の良い作品だと思っている。なお、老婆心乍ら、金井氏の言っておられる通りで、谷崎の「人面疽」の粉本・原拠は絶対に本篇ではない。これほども谷崎のそれは面白くも糞くもないものであることを、再度、ブチ挙げておく。なお、「人面疽」は例えば、私の「柴田宵曲 妖異博物館 適藥」、或いは、金井氏も挙げておられる「伽婢子卷之九 人面瘡」を見られたい。
「幸若八郞」「幸若舞」の創始者と伝えられる桃井幸若丸(もものいこうわかまる 生没年未詳)か、その直系伝授を受けた人物であろう。桃井幸若丸は越前の人で、南北朝時代の武将桃井直常の孫とも言われ、名は直詮(なおあき)で、「幸若丸」は元の幼名。室町前期、比叡山の稚児であった折に、平曲や声明(しょうみょう)などを取り入れて「幸若舞」を始めたとされるが、幸若舞の始祖としての桃井直詮説には疑問が多い。
「さすが、下部とも見えぬが」「どうみても、下級の下男のレベルではなく、相応の上級の用人ように見受けられる人物が」。]
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