大和怪異記 卷之二 第九 芦名盛氏は僧の再來なる事
[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の分は、ここと、ここ(単独画像。前者に挿絵有り)。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。
挿絵があるが、これは「近世民間異聞怪談集成」にあるものが、状態が非常によいので、読み取ってトリミング補正し、冒頭に挿入した。因みに、平面的に撮影されたパブリック・ドメインの画像には著作権は発生しないというのが、文化庁の公式見解である。
正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。なお、底本のルビは歴史的仮名遣の誤りが激しく、ママ注記を入れると、連続してワサワサになるため、歴史的仮名遣を誤ったものの一部では、( )で入れずに、私が正しい歴史的仮名遣で《 》で入れた部分も含まれてくることをお断りしておく。]
第九 芦名盛氏は僧の再來なる事
奧州伊達郡に、「菖蒲澤《しやうぶさは》の上人」とて、有驗(うけん)の僧ありけるが、芦名盛舜(《あしなもり》とし[やぶちゃん注:ママ。])の家老、松本・平田・佐瀨・富田《とみた》を、うらむる子細あつて、
「我(われ)、隔生(きやくせう[やぶちゃん注:ママ。])に會津の主(あるじ)とうまれ、四人の者どもを、したがへむ。」
と云《いひ》て、程なく、死す。
此一念によつて、盛舜の子、盛氏と生(うま)る。
其いはれは、其ころ、廻国の白拍子ありて、會津に來《きた》る。
盛舜、これを寵愛す。
ある夜(よ)の夢に、ひとりの僧、來りて、女にむかつて、
「汝が胎内を、からん。」
ことを、こふ。
女、應諾(《わう》だく)して、夢、さめ、程なく姙(はらみ)す。
月ごろ、たりて後、家臣富田に、此女を、あづけらる。
富田も又、此女、はらみけるころ、一僧、來りて、
「我、かの女が胎(たい)をかつて[やぶちゃん注:ママ。]後、汝がもとに、託《たく》せむ。」
と云《いふ》と、夢(ゆめ)む。
はたして、姙婦(にんふ)をあづかり、あやしみ思ふ所に、又、女、はらめるはじめの夢をかたるに、富田が夢と符節(ふせつ)を合《あはし》たるがごとし。
誕生の後、
「二人ともに、同じ夢のよし。」
を盛舜に披露す。
此男子、四、五歲の比より、異相、あつて、かしこく、會津四人の家老をはじめ、おのおの、恐怖する事、甚だし。
元服ありて、盛氏と名乘《なのり》、隣国に武名をあらはせる、となり。「會津四家合考《あひづしけがふかう》」
[やぶちゃん注:典拠とする「会津四家合考」は天正八(ユリウス暦一五八〇)年から慶長六(グレゴリオ暦一六〇一年:江戸幕府開府の二年前)年までの岩代国会津に於ける葦名・伊達・蒲生・上杉の四家の出来事を会津松平家家臣向井新兵衛が記した武辺史書で寛文二(一六六二)年成立。幸いにして国立国会図書館デジタルコレクションの「会津四家合考 南部根元記二」(大正四(一九一五)年国史研究会刊)のここで当該部を確認出来た。但し、前後でしつこく「野人怪妄の雜談」「野人の妄談」と断っている。
「芦名盛氏」蘆名盛氏(大永元(一五二一)年~天正八(一五八〇)年)戦国武将。蘆名氏は平(たいら)姓(せい)三浦氏系統の一族で、南北朝期には、会津に勢力を廻らし、盛氏の代に全盛期を迎えた。金上盛興(盛貞とも)の娘を母として、盛舜の次男として会津に生まれた(長男の氏方は遊女腹(サイト「会津への夢街道 夢ドライブ」の「蘆名氏」のページに『側室 川野御前(白拍子)』とあった)であったからか、盛氏が誕生すると、黒川城を出され、富田義実の元で養育された。永禄四(一五六一)年二月に盛氏が長沼実国を攻めるために黒川を留守にした際、義実父子らに奉じられ、謀叛を企てたが、数日で鎮圧されて家臣と共に自害している。ここは当該ウィキに拠った)。天文一九(一五五〇)年、田村隆顕と戦うなど、安積郡への支配を強め、安達郡,・岩瀬郡方面にも進出、また、北進化する佐竹氏に対抗するため、白川小峯氏と戦い、さらに元亀二(一五七一)年には北条氏とも同盟し、佐竹氏と、連年、交戦した。天正六(一五七八)年頃までには、田村郡は守山まで、石川郡は、ほぼ全域を掌握した。越後方面では永禄七(一五六四)年に武田信玄と連携し、菅名庄に侵入、天正六年の「上杉御館(おたて)の乱」にも上杉景虎に味方して出兵した。室町幕府は「大名在国衆」の一人として蘆名氏を扱っている(永禄六年の「諸役人付」に拠る)。一度、隠退し、会津黒川城から大沼郡岩ケ崎城に移り、「止々斎」と号したが、その子盛興の死に伴い、再び政務に戻った。天正五年頃からは、佐竹氏と協調し、大連合して、伊達・田村勢力と対抗する構図を形成した。領国政策では、徳政令の発布や流通統制によって、領内支配を強化した(以上の主文は概ね朝日新聞出版「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。
「奧州伊達郡」陸奥国及び岩代国で現在の福島県北部の伊達市(グーグル・マップ・データ)相当。
『「菖蒲澤の上人」とて、有驗(うけん)の僧ありけるが、芦名盛舜(とし)の家老、松本・平田・佐瀨・富田を、うらむる子細あつて』「菖蒲澤の上人」は不詳だが、「会津四家合考」ではちゃんと彼が怨んだ具体的な理由が書かれてある。一部に句読点・記号・読み(推定・歴史的仮名遣)を挿入した。踊り字「く」は正字化した。
*
此先、一年、蘆名と伊達と確執(かくしふ)なる事あり。其時、伊達より和を乞はれけるに、「しやうぶ澤の上人」とて、其頃、有驗(うげん)の僧、伊達にあり、此僧を和睦の使(し)に、會津へ越(おこ)さる。時に四天の宿老共、一向、許容せねば、上人、手を失ひ、本意(ほい)なく歸りけるが、路(みち)すがら、四天の宿老共の振舞を由(よし)なく思ひ、「願はくは、我、隔生(きやくしやう)に、會津の主護(しゆご)と生れて、ねたかりし四天の宿老共を、怖れしめたき。」と、瞋恚(しんい)、熾盛(しせい)し、檜原峠より、會津の方を、見返り、見返り、觀念し、伊達に歸りて、程なく、死す。
*
ここで「家老」とする「松本・平田・佐瀨・富田」は、一々、調べて注する気にならない。悪しからず。但し、この内の「富田」は前で注した庶長子の蘆名氏方が預けられ、氏方を唆して謀反を企てて滅ぼされた富田義実(とみたよしざね)であろう。彼は「菖蒲沢の上人」の祟りを最も強く受けた一人であったこと(という本話のニュアンス)だけは判る。思うに、この伝承は、先の引用先で「白拍子」(この頃の白拍子は既に芸能者であると同時に春を売る遊女でもあった。挿絵の女も被りものが、モロ白拍子というのは、逆にいかにも過ぎてちょっと違和感がある)のこの氏方の出生と、盛氏の果敢な性格とが混同されて形成されたもののように見える。
「隔生」「きやく(きゃく)」は「隔」の呉音。 仏語で「生(しょう)を隔てて、生まれかわること。」を意味する。
「盛舜(とし)」蘆名盛舜(もりきよ 延徳二(一四九〇)年~天文二(一五五三)年:享年六十四歳)戦国武将で蘆名氏第十五代当主。永正一八(一五二一)年に兄盛滋の跡を継ぎ、陸奥会津黒川城主となる。家臣の猪苗代氏らの反乱を鎮圧し、領国の支配を固めた。享禄元(一五二八)年、伊達稙宗(たねむね)を助けて、石巻城の葛西氏を攻めた(講談社「デジタル版日本人名大辞典+Plus」に拠った)。]
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