大和怪異記 卷之一 第四 螺蠃大蛇を捉事
[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の分はここ。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。
正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。【 】は二行割注。]
第四 螺蠃(すがる)、大蛇(おろち)を捉(とらふ)事
雄略天皇七年七月、天皇、少子部連螺蠃(すくなこべのむらじすがる)に詔(みことのり)して、のたまはく、
「朕(われ)、三諸岳(みもろだけ)の神のかたちをみむことを思ふ。汝、膂-力(ちから)、人に過(すぎ)たり。みづから行(ゆき)て捉え[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]、來(きた)るべし。」
螺蠃、すなはち、三諸岳にのぼりて、大《おほい》なる蛇(おろち)を捉えて、天皇に奉る【一本に、「大蛇、七丈余」。】。
其雷(かみ)、虺虺(ひかり ひろめき)、目精(まなこ)、赫々(かゝやく)。
天皇、をそれて[やぶちゃん注:ママ。]、目(め)を蔽(おゝひ[やぶちゃん注:ママ。])て、見たまはず、殿中(でん《ちゆう》)にかくれ入《いり》給ひ、其神をば、岳(おか[やぶちゃん注:ママ。])にはなたしめ給ひ、改めて、名をたまはりて、「いかづち」とす。同
[やぶちゃん注:最後の「同」は前の話と「同」で、「日本書紀」が原拠。「螺蠃」の「蠃」の字は、一貫して、中央の横長の「口」が「罒」で、下部の中央の「虫」が「果」になったものだが、「グリフウィキ」の「蠃」の異体字画像にも、この字は似ているものさえ、ない。正字で示した。また、「少子部」の「部」も、「グリフウィキ」の「部」の異体字である、(つくり)の「おおざと」だけの表字であるが、これも表示不能なので、一般的な「部」に直した。
「少子部螺蠃」小学館「日本大百科全書」を主文として示す。「小子部連」は、雷神招迎などの豊饒祭祀を行い、また、職能集団である小子部(少年によって組織され、宮門の護衛や宮中での雑務或いは雷神制圧を任務としたと思われる)を率いて、天皇側近の雑役・護衛に当たり、軍事的側面をも持つに至った氏族。藤原宮跡出土の木簡に「小子部門」(ちいさこべのもん)と記述するものがあり、門号氏族でもあったことが判っている。また、この「螺蠃(すがる)」は、雄略朝にかけて、この氏族の祖と語られる伝承的人物で、「雄略紀」の本篇の記載の直前には、天皇から養蚕のために蚕(こ)を集めることを命ぜられたが、誤って嬰児(わかご)を集めて大笑いされ、その養育を申しつけられ、「小子部連」という姓(かばね)を賜ったとあり、先の少年職能集団起源の神話的変形が見出せる。また、ここにある通り、天皇のために三諸岳(みもろのおか)の雷神を捕らえ、これを放ったことから、「雷」(いかずち)の名を賜ったとされる。この「雷」は「新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)」の「秦忌寸(はたのいみき)」の条に、隼人(はやと)を率いて、諸国に離散した秦(しん)の民を集めた人とも語られている。雷神捕捉の話は「日本霊異記」の第一話にもあり、そこでは、螺蠃が、死後も、その墓柱で雷神を押さえ捕らえていることになっている。これら雷神捕捉の話は、本来は小子部連の雷神招迎の祭祀に基づいて成立したものと考えるべきである、とある。
なお、この「螺蠃(すがる)」という古語は、現在の狩り蜂として知られる細腰(ハチ)亜目アナバチ科ジガバチ亜科ジガバチ族Ammophilini のジガバチ類を指す(博物誌は私の「和漢三才圖會卷第五十二 蟲部 蠮螉」を参照)。では、何故、ジガバチなのか? これは、加藤良平氏の「古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集) ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ」の『雄略紀「少子部連蜾蠃」の物語について─「仍改賜名為雷」の解釈を中心に─』が面白い音による洒落説を挙げておられる(注1・2はリンク先で確認されたい)。
《引用開始》
この一連の話がどうして蜾蠃(すがる)という人物に託されて語られているのか。大系本日本書紀には、「蜾蠃は万葉一七三八に「腰細の須軽娘子」とあり、腰の細いジガバチの類の称。捕えた虫を地中の巣にくわえこんで子を養う習性が目立つため、「巣借る」と呼んだものか。少子部(小子部)は明らかでないが、恐らく子部(児部)と同様に天皇の側近に奉仕する童子・女孺らの資養費を担当する品部で、その管理者たる連の祖としてスガルの名を思いついたのであろう。」(354頁補注)、新編全集本日本書紀には、「『爾雅』釈虫に「蜾蠃、郭注曰、即細腰、𧔧也、俗呼為二蠮螉一」。腰の細いジガバチという虫。捕えた虫をくわえて巣に運び、子を養う習性をもつ。少子部蜾蠃のスガルも、この虫の習性から考えついた説話上の名であろう。子部(児部)は、天皇側近の童子・女嬬らを資養する品部。その管理者が少子部(小子部)連。他に、『姓氏録』や『霊異記』上・一話などにもスガル伝承説話を載せる。」(167頁頭注)とある。佐佐木1995.では、「人名のスガルが土蜂の呼称の「蜾蠃」から離れて動詞のスガル・ツガルを想起させ……、その名を持つ人物が天皇の言った「蠶」を「兒」と混同したという筋立てを持つ[第1話]……の伝説が成立した可能性を想定することもできる」(238頁)し、また、「この伝説の成立を、動詞スガル・ツガルが持っていたと推定される「からむ」「まつわり付く」あるいは「いつわる」「ことばを誤る」などの意への連想が働いたということで説明せずに、これらの動詞が持っていた「つながる」「くっつく」あるいはそれと連続する「あつまる」意への連想が働いたということで説明することも、一方では可能である。」(240頁)など、動詞からのトートロジー的定義を含めた解釈の可能性を示唆している(注1)。
第1話について諸氏の解釈はほぼ同様である。話は単純で、「蚕(こ)」と「児(こ)」とを取り違えたことのために、少子部連という姓としたとするものである(注2)。管見にして指摘されているか不明な点として、後述のとおり蜾蠃(すがる)と呼ばれるのはジガバチのことで、それはジガジガ(似我似我)と鳴いていると観念されていたらしいこととの関連である。蜾蠃(すがる)という人物に対して天皇は、「蚕(こ)」を聚めてくるように命じている。命じられた蜾蠃(すがる)という人物にしてみれば、いくら何でも「蚕(こ)」にジガジガ(似我似我)と鳴いて我に似るように迫ったところで、蚕が人間に似るはずはなかろうと思っている。だから、天皇の意図は、「児(こ)」を聚めてくることを求めているに違いないと考えて行動したのであろうとわかる。ジガバチが似我蜂の意であると想定されていると認められるとすると、雄略朝と措定される記述に中国語の洒落が通底していることになる。ヤマトコトバの歴史において、漢音の漢語を採り入れた最初期のものが、なんと洒落であったと指摘できる。しかし実は洒落のような言い回しにこそ、外国語が流入して汎用される契機はあったのであろう。時は無文字時代である。無文字の人にとっての他言語との交わりとはどのようなものであるか、本質を鋭く突く事象として特筆されるべきであろう。
《引用終了》
とあって、甚だ、首肯出来る考証である。
では、まず、原典の「日本書紀」を、以上の解説との絡みから、直前の話柄から引く。
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三月辛巳朔丁亥、天皇、欲使后妃親桑以勸蠶事。爰命蜾蠃【蜾蠃、人名也。此云須我屢。】、聚國內蠶。於是蜾蠃、誤聚嬰兒奉獻天皇、天皇大咲、賜嬰兒於蜾蠃曰、「汝宜自養。」。蜾蠃卽養嬰兒於宮墻下。仍賜姓爲少子部連。夏四月、吳國遣使貢獻也。
七年秋七月甲戌朔丙子、天皇詔少子部連蜾蠃曰、「朕、欲見三諸岳神之形。」【或云、「此山之神爲大物主神也。」。或云、「菟田墨坂神也。」。】。汝、膂力過人、自行捉來。」。蜾蠃答曰、「試往捉之。」。乃登三諸岳、捉取大蛇、奉示天皇。天皇不齋戒。其雷、虺々、目精、赫々。天皇畏、蔽目不見、却入殿中、使放於岳。仍改賜名爲雷。
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国立国会図書館デジタルコレクションの昭和六(一九三一)年岩波書店刊黒板勝美編「日本書紀 訓讀」中巻で示すと、ここの右ページ一行目下方から。
次に、「日本霊異記」の第一話も引こう。所持する角川文庫板橋倫行(ともゆき)氏の校注本(昭和五二(一九七七)年(第十八版)角川文庫刊。この本は正字で頗るお気に入りの文庫である)で示す。段落を成形した。
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雷(いかづち)を捉ふる緣第一
小子部栖輕(すがる)は、泊瀨(はつせ)の朝倉の宮に、二十三年、天の下、治めたまひし雄略天皇【大泊瀨稚武(おほはつせわかたけ)の天皇と謂ふ。】の隨身、肺脯(はいふ)の侍者なり[やぶちゃん注:底本注に『肺脯は肺腑。腰ぎんちやくの從者の意』とある。]。
天皇、磐余(いはれ)の宮に住みたまひし時、天皇、后と、大安殿に寐て、婚合(くなか)へる時、栖輕、知らずして、參入(まゐ)る。天皇、恥ぢ、輟(や)みぬ。時に當りて、空に、雷(いかづち)、鳴る。
卽ち天皇、栖輕に勅して詔(の)りたまはく、
「汝、鳴る雷(かみ)を請(う)け奉らむや。」
と、のたまふ。
答へて曰(まを)さく、
「請けむ。」
と、まをす。
天皇、詔りして、言はく、
「爾(しか)らば、汝、請け奉れ。」
と、のたまふ。
栖輕、勅を奉り、宮より罷り出づ。
緋(あけ)の蘰(かづら)を額(ぬか)に著け、赤き幡桙(はたほこ)を擎(ささ)げ、馬に乘り、阿部の山田の前(さき)の道と、豐浦寺(とよらでら)の前の路とより、走(は)せ往く。
「輕(かる)の諸越(もろこし)」の衢(ちまた)に至り、さけび、請けて、言はく、
「天の鳴る雷-神(かみ)、天皇、請け呼び奉る、云々」
といふ。
然して、此より、馬を還して、走りて言はく、
「雷神と雖も、何の故にか、天皇の請けを聞かざらむ。」
といふ。
走り罷る時に、豐浦寺と飯岡との間に、鳴る雷(かみ)、落ちて在り。
栖輕、見て、卽ち、神司(かむづかさ)を呼び、輿籠(こし)に入れて、大宮に持ち向かひ、天皇に奏して言はく、
「雷神を請け奉れり。」
と、まをす。
時に、雷光を放ち明(あか)く炫(かがや)けり。
天皇、見て恐(おそ)り、偉(たたは)しく幣帛(みてぐら)を進(たてまつ)り[やぶちゃん注:同前で『どつさり神を祭る品物を獻つて』とある。]、落ちし處に還(かへ)さしむ。その落ちし處、今、「雷(いかづち)の岡」と呼ぶ【古京の「小治田(をはりだ)の宮」の北に在り。】。
然るに、後-時(のち)に、栖輕、卒(みまか)る。
天皇、勅して、留むること、七日七夜[やぶちゃん注:蘇生のための「もがり」である。]、その忠信を詠(しの)び、雷の落ちし同じ處にかれが墓を作り、碑文の柱を立てて言はく、「雷を取りし栖輕が墓」といふ。
この雷、惡(にく)み、怨(きら)ひて、鳴り落ち、碑文の柱を踊(く)え踐(ふ)む。
かの柱の、析(さ)けし間に、雷、はさまりて捕(と)らる。
天皇、聞きて、雷を放つ。死なずして、雷-慌(とほ)れて[やぶちゃん注:正気を失って。]、七日七夜、留まれり。
天皇、勅して、碑文の柱を樹(た)てしめ、標(しる)して言はく、「生(いき)も死(しに)も雷を捕れる栖輕が墓」といふ。
いはゆる、古京の時に名づけて「雷(いかづち)の岡」となす語(こと)の本(もと)、これなり。
*
先のリンク先で加藤良平氏は、この話についても、諸注を掲げられた上で、『筆者は、「雷(いかづち)」という名を賜うて改めさせた対象となる元の名は、「三諸(岳)」でも「(少子部連)蜾蠃」でもなくて、第三の対象、「雷(なるかみ(かみなり))」を改めて「雷(いかづち)」とした、という意に解する』とされた上で(注は同前)、
《引用開始》
では、第2話において、蜾蠃は天皇の言葉の何を取り違えたのか。詔をきちんと聞いてみる必要がある。[やぶちゃん注:中略。]
そんな雷は天空の高いところで鳴る。山岳で言えば、高いところは峰(を)である。神と言っているのだから霊力のあるはずのものである。その力に負けない「膂力人(ちからひと)」である自分を天皇は選んでいる。となると、三諸岳の山中に分け入って、ヲ(峰)+ロ(助詞)+チ(霊)を捕まえてくればいいらしい。頑張ってみようということで、三諸岳に登って大蛇を捕らえて天皇に見せている。
天皇は、蜾蠃に「示」されて、大蛇の姿を一瞥するに及んだかもしれない。それが神の姿であるなら、神をも恐れぬ不敵な行いになる。だから、本当は神の姿を見なかったことにするか、あるいは、自らがその神の憑代となる準備をする必要があった。その準備こそ、「斎戒」である。しかし、天皇は斎戒しなかった。目の前に持ってこられて弱っている。事もあろうに三諸岳の神である。不吉極まりない。三諸岳の神とは、三輪山の神のことである。祟り神として知られていた(注5)。算段として、自分の方は「天皇畏、蔽レ目不レ見、却二-入殿中一。」し、大蛇の方は「使レ放二於岳一。」した。距離をとろうとしている。さらに奥の手をくり出して、名前を改名することにした。「神之形(かみのなり)」について、少子部連蜾蠃のような誤解を与える「神の鳴り」、「鳴神(なるかみ)」=「雷(なるかみ)」という名前を改めることにし、「雷(いかづち)」とした。天皇自身の目の前にあったのは、三諸の神の形(なり)ではなくて、イカヅチにすぎないのだ、という言い分である。[やぶちゃん注:中略。]
雄略紀において、「三諸岳(みもろのをか)」が話題とされている。「岳(をか)」と断っているのは、ヲ(峰)+カ(処)の意を示したいからで、同根のヲ(峰)、つまり、山の尾根のことに少子部連蜾蠃の関心は向っている。三諸岳とは三輪山[やぶちゃん注:ここ(グーグル・マップ・データ)。]のことである。大系本日本書紀に、「崇神十年条でも御諸山の大物主神は「願無レ驚二吾形一」といって蛇になる。蛇は三諸岳の神の憑代。」(45頁)とあるとおり、三諸岳の神の形(なり)は大物主神の形(なり)で、それは蛇である。それも、とぐろを巻いた形であろう。三輪山は独立峰になっていて、蛇がとぐろを巻いたような紡錘形を保っている。だから、少子部連蜾蠃はヲ(峰)+ロ(助詞)+チ(霊)=大蛇を捕らえてきた。三諸岳の神の形(なり)であるというのである。[やぶちゃん注:以下略。]
《引用終了》
と譚の深層の真相を明らかにされておられる。非常に説得力のある論で、是非、全文を読まれたい。
「雄略天皇」考古学的に、実在が、ほぼ確定している最初の天皇とされる。
「七丈余」二十一メートル超え。]
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