「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「話俗隨筆」パート 無眼、一眼、二眼
[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。
以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから次のコマにかけて。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。
注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。本篇の正規部の漢文部は全体が一字下げなので、それを再現するために、ブラウザの不具合を考えて、一行字数を少なくしておいた。今まで通り、後に〔 〕で推定訓読文を添えた。
なお、底本では標題下に「同前」とあるが、これは冒頭の本文が前話と同じ大正二(一九一三)年五月『民俗』第一年第一報所収であることを言う。]
無眼、一眼、二眼 (同 前)
「蟻を旗印とせし話」に出たる「ベンスリ」敎授、三年前、二月二十七日の『ノーツ・エンド・キーリス』に說《とき》て曰く、「バートン」の「鬱憂の解剖(アナトミー・オヴ・メランコリー)」(一六五一―二年板、四十頁)に、『支那人の諺に、歐州人は一眼《ひとつめ》、支那人は二眼、其他の諸民、總て眼なしと云ふ』と言へり。是は「ジョセフ・ホール」の「新世界發見誌」(Joseph Hall, ‘Mundus alter et idem,’ 1605 ? and 1607)に、斯《かか》る詞有るに據れるならん。併乍《しかしなが》ら、支那書、又、外人が、實際、支那を旅行觀察して記せる者に、支那人間、果して、斯る諺《ことわざ》、行はれたる證左有りや。「エイテル」博士(「漢英佛敎語彙」の著者)等に問ひしも、答ふる能はざりき、と。
[やぶちゃん注:「蟻を旗印とせし話」先行するこれ。
『「ベンスリ」敎授』エドワード・フォン・ブルームバーグ・ベンスリー(Edward von Blomberg Bensly 一八六三年~一九三九年)は英文学者。
「三年前、二月二十七日の『ノーツ・エンド・キーリス』に說て曰く、……」英文「WIKISOURCE」の‘Notes and Queries’ のここに発見した。電子化もされてある。
『「バートン」の「鬱憂の解剖(アナトミー・オヴ・メランコリー)」(一六五一―二年板、四十頁)』イギリスの作家でオックスフォード大学のフェローであったロバート・バートン(Robert Burton 一五七七年~一六四〇年)の‘The Anatomy of Melancholy’(「憂鬱の解剖学」:初版一六二一年刊)はメランコリーの医学的・科学的・哲学的・文学的百科事典として知られる。「Internet archive」のこちらにあるが、版が多過ぎ、五、六冊で、目がチラチラしてきて当該部を探すのは諦めた。
「ジョセフ・ホール」(Joseph Hall 一五七四 年~一六五六年)はイギリスの司教で風刺作家。以下の「新世界發見誌」「Mundus alter et idem」は彼のディストピア小説。ラテン語の標題は‘An Old World and a New, The Discovery of a New World’ (「古い世界と新しい世界の発見」)、他に‘Another World and Yet the Same’ (「別な世界とまだ同(おんな)じのそれ」)と訳されている。
『「エイテル」博士(「漢英佛敎語彙」の著者)』「火齊珠に就て (その二・「追加」の1)」で既出既注であるが、再掲しておくと、エルンスト・ヨハン・エイテル(Ernst Johann Eitel/Ernest John Eitel 一八三八 年~一九〇八年)。ドイツのヴュルテンベルク生まれのドイツ人で、元々は「ヴュルテンベルク福音教会」の牧師であったが、「バーゼル伝道会」に入って、広東省に福音を広めるために渡った。一八六二年からは、香港で布教活動に従事するとともに、香港政庁下での教育行政官としても活躍した。後には「ロンドン伝道協会」に入会するとともに、イギリス国籍を取得している。中英辞典・広東語発音本・広東語辞典など。多くの言語学の著書を編纂している。「支那佛敎語彙」が彼のどの著作を指しているかは判らぬ。]
十月二日の同誌に、予の答《こたへ》、出でたり。次の如し。一三〇七年筆、Haiton, “Histoire orientale,”ch. I, col. I, in P. Bergero, ‘Voyages,’ à La Haye 1735 に、『支那人、聰慧明察なれば、外國諸民の學術巧技を蔑如し、謂《いは》く、支那人二眼、羅甸《ラテン》人一眼有り。其他は全く盲也、と。」と出で、一四三六年より十六年間、「タナ」と波斯《ペルシア》に旅行せる「ヨサファ・バーバロ」の紀行(Ramusio, ‘Navigationi e Viaggi, ’ in Venetia, 1588, I. 103c.)に、彼《かの》地方で逢いし[やぶちゃん注:ママ。]支那商客、自《みづか》ら、『吾等、二眼、佛郞機(フランキ)(當時、囘敎國人が歐州人を總稱せる名。之より、支那で大砲を、此稱で呼べり。)、一眼、韃靼人、無眼。』と誇れり、と云へり。又、「松屋筆記」卷八五に、明の崇禎中、徐昌治編纂「聖朝破邪集」に收めたる蘇及寓の「邪毒實據」に、
艾儒略等、夷人也、自萬歷間、入我中國、有識
者、窺其立心詭異、行事變詐、已疏其不軌而驅
之矣、今也胡爲乎複來哉、其故可思矣、複來而
天下不惟莫能詳察其奸、併且前驅諸疏、亦幾不
得見、夷輩喜而相告曰、我西士有四眼、日本人
有三眼(兩到日本開教、被其兩殺、故云。)中
國人有兩眼、呂宋人無一眼。
〔艾儒略(がいじゆりやく)等(ら)は、夷人なり。萬曆(ばんれき)の間(かん)より、我が中國に入る。有識の者、其の立心[やぶちゃん注:決心。「選集」は「どうき」と振る。「動機」であろう。]の詭異(きい)にして、行事(おこなひ)の變詐(へんさ)なるを窺ひ、已(すで)に其の不軌なることを疏(そ)して、之れを驅(おひた)てたるに、今や、胡(なんす)れぞ、複(ま)た、來たれるや、其の故を思ふべし。複た、來たるも、天下、惟(ただ)、其の奸を能く詳察するもの莫(な)きのみならず、併(な)ほ且つ、前(さき)の驅てたる疏も、亦、幾(ほとん)ど見ることを得ざればなり。夷輩、喜びて相ひ告げて曰はく、「我が西土は四眼有り、日本人は三眼有り(兩(ふたた)ぴ、日本に到りて開敎し、兩び、殺さる。故に云へり。)、中國人は兩眼有り、呂宋(ルソン)人は一眼も無し。」と。〕。
呂宋人、天主敎に化して、國、亡びしを指す也。
[やぶちゃん注:「十月二日の同誌に、予の答、出でたり」同じく、英文「WIKISOURCE」の‘Notes and Queries’ のここと、ここ。同前。
「一三〇七年筆、Haiton, “Histoire orientale,”ch. I, col. I, in P. Bergero, ‘Voyages,’ à La Haye 1735 」南方熊楠の「『大日本時代史』に載する古話三則」(明治四一(一九〇八)年六月発行『早稲田文学』三十一号発表)の中の「毛利元就、箭を折りて子を誡めし話」の中に(以下はたまたま「Googleブックス」で視認出来た原雑誌の当該箇所を元に、そのままに電子化した。所持する「選集」とは異なる箇所が、複数、箇所ある)、
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又千三百七年に、シリシアの小王ハイトンが筆せる東國史(Haiton, ‘Histoire Orientale,’ en P. Bergeron, ‘Voyages faites principalementen Asie,’ à la Haye, 1735, ch. i. cols 31-32)には、成吉思汗を此話の主人公とせり。云く、是に於て汗其十二子を喚出し、常に相親和すべしと敎訓し、其例を示さんとて、每子一箭を持來らしめ、十二矢を集て、長子をして折しむるに能はず、二男三男、亦然り、然る後、成吉思、更に十二矢を散解して、箇々之を折れと末子に命ずるに、容易に折り盡し畢る。汗之を見て顧て諸子に問ふ、何の故に汝等折り得ざりしか、皆答ふ箭多くして束ねたればなり、又問ふ、何の故に季弟一人能く之を折り得たるか、答ふ、一一別て之を折れば也と、汗諸子の斯く答ふるを聴て言く、其汝等に於るも又然り、一和すれば長え[やぶちゃん注:「とこしへ」。ママ。]に栄え、相離るれば忽ち亡びんと。
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さて、「選集」では、整序されて「シリシア」は『シリア』としている。書かれた一三〇七年当時のシリアはモンゴルによるシリア侵攻が終焉した年であるので、この話は何やらん、意味深長である。但し、その後のシリアはエジプトのマムルーク朝の支配を受け、それが亡ぼされると、今度は、オスマン帝国の支配を受けることになるのだが。
「ヨサファ・バーバロ」十五世紀のヴェネチアの貴族で商人にして外交官でもあったヨサファト・バルバロ(Josaphat Barbaro(一四一三年~一四九四年:Josaphat は Giosafat 又は Giosaphat ととも記す) 。確かに紀行を残していることが、信頼出来る日本人の論文にあった。また、彼の英文ウィキも参照されたい。
「Ramusios,‘Navigation et Viaggi’」ベネチア共和国の官吏(元老院書記官など)を務めた人文主義者で歴史家・地理学者のジョヴァンニ・バティスタ・ラムージオ(Giovanni Battista Ramusio 一四八五年~一五五七年)が、先達や同時代の探検旅行記を集大成した、大航海時代に関する基本文献とされる「航海と旅行」(Delle navigationi et viaggi :全三巻。一五五〇年~一五五九年刊)のこと。
「佛郞機(フランキ)(當時、囘敎國人が歐州人を總稱せる名。之より、支那で大砲を、此稱で呼べり。)」‘Notes and Queries’ の原文では“Franks”。これは、世界史では、ローマ帝国後期から記録に登場するゲルマン人の部族名であるが、ウィキの「フランク人」によれば、西ヨーロッパ全域を支配するフランク『王国を建設したことから、東方の東ローマ帝国やイスラム諸国では、西ヨーロッパ人全般を指す言葉として用いられた事もある』とあった。
『「松屋筆記」卷八五』国学者小山田与清(ともきよ 天明三(一七八三)年~弘化四(一八四七)年)著になる膨大な考証随筆。文化の末年(一八一八年)頃から弘化二(一八四五)年頃までの約三十年間に、和漢古今の書から問題となる章節を抜き書きし、考証評論を加えたもの。元は百二十巻あったが、現在、知られているものは八十四巻。松屋は号。国立国会図書館デジタルコレクションの活字本画像ではここ(右ページ上段の(五十)日本人三眼幷自鳴鐘」の条。
「聖朝破邪集」(明の徐昌治編になる一六八三年成立の儒者や仏教僧のキリスト教に対する反対意見を纏めたもの)は「中國哲學書電子化計劃」の電子化されたここの334のガイド・ナンバーの本文と校合した。「併」はそちらでは「並」であったが、ここでは訓読の理解のし易さから、熊楠の「併」を採った。
「艾儒略」イタリア出身のイエズス会宣教師で、明末の中国で宣教活動を行ったジュリオ・アレーニ(Giulio Aleni 一五八二年~一六四九年)の中国名。帰国することなく、亡くなった。
「萬曆(ばんれき)の間(かん)より、我が中國に入る」「萬曆」は明代の元号で一五七三年から一六二〇年七月まで。当該ウィキの「ジュリオ・アレーニ」によれば、彼は『ゴア経由で』一六一〇『年にマカオに至り、そこで数学を教えながら』、『中国に潜入する機会をうかがった』一六一三『年に中国に入り、北京で徐光啓の知遇を得て』、『各地で布教活動を行った』とある。]
惟ふに、此一眼、二眼、無眼の譬喩、其頃、支那と歐州、又、西亞細亞間に往復する輩が、專ら唱へし所にて、或は支那人に、或は外人に、適宜、充稱せしなるべし。中世紀に、支那人の西遊せる者、歐人の東遊せる者、交互、其遊べる地に、靈妙の幻師ありし、と記し、十七世紀に、支那で、日本の磁石を珍重せし(「サン・ルイ」の「支那誌」に出づ)と同時に、日本には唐物《からもの》の磁石を貴びし抔、似たる例也。古梵土《こぼんど》、亦、斯る諺有りしにや。北凉の曇無讖《どんむしん》譯「大般涅槃經」卷廿五に云く、
世有三人、一者無目、二者一目、三者二目、言
無目者、常不聞法、一目之人、雖暫聞法、其心
不住、二目之人、專心聽受。如聞而行、以聽法
故、得知世間、如是三人、以是義故、聽法因緣、
則得近於大般涅槃。
〔世に、三人、有り。一(いつ)は、目(め)無く、二は一目(ひとつめ)、三は二目なり。目無き者と言ふは、常に法を聞かず。一目の人は、暫(しばら)く法を聞くと雖も、其の心、住(とどま)らず。二目の人は、專心、聽受し、聞きしがごとくに行なふ。法を聽きしを以つての故に、世間を知るを得(う)。是(か)くのごとき三(みたり)の人は、是の義を以つての故に、法を聽きし因緣もて、則ち、大般涅槃に近づくことを得。」と。〕
[やぶちゃん注:『「サン・ルイ」の「支那誌」』不詳。
「古梵土」古代インド。
「北凉の曇無讖」中インド出身の訳僧曇無讖(ダルマクシェーマ/漢名「法楽」 三八五年~四三三年)。当該ウィキによれば、彼は『謀られて誣告され』、『王の怒りを買った』『ため』、『殺されると思い、インドを出た。而して、『敦煌に到り、しばらく滞在した』が、『数年後には涼州姑臧に赴いた。一説にこの地へ赴いたのは、北涼の国王(河西王とも)沮渠蒙遜(そきょもうそん)が敦煌を平定した』(四一六年~四二三年)『後に、曇無讖と出遭い丁重に涼州に迎え入れたとも言われている。しかし涼州入国後の曇無讖の訳した経典の量が膨大だったこと、また後に涅槃経中分以下の巻を捜し訪ねて故郷に向かって旅する期間とを考慮すると、その数年後』の四一二年に『一介の遊方僧として涼州姑臧』(こぞう)『に到った説があり、これが事実で正しいと考えられている』とある。
「大般涅槃經」は「大蔵経データベース」の当該部と校合した。有意な異同はなかった。]
追 加 (大正二年九月『民俗』第一年第二報)
法華經云、若有二利根一、智慧明了、多聞强識、乃可二爲說一、大凡參玄之士、須ㇾ具二二眼一、一己眼明ㇾ宗、二智眼辯惑、所以禪宗云、單明二自己一、不ㇾ了二目前一、如ㇾ此之人、只具二一眼一、理孤事寡、終不二圓通一。〔「法華經」に云はく、『若(も)し、利根有り、智慧、明了にして、多聞强識なれば、乃(すなは)ち、爲めに說くべし。大-凡(およ)そ、參玄の士は、須(すべか)らく二眼を具すべし。一(いつ)は己(おの)が眼もて、宗(しゆう)を明らかにし、二(に)は智眼もて、惑ひを辯ず。』と。所以(そゑ)に、禪宗にて云はく、『單(た)だ、自己を明らむるのみにて、目前を了(りやう)せずんば、此(か)くのごとき人は、只だ、一眼を具するのみ。理(ことわり)、孤にして、事(こと)、寡(すくな)く、終(つひ)に圓通せず。』と。〕と、「宗鏡錄《すぎやうろく》」卷四一に出づ。
[やぶちゃん注:「宗鏡錄」(中国五代十国時代の呉越から北宋初の僧永明延寿が撰した仏教論書。全百巻。九六一年成立)は「大蔵経データベース」で校合したが、底本には、幾つかの大きな誤字・脱字があり、特に最後を「終可二圓通」とするのは、致命的な誤りである。
「參玄」「玄」は「幽玄・奥深い仏道」の意。仏道を修行すること。]
追 記 (大正十五年八月二十七日記)
故杉浦重剛氏は、屢《しばし》ば、一眼・二眼等の字を、其詩に用ひたり。司馬江漢の「春波樓筆記」にも、海國乍ら、吾が國人の駕航柁術に詳《くは》しからざるを、西洋人、評して曰はく、『支那、以て、「盲のり」、日本、以て、「片目乘り」といふ。』と記せり。
[やぶちゃん注:「杉浦重剛」(じゅうこう 安政二(一八五五)年〜大正一三(一九二四)年)は滋賀県出身の思想家・教育家・ジャーナリスト。別称、杉浦梅窓(ばいそう)。膳所藩の貢進生として大学南校に入学したが、制度が変わったため、東京開成学校に学んだ。在学中、選抜され、明治九(一八七六)年にイギリスに留学。同十五年、東京大学予備門長。同十八年、辞職後に主に在野で多彩な言論・教育活動を行った。同二十一年には三宅雪嶺とともに『政教社』の設立に参加し、雑誌『日本人』を発刊、国粋主義を唱えた。また、東京英語学校の設立に関与し、『称好塾』を経営、青少年の教育に尽力した。後、東亜同文書院長等を経て、大正三(一九一四)年には東宮御学問所御用掛となり、倫理を進講した(以上は国立国会図書館の「近代日本人の肖像」のこちらに拠った)。
『司馬江漢の「春波樓筆記」』(しゅんぱろうひっき)は江戸後期の画家で蘭学者司馬江漢晩年六十五歳の時の随筆。文化八(一八一一)年四月から十月にかけて、稿が成った。江漢その人が、和漢洋の学に通暁した、当時、第一級の知識人であったために、その該博な知識が熟年の思考の中で見事に結実している。全体が長短二百十余の節からなり、江漢の自叙伝・人間観・人生観・社会観等をはじめ、「西洋創世紀」の抜書、「伊曽保(いそほ)物語」の引用など、幅広い西洋文化受容の初期的形態が見られ、興味を惹く。本書は、早く『百家説林』や『有朋堂文庫』に所収され、読者の注目を集めた(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。]
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