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2022/11/15

大和怪異記 卷之二 第二 日田永季出雲小冠者と相撲の事

 

[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の分はここから。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。なお、底本のルビは歴史的仮名遣の誤りが激しく、ママ注記を入れると、連続してワサワサになるため、これ以降では、歴史的仮名遣を誤ったものの一部では、( )で入れずに、私が正しい歴史的仮名遣で《 》で入れた部分も含まれてくることをお断りしておく。

 挿絵があるが、これは「近世民間異聞怪談集成」にあるものが、状態が非常によいので、読み取ってトリミング補正し、適切と思われる箇所に挿入する。因みに、平面的に撮影されたパブリック・ドメインの画像には著作権は発生しないというのが、文化庁の公式見解である。底本(カラー。但し、挿絵は単色)の挿絵部分もリンクを張っておく。

 なお、標題の名前の「季」の「すへ」(「すゑ」が正しい)、「相撲」の「すもう」はママ(「爭(すま)ふ」の連用形の名詞化したもの。歴史的仮名遣では「すまひ」「すまう」「すまふ」が普通。但し、江戸時代には既に当時の口語として「すもう」という表記も一般化していた)。]

 

 第二 日田永季(《ひたなが》すへ)出雲小冠者(《いづものこ》くわん《じや》と相撲(すもう)の事

 人王七十一代三條院御宇、延久三年、豊後国日田郡《ひたのこほり》に、日田鬼太夫大藏永季といふ者、強力(ごうりき)のきこえあるに依(よつ)て、十六歲にて、「相撲の節會(せちゑ)」にめされて、上洛す。

 此とき、出雲國より、竒代(きだい)の強力、宣旨にまかせて、參洛せしむる旨、風聞す。

 これによつて、永季、諸社に祈誓をかけ、上洛の節、筑前太宰府にをいて[やぶちゃん注:ママ。後の「をゐて」もママ。]、ひとりの童女(どうによ)に行《ゆき》あふ。

 童女、永季にむかつて、

「君、此度《このたび》、禁裏にをゐて、古今絕倫(ここんぜつりん)の大力(《だい》りき)にあふべし。其長(たけ)、普通の人よりは、ひきく、惣身《そうしん》、鉄(てつ)にして、力、無量(むりやう)なり。これにかたん事、人力(《じん》りき)に及《および》がたしといへども、彼(かの)童(わらは)が母、諸願の旨、あつて、懷姙のはじめより、鉄砂(てつしや)をくらふ故、うまるゝ子、惣身、鉄なり。しかれ共、母、あやまつて甜瓜(あまうり)をくらひしかば、童が頭上(かしらのうへ)にとゞまり、方《はう》三寸の肉となれり。今度《このたび》、『すまうの節(せつ)』にいたりて、乾(いぬ《ゐ》)の方(かた)をうかゞふべし。我、汝に方便をしめすべし。」

と、いひおはつて[やぶちゃん注:ママ。]、飛(とび)さりぬ。

 

Hitanonagasue

 

 永季、此竒特(きどく)を感じ、天滿宮にまふでて、無二の丹誠(たんせい)を抽(ぬきんで)、奉幣(ほうへい)し、日田郡の内、大肥庄《おほひのしやう》を寄進せしめ、其地に「老松明神《おひまつみやうじん》」を勸請すべき旨、祈願して、京都にいたり、「相撲の節」に望んで、小冠者に出あひ、手合《てあはせ》するとき、乾の方をうかゞふに、以前の童女、空中にあらはれ、永季にむかひ、みづから、右の手をもつて、額をおさえて、さとしめたり。

 永季、やがて、小冠者が額を、

「丁(てう)」

ど、うちければ、はたして、人肉なりしかば、破れて、血、顏に、ながる。

 さしもの小冠者も、少しひるみて、たゞよふを、かひつかむで、引《ひき》よせ、目より高くさし上《あげ》、一ふり、ふりて、大地になぐるに、頭(かしら)・手足、ちぎれて、四方に、ちりぬ。

 かゝりしかば、

「日本第一の大力。」

と云《いふ》綸旨を賜り、歸國し、所願のごとく、大肥庄に「老松大明神」を勸請す。

 又、高城《たかじやう》に、みづからの長(たけ)に、少しも、たがえず、冠者をふまへたる躰(てい)をつくり置《おく》。

 後に、寺を建(たて)、「永福傳寺(ゑいふくでん《じ》)」と號す【一說に、此とき、永季が出立《いでたち》は、草鎧《くさよろひ》二兩、かさね着《ぎ》し、八寸まわりの竹を、握《にぎり》ひしぎ、帶とす。】。

 それよりのち、三度《みたび》、「すまうの節會」に侯(こう)し、堀河院御宇、寬治五年より、長治元年にいたりて、七度《しちたび》、以上、十箇度(かど)、終(つ《ひ》)に、一度も、負(まく)る事、なし。

 此永季、あるひは、枚(きのいた)に、大石を、はさみ、大石の上に、同じごとくの石を置

 小山のごとし。

 世に、是を、「日田が重石(かさねいし)」といふ。

 永季が先祖を善憧鬼(ぜんどうき)といふ。紀州大藏谷より、豊後國日田に下向し、戸山に住(ぢう)す。

 其末葉(ばつ《えふ》)、妙憧鬼、後に鬼藏太夫永弘と改む。白鳳年中の人なり。

 それより數代をへて、永季に、いたれり。

 永季より、次郞太夫季平、太夫高家、五郞太夫永平、新六太夫永宗、次郞永秀、三郞永隆、四郞永俊、六郞永綱、左衞門永信、彌次郞永基《ながもと》、六郞永資、肥前權守永貞、出羽守永俊、上㙒守詮永、筑後守永息《ながやす》、安藝守永秀、七郞丸と相續(さうぞく)す。七郞丸、十二歲にて、早世し、家、絕たり。代々の戰功、詳(つまびらか)に「日田事記」に見えたり。

[やぶちゃん注:原拠は前話に同じ。前回と同じく、伝承と比較するには、古賀勝氏のサイト「筑紫次郎の世界」の「怪力! 鬼太夫」(副題「豊後日田の大蔵永季」)がよい。前回同様、伝說が細かなシークエンスが重なれられて、読んでいて楽しい。

「日田永季」(天喜(てんぎ)四(一〇五六)年~長治元(一一〇四)年)は平安後期の豪族で豊後日田郡司であった。本姓は大蔵(おおくら)。通称は鬼太夫(おにだゆう)。延久三(一〇七一)年の朝廷での「相撲節(すまいのせち)」(=「相撲の節會(せいゐ)」)に相撲人(すまいびと)として参加し、優勝、この勝利を天神の加護とし、大肥荘に「老松天満宮」を建て、木彫毘沙門天立像を永興寺に安置したとされる(主文は講談社「デジタル版日本人名大辞典+Plus」に拠った)。享年四十九歳。最後に系譜が載るが、ウィキの「大蔵氏(豊後国)」を比較参照されたい。但し、若干、系図の名と異同がある。なお、そこの解説によれば、永季の死因は「風邪」とある。

「人王七十一代三條院御宇」以上はトンデモない誤りである。三条天皇は第六十七代で在位は寛弘八(一〇一一)年から長和五(一〇一六)年で寛仁元(一〇一七)年にとっくに没しているここは文字通り、「数字」だけが正しく、第七十一代の後条天皇(在位::治暦四(一〇六八)年~延久四(一〇七三)年)の治世である。

「相撲の節會(せちゑ)」小学館「日本国語大辞典」によれば、『天皇が宮中で相撲を観覧され、参列の諸臣と饗宴を催される儀式。延暦以降』十二『世紀までは七月に行なわれた。相撲使(すまいのつかい)を地方につかわして相撲人(すまいびと)を召し出させる。七月』二十六『日頃に相撲の下げいこである内取(うちどり)が仁寿殿(じじゅうでん)で行なわれ』、二十七『日頃に紫宸殿で召合(めしあわせ)があり、はじめは』二十『番、後には』十七『番の相撲が行なわれ、翌日には、天皇に指名された者が相撲を行なった。これを抜出(ぬきで)という』。『宮中で天覧相撲が催された記録自体は、すでに』「日本書紀」の皇極元(六四二)年七月の条に『見える。「続日本紀」では、聖武天皇の天平六』(七三四)『年及び』十『年の七月七日に天覧相撲が開催された記録があり、この頃には七月に行なうことが恒例化していたものと思われる』。『中古には、儀式としての制度諸式も整い、「内裏式」には「相撲式」として、七月七日及び八日の二日間にわたる式の次第が詳しく記されているが、この頃は必ずしも定期的なものではなかったらしい』。『院政期以降は武士勢力の台頭に伴う朝廷の力の衰微もあり、保安以後』、三十『年余り』に亙って『中断』し、『その後、保元三』(一一五八)年に『再興するものの、承安四』(一一七四)年を『最後に廃絶した』とある。

「童女」言うまでもないが、これは正体は太宰府天満宮の天神である。サイト「日本伝承大鑑」の「日田神社」のページこれは本篇の「老松明神社」ではなく、日田市内にある「日田殿(ひたどん)」の愛称を持つ永季を祀った「相撲の神様」として知られるもの)には、永季は『都に出る前に、信心している天神社へ参拝に向かった。途中の川べりで若い娘が大根を洗っているのを見て後ろから抱きついたが、逆に娘の怪力で身動きが取れなくなってしまう。実は娘の正体は天神で、相撲の対戦相手が“出雲の小冠者”という全身鉄の皮膚を持った強敵であり、心して掛かるよう託宣したのである』とある。伝承の多様な膨らみ方が楽しめる内容になっている。また、そこには、『現在、鬼蔵大夫が娘と出会った場所には“鬼松天神”の社がある』とあるのは、福岡県朝倉市相窪(あいのくぼ)にある「鬼松天神社」のことであろう。太宰府天満宮の南東、約十八キロメートル位置にある。やはり、伝説なればこそ、スケールが広い。

「甜瓜(あまうり)」真桑瓜。双子葉植物綱スミレ目ウリ科キュウリ属メロン変種マクワウリCucumis melo var. makuwa のこと。当該ウィキによれば、『この系統のウリが日本列島に渡来したのは古く、縄文時代早期の遺跡(唐古・鍵遺跡)から種子が発見されている』とある。

「童が頭上(かしらのうへ)にとゞまり、方三寸の肉となれり」以下では、童女がその部分を手で「額をおさえて、さとしめたり」とある。これは、所謂、「ひよめき」=大泉門が閉じていない病態を示すものだと思う。大泉門は頭の中央の前方ある骨のない柔らかい部分を言い、菱形をしている。通常一歳から一歳半ほどの間に閉じるとされる。ここが開いたままである場合、脳室に過剰な脳脊髄液が貯留した状態となる水頭症を発症することがある。この「出雲小冠者」が幾つであったか判らないが、「小冠者」は「年若い元服して間もない若者」を指す語であるから、満で十五、六歳で、「ひよめき」が九センチメートル四方も開いているのは、巨漢であったとしても尋常ではない。なお、子を育てたことがない私は、五十五になるまで、この「ひよめき」を知らなかった。芥川龍之介の「子供の病氣――一游亭に――」(サイト版)に「しほむき」という言い方で出てきて、トンデモ注(残してある)をし、ブログで疑問を呈したところ、さる女性から御教授戴くというお恥ずかしい経験をした。ご覧あれ。

「乾(いぬ《ゐ》)の方(かた)」北西。

「日田郡の内、大肥庄」現在の大分県日田市大肥(おおひ)、及び、その東の大鶴本町(旧大鶴村南部)などを含んだと考えられる旧広域。

『大肥庄に「老松大明神」を勸請す』大分県日田市大鶴町に老松天満宮が現存する。サイト「産土神名帳」の本神社のページに、『延久三年』に『相撲の神様として知られる日田永季が大宰府天満宮を勧請』と記されてある。

「高城」『後に、寺を建(たて)、「永福傳寺(ゑいふくでん《じ》)」と號す』日田神社東北直近に日田城(ひたじょう)の跡があるが、この城は永季の属する大蔵氏流日田氏の城で、「大蔵城」「鷹城」「高城」とも称することから、読みを、かく、振った。さらに、ウィキの「日田城」によれば、『日田城の西端には、大蔵永季が父・永興を供養するために建立した慈眼山永興寺(じげんざんようこうじ)があった』とあり、現在、まさにそれと名を同じくする浄土宗永興寺(ようこうじ)があり、これが遠い後身(実際の原「永福傳寺」の位置は微妙に異なるかも知れない)であると考えてよかろう。

「草鎧」「草摺」(くさずり)のことか。甲冑の胴から吊り下げられた、腰から太腿までの下半身を覆い、防護するための部位で、通常は韋(鞣革:なめしがわ)や鉄板などで作るが、相撲取りであるから、前者で出来たものか。「二兩」の「兩」は鎧の数詞。ここは巨体であるから、革製の草摺を「化粧まわし」代りに、二人分、用いたという謂いか。

「八寸まわりの竹」筒の円周が二十四センチメートルもある竹。

「握《にぎり》ひしぎ、帶とす」自ら、握り拉(ひし)いで(平たく潰して)、帯の代わりとしたのである。

「堀河院御宇、寬治五年」第七十三代堀河天皇の御代。ユリウス暦一〇九一年。

「長治元年」同一一〇四年。

「枚(きのいた)」木の板。

「日田が重石(かさねいし)」想像も出来ない木と石の合体物である。

「永季が先祖を善憧鬼(ぜんどうき)といふ」不詳。

「紀州大藏谷」和歌山県有田郡有田川町(ありたがわちょう)大蔵(おおぞう)があるが、ここか。

「戸山」日田市市街の北方に「戸山」を冠する神社と小学校が確認出来る。

「其末葉(ばつ《えふ》)、妙憧鬼、後に鬼藏太夫永弘と改む。白鳳年中の人なり」ウィキの「大蔵氏(豊後国)」に、永季の前に一人、「大蔵永弘」の名が挙がっており、原拠「豊西記」では仁寿三(八五三)年から延喜一〇(九一〇)年まで、実に五十七年もの間、『永弘が日田郡司を勤め』、『日田大蔵氏の始祖となったとしているが、二百数十歳生きたなどの逸話を残しているため』、『その実在については詳らかでない』とある。「白鳳年中」は、当該ウィキによれば、『白鳳(はくほう)は、寺社の縁起や地方の地誌や歴史書等に多数散見される私年号(逸年号とも。』「日本書紀」『に現れない元号をいう)の一つで』、『通説では白雉』(六五〇年〜六五四年)『の別称、美称であるとされている(坂本太郎等の説)』ほか、「二中歴」等では六六一年から六八三年とし、『また、中世以降の寺社縁起等では』六七二年から六八五年『の期間を指すものもある』とあり、さらに、「続日本紀」の『神亀元年冬十月条』(七二四年)『に聖武天皇の詔として「白鳳より以来、朱雀以前、年代玄遠にして、尋問明め難し」といった記事がみられる』とある。

「彌次郞永基《ながもと》」「近世民間異聞怪談集成」では土屋順子氏は『(ながとも)』とルビしておられるが、違和感があったので、調べて見たところ、サイト「神社人」の福岡県福岡市早良(さわら)区西新(にしじん)にある松山稲荷神社の解説ページの「由緒」に、文永一一(一二七四)年、『八角田(博多)に蒙古軍が襲来し、日田永基(ひたながもと)は、筑前国早良郡にある姪の浜及び百路(道)原にある稲荷祠の所で忠死したという。戦後、その活躍に応じて、国東郡安岐郷に所領を与えられ、子の基宗が入部して弁分』(個人的には「わけべ」と読んでおく)『八郎を号したという。このため、当社は、伊勢の皇大神宮の外宮で京都伏見稲荷大社の直轄の末社であるとされ、九州で最も古い稲荷神社とされているが、その詳細は不明となる』とあるのに従った。]

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